2016/09/02 - 2016/09/10
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montsaintmichelさん
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タラゴナは、バルセロナの南西100kmに位置する地中海沿岸の歴史ある町です。カタルーニャ州タラゴナ県の県都であり、タラグネス郡の中心自治体でもあります。現在はガウディの生まれ故郷のレウスなど近郊の都市を含めたタラゴナ都市圏の人口は約34万人にもおよび、地中海に面した港湾都市として物流の要衝になっています。
日本人には聞き慣れない町名ですが、その歴史は古く、紀元前200年頃の古代ローマ帝国時代には「タラコ(Tarraco)」と呼ばれ、イベリア半島最大の都市ならびにヒスパニア・タッラコネンシス属州の州都として君臨し、ユリウス・カエサルも滞在した由緒ある町です。今でも町のあちらこちらにローマ帝国がスペインを侵略した際に建造したスペイン最大規模の円形競技場などの遺跡が残され、それらは「タラコの考古遺跡群」として2000年に世界遺産に認定されています。また、市街には12世紀に建設が始まったロマネスク~バロック様式の大聖堂などの観光名所もあり、郊外にも世界遺産に認定されたラス・ファレラス水道橋もあります。
しかしタラゴナの最大の魅力は、ローマ帝国時代の遺跡だけではなく、地中海がそのすぐ背後に寄り添っていることです。ネルハが「ヨーロッパのバルコニー」と称されるのに対し、タラゴナは「地中海のバルコニー」と称されるほど景観に優れた観光地です。地中海の紺碧の海を借景にした古代円形競技場は、タラゴナを代表する風景と言えます。
<日程>
1日目:関空→フランクフルト(LH0741 10:05発)
フランクフルト→バルセロナ(LH1136 17:30発)
宿泊:4 Barcelona(二連泊)
2日目:グエル公園==サグラダ・ファミリア==カサ・ミラ/カサ・バトリョ(車窓)
==ランチ:Marina Bay by Moncho's==カタルーニャ広場
15:00?フリータイム
カタルーニャ広場==サン・パウ病院==サグラダ・ファミリア==
カサ・ミラ--カサ・バトリョ--夕食:Cervecer?・a Catalana(バル)
==カタルーニャ音楽堂
宿泊:4 Barcelona(二連泊)
3日目:コロニア・グエル地下礼拝堂==モンセラット観光--
ランチ:Restaurant Montserrat==ラス・ファレラス(水道橋)
==タラゴナ観光(円形競技場、地中海のバルコニー)
バレンシア宿泊:Mas Camarena
4日目:ランチ:Mamzanil(Murcia)
==(午後4:00到着)ヘネラリーフェ宮殿
--アルハンブラ宮殿==ホテル Vincci Granada==Los Tarantos
(洞窟フラメンコ)
--サン・ニコラス展望台(アルハンブラ宮殿の夜景観賞)
5日目:ミハス散策--ランチ:Vinoteca==ロンダ(午後4:00到着)
フリー散策
宿泊:Parador de Ronda
6日目:セビリア観光(スペイン広場--セビリア大聖堂)==
コルドバ観光(メスキータ--花の小径)-==コルドバ駅
AVE:コルドバ→マドリード
夕食:China City
宿泊:Rafael Hoteles Atocha(二連泊)
7日目:マドリード観光(スペイン広場<下車観光>==ソフィア王妃芸術センター
==プラド美術館--免税店ショッピング==ランチ:Dudua Palacio
==トレド観光(サント・トメ教会、トレド大聖堂<外観>)==
ホテル--フリータイム(プエルタ・デル・ソル、マヨール広場、
サンミゲル市場、ビリャ広場、アルムデナ大聖堂、マドリード王宮
オリエンテ広場 、エル・コルテ・イングレス<グラン・ビア>)
宿泊:Rafael Hoteles Atocha(二連泊)
8日目:マドリード→フランクフルト(LH1123 8:35発)
フランクフルト→関空(LH0740 13:35発)
9日目:関空着(7:20)
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- 観光バス 徒歩 飛行機
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- 日本旅行
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-
タラゴナ ラス・ファレラス水道橋
バルセロナ~グラナダ間の距離は855kmあり、東京~下関間に匹敵します。ですから、2日間に分けて各半日を移動に当てます。その途中に立ち寄るのがタラゴナの町です。そのタラゴナ郊外にある遺跡が、ラス・ファレラス水道橋です。
時間的な都合もあり、バスから下車して高速道路に設けられた鑑賞テラスから5分ほど遠目に見学するだけです。周りには水道橋以外の見所は無いので、5分もあれば事足ります。ツアーによっては、立ち寄りもしないものも多々あるそうです。と言うもの、バルセロナからグラナダまでは移動距離が長く、運転手としては脇目も振らずにバスを走らせたいのが心情だからです。
添乗員さん曰く、樹木が年々成長して景観を阻害してきているのが悩みの種だそうです。冬場ならもう少し見通しが開けているのかもしれません。 -
タラゴナ ラス・ファレラス水道橋
タラゴナ郊外の山中にひっそりと佇むラス・ファレラス水道橋は、タラゴナの北15kmにあるフランコリ川から雨の少ないこのタラゴナまで水を供給するために古代ローマ帝国時代の1世紀に築かれたもので、「タラゴナの考古遺産群」として世界遺産に認定されています。
タラゴナの町までこうした立派な橋が続いていたと想像するだけで、往時の町の繁栄を窺い知ることができます。因みにこの水道橋は、18世紀頃まで実際に使われていたそうです。
スペインで現存する橋の中では、セゴビアの水道橋に次ぐ規模を誇ります。今から2000年前にセメントなど一切使わず、天然石を切り出して石組みして造った橋が崩れることなく残されているのに感動させられます。また、古代ローマ人たちが培った建築技術力の高さにも吃驚ポンです。
かつては海抜92mの位置にあるラウレルエリアから110km以上続き、水道橋の上を北から南へと水が流されていました。石造りの橋は全長217m、高さ27m、幅2mあり、2層のアーチ構造をしており、上段は25のアーチ、段下は11のアーチで支え、それぞれの柱の太さは1.8mもあります。各アーチの長さは6mあります。水路は、人が一人通れるくらいの幅ですが通行可能だそうです。時間が許せば、2000年にタラゴナ市内の円形劇場、凱旋門などと共に世界文化遺産に認定された橋を是非渡ってみてください。 -
タラゴナ ラス・ファレラス水道橋
こんなに美しい姿の橋なのに、別名「悪魔の橋」の異名を持ちます。このように呼ばれるのは、次の伝説が由来です。
ある日、悪魔は、森に住む老夫婦のために流されてしまった木の橋の代わりに石造りの橋を建てました。すると悪魔は、橋と引き換えに最初に橋を渡った生き物の魂を望みました。そこで夫婦は、荷車代わりに使っていたロバを最初に通らせ、悪魔にロバの魂を差し出したそうです。
その他の説には、この橋は往時の橋を造る技術では考えられないほど短い工期で架けられたため、「これは悪魔の仕業だ」と言われたからとか、若い娘と悪魔が賭けをし、悪魔が賭けに負けて一夜にして橋を築いたという説や川が氾濫し、度々周辺の住民を苦しめたからなど、諸説あります。 -
タラゴナ ミラクレ海岸
風光明媚なビーチ・リゾートと言いたくなるような景観が広がっていますが、実はこの直下には古代円形競技場の遺跡が隠れています。
「タラコの考古遺産群」は、タラゴナ周辺に残された古代ローマ帝国時代の建設物からなる世界遺産です。紀元前218年、この地はローマ帝国軍に征服され、地中海沿岸付近に部隊が駐留しました。その数年後、この部隊の駐留が礎になり、ローマ帝国の町「タラコ」が築かれました。やがてユリウス・カエサルによって市街が整備され、歴代のローマ皇帝が好んで在留する皇帝直属の重要な州都のひとつとなったことから、多くの建造物がこの地に建てられ、他の地方都市のモデルともなりました。それ以来約600年間ほど、「タラコ」という名前でローマ人のイベリア半島支配拠点として繁栄しました。往時の人口は3万人で少ないように思えますが、地方中核都市としては有数の規模であり、イベリア半島では最大の都市でした。 -
タラゴナ 古代円形競技場
正直な所、スペイン旅行を計画するまでは、スペインの古代遺跡といえば、1~1.8万年前の旧石器時代末期のクロマニヨン人が描いた「アルタミラ洞窟の壁画」しか思い浮かびませんでした。調べてみると、タラゴナのランドマーク的存在なのが、ローマ帝国時代の遺跡「円形競技場」です。地中海のバルコニーと呼ばれる高台に登ると一気に視界が開け、海岸線に神々しく聳え立つ巨大な円形アリーナの遺跡が忽然と姿を現します。碧く輝く地中海とのツーショットはタラゴナならではの風景であり、地中海ブルーと古代競技場遺跡のコントラストが何とも言えません。 -
タラゴナ 古代円形競技場
14000人を収容する規模の円形競技場は、かつては観客を熱狂させた場所です。ローマ帝国時代、ここでは映画などでもお馴染みの血なまぐさい剣闘士同士または猛獣との戦いが醜悪な見世物として行われ、死刑囚の処罰が執行された場所でもあります。初代のものは2世紀末に建築されましたが、現在のものは221年に改築されたものの遺構です。
円形競技場は、悪趣味な「奴隷の剣闘士(グラディエーター)同士の殺し合いを見学する場」とされ、かつてはローマ人が堕落した象徴のように語られていました。しかし近年の調査結果によると、剣闘士にはそれなりに社会的な敬意が払われており、誇り高い職業だったと論調が変わってきています。更に、必ずしも剣闘士が奴隷出身だった訳ではなく、自由民が名誉と報酬を求めて志願することもあったそうです。つまり現代の格闘技業界の状況となんら変りません。この辺りは、塩野七生著『ローマ人の物語』に詳しく記されています。 -
タラゴナ 古代円形競技場
アリーナの中央付近には、ラテン十字形をした遺跡が保存されています。これは、12世紀に西ゴート時代の跡地に建設された「奇跡の聖母マリア教会」のロマネスク様式の建物の遺跡です。
1915年に教会は壊されて廃墟となっていますが、1780年まで修道院として使われ、その後は牢獄として使われ、20世紀の半ばには劇場として修復されたという複雑な歴史を持ちます。 -
タラゴナ 古代円形競技場
地形の起伏を利用して地中海を背にするように建てられ、観客席は露岩の上に切り出した石を積んで造られています。円形競技場の規模は、幅86.5m、長さ109.5mあります。
円形競技場と言えばローマの「コロッセオ」が代表格ですが、ここのものは小ぶりながら原型をよく留め、かつての繁栄の時代が偲ばれる遺跡です。
円形競技場に面する公園の向こうにある建物は、ホテル「インペリアル・タラコ」です。ロケーションがいいため、このホテルからの眺めは最高なんでしょうね! -
タラゴナ 古代円形競技場
現地ガイドさんは欧米人向けが専門の方ではないかと思いました。何故なら、これほど教会の遺跡に接近した写真はネットで見たことがないからです。恐らく、遺跡好きの欧米人を喜ばせるため、こんな所まで案内されているのだと思います。個人的には好感が持てたのですが、日本人好みの「地中海のバルコニー」では絶好の撮影ポイントに案内してもらえなかったのが残念でした。高台からの写真は、フリータイムに戻って撮影したものです。
遺跡と化した教会を更に遡ると、259年にタラコ出身のキリスト教徒フルクトゥオスス司祭とその助祭のアウグリウスとエウローゲが、ここで火炙りの刑に処されて殉教しています。往時はまだキリスト教が認められておらず、多くの信徒が処刑された時代でした。4世紀にはキリスト教がローマ帝国の国教に選ばれ、円形競技場はこれまでの役割を終えたため、そこに殉職した3人の霊廊が建てられました。
教会らしきものが建てられたのは、その後の6世紀初期に殉教者たちのために西ゴート族が建てたバシリカが最初です。
歴史の奥深さを感じさせる遺跡ですが、地中海ブルーに輝く海と灰色の円形競技場のコラボはとても魅力的で見応えがあります。 -
タラゴナ
円形競技場の周辺にある民家です。
塀の色と建物の色がコーディネートされているのがキュートです。 -
タラゴナ 地中海のバルコニー
高台に上がるとミラクレ海岸と呼ばれるタラゴナの美しい白い砂浜と遥かに広がる紺碧の地中海を一望することができます。ローマ帝国の時代には、円形競技場の客席から地中海と舟が航行する様子を見ながら、贅沢な時間を過ごしたことでしょう。
しかし平和ボケした当方の思惑とは異なり、目の前に海が広がるこの立地が選ばれた理由は、海外から連れてきた珍しい猛獣を舟から直接運び込み、その動物たちを見世物にするのに便利だったからだそうです。
アリーナにはのんきに日向ぼっこをしている沢山の猫がいますが、かつてここがどんな場所だったか知らないからでしょうね!お互いに「知らぬが仏」、ここでは素晴らしい景観を愛でましょう!! -
タラゴナ 地中海のバルコニー
北川圭子著『ガウディの生涯』によると、ガウディはこのタラゴナから16km離れたレウスの町で育ちました。中等教育に進学したガウディは親友と共にタラゴナの海岸を訪れ、将来の夢を語り合っています。
ガウディの親友は、一人はエドゥアルド、もう一人はホセと言い、共に成績優秀な少年でした。思春期に入ったばかりのガウディはこの2人にコンプレックスを抱いていましたが、やがて3人は大の仲良しになり、将来の夢を語り合いました。その記念すべき場所がタラゴナの古代円形競技場を見上げるミラクレ海岸でした。
エドゥアルドは外交官、ホセは医者になる夢を熱く語りました。しかしその時、ガウディにはまだ具体的な夢はありませんでした。金物職人の父親の影響もあり、漠然と「立体的なものを造る人」になりたいと思っていただけでした。しかしそんな具体性のない将来の夢を語ると、親友たちは「それなら建築家がいい」と夢を後押ししてくれたのです。そして16歳の時、卒業と同時にカタルーニャ地方の中心地バルセロナに移り住むことを決意したのでした。 -
タラゴナ 地中海のバルコニー
地中海を見下ろす崖の上からは、イメージ通りの紺碧の地中海が目の前に広がっています。白い砂浜と碧い海、そして赤茶けたスペイン瓦の屋根が強烈なコントラストを創りだしています。
また、ここの地中海の海の色はとても深い神秘的なターコイズブルーをしています。天気が良く、キラキラ輝く地中海はまさに憧れの海です。 -
タラゴナ 地中海のバルコニー
丘の上には旧市街に向けて目抜き通りの「ランブラス・ノヴァ」が真っ直ぐに走り、行き止まりに当たるこの周辺は地中海を見晴らす高台になっています。海岸線に沿って走る鉄道の線路の向こうには、ターコイズブルーに輝く地中海が白砂のビーチと共に果てしなく広がっています。
ご覧の通り、駅を出ればビーチに直接出られるという、交通至便なリゾート地です。 -
タラゴナ 地中海のバルコニー
この海の碧さのグラデーションは別格です。
少し距離があるので波の音は聞こえてきませんが、波をじっと見ていると波間に漂っているような不思議な感覚に包まれます。何時まで見ていても飽きることのない海の色です。 -
タラゴナ ランブラ・ノヴァ
ランブラ・ノヴァの両側には、バルやアイスクリーム・ショップなどが軒を連ね、暑さに弱いヨーロッパ人はここでのんびりと寛いでおられます。というか、暑過ぎるのでへたって奥に隠れてしまっている感じです。 -
タラゴナ ランブラ・ノヴァ
この周辺には公衆トイレがないため、ショップでお借りすることになります。
一番端っこにあるアイスクリーム・ショップで暫し休憩です。 -
タラゴナ ロジャー・デ・ジュリア(Roger de Lluria)の像
タラゴナにあるモンブランという町がサン・ジョルディのドラゴン伝説発祥の地ゆえ、てっきりカタルーニャの守護神サン・ジョルディかと思いましたが、名前を確かめてみると「ロジャー・デ・ジュリア」とありました。初めて聞く名前でしたので少々戸惑いました。
ネットで調べてみると、13世紀後期のカタルーニャ-アラゴン連合王国の海軍将官であり、連合艦隊の提督としてカタルーニャの危機を救った人物とありました。カタルーニャに侵攻してきたフランス艦隊を撃破し、シチリアに対する連合王国の権利を守った、戦士の鑑のようなお方です。天下分け目の決戦で見事連合国を勝利に導いた立役者であり、サン・ジョルディに比べてより現実的なヒーローのようです。
それを顕彰し、1889年に彫刻家フェリックス・Galceran・フェレールによって制作された記念碑です。青い空に掲げているのは海図ということでしょうか? -
タラゴナ ロジャー・デ・ジュリアの像
実はタラゴナにあるモンブランという町がサン・ジョルディのドラゴン伝説発祥の地です。モンブランでは、毎年サン・ジョルディの日(4月23日)に「サン・ジョルディの中世祭」が行なわれています。男性が女性にバラを贈る愛の日であり、カタルーニャ版バレンタインデーだそうです。
サン・ジョルディは古代ローマ末期の小アジア(現トルコ)の軍人であり、キリスト教徒として303年に殉職しています。聖ゲオルギオスのカタラン語名がサン・ジョルディです。因みに、スペイン標準語ではサン・ホルヘ、英語名はセント・ジョージです。白地に赤い十字のイングランド国旗がセント・ジョージ・クロスと呼ばれるなど、世界中で人気を博している聖人です。11~12世紀頃から彼をモデルにしたドラゴン伝説が各地で誕生しています。 -
タラゴナ ロジャー・デ・ジュリアの像
レコンキスタ後、主役の座に坐ったのがジャウマ1世なる「征服王」。カタルーニャ黄金時代の幕開けとなり、カタルーニャ-アラゴン連合王国の次なる標的は地中海制覇でした。国王の息子ペラ2世はシチリアの王女と結婚しましたが、シチリア王国はフランス王シャルルに滅ぼされ、フランス領となっていました。そんな折、圧政に苦しむシチリア人が反乱を起こし、鎮圧するフランス軍によって多くの住民が虐殺される「シチリアの晩鐘」事件に至りました。ペラ2世はこの機に妻の故郷シチリアに侵攻をかけました。すると反乱に苦しむフランス軍は戦うことなく逃亡したため、シチリアはカタルーニャの支配下に治まりました。
これに激怒したフランスはローマ教皇にカタルーニャの侵略の理不尽さを訴え、その結果教皇はペラ2世を破門し、総勢10万人の十字軍をカタルーニャに向けたのです。さしものペラ2世もこの大軍には抗しきれず、まさに絶体絶命のピンチ。しかしこのピンチにロジャー・デ・ジュリア提督率いる連合艦隊が大車輪の活躍を遂げ、フランス艦隊を駆逐する大殊勲を上げます。かくして西地中海の制海権を失ったフランスはシチリア再征服を諦め、カタルーニャはギリギリのところで建国以来の大ピンチを脱することができました。
一方、東地中海では新たな動きが起こり、ビザンチン帝国に雇われたカタルーニャ人の傭兵部隊が反旗を翻し、トラキアとマケドニアを征服したのです。しかも彼らはその後もアドリア海沿岸を荒らし回り、終いにはアテネも攻め落とし、勝手にアテネ公国やネオパトリア公国と名乗りました。この反乱はカタルーニャ本国とは無関係だったのですが、ビザンチン帝国の復讐を恐れた彼らはペラ3世に使者を送り、征服した全領土を献上したいと申し入れます。なんと労せずして東地中海の要衝がカタルーニャに転がり込んできたのです。かくて連合王国は、瞬く間にスペインからシチリア島、そしてギリシアに至るまでの地中海を支配する一大帝国となっていったのです。 -
タラゴナ プレトリとシルク・ローマ
中世の佇まいを残す旧市街の路地を歩いていると、忽然とローマ帝国時代の遺跡が現れるのがタラゴナの町の醍醐味です。
古代遺跡の前には電動式の蒸気機関車が牽引する観光周遊カートがあります。古代ローマ帝国時代に思いを馳せながら周遊されてみてはいかがでしょうか。 -
タラゴナ プレトリとシルク・ローマ
考古学博物館の隣にあり、大きな角塔が目印の遺跡です。紀元前1世紀に建てられたローマ時代のプレトリ(長官公邸)・ローマは、中世の15世紀には王の居城としても使われ、その後、刑務所や軍隊の倉庫となりました。
奥には1世紀終わり頃にドミシアーノ皇帝の命により造られた円形競技場があます。プレトリでは大理石の銅像やローマ帝国時代の壁画など往時の遺品が数多く展示され、ジオラマもあり魅力的な空間だそうです。また、角塔の上に昇ることもでき、そこからタラゴナの街や地中海の絶景を望めます。
シルク・ローマとは、ベン・ハーで知られる2頭立ての戦闘用馬車レース用の円形競技場のことだそうです。 -
バレンシア
ラ・シエラ・カルデロナ自然公園(Parque Natural de la Sierra Calderona)にある小高い山の稜線をシルエットで映す落陽です。バルセロナとグラナダの中間点にあるバレンシア県パテルナを目指してバスは疾走しています。旅の疲れも手伝ってか、皆さん黙して目を閉じておられます。
旅程は南部へ降りていく形になるため、日毎に気温が上がっていきます。出発間際のセビリアの予想最高気温は46℃とあり、何かの間違いかと思っていましたが、今も変わっていないようです。明日のグラナダの最高気温も46℃です。地球温暖化に伴う異常気象なのでしょうか?
地球温暖化は、人類が生き残るためにクリアすべき課題のひとつと言われて久しくなります。今から460~300万年前の新生代新第三紀鮮新世の一時期、現在より地球の平均気温が2~3℃高い時代があったそうです。そしてこの時代に、地球規模の異常気象をもたらす「エルニーニョ現象」が発生していたことが明らかになりました。これは地球が温暖化した場合、エルニーニョ現象が発生することを示唆する研究成果だとも言われています。
WMO(世界気象機関)は、エルニーニョは今年5月に終息し、次第にラニーニャに推移すると予測しています。エルニーニョ現象は、太平洋赤道域の中央部から南米のペルー沿岸にかけての広い海域の海面水温が平年に比べて高くなり、その状態が半年から一年半程度続く現象です。地球規模で干ばつや洪水などの異常気象を引き起こします。ラニーニャ現象はその逆で、同じ海域で海面水温が平年より低い状態が続く現象で、数年に一度発生します。こちらも異常気象を伴い、日本では夏はより暑く、冬はより寒くなるのが特徴です。
8月の大阪は猛暑日が21日と異常な暑さを記録しましたが、これはエルニーニョ現象が春に終わった影響で、大陸の高気圧の日本海への張り出しが強まり、特に西日本で気温が高い日が増えているようです。と言うことは、ニュートラル状態でも異常気象が発生すると言うことでは!?
因みに、エルニーニョ現象の「エルニーニョ」はスペイン語で「神の子」という意味です。クリスマスの時期に発生することが多いため、このように名付けられたそうです。また、エルニーニョが「男の子」を指すのに対し、ラニーニャは「女の子」を指します。 -
ホテル ウサ・マス・カマレナ(Husa Mas Camarena)
本日の宿泊先は、パテルナという町にあるウサ・マス・カマレナという4つ星ホテルです。バレンシア市街からは少し距離がある、工業団地の一画にあるホテルです。ご覧のように立派なホテルなのですが、外観は企業の研修センターという雰囲気がしないでも・・・。 観光地ではないため周辺にはこれと言った所はありませんが、徒歩5分強の場所にスーパーがあり飲料水はそこで調達できます。
バルセロナとグラナダの中間点となるとツアーで利用できるホテルも限られてくるようで、他の日本人ツアー客も宿泊されていました。 -
ホテル ウサ・マス・カマレナ
夕食は、近場に適当な場所がないため、ホテルのレストランでいただきます。
前菜は、温野菜の盛り合わせです。ボリューム満点ですが、日本では冷凍食品でポピュラーな食材では??? -
ホテル ウサ・マス・カマレナ
メイン・ディッシュは、骨付きチキンのポトフです。それにして大きなジャガイモがゴロゴロ。そしてここにもグリンピースが盛り沢山…。
ジャガイモは、スペインによって世界に広められたことをご存知でしょうか?
ジャガイモは日本でもポピュラーで、弘法大師が唐から持ち帰ったとか、織田・豊臣時代にポルトガル人が長崎に持たらしたとか伝わっています。
ルーツを探ると何千年も前から南米のペルーやチリなどで作られていたのは事実で、チリが原産地とされています。それを16世紀にスペインの探検家フランシスコ・ピサロがスペインに持ち帰ったのが世界に広まるきっかけになりました。スペインにもたらされたジャガイモは、やがてヨーロッパ各地へと広がっていきました。
こうした中、ドイツでは1618年から「30年戦争」が勃発し、国内の田畑は荒廃し、食料が不足しました。この時、小麦で作るパンに替わり、ドイツ国民を飢えから救ったのがジャガイモでした。その後、ジャガイモは毒のある植物だという迷信が広まってあまり作られなくなりましたが、1740年頃、フリードリッヒ大王が国内各地を回って自ら進んでジャガイモを食べて大いにPRしました。それ以来、ドイツ人はジャガイモをよく食べるようになり、フリードリッヒ大王は「イモ大王」と呼ばれたそうです。
日本では、1706年頃に北海道後志国の松兵衛という人が植えたという記録があります。本州では1764年頃、甲斐国で中井清太夫という役人が農民に栽培を勧めたと伝わっています。ジャガイモはカロリーが高く、主食にもなり、デンプンやアルコールの原料にもなる貴重な野菜です。フランスでは「地に成るリンゴ」と呼ばれているほどです。
この続きは、ときめきのスペイン周遊⑨グラナダ アルハンブラ宮殿(前編)でお届けします。
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