2016/09/02 - 2016/09/10
2位(同エリア1490件中)
montsaintmichelさん
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- 旅行記378冊
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- 3,084,690アクセス
- フォロワー141人
万年雪をいただく3000m級の峰々が連なるシエラ・ネバダの麓にひっそりと佇む高原都市が、スペインの詩人ガルシア・ロルカが「瞑想と空想のための町」と詠んだグラナダの町です。スペイン南部のアンダルシア地方にあり、イベリア半島最高峰のムラセン山(3482m)を擁するシエラ・ネバタを挟み、 南は太陽海岸から地中海へ、北は山脈を衝立に人口約30万人の町が広がります。因みに、「シエラ」は「山脈」、「ネバダ」は「雪に覆われた」という意味です。
グラナダの代名詞は、ムハンマド1世をはじめ総勢22人のアラブ諸王が153年の歳月をかけて完成させたナスル王朝の残照「アルハンブラ宮殿」です。宮殿は単独の建築物ではなく、異なる時代の建築物の複合体ですので、多様な建築様式やその時代背景を垣間見ることができます。宮殿の敷地内は、5つに大別されています。王の住居だった王宮、城塞だったアルカサバ、夏場の別荘だったヘネラリーフェ宮殿、パルタル宮殿、そしてカルロス5世宮殿です。
レコンキスタ後、幸いにも破壊を免れた宮殿群は現在も良好な状態を保ち、「世界で唯一現存するイスラム宮殿」として、滅亡したイスラム王朝最期の輝きを現在に伝えています。宮殿を訪れたイスラム教徒たちは、特別な思いを込めて宮殿を見つめています。彼等にとってアルハンブラはスペインの地で8世紀の間王者として君臨したことの証であり、イスラムの支配と信仰が砕かれてもなおイスラムの残影を象徴する輝かしい遺産に違いありません。
<日程>
1日目:関空→フランクフルト(LH0741 10:05発)
フランクフルト→バルセロナ(LH1136 17:30発)
宿泊:4 Barcelona(二連泊)
2日目:グエル公園==サグラダ・ファミリア==カサ・ミラ/カサ・バトリョ(車窓)
==ランチ:Marina Bay by Moncho's==カタルーニャ広場
15:00?フリータイム
カタルーニャ広場==サン・パウ病院==サグラダ・ファミリア==
カサ・ミラ--カサ・バトリョ--夕食:Cervecer?・a Catalana(バル)
==カタルーニャ音楽堂
宿泊:4 Barcelona(二連泊)
3日目:コロニア・グエル地下礼拝堂==モンセラット観光--
ランチ:Restaurant Montserrat==ラス・ファレラス(水道橋)
==タラゴナ観光(円形競技場、地中海のバルコニー)
バレンシア宿泊:Mas Camarena
4日目:ランチ:Mamzanil(Murcia)
==(午後4:00到着)ヘネラリーフェ宮殿
--アルハンブラ宮殿==ホテル Vincci Granada==Los Tarantos
(洞窟フラメンコ)
--サン・ニコラス展望台(アルハンブラ宮殿の夜景観賞)
5日目:ミハス散策--ランチ:Vinoteca==ロンダ(午後4:00到着)
フリー散策
宿泊:Parador de Ronda
6日目:セビリア観光(スペイン広場--セビリア大聖堂)==
コルドバ観光(メスキータ--花の小径)-==コルドバ駅
AVE:コルドバ→マドリード
夕食:China City
宿泊:Rafael Hoteles Atocha(二連泊)
7日目:マドリード観光(スペイン広場<下車観光>==ソフィア王妃芸術センター
==プラド美術館--免税店ショッピング==ランチ:Dudua Palacio
==トレド観光(サント・トメ教会、トレド大聖堂<外観>)==
ホテル--フリータイム(プエルタ・デル・ソル、マヨール広場、
サンミゲル市場、ビリャ広場、アルムデナ大聖堂、マドリード王宮
オリエンテ広場 、エル・コルテ・イングレス<グラン・ビア>)
宿泊:Rafael Hoteles Atocha(二連泊)
8日目:マドリード→フランクフルト(LH1123 8:35発)
フランクフルト→関空(LH0740 13:35発)
9日目:関空着(7:20)
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- 観光バス 徒歩 飛行機
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- 日本旅行
PR
-
オズボーンの牡牛
スペインを走る高速道路で度々目にするのが巨大な黒い牡牛です。荒涼とした大地にスクッっと雄々しく立つ巨大な牡牛は、スペインを象徴する風景として絵葉書にもなっています。
実は幅14mもある看板で、かつては高速道路沿いに500基ほどあったそうですが、現在は90基ほどに減っています。1956年に牡牛をトレードマークにするシェリー酒メーカ 「オズボーン」社の「ヘレスのブランデー」のPR用に設置されたものです。当時は黒色の牡牛に赤色の文字でブランド名が書かれ、もっと小振りでデザインも異なっていたようです。景観上の問題により、道路から150m以内の広告活動が法で禁じられたため、遠くからでも見られるように巨大な看板に替えられたそうです。
1994年には脇見運転による事故を防止するために道路脇の看板広告が全面的に禁じられ、オズボーンの牡牛も撤去される運命でしたが、国民の反対により看板のブランド名を塗り潰して黒一色として存続できることになったそうです。今でもサッカーの国際試合ではサポーター達がスペイン国旗の黄色い帯に黒い牡牛のシルエットが入った旗を振って応援するほどの人気ぶりです。
一方、カタルーニャ地方では土着的なこの牡牛の看板を疎ましく感じる人も多く、その地方に唯一つ残る牡牛が何者かによって壊される事件が起きています。また、そのカタルーニャ人とは犬猿の仲なのがアンダルシア人です。無断でオズボーン社の商標を使ったと起訴された案件を担当したアンダルシアの裁判官は、「どこかの商標を思い浮かばせるものではあるが、このデザインを見た時、最初に受けるイメージは伝統的な闘牛祭りと牡牛の美しさだ」との大岡裁きを断行して酒造メーカの訴えを退けたとの逸話もあります。話題に事欠かないのがこのオズボーンの牡牛です。 -
ドライブイン
クレビジェンテ(Crevillente)という町にあるドライブインで20分程の小休憩です。 -
ドライブイン
丁度添乗員さんがハモン・イベリコ(イベリコ豚の生ハム)味のスナック菓子「Pringles」が人気だという話を車内でされた後でしたので、その反動で皆さん大量買いされていました。しかし3ユーロほどします。因みにマドリードのスーパーでは2ユーロ弱で売られていました。
どこででも入手できるものではないため、こうしたデコレーションを見てしまうとつい買いたくなるのは人間の性なのかもしれません。
しかし、このように口にするものを床に直置きというのもスペインらしいなと思います。 -
エ~ッ!モンサンミッシェルがスペインにもあったとは!!
暇に任せてぼんやりと車窓を眺めているとこんな風景が目に入りました。
はじめはただの看板かとも思いましたが、本物に似せて造られたものと思います。何の目的か不明ですが、相当大きなものです。頂上には両手を真横に広げ、遠目に十字架を連想させる人物像が建てられています。
イギリスのコーンウォール地方にある「セント・マイケルズ・マウント」もモンサンミッシェルにそっくりな修道院として有名ですが、スペインにもあったとは…。
写真のデータによれば、休憩したドライブインから15分弱の距離の所です。バスの左側の窓から見ることができます。 -
レストラン「Manzanil」
プエルト・ルンブレラス(Puerto Lumbreras)という町のドライブイン「Area De Servicio La Parada」にあるレストラン「Manzanil」でランチタイムです。
ソフト・ドリンクはドライブインで好きなものを購入して持ち込めます。
これがメイン・ディッシュのシーフード・フリッター(魚介類のフライ)です。久々に食べ慣れた味でしたので美味しくいただけました。 -
Hotel Riscal
ランチタイムを過ごしたドライブインから見られるホテルです。カラフルな建物なので、レゴ・ブロックで作ったおもちゃにしか見えません。これでも3つ星ホテルだそうですが、こうした外観のホテルに泊まるには少し勇気がいるかもしれません。
コスタ・デル・ソル沿いのムルシアやアルメリアへ接続する高速道路E-15とA-91の交差点付近にあります。
ホテルのカラーに対抗したのか、駐車中のトラックも赤、白、緑、黄色です。 -
アルハンブラ宮殿
ランチ場所からノンストップで2時間半のロングドライブでアルハンブラ宮殿に到着です。
アルバイシン地区は、宮殿を一望する丘の斜面に広がる住宅地です。因みに、アルハンブラ宮殿から眺めたこの町の様子が割れたザクロに見えたことから、アラビア語でザクロを意味する「グラナダ」の名が付けられたそうです。ですから、車止めや看板、石畳、街灯等の至る所にザクロ模様が描かれています。
一説には、殻がとても固いザクロは、なかなか陥落しなかったグラナダ王国を隠喩しているそうです。ザクロがパックリ割れて描かれているのは、「鉄壁のグラナダ王国をカトリック両王率いるキリスト教国がようやくこじ開けた」という意味が込められているそうです。 -
アルハンブラ宮殿
入場口ですが、その前にトイレ休憩です。
アルハンブラ宮殿を世に知らしめたワシントン・アヴィーング 著『アルハンブラ物語』(1832年)は、次のように語っています。「ここでモーロの王たちは、いかにもアジア的な豪華さといったところの輝きや洗練された美しさに囲まれて暮らしていた。彼らは自分達にとっての地上の楽園を支配し、スペインにおけるその最後の砦を築いたのだった」。
『アルハンブラ物語』を事前に読んでおくとイメージが膨らむかもしれません。 -
アルハンブラ宮殿
入場チケットです。16:30と書かれているのが入場時間です。この時間から30分以内に入場しないと無効になるので注意してください。
因みに現在は16:00頃です。
アルハンブラ宮殿の入場者数は、1日最大8000人、30分間隔で300人までに制限されています。ですから現地で当日入場券を求めるとなると早朝から並ぶ必要があるそうです。 -
アルハンブラ宮殿
ここではナスル朝宮殿だけを見学するわけではありませんので、アルハンブラ宮殿の全体像を頭に入れておかれると何かと便利だと思います。アルハンブラ宮殿はおおまかに5つのエリアに別れ、ヘネラリーフェ宮殿、カルロス5世宮殿、アルカサバ、ナスル朝宮殿、パルタル宮殿跡があります。
入場時間の都合もあり、まず向かうのはヘネラリーフェ宮殿(夏の別荘)です。
その後、もう一度入口付近まで戻り、カルロス5世宮殿の先にあるぶどう酒の門を潜ってナスル朝宮殿を見学します。その後、パルタル宮殿跡の角塔群を見ながら再び入場口へと戻る見学コースです。滞在時間は2時間ほどでした。 -
アルハンブラ宮殿
入場して直ぐに糸杉の並木路に入ります。炎天下でもこうして日陰があるのはありがたいものです。因みに現在の気温は42℃です。日陰なら37℃程でしょうか…。バスの移動距離が長いため真昼間に見学することはないと思いますが、本日の最高気温はもっと高かったのだと思います。
糸杉は、単独で天に向かって伸びているものもあれば、並んで生垣として機能しているものもあります。中でも遊歩道の両側にある糸杉は、緑のトンネルと言うよりも洞窟と表現する方が相応しいほどです。ヘネラリーフェ宮殿に通じる遊歩道には刈り込まれた生垣やアーチが沢山並んでいますが、それらも糸杉です。その植栽は20世紀中頃からと言われ、宮殿の雰囲気の引き立て役になっています。
糸杉はヒノキ科、地中海沿岸原産の常緑樹であり、学名はクプレッススです。学名は、ギリシア神話に登場する美少年キュパリッソスに由来します。彼はある時、大切にしていた雄鹿を誤って槍で刺殺してしまい、悲嘆に暮れて生涯を喪に服すると誓いました。神々はこれを聞き入れ、キュパリッソスを糸杉の姿に変えました。
この逸話から、糸杉は「悲しみ」「死」「喪」の象徴になったと言われています。
糸杉は腐食に強く、船や玄関扉などの資材として重宝されましたが、イエス磔刑に使われた十字架も糸杉だったと伝えられています。また棺桶にも使われ、死者が天国に昇る道標として墓地に植えられることも多く、糸杉が醸す独特の雰囲気とその妙に符合します。
画家ゴッホが死の直前に描いた『糸杉と星の見える道』には、中央に頂点がはみ出すほどの高い糸杉を配していますが、その姿は苦悶するかの如く捩じれています。ゴッホはこれを描いた2ヶ月後にこの世を去りましたが、自らの死期が近いことを悟っていたのでしょう。
イベリア半島最期のイスラム王とその家臣たちは、栄枯盛衰の激動の歴史の中で孤独と悲哀を憂いながら、天空に向かって真っ直ぐに高く伸びる糸杉に自らの命運を重ね合わせていたのかもしれません。 -
パルタル宮殿跡 水路橋
最初に見られる遺構が水の塔の架けられた水路橋です。
アルハンブラ宮殿へ水を引き込むために空堀の上に造られています。この水はシエラ・ネバダから遥々流れて来たもので、ナスル王朝の創始者ムハンマド1世が造ったものです。 -
パルタル宮殿跡 新橋
空堀の上に架けられた新橋です。
ヘネラリーフェ宮殿へは新橋を渡らず、道を真っ直ぐに進みます。 -
パルタル宮殿跡 水の塔
先ほど見た水路橋が架けられた水の塔は、防御機能以外に集落全体に水を供給する用水路を守るという、極めて重要な役割を果たしていました。水路橋の下の空堀の通りは、チノス坂と呼ばれています。
オリジナルの塔は大きく装飾のない3階建ての建物でしたが、1812年にナポレオン軍によって破壊され、現在では塔の下半分のみが残されています。
この塔が破壊された時、他の場所にも爆弾が仕掛けられていましたが、最下級の兵士(負傷兵や手足を失った兵士)のホセ・ガルシアは、火の付いた爆弾の導火線を切り、アルハンブラ宮殿にある他の建物を爆破から救ったと伝えられています。 -
パルタル宮殿跡 袋小路の塔
ナポレオン軍がグラナダを後にする際に破壊してしまったため、現在は塔の土台のみが残っています。
スペインの中でもとりわけ景勝地や見所の多彩なのがアンダルシア州です。アフリカ大陸からの風が吹き抜け、山あり谷あり、そして海もありで、起伏に富んだ地形が風光明媚な景観を湛えています。そしてもうひとつが、8世紀初期に始まったイスラム支配を最も長い間受けていたという歴史が炙りだすイスラム文化の残影です。
約800年に亘るイスラム文化や習慣、そして彼らが持つ高度な技術を駆使した建造物がキリスト教文化と融合した形で遺されているからです。15世紀末に最後の砦のアルハンブラ宮殿が陥落するまでの間にイスラム教徒によって築かれたもの、その後レコンキスタ完了に伴ってキリスト教徒によって築かれたもの、これらの異文化が生んだレベルの高い融和こそスペインの魅力の本質です。この意味では、アンダルシアは最もスペインらしさが感じられる地域と言えます。「アンダルシアを訪れずしてスペインは語れず」と言われる所以です。 -
パルタル宮殿跡
街路樹として植えられているザクロの木です。 -
パルタル宮殿跡
ここからはグラナダ市街が見下ろせます。錆朱色の屋根瓦と白壁の家々が軒を連ね、まるで中空都市のように浮かんで見えます。
アンダルシアという地名が「アル・アンダラス(バンダル族の地)」というアラビア語が由来であるように、スペインがヨーロッパの一画にありながら他の地と少し異なる異国情緒を漂わせているのは、こうした建物にイスラムの影響が色濃く残されているからです。名称に「al(アル)」とあるものは、全てアラビア由来になりますから、これを覚えておくとその歴史的背景が理解し易くなります。 -
ヘネラリーフェ宮殿 下の庭
野外劇場と呼ばれている野外ステージのような所を過ぎて階段を数段上ると、そこはもうヘネラリーフェ宮殿の一画です。
ナスル朝宮殿からこんなに近い場所に離宮を建てた理由は定かではありませんが、日本風に言えば奥座敷と言ったところでしょうか?離宮はアルハンブラ宮殿から徒歩10分程の距離にあり、緊急時にはすぐに宮殿に戻れる立地ながら、果樹園や農園に囲まれるように建つため、田園の中に佇む隠れ家的な農園という雰囲気が満ちています。それもそのはず、ここは王家に食材を供給する御用達農園も兼ねていたそうです。沿道ではナスなどが実っています。 -
ヘネラリーフェ宮殿 下の庭
散策路の敷石も小石で色々な幾何学模様が描かれています。 -
ヘネラリーフェ宮殿 下の庭
緑の中に佇む宮殿には優れた造園技術が駆使され、「アルハンブラの玉座」とも呼ばれていました。この下の園はかつては果樹園でしたが、1931年に植林して整備された庭園です。
中世の面影を残す庭ではありませんが、グラナダ伝統の石畳が伸び、泉水や水路、糸杉の小径、160種におよぶ草花や低木など、水と緑を惜しげもなく散り嵌めた庭園は心地よい散策ができます。 -
ヘネラリーフェ宮殿 下の庭
庭園の中央を水路のような細長い池が貫いています。この噴水の所で池は十字型に交差しています。これはイスラムの池の庭園の典型だそうです。 -
ヘネラリーフェ宮殿 下の庭 初雪草
グラナダのうだるような真夏の炎天下でも元気に咲いている初雪草です。色とりどりの花の傍らで、ハッとさせるような涼味を漂わせています。
名の由来は、葉が白く縁どられて雪を被ったように見えるからですが、真夏に初雪とは…。恐らく、夏の暑さを忘れるために命名されたのでしょう。白に緑色の筋が入った花のように見えるのは実は葉で、緑色の葉の縁が白く変色したものです。花は小さな梅花のような楚々とした白い花を咲かせ、雄しべの色の具合で少し黄色がかって見えます。
トウダイグサ科の一年草で、クリスマス・シーズンに出回るポインセチアと同じユーフォルビア属です。原産地は、北米のミネソタ、コロラド州。初雪草の正確な名前は、ユーフォルビア・ゴーストウィード・スノーオンザマウンテンです。属名の「ユーフォルビア」は、ローマ帝国時代の医師「エウフォルビスまたはユーフォルバス」の名に因むものです。葉っぱや茎を傷付けると出る液体には毒性があり、かぶれることがあるそうですので、毒性を発見したのがこの医師だったのかもしれません。
花言葉 は「好奇心」「穏やかな生活」「祝福」。 -
ヘネラリーフェ宮殿
ここがヘネラリーフェ宮殿への入口になります。
セ―ロ・デル・ソル(太陽の丘)に造られていた庭園のうち、今日まで残ったのはへネラリーフェだけです。王が政務から逃れて息抜きをしたり、王室の私的な娯楽のため、1319年に王宮を見下ろす高台に別荘として建てられた夏用の離宮であり、イスラム教の天国をイメージして造られた庭園です。
「ヘネラリーフェ」とは、アラビア語で「全てを見尽くした者の住む楽園」と言う意味です。アルハンブラ宮殿以上に水と緑と花で彩られた美しい庭園や中庭によって構成され、別称「水の宮殿」とも呼ばれるロマンティックな雰囲気が人気のスポットです。数百種類とも言われる花々と遥かシエラ・ネバダから引かれた豊富な水の競演が印象的であり、飽きることのない景観が目を愉しませてくれます。天空を突き刺すような糸杉、美しく刈込まれた生垣、百花繚乱の草花、大小の池に噴水が架かる様子など、水の美しさを湛えています。 -
ヘネラリーフェ宮殿 アセキアの中庭
入口の建物の階段を上って最初に目にするのがこの中庭です。
この宮殿では最古の14世紀に造られたため、後世に様々な改造がなされています。それにもかかわらず、アンダルス風庭園様式を最も良好に残したスペイン・イスラム庭園のお手本と称されています。また、この中庭は「閉じられた楽園」とも呼ばれ、外からは見えないように西側の回廊に配された小さなバルコニー以外には窓は設置されていません。
「アセキア」とは中央を流れる「水路(掘割)」を意味します。全長50mもあるアセキアの両側から水がアーチ状に絶え間なく噴出する庭園は、とても美しく印象的です。この庭園を潤す水もシエラ・ネバダの雪解け水を引き込んだものです。 -
ヘネラリーフェ宮殿 アセキアの中庭
これらの噴水は後世に付け加えられたものだそうです。当初は、静かに水の溢れる水盤と水鏡の池だけだったようです。しかし、噴水から吐出される一筋の水がほろほろと連続して水面をたたく様は、『アルハンブラの思い出』のトレモロの調べを奏でるようで心地よい響きです。
ガウディはこの噴水が形作る放物線からカテナリー曲線を建物に応用する発想を思いついたと言っていますので、彼が若かった頃にはすでに噴水が加えられていたものと思われます。 -
ヘネラリーフェ宮殿 アセキアの中庭
正面にある風の吹き抜ける涼しそうな建物は「王の間」、その左端にある建物は「見晴らしの塔」です。東壁に覆い被さるブーゲンビリアの花も印象的です。 -
ヘネラリーフェ宮殿 アセキアの中庭
アルハンブラ宮殿の魅力のひとつには、「水の宮殿」が挙げられます。建築家イブン・アラマールは、宮殿を建てるためにまず用水路を建設ました。グラナダの町を流れるダロ川を遡ること6kmほどの地点からヘネラリーフェまでの用水路です。取り込んだ水は、揚水装置や水道、水車、堰、貯水槽などを駆使した技術によってアルハンブラ宮殿に潤沢に供給されています。
宮殿にこうした華麗な文化が繰り広げられた背景は、「水」への思い入れが尋常ではなかったことが挙げられます。砂漠の民だからこそ、水への憧憬を具現化する宮殿を造りたかったのでしょう。宗教的な理由から偶像崇拝を退けるためにアラベスク模様という細密なアートを創生したイスラム教徒たちは、水についても生きるために不可欠な要素とするだけでなく、美の対象としても最高の演出を凝らしたのです。 -
ヘネラリーフェ宮殿 アセキアの中庭 パビリオン
パビリオンの中には、アラビア模様を直接手で触れてみたい方のためにフェイクのサンプルが置かれています。 -
ヘネラリーフェ宮殿 アセキアの中庭
パビリオン側から中庭を見た姿です。
この離宮は、キリスト教徒に委譲されて以来20世紀初頭まで個人の所有となっていたため、かなり改修されているそうです。しかし中央バルコニーや堀の両側からアーチ型に水が噴出すアキセアの中庭などは、イスラムの魅力をそのまま残しています。庭園の草花と建物との調和も美しく、気持の良い散策をすることができます。
スペインの作曲家であり名ギタリストでもあったフランシスコ・タルレガの名曲『アルハンブラの思い出』は、この中庭の噴水の音から誕生したと言われています。19世紀にタルレガが訪れた頃のアルハンブラ宮殿は、アーヴィングが見たのと同じ荒廃した宮殿だったはずですが、ここが創作意欲を刺激する庭園だったことは間違いないようです。 -
ヘネラリーフェ宮殿 アセキアの中庭
庭の美しさだけでなく、技巧を凝らして端整に剪定された樹木には感心させられます。普通なら、石や煉瓦塀にするところを剪定した樹木で囲っています。それもそのはず、「建築家の庭園」とも称されています。幾つかの区画に点在する噴水や池、水の階段などの周囲には、多彩な種類の木や草花が植えられています。ブーゲンビリアやナデシコ、カンナ、アリッサム、タイサンボク、キンセンカ、スター チス、ペチュニア等々…。自然体でてらいのない美しさに癒されます。下の園には野外劇場もあり、毎年、国際音楽祭が開催されているそうです。
日本人の庭園の「美」への拘りには多彩な要素があり、海外の庭園では文化的な価値の土台になる社会や風土にギャップを感じることもままありますが、和心を尊びながら異文化を愛でられれば最高ではないかと思います。 -
ヘネラリーフェ宮殿 アセキアの中庭 パビリオン
突き当たりにある「パビリオン」と呼ばれる小宮殿の地上階からは、グラナダ市街を一望できます。また。透かし彫りの上窓がイスラム文化を湛えています。
宮殿は、暑く乾燥したアンダルシア地方にありながら、夏でも涼しく、潤いに満ちた特別な場所であったことがよく判ります。 -
ヘネラリーフェ宮殿 アセキアの中庭 パビリオン
天井の造りも秀逸で、木工象嵌で仕上げられています。 -
ヘネラリーフェ宮殿 アセキアの中庭 パビリオン
壁一面に施されたスタッコ(漆喰細工)はアラベスク模様の連続ですが、葉の形がタツノオトシゴに似ていて思わず頬が弛みます。 -
ヘネラリーフェ宮殿 スルタナの(糸杉の)中庭
パビリオンを抜けるとまた別の水の庭園が現れます。
アセキアの中庭と2階建ての回廊を隔てて隣接するのがこのスルタナの中庭です。中庭の中央にはU字形に配置された掘割が設けられ、ここでも主役はシエラ・ネバタから引かれた雪解け水です。砂漠の民ゆえ、モスリムは水を生命の象徴とし、オアシスに対する熱烈な憧れを抱いていたことが窺えます。特にアンダルシア地方は雨が冬季に集中し、夏はアフリカ大陸からの熱風で気温が上がり、空気も乾燥します。水を渇望する思いは、さらに募ったに違いありません。 -
ヘネラリーフェ宮殿 スルタナの(糸杉の)中庭
この宮殿は、夏の間、王が愛人の中からお気に入りのひとりを連れて籠った場所でもあります。しかし「スルタナ」とは「王妃」を意味しており、何やらドロドロした人間模様が透けて見えてきます。実はこの中庭は、王妃が若い騎士と逢瀬する場でもあったそうです。
伝説によると、アベンセラッヘス家の騎士が王妃との密通を疑われ、一家が虐殺されるという事件が起きています。この中庭は、その2人の密会の場だったと伝えられています。待ち合わせの目印だった糸杉は現在は枯木となっていますが、それが「糸杉の中庭」という別名をもたらしました。 -
ヘネラリーフェ宮殿 スルタナの(糸杉の)中庭
スルタナの中庭の正門です。 -
ヘネラリーフェ宮殿 スルタナの(糸杉の)中庭
正門の上には1対のライオンの像が置かれています。ライオンたちが手にしている丸い物は、グラナダのシンボルである「ザクロの実」です。 -
ヘネラリーフェ宮殿
アルハンブラ宮殿にはかつては30基を越える塔が配置されていたそうですが、現存するのは22基だけです。外側の城壁は防御の目的から13世紀初頭、宮殿以前に建造されました。しかし14世紀には軍事的な意味合いは薄れ、グラナダの市街地とアルハンブラ宮殿の境界線となると同時に、居住区としての小宮殿となりました。
ヘネラリーフェへの散歩道路沿いには、くちばしの塔、カディー(裁判官)の塔、囚われの塔、王女たちの塔、カレーラの塔、水の塔と並んでいます。囚われの塔は、1340年に建造されたもので、現在の名前は18世紀に付けられたもので、この塔に因んだ伝説に由来すると言われています。
左手前にあるギザギザの特徴ある角塔がくちばしの塔です。 -
ヘネラリーフェ宮殿
アセキアの中庭を見下ろした写真です。その先にはナスル朝宮殿、そしてその下方にはグラナダ市街とベガ(vega)が広がっています。
ベガとは、アラビア語「Bekah」に由来する言葉で、丘陵地の間に開けた広大な沃野を意味します。つまり、地味の肥えた作物のよくできる平野のことです。 -
ヘネラリーフェ宮殿
入口からアセキアの中庭に上ってきた時の楼閣です。 -
ヘネラリーフェ宮殿
手前方からパルタル宮殿、ナスル朝宮殿、カルロス5世宮殿、そしてアルカサバと並んでいます。
右端の巨大なコマレス宮はダロ川の崖の上に建てられていることが判ります。 -
ヘネラリーフェ宮殿
上の園には「水の階段」と呼ばれる手すり部分が水路になっている階段があるのですが、時間の関係でスキップになりました。 -
ヘネラリーフェ宮殿
出口付近からは緑のトンネルの遊歩道が続いています。夾竹桃(キョウチクトウ)のトンネルです。暑かったのですが、ここは涼しい日陰ができており助かります。
常緑低木もしくは常緑の小高木で、和名「キョウチクトウ」は、葉が竹に、花が桃の花に似ていることが由来です。
日本でもよく見かける街路樹です。広島では原爆後の焼土にいち早く咲いた花として復興のシンボルとされ、広島市の花にもなっています。しかしこの夾竹桃は猛毒を持っており、世界各地で死亡事故を起こしています。複数の毒の成分があり、その中に青酸カリ以上の猛毒が含まれています。その成分を経口した場合、人間の致死量は0.3mgと言われています。フグ毒の致死量が1~2mg、青酸カリが150mgですので推して知るべしです。
1975年にフランスで起こった「バーベキュー事件」では、夾竹桃の枝を使って肉を焼いたために10人のうち7人が死亡しています。それ以前には、太平洋戦争時に日本軍が夾竹桃の枝を串や箸代わりに使い、多くの兵士が亡くなったと言われています。最近では2015年に夫の殺害を計画した妻が逮捕されています。その家の焼酎から夾竹桃の毒成分が検出されたそうです。
後世の植栽だと思いますが、グラナダ王国時代からのものであれば暗殺に用いられたことでしょう。同じく猛毒のトリカブトはよく話題にされるのですが、夾竹桃は認知度が低いように思いますので注意なさってください。 -
パルタル宮殿跡
野外劇場のある所まで戻ってきました。
左端にある角塔は、王女たちの塔です。
この後、入場して最初に見た新橋を渡ってナスル朝宮殿方面へ進みます。 -
パルタル宮殿跡 七階の塔門
かつて七階の塔門の中央にはアルハンブラ宮殿の大門がありましたが、今ではその面影を偲ぶこともできません。ボアブディル王は、フェルナンド王に降伏して城郭から出る際にその大門を潜り、この城門は開かずの門にして欲しいと懇願したそうです。その願いはイサベル女王の恩情によって叶えられ、フェルナンド王は城門を再び開かなかったのみならず、傍らに頑丈な稜堡を築いて封印したと伝わっています。
しかし19世紀初頭、ナポレオンの兄ジョゼフが国王に就き、それを認めない民衆が反乱を起こしたためにフランス軍は撤退せざるを得なくなり、ナポレオン軍撤退の際の爆破で最も被害を被った場所です。幸いにも昔の版画が残されており、それに基づいて往時の姿に復元されています。
余談ですが、ボアブディル王は、治世に何ら見るべきものがなかった点、真綿にくるまれて育てられたという点でも豊臣秀頼にそっくりだと言われています。この幼王を巡って宮廷が2分されたのも、大坂城を巡る淀君と武闘派の対立構造に似ています。 -
パルタル宮殿跡 七階の塔門
『アルハンブラ物語』にはアルハンブラ宮殿に遺された財宝にまつわる話が幾つか載せられています。その中で印象深かったのは、七階の塔を題材にした「ムーアの遺産のはなし」です。寓話に近く、「欲に対する教訓」も含蓄する秀作です。
ガラシア人ペドロ・ジルは貧乏な水運搬人でした。水がめの広場で水を汲み、それを町で売って暮らしていました。ある日、水を汲もうと広場へやってくると、行き倒れのムーア人の老人が助けを求めてきました。親切で気のいいジルはロバに乗せて家へ連れ帰りますが、間もなく老人は痙攣に襲われ、ジルは必死にさすって痛みをやわらげてやりました。その時、「お礼に受け取ってください」と白檀の小函を手渡されました。そしてまた発作を起こし、あっけなく息を引き取りました。
小函の中身は羊皮紙の巻物とローソクでしたが、思う処があってムーア人の香料売りに相談しました。すると、アラビア語で書かれた「魔法の力で封印された財宝の扉を開ける呪文」であることが判ったのです。早速、2人は七階の塔の地下に降りてみました。そしてローソクを点して呪文を唱えると、床が轟音と共に開き、そこに新たな階段が現れたのです。そこを降りていくと金庫の周りに沢山の壺が置かれ、その中には金銀・財宝が詰まっていました。2人はポケットに財宝を詰め込んで急いで階段を駆け上がりました。その拍子にローソクの炎が消えた刹那、床は地響きと共に閉まりました。
これを知った市長と警察官は2人を脅して財宝のありかへ案内させました。壺を残らず運び出すと、拒む2人をしり目に市長と警察官は金庫にまで食指を伸ばし、再び地下へと降りていきました。その期を逃さず、ムーア人はローソクの灯を吹き消しました。すると轟音と共に床が閉まり、強欲な市長と警察官は閉じ込められてしまいました。それを確認すると、ムーア人はローソクを峡谷に向けて放り投げました。やがてジルとムーア人の家族たちはこの地を離れ、他人に親切にすることを忘れることなく、裕福な生涯を送ったという話です。 -
パルタル宮殿跡 カピタン(司令官)の塔
この後、魔女の塔、首長たちの塔と続きますが、どれも同じような形の塔ばかりです。興味をそそるネーミングですが、その由来については不明のようです。 -
パラドール・デ・グラナダ
糸杉の垣根の間から見える修道院風の建物は、パラドールです。
アルハンブラ宮殿の東側には、イスラム時代にはパルタル宮殿や住宅が建てられており、この建物は15世紀後期に造られた聖フランシスコ修道院を改築したものです。現在は「パラドール・デ・グラナダ」と言う名のホテルになっています。
パラドールとは、スペイン特有の国営ホテルのことを言います。古城や貴族・領主の館、あるいは由緒ある修道院を一流ホテル並みに整備したものが多く、時を越えて中世の優雅なムードに浸れるのが魅力の人気ホテルです。 -
パラドール・デ・グラナダ
中央がパラドールへの正門となります。
グラナダを陥落させてレコンキスタを成し遂げたイサベル女王の遺体も暫くここに建てられた修道院に眠っていたそうです。現在は、フェルナンド王と共にグラナダ中心部にある王室礼拝堂で安らかに眠っています。 -
パラドール・デ・グラナダ
かつての聖フランシスコ修道院の門だと思いますが、現在はパラドール付属レストランの入口になっています。
1492年、最期のイスラム王ボアブディルはグラナダをキリスト軍に無血開城しました。グラナダの鍵を受け取ったのはイサベル女王でした。これによりカスティーリャ女王であったイサベルと夫アラゴン王フェルナンドはキリスト教によるスペイン統一の基礎を築くことになりました。
女王はグラナダを征服した暁には修道院を建てると約束し、その通り宮殿の敷地内に聖フランシスコ修道院を建設しました。そして彼女は、自分が死んだらその修道院に飾りを付けずに埋葬して欲しいと遺言しました。実際、その通りに質素な墓標が建てられ、その墓標には十字架もキリスト像もなかったそうです。墓標には次のように記されていました。「神のみぞ勝利者なり」。これはイスラムの王がナスル朝宮殿の壁に記させたものと同じです。
後に王室礼拝堂が完成して女王の墓はそこへ移されましたが、彼女が望んでここに葬られたことを記すため、墓があった場所には記念碑が建てられています。在位中、広い領土を旅して一ヶ所に落ち着くことのなかった女王が、死んだらこのグラナダに埋葬して欲しいと言い遺したことは、グラナダの町に対する彼女の思い入れを物語っており、今でも町の人々はこれを誇りにしています。
レコンキスタ以降、フェルナンド王は東方への領土拡大に奔走し、一方イサベル女王は異教徒の国外追放に余念がありませんでした。そのため異端審問にまつわる醜聞やコロンブスの先住民大虐殺なども相俟り、冷酷で罪深い女王と捉える人も少なくありません。また、グラナダ陥落までの11年間の闘争の中、女王は「敵の都を落とすまでは下着を替えない」と宣言したとの逸話もあります。それに因み、フランスではカフェ・オ・レの薄茶色を「イサベル色」と揶揄しています。しかし個人的には冷徹というより、己の信念にストイックに情熱を捧げ、カトリック統一という泰平理念に燃え尽きた夢追い人だったと思います。どこか晩年の豊臣秀吉とオーバーラップする人物像です。非があるとすれば、それは理想の光ばかりを追いかけ、現実となる影の部分を見ようとしなかったことではないでしょうか…。 -
サンタ・マリア・デ・ラ・アルハンブラ教会
パラドールに続いて現れる建物は、イスラム宮殿を期待したはずが何とカトリック教会です。しかし、ヨーロッパの教会と比べると風変わりです。
元々は、ここにモスクがあり、レコンキスタ後にキリスト教徒だった国王がそれを教会に造り変えたため、グラナダでは珍しいルネッサンス様式の教会になっています。外観はシンプルな石造りで重厚感がありますが、よく観ると壁模様などにイスラム建築の雰囲気が残されています。
サンタ・マリア教会と呼ばれていますが、正式名はサンタ・マリア・デ・ラ・アルハンブラ教会と言います。 -
サンタ・マリア・デ・ラ・アルハンブラ教会
カルロス5世宮殿の一部として建てられた教会です。教会は、フアン・デ・エレーラによりグラナダでは希少なルネッサンス様式で設計され、アンブロシオ・デ・ヴィーコによって1581年に着工され、1617年に完成しました。 -
カルロス5世宮殿
1526年にカルロス5世が、王とその家族のために夏用のナスル朝宮殿に代えて通年住めるようにミケランジェロの弟子ペデロ・マチューカに設計させた宮殿です。ファサードと中庭以外は未完成のままですが、スペイン・ルネッサンス建築の最高峰のひとつに数えられています。
高さ17m、幅63mの四角形の建物の真ん中を直径42mの円形にくり抜き、そこに中庭を配した威風堂々とした建物です。中庭の周囲は2階建の回廊となり、1階はドリス式、2階はイオニア式の列柱が並んでいます。しかし規模こそ誇れるものの、イスラム式宮殿の趣とは全くマッチせず、中庭は円形競技場を彷彿とさせる不思議な建造物です。ご他聞に洩れず、ここでは闘牛や騎士などによる悪趣味な決闘も行なわれていたそうです。 -
カルロス5世宮殿
壁に埋め込まれた馬止めのリングを鷲が咥えていますが、これは神聖ローマ帝国の紋章をあしらったものと思われます。
紋章「双頭の鷲」は東ローマ帝国や神聖ローマ帝国で使用され、ハプスブルグ家の紋章にもなっています。カルロス5世は「ハプスブルグ家」の出自であり、神聖ローマ皇帝としても在位したことから、自らの紋章にもこれを用いています。
このようにカルロス5世のシンボルが随所に埋め込まれた宮殿になっています。 -
カルロス5世宮殿
ライオンは、スペイン紋章からの由来と思われます。
大きな建造物ですが、こうした細かな所まで神経が行き届いているのはさすがです。 -
カルロス5世宮殿
カルロス5世宮殿のファサードです。地上階部分の外壁は、板チョコを彷彿とさせるルスティカ仕上げ(重厚な石積)の武骨なデザインです。
南と西側のファサードは、レリーフやぺディメントで装飾されていますが、北と東側のファサードはナスル朝宮殿と繋げられる予定だったために部分的な装飾に留まっています。 -
カルロス5世宮殿
中央右側の馬に跨っているのがカルロス5世です。
よく観ると、後世の悪戯なのか鼻が削られてしまっています。 -
カルロス5世宮殿
カルロス5世は、新婚旅行でグラナダを訪れ、アルハンブラ宮殿に宿泊しました。それ以来、その部屋は「カルロス5世の部屋」と呼ばれています。そしてよせばいいのに、王はナスル朝の宮殿を褒め称えるに留まらず、スペイン王室の威厳を誇示しようと増築を決意しました。そして往時の最新様式だった豪奢なイタリア風ルネッサンス様式の宮殿を計画したのです。しかしその後イスラム教から改宗したキリスト教徒のモリスコが反乱を起こしたため、グラナダの町が破産状態に陥って宮殿計画が頓挫し、450年後の1957年に漸く周囲の部分の天井が完成したという曰くつきの建物です。 -
カルロス5世宮殿
様々な議論を呼ぶ建造物ですが、スペイン王家は古いものを単に破壊したのではなく、このような壮大な建造物を創造し、輝かしい過去を次の時代へと繋いだと説いています。もしこの宮殿がなかったらアルハンブラ宮殿は敗者が遺した文化遺産になり下がっていたという論調ですが、建築主が使いもしなかった未完の宮殿であり、イスラム宮殿の威厳を欠く建物である事実は否めません。
現在は、1階をアルハンブラ博物館、2階を県立美術館として利用しています。また、ここは意外なことに音響効果が優れているため、直径42mある中庭では毎年、国際音楽舞踏祭が開催されています。さすがはミケランジェロの弟子の設計と頭が下がります。別の用途を目論んでいたとは…。 -
カルロス5世宮殿
まさに円形競技場そのものです。
1階のドリス式列柱は色味がかったものが多く用いられ、その中には礫岩の柱もあり、石の粒々が見られます。 -
裁きの門
実はこの門がかつての正門だそうです。
坂道の高みに誇り高く、威厳に満ちて立ちはだかっています。ユースフ1世が起工し、1348年に完成させた城塞の正門です。イスラムの統治時代、ここの柱廊で法廷が開かれ、民事訴訟の即決裁判が行われていたことから「裁きの門」と呼ばれています。オリエント地域ではこうした法廷は珍しくなく、聖典にも触れられているそうです。
門には2重の馬蹄形アーチが架けられ、外側の要石には手のひら、内側には鍵の図象が刻まれています。言い伝えによると、この裁きの門には呪文がかけられており、運命の日にこの「手」がこの「鍵」を掴むと呪文が解け、門が崩れ落ちて中からイスラムの秘宝が現れるとのことです。ワシントン・アーヴィング著『アルハンブラ 物語』(1832年)には、こうした宮殿にまつわる興味深い伝説が記されています。
しかし本当のところは、5本の手指は「イスラム教の5つの戒律」を表しています。つまり、ムハンマドは神様の預言者なりという「信仰告白」、日に5回の「礼拝」、1月間の「ラマダン(断食)」、宗教税に当たる「喜捨」、一生に1度はメッカへ「巡礼」することの5つです。
また、鍵はイスラム教では力のシンボルとされ、預言者ムハンマドに渡された「ダビデの鍵」を表わしています。キリスト教のシンボルである十字架に対抗し、イスラム教の旗印としたと言われています。因みに、キリスト教で鍵がアトリビュートとなるのは聖ペテロです。イエスから授かったという「天国の鍵」ですが…。
しかし、実は驚くべきものが門の内側に隠されています。アーチの上には、カトリック両王が作らせたという聖母像が安置されています。アルハンブラ宮殿が、イスラム教国家によってつくられ、その後キリスト教国家によって現在まで保存されてきた歴史を象徴的に示しています。
もし時間があれば是非この門を潜ってみてください。 -
ぶどう酒の門
門の先は軍事要塞アルカサバ、手前側はナスル朝宮殿を中心とするメディナ(住宅街)になります。他の城門には装飾がありませんが、14世紀に裁きの門とあい前後して建てられたこの門だけはアラベスク模様で装飾されています。外側(向こう側)はムハンマド3世、内側はムハンマド5世による装飾だそうです。
馬蹄形アーチと2連窓、そして壁面の装飾がイスラムの雰囲気を湛えています。2連窓の真ん中にはナスル朝の盾が刻まれ、さらに窓の脇には「神のみぞ勝利者なり」と記されています。 -
ぶどう酒の門
門の名の由来には諸説あり、この門の手前でメディナの住人の特権としてぶどう酒が免税で売られていたとか、この門の内部にぶどう酒の貯蔵庫があったとか言われています。
基本的にイスラム教徒はお酒を飲まないため、本来の名前「Bib al-hamra'」(赤の門)と「Bib al-jamra」(ぶどう酒の門)を混同したとの説もあります。 -
ぶどう酒の門
内部の壁には、こうしたイスラム風の装飾が見られます。 -
ぶどう酒の門
名の由来の詮索はともかく、機能的にはその先にアルカサバが素通しで見られることから、この門はナスル朝の時代から、防衛用ではなく通用門として使われていたことが窺われます。街の中心線であるレアル通りの起点でもあり、軍事領域と市井の空間の境界線になっています。
また、門の上部には紐付きの鍵が刻まれ、さらにその上には「我らのスルタンであるムハンマド5世に栄光あれ」と記されています。 -
アルカサバ
丘の西側に立つアルカサバは、勢いを増してきたキリスト教徒軍の侵攻に備えて13世紀中頃に建てられた城塞です。9世紀後半に造られた軍事要塞を基にして造られ、アルハンブラ宮殿の中では最古の建物です。今は廃櫨と化していますが、全盛期には武骨な24基もの塔が建っていたそうで、厚く頑丈な壁が往時の難攻不落の砦を偲ばせ、アルハンブラ宮殿のルーツがこの城塞にあったことを窺わせます。
これらの塔の上からは、兵士たちが煮えたぎった油やドロドロに溶けた鉛などを侵入者に浴びせかけたそうです。ここがイスラム王国の最終決戦の舞台だったのかと思うと、夢想は果てしなく広がっていきます。
ここから見える角搭は、右側がオメナッヘの搭、左側がケブラーダの搭です。ケブラーダの搭は上から下へと走る傷のような亀裂があるためケブラーダ(割れた)の搭と呼ばれています。オメナッヘ(臣従の塔)の搭は、カリフ時代のアルカサバの中では最古の搭です。9世紀に存在した最も古い搭の廃墟の上にアラマール王が再建を命じたものと考えられています。日本の城郭で言えば、天守閣の役割を果たしていました。君主から封土を授かった家臣が行った臣従の誓いは、城の天守閣に相当する場所で行うのがしきたりでした。 -
水槽の広場(アルヒーベス広場)
この広場の地下には、要塞に水を確保するためにモーロ人が自然の岩盤を刳り貫いて造った大貯水槽があり、ダロ川から導水渠によって導いた水をここに蓄えていました。また広場の片隅には、岩盤を深々と掘り抜いたモーロ式の井戸があり、そこから汲み上げる水は氷のように冷たく澄み切っていたと伝えられています。
中央に小さく見える門は、アルカサバの塔門です。
ここまで小1時間ほどの散策でした。この後、17:00少し前から45分間程ナスル朝宮殿を見学しました。写真枚数の関係でナスル朝宮殿のレポは後編に回し、見学を終えてナスル朝宮殿から出てきた所から以下を続けます。 -
パルタル宮殿跡
ナスル朝宮殿のリンダラハの中庭から出てくると、正面に見えるのがパルタル宮殿の一画です。 -
パルタル宮殿跡 貴婦人の塔
ナスル朝宮殿に認められたアラベスク文様の呪縛から解かれるかのように、開けたパルタル宮殿跡へ歩を進めます。
パルタル宮殿は、ムハンマド3世によって建設されたアルハンブラ宮殿では最古級の宮殿です。貴婦人の塔は、撮影スポットとしても人気が高く、14世紀初頭にユースフ1世が増築したものです。手前には緑に映えた長方形の大きな池があり、350人以上もの女性たちがここで水浴したり、池に映る水鏡で化粧をしながらチャットに興じたりした華やかな場でもありました。「パルタル」には「出産」と言う意味があり、女性のための聖域だったことが窺われます。
幾つかの塔が頭をもたげ、いずれの塔にも「貴婦人の塔」「くちばしの塔」「囚われ人の塔」と言った興味をそそる名前が付けられています。 -
サンタ・マリア・デ・ラ・アルハンブラ教会
貴婦人の塔の反対側は教会です。ここから見るとエレガントな鐘楼がとても印象的です。
教会の手前はパルタル宮殿跡になっており、現在は基礎と庭園しか残されていません。パルタル宮殿の東側はメディナでしたが、その中央にあったのがレコンキスタ後に建てられた聖フランシスコ修道院であり、現在はパラドールになっています。 -
パルタル宮殿跡 くちばしの塔
くちばしの塔は、特徴的な凸凹になった上辺の形状や名の由来になった鳥のくちばしに似た尖った銃眼付きの胸壁により、他の塔と容易に見分けられます。その容姿から、防御用の塔であったことが窺えます。
3階建ての立派な建物で、13世紀末~14世紀初頭に建設されたと考えられていますが、何故この時代にゴシック様式を用いているのかは判っていないそうです。
突き出した胸壁の先端はレンガ製の角錐になっています。
また、塔には抜け道があり、アラバルの門、塔の防御を担っている兵舎と防塁、鉄の門(カトリック両王によって防塁と同じ時期に再建された)を通ることによってナスル朝宮殿からヘネラリーフェ宮殿へ抜けることができるようになっています。 -
先ほど訪れたヘネラリーフェ宮殿の白壁の豪奢な姿が見渡せます。
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パルタル宮殿跡 囚われ人の搭
囚われ人の搭は、比較的大型の要塞の姿をした角塔です。城壁にある見回りのための通路上にあり、塔の下には掘割のようなものが見られますが、日本の城の濠のような防御機能の他、集落に水を供給する用水路としての役割もあったそうです。
さて、ネーミングの由来ですが、イサベル・デ・ソリスがここに囚われていたからです。彼女はキリスト教徒でしたが、イスラム教徒たちに捕らえられ、アブルハサン・アリー王との結婚のためにソラジャと名前を替えられ、イスラム教に改宗させられました。
やがて彼女はアリー王のお気に入りの妻になったそうです。 -
パルタル宮殿跡 王女たちの塔(ラス・インファンタスの塔)
アルハンブラ宮殿からの出口に向かうと見えてくる、天辺にあるとんがり帽子の錆朱色の屋根が特徴の角塔です。この塔は、囚われ人の塔(15世紀半ば)よりも後の時代のものだそうです。
16世紀には住人の名前から「ルイス・キンタルナヤの塔」と呼ばれていましたが、17世紀以降はアーヴィングの小説に登場する3人の王女たちに因んで「王女たちの塔」と呼ばれるようになりました。 -
パルタル宮殿跡 王女たちの塔
『アルハンブラ物語』には次のような伝説が認められています。
ムハンマド9世は、3つ子の娘を授かり、占星術師に占ってもらいました。すると、「3人の王女は危険な星の下に生まれた。妙齢期には監視を怠りなく手許から放さぬように」と予言されました。やがて王は、異性の眼に触れない安全な場所として、この塔に3人の王女を住まわせました。塔ですから短直に言えば幽門と同じです。
伝説によると、こうして囚われの身となった王女たちは、彼女たちを不憫に思う侍女カティガらの計らいにより、捕虜となった3人のキリスト教徒の貴族たちと禁断の恋に堕ち、やがて駆け落してコルドバの地で結ばれるというロマンティックな結末になっています。面白いことに侍女も便乗して捕虜が監禁されていたベルメーハスの塔の管理者ハッサン・ババと一緒に駆け落ちする件になっています。
王女たちが捕虜たちに恋をしたことを知ったカティガは、ハッサンと裏工作し、王女たちの塔の真下の峡谷で捕虜たちを働かせ、休憩時間にギターを奏でながら歌わせました。王女たちは窓からそれを覗きながら、時には花を投げたり、リュートで旋律を奏でたりしてお互いの気持ちを確かめ合いました。しかし、そんな幸福な時は長くは続きませんでした。捕虜たちは貴族の出身だったため、莫大な身代金が支払われて故郷へ連れ戻されることになったのです。しかし、晴れて自由の身となった彼らは、別れ際に王女たちに求愛をしました。そしてある夜、駆け落ちの手配が万事整い、この塔から縄梯子を使って谷間の道まで降りることになりました。気丈な長女サイダと華やかな次姉ソライダは難なく降りました。しかしはにかみやの末娘ソラアイダは、悩んだ末にこの塔に残り、嘆きのうちに短い生涯を閉じました。彼女の亡骸は、この塔の地下室に埋葬されているそうです。
一方、カティガはハッサンと共に馬に乗って逃げたのですが、急流を渡る途中、掴んでいた彼のベルトが外れ、その弾みで濁流に飲み込まれてしまいます。しかし近くにいた漁師たちの手助けにより無事に救出され、その後、ハッサンとは別の人生を送ったそうです。
こうして塔を仰ぎ見ると、『アルハンブラの思い出』のトレモロの旋律をBGMに、王女たちがこの窓から外を眺めて不幸を嘆く、そんな姿が今にも浮かんでくるような気がしてなりません。
この続きは、ときめきのスペイン周遊⑩アルハンブラ宮殿(後編)でお届けいたします。
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