氏家・高根沢旅行記(ブログ) 一覧に戻る
該区間は、明治30年(1897年)2月25日開通である。<br /><br /><br />宇都宮-矢板間開通当時は、現行路線とは異なり、宇都宮から北進し、古田を経由し、鬼怒川本流中流域たる、西鬼怒川、及び、東鬼怒川を渡河し矢板に直行する形態だったが、当時の我が国に於ける大河川鉄道橋梁架橋技術は黎明期であり、故に、未知数な要素を有していた事も原因で、該区間開通直後より橋梁支障事故が頻発し、該社は困惑の立場に置かれる事となった。<br /><br />鬼怒川は、該県逆木地区に於いて東西に分水状態になるが、明治初期は、東鬼怒川が本流、西鬼怒川は支流であり、故に、西鬼怒川水量は少量とされたが、然るに、明治10年代に度々洪水が頻発した為に、東鬼怒川は高河床化した事で水量は減少した反面、西鬼怒川水量は増大した事で、明治15年(1882年)には、明治初期の状態と逆転し西鬼怒川が本流化するに至らしめた。<br /><br />即ち、該河川増水の都度、該両橋梁に異状を発生させ、殊に、明治23年(1890年)9月発生の大水害に依り、西鬼怒川橋梁橋脚に傾斜被害が発生した事で、該社は逆木に刎堰を設置したが、翌々年たる明治25年(1892年)12月の栃木県第15回通常縣会に於いて、第5代知事 折田平内(おりた へいない)(弘化3年(1847年)1月23日~明治38年(1905年)5月7日)(明治22年(1889年)12月24日~明治27年(1894年)1月20日在任)に対し 日本鐵道會社ニ許可セル件 なる動議が暴露され問題が表面化する。<br /><br />他方、該社は、該橋梁保全の為に再三に亘り資金投入を強いられた事で、抜本的対策として、内務省土木局御雇オランダ国籍外国人技師 ヨハネス・デ・レーケ(Johannis de RIJKE)(1842年(天保13年)12月5日~1913年(大正2年)1月20日)を招聘し、現地調査依頼をした処、橋脚安固化の為には10数万円を要し、且つ、永久の安全は困難との結果報告を得た事から、該社は、該橋梁維持方針を放棄し、改めて、明治27年(1894年)8月に現地測量を実施し、該河川渡河位置を慎重に検討した処、翌明治28年(1895年)1月31日附で現行路線が決定された。<br /><br />該西東河川合流地点に新橋梁を架橋すべく、明治28年(1895年)7月16日附で、該社第3代社長 小野義眞(おの よしざね)(天保10年(1839年)5月29日~明治38年(1905年)5月9日)(明治25年(1892年)3月1日~明治31年(1898年)4月6日在任)より、第5代第Ⅱ次 伊藤博文内閣(いとう ひろぶみ)(天保12年(1841年)10月16日~明治42年(1909年)10月26日)(明治25年(1892年)8月8日~明治29年(1896年)9月18日組閣) 第4代逓信大臣 渡邊國武(わたなべ くにたけ)(弘化2年(1846年)3月29日~大正8年(1919年)5月11日)(明治28年(1895年)3月17日~同年10月9日在任)に対し路線変更願書を提出し、逓信省は該文書を審議した結果、同年10月22日附文書で、並行国道経路変更を条件に許可された。<br /><br />鬼怒川は旧橋梁位置より下流域で渡河したが、該橋梁構桁は、西鬼怒川橋梁架橋の構桁を転用活用した。<br /><br />該新線は、明治30年(1897年)2月25日に開通したが、該河川の自然の驚異には如何ともしがたく、翌々年たる明治32年(1899年)7月22日には、大雨に依る大増水の為に該橋梁2橋脚基部が沈下する事態になった。<br /><br /><br />鐵道唱歌<br />第14番<br />瀧は華厳の音たかく<br />(たきは けごんの おとたかく)<br />百雷谷に咆え叫ぶ<br />(ひゃくらい たにに ほえさけぶ)<br />裏見霧降とりどりに<br />(うらみ きりふり とりどりに)<br />霧よりおつる物すごさ♪<br />(きりより おつる ものすごさ)<br /><br /><br />帝國陸軍第14師団は、日露戦争(にちろせんそう)(明治37年(1904年)2月8日~明治38年(1905年)9月5日)勃発に伴い、明治38年(1905年)4月に編成されたが、該戦争後、陸軍省決定に拠り、明治40年(1907年)9月に宇都宮移駐が決定し、該決定に基き翌明治41年(1908年)3月より明治42年(1909年)5月末迄に移駐が完了した。<br /><br />帝國陸軍は、宇都宮を拠点とする第14師団を衛戍地として秋季特別大演習を、明治42年(1909年)11月6日より同月10日に至る5日間実施した。<br /><br />南軍: 第13、14師団、後備歩兵第3旅団、騎兵第2旅団<br />  兵力計21446名 馬匹3467頭<br /> 指揮官 軍事参議官 陸軍大将 西 寛二郎(にし かんじろう)(弘化3年(1846年)4月5日~明治45年(1912年)1月27日)<br />北軍: 第2、7、8師団、騎兵第1旅団<br />  兵力計26772名 馬匹4519頭<br /> 指揮官 軍事参議官 陸軍大将 長谷川好古(はせがわ よしふる)(嘉永3年(1850年)10月1日~大正13年(1924年)1月27日)<br /><br />当時は第2次日英同盟条約(ANGLO-JAPAN ALLIANCE)が有効全盛期であり、外国武官として来日中の 英陸軍元帥 ホレイショ・ハーバート・キッチナー(Horatio Herbert KITCHENER)(1850年(嘉永3年)10月1日~1916年(大正5年)6月5日)が該戦技を観戦した。<br /><br />第122代 明治(めいじ)天皇(嘉永5年(1852年)11月3日~明治45年(1912年)7月29日)(慶應3年(1867年)1月30日~明治45年(1912年)7月29日御在位)が大元帥として特別大演習統裁の為に、栃木県北部に於いて下記の御召列車が運転された。<br /><br /> 5日 上野-宇都宮(大本営 栃木縣庁)<br /> 6日 宇都宮-黒磯-宇都宮(塩谷郡高久村 愛宕山)<br /> 7日 宇都宮-矢板-宇都宮(塩谷郡泉村 松原山)<br /> 9日 宇都宮-宝積寺-宇都宮(塩谷郡阿久津村)<br />10日 宇都宮-氏家 宝積寺-岡本(陸奥街道閲兵、鬼怒川右岸諸部隊閲兵)<br />11日 宇都宮-上野<br /><br />明治天皇の御召車として使用された車輌は、明治31年(1898年)10月20日新橋工場製第3号御料車である。<br />該車両は、全長16129mm、車幅2438mmの2軸式ボギー式木造車で、車体は漆塗装暗紅色で、台車は新製時は1676mmの短軸式を装着したが、乗心地改善の為に、明治末期に2438mmの明治43年式台車に換装された。<br />大正中期に開放デッキを密閉デッキに改造したが、他御料車と比較して、小形だった事から、建築限界の関係で大型車たる御料車6号が入線困難な地方路線で重要視され、当時皇太子だった 第124代 昭和(しょうわ)天皇(明治34年(1901年)4月29日~昭和64年(1989年)1月7日)(昭和元年(1926年)12月25日~昭和64年(1989年)1月7日御在位)が、大正7年(1918年)7月の北海道巡幸時にも使用された。<br />第123代 大正(たいしょう)天皇(明治12年(1879年)8月31日~大正15年(1926年)12月25日)(大正元年(1912年)7月29日~大正15年(1926年)12月25日御在位)が葉山御用邸に於いて崩御され、同月27日に東京に還幸時に車内外一部を改造し、外部は暗黒色となり霊柩車として逗子-原宿間に於いて使用後、昭和4年(1929年)5月に一旦廃車となった。<br />然るに、貞明(ていめい)皇太后(明治17年(1884年)6月25日~昭和26年(1951年)5月17日)御薨去時に霊柩車として使用の為に、真空制動機を空気制動機に交換し、車籍復活され御料車13号となり、原宿-東淺川間に於いて霊柩列車として使用された。<br />昭和天皇御霊移送使用時を想定し、極秘裏に昭和63年(1988年)11月に車籍が再復活したが、政府での検討結果、多摩御陵への御霊移送は自動車に依る事となり、結局使用されぬまま、平成元年(1989年)3月に廃車手続が執行されたが解体されず、更に、将来の使用を前提にしている事から、賢所車と共に大宮鉄道博物館収納車輌対象から外され、現在も東京某所に於いて厳重に保管されている。<br /><br /><br />明治30年(1897年)該区間開通時架橋の鬼怒川橋梁は、開通後も鬼怒川増水を原因として度々支障事故が発生したが、大正期に、当時の内務省土木局に依り東鬼怒川を本流とする河川改修工事、及び、次世代大型蒸気機関車 18900型(C51型)、及び、9900型(D50型)導入計画に依り荷重不足が判明し、抜本的対策を迫られた事から、内閣鐵道院は、架替を決定した。<br />新橋梁は、既成橋梁下流約10m地点に架橋され、新橋梁は大正8年(1919年)に竣工し、既成橋梁は橋桁のみ撤去されたが、橋脚は平成3年(1991年)頃まで残存してた。<br /><br />東京鐵道管理局は、上野運転事務所に於ける秋葉原-宇都宮間管轄だったが、官制改正に拠り、大正7年(1918年)4月1日附で、宇都宮運転事務所が設置され、従来は、岡本以北は福島運転事務所管轄だったものが、該日より上野、及び、福島運転事務所管轄から小山-白河間が宇都宮管轄に変更された。<br /><br /><br />宇都宮地区に於ける気動車配置は意外に遅く、昭和9年(1934年)8月15日附でキハ41000型数車配置に依る宇都宮-烏山間運転が嚆矢であるが、車輌絶対数不足から、小山-宇都宮間、宇都宮‐矢板間等々には運転されなかった。<br /><br />更に、当時の気動車は、現在の如きディーゼル機関搭載では無くガソリン機関搭載の為に、機関音は静かながら出力が弱く日光線の如き25/1000‰連続急勾配区間での使用は不可能だった。<br /><br /><br />宇都宮-宝積寺間は、烏山線列車のみならず当時は貨物列車が多数運転され、宇都宮航空廠設置の為に貨物列車運転が増加し長編成化し、通票の交換が容易な状態では無くなっていた事から、列車本数多数を理由に、昭和16年(1941年)5月1日附で、該区間は従来の通票閉塞式から単線自動閉塞式に変更された。<br />当時、鐵道省路線で単線自動閉塞式採用区間は房総東線(現 外房線)千葉-蘇我間に次いで全国2例目だった。<br /><br /><br />陸軍省は、昭和15年(1940年)に宝積寺至近地たる鐺山地区に宇都宮陸軍航空廠開設を決定した事から、陸軍省は鐵道省に対し、宝積寺-鐺山間11.7kmの清原陸軍専用鉄道敷設を要請して来た事から、該工事を昭和17年(1942年)1月に着工し同年11月1日に竣工し、試運転後、同月6日より、キハ41000型ガソリン動車2両を使用して職員輸送を開始したが、折から、大東亜戦争開戦後にも拘らず、航空廠と云う独自の立場が有利に作用し、該戦争終戦に至るまで、帝国陸軍保有の貴重なガソリン提供を受け、該車輌は他車の如く代用燃料車に改造される事も無く、戦争末期にガソリン保有が枯渇した時期に於いてすら純然たるガソリン動車として使用された。<br /><br />大東亜戦争末期、サイパン島失陥に依る我が国への大型爆撃機が往復飛行が容易になった事で、空襲被害が現実味を帯びてきた。<br /><br />宇都宮機関区では配置機関車疎開の為に、岡本駅至近地に防護覆を設置し完成したが使用開始前に終戦になった。<br /><br /><br />大東亜戦争中、該区間に於ける空襲被害は、昭和20年(1945年)7月21日の宇都宮大空襲時に被害は発生しなかったが、同年同月30日に、該線宝積寺駅構内に於いて、P51型戦闘機に依る機銃掃射が原因で、該駅停車中の蒸気機関車1両が被弾し、6名即死の被害が発生した。<br /><br /><br />大東亜戦争後、遊休地化した宇都宮陸軍航空工廠、清原飛行場、軍馬補充部跡地は開拓地として開放され、旧陸海軍人、旧満州、旧朝鮮外地引揚者家族を中心に、昭和20年(1945年)より昭和38年(1963年9にかけて求職者が最終的に65開拓団計約1500名が入植したが、元来、水利が著しく無い地域故に、農生産物生育には不適当で、寧ろ酪農が中心となった。<br /><br />該地は、昭和30年代後半より清原工業団地として成立発展するに至る。<br /><br /><br />該線宇都宮以北区間はに於ける近代化導入は、昭和16年(1941年)5月1日に宇都宮-宝積寺間が単線自動閉塞式導入以外、何ら進展が無く、他線と比較して送れた感が否めなかったが、昭和33年(1958年)12月10日に宝積寺-東那須野(現 那須塩原)間に単線自動閉塞式が導入され、更に、該区間電化は、宇都宮-宝積寺間が昭和34年(1959年)12月12日に複線化工事と同時に直流1500V化されたが、該区間軌条を長尺2000m軌条に交換し、架線も網目架線を吊張させたが、此れは、昭和39年(1964年)10月に開業予定の東海道新幹線に於いて使用する高速化実験も兼ねていた。<br /><br />該区間複線化は、<br /> 昭和34年12月12日 宇都宮-岡本間<br /> 昭和36年12月 5日 岡本-宝積寺間<br /> 昭和37年 3月19日 宝積寺-氏家間<br /><br /><br />該駅区間内駅本屋建築物は、既に鉄筋コンクリート建の氏家駅を除き、岡本、宝積寺両駅共に、平成20年代に建替られ橋上駅化された。<br /><br /><br /><br />表紙写真は、<br />岡本-宝積寺間 大正6年(1917年)架橋 鬼怒川(きぬがわ)橋梁<br /><br /><br /><br /><br />東北本線歴史的痕跡探記<br />~東京-上野間編 大正浪漫~<br />http://4travel.jp/travelogue/10719577<br />~上野駅編~<br /><br />~上野-田端-赤羽間編 明治頌歌~<br /><br />~王子赤羽貨物支線編~<br /><br />~赤羽-大宮間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10685059<br />~大宮-栗橋間編 明治頌歌~<br /><br />~栗橋-小山間編 明治頌歌~<br /><br />~小山-宇都宮間編 明治頌歌~<br /><br />~宇都宮-長久保-片岡間編(廃止線) 明治頌歌~<br /><br />~宇都宮-宝積寺-氏家間編(現行線) 明治頌歌~<br />https://4travel.jp/travelogue/11161745<br />~氏家-矢板間編 明治頌歌~<br /><br />~矢板-黒磯間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/11164646<br />~黒磯-黒田原-白河間編(廃止線) 明治頌歌~<br /><br />~黒磯-黒田原-白河間編(現行線) 大正浪漫~<br /><br />~白河駅編 大正浪漫~<br />http://4travel.jp/travelogue/10587375<br />~白河-須賀川間編(廃止線) 明治頌歌~<br /><br />~白河-須賀川間編(現行線) 大正浪漫~

東北本線歴史的痕跡探訪記 ~宇都宮-宝積寺-氏家間(現行線)編 明治頌歌~

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2016/09/05 - 2016/09/05

1位(同エリア63件中)

横浜臨海公園

横浜臨海公園さん

該区間は、明治30年(1897年)2月25日開通である。


宇都宮-矢板間開通当時は、現行路線とは異なり、宇都宮から北進し、古田を経由し、鬼怒川本流中流域たる、西鬼怒川、及び、東鬼怒川を渡河し矢板に直行する形態だったが、当時の我が国に於ける大河川鉄道橋梁架橋技術は黎明期であり、故に、未知数な要素を有していた事も原因で、該区間開通直後より橋梁支障事故が頻発し、該社は困惑の立場に置かれる事となった。

鬼怒川は、該県逆木地区に於いて東西に分水状態になるが、明治初期は、東鬼怒川が本流、西鬼怒川は支流であり、故に、西鬼怒川水量は少量とされたが、然るに、明治10年代に度々洪水が頻発した為に、東鬼怒川は高河床化した事で水量は減少した反面、西鬼怒川水量は増大した事で、明治15年(1882年)には、明治初期の状態と逆転し西鬼怒川が本流化するに至らしめた。

即ち、該河川増水の都度、該両橋梁に異状を発生させ、殊に、明治23年(1890年)9月発生の大水害に依り、西鬼怒川橋梁橋脚に傾斜被害が発生した事で、該社は逆木に刎堰を設置したが、翌々年たる明治25年(1892年)12月の栃木県第15回通常縣会に於いて、第5代知事 折田平内(おりた へいない)(弘化3年(1847年)1月23日~明治38年(1905年)5月7日)(明治22年(1889年)12月24日~明治27年(1894年)1月20日在任)に対し 日本鐵道會社ニ許可セル件 なる動議が暴露され問題が表面化する。

他方、該社は、該橋梁保全の為に再三に亘り資金投入を強いられた事で、抜本的対策として、内務省土木局御雇オランダ国籍外国人技師 ヨハネス・デ・レーケ(Johannis de RIJKE)(1842年(天保13年)12月5日~1913年(大正2年)1月20日)を招聘し、現地調査依頼をした処、橋脚安固化の為には10数万円を要し、且つ、永久の安全は困難との結果報告を得た事から、該社は、該橋梁維持方針を放棄し、改めて、明治27年(1894年)8月に現地測量を実施し、該河川渡河位置を慎重に検討した処、翌明治28年(1895年)1月31日附で現行路線が決定された。

該西東河川合流地点に新橋梁を架橋すべく、明治28年(1895年)7月16日附で、該社第3代社長 小野義眞(おの よしざね)(天保10年(1839年)5月29日~明治38年(1905年)5月9日)(明治25年(1892年)3月1日~明治31年(1898年)4月6日在任)より、第5代第Ⅱ次 伊藤博文内閣(いとう ひろぶみ)(天保12年(1841年)10月16日~明治42年(1909年)10月26日)(明治25年(1892年)8月8日~明治29年(1896年)9月18日組閣) 第4代逓信大臣 渡邊國武(わたなべ くにたけ)(弘化2年(1846年)3月29日~大正8年(1919年)5月11日)(明治28年(1895年)3月17日~同年10月9日在任)に対し路線変更願書を提出し、逓信省は該文書を審議した結果、同年10月22日附文書で、並行国道経路変更を条件に許可された。

鬼怒川は旧橋梁位置より下流域で渡河したが、該橋梁構桁は、西鬼怒川橋梁架橋の構桁を転用活用した。

該新線は、明治30年(1897年)2月25日に開通したが、該河川の自然の驚異には如何ともしがたく、翌々年たる明治32年(1899年)7月22日には、大雨に依る大増水の為に該橋梁2橋脚基部が沈下する事態になった。


鐵道唱歌
第14番
瀧は華厳の音たかく
(たきは けごんの おとたかく)
百雷谷に咆え叫ぶ
(ひゃくらい たにに ほえさけぶ)
裏見霧降とりどりに
(うらみ きりふり とりどりに)
霧よりおつる物すごさ♪
(きりより おつる ものすごさ)


帝國陸軍第14師団は、日露戦争(にちろせんそう)(明治37年(1904年)2月8日~明治38年(1905年)9月5日)勃発に伴い、明治38年(1905年)4月に編成されたが、該戦争後、陸軍省決定に拠り、明治40年(1907年)9月に宇都宮移駐が決定し、該決定に基き翌明治41年(1908年)3月より明治42年(1909年)5月末迄に移駐が完了した。

帝國陸軍は、宇都宮を拠点とする第14師団を衛戍地として秋季特別大演習を、明治42年(1909年)11月6日より同月10日に至る5日間実施した。

南軍: 第13、14師団、後備歩兵第3旅団、騎兵第2旅団
  兵力計21446名 馬匹3467頭
 指揮官 軍事参議官 陸軍大将 西 寛二郎(にし かんじろう)(弘化3年(1846年)4月5日~明治45年(1912年)1月27日)
北軍: 第2、7、8師団、騎兵第1旅団
  兵力計26772名 馬匹4519頭
 指揮官 軍事参議官 陸軍大将 長谷川好古(はせがわ よしふる)(嘉永3年(1850年)10月1日~大正13年(1924年)1月27日)

当時は第2次日英同盟条約(ANGLO-JAPAN ALLIANCE)が有効全盛期であり、外国武官として来日中の 英陸軍元帥 ホレイショ・ハーバート・キッチナー(Horatio Herbert KITCHENER)(1850年(嘉永3年)10月1日~1916年(大正5年)6月5日)が該戦技を観戦した。

第122代 明治(めいじ)天皇(嘉永5年(1852年)11月3日~明治45年(1912年)7月29日)(慶應3年(1867年)1月30日~明治45年(1912年)7月29日御在位)が大元帥として特別大演習統裁の為に、栃木県北部に於いて下記の御召列車が運転された。

 5日 上野-宇都宮(大本営 栃木縣庁)
 6日 宇都宮-黒磯-宇都宮(塩谷郡高久村 愛宕山)
 7日 宇都宮-矢板-宇都宮(塩谷郡泉村 松原山)
 9日 宇都宮-宝積寺-宇都宮(塩谷郡阿久津村)
10日 宇都宮-氏家 宝積寺-岡本(陸奥街道閲兵、鬼怒川右岸諸部隊閲兵)
11日 宇都宮-上野

明治天皇の御召車として使用された車輌は、明治31年(1898年)10月20日新橋工場製第3号御料車である。
該車両は、全長16129mm、車幅2438mmの2軸式ボギー式木造車で、車体は漆塗装暗紅色で、台車は新製時は1676mmの短軸式を装着したが、乗心地改善の為に、明治末期に2438mmの明治43年式台車に換装された。
大正中期に開放デッキを密閉デッキに改造したが、他御料車と比較して、小形だった事から、建築限界の関係で大型車たる御料車6号が入線困難な地方路線で重要視され、当時皇太子だった 第124代 昭和(しょうわ)天皇(明治34年(1901年)4月29日~昭和64年(1989年)1月7日)(昭和元年(1926年)12月25日~昭和64年(1989年)1月7日御在位)が、大正7年(1918年)7月の北海道巡幸時にも使用された。
第123代 大正(たいしょう)天皇(明治12年(1879年)8月31日~大正15年(1926年)12月25日)(大正元年(1912年)7月29日~大正15年(1926年)12月25日御在位)が葉山御用邸に於いて崩御され、同月27日に東京に還幸時に車内外一部を改造し、外部は暗黒色となり霊柩車として逗子-原宿間に於いて使用後、昭和4年(1929年)5月に一旦廃車となった。
然るに、貞明(ていめい)皇太后(明治17年(1884年)6月25日~昭和26年(1951年)5月17日)御薨去時に霊柩車として使用の為に、真空制動機を空気制動機に交換し、車籍復活され御料車13号となり、原宿-東淺川間に於いて霊柩列車として使用された。
昭和天皇御霊移送使用時を想定し、極秘裏に昭和63年(1988年)11月に車籍が再復活したが、政府での検討結果、多摩御陵への御霊移送は自動車に依る事となり、結局使用されぬまま、平成元年(1989年)3月に廃車手続が執行されたが解体されず、更に、将来の使用を前提にしている事から、賢所車と共に大宮鉄道博物館収納車輌対象から外され、現在も東京某所に於いて厳重に保管されている。


明治30年(1897年)該区間開通時架橋の鬼怒川橋梁は、開通後も鬼怒川増水を原因として度々支障事故が発生したが、大正期に、当時の内務省土木局に依り東鬼怒川を本流とする河川改修工事、及び、次世代大型蒸気機関車 18900型(C51型)、及び、9900型(D50型)導入計画に依り荷重不足が判明し、抜本的対策を迫られた事から、内閣鐵道院は、架替を決定した。
新橋梁は、既成橋梁下流約10m地点に架橋され、新橋梁は大正8年(1919年)に竣工し、既成橋梁は橋桁のみ撤去されたが、橋脚は平成3年(1991年)頃まで残存してた。

東京鐵道管理局は、上野運転事務所に於ける秋葉原-宇都宮間管轄だったが、官制改正に拠り、大正7年(1918年)4月1日附で、宇都宮運転事務所が設置され、従来は、岡本以北は福島運転事務所管轄だったものが、該日より上野、及び、福島運転事務所管轄から小山-白河間が宇都宮管轄に変更された。


宇都宮地区に於ける気動車配置は意外に遅く、昭和9年(1934年)8月15日附でキハ41000型数車配置に依る宇都宮-烏山間運転が嚆矢であるが、車輌絶対数不足から、小山-宇都宮間、宇都宮‐矢板間等々には運転されなかった。

更に、当時の気動車は、現在の如きディーゼル機関搭載では無くガソリン機関搭載の為に、機関音は静かながら出力が弱く日光線の如き25/1000‰連続急勾配区間での使用は不可能だった。


宇都宮-宝積寺間は、烏山線列車のみならず当時は貨物列車が多数運転され、宇都宮航空廠設置の為に貨物列車運転が増加し長編成化し、通票の交換が容易な状態では無くなっていた事から、列車本数多数を理由に、昭和16年(1941年)5月1日附で、該区間は従来の通票閉塞式から単線自動閉塞式に変更された。
当時、鐵道省路線で単線自動閉塞式採用区間は房総東線(現 外房線)千葉-蘇我間に次いで全国2例目だった。


陸軍省は、昭和15年(1940年)に宝積寺至近地たる鐺山地区に宇都宮陸軍航空廠開設を決定した事から、陸軍省は鐵道省に対し、宝積寺-鐺山間11.7kmの清原陸軍専用鉄道敷設を要請して来た事から、該工事を昭和17年(1942年)1月に着工し同年11月1日に竣工し、試運転後、同月6日より、キハ41000型ガソリン動車2両を使用して職員輸送を開始したが、折から、大東亜戦争開戦後にも拘らず、航空廠と云う独自の立場が有利に作用し、該戦争終戦に至るまで、帝国陸軍保有の貴重なガソリン提供を受け、該車輌は他車の如く代用燃料車に改造される事も無く、戦争末期にガソリン保有が枯渇した時期に於いてすら純然たるガソリン動車として使用された。

大東亜戦争末期、サイパン島失陥に依る我が国への大型爆撃機が往復飛行が容易になった事で、空襲被害が現実味を帯びてきた。

宇都宮機関区では配置機関車疎開の為に、岡本駅至近地に防護覆を設置し完成したが使用開始前に終戦になった。


大東亜戦争中、該区間に於ける空襲被害は、昭和20年(1945年)7月21日の宇都宮大空襲時に被害は発生しなかったが、同年同月30日に、該線宝積寺駅構内に於いて、P51型戦闘機に依る機銃掃射が原因で、該駅停車中の蒸気機関車1両が被弾し、6名即死の被害が発生した。


大東亜戦争後、遊休地化した宇都宮陸軍航空工廠、清原飛行場、軍馬補充部跡地は開拓地として開放され、旧陸海軍人、旧満州、旧朝鮮外地引揚者家族を中心に、昭和20年(1945年)より昭和38年(1963年9にかけて求職者が最終的に65開拓団計約1500名が入植したが、元来、水利が著しく無い地域故に、農生産物生育には不適当で、寧ろ酪農が中心となった。

該地は、昭和30年代後半より清原工業団地として成立発展するに至る。


該線宇都宮以北区間はに於ける近代化導入は、昭和16年(1941年)5月1日に宇都宮-宝積寺間が単線自動閉塞式導入以外、何ら進展が無く、他線と比較して送れた感が否めなかったが、昭和33年(1958年)12月10日に宝積寺-東那須野(現 那須塩原)間に単線自動閉塞式が導入され、更に、該区間電化は、宇都宮-宝積寺間が昭和34年(1959年)12月12日に複線化工事と同時に直流1500V化されたが、該区間軌条を長尺2000m軌条に交換し、架線も網目架線を吊張させたが、此れは、昭和39年(1964年)10月に開業予定の東海道新幹線に於いて使用する高速化実験も兼ねていた。

該区間複線化は、
昭和34年12月12日 宇都宮-岡本間
昭和36年12月 5日 岡本-宝積寺間
昭和37年 3月19日 宝積寺-氏家間


該駅区間内駅本屋建築物は、既に鉄筋コンクリート建の氏家駅を除き、岡本、宝積寺両駅共に、平成20年代に建替られ橋上駅化された。



表紙写真は、
岡本-宝積寺間 大正6年(1917年)架橋 鬼怒川(きぬがわ)橋梁




東北本線歴史的痕跡探記
~東京-上野間編 大正浪漫~
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~上野駅編~

~上野-田端-赤羽間編 明治頌歌~

~王子赤羽貨物支線編~

~赤羽-大宮間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10685059
~大宮-栗橋間編 明治頌歌~

~栗橋-小山間編 明治頌歌~

~小山-宇都宮間編 明治頌歌~

~宇都宮-長久保-片岡間編(廃止線) 明治頌歌~

~宇都宮-宝積寺-氏家間編(現行線) 明治頌歌~
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~氏家-矢板間編 明治頌歌~

~矢板-黒磯間編 明治頌歌~
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~黒磯-黒田原-白河間編(廃止線) 明治頌歌~

~黒磯-黒田原-白河間編(現行線) 大正浪漫~

~白河駅編 大正浪漫~
http://4travel.jp/travelogue/10587375
~白河-須賀川間編(廃止線) 明治頌歌~

~白河-須賀川間編(現行線) 大正浪漫~

旅行の満足度
4.5
観光
4.5
ホテル
5.0
グルメ
4.5
交通
4.5
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円 - 3万円
交通手段
高速・路線バス JRローカル 徒歩
旅行の手配内容
個別手配
  • 宇都宮駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />該駅は、明治18年(1885年)7月16日開業である。<br />当時の宇都宮は、奥州街道に於ける城下町であり、宿場町でもあったが、鉄道開通前年たる明治17年(1884年)1月21日附を以って、栃木縣庁が栃木町(現 栃木市)から宇都宮町(現 宇都宮市)に移転したが、此れは、当時、地租改正に不満を抱く者が、該県南部に於いて跋扈していた反政府運動たる自由民権運動と連携した事から、第3代縣令 三島通庸(みしま みちひろ)(天保6年(1835年)6月26日~明治21年(1888年)10月23日)(明治16年(1883年)10月30日~明治18年(1885年)1月22日在任)は、当時、宇都宮に駐屯していた帝國陸軍を背景とした暴動発生時に於ける即時鎮定を最大目的としていた。<br />因みに、該駅設置時、多数文献に宇都宮町が鉄道忌避を理由に、現在の田川東岸に追いやられ設置せざるを得なかったとの記述を散見するが、然し、現実の宇都宮町は住宅密集地であり、短期間で、且つ、該町中心地付近に容易に土地収用が可能だったのは該地しか有り得なかったと云うのが、けだし真相であろう。<br />該駅開設に鑑み、宇都宮町に於ける必要土地買収に対し、日本鐵道會社は栃木縣に業務を依託したが、土地収用に関して、栃木縣より当該地主に対し単に測量のみと称し事前通告し、実際には価格協定などせず、協力的態度の地主に対しては評価額相当金額を支払ったが、それに対し、土地買収に非協力的、殊に、自由民権運動賛同者の立場に在った地主に対し、三島縣令は、此れら非協力地主に対し、懲罰をも含め坪4円評価額地に対し坪10銭で強制買収し、更に、警察が身柄を拘引留置し有無を言わせなかった。<br />宇都宮は、該縣行政中心地となったばかりでは無く、該駅開業に依り、対東北交易中継地たる地位から北関東最大都市の発展基盤となった。<br />現在の東日本旅客鉄道日光線は、該社に対し、明治22年(1889年)10月31日附で宇都宮-日光間の建設許可免状が交付され、翌明治23年(1890)5月23日に宇都宮-今市間が竣工し、同年6月1日附で開業したのが嚆矢である。<br />日清戦争(にっしんせんそう)(明治27年(1891年)2月21日~明治28年(1895年)11月30日)勃発に伴い、軍事輸送に伴う該駅構内狭隘が問題となり、軍用列車運転に支障が頻発した事から、第6代栃木縣知事 佐藤 暢(さとう さとし)(嘉永3年(1853年)1月~明治43年(1910年)8月7日)(明治27年(1891年)1月20日~明治30年(1897年)4月7日在任)は、軍命令を根拠に土地収用法を適用し、必要用地を収用し該駅用地として無償供与した。<br />初代駅本屋は手狭になった事から、明治35年(1902年)4月に木造2階建に改築されたが、該駅本屋は、当時の京都鐵道社長 田中源太郎(たなか げんたろう)(嘉永6年(1853年)2月10日~大正11年(1922年)4月3日)が気に入り、該社二條駅本屋建築時にが同一図面を使用し造営された事で知られており、該社は政府買収後 山陰本線を形成する区間の一部となり、二條駅本屋は紆余曲折を経て該駅高架化工事着工まで現役として使用後、梅小路に移築され現存する。<br />更に、明治40年(1907年)9月に帝國陸軍第14師団司令本部が設置された事で、該町は軍都としての色彩をも強める。<br />大正3年(1914年)12月25日附で駅長室、貴賓室が増築され、更に、栃木縣格上の関係で、大正10年(1921年)11月1日附で、該県初の1等駅指定となった。<br />昭和20年(1945年)7月12日未明、該市は米戦略部隊B29爆撃機133機の攻撃を受け、該駅本屋他構内施設多数も被災全焼した。<br />大東亜戦争後、我が国に進駐した連合国軍は、我が国の鉄道利用を目的とする連合国職員、軍人、軍属、貨物移動を円滑化させる目的で主要駅にRTO設置を要求してきたが、該駅には、昭和20年(1945年)9月1日より昭和27年(1952年)6月1日に設置された。<br />昭和21年(1946年)3月10日に第3代駅本屋が再建されたが、急造したもので、文字通りバラック建築そのものだった。<br />地元から掘立小屋と揶揄された第3代駅本屋は、戦後の経済安定化と共に改築に機運が高まり、昭和33年(1958年)2月27日附で民衆駅として第4代駅本屋が完成した。<br />然し、限定された予算内での建築物だった事から、たちまち手狭状態になり、完成後、15年を経過せずして改築の動きが出て来た事から、昭和49年(1974年)11月1日附で第5代駅本屋が竣工したが、既に、該時点で全国新幹線設置に関する動きが存在した事から、事を性急にした嫌いがあり、事実、数年を経ずして後悔させられる。<br />即ち、東北新幹線設置に鑑み、宇都宮駅新幹線駅設置箇所に関し、地元は旧貨物取扱施設跡活用を希望したが、結果的に表口に新幹線通過が決定された為に、今度は5年で解体させられる破目になった。<br />現行駅本屋は第6代目で、昭和55年(1980年)6月10日竣工である。<br />他方、貨物取扱は一部限定を除き、昭和46年(1971年)12月1日附で、石橋-雀宮間に宇都宮貨物ターミナル駅が開業し、該駅貨物取扱業務の殆どが移設した。<br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=248<br /><br />

    宇都宮駅



    駅本屋
    該駅は、明治18年(1885年)7月16日開業である。
    当時の宇都宮は、奥州街道に於ける城下町であり、宿場町でもあったが、鉄道開通前年たる明治17年(1884年)1月21日附を以って、栃木縣庁が栃木町(現 栃木市)から宇都宮町(現 宇都宮市)に移転したが、此れは、当時、地租改正に不満を抱く者が、該県南部に於いて跋扈していた反政府運動たる自由民権運動と連携した事から、第3代縣令 三島通庸(みしま みちひろ)(天保6年(1835年)6月26日~明治21年(1888年)10月23日)(明治16年(1883年)10月30日~明治18年(1885年)1月22日在任)は、当時、宇都宮に駐屯していた帝國陸軍を背景とした暴動発生時に於ける即時鎮定を最大目的としていた。
    因みに、該駅設置時、多数文献に宇都宮町が鉄道忌避を理由に、現在の田川東岸に追いやられ設置せざるを得なかったとの記述を散見するが、然し、現実の宇都宮町は住宅密集地であり、短期間で、且つ、該町中心地付近に容易に土地収用が可能だったのは該地しか有り得なかったと云うのが、けだし真相であろう。
    該駅開設に鑑み、宇都宮町に於ける必要土地買収に対し、日本鐵道會社は栃木縣に業務を依託したが、土地収用に関して、栃木縣より当該地主に対し単に測量のみと称し事前通告し、実際には価格協定などせず、協力的態度の地主に対しては評価額相当金額を支払ったが、それに対し、土地買収に非協力的、殊に、自由民権運動賛同者の立場に在った地主に対し、三島縣令は、此れら非協力地主に対し、懲罰をも含め坪4円評価額地に対し坪10銭で強制買収し、更に、警察が身柄を拘引留置し有無を言わせなかった。
    宇都宮は、該縣行政中心地となったばかりでは無く、該駅開業に依り、対東北交易中継地たる地位から北関東最大都市の発展基盤となった。
    現在の東日本旅客鉄道日光線は、該社に対し、明治22年(1889年)10月31日附で宇都宮-日光間の建設許可免状が交付され、翌明治23年(1890)5月23日に宇都宮-今市間が竣工し、同年6月1日附で開業したのが嚆矢である。
    日清戦争(にっしんせんそう)(明治27年(1891年)2月21日~明治28年(1895年)11月30日)勃発に伴い、軍事輸送に伴う該駅構内狭隘が問題となり、軍用列車運転に支障が頻発した事から、第6代栃木縣知事 佐藤 暢(さとう さとし)(嘉永3年(1853年)1月~明治43年(1910年)8月7日)(明治27年(1891年)1月20日~明治30年(1897年)4月7日在任)は、軍命令を根拠に土地収用法を適用し、必要用地を収用し該駅用地として無償供与した。
    初代駅本屋は手狭になった事から、明治35年(1902年)4月に木造2階建に改築されたが、該駅本屋は、当時の京都鐵道社長 田中源太郎(たなか げんたろう)(嘉永6年(1853年)2月10日~大正11年(1922年)4月3日)が気に入り、該社二條駅本屋建築時にが同一図面を使用し造営された事で知られており、該社は政府買収後 山陰本線を形成する区間の一部となり、二條駅本屋は紆余曲折を経て該駅高架化工事着工まで現役として使用後、梅小路に移築され現存する。
    更に、明治40年(1907年)9月に帝國陸軍第14師団司令本部が設置された事で、該町は軍都としての色彩をも強める。
    大正3年(1914年)12月25日附で駅長室、貴賓室が増築され、更に、栃木縣格上の関係で、大正10年(1921年)11月1日附で、該県初の1等駅指定となった。
    昭和20年(1945年)7月12日未明、該市は米戦略部隊B29爆撃機133機の攻撃を受け、該駅本屋他構内施設多数も被災全焼した。
    大東亜戦争後、我が国に進駐した連合国軍は、我が国の鉄道利用を目的とする連合国職員、軍人、軍属、貨物移動を円滑化させる目的で主要駅にRTO設置を要求してきたが、該駅には、昭和20年(1945年)9月1日より昭和27年(1952年)6月1日に設置された。
    昭和21年(1946年)3月10日に第3代駅本屋が再建されたが、急造したもので、文字通りバラック建築そのものだった。
    地元から掘立小屋と揶揄された第3代駅本屋は、戦後の経済安定化と共に改築に機運が高まり、昭和33年(1958年)2月27日附で民衆駅として第4代駅本屋が完成した。
    然し、限定された予算内での建築物だった事から、たちまち手狭状態になり、完成後、15年を経過せずして改築の動きが出て来た事から、昭和49年(1974年)11月1日附で第5代駅本屋が竣工したが、既に、該時点で全国新幹線設置に関する動きが存在した事から、事を性急にした嫌いがあり、事実、数年を経ずして後悔させられる。
    即ち、東北新幹線設置に鑑み、宇都宮駅新幹線駅設置箇所に関し、地元は旧貨物取扱施設跡活用を希望したが、結果的に表口に新幹線通過が決定された為に、今度は5年で解体させられる破目になった。
    現行駅本屋は第6代目で、昭和55年(1980年)6月10日竣工である。
    他方、貨物取扱は一部限定を除き、昭和46年(1971年)12月1日附で、石橋-雀宮間に宇都宮貨物ターミナル駅が開業し、該駅貨物取扱業務の殆どが移設した。
    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=248

    宇都宮駅

  • 宇都宮-岡本間<br /><br /><br /><br />旧線分岐地点<br />明治30年(1897年)2月25日新線切替まで手前側を直進していた。<br /><br />宇都宮市今泉町471<br />東北本線宇都宮駅西口 関東交通自動車線今泉5丁目停留所降車 徒歩1分

    宇都宮-岡本間



    旧線分岐地点
    明治30年(1897年)2月25日新線切替まで手前側を直進していた。

    宇都宮市今泉町471
    東北本線宇都宮駅西口 関東交通自動車線今泉5丁目停留所降車 徒歩1分

  • 宇都宮-岡本間<br /><br /><br /><br />旧線分岐地点<br /><br />宇都宮市今泉町471<br />東北本線宇都宮駅西口 関東交通自動車線今泉5丁目停留所降車 徒歩1分

    宇都宮-岡本間



    旧線分岐地点

    宇都宮市今泉町471
    東北本線宇都宮駅西口 関東交通自動車線今泉5丁目停留所降車 徒歩1分

  • 宇都宮-岡本間<br /><br /><br /><br />旧線分岐地点<br />旧線は回転寿司店左側を通過直進した。<br /><br />宇都宮市今泉町471<br />東北本線宇都宮駅西口 関東交通自動車線今泉5丁目停留所降車 徒歩1分

    宇都宮-岡本間



    旧線分岐地点
    旧線は回転寿司店左側を通過直進した。

    宇都宮市今泉町471
    東北本線宇都宮駅西口 関東交通自動車線今泉5丁目停留所降車 徒歩1分

  • 宇都宮-岡本間<br /><br /><br /><br />新旧分岐点<br />然歩マンション横から岡本駅構内を除き鬼怒川橋梁手前まで直線コースが続く。<br /><br />宇都宮市今泉531<br />東北本線宇都宮駅西口 関東交通自動車線陽北中学校入口停留所降車 徒歩2分

    宇都宮-岡本間



    新旧分岐点
    然歩マンション横から岡本駅構内を除き鬼怒川橋梁手前まで直線コースが続く。

    宇都宮市今泉531
    東北本線宇都宮駅西口 関東交通自動車線陽北中学校入口停留所降車 徒歩2分

  • 宇都宮-岡本間<br /><br /><br /><br />第2今泉踏切<br />該線、東京起点108.7km付近から117.8km付近に至る区間は、岡本駅構内を除き全線直線区間で構築。<br />昭和34年(1959年)12月12日には、宇都宮-岡本間に新幹線使用を想定したロングレールを敷設使用した。<br />昭和57年(1982年)10月に東北新幹線、及び、上越新幹線開通に伴う在来線昼行優等列車廃止後は、当時の日本国有鉄道に於ける高速運転実験場として活用された。<br />因みに、日光線鶴田駅に隣接し存在した富士重工業宇都宮工場で製造された気動車、及び、客車の試運転は、宇都宮-矢板間で実施されていたが、特に民営直前たる昭和61年(1986年)製造の北海道用183系500番台特急用気動車にダイナミックブレーキを仮装着し、該区間に於いて140km試運転を実施した。<br /><br />宇都宮市今泉町1434<br />東北本線宇都宮駅西口 関東交通自動車線今泉8丁目停留所降車 徒歩3分

    宇都宮-岡本間



    第2今泉踏切
    該線、東京起点108.7km付近から117.8km付近に至る区間は、岡本駅構内を除き全線直線区間で構築。
    昭和34年(1959年)12月12日には、宇都宮-岡本間に新幹線使用を想定したロングレールを敷設使用した。
    昭和57年(1982年)10月に東北新幹線、及び、上越新幹線開通に伴う在来線昼行優等列車廃止後は、当時の日本国有鉄道に於ける高速運転実験場として活用された。
    因みに、日光線鶴田駅に隣接し存在した富士重工業宇都宮工場で製造された気動車、及び、客車の試運転は、宇都宮-矢板間で実施されていたが、特に民営直前たる昭和61年(1986年)製造の北海道用183系500番台特急用気動車にダイナミックブレーキを仮装着し、該区間に於いて140km試運転を実施した。

    宇都宮市今泉町1434
    東北本線宇都宮駅西口 関東交通自動車線今泉8丁目停留所降車 徒歩3分

  • 宇都宮‐岡本間<br /><br /><br /><br />第2今泉踏切<br />該踏切に於いて交通事故で親族を亡くした遺族が観音像を建立。<br /><br />宇都宮市今泉町52<br />東北本線宇都宮駅西口 東野交通自動車線今泉新町停留所降車 徒歩4分

    宇都宮‐岡本間



    第2今泉踏切
    該踏切に於いて交通事故で親族を亡くした遺族が観音像を建立。

    宇都宮市今泉町52
    東北本線宇都宮駅西口 東野交通自動車線今泉新町停留所降車 徒歩4分

  • 宇都宮‐岡本間<br /><br /><br /><br />療養所踏切<br />左手は岡本駅引込線跡<br /><br />宇都宮市下岡本町2238<br />東北本線岡本駅 東野交通自動車線岡本南台停留所降車 徒歩3分

    宇都宮‐岡本間



    療養所踏切
    左手は岡本駅引込線跡

    宇都宮市下岡本町2238
    東北本線岡本駅 東野交通自動車線岡本南台停留所降車 徒歩3分

  • 宇都宮‐岡本間<br /><br /><br /><br />療養所踏切<br />列車は烏山線直通 キハ40型ディーゼル動車、平成29年(2017年)3月時刻改正を以って運用廃止。<br />廃車処理されるまで何故か新型機関交換が無く、DMF15型の重苦しい機関音が聞けた。<br /><br />宇都宮市下岡本町2238<br />東北本線岡本駅 東野交通自動車線岡本南台停留所降車 徒歩3分

    宇都宮‐岡本間



    療養所踏切
    列車は烏山線直通 キハ40型ディーゼル動車、平成29年(2017年)3月時刻改正を以って運用廃止。
    廃車処理されるまで何故か新型機関交換が無く、DMF15型の重苦しい機関音が聞けた。

    宇都宮市下岡本町2238
    東北本線岡本駅 東野交通自動車線岡本南台停留所降車 徒歩3分

  • 岡本駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />該駅は、明治30年(1897年)2月25日開業である。<br />即ち、該区間開通時に於ける同時開業である。<br />明治42年(1909年)11月10日には、第122代 明治天皇(嘉永5年(1852年)11月3日~明治45年(1912年)7月29日)(慶應3年(1867年)1月30日~明治45年(1912年)7月29日御在位)が、栃木県北部に於いて実施された 帝國陸軍秋季特別大演習統裁の為に該駅に下車されたが、歴代天皇で該駅利用は該例のみである。<br />該駅付近には、昭和10年代より高崎製紙日光工場、三菱重工業宇都宮工場、等々<br />重化学工場が進出し、工場設置の都度、貨物取扱の為の専用線が設置された。<br />大東亜戦争後、連合国側に依る財閥解体の煽りを受け三菱重工業宇都宮工場は閉鎖の危機に見舞われたが、当時の運輸省鉄道総局の斡旋で該局大宮工機部岡本分工場として存続させた。<br />現在では殆どの工場が移転し、該駅に於ける貨物取扱業務は廃止された。<br />該駅第3番線は、折返機能が存在した為に、日光線鶴田駅に隣接し存在した富士重工業宇都宮工場で製造された日本国有鉄道宛鉄道車輌受領の為に、第1次試験運転線として鶴田-岡本間が利用され、該時に第3番線が活用され新車を垣間見る事も可能だった。<br />現駅本屋は、平成29年(2017年)7月1日に竣工。<br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=357<br />

    岡本駅



    駅本屋
    該駅は、明治30年(1897年)2月25日開業である。
    即ち、該区間開通時に於ける同時開業である。
    明治42年(1909年)11月10日には、第122代 明治天皇(嘉永5年(1852年)11月3日~明治45年(1912年)7月29日)(慶應3年(1867年)1月30日~明治45年(1912年)7月29日御在位)が、栃木県北部に於いて実施された 帝國陸軍秋季特別大演習統裁の為に該駅に下車されたが、歴代天皇で該駅利用は該例のみである。
    該駅付近には、昭和10年代より高崎製紙日光工場、三菱重工業宇都宮工場、等々
    重化学工場が進出し、工場設置の都度、貨物取扱の為の専用線が設置された。
    大東亜戦争後、連合国側に依る財閥解体の煽りを受け三菱重工業宇都宮工場は閉鎖の危機に見舞われたが、当時の運輸省鉄道総局の斡旋で該局大宮工機部岡本分工場として存続させた。
    現在では殆どの工場が移転し、該駅に於ける貨物取扱業務は廃止された。
    該駅第3番線は、折返機能が存在した為に、日光線鶴田駅に隣接し存在した富士重工業宇都宮工場で製造された日本国有鉄道宛鉄道車輌受領の為に、第1次試験運転線として鶴田-岡本間が利用され、該時に第3番線が活用され新車を垣間見る事も可能だった。
    現駅本屋は、平成29年(2017年)7月1日に竣工。
    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=357

    岡本駅

  • 岡本駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />近接<br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=357<br /><br />

    岡本駅



    駅本屋
    近接
    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=357

    岡本駅

  • 岡本駅<br /><br /><br /><br />改札口<br />直営時代は出札業務も存在したが、委託業務化時に出札業務は廃止された。<br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=357

    岡本駅



    改札口
    直営時代は出札業務も存在したが、委託業務化時に出札業務は廃止された。
    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=357

    岡本駅

  • 岡本駅<br /><br /><br /><br />西口<br />駅改築に依り設置。<br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=357

    岡本駅



    西口
    駅改築に依り設置。
    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=357

    岡本駅

  • 岡本駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム<br />中央錆色軌条が第3番線。<br />現在は使用停止。<br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=357

    岡本駅



    第2番ホーム
    中央錆色軌条が第3番線。
    現在は使用停止。
    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=357

    岡本駅

  • 岡本駅<br /><br /><br />高崎製紙日光工場専用線跡<br />嘗て該駅から該工場に至る3.1kmの専用鉄道が存在した。<br />通常、専用鉄道は短距離とされ、該専用鉄道の如き距離を有する例が少なく、それ故、該専用鉄道には専用機関車が存在した。<br />即ち、該専用鉄道開通時に準備された機関車は、1690型タンク式蒸気機関車1691号機で、出自は太田鐵道(現 東日本旅客鉄道水郡線)開通時に、米ピッツバーグ機関車製造会社(Pittsburg Locomotive Works)社に対し発注した品であり、内閣鐵道院買収後、五戸電気鐵道(現 南部バス)を経て用意されたものである。<br />昭和14年(1939年)11月16日附で鐵道省から該社に使用許可が下り、昭和16年(1941年)5月17日附で使用開始された。<br />但し、現実には世は日華事変最中の戦時体制下であり、使用開始は鐵道省の正式許可を待たずに無許可状態で使用開始したと云ふのが真相であろうと推定される。<br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=357<br />

    岡本駅


    高崎製紙日光工場専用線跡
    嘗て該駅から該工場に至る3.1kmの専用鉄道が存在した。
    通常、専用鉄道は短距離とされ、該専用鉄道の如き距離を有する例が少なく、それ故、該専用鉄道には専用機関車が存在した。
    即ち、該専用鉄道開通時に準備された機関車は、1690型タンク式蒸気機関車1691号機で、出自は太田鐵道(現 東日本旅客鉄道水郡線)開通時に、米ピッツバーグ機関車製造会社(Pittsburg Locomotive Works)社に対し発注した品であり、内閣鐵道院買収後、五戸電気鐵道(現 南部バス)を経て用意されたものである。
    昭和14年(1939年)11月16日附で鐵道省から該社に使用許可が下り、昭和16年(1941年)5月17日附で使用開始された。
    但し、現実には世は日華事変最中の戦時体制下であり、使用開始は鐵道省の正式許可を待たずに無許可状態で使用開始したと云ふのが真相であろうと推定される。
    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=357

    岡本駅

  • 岡本駅<br /><br /><br /><br />明治天皇駐驛之處<br />全景<br /><br />宇都宮市下岡本町1954<br />東北本線岡本駅東口 徒歩15秒

    岡本駅



    明治天皇駐驛之處
    全景

    宇都宮市下岡本町1954
    東北本線岡本駅東口 徒歩15秒

    岡本駅

  • 岡本駅<br /><br /><br /><br />明治天皇駐驛之處(めいじてんのう ちゅうたくのひ)<br />該石碑は、第122代 明治天皇(嘉永5年(1852年)11月3日~明治45年(1912年)7月29日)(慶應3年(1867年)1月30日~明治45年(1912年)7月29日御在位)が、明治42年(1909年)に帝國陸軍秋季特別大演習を統裁されるべく、同年11月10日に宝積寺から該駅まで御召列車で移動され、該駅下車後、馬車にて現地に於いて統裁されたが、此れを記念し、昭和12年(1937年)11月12日附で建立された。<br />碑文撰文は、該県出身 陸軍大将 奈良武次(なら たけつぐ)(慶應4年(1868年)4月28日~昭和37年(1962年)12月21日)。<br />因みに、明治天皇が統裁された地は、平出原と称する荒蕪地で帝国陸軍第14師団駐屯後は該師団演習場となっていたが、該地に於いて明治天皇の臨御を賜った事から、御幸が原(みゆきがはら)と呼称される様になった。<br />即ち、現在の宇都宮市御幸町一帯である。<br /><br />宇都宮市下岡本町1954<br />東北本線岡本駅東口 徒歩15秒

    岡本駅



    明治天皇駐驛之處(めいじてんのう ちゅうたくのひ)
    該石碑は、第122代 明治天皇(嘉永5年(1852年)11月3日~明治45年(1912年)7月29日)(慶應3年(1867年)1月30日~明治45年(1912年)7月29日御在位)が、明治42年(1909年)に帝國陸軍秋季特別大演習を統裁されるべく、同年11月10日に宝積寺から該駅まで御召列車で移動され、該駅下車後、馬車にて現地に於いて統裁されたが、此れを記念し、昭和12年(1937年)11月12日附で建立された。
    碑文撰文は、該県出身 陸軍大将 奈良武次(なら たけつぐ)(慶應4年(1868年)4月28日~昭和37年(1962年)12月21日)。
    因みに、明治天皇が統裁された地は、平出原と称する荒蕪地で帝国陸軍第14師団駐屯後は該師団演習場となっていたが、該地に於いて明治天皇の臨御を賜った事から、御幸が原(みゆきがはら)と呼称される様になった。
    即ち、現在の宇都宮市御幸町一帯である。

    宇都宮市下岡本町1954
    東北本線岡本駅東口 徒歩15秒

    岡本駅

  • 岡本駅<br /><br /><br /><br />明治天皇駐驛之處<br />背面<br />解説文。<br /><br />宇都宮市下岡本町1954<br />東北本線岡本駅東口 徒歩15秒

    岡本駅



    明治天皇駐驛之處
    背面
    解説文。

    宇都宮市下岡本町1954
    東北本線岡本駅東口 徒歩15秒

    岡本駅

  • 岡本駅<br /><br /><br /><br />明治天皇駐驛之處<br />右側面<br /><br />宇都宮市下岡本町1954<br />東北本線岡本駅東口 徒歩15秒

    岡本駅



    明治天皇駐驛之處
    右側面

    宇都宮市下岡本町1954
    東北本線岡本駅東口 徒歩15秒

    岡本駅

  • 岡本駅<br /><br /><br /><br />第1白澤踏切<br />東京方<br />俯瞰<br /><br />宇都宮市下岡本町4262<br />東北本線岡本駅東口 徒歩3分

    岡本駅



    第1白澤踏切
    東京方
    俯瞰

    宇都宮市下岡本町4262
    東北本線岡本駅東口 徒歩3分

    岡本駅

  • 岡本-宝積寺間<br /><br /><br /><br />稲荷川(いなりがわ)・稲荷(いなり)架道橋<br />上り線側橋梁<br />全景<br /><br />宇都宮市東岡本町242<br />東北本線岡本駅東口 東野交通自動車線岡本鬼怒停留所降車 徒歩2分

    岡本-宝積寺間



    稲荷川(いなりがわ)・稲荷(いなり)架道橋
    上り線側橋梁
    全景

    宇都宮市東岡本町242
    東北本線岡本駅東口 東野交通自動車線岡本鬼怒停留所降車 徒歩2分

  • 岡本-宝積寺間<br /><br /><br />稲荷川橋梁<br />上り線側<br />全長12.90m<br /><br />宇都宮市東岡本町242<br />東北本線岡本駅東口 東野交通自動車線岡本鬼怒停留所降車 徒歩2分

    岡本-宝積寺間


    稲荷川橋梁
    上り線側
    全長12.90m

    宇都宮市東岡本町242
    東北本線岡本駅東口 東野交通自動車線岡本鬼怒停留所降車 徒歩2分

  • 岡本-宝積寺間<br /><br /><br /><br />稲荷川橋梁<br />上り線側<br />全景<br /><br />宇都宮市東岡本町242<br />東北本線岡本駅東口 東野交通自動車線岡本鬼怒停留所降車 徒歩2分

    岡本-宝積寺間



    稲荷川橋梁
    上り線側
    全景

    宇都宮市東岡本町242
    東北本線岡本駅東口 東野交通自動車線岡本鬼怒停留所降車 徒歩2分

  • 岡本-宝積寺間<br /><br /><br /><br />稲荷架道橋<br />上り線側<br /><br />宇都宮市東岡本町242<br />東北本線岡本駅東口 東野交通自動車線岡本鬼怒停留所降車 徒歩2分<br />

    岡本-宝積寺間



    稲荷架道橋
    上り線側

    宇都宮市東岡本町242
    東北本線岡本駅東口 東野交通自動車線岡本鬼怒停留所降車 徒歩2分

  • 岡本-宝積寺間<br /><br /><br /><br />稲荷川・稲荷架道橋<br />下り線側<br />昭和36年(1961年)12月5日開通時架橋。<br /><br />宇都宮市東岡本町242<br />東北本線岡本駅東口 東野交通自動車線岡本鬼怒停留所降車 徒歩3分

    岡本-宝積寺間



    稲荷川・稲荷架道橋
    下り線側
    昭和36年(1961年)12月5日開通時架橋。

    宇都宮市東岡本町242
    東北本線岡本駅東口 東野交通自動車線岡本鬼怒停留所降車 徒歩3分

  • 岡本-宝積寺間<br /><br /><br /><br />旧東北本線線路跡<br />明治30年(1897年)2月25日~大正6年(1917年)使用。<br />昨今まで旧築堤が存在したが、平成2年(1990年)に取崩され、現在では道路化された。<br /><br />宇都宮市東岡本町242<br />東北本線岡本駅東口 東野交通自動車線岡本鬼怒停留所降車 徒歩3分

    岡本-宝積寺間



    旧東北本線線路跡
    明治30年(1897年)2月25日~大正6年(1917年)使用。
    昨今まで旧築堤が存在したが、平成2年(1990年)に取崩され、現在では道路化された。

    宇都宮市東岡本町242
    東北本線岡本駅東口 東野交通自動車線岡本鬼怒停留所降車 徒歩3分

  • 岡本-宝積寺間<br /><br /><br /><br />鬼怒川(きぬがわ)橋梁<br />該橋は、明治30年(1897年)2月25日開通時の橋梁である。<br />全長m(ft)<br />初代橋梁は、C.A.W.ポーナル(C.A.W.POWNALL)(生没不詳)設計に依る、<br />英國パテントシャフト(PATENTSHAFT&AXLETREE Co.Ltd)社製<br />錬鐡製下路ダブルワーレントラス構桁28.8m(96ft)×10連<br />錬鐡製上路プレート・ガーダー桁  15.2m(50ft)×1連<br />が架橋された。<br />該橋梁架橋工事は明治28年(1897年)10月に着工し、構桁類は旧線西鬼怒川橋梁部材が転活用された。<br />該河川は洪水防止の為に、内務省土木局が治水工事施工が決定し、河川幅拡張、及び、堤防設置の為に、内閣鐵道院に対し橋梁架替、若しくは、橋梁延長要求が有った事から、内閣鐵道院は前者を選択し、大正6年(1917年)に橋梁架替を実施し、既成橋梁下流10m地点に、<br />全長482.9m(1901.1ft)<br />内閣鐵道院設計<br />東京石川嶋造船所製<br />米國型プレート・ガーダー桁   15.2m(50ft)×10連<br />米國型ポニー・ワーレントラス構桁29.7m(116.92ft)×10連<br />米国型プレート・ガーダー桁   15.2m(50ft)× 1連<br />が架橋された。<br />新橋梁は橋脚を高位置とした為に、東京方橋台を基点に上路プレート・ガーダー桁第1~8号は青森方に向かい連続10/1000‰登り勾配を形成する。<br />因みに、該橋梁架替時は、第1次世界大戦(だいいちじせかいたいせん)(大正3年(1914年)7月28日~大正7年(1918年)11月11日)中であり、当初計画では鋼材を米國より輸入し我が国で組立る予定だったが、当時、米國は中立政策を維持しつつ欧州連合国側に物資を供給していたが、同年4月6日に独逸、次いで同年12月にオーストリアに対し宣戦した事から鋼材輸出に余力が無いとして、同年、大統領令に拠り鋼材輸出が禁止された為に、急遽、国産製造に方針転換し、八幡製鉄所鋼材を使用し東京石川嶋造船所で製造された。<br />岡本-宝積寺間複線化工事に伴い、昭和36年(1961年)12月5日に新橋梁として、<br />全長485.7m<br />PCコンクリート製橋梁<br />が架橋され、該日より、新橋梁は下り線用になり、既成橋梁は上り線用になった。<br />既成橋梁プレート・ガーダー桁は老朽化を理由に、昭和40年(1965年)に国産新プレート・ガーダー桁に更新された。<br /><br />宇都宮市東岡本町無番地<br />東北本線岡本駅東口 東野交通自動車線岡本鬼怒停留所降車 徒歩6分

    岡本-宝積寺間



    鬼怒川(きぬがわ)橋梁
    該橋は、明治30年(1897年)2月25日開通時の橋梁である。
    全長m(ft)
    初代橋梁は、C.A.W.ポーナル(C.A.W.POWNALL)(生没不詳)設計に依る、
    英國パテントシャフト(PATENTSHAFT&AXLETREE Co.Ltd)社製
    錬鐡製下路ダブルワーレントラス構桁28.8m(96ft)×10連
    錬鐡製上路プレート・ガーダー桁  15.2m(50ft)×1連
    が架橋された。
    該橋梁架橋工事は明治28年(1897年)10月に着工し、構桁類は旧線西鬼怒川橋梁部材が転活用された。
    該河川は洪水防止の為に、内務省土木局が治水工事施工が決定し、河川幅拡張、及び、堤防設置の為に、内閣鐵道院に対し橋梁架替、若しくは、橋梁延長要求が有った事から、内閣鐵道院は前者を選択し、大正6年(1917年)に橋梁架替を実施し、既成橋梁下流10m地点に、
    全長482.9m(1901.1ft)
    内閣鐵道院設計
    東京石川嶋造船所製
    米國型プレート・ガーダー桁   15.2m(50ft)×10連
    米國型ポニー・ワーレントラス構桁29.7m(116.92ft)×10連
    米国型プレート・ガーダー桁   15.2m(50ft)× 1連
    が架橋された。
    新橋梁は橋脚を高位置とした為に、東京方橋台を基点に上路プレート・ガーダー桁第1~8号は青森方に向かい連続10/1000‰登り勾配を形成する。
    因みに、該橋梁架替時は、第1次世界大戦(だいいちじせかいたいせん)(大正3年(1914年)7月28日~大正7年(1918年)11月11日)中であり、当初計画では鋼材を米國より輸入し我が国で組立る予定だったが、当時、米國は中立政策を維持しつつ欧州連合国側に物資を供給していたが、同年4月6日に独逸、次いで同年12月にオーストリアに対し宣戦した事から鋼材輸出に余力が無いとして、同年、大統領令に拠り鋼材輸出が禁止された為に、急遽、国産製造に方針転換し、八幡製鉄所鋼材を使用し東京石川嶋造船所で製造された。
    岡本-宝積寺間複線化工事に伴い、昭和36年(1961年)12月5日に新橋梁として、
    全長485.7m
    PCコンクリート製橋梁
    が架橋され、該日より、新橋梁は下り線用になり、既成橋梁は上り線用になった。
    既成橋梁プレート・ガーダー桁は老朽化を理由に、昭和40年(1965年)に国産新プレート・ガーダー桁に更新された。

    宇都宮市東岡本町無番地
    東北本線岡本駅東口 東野交通自動車線岡本鬼怒停留所降車 徒歩6分

  • 岡本-宝積寺間<br /><br /><br /><br />鬼怒川橋梁<br />東京方<br />上路プレート・ガーダー桁部<br />青森方から東京方に向い下り勾配を形成。<br /><br />宇都宮市東岡本町無番地<br />東北本線岡本駅東口 東野交通自動車線岡本鬼怒停留所降車 徒歩6分

    岡本-宝積寺間



    鬼怒川橋梁
    東京方
    上路プレート・ガーダー桁部
    青森方から東京方に向い下り勾配を形成。

    宇都宮市東岡本町無番地
    東北本線岡本駅東口 東野交通自動車線岡本鬼怒停留所降車 徒歩6分

  • 岡本-宝積寺間<br /><br /><br /><br />鬼怒川橋梁<br />上路プレート・ガーダー橋桁<br />初代架橋該桁は、昭和40年(1965年)に更改。<br /><br />宇都宮市東岡本町無番地<br />東北本線岡本駅東口 東野交通自動車線岡本鬼怒停留所降車 徒歩6分

    岡本-宝積寺間



    鬼怒川橋梁
    上路プレート・ガーダー橋桁
    初代架橋該桁は、昭和40年(1965年)に更改。

    宇都宮市東岡本町無番地
    東北本線岡本駅東口 東野交通自動車線岡本鬼怒停留所降車 徒歩6分

  • 岡本-宝積寺間<br /><br /><br /><br />鬼怒川橋梁<br />川流身中心<br /><br />宇都宮市東岡本町無番地<br />東北本線岡本駅東口 東野交通自動車線岡本鬼怒停留所降車 徒歩6分

    岡本-宝積寺間



    鬼怒川橋梁
    川流身中心

    宇都宮市東岡本町無番地
    東北本線岡本駅東口 東野交通自動車線岡本鬼怒停留所降車 徒歩6分

  • 岡本-宝積寺間<br /><br /><br /><br />鬼怒川橋梁<br />ポニー・ワーレントラス構桁<br />29.7m×9連<br /><br />宇都宮市東岡本町無番地<br />東北本線岡本駅東口 東野交通自動車線岡本鬼怒停留所降車 徒歩6分

    岡本-宝積寺間



    鬼怒川橋梁
    ポニー・ワーレントラス構桁
    29.7m×9連

    宇都宮市東岡本町無番地
    東北本線岡本駅東口 東野交通自動車線岡本鬼怒停留所降車 徒歩6分

  • 岡本-宝積寺間<br /><br /><br /><br />鬼怒川橋梁<br />初代橋梁は上流側10m位置に架橋されたが、上野方が築堤接続形式だったのに対し、青森方は河岸段丘接続形式で現用上下線橋梁も同様。<br /><br />宇都宮市東岡本町無番地<br />東北本線岡本駅東口 東野交通自動車線岡本鬼怒停留所降車 徒歩6分

    岡本-宝積寺間



    鬼怒川橋梁
    初代橋梁は上流側10m位置に架橋されたが、上野方が築堤接続形式だったのに対し、青森方は河岸段丘接続形式で現用上下線橋梁も同様。

    宇都宮市東岡本町無番地
    東北本線岡本駅東口 東野交通自動車線岡本鬼怒停留所降車 徒歩6分

  • 岡本-宝積寺間<br /><br /><br /><br />鬼怒川橋梁<br />米國製 ポニー・ワーレントラス構桁<br />正面<br /><br />塩谷郡高根沢町宝積寺無番地<br />東北本線岡本駅東口 東野交通自動車線石神停留所降車 徒歩6分

    岡本-宝積寺間



    鬼怒川橋梁
    米國製 ポニー・ワーレントラス構桁
    正面

    塩谷郡高根沢町宝積寺無番地
    東北本線岡本駅東口 東野交通自動車線石神停留所降車 徒歩6分

  • 岡本-宝積寺間<br /><br /><br /><br />鬼怒川橋梁<br />下り線用橋梁<br />PCコンクリート製<br />昭和36年(1961年)12月5日開通。<br /><br />宇都宮市東岡本町無番地<br />東北本線岡本駅東口 東野交通自動車線岡本鬼怒停留所降車 徒歩5分<br />

    岡本-宝積寺間



    鬼怒川橋梁
    下り線用橋梁
    PCコンクリート製
    昭和36年(1961年)12月5日開通。

    宇都宮市東岡本町無番地
    東北本線岡本駅東口 東野交通自動車線岡本鬼怒停留所降車 徒歩5分

  • 岡本-宝積寺間<br /><br />石神(いしがみ)跨線橋<br />東京方<br /><br />塩谷郡高根沢町宝積寺1600<br />東北本線岡本駅 東野交通自動車線石神停留所降車8分

    岡本-宝積寺間

    石神(いしがみ)跨線橋
    東京方

    塩谷郡高根沢町宝積寺1600
    東北本線岡本駅 東野交通自動車線石神停留所降車8分

  • 岡本-宝積寺間<br /><br /><br />石神跨線橋<br />東京方<br />現在の技術であれば全部隧道設置で対処。<br />当時の隧道技術では時間を要する為に開削工法で対処。<br />切取に対し元来存在した道路利用者の為に跨線橋を設置。<br />煉瓦積の優雅なものだったが、複線化時に一部損壊。<br />老朽化の為に隧道調に更改。<br />側面両側に煉瓦積構造が残存。<br /><br />塩谷郡高根沢町宝積寺1600<br />東北本線岡本駅 東野交通自動車線石神停留所降車8分

    岡本-宝積寺間


    石神跨線橋
    東京方
    現在の技術であれば全部隧道設置で対処。
    当時の隧道技術では時間を要する為に開削工法で対処。
    切取に対し元来存在した道路利用者の為に跨線橋を設置。
    煉瓦積の優雅なものだったが、複線化時に一部損壊。
    老朽化の為に隧道調に更改。
    側面両側に煉瓦積構造が残存。

    塩谷郡高根沢町宝積寺1600
    東北本線岡本駅 東野交通自動車線石神停留所降車8分

  • 岡本-宝積寺間<br /><br /><br />石神跨線橋<br />東京方<br />両側に僅かに煉瓦積構造が見える。<br /><br />塩谷郡高根沢町宝積寺1600<br />東北本線岡本駅 東野交通自動車線石神停留所降車8分

    岡本-宝積寺間


    石神跨線橋
    東京方
    両側に僅かに煉瓦積構造が見える。

    塩谷郡高根沢町宝積寺1600
    東北本線岡本駅 東野交通自動車線石神停留所降車8分

  • 岡本-宝積寺間<br /><br /><br />石神跨線橋<br />青森方<br /><br />塩谷郡高根沢町宝積寺1600<br />東北本線岡本駅 東野交通自動車線石神停留所降車8分

    岡本-宝積寺間


    石神跨線橋
    青森方

    塩谷郡高根沢町宝積寺1600
    東北本線岡本駅 東野交通自動車線石神停留所降車8分

  • 岡本-宝積寺間<br /><br /><br />石神跨線橋<br />青森方<br /><br />塩谷郡高根沢町宝積寺1600<br />東北本線岡本駅 東野交通自動車線石神停留所降車8分

    岡本-宝積寺間


    石神跨線橋
    青森方

    塩谷郡高根沢町宝積寺1600
    東北本線岡本駅 東野交通自動車線石神停留所降車8分

  • 岡本-宝積寺間<br /><br /><br /><br />烏山街道踏切<br />青森方<br />俯瞰<br /><br />塩谷郡高根沢町宝積寺2367<br />東北本線宝積寺駅西口 徒歩3分

    岡本-宝積寺間



    烏山街道踏切
    青森方
    俯瞰

    塩谷郡高根沢町宝積寺2367
    東北本線宝積寺駅西口 徒歩3分

  • 宝積寺(ほうしゃくじ)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、明治32年(1899年)10月21日開業である。<br />日華事変(にっか じへん)(昭和12年(1937年)7月8日~昭和16年(1941年)12月7日)中たる昭和15年(1940年)は、帝國陸軍は清原地区に飛行場と共に航空工廠設置の為に、該区間に陸軍専用鉄道線宝積寺-鐺山間11.7km建設を決定し、昭和17年(1942年)1月に着工し同年11月1日に完成し鐵道省東京鐵道局宇都宮管理部は帝國陸軍から供与されたガソリンを使用し、該区間にキハ41000型ガソリン動車を導入し、同月6日より、軍人、工員輸送に使用した。<br />該駅は、昭和20年(1945年)7月30日には、P51米艦載機の機銃掃射攻撃を受け蒸気機関車1両小破、6名が死傷する被害を受けた。<br />該専用線は地元から再用すべく働きかけが有ったが、昭和25年(1950年)10月10日迄に全線撤去された。<br />該駅本屋は長らく開業以来の建築を使用していたが、平成20年(2008年)に解体され、現在は、建築家 隅 研吾(くま けんご)(昭和29年(1954年)8月8日~   )設計の第2代駅本屋が竣功し、ブルネイ賞建築部門賞を受賞。<br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1398#_ga=2.158599994.1243045117.1506474895-1284462920.1506474895

    宝積寺(ほうしゃくじ)駅



    該駅は、明治32年(1899年)10月21日開業である。
    日華事変(にっか じへん)(昭和12年(1937年)7月8日~昭和16年(1941年)12月7日)中たる昭和15年(1940年)は、帝國陸軍は清原地区に飛行場と共に航空工廠設置の為に、該区間に陸軍専用鉄道線宝積寺-鐺山間11.7km建設を決定し、昭和17年(1942年)1月に着工し同年11月1日に完成し鐵道省東京鐵道局宇都宮管理部は帝國陸軍から供与されたガソリンを使用し、該区間にキハ41000型ガソリン動車を導入し、同月6日より、軍人、工員輸送に使用した。
    該駅は、昭和20年(1945年)7月30日には、P51米艦載機の機銃掃射攻撃を受け蒸気機関車1両小破、6名が死傷する被害を受けた。
    該専用線は地元から再用すべく働きかけが有ったが、昭和25年(1950年)10月10日迄に全線撤去された。
    該駅本屋は長らく開業以来の建築を使用していたが、平成20年(2008年)に解体され、現在は、建築家 隅 研吾(くま けんご)(昭和29年(1954年)8月8日~   )設計の第2代駅本屋が竣功し、ブルネイ賞建築部門賞を受賞。
    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1398#_ga=2.158599994.1243045117.1506474895-1284462920.1506474895

    宝積寺駅

  • 宝積寺駅<br /><br /><br />西口<br />背後<br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1398#_ga=2.158599994.1243045117.1506474895-1284462920.1506474895

    宝積寺駅


    西口
    背後
    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1398#_ga=2.158599994.1243045117.1506474895-1284462920.1506474895

    宝積寺駅

  • 宝積寺駅<br /><br /><br /><br />連絡通路

    宝積寺駅



    連絡通路

    宝積寺駅

  • 宝積寺駅<br /><br /><br /><br />東口<br />全景<br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1398#_ga=2.158599994.1243045117.1506474895-1284462920.1506474895<br />

    宝積寺駅



    東口
    全景
    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1398#_ga=2.158599994.1243045117.1506474895-1284462920.1506474895

    宝積寺駅

  • 宝積寺駅<br /><br /><br /><br />東口<br />正面出入口<br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1398#_ga=2.158599994.1243045117.1506474895-1284462920.1506474895<br />

    宝積寺駅



    東口
    正面出入口
    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1398#_ga=2.158599994.1243045117.1506474895-1284462920.1506474895

    宝積寺駅

  • 宝積寺駅<br /><br /><br /><br />下り線側<br />貨物取扱場跡<br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1398#_ga=2.158599994.1243045117.1506474895-1284462920.1506474895

    宝積寺駅



    下り線側
    貨物取扱場跡
    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1398#_ga=2.158599994.1243045117.1506474895-1284462920.1506474895

    宝積寺駅

  • 宝積寺駅<br /><br /><br />0番線跡<br />烏山線気動車発着に使用された。<br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1398#_ga=2.158599994.1243045117.1506474895-1284462920.1506474895<br />

    宝積寺駅


    0番線跡
    烏山線気動車発着に使用された。
    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1398#_ga=2.158599994.1243045117.1506474895-1284462920.1506474895

    宝積寺駅

  • 宝積寺駅<br /><br /><br /><br />宝積寺駅開業記念植樹桜<br />該駅開業時たる明治32年(1899年)10月21日に植樹された。<br />樹齢118年を経過し枯倒木が懸念。<br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1398#_ga=2.158599994.1243045117.1506474895-1284462920.1506474895<br /><br />塩谷郡高根沢町宝積寺2419<br />東北本線宝積寺駅西口 徒歩15秒

    宝積寺駅



    宝積寺駅開業記念植樹桜
    該駅開業時たる明治32年(1899年)10月21日に植樹された。
    樹齢118年を経過し枯倒木が懸念。
    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1398#_ga=2.158599994.1243045117.1506474895-1284462920.1506474895

    塩谷郡高根沢町宝積寺2419
    東北本線宝積寺駅西口 徒歩15秒

    宝積寺駅

  • 宝積寺駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム<br />全景<br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1398#_ga=2.158599994.1243045117.1506474895-1284462920.1506474895<br /><br /><br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1398

    宝積寺駅



    第1番ホーム
    全景
    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1398#_ga=2.158599994.1243045117.1506474895-1284462920.1506474895


    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1398

    宝積寺駅

  • 宝積寺駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム<br />全景<br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1398<br />

    宝積寺駅



    第1番ホーム
    全景
    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1398

    宝積寺駅

  • 宝積寺駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム<br />ホーム延長時の石積方式に相違<br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1398

    宝積寺駅



    第1番ホーム
    ホーム延長時の石積方式に相違
    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1398

    宝積寺駅

  • 宝積寺駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム<br />ホーム延長時の石積方式に相違<br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1398<br />

    宝積寺駅



    第1番ホーム
    ホーム延長時の石積方式に相違
    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1398

    宝積寺駅

  • 宝積寺駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム<br />全景<br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1398#_ga=2.158599994.1243045117.1506474895-1284462920.1506474895

    宝積寺駅



    第2番ホーム
    全景
    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1398#_ga=2.158599994.1243045117.1506474895-1284462920.1506474895

    宝積寺駅

  • 宝積寺駅<br /><br /><br /><br />烏山線<br />キロポスト起点。<br />烏山(からすやま)線は、大正12年’(1923年)4月15日に宝積寺-烏山間が開通。<br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1398#_ga=2.158599994.1243045117.1506474895-1284462920.1506474895

    宝積寺駅



    烏山線
    キロポスト起点。
    烏山(からすやま)線は、大正12年’(1923年)4月15日に宝積寺-烏山間が開通。
    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1398#_ga=2.158599994.1243045117.1506474895-1284462920.1506474895

    宝積寺駅

  • 宝積寺駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム<br />烏山線用列車。<br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1398

    宝積寺駅



    第2番ホーム
    烏山線用列車。
    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1398

    宝積寺駅

  • 宝積寺駅<br /><br /><br />清原陸軍専用線跡<br />11.7kmに亙る専用線起点部。<br />昭和17年(1942年)突貫工事に依り同年11月1日竣工。<br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1398#_ga=2.158599994.1243045117.1506474895-1284462920.1506474895<br /><br />塩谷郡高根沢町宝積寺2410<br />東北本線宝積寺駅東口 徒歩15秒

    宝積寺駅


    清原陸軍専用線跡
    11.7kmに亙る専用線起点部。
    昭和17年(1942年)突貫工事に依り同年11月1日竣工。
    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1398#_ga=2.158599994.1243045117.1506474895-1284462920.1506474895

    塩谷郡高根沢町宝積寺2410
    東北本線宝積寺駅東口 徒歩15秒

    宝積寺駅

  • 宝積寺駅<br /><br /><br /><br />上り線側<br />貨物取扱場跡<br />日本国有鉄道民営分割後は日本国有鉄道清算事業団所有地を経て、地元宝積寺町に払下げられた。<br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1398#_ga=2.158599994.1243045117.1506474895-1284462920.1506474895

    宝積寺駅



    上り線側
    貨物取扱場跡
    日本国有鉄道民営分割後は日本国有鉄道清算事業団所有地を経て、地元宝積寺町に払下げられた。
    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1398#_ga=2.158599994.1243045117.1506474895-1284462920.1506474895

    宝積寺駅

  • 宝積寺駅<br /><br /><br /><br />高根沢町商工会会館<br /><br />塩谷郡高根沢町宝積寺2416<br />東北本線宝積寺駅東口 徒歩15秒

    宝積寺駅



    高根沢町商工会会館

    塩谷郡高根沢町宝積寺2416
    東北本線宝積寺駅東口 徒歩15秒

    宝積寺駅

  • 宝積寺-氏家間<br /><br /><br /><br />東北原踏切<br />東京方<br />俯瞰<br /><br />塩谷郡高根沢町宝積寺2463<br />東北本線宝積寺駅西口 徒歩3分

    宝積寺-氏家間



    東北原踏切
    東京方
    俯瞰

    塩谷郡高根沢町宝積寺2463
    東北本線宝積寺駅西口 徒歩3分

  • 氏家(うじいえ)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、明治30年(1897年)2月25日開業である。<br />該駅設置に対し、村有志は3200円余を都合し6596坪の土地を無償提供した。<br />該駅初代駅本屋設置工事は明治29年(1890年)5月に着工した。<br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=221

    氏家(うじいえ)駅



    該駅は、明治30年(1897年)2月25日開業である。
    該駅設置に対し、村有志は3200円余を都合し6596坪の土地を無償提供した。
    該駅初代駅本屋設置工事は明治29年(1890年)5月に着工した。
    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=221

    氏家駅

  • 氏家駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />近接<br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=221

    氏家駅



    駅本屋
    近接
    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=221

    氏家駅

  • http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=221

    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=221

    氏家駅

  • 氏家駅<br /><br /><br /><br />油燈倉庫<br />財産票に拠れば明治42年(1909年)造営。<br />然るに、該造営物を精査すると、明らかに日本鐵道會社が明治20~30年代に該社沿線に多数設置した油燈庫の特徴を有し明治40年代造営物とは明らかに異なる。<br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=221

    氏家駅



    油燈倉庫
    財産票に拠れば明治42年(1909年)造営。
    然るに、該造営物を精査すると、明らかに日本鐵道會社が明治20~30年代に該社沿線に多数設置した油燈庫の特徴を有し明治40年代造営物とは明らかに異なる。
    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=221

    氏家駅

  • 氏家駅<br /><br /><br /><br />油燈倉庫<br />鉄道国有化に伴い、帝國鐵道庁は資産確認の為に、全国各地の動不動産確認作業を行ったが、私鉄当時に資産台帳に未登記の物件が多数存在した事から、改めて登記が明治42年(1909年)に行われたものと推定される。<br />財産標を鵜呑みにすると危険。<br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=221

    氏家駅



    油燈倉庫
    鉄道国有化に伴い、帝國鐵道庁は資産確認の為に、全国各地の動不動産確認作業を行ったが、私鉄当時に資産台帳に未登記の物件が多数存在した事から、改めて登記が明治42年(1909年)に行われたものと推定される。
    財産標を鵜呑みにすると危険。
    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=221

    氏家駅

  • 氏家駅<br /><br /><br /><br />油燈倉庫<br />財産票<br />明治42年(1909年)<br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=221

    氏家駅



    油燈倉庫
    財産票
    明治42年(1909年)
    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=221

    氏家駅

  • 氏家駅<br /><br /><br /><br />油燈倉庫<br />裏側<br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=221<br />

    氏家駅



    油燈倉庫
    裏側
    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=221

    氏家駅

  • 氏家駅<br /><br /><br /><br />油燈倉庫<br />煉瓦積状態。

    氏家駅



    油燈倉庫
    煉瓦積状態。

    氏家駅

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この旅行記へのコメント (4)

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  • S...t...e...Pha...n...i...Eさん 2018/02/02 22:56:27
    濁流ですね。。。
    横浜臨海公園さん、こんばんは!

    まさか、この橋を渡っていたとは全く思いもしませんでした・・・!
    でも同じ東北本線で必ず渡らなければならない橋ですから、絶対この橋ですね^^;
    あんなにキレイな眺めだったのに、鬼怒川も台風の後は濁流ですね。
    数年前、鬼怒川で大洪水が起きた時のことを思い出してしまいました。
    そういえばあの時、鬼怒川橋梁は無事だったんでしょうか?

    ところで、このあたりの駅はかなり建て替えられてるようですね。
    その中で氏家駅は当時の様子がまだのこってますね(*´ω`)!
    途中下車するならこの駅がいいなぁと思いながら読ませていただきました♪

    ステファニー

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2018/02/03 15:20:06
    拝復
    ステファニーさま、こんにちは。


    掲示板にコメントを賜りまして、誠に有難うございました。

    > まさか、この橋を渡っていたとは全く思いもしませんでした・・・!
    > でも同じ東北本線で必ず渡らなければならない橋ですから、絶対この橋ですね^^;
    > あんなにキレイな眺めだったのに、鬼怒川も台風の後は濁流ですね。
    →正に、そのマサカでした。

    > 数年前、鬼怒川で大洪水が起きた時のことを思い出してしまいました。
    > そういえばあの時、鬼怒川橋梁は無事だったんでしょうか?
    →ナントカ無事だったようです。
    あの界隈は、那須連山が上流域になっている河川が、大雨が降ると鉄砲水状態になるので、橋梁を管理する保線職場の方々が、気が休まらないと、こぼしておられました。

    > ところで、このあたりの駅はかなり建て替えられてるようですね。
    > その中で氏家駅は当時の様子がまだのこってますね(*´ω`)!
    →寧ろ、戦前の駅本屋なら矢板駅をお薦めします。
    尤も、本来は駅前広場に面して窓が多数存在したものが、平成になり、殆ど塞がれてしまってます。




    横浜臨海公園
  • frau.himmelさん 2017/10/15 20:53:39
    宇都宮-宝積寺-氏家間編 拝見して安堵いたしました
    横浜臨海公園さま、ご無沙汰しています。
    一か月ほど欧州に行っておりまして2,3日前に帰ってまいりました。
    さすがに今回の長旅は老体に堪えたらしく、まだ時差ボケでフラフラしております。

    その後お身体の方、いかがですか?
    体調があまりよくないとお聞きしていましたので心配しておりましたが、新しいご旅行記を発表なさっており嬉しく拝見しました。

    体調がお悪いとは思えないいつもながらの綿密なご旅行記。
    実際に現地におもむかれたのは昨年のこととはいえ、あれだけのものをお纏めになるのには、よほどの体力・気力・集中力がないとできるものではありませんので、きっとお元気になられたのだろうと、ちょっと安心いたしました。

    それにしても、本当によくお調べになっていらっしゃいますね。旅行記と言うよりもう論文の域ですね。
    でも、あんまりご無理はなさらないで、大正浪漫、明治頌歌をこれからも長く長く連結して行ってください。

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2017/10/17 18:03:22
    拝復
    frau.himmelさま、こんばんは。


    当該旅行記、及び、掲示板にコメントを賜りまして、誠に有難うございました。
    長期の独逸旅行、お疲れ様でした。

    > その後お身体の方、いかがですか?
    > 体調があまりよくないとお聞きしていましたので心配しておりましたが、新しいご旅行記を発表なさっており嬉しく拝見しました。
    →相変わらず、嘗ての如き自由に出歩く事は、益々困難な状態下に在ります。

    栃木県と云う所は、地元大手新聞社出版部から出されている歴史関係の書籍の内容が、此れ程デタラメばかりな本なのかと呆れ返っております。
    該書籍は資料どころか、グラム幾らの紙屑程度の内容であり、地方新聞社出版の歴史関係書では、静岡と最低を争うモノで、勿論、参考資料にすらならなかった事から、今回の旅行記をも含め、栃木県に関する旅行記は、全部、明治期以来の元資料を全部洗い直しから進めたものです。

    > でも、あんまりご無理はなさらないで、大正浪漫、明治頌歌をこれからも長く長く連結して行ってください。
    →有難うございます。
    ただ、余り過大な期待はされないで下さい。



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