埼玉旅行記(ブログ) 一覧に戻る
埼玉県下に於ける鉄道敷設発祥地は川口である。<br /><br /><br />即ち、日本鐵道會社線上野-熊谷間建設の一環として、明治16年(1883年)7月28日に開業した路線である。<br />然し、該区間開業時に設置された途中停車場は、王子、浦和、上尾、及び、鴻巣が開設されたが、意外にも、赤羽、及び、大宮は、開通当初は停車場が設置されなかった。<br /><br />該区間たる東京-高崎間鉄道建設は、本来は官設中仙道線第1工区建設予定線だったが、日本海連絡の必要性も兼ね、政府は長濱-敦賀間建設を先行決定した為に、仕方無く該建設予算を流用せざるを得ず、此の為に、該区間建設は民間出資に依る日本鐵道會社が代替建設する事になった。<br /><br />該社は政府に対し、明治15年(1882年)3月1日に東京上野-前橋間建設着工を申請し、同月7日に許可された事を受け、難工事が予想された荒川架橋着手を待たず、同年6月5日に、現在の川口市舟戸村所在の 善光寺(ぜんこうじ)裏手より熊谷に向かい建設を開始した。<br />建設資材一式輸送は隅田川から荒川を経由する舟水運を活用したが、殊に、該寺裏に於いて陸揚組立られた明治14年(1882年)英マニング・ワードル(MANING WARDLE)社製造の蒸気機関車は、陸揚地に因み 善光(ぜんこう)号と命名され、後に国有化後の明治42年(1909年)の統一形式番号改正時に1490型1492号機と符番され、その後は数奇な運命を辿り、現在は東日本旅客鉄道大宮鉄道博物館に於いて保存展示されている。<br />然るに、舟水運に依る重量機材運搬輸送には和舟の喫水が浅い為に河川航行に常に困難が付き纏い、現に資材輸送中の該舟が転覆事故を起こし、水中から資材引揚作業に難儀するの事態も発生した。<br />因みに、善光寺裏より現川口駅までの取付線路跡は概ね地元生活道路として現存する。<br />途中大中河川への架橋も無く工事は順調に進み、同年9月1日に北足立郡浦和村大谷場まで9.7km間の地固めを兼ね試運転が開始され、同時に東京府中心部-川口間地建設決定に伴い、川口に於いて鍬入式が挙行された。<br /><br /><br />該社は、第1区線として区間延長を重ね、同年10月21日に本庄、同年12月27日に新町、翌明治17年(1886年)5月1日に高崎、同年8月20日に前橋仮停車場まで開通し、上野-高崎・前橋間全通後、第2区線たる 右中央ヨリ白河迄 に於ける分岐地を決定しなければならなかった。<br /><br />英國人技師長リチャード・ボイル(Richard BOYLE)(1828年(文政5年)~1908年(明治41年)1月3日)は、中仙道線調査上告書に於ける分岐地に就いて大宮氷川神社付近を最良地として報告していた。<br />即ち、該報告書に於いて、<br />戸田荒河ノ谷間ハ時々洪水ノ憂ヲ受クヘキ地方ニシテ東京以向第一ノ大工業所ナリ。然レトモ之ヲ去テ後数哩間ハ都テ最軽ナル工業ヲ要スルノ地方ナリ。大宮驛以西に於テ中仙道基本線ノ工業如何ヲ記載スルノ事ハ暫ク止メ茲ニ北道乃チ東京宇都宮間鐵道線ニ付テ述言スヘシ。東京宇都宮間ニ於テ日光街道及該街道ト中仙道ノ間ニ在ル地方ヲ検査シ以テ発見セルニ依レハ此ノ北道ハ中仙道大宮驛ニ於テ基本線ニ分岐シ而シテ御成街道ノ門前駅及岩槻ヲ過キ栗橋ニ於テ日光街道ニ出テ夫ヨリ北方ニ進行シテ古河小山石橋ヲ通リ以テ宇都宮ニ致ルヲ最良ノ線路トス。然ニ往時鐵道寮ニ属セラルノ人企計セル上野ノ三橋ヨリ発シ中仙道ニアラサルノ通路ヲ伝行スルノ論ハ其ノ宜キヲ得タル者ニ非ス。其ノ故ハ余カ計画ノ如ク北道ト中仙道線ノ分頭ヲ大宮驛ニ於テ置ク時ハ東京ノ往復ニ最モ便益ナルノミナラス府外ニ於テ数哩間二條ノ線路ヲ造ルノ無益ナル費用ヲ省クヘシ。<br />と記載されていた。<br /><br /><br />初代荒川橋梁は、上野-熊谷間開通を急ぐ為に、英國から架橋用資材到着を待たず、木造木組単線構造で架橋したが、該架橋用資材が到着した為に、明治17年(1884年)2月16日に架橋工事に着手し、翌明治18年(1885年)2月13日に第2代目 荒川橋梁竣工した。<br />第2代目該橋梁は、英ハンディ・サイド(HANDY SIDE)社製で、錬鉄平行ポニー・ワーレントラス橋30.2m×4連から構成されていた。<br /><br /><br />同年3月1日に赤羽驛、及び、同月16日に大宮驛が開業した。<br /><br /><br />同年7月16日に待望の第2区線として大宮-宇都宮間が開通し、途中、蓮田、久喜、栗橋、中田仮、古河、小山、及び、石橋各停車場が設置された。<br />尚、利根川橋梁は未完成状態で該河川区間は傳馬船に拠る渡船連絡だったが、翌明治19年(1886年)6月17日に利根川橋梁が竣工し、上野?宇都宮間が直通運転が可能になった。<br /><br /><br />該社は、明治22年(1889年)4月1日に仙台-盛岡間建設工事に着手したが、此れに先立ち、同年1月25日に、第2代内閣総理大臣 黒田清隆(くろだ きよたか)(天保11年(1840年)11月9日~明治33年(1900年)8月23日)(明治21年(1888年)4月30日~明治22年(1889年)10月25日在任)に対し、上野-大宮間複線化工事を申請し、同年2月6日に許可を得たが、該社は延長工事で予算が手一杯で複線化工事に要する予算が捻出困難だった事から工事許可を得ていながら着手する事が適わず、半ば放置状態が継続したが、明治18年(1885年)に第2代目橋梁架橋時は単線で開通していたが、明治25年(1892年)4月1日に着工し、元来、基礎工事が複線仕様で施行されており、荒川橋梁区間を除き同年10月19日に竣工したが、該社は相次ぐ路線延伸で架橋資金の財政的余裕が無く、明治29年(1896年)4月1日に荒川橋梁複線工事竣工に拠り、上野-大宮間は複線運転が実施され、保安方式に当時最新式の双信閉塞式が導入された。<br /><br /><br />該社は開業以来、車輌検査修理一切を逓信省鐵道作業局新橋工場に一任し、簡単な検査修理に限り上野停車場構内施設で施行していたが、路線延伸と車輌数増加は該鉄道に於いて独自の鉄道工場設置を企業内部からも希求され、該鉄道は、明治21年(1888年)2月19日に 初代内閣総理大臣第?次 伊藤博文(いとう ひろぶみ)(天保12年(1841年)10月16日~明治42年(1909年)10月26日)内閣(明治18年(1885年)12月22日~明治21年(1888年)4月30日在任)の逓信大臣 榎本武揚(えのもと たけあき)(天保7年(1836年)10月5日~明治41年(1908年)10月26日)(明治18年(1885年)12月22日~明治21年(1888年)4月30日在任)に対し、大宮停車場拡張、及び、工場建設申請を行い、同年3月29日に設置認可が下りる。<br />該工場は、予算都合上、着手に至るまで時間を要したが、明治27年(1894年)3月29日に設置工事を開始し、該駅北端12万7113平方メートル敷地に工場設置され、同年12月10日に竣工し操業開始した。<br /><br /><br />鐵道唱歌 奥州磐城編 <br />第3番<br />赤羽過ぎて打ち渡る<br />(あかばね すぎて うちわたる)<br />名も荒川の鐡の橋<br />(なも あらかわの てつのはし)<br />その水上は秩父なり<br />(その みずかみは ちちぶなり)<br />いでゝ墨田の川となる♪<br />(いでて すみだの かわとなる)<br /><br />第4番<br />浦和に浦は無いけれど<br />(うらわに うらは ないけれど)<br />大宮驛に宮在りて<br />(おおみやえきに みやありて)<br />公園広く池深く<br />(こうえん ひろく いけふかく)<br />夏の盛りも暑からず♪<br />(なつの さかりも あつからず)<br /><br />鐵道唱歌 北陸編<br />第5番<br />間も無く来る赤羽は<br />(まもなく きたる あかばねは)<br />品川行の乗替場<br />(しながわゆきの のりかえば)<br />目白目黒の不動にも<br />(めじろ めぐろの ふどうにも)<br />寄れや序の道なれば♪<br />(よれや ついでの みちなれば)<br /><br />第6番<br />蕨過ぐれば浦和にて<br />(わらび すぐれば うらわにて)<br />其の公園は調の宮<br />(その こうえんは つぎのみや)<br />埼玉縣の縣庁も<br />(さいたまけんの けんちょうも)<br />此の地にこそは置かれたり♪<br />(このちに こそは おかれたり)<br /><br />第7番<br />大宮降りて八九丁<br />(おおみや おりて はっくちょう)<br />行けば氷川の公園地<br />(いけば ひかわの こうえんち)<br />園は蛍の名も高く<br />(えんは ほたるの なもたかく)<br />宮は武蔵の一之宮♪<br />(みやは むさしの いちのみや)<br /><br /><br />明治39年(1906年)3月31日に政府は鐵道國有法(てつどう こくゆうほう)(法律第117号)を公布し、該法に基き、同年11月1日附で、該社は、岩越鐵道(がんえつ てつどう)と共に政府に買収された。<br /><br />明治41年(1908年)12月5日に帝國鐵道庁が発展的解消を遂げ内閣鐵道院(ないかく てつどういん)が成立した。<br />鐵道院は買収各社から引継いだ動産不動産管理を改めて確認整理すると同時に、翌明治42年(1909年)10月12日附で、國有鐵道線路名称が制定され、<br />秋葉原(あきはばがはら)-上野(うえの)-青森(あおもり)間は 東北本線(とうほくほんせん)<br />大宮(おおみや)-高崎(たかさき)間は 高崎線(たかさきせん)と命名される。<br /><br /><br />東北本線に於ける自動閉塞方式導入は、大正10年(1911年)10月1日附で蕨-浦和間に米ウェスティングハウス社製三動型腕木式自動信号機設置が嚆矢である。<br />送信閉塞式導入に拠り、該区間内に存在した小谷場信号所は該日附を以って廃止された。<br /><br /><br />大正12年(1923年)9月1日に発生した関東大震災(かんとうだいしんさい)に於いて、赤羽-大宮間最大被害発生箇所は荒川橋梁で、該橋梁橋脚第17?36号に被害が発生し、特に第36号橋脚は床石面で158cmもの沈下被害が生じたが、明治初?中期建設橋梁は、井筒基盤が岩盤に到達安定せず脆弱状態に在り、後の調査で液状化現象に拠る橋脚基礎崩壊が原因とされたが、震災発生当時に該橋梁上を列車が通過中でなかった事は、河中への列車転覆事故が避けられ不幸中の幸いと言えた。<br /><br />該震災発生時に、該区間内他被害は、蕨駅本屋倒壊、及び、蕨-浦和間線路陥没が発生したが、線路関係は荒川鉄橋区間を除き、概ね、震災当日に復旧開通した。<br /><br />赤羽驛<br />上野発白石行下り旅客普通第207列車、及び、田端発小山行下り貨物第303列車は、該震災発生直後、該駅に相次いで到着したが、荒川橋梁橋脚沈下の為に、該駅以北に於ける列車運転が不可能だった事から前途運転を中止し、旅客救済を目的として、旅客代207列車牽引機関車、及び、該客車を使用し、上り赤羽発上野行旅客普通第2554列車として折返し運転を実施した。<br />貨物第303列車は、牽引機関車のみ17時53分に該駅を出発させ、18時17分に田端機関庫に帰庫させた。<br />該駅留置貨車群は同月9日、及び、10日に編成を分割し、下り貨物列車に併結発送した。<br /><br />川口町驛<br />上野発直江津行下り旅客普通第115列車は、該駅に12時に到着したが、線路状態を確認の上、該駅12時57分に出発させ13時10分に蕨驛に到着したが、蕨-浦和間線路状態不良の為に、前途運転は困難と判断し以降を運休とし、該列車牽引機関車、及び、客車を使用し、該駅20時10分発蕨行臨時列車を運転したが、23時30分に蕨-浦和間が上り線のみ復旧完了した事から、該駅を翌2日1時38分に出発し、2時26分に大宮驛に到着した。<br /><br />蕨驛<br />品川発大宮行下り貨物第575列車は、該駅到着後、蕨-浦和間線路状態不良の為に、前途運転を見合せ、該駅に於いて待機状態となったが、該区間上り線復旧工事が完了した事を受け、該列車牽引機関車は、該駅に貨車を残置させ、該駅を翌2日1時に出発し、1時25分に大宮驛に到着した。<br />該駅残置貨車群は、同月4日迄に編成を分割させ、下り貨物列車に併結発送した。<br /><br />浦和驛<br />大宮発上野行上り旅客普通第254列車は、該駅到着後、浦和-蕨間線路状態不要の為に、前途運転を見合せ、20時に大宮に帰着させた。<br />軽井澤発秋葉原行上り貨物第156列車は、浦和-蕨間線路状態不良の為に、該駅に於いて待機状態となったが、該不通区間復旧工事が完了した事から試運転を実施させる為に、該列車牽引機関車を解放し、単機に依り該区間試運転を実施し、結果として何等問題無き事が確認された事から、23時30分に上り線のみ復旧したが、該機関車は、翌2日0時50分に該駅を単機で出発し、大宮機関庫に帰庫させた。<br />該駅残置貨車群は、同月20日に臨時貨物列車として発送した。<br /><br />赤羽-川口町間不通区間開通は、同月4日に単線、同月17日に複線が復旧した。<br />蕨-浦和間下り線不通区間開通は、同月2日1時20分だった。<br /><br />他方、鐵道省大宮工場では該工場敷地内に存在した煉瓦積24mの大煙突が激震動に拠り折損崩壊した為に、巻添下敷となった職員24名死亡、21名重軽傷被害が発生した。<br />当時の大宮町住民に死者は生ぜず、大多数の死傷者は該工場職員、及び、山丸製糸工場従業員被災者が占めた。<br /><br />政府は取敢えず震災罹災者に対し、同月3日より罹災証明書を交付する事に決定実施したが、鐵道省は該証明書持参者に対し、鉄道線、及び、指定航路区間3等利用に拠り避難目的地まで無料乗車可能とした事から、震災で被災し仮復旧した田端-大宮間は、震災復旧資材工事列車の運転に限定され一般客乗車は混乱防止の為に禁止され、東京市内を中心とする罹災地域から大宮驛まで徒歩移動を余儀無くされた罹災者達は、混雑が集中激化していた事から、大宮始発列車に必死に乗車しようとして、機関車前部デッキは勿論、客貨車屋根にまで群がり、文字通り鈴なり状態だった。<br /><br />当時の北関東各線は、上越線が未開通だった為に、主だった長大隧道こそ存在しなかったが、それでも信越本線横川-軽井沢間を通過する碓氷峠には26箇所の隧道が存在した。<br />該区間を通過する旅客列車は完全電化運転され、煙害から開放されていたが、貨物列車は必要所要電気機関車数不足の為に、蒸気機関車牽引列車が残存していた。<br />超満員状態の旅客列車に乗車不可能と知った罹災者達は、職員の制止にも拘らず、貨物列車の貨車屋根に無理矢理乗込んだ。<br />横川-丸山間は障害物も無く難無く乗車出来たが、丸山信号所から矢ケ崎信号所に至る区間は他線に存在しない軌条中央部にラック式軌条を装備したアプト式と称する66‰の急勾配区間を時速6?前後の超低速度登攀する蒸気機関車煙突からは容赦無く排出する猛烈な煤煙が罹災者達を襲い、列車が碓氷第1隧道に進入すると、此の煤煙が原因で急性一酸化炭素中毒に侵された罹災者達は朦朧気絶し、次々と列車から墜落し轢断絶命する者が後を絶たず、その為に、碓氷峠26隧道内部全部に窒息死体が散乱放置されると言う惨状を呈していた。<br /><br /><br />震災被災した荒川橋梁は修復使用されたが、その後の輸送量増加に伴い、鐵道省は赤羽-大宮間複々線化を決定し、同時に初代戸田川橋梁共々、老朽化した第2代目荒川橋梁使用を廃止し新橋梁を架橋した。<br /><br />此の時、更改された旧荒川橋梁2連は、昭和6年(1931年)に鉄道跨線橋として整備転用され、十條跨線橋として現存する。<br /><br /><br />複々線化完成は、<br />赤羽-蕨間 昭和4年(1929年)12月15日<br />蕨-大宮間 昭和7年(1932年) 7月15日<br />該工事竣工に拠り客貨別運転に分離され、更に大宮まで複々線化完成年9月1日に赤羽-大宮間が電化され、京濱線電車が延長運転された。<br />該電化完成に拠り、川口、蕨、及び、与野各駅は電車専用停車駅となり、浦和は該電化以前は長距離列車も停車していたが、該電化以降は電車以外の蒸気機関車牽引中長距離客車列車は全部無停車となり、県庁所在地として危機感を抱いた埼玉県、及び、浦和町官民有志は、当時の第28内閣総理大臣第?次 若槻禮次郎(わかつき れいじろう)(慶應2年(1866年)3月21日~昭和24年(1949年)11月20日)内閣(昭和6年(1931年)4月4日~同年12月13日在任)の鐵道大臣 原 脩次郎(はら しゅうじろう)(明治4年(1871年)5月14日~昭和9年(1934年)3月6日)(昭和6年(1931年)4月14日~同年12月13日在任)に対し、浦和駅中長距離列車再停車を請願し、此れを受け鐵道省東京鐵道局で審議した結果、翌昭和8年(1933年)4月1日ダイヤ改正で、朝夕下り列車4本、上り列車3本計7本の普通客車列車を停車させ、同時に2等車連結列車停車が復活したが、然し、県庁所在地中心駅にも拘らず、相変わらず全急行列車勿論、大部分の列車は通過した為に、電化以前とは比較にならぬ程、不便な状態に変化は無かった。<br />また電車編成も2等車を連結した、蒲田、及び、東神奈川電車庫配置基本編成車は赤羽以南の運用で、早朝、深夜は赤羽-大宮間折返し運転となった為に、電化以前と比較して、電化後は地元在住民にとって東京市域への交通は以前とは比較にならぬ程、明らかに不便な状態であり、当時、全国の道府県庁所在地で、唯一、鐵道省路線が存在しない沖縄県を除き、優等車輌連結列車通過駅は埼玉県浦和町だけだった。<br /><br />当時の埼玉県は、大正11年(1922年)12月1日に熊谷町が県下初の市昇格だったが、その後、昭和8年(1933年)4月1日に、川越町、及び、川口町が市に昇格するまで10年弱も市昇格例が無く、そうした中、現在の、さいたま市に近い存在として、県庁所在地たる浦和町を中核に、与野、大宮、及び、岩槻各町を含めた埼玉総合市制構想が浮上した。<br />然し、当時ですら、経済的、及び、税収等々何れに於いて浦和町より上位に存在した大宮町こそ新市中心地たるべきとの大宮町議会決議に対し、浦和町議会が猛反発し、埼玉県議会に依る調停工作も不調に終わった事から、浦和町は昭和9年(1934年)2月11日に独自に市昇格を実施し、結局、埼玉総合市制計画は頓挫画餅と化した。<br /><br />因みに、戦前に於ける当時の知事職は現在の民意公選制度とは異なり官選制度下に在り、人選は内務省が担当し内務大臣が任命権者だったが、各府県には等級が存在し、東京、神奈川、愛知、京都、大阪、兵庫、山口、及び、福岡各県が1等級扱、宮城、茨城、栃木、群馬、静岡、富山、石川、岡山、広島、愛媛、長崎、熊本、及び、鹿児島各県が2等級扱以外の県は全部3等級、若しくは、4等級で、埼玉県は最下級4等級扱だった。<br />当時の知事職人事で、千葉県知事→宮崎県知事、埼玉県知事→島根県知事への移動は、現在の感覚であれば左遷降格視とも取れるが、当時は栄転右遷職とされ、当時の内務省、更に政府が埼玉県自体を最下扱視し、該請願など一顧の価値無き案件なりと考えていた事は否定し得ない。<br />亦、当時の北海道は正式には北海道庁と称し、それ故、知事職(親任官)では無く長官職(勅任官)であり、帝國陸軍は旭川に師団司令部を有していたが、陸軍師団長職は親補職で親任官(しんにんかん)だったのに対し、北海道長官職は親任官では無く勅任官(ちょくにんかん)で、同じ高等官でありながら、道庁所在地札幌では無く旭川と言う地方駐在の陸軍師団長職の方が格上で、鐵道省札幌鐵道局長や逓信省札幌逓信電信局長(勅任官)と同格と云う矛盾を内包していた。<br /><br />尚、該大宮電化以降、京濱線が京濱東北線と呼称されたと称する文献を多数散見するが、京濱東北線と称する様になるのは、大東亜戦争中に於ける金属回収令に基き金属製前面行表示板廃止の昭和17年(1942年)11月以降の事であり、大宮延長時は 京濱及東北線 と称していたのが正当である。<br />故に、該記述群は史実に基づかぬ伝聞反復の結果、事実混同され事実無根である。<br /><br /><br />大宮は交通の要害として明治末期頃より飛躍的に発達を遂げたが、川越町とは当初、川越に本社を有する佐久間軒に依り乗合馬車が運行されていたが、大宮、及び、川越に電灯電力供給事業を行っていた川越電燈會社を吸収合併した川越電気鐵道が、明治39年(1906年)4月16日に大宮駅前-川越久保町間12.8kmに路面電車の運行を開始した。<br /><br />他方、粕壁町との間には、昭和4年(1929年)11月17日に北総鐵道が粕壁(現 春日部)-大宮間を開通させた。<br />北総鐵道は当初、配線の関係上、鐵道省大宮駅構内への乗入が出来ず、已む無く該駅構外仮駅での開業だったが、改良工事竣工に拠り同年12月11日には該駅構内乗入が可能になり、前後して社名を 総武鐵道?(そうぶ てつどう?)に改称されている。<br /><br />然し、帝國陸軍主要機関は、元来、殆どの機関が東京市内に存在したが該市内が住宅地化進展と共に敷地拡張が困難になり、更に、戦時体制と共に防諜上の問題も在り、神奈川県相模原地区と共に、北武地区へ移転させる事になり、更に、高萩地区に陸軍航空士官学校設置が決定するに及び、陸軍の要請を受け、鐵道省は大宮-高麗川間30.6kmに鉄道敷設を決定し、昭和15年(1940年)7月22日に該区間が開通し、線路名称は川越線(かわごえせん)と命名された。<br /><br />並行する西武鐵道大宮軌道線は、川越線が全通した事で旅客競争力を喪失し、同年12月20日附で営業休止し、更に、昭和16年(1941年)2月25日に営業廃止を余儀無くされた。<br /><br /><br />大東亜戦争に於ける空襲被害に就いて該区間内では、<br />昭和20年(1945年)4月13日<br /> 警戒警報発令  22時44分<br /> 空襲警報発令  23時02分<br /> 空襲開始    23時18分<br /> 空襲警報解除   2時22分<br /> 警戒警報解除   2時52分<br />該空爆被害に依り、都内では大宮御所、明治神宮本殿、等々が焼失したが、赤羽-大宮間は爆弾命中に拠り線路破壊4ヶ所計50m、枕木焼損30本焼失損壊、焼夷弾攻撃で赤羽駅本屋、及び、該駅貨物ホーム上屋が焼失する被害が発生した。<br />復旧は15日12時開通。<br /><br />同年8月3日<br /> 警戒警報発令   9時49分<br /> 空襲警報発令  10時21分<br /> 空襲開始    10時50分<br /> 空襲警報解除  11時30分<br /> 警戒警報解除  12時05分<br />該空襲で、赤羽駅構内が機銃掃射被害を受け、旅客重傷4名、軽傷3名が生じた。<br /><br />同年同月10日 帝都北部空襲<br /> 警戒警報発令   6時10分<br /> 空襲警報発令   7時30分<br /> 空襲開始     7時50分<br /> 空襲警報解除  10時50分<br /> 警戒警報解除  11時10分<br />下十條(現 東十条)-赤羽-川口間が被災し、特に、新河岸川橋梁が13cmロケット弾攻撃で該弾が命中中破したが、戦争最末期で艦載機から機銃攻撃が不特定に実行されている時期で、此の当時、聯合国軍はオリンピック作戦と称する日本本土南九州上陸作戦を立案し、昭和20年(1945年)12月1日に実施すべく、該上陸を前提とした我が国軍隊の後方移動を阻害遮断させる為に、中九州以南に存在した主要河川に架橋された鉄道道路橋は共に悉く徹底的に攻撃落橋被害が続出していた。<br />此の状況下に於いて、此れら、橋梁復旧の為に本省橋梁架橋専門職員が遠く九州に派遣出張指揮しながら復旧活動を実施していた為に、該橋が東京都区内に所在しながら、架橋専門担当者が在京していない状況だった為に復旧に時間を要し、該橋開通は終戦後の同月19日9時30分になった。<br />また、該付近一帯に爆弾焼夷弾が無数落下し、昨今ですら建設現場から不発弾が発見される騒動が在ったばかりである。<br /><br /><br />戦争直後、進駐軍は主要駅に渉外室と称し R.T.Oを設置させたが、赤羽-大宮間で県庁所在地たる浦和には設置されず大宮駅に昭和20年(1945年)12月21日に開設され、昭和27年(1952年)4月1日にサンフランシスコ講和条約発効まで設置される。<br /><br /><br />戦後間もない昭和24年(1949年)3月28日に、北浦和-与野間走行中の大宮行電車に落雷があり、モハ30127が全焼する事故が発生したが、大東亜戦争末期から昭和26年(1951年)前後に到る時期は混乱期で部品も払底し定期検査も困難だった事から車輌の保守点検修理もままならず、絶縁状態不良から、漏電、落雷、架線切断等々の現在では考えられぬ事故で電車全焼事例が多く存在する。<br /><br /><br />国鉄は第3次長期計画の基き、赤羽-大宮間3複線化を決定し、昭和41年(1966年)2月15日に着工したが、該区間は住宅密集地も点在し、増複線分用の土地収用は困難を極め、貨物下線、旅客上線の各々外側に増線した部分が殆どに亙った。<br />昭和42年(1967年)10月1日に与野-大宮間が3複々線化され、同時に大宮駅構内代価k量工事の一環として、改良前の京浜東北線は4番線1線発着だったが、改良後は1.2番線使用2線発着が可能になり列車増発が可能になった事から、東北本線列車と京浜東北線電車発着が整理分離された。<br />残り、赤羽-与野間は3複線化は、昭和43年(1968年)10月1日全国白紙大改正の直前たる、同年9月25日に竣工し、京浜東北線電車は全面分離独立運転が可能になった。<br /><br /><br />赤羽駅に於いて、昭和48年(1973年)4月24日夜半、乗客主体に拠る暴動が発生した。<br /><br />当時の日本国有鉄道職員の1労働組合で、主に、運転、及び、車両検査担当者が多数加入していた動力車労働組合、即ち、動労は国鉄当局が実施しようと計画していた人員削減計画案反対の立場から、順法闘争と称する国鉄当局に対する、半ば嫌がらせの為の戦術を採用実行していた為に国鉄利用客は大迷惑を蒙っていた。<br />然るに、同年3月13日に、高崎線上尾駅に於いて、動労の順法闘争が原因で上野行普通電車2本が運転手のサボタージュで立往生させられ2時間以上立往生させられた挙句、突然、大宮駅打切運転となった事から電車内で待機状態だった乗客達が激怒暴発し、駅や該列車に対し線路上の砕石を投げ施設を破壊し、更に、該電車運転士を袋叩きにし重傷を負わしめ、列車運行を阻害させた事件が発生し、事態が収拾し運転再開に漕ぎ着けたのは同日深夜に至ってからであった。<br /><br /><br />然し、動労は該事態が重大発展したにも拘らず、該事件に対し反省教訓とせず、愚かにも労働者大衆は自身達運動に共感連帯し、該運動展開を支持していると単純己惚れで曲解付会していた事から、恥も外聞も無く、翌4月下旬から、再度、順法闘争を再開した。<br /><br />該日、東北本線上野駅では、該駅発宇都宮行普通電車が順法闘争の影響で動労所属運転士が不在の為に、該電車運休を決定した事から、帰宅の足を奪われた該電車利用者が激高し、該駅構内に罵声が飛び交い不穏な空気が醸出された。<br />事態を重視した東京北鉄道管理局は、取敢えず、19時45分上野発奥羽本線経由青森行急行津軽1号を、大宮-宇都宮間を各駅停車として沿線利用者救済に充てた事から事態は沈静化するかの如く見えた。<br />然るに、該列車連結の荷物車で託送する全国紙地方版新聞積込が該日に限り到着が遅延し、該列車は該駅を30分遅延の20時15分に発車した事から、該列車振替客に再度、不満の色が拡がった。<br /><br />該列車は赤羽駅に30分遅延し到着したが、車内通路は勿論、デッキに至るまで鈴なり状態で立錐の余地すら無く、該駅で該列車を待機ていた1500名以上の利用者は窓を開け中に入ろうとし、車内の乗客に窓を開ける様に懇願したが、殆どの乗客が該懇願を無視した事から、ホームで待機していた乗客達を激怒させ、該列車は寝台車を除き、旅客座席全車両の窓ガラスが割られ破壊された事が発端になり、該駅構内は半ば狂乱無法地帯と化し、該駅停車中の2本の列車が次々と襲撃され、更に、1名の泥酔者はホーム事務室で保管されていた暖房用灯油を無断で持ち出し、該駅構内3ヵ所、及び、京浜東北線電車運転台に入り込み、灯油を撒き持参のライターで放火した為に、該電車運転台は瞬時にして全焼し使用不能になった。<br />また、他一群は該駅出札口に侵入し、該駅売上金、及び、未使用乗車券類多数を掠奪した。<br /><br />該駅暴動は警視庁機動隊導入に拠り翌日3時に沈静化したが、動労は、自身の主張運動が、当初から国民から乖離忌避され嫌悪憎悪の対象だったにも拘らず、事態の本質すら全く理解していなかった事を初めて悟り、順法闘争は該日を以って中止された。<br /><br /><br /><br /><br /><br />表紙の写真は、東十条駅前に架橋で鐵道唱歌奥州磐城編第3番にも登場する第2代荒川橋梁橋桁を転用活用した 十條跨線橋(じゅうじょう こせんきょう)<br /><br /><br /><br />東北本線歴史的痕跡探記<br />~東京-上野間編 大正浪漫~<br />http://4travel.jp/travelogue/10719577<br />~上野駅編~<br /><br />~上野-田端-赤羽間編 明治頌歌~<br /><br />~王子赤羽貨物支線編~<br /><br />~赤羽-大宮間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10685059<br />~大宮-栗橋間編 明治頌歌~<br /><br />~栗橋-小山間編 明治頌歌~<br /><br />~小山-宇都宮間編 明治頌歌~<br /><br />~宇都宮-長久保-片岡間編(廃止線) 明治頌歌~<br /><br />~宇都宮-宝積寺-氏家間編(現行線) 明治頌歌~<br /><br />~氏家-矢板間編 明治頌歌~<br /><br />~矢板-黒磯間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/11164646<br />~黒磯-黒田原-白河間編(廃止線) 明治頌歌~<br /><br />~黒磯-黒田原-白河間編(現行線) 大正浪漫~<br /><br />~白河駅編 大正浪漫~<br />http://4travel.jp/travelogue/10587375<br />~白河-須賀川間編(廃止線) 明治頌歌~<br /><br />~白河-須賀川間編(現行線) 大正浪漫~<br />

東北本線歴史的痕跡探訪記 ~赤羽-大宮間編 明治領歌~

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2015/07/12 - 2015/07/12

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横浜臨海公園

横浜臨海公園さん

埼玉県下に於ける鉄道敷設発祥地は川口である。


即ち、日本鐵道會社線上野-熊谷間建設の一環として、明治16年(1883年)7月28日に開業した路線である。
然し、該区間開業時に設置された途中停車場は、王子、浦和、上尾、及び、鴻巣が開設されたが、意外にも、赤羽、及び、大宮は、開通当初は停車場が設置されなかった。

該区間たる東京-高崎間鉄道建設は、本来は官設中仙道線第1工区建設予定線だったが、日本海連絡の必要性も兼ね、政府は長濱-敦賀間建設を先行決定した為に、仕方無く該建設予算を流用せざるを得ず、此の為に、該区間建設は民間出資に依る日本鐵道會社が代替建設する事になった。

該社は政府に対し、明治15年(1882年)3月1日に東京上野-前橋間建設着工を申請し、同月7日に許可された事を受け、難工事が予想された荒川架橋着手を待たず、同年6月5日に、現在の川口市舟戸村所在の 善光寺(ぜんこうじ)裏手より熊谷に向かい建設を開始した。
建設資材一式輸送は隅田川から荒川を経由する舟水運を活用したが、殊に、該寺裏に於いて陸揚組立られた明治14年(1882年)英マニング・ワードル(MANING WARDLE)社製造の蒸気機関車は、陸揚地に因み 善光(ぜんこう)号と命名され、後に国有化後の明治42年(1909年)の統一形式番号改正時に1490型1492号機と符番され、その後は数奇な運命を辿り、現在は東日本旅客鉄道大宮鉄道博物館に於いて保存展示されている。
然るに、舟水運に依る重量機材運搬輸送には和舟の喫水が浅い為に河川航行に常に困難が付き纏い、現に資材輸送中の該舟が転覆事故を起こし、水中から資材引揚作業に難儀するの事態も発生した。
因みに、善光寺裏より現川口駅までの取付線路跡は概ね地元生活道路として現存する。
途中大中河川への架橋も無く工事は順調に進み、同年9月1日に北足立郡浦和村大谷場まで9.7km間の地固めを兼ね試運転が開始され、同時に東京府中心部-川口間地建設決定に伴い、川口に於いて鍬入式が挙行された。


該社は、第1区線として区間延長を重ね、同年10月21日に本庄、同年12月27日に新町、翌明治17年(1886年)5月1日に高崎、同年8月20日に前橋仮停車場まで開通し、上野-高崎・前橋間全通後、第2区線たる 右中央ヨリ白河迄 に於ける分岐地を決定しなければならなかった。

英國人技師長リチャード・ボイル(Richard BOYLE)(1828年(文政5年)~1908年(明治41年)1月3日)は、中仙道線調査上告書に於ける分岐地に就いて大宮氷川神社付近を最良地として報告していた。
即ち、該報告書に於いて、
戸田荒河ノ谷間ハ時々洪水ノ憂ヲ受クヘキ地方ニシテ東京以向第一ノ大工業所ナリ。然レトモ之ヲ去テ後数哩間ハ都テ最軽ナル工業ヲ要スルノ地方ナリ。大宮驛以西に於テ中仙道基本線ノ工業如何ヲ記載スルノ事ハ暫ク止メ茲ニ北道乃チ東京宇都宮間鐵道線ニ付テ述言スヘシ。東京宇都宮間ニ於テ日光街道及該街道ト中仙道ノ間ニ在ル地方ヲ検査シ以テ発見セルニ依レハ此ノ北道ハ中仙道大宮驛ニ於テ基本線ニ分岐シ而シテ御成街道ノ門前駅及岩槻ヲ過キ栗橋ニ於テ日光街道ニ出テ夫ヨリ北方ニ進行シテ古河小山石橋ヲ通リ以テ宇都宮ニ致ルヲ最良ノ線路トス。然ニ往時鐵道寮ニ属セラルノ人企計セル上野ノ三橋ヨリ発シ中仙道ニアラサルノ通路ヲ伝行スルノ論ハ其ノ宜キヲ得タル者ニ非ス。其ノ故ハ余カ計画ノ如ク北道ト中仙道線ノ分頭ヲ大宮驛ニ於テ置ク時ハ東京ノ往復ニ最モ便益ナルノミナラス府外ニ於テ数哩間二條ノ線路ヲ造ルノ無益ナル費用ヲ省クヘシ。
と記載されていた。


初代荒川橋梁は、上野-熊谷間開通を急ぐ為に、英國から架橋用資材到着を待たず、木造木組単線構造で架橋したが、該架橋用資材が到着した為に、明治17年(1884年)2月16日に架橋工事に着手し、翌明治18年(1885年)2月13日に第2代目 荒川橋梁竣工した。
第2代目該橋梁は、英ハンディ・サイド(HANDY SIDE)社製で、錬鉄平行ポニー・ワーレントラス橋30.2m×4連から構成されていた。


同年3月1日に赤羽驛、及び、同月16日に大宮驛が開業した。


同年7月16日に待望の第2区線として大宮-宇都宮間が開通し、途中、蓮田、久喜、栗橋、中田仮、古河、小山、及び、石橋各停車場が設置された。
尚、利根川橋梁は未完成状態で該河川区間は傳馬船に拠る渡船連絡だったが、翌明治19年(1886年)6月17日に利根川橋梁が竣工し、上野?宇都宮間が直通運転が可能になった。


該社は、明治22年(1889年)4月1日に仙台-盛岡間建設工事に着手したが、此れに先立ち、同年1月25日に、第2代内閣総理大臣 黒田清隆(くろだ きよたか)(天保11年(1840年)11月9日~明治33年(1900年)8月23日)(明治21年(1888年)4月30日~明治22年(1889年)10月25日在任)に対し、上野-大宮間複線化工事を申請し、同年2月6日に許可を得たが、該社は延長工事で予算が手一杯で複線化工事に要する予算が捻出困難だった事から工事許可を得ていながら着手する事が適わず、半ば放置状態が継続したが、明治18年(1885年)に第2代目橋梁架橋時は単線で開通していたが、明治25年(1892年)4月1日に着工し、元来、基礎工事が複線仕様で施行されており、荒川橋梁区間を除き同年10月19日に竣工したが、該社は相次ぐ路線延伸で架橋資金の財政的余裕が無く、明治29年(1896年)4月1日に荒川橋梁複線工事竣工に拠り、上野-大宮間は複線運転が実施され、保安方式に当時最新式の双信閉塞式が導入された。


該社は開業以来、車輌検査修理一切を逓信省鐵道作業局新橋工場に一任し、簡単な検査修理に限り上野停車場構内施設で施行していたが、路線延伸と車輌数増加は該鉄道に於いて独自の鉄道工場設置を企業内部からも希求され、該鉄道は、明治21年(1888年)2月19日に 初代内閣総理大臣第?次 伊藤博文(いとう ひろぶみ)(天保12年(1841年)10月16日~明治42年(1909年)10月26日)内閣(明治18年(1885年)12月22日~明治21年(1888年)4月30日在任)の逓信大臣 榎本武揚(えのもと たけあき)(天保7年(1836年)10月5日~明治41年(1908年)10月26日)(明治18年(1885年)12月22日~明治21年(1888年)4月30日在任)に対し、大宮停車場拡張、及び、工場建設申請を行い、同年3月29日に設置認可が下りる。
該工場は、予算都合上、着手に至るまで時間を要したが、明治27年(1894年)3月29日に設置工事を開始し、該駅北端12万7113平方メートル敷地に工場設置され、同年12月10日に竣工し操業開始した。


鐵道唱歌 奥州磐城編
第3番
赤羽過ぎて打ち渡る
(あかばね すぎて うちわたる)
名も荒川の鐡の橋
(なも あらかわの てつのはし)
その水上は秩父なり
(その みずかみは ちちぶなり)
いでゝ墨田の川となる♪
(いでて すみだの かわとなる)

第4番
浦和に浦は無いけれど
(うらわに うらは ないけれど)
大宮驛に宮在りて
(おおみやえきに みやありて)
公園広く池深く
(こうえん ひろく いけふかく)
夏の盛りも暑からず♪
(なつの さかりも あつからず)

鐵道唱歌 北陸編
第5番
間も無く来る赤羽は
(まもなく きたる あかばねは)
品川行の乗替場
(しながわゆきの のりかえば)
目白目黒の不動にも
(めじろ めぐろの ふどうにも)
寄れや序の道なれば♪
(よれや ついでの みちなれば)

第6番
蕨過ぐれば浦和にて
(わらび すぐれば うらわにて)
其の公園は調の宮
(その こうえんは つぎのみや)
埼玉縣の縣庁も
(さいたまけんの けんちょうも)
此の地にこそは置かれたり♪
(このちに こそは おかれたり)

第7番
大宮降りて八九丁
(おおみや おりて はっくちょう)
行けば氷川の公園地
(いけば ひかわの こうえんち)
園は蛍の名も高く
(えんは ほたるの なもたかく)
宮は武蔵の一之宮♪
(みやは むさしの いちのみや)


明治39年(1906年)3月31日に政府は鐵道國有法(てつどう こくゆうほう)(法律第117号)を公布し、該法に基き、同年11月1日附で、該社は、岩越鐵道(がんえつ てつどう)と共に政府に買収された。

明治41年(1908年)12月5日に帝國鐵道庁が発展的解消を遂げ内閣鐵道院(ないかく てつどういん)が成立した。
鐵道院は買収各社から引継いだ動産不動産管理を改めて確認整理すると同時に、翌明治42年(1909年)10月12日附で、國有鐵道線路名称が制定され、
秋葉原(あきはばがはら)-上野(うえの)-青森(あおもり)間は 東北本線(とうほくほんせん)
大宮(おおみや)-高崎(たかさき)間は 高崎線(たかさきせん)と命名される。


東北本線に於ける自動閉塞方式導入は、大正10年(1911年)10月1日附で蕨-浦和間に米ウェスティングハウス社製三動型腕木式自動信号機設置が嚆矢である。
送信閉塞式導入に拠り、該区間内に存在した小谷場信号所は該日附を以って廃止された。


大正12年(1923年)9月1日に発生した関東大震災(かんとうだいしんさい)に於いて、赤羽-大宮間最大被害発生箇所は荒川橋梁で、該橋梁橋脚第17?36号に被害が発生し、特に第36号橋脚は床石面で158cmもの沈下被害が生じたが、明治初?中期建設橋梁は、井筒基盤が岩盤に到達安定せず脆弱状態に在り、後の調査で液状化現象に拠る橋脚基礎崩壊が原因とされたが、震災発生当時に該橋梁上を列車が通過中でなかった事は、河中への列車転覆事故が避けられ不幸中の幸いと言えた。

該震災発生時に、該区間内他被害は、蕨駅本屋倒壊、及び、蕨-浦和間線路陥没が発生したが、線路関係は荒川鉄橋区間を除き、概ね、震災当日に復旧開通した。

赤羽驛
上野発白石行下り旅客普通第207列車、及び、田端発小山行下り貨物第303列車は、該震災発生直後、該駅に相次いで到着したが、荒川橋梁橋脚沈下の為に、該駅以北に於ける列車運転が不可能だった事から前途運転を中止し、旅客救済を目的として、旅客代207列車牽引機関車、及び、該客車を使用し、上り赤羽発上野行旅客普通第2554列車として折返し運転を実施した。
貨物第303列車は、牽引機関車のみ17時53分に該駅を出発させ、18時17分に田端機関庫に帰庫させた。
該駅留置貨車群は同月9日、及び、10日に編成を分割し、下り貨物列車に併結発送した。

川口町驛
上野発直江津行下り旅客普通第115列車は、該駅に12時に到着したが、線路状態を確認の上、該駅12時57分に出発させ13時10分に蕨驛に到着したが、蕨-浦和間線路状態不良の為に、前途運転は困難と判断し以降を運休とし、該列車牽引機関車、及び、客車を使用し、該駅20時10分発蕨行臨時列車を運転したが、23時30分に蕨-浦和間が上り線のみ復旧完了した事から、該駅を翌2日1時38分に出発し、2時26分に大宮驛に到着した。

蕨驛
品川発大宮行下り貨物第575列車は、該駅到着後、蕨-浦和間線路状態不良の為に、前途運転を見合せ、該駅に於いて待機状態となったが、該区間上り線復旧工事が完了した事を受け、該列車牽引機関車は、該駅に貨車を残置させ、該駅を翌2日1時に出発し、1時25分に大宮驛に到着した。
該駅残置貨車群は、同月4日迄に編成を分割させ、下り貨物列車に併結発送した。

浦和驛
大宮発上野行上り旅客普通第254列車は、該駅到着後、浦和-蕨間線路状態不要の為に、前途運転を見合せ、20時に大宮に帰着させた。
軽井澤発秋葉原行上り貨物第156列車は、浦和-蕨間線路状態不良の為に、該駅に於いて待機状態となったが、該不通区間復旧工事が完了した事から試運転を実施させる為に、該列車牽引機関車を解放し、単機に依り該区間試運転を実施し、結果として何等問題無き事が確認された事から、23時30分に上り線のみ復旧したが、該機関車は、翌2日0時50分に該駅を単機で出発し、大宮機関庫に帰庫させた。
該駅残置貨車群は、同月20日に臨時貨物列車として発送した。

赤羽-川口町間不通区間開通は、同月4日に単線、同月17日に複線が復旧した。
蕨-浦和間下り線不通区間開通は、同月2日1時20分だった。

他方、鐵道省大宮工場では該工場敷地内に存在した煉瓦積24mの大煙突が激震動に拠り折損崩壊した為に、巻添下敷となった職員24名死亡、21名重軽傷被害が発生した。
当時の大宮町住民に死者は生ぜず、大多数の死傷者は該工場職員、及び、山丸製糸工場従業員被災者が占めた。

政府は取敢えず震災罹災者に対し、同月3日より罹災証明書を交付する事に決定実施したが、鐵道省は該証明書持参者に対し、鉄道線、及び、指定航路区間3等利用に拠り避難目的地まで無料乗車可能とした事から、震災で被災し仮復旧した田端-大宮間は、震災復旧資材工事列車の運転に限定され一般客乗車は混乱防止の為に禁止され、東京市内を中心とする罹災地域から大宮驛まで徒歩移動を余儀無くされた罹災者達は、混雑が集中激化していた事から、大宮始発列車に必死に乗車しようとして、機関車前部デッキは勿論、客貨車屋根にまで群がり、文字通り鈴なり状態だった。

当時の北関東各線は、上越線が未開通だった為に、主だった長大隧道こそ存在しなかったが、それでも信越本線横川-軽井沢間を通過する碓氷峠には26箇所の隧道が存在した。
該区間を通過する旅客列車は完全電化運転され、煙害から開放されていたが、貨物列車は必要所要電気機関車数不足の為に、蒸気機関車牽引列車が残存していた。
超満員状態の旅客列車に乗車不可能と知った罹災者達は、職員の制止にも拘らず、貨物列車の貨車屋根に無理矢理乗込んだ。
横川-丸山間は障害物も無く難無く乗車出来たが、丸山信号所から矢ケ崎信号所に至る区間は他線に存在しない軌条中央部にラック式軌条を装備したアプト式と称する66‰の急勾配区間を時速6?前後の超低速度登攀する蒸気機関車煙突からは容赦無く排出する猛烈な煤煙が罹災者達を襲い、列車が碓氷第1隧道に進入すると、此の煤煙が原因で急性一酸化炭素中毒に侵された罹災者達は朦朧気絶し、次々と列車から墜落し轢断絶命する者が後を絶たず、その為に、碓氷峠26隧道内部全部に窒息死体が散乱放置されると言う惨状を呈していた。


震災被災した荒川橋梁は修復使用されたが、その後の輸送量増加に伴い、鐵道省は赤羽-大宮間複々線化を決定し、同時に初代戸田川橋梁共々、老朽化した第2代目荒川橋梁使用を廃止し新橋梁を架橋した。

此の時、更改された旧荒川橋梁2連は、昭和6年(1931年)に鉄道跨線橋として整備転用され、十條跨線橋として現存する。


複々線化完成は、
赤羽-蕨間 昭和4年(1929年)12月15日
蕨-大宮間 昭和7年(1932年) 7月15日
該工事竣工に拠り客貨別運転に分離され、更に大宮まで複々線化完成年9月1日に赤羽-大宮間が電化され、京濱線電車が延長運転された。
該電化完成に拠り、川口、蕨、及び、与野各駅は電車専用停車駅となり、浦和は該電化以前は長距離列車も停車していたが、該電化以降は電車以外の蒸気機関車牽引中長距離客車列車は全部無停車となり、県庁所在地として危機感を抱いた埼玉県、及び、浦和町官民有志は、当時の第28内閣総理大臣第?次 若槻禮次郎(わかつき れいじろう)(慶應2年(1866年)3月21日~昭和24年(1949年)11月20日)内閣(昭和6年(1931年)4月4日~同年12月13日在任)の鐵道大臣 原 脩次郎(はら しゅうじろう)(明治4年(1871年)5月14日~昭和9年(1934年)3月6日)(昭和6年(1931年)4月14日~同年12月13日在任)に対し、浦和駅中長距離列車再停車を請願し、此れを受け鐵道省東京鐵道局で審議した結果、翌昭和8年(1933年)4月1日ダイヤ改正で、朝夕下り列車4本、上り列車3本計7本の普通客車列車を停車させ、同時に2等車連結列車停車が復活したが、然し、県庁所在地中心駅にも拘らず、相変わらず全急行列車勿論、大部分の列車は通過した為に、電化以前とは比較にならぬ程、不便な状態に変化は無かった。
また電車編成も2等車を連結した、蒲田、及び、東神奈川電車庫配置基本編成車は赤羽以南の運用で、早朝、深夜は赤羽-大宮間折返し運転となった為に、電化以前と比較して、電化後は地元在住民にとって東京市域への交通は以前とは比較にならぬ程、明らかに不便な状態であり、当時、全国の道府県庁所在地で、唯一、鐵道省路線が存在しない沖縄県を除き、優等車輌連結列車通過駅は埼玉県浦和町だけだった。

当時の埼玉県は、大正11年(1922年)12月1日に熊谷町が県下初の市昇格だったが、その後、昭和8年(1933年)4月1日に、川越町、及び、川口町が市に昇格するまで10年弱も市昇格例が無く、そうした中、現在の、さいたま市に近い存在として、県庁所在地たる浦和町を中核に、与野、大宮、及び、岩槻各町を含めた埼玉総合市制構想が浮上した。
然し、当時ですら、経済的、及び、税収等々何れに於いて浦和町より上位に存在した大宮町こそ新市中心地たるべきとの大宮町議会決議に対し、浦和町議会が猛反発し、埼玉県議会に依る調停工作も不調に終わった事から、浦和町は昭和9年(1934年)2月11日に独自に市昇格を実施し、結局、埼玉総合市制計画は頓挫画餅と化した。

因みに、戦前に於ける当時の知事職は現在の民意公選制度とは異なり官選制度下に在り、人選は内務省が担当し内務大臣が任命権者だったが、各府県には等級が存在し、東京、神奈川、愛知、京都、大阪、兵庫、山口、及び、福岡各県が1等級扱、宮城、茨城、栃木、群馬、静岡、富山、石川、岡山、広島、愛媛、長崎、熊本、及び、鹿児島各県が2等級扱以外の県は全部3等級、若しくは、4等級で、埼玉県は最下級4等級扱だった。
当時の知事職人事で、千葉県知事→宮崎県知事、埼玉県知事→島根県知事への移動は、現在の感覚であれば左遷降格視とも取れるが、当時は栄転右遷職とされ、当時の内務省、更に政府が埼玉県自体を最下扱視し、該請願など一顧の価値無き案件なりと考えていた事は否定し得ない。
亦、当時の北海道は正式には北海道庁と称し、それ故、知事職(親任官)では無く長官職(勅任官)であり、帝國陸軍は旭川に師団司令部を有していたが、陸軍師団長職は親補職で親任官(しんにんかん)だったのに対し、北海道長官職は親任官では無く勅任官(ちょくにんかん)で、同じ高等官でありながら、道庁所在地札幌では無く旭川と言う地方駐在の陸軍師団長職の方が格上で、鐵道省札幌鐵道局長や逓信省札幌逓信電信局長(勅任官)と同格と云う矛盾を内包していた。

尚、該大宮電化以降、京濱線が京濱東北線と呼称されたと称する文献を多数散見するが、京濱東北線と称する様になるのは、大東亜戦争中に於ける金属回収令に基き金属製前面行表示板廃止の昭和17年(1942年)11月以降の事であり、大宮延長時は 京濱及東北線 と称していたのが正当である。
故に、該記述群は史実に基づかぬ伝聞反復の結果、事実混同され事実無根である。


大宮は交通の要害として明治末期頃より飛躍的に発達を遂げたが、川越町とは当初、川越に本社を有する佐久間軒に依り乗合馬車が運行されていたが、大宮、及び、川越に電灯電力供給事業を行っていた川越電燈會社を吸収合併した川越電気鐵道が、明治39年(1906年)4月16日に大宮駅前-川越久保町間12.8kmに路面電車の運行を開始した。

他方、粕壁町との間には、昭和4年(1929年)11月17日に北総鐵道が粕壁(現 春日部)-大宮間を開通させた。
北総鐵道は当初、配線の関係上、鐵道省大宮駅構内への乗入が出来ず、已む無く該駅構外仮駅での開業だったが、改良工事竣工に拠り同年12月11日には該駅構内乗入が可能になり、前後して社名を 総武鐵道?(そうぶ てつどう?)に改称されている。

然し、帝國陸軍主要機関は、元来、殆どの機関が東京市内に存在したが該市内が住宅地化進展と共に敷地拡張が困難になり、更に、戦時体制と共に防諜上の問題も在り、神奈川県相模原地区と共に、北武地区へ移転させる事になり、更に、高萩地区に陸軍航空士官学校設置が決定するに及び、陸軍の要請を受け、鐵道省は大宮-高麗川間30.6kmに鉄道敷設を決定し、昭和15年(1940年)7月22日に該区間が開通し、線路名称は川越線(かわごえせん)と命名された。

並行する西武鐵道大宮軌道線は、川越線が全通した事で旅客競争力を喪失し、同年12月20日附で営業休止し、更に、昭和16年(1941年)2月25日に営業廃止を余儀無くされた。


大東亜戦争に於ける空襲被害に就いて該区間内では、
昭和20年(1945年)4月13日
 警戒警報発令  22時44分
 空襲警報発令  23時02分
 空襲開始    23時18分
 空襲警報解除   2時22分
 警戒警報解除   2時52分
該空爆被害に依り、都内では大宮御所、明治神宮本殿、等々が焼失したが、赤羽-大宮間は爆弾命中に拠り線路破壊4ヶ所計50m、枕木焼損30本焼失損壊、焼夷弾攻撃で赤羽駅本屋、及び、該駅貨物ホーム上屋が焼失する被害が発生した。
復旧は15日12時開通。

同年8月3日
 警戒警報発令   9時49分
 空襲警報発令  10時21分
 空襲開始    10時50分
 空襲警報解除  11時30分
 警戒警報解除  12時05分
該空襲で、赤羽駅構内が機銃掃射被害を受け、旅客重傷4名、軽傷3名が生じた。

同年同月10日 帝都北部空襲
 警戒警報発令   6時10分
 空襲警報発令   7時30分
 空襲開始     7時50分
 空襲警報解除  10時50分
 警戒警報解除  11時10分
下十條(現 東十条)-赤羽-川口間が被災し、特に、新河岸川橋梁が13cmロケット弾攻撃で該弾が命中中破したが、戦争最末期で艦載機から機銃攻撃が不特定に実行されている時期で、此の当時、聯合国軍はオリンピック作戦と称する日本本土南九州上陸作戦を立案し、昭和20年(1945年)12月1日に実施すべく、該上陸を前提とした我が国軍隊の後方移動を阻害遮断させる為に、中九州以南に存在した主要河川に架橋された鉄道道路橋は共に悉く徹底的に攻撃落橋被害が続出していた。
此の状況下に於いて、此れら、橋梁復旧の為に本省橋梁架橋専門職員が遠く九州に派遣出張指揮しながら復旧活動を実施していた為に、該橋が東京都区内に所在しながら、架橋専門担当者が在京していない状況だった為に復旧に時間を要し、該橋開通は終戦後の同月19日9時30分になった。
また、該付近一帯に爆弾焼夷弾が無数落下し、昨今ですら建設現場から不発弾が発見される騒動が在ったばかりである。


戦争直後、進駐軍は主要駅に渉外室と称し R.T.Oを設置させたが、赤羽-大宮間で県庁所在地たる浦和には設置されず大宮駅に昭和20年(1945年)12月21日に開設され、昭和27年(1952年)4月1日にサンフランシスコ講和条約発効まで設置される。


戦後間もない昭和24年(1949年)3月28日に、北浦和-与野間走行中の大宮行電車に落雷があり、モハ30127が全焼する事故が発生したが、大東亜戦争末期から昭和26年(1951年)前後に到る時期は混乱期で部品も払底し定期検査も困難だった事から車輌の保守点検修理もままならず、絶縁状態不良から、漏電、落雷、架線切断等々の現在では考えられぬ事故で電車全焼事例が多く存在する。


国鉄は第3次長期計画の基き、赤羽-大宮間3複線化を決定し、昭和41年(1966年)2月15日に着工したが、該区間は住宅密集地も点在し、増複線分用の土地収用は困難を極め、貨物下線、旅客上線の各々外側に増線した部分が殆どに亙った。
昭和42年(1967年)10月1日に与野-大宮間が3複々線化され、同時に大宮駅構内代価k量工事の一環として、改良前の京浜東北線は4番線1線発着だったが、改良後は1.2番線使用2線発着が可能になり列車増発が可能になった事から、東北本線列車と京浜東北線電車発着が整理分離された。
残り、赤羽-与野間は3複線化は、昭和43年(1968年)10月1日全国白紙大改正の直前たる、同年9月25日に竣工し、京浜東北線電車は全面分離独立運転が可能になった。


赤羽駅に於いて、昭和48年(1973年)4月24日夜半、乗客主体に拠る暴動が発生した。

当時の日本国有鉄道職員の1労働組合で、主に、運転、及び、車両検査担当者が多数加入していた動力車労働組合、即ち、動労は国鉄当局が実施しようと計画していた人員削減計画案反対の立場から、順法闘争と称する国鉄当局に対する、半ば嫌がらせの為の戦術を採用実行していた為に国鉄利用客は大迷惑を蒙っていた。
然るに、同年3月13日に、高崎線上尾駅に於いて、動労の順法闘争が原因で上野行普通電車2本が運転手のサボタージュで立往生させられ2時間以上立往生させられた挙句、突然、大宮駅打切運転となった事から電車内で待機状態だった乗客達が激怒暴発し、駅や該列車に対し線路上の砕石を投げ施設を破壊し、更に、該電車運転士を袋叩きにし重傷を負わしめ、列車運行を阻害させた事件が発生し、事態が収拾し運転再開に漕ぎ着けたのは同日深夜に至ってからであった。


然し、動労は該事態が重大発展したにも拘らず、該事件に対し反省教訓とせず、愚かにも労働者大衆は自身達運動に共感連帯し、該運動展開を支持していると単純己惚れで曲解付会していた事から、恥も外聞も無く、翌4月下旬から、再度、順法闘争を再開した。

該日、東北本線上野駅では、該駅発宇都宮行普通電車が順法闘争の影響で動労所属運転士が不在の為に、該電車運休を決定した事から、帰宅の足を奪われた該電車利用者が激高し、該駅構内に罵声が飛び交い不穏な空気が醸出された。
事態を重視した東京北鉄道管理局は、取敢えず、19時45分上野発奥羽本線経由青森行急行津軽1号を、大宮-宇都宮間を各駅停車として沿線利用者救済に充てた事から事態は沈静化するかの如く見えた。
然るに、該列車連結の荷物車で託送する全国紙地方版新聞積込が該日に限り到着が遅延し、該列車は該駅を30分遅延の20時15分に発車した事から、該列車振替客に再度、不満の色が拡がった。

該列車は赤羽駅に30分遅延し到着したが、車内通路は勿論、デッキに至るまで鈴なり状態で立錐の余地すら無く、該駅で該列車を待機ていた1500名以上の利用者は窓を開け中に入ろうとし、車内の乗客に窓を開ける様に懇願したが、殆どの乗客が該懇願を無視した事から、ホームで待機していた乗客達を激怒させ、該列車は寝台車を除き、旅客座席全車両の窓ガラスが割られ破壊された事が発端になり、該駅構内は半ば狂乱無法地帯と化し、該駅停車中の2本の列車が次々と襲撃され、更に、1名の泥酔者はホーム事務室で保管されていた暖房用灯油を無断で持ち出し、該駅構内3ヵ所、及び、京浜東北線電車運転台に入り込み、灯油を撒き持参のライターで放火した為に、該電車運転台は瞬時にして全焼し使用不能になった。
また、他一群は該駅出札口に侵入し、該駅売上金、及び、未使用乗車券類多数を掠奪した。

該駅暴動は警視庁機動隊導入に拠り翌日3時に沈静化したが、動労は、自身の主張運動が、当初から国民から乖離忌避され嫌悪憎悪の対象だったにも拘らず、事態の本質すら全く理解していなかった事を初めて悟り、順法闘争は該日を以って中止された。





表紙の写真は、東十条駅前に架橋で鐵道唱歌奥州磐城編第3番にも登場する第2代荒川橋梁橋桁を転用活用した 十條跨線橋(じゅうじょう こせんきょう)



東北本線歴史的痕跡探記
~東京-上野間編 大正浪漫~
http://4travel.jp/travelogue/10719577
~上野駅編~

~上野-田端-赤羽間編 明治頌歌~

~王子赤羽貨物支線編~

~赤羽-大宮間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10685059
~大宮-栗橋間編 明治頌歌~

~栗橋-小山間編 明治頌歌~

~小山-宇都宮間編 明治頌歌~

~宇都宮-長久保-片岡間編(廃止線) 明治頌歌~

~宇都宮-宝積寺-氏家間編(現行線) 明治頌歌~

~氏家-矢板間編 明治頌歌~

~矢板-黒磯間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/11164646
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~黒磯-黒田原-白河間編(現行線) 大正浪漫~

~白河駅編 大正浪漫~
http://4travel.jp/travelogue/10587375
~白河-須賀川間編(廃止線) 明治頌歌~

~白河-須賀川間編(現行線) 大正浪漫~

同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
JRローカル 徒歩

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  • 赤羽(あかばね)駅<br /><br /><br /><br />駅本屋東口<br />該駅は、明治18年(1885年)3月1日開業である。<br />日本鐵道は、明治16年(1883年)7月28日に上野-熊谷間を開通させた際に、途中に、王子、浦和、上尾、及び、鴻巣に停車場を設置したが、該駅は大宮と共に停車場設置が見送られた。<br />当時の赤羽は中仙道岩淵本宿に西外れに所在し、沢庵大根、らっきょう、生姜の産地たる土地が拡がる痩せた荒部地だった。<br />然し、地元は鉄道に対し決して否定的立場で無かった事は、岩淵村旧名主たる小田切重路は停車場設置の為に必要とする所要地を、自身の所有地200坪を無償献納を申し出たのをはじめ、岩淵村在住の小山新七も自身所有地194坪を寄進申請する事で停車場設置が実現可能かに期待されたが、該停車場設置に対し、工部省鐵道作業局長 井上 勝(いのうえ まさる)(天保14年(1843年)8月25日?明治43年(1910年)8月2日)の見解と相容れる処とならず、該案申請は不採用となり岩淵地区停車場設置は画餅に化したかに思われた。<br />然るに、赤羽に停車場設置が具体化したのは皮肉にも地元要請結果では無く、日本鐵道側の必要性から生じた事が発端だった。<br />即ち、日本鐵道は工部省鐵道作業局線連絡の為に、新宿線、即ち、現在の、山手線品川-池袋間、及び、赤羽線建設の為に、調査の結果、連絡分岐地として赤羽が選定され、該分岐地を、東京府北豊嶋郡岩淵村字赤羽462番地、即ち、現在の、稲付街道(岩槻街道)、及び、板橋街道合流地たる、東京都北区赤羽1丁目63番に設置決定した。<br />鐵道省は、東北本線上野-大宮間に対し輸送の観点から東海道本線東京-國府津間と共に特別扱いし、該区間に対し、大正10年(1921年)10月1日迄に従来の双信閉塞式から3動型腕木式信号機使用に拠る自動閉塞式を導入したが、増加の一途をたどる輸送量に対し抜本的対策には成り得ず、該区間を複々線化して客貨分離運転をはかり、更に、電車運転導入に拠るフリーケントサービスを企画し直ちに工事に着手した。<br />然るに、開業当時の駅位置では該駅に京濱線電車運転延長を実行し該駅以北に延長させる場合、新河岸川橋梁手前に存在する曲線上に於ける分岐器設置を要し、然し、当時は曲線用分岐器設置は技術上困難とされた為に、鐵道省は列車運転安全を考慮して駅施設を一部移転させる事に決定し、総工費200万円を以って昭和3年(1928年)2月1日に旅客扱に限定し東京方300m地点に移設したのが現駅地である。<br />因みに、曲線用分岐器は昭和8年(1933年)7月1日に中央本線飯田町駅構内に設置された物が嚆矢だが、常に脱線事故との頻発隣合せ状態であり、廃止に至る平成期にも脱線事故が発生している。<br />此れと同時に、王子-赤羽間複々線化、及び、田端-赤羽間電車運転が実施された。<br />新旅客駅は、東赤羽口(東口)、及び、西稲村口(西口)が設置され、両改札口間を跨線橋で結合させ、特に京濱線ホームは築堤上に設置されたが、該状況は、昭和58年(1983年)4月に、現在の埼京線(さいきょうせん)工事開始まで該駅基本構造は移転当時の様相を濃厚に残存させていた。<br />大東亜戦争(だいとうあせんそう)末期、我が国は不幸にも連合軍の空爆下におかれたが、該駅に於ける空襲被害は昭和20年(1945年)4月13日に発生した。<br />即ち、<br />警戒警報発令 13日22時44分<br />空襲警報発令     23時<br />空襲警報解除 14日 2時25分<br />該駅は、駅本屋、及び、貨物取扱所上屋全焼した。<br />復旧再建された駅本屋は応急建築だったが、昭和28年(1953年)4月に第5代目駅本屋が再建された。<br />予てより地元から要望が強かった昭和32年(1957年)に南口が開設される。<br />利用客激増を受け駅本屋が手狭になった事から昭和42年(967年)に第6代目鉄筋コンクリート建駅本屋に改築された。<br />旧該駅貨物取扱は昭和49年(1974年)10月1日附で廃止され跡地は東北新幹線、及び、埼京線建設用地に転用された。<br />該駅は駅構内両側に踏切が存在し、朝夕のみならず昼間ですら開放状態が珍しい状態だった事から、行政側たる東京都も該駅全体を高架化させ踏切廃止を切望していた事から、長年の懸案だった該駅付近高架化工事を平成2年(1990年)着工し、該駅両側入口部が単線だった貨物線も完全複線化され、平成10年(1998年)12月6日に竣工した。<br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCD=34

    赤羽(あかばね)駅



    駅本屋東口
    該駅は、明治18年(1885年)3月1日開業である。
    日本鐵道は、明治16年(1883年)7月28日に上野-熊谷間を開通させた際に、途中に、王子、浦和、上尾、及び、鴻巣に停車場を設置したが、該駅は大宮と共に停車場設置が見送られた。
    当時の赤羽は中仙道岩淵本宿に西外れに所在し、沢庵大根、らっきょう、生姜の産地たる土地が拡がる痩せた荒部地だった。
    然し、地元は鉄道に対し決して否定的立場で無かった事は、岩淵村旧名主たる小田切重路は停車場設置の為に必要とする所要地を、自身の所有地200坪を無償献納を申し出たのをはじめ、岩淵村在住の小山新七も自身所有地194坪を寄進申請する事で停車場設置が実現可能かに期待されたが、該停車場設置に対し、工部省鐵道作業局長 井上 勝(いのうえ まさる)(天保14年(1843年)8月25日?明治43年(1910年)8月2日)の見解と相容れる処とならず、該案申請は不採用となり岩淵地区停車場設置は画餅に化したかに思われた。
    然るに、赤羽に停車場設置が具体化したのは皮肉にも地元要請結果では無く、日本鐵道側の必要性から生じた事が発端だった。
    即ち、日本鐵道は工部省鐵道作業局線連絡の為に、新宿線、即ち、現在の、山手線品川-池袋間、及び、赤羽線建設の為に、調査の結果、連絡分岐地として赤羽が選定され、該分岐地を、東京府北豊嶋郡岩淵村字赤羽462番地、即ち、現在の、稲付街道(岩槻街道)、及び、板橋街道合流地たる、東京都北区赤羽1丁目63番に設置決定した。
    鐵道省は、東北本線上野-大宮間に対し輸送の観点から東海道本線東京-國府津間と共に特別扱いし、該区間に対し、大正10年(1921年)10月1日迄に従来の双信閉塞式から3動型腕木式信号機使用に拠る自動閉塞式を導入したが、増加の一途をたどる輸送量に対し抜本的対策には成り得ず、該区間を複々線化して客貨分離運転をはかり、更に、電車運転導入に拠るフリーケントサービスを企画し直ちに工事に着手した。
    然るに、開業当時の駅位置では該駅に京濱線電車運転延長を実行し該駅以北に延長させる場合、新河岸川橋梁手前に存在する曲線上に於ける分岐器設置を要し、然し、当時は曲線用分岐器設置は技術上困難とされた為に、鐵道省は列車運転安全を考慮して駅施設を一部移転させる事に決定し、総工費200万円を以って昭和3年(1928年)2月1日に旅客扱に限定し東京方300m地点に移設したのが現駅地である。
    因みに、曲線用分岐器は昭和8年(1933年)7月1日に中央本線飯田町駅構内に設置された物が嚆矢だが、常に脱線事故との頻発隣合せ状態であり、廃止に至る平成期にも脱線事故が発生している。
    此れと同時に、王子-赤羽間複々線化、及び、田端-赤羽間電車運転が実施された。
    新旅客駅は、東赤羽口(東口)、及び、西稲村口(西口)が設置され、両改札口間を跨線橋で結合させ、特に京濱線ホームは築堤上に設置されたが、該状況は、昭和58年(1983年)4月に、現在の埼京線(さいきょうせん)工事開始まで該駅基本構造は移転当時の様相を濃厚に残存させていた。
    大東亜戦争(だいとうあせんそう)末期、我が国は不幸にも連合軍の空爆下におかれたが、該駅に於ける空襲被害は昭和20年(1945年)4月13日に発生した。
    即ち、
    警戒警報発令 13日22時44分
    空襲警報発令     23時
    空襲警報解除 14日 2時25分
    該駅は、駅本屋、及び、貨物取扱所上屋全焼した。
    復旧再建された駅本屋は応急建築だったが、昭和28年(1953年)4月に第5代目駅本屋が再建された。
    予てより地元から要望が強かった昭和32年(1957年)に南口が開設される。
    利用客激増を受け駅本屋が手狭になった事から昭和42年(967年)に第6代目鉄筋コンクリート建駅本屋に改築された。
    旧該駅貨物取扱は昭和49年(1974年)10月1日附で廃止され跡地は東北新幹線、及び、埼京線建設用地に転用された。
    該駅は駅構内両側に踏切が存在し、朝夕のみならず昼間ですら開放状態が珍しい状態だった事から、行政側たる東京都も該駅全体を高架化させ踏切廃止を切望していた事から、長年の懸案だった該駅付近高架化工事を平成2年(1990年)着工し、該駅両側入口部が単線だった貨物線も完全複線化され、平成10年(1998年)12月6日に竣工した。
    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCD=34

    赤羽駅

  • 赤羽駅<br /><br /><br /><br />駅本屋東口<br />旧称 東赤羽口

    赤羽駅



    駅本屋東口
    旧称 東赤羽口

    赤羽駅

  • 赤羽駅<br /><br /><br /><br />駅本屋東口<br />旧称 東赤羽口

    赤羽駅



    駅本屋東口
    旧称 東赤羽口

    赤羽駅

  • 赤羽駅<br /><br /><br /><br />西口<br />旧称 西稲村口<br />昭和3年(1928年)2月1日開設。

    赤羽駅



    西口
    旧称 西稲村口
    昭和3年(1928年)2月1日開設。

    赤羽駅

  • 赤羽駅<br /><br /><br /><br />東口商店街(1番街)<br />該駅が旅客扱のみ昭和3年(1928年)2月1日に現位置に移転後に初代駅との連絡路として開設されたとの説が地元北区では根強いが事実では無いらしい。<br /><br />東京都北区赤羽1−14<br />東北本線赤羽駅東口 徒歩1分

    赤羽駅



    東口商店街(1番街)
    該駅が旅客扱のみ昭和3年(1928年)2月1日に現位置に移転後に初代駅との連絡路として開設されたとの説が地元北区では根強いが事実では無いらしい。

    東京都北区赤羽1−14
    東北本線赤羽駅東口 徒歩1分

  • 赤羽駅<br /><br /><br /><br />東口商店街(1番街)<br />該路は商店街とは名ばかりで現地は安居酒屋が乱立。<br /><br />東京都北区赤羽1−40−11<br />東北本線赤羽駅東口 徒歩3分

    赤羽駅



    東口商店街(1番街)
    該路は商店街とは名ばかりで現地は安居酒屋が乱立。

    東京都北区赤羽1−40−11
    東北本線赤羽駅東口 徒歩3分

  • 赤羽駅<br /><br /><br /><br />東口商店街(1番街)<br />終端側<br /><br />東京都北区赤羽1−62−10<br />東北本線赤羽駅東口 徒歩4分

    赤羽駅



    東口商店街(1番街)
    終端側

    東京都北区赤羽1−62−10
    東北本線赤羽駅東口 徒歩4分

  • 赤羽-川口間<br /><br /><br /><br />初代赤羽駅跡<br />写真中央曲線付近に所在した。

    赤羽-川口間



    初代赤羽駅跡
    写真中央曲線付近に所在した。

  • 赤羽-川口間<br /><br /><br /><br />初代赤羽驛跡<br />該駅は、明治18年(1885年)3月1日開設時は該位置に於いて開業。<br /><br />東京都北区赤羽1−63−6<br />東北本線赤羽駅東口 徒歩4分

    赤羽-川口間



    初代赤羽驛跡
    該駅は、明治18年(1885年)3月1日開設時は該位置に於いて開業。

    東京都北区赤羽1−63−6
    東北本線赤羽駅東口 徒歩4分

  • 赤羽-川口間<br /><br /><br /><br />初代赤羽驛跡<br />該駅は移転後、現在はプラスティク加工成形企業として我が国筆頭企業 天馬株式会社本社が所在する。<br /><br />東京都北区赤羽1−63−6<br />東北本線赤羽駅東口 徒歩4分

    赤羽-川口間



    初代赤羽驛跡
    該駅は移転後、現在はプラスティク加工成形企業として我が国筆頭企業 天馬株式会社本社が所在する。

    東京都北区赤羽1−63−6
    東北本線赤羽駅東口 徒歩4分

  • 赤羽-川口間<br /><br /><br /><br />初代赤羽驛跡<br />その後、昭和3年(1928年)2月1日に旅客扱に限定し現駅位置に移転。<br /><br />東京都北区赤羽1−63−3<br />東北本線赤羽駅東口 徒歩4分

    赤羽-川口間



    初代赤羽驛跡
    その後、昭和3年(1928年)2月1日に旅客扱に限定し現駅位置に移転。

    東京都北区赤羽1−63−3
    東北本線赤羽駅東口 徒歩4分

  • 赤羽-川口間<br /><br /><br /><br />初代赤羽驛跡<br />その後、旅客施設が手狭になり、且つ、京濱線電車を赤羽-大宮間延長運転が決定したが、東北本線青森方は新河岸川橋梁手前が曲線状態に在り、当時の技術では曲線用分岐器設置は困難とされた為に、昭和3年(1928年)2月1日附で、旅客施設のみ東京方300m地点に移動し旧駅施設は貨物取扱専用となり、昭和49年(1974年)10月1日附で貨物取扱廃止まで残存。<br /><br />東京都北区赤羽1−63<br />東北本線赤羽駅東口 徒歩4分

    赤羽-川口間



    初代赤羽驛跡
    その後、旅客施設が手狭になり、且つ、京濱線電車を赤羽-大宮間延長運転が決定したが、東北本線青森方は新河岸川橋梁手前が曲線状態に在り、当時の技術では曲線用分岐器設置は困難とされた為に、昭和3年(1928年)2月1日附で、旅客施設のみ東京方300m地点に移動し旧駅施設は貨物取扱専用となり、昭和49年(1974年)10月1日附で貨物取扱廃止まで残存。

    東京都北区赤羽1−63
    東北本線赤羽駅東口 徒歩4分

  • 赤羽-川口間<br /><br /><br /><br />帝國陸軍造兵工廠東京火薬工廠専用線跡<br /><br />東京都北区赤羽台3−11−19<br />東北本線赤羽駅西口 徒歩5分

    赤羽-川口間



    帝國陸軍造兵工廠東京火薬工廠専用線跡

    東京都北区赤羽台3−11−19
    東北本線赤羽駅西口 徒歩5分

  • 赤羽-川口間<br /><br /><br /><br />赤羽八幡神社(あかばね はちまんぐう じんじゃ)<br />写真鳥居左手に軍用専用引込線が存在した。<br /><br />東京都北区赤羽台4−1−6<br />?: 03−3908−1764<br />東北本線赤羽駅西口 徒歩6分<br />http://ak8mans.com/

    赤羽-川口間



    赤羽八幡神社(あかばね はちまんぐう じんじゃ)
    写真鳥居左手に軍用専用引込線が存在した。

    東京都北区赤羽台4−1−6
    ?: 03−3908−1764
    東北本線赤羽駅西口 徒歩6分
    http://ak8mans.com/

    赤羽八幡神社 寺・神社・教会

  • 赤羽-川口間<br /><br /><br /><br />赤羽八幡神社<br />該社は、戦前は境内に陸軍造兵廠東京火薬工廠専用線敷設の為に一部土地を収用され、戦後は安定しか思えたが、該社境内下を東北新幹線通過が決定し、更に、豊北本線(埼京線)が追加建設される事になり、鉄道と関係深き神社である。<br /><br />東京都北区赤羽台4−1−6<br />?: 03−3908−1764<br />東北本線赤羽駅西口 徒歩6分<br />http://ak8mans.com/

    赤羽-川口間



    赤羽八幡神社
    該社は、戦前は境内に陸軍造兵廠東京火薬工廠専用線敷設の為に一部土地を収用され、戦後は安定しか思えたが、該社境内下を東北新幹線通過が決定し、更に、豊北本線(埼京線)が追加建設される事になり、鉄道と関係深き神社である。

    東京都北区赤羽台4−1−6
    ?: 03−3908−1764
    東北本線赤羽駅西口 徒歩6分
    http://ak8mans.com/

    赤羽八幡神社 寺・神社・教会

  • 赤羽-川口間<br /><br /><br /><br />赤羽八幡神社<br />写真右手の石碑に陸軍東京火薬廠への専用連絡線が敷設されていた。<br /><br />東京都北区赤羽台4−1−6<br />?: 03−3908−1764<br />東北本線赤羽駅西口 徒歩6分<br />http://ak8mans.com/

    赤羽-川口間



    赤羽八幡神社
    写真右手の石碑に陸軍東京火薬廠への専用連絡線が敷設されていた。

    東京都北区赤羽台4−1−6
    ?: 03−3908−1764
    東北本線赤羽駅西口 徒歩6分
    http://ak8mans.com/

    赤羽八幡神社 寺・神社・教会

  • 赤羽-川口間<br /><br /><br /><br />赤羽八幡神社<br /><br />東京都北区赤羽台4−1−6<br />?: 03−3908−1764<br />東北本線赤羽駅西口 徒歩6分<br />http://ak8mans.com/

    赤羽-川口間



    赤羽八幡神社

    東京都北区赤羽台4−1−6
    ?: 03−3908−1764
    東北本線赤羽駅西口 徒歩6分
    http://ak8mans.com/

  • 赤羽-川口間<br /><br /><br /><br />旧貨物取扱所跡<br />昭和49年(1974年)10月1日附で該駅貨物取扱が廃止され、直ちに線路群は撤去され、東北新幹線建設資材保管地に活用された。<br /><br />東京都北区赤羽台4−1−6<br />?: 03−3908−1764<br />東北本線赤羽駅西口 徒歩6分<br />http://ak8mans.com/

    赤羽-川口間



    旧貨物取扱所跡
    昭和49年(1974年)10月1日附で該駅貨物取扱が廃止され、直ちに線路群は撤去され、東北新幹線建設資材保管地に活用された。

    東京都北区赤羽台4−1−6
    ?: 03−3908−1764
    東北本線赤羽駅西口 徒歩6分
    http://ak8mans.com/

  • 赤羽-川口間<br /><br /><br /><br />新河岸川(しんがしがわ)橋梁<br />該河川は荒川(あらかわ)水系に所属する1級河川。<br />該河川は大正期まで 戸田川と称した。<br />該線開通時に於ける該河川と荒川との合流点は該線上流側に存在したが、該河川は荒川と川床たかさが異なる事から、大雨等々に依る集水作用に依り水害災害が多発し、此の為に内務省土木局は治水工事として該河川を荒川と平行させ川床が同一標高となる地点に於いて合流させる工事を明示28年(1895年)3月に完成させ、同時に、河川工事に伴い新河川地点に架橋したのが初代該橋梁である。<br />手前から 昭和43年(1968年)9月架橋の京浜東北線用。<br />中央は 昭和3年(1928年)架橋旅客線用。<br />奥は 昭和2年(1927年)架橋貨物線用。<br /><br />東京都北区赤羽1無番地<br />東北本線(埼京線)北赤羽駅赤羽口 徒歩15分

    赤羽-川口間



    新河岸川(しんがしがわ)橋梁
    該河川は荒川(あらかわ)水系に所属する1級河川。
    該河川は大正期まで 戸田川と称した。
    該線開通時に於ける該河川と荒川との合流点は該線上流側に存在したが、該河川は荒川と川床たかさが異なる事から、大雨等々に依る集水作用に依り水害災害が多発し、此の為に内務省土木局は治水工事として該河川を荒川と平行させ川床が同一標高となる地点に於いて合流させる工事を明示28年(1895年)3月に完成させ、同時に、河川工事に伴い新河川地点に架橋したのが初代該橋梁である。
    手前から 昭和43年(1968年)9月架橋の京浜東北線用。
    中央は 昭和3年(1928年)架橋旅客線用。
    奥は 昭和2年(1927年)架橋貨物線用。

    東京都北区赤羽1無番地
    東北本線(埼京線)北赤羽駅赤羽口 徒歩15分

    新河岸川橋梁 名所・史跡

  • 赤羽-川口間<br /><br /><br /><br />新河岸川橋梁<br />手前から<br />昭和2年(1927年)架橋貨物線用<br />昭和3年(1928年)架橋旅客線用<br />昭和43年(1968年)9月京浜東北線用<br /><br />東京都北区赤羽1無番地<br />東北本線(埼京線)北赤羽駅赤羽口 徒歩15分

    赤羽-川口間



    新河岸川橋梁
    手前から
    昭和2年(1927年)架橋貨物線用
    昭和3年(1928年)架橋旅客線用
    昭和43年(1968年)9月京浜東北線用

    東京都北区赤羽1無番地
    東北本線(埼京線)北赤羽駅赤羽口 徒歩15分

    新河岸川橋梁 名所・史跡

  • 赤羽-川口間<br /><br /><br /><br />新河岸川橋梁<br /><br />東京都北区赤羽1無番地<br />東北本線(埼京線)北赤羽駅赤羽口 徒歩15分

    赤羽-川口間



    新河岸川橋梁

    東京都北区赤羽1無番地
    東北本線(埼京線)北赤羽駅赤羽口 徒歩15分

    新河岸川橋梁 名所・史跡

  • 赤羽-川口間<br /><br /><br /><br />新河岸川橋梁<br /><br />東京都北区赤羽1無番地<br />東北本線(埼京線)北赤羽駅赤羽口 徒歩15分

    赤羽-川口間



    新河岸川橋梁

    東京都北区赤羽1無番地
    東北本線(埼京線)北赤羽駅赤羽口 徒歩15分

    新河岸川橋梁 名所・史跡

  • 赤羽-川口間<br /><br /><br /><br />新河岸川橋梁(貨物線用)<br />該橋梁は、昭和2年(1927年)に赤羽-蕨間複々線化計画の一環として貨物線用として架橋された、47.1m1連の下路複線型ワーレントラス橋梁で製造は横河橋梁である。。<br />米空軍は、昭和20年(1945年)8月10日7時50分〜10時50分の間に、B29型爆撃機100機、艦載機50機が山梨県方面から東京北部地域に侵入し空襲爆撃攻撃を実施し東北本線下十条(現 東十条)-赤羽-川口間に於いて線路破壊4ヶ所230m、枕木損傷50本の被害が発生したが、該艦載機は攻撃の際に該橋梁に対し同年7月15日より搭載開始の13cmロケット弾を発射し、該弾は該橋梁端柱1本に命中し切断寸前の中破被害が発生した。<br />当時は大東亜戦争最末期に相当し、全国、殊に、連合軍は同年12月1日実施予定でオリンピック作戦と称する日本本土上陸作戦前哨戦として、中南九州各地の鉄道道路橋梁は、我が国軍隊の輸送路遮断の為に、悉く攻撃を受け落橋破壊被害が発生していた。<br />その為に本省の橋梁架橋技術者が現地に出張指揮し落橋の復旧工事の為に出払った状況下での被災であった。<br />常時空襲状況下に依り、仮木組足場設置すら覚つかぬ状況に、橋梁復旧は都区内に所在するにも拘らず本省架橋担当者不在の為に時間を要し、同月19日9時30分に復旧工事が完成し運転再開。<br /><br />東京都北区赤羽1無番地<br />東北本線(埼京線)北赤羽駅赤羽口 徒歩15分

    赤羽-川口間



    新河岸川橋梁(貨物線用)
    該橋梁は、昭和2年(1927年)に赤羽-蕨間複々線化計画の一環として貨物線用として架橋された、47.1m1連の下路複線型ワーレントラス橋梁で製造は横河橋梁である。。
    米空軍は、昭和20年(1945年)8月10日7時50分〜10時50分の間に、B29型爆撃機100機、艦載機50機が山梨県方面から東京北部地域に侵入し空襲爆撃攻撃を実施し東北本線下十条(現 東十条)-赤羽-川口間に於いて線路破壊4ヶ所230m、枕木損傷50本の被害が発生したが、該艦載機は攻撃の際に該橋梁に対し同年7月15日より搭載開始の13cmロケット弾を発射し、該弾は該橋梁端柱1本に命中し切断寸前の中破被害が発生した。
    当時は大東亜戦争最末期に相当し、全国、殊に、連合軍は同年12月1日実施予定でオリンピック作戦と称する日本本土上陸作戦前哨戦として、中南九州各地の鉄道道路橋梁は、我が国軍隊の輸送路遮断の為に、悉く攻撃を受け落橋破壊被害が発生していた。
    その為に本省の橋梁架橋技術者が現地に出張指揮し落橋の復旧工事の為に出払った状況下での被災であった。
    常時空襲状況下に依り、仮木組足場設置すら覚つかぬ状況に、橋梁復旧は都区内に所在するにも拘らず本省架橋担当者不在の為に時間を要し、同月19日9時30分に復旧工事が完成し運転再開。

    東京都北区赤羽1無番地
    東北本線(埼京線)北赤羽駅赤羽口 徒歩15分

    新河岸川橋梁 名所・史跡

  • 赤羽-川口間<br /><br /><br /><br />新河岸川橋梁(貨物線用)<br />青森方端柱双方を仔細検証すると、左側が原型たるリベット結合に対し、右側は部材を追加し溶接修復した為に表面上に於いて鋼板状態相違識別が明白。<br />ロケット弾攻撃で中破被害の復旧工事痕跡過程如実。<br />因みに、東京都内に於ける他橋梁空襲被害は、同年1月27日14時空襲警報発令、15時10分同解除の銀座地区空襲に拠り、東海道本線有楽町駅直撃弾爆発に拠る列車線スラブ貫通破壊、及び、山下橋架道橋橋桁小破が存在する。<br /><br />東京都北区赤羽1無番地<br />東北本線(埼京線)北赤羽駅赤羽口 徒歩15分

    赤羽-川口間



    新河岸川橋梁(貨物線用)
    青森方端柱双方を仔細検証すると、左側が原型たるリベット結合に対し、右側は部材を追加し溶接修復した為に表面上に於いて鋼板状態相違識別が明白。
    ロケット弾攻撃で中破被害の復旧工事痕跡過程如実。
    因みに、東京都内に於ける他橋梁空襲被害は、同年1月27日14時空襲警報発令、15時10分同解除の銀座地区空襲に拠り、東海道本線有楽町駅直撃弾爆発に拠る列車線スラブ貫通破壊、及び、山下橋架道橋橋桁小破が存在する。

    東京都北区赤羽1無番地
    東北本線(埼京線)北赤羽駅赤羽口 徒歩15分

    新河岸川橋梁 名所・史跡

  • 赤羽-川口間<br /><br /><br /><br />新河岸川橋梁(貨物線用)<br />青森方端柱<br /><br />東京都北区赤羽1無番地<br />東北本線(埼京線)北赤羽駅赤羽口 徒歩15分

    赤羽-川口間



    新河岸川橋梁(貨物線用)
    青森方端柱

    東京都北区赤羽1無番地
    東北本線(埼京線)北赤羽駅赤羽口 徒歩15分

    新河岸川橋梁 名所・史跡

  • 赤羽-川口間<br /><br /><br /><br />新河岸川橋梁(貨物線用)<br />青森型端柱<br />拡大<br /><br />東京都北区赤羽1無番地<br />東北本線(埼京線)北赤羽駅赤羽口 徒歩15分

    赤羽-川口間



    新河岸川橋梁(貨物線用)
    青森型端柱
    拡大

    東京都北区赤羽1無番地
    東北本線(埼京線)北赤羽駅赤羽口 徒歩15分

    新河岸川橋梁 名所・史跡

  • 赤羽-川口間<br /><br /><br /><br />新河岸川橋梁(貨物線用)<br />左端柱<br />設置当時の原型鋲打様式を残す。<br /><br />東京都北区赤羽1無番地<br />東北本線(埼京線)北赤羽駅赤羽口 徒歩15分

    赤羽-川口間



    新河岸川橋梁(貨物線用)
    左端柱
    設置当時の原型鋲打様式を残す。

    東京都北区赤羽1無番地
    東北本線(埼京線)北赤羽駅赤羽口 徒歩15分

    新河岸川橋梁 名所・史跡

  • 赤羽-川口間<br /><br /><br /><br />新河岸川橋梁(貨物線用)<br />右端柱<br />13cmロケット弾攻撃で該弾が命中。<br />命中部分修復の際に鋼材貼付溶接で修復。<br />周囲の鋲部と修復部が明らかに異なる。<br /><br />東京都北区赤羽1無番地<br />東北本線(埼京線)北赤羽駅赤羽口 徒歩15分

    赤羽-川口間



    新河岸川橋梁(貨物線用)
    右端柱
    13cmロケット弾攻撃で該弾が命中。
    命中部分修復の際に鋼材貼付溶接で修復。
    周囲の鋲部と修復部が明らかに異なる。

    東京都北区赤羽1無番地
    東北本線(埼京線)北赤羽駅赤羽口 徒歩15分

    新河岸川橋梁 名所・史跡

  • 赤羽-川口間<br /><br /><br /><br />新河岸川橋梁(貨物線用)<br />右端柱<br />被害は端柱が千切れんばかりの状態だった。<br />修復部は新製当時と異なり、鋲接合では無く鋼板溶接接合。<br /><br />東京都北区赤羽1無番地<br />東北本線(埼京線)北赤羽駅赤羽口 徒歩15分

    赤羽-川口間



    新河岸川橋梁(貨物線用)
    右端柱
    被害は端柱が千切れんばかりの状態だった。
    修復部は新製当時と異なり、鋲接合では無く鋼板溶接接合。

    東京都北区赤羽1無番地
    東北本線(埼京線)北赤羽駅赤羽口 徒歩15分

    新河岸川橋梁 名所・史跡

  • 赤羽-川口間<br /><br /><br /><br />新河岸川橋梁(貨物線用)<br />右端柱<br />更に補助材として鋼板材が追加される。<br /><br />東京都北区赤羽1無番地<br />東北本線(埼京線)北赤羽駅赤羽口 徒歩15分

    赤羽-川口間



    新河岸川橋梁(貨物線用)
    右端柱
    更に補助材として鋼板材が追加される。

    東京都北区赤羽1無番地
    東北本線(埼京線)北赤羽駅赤羽口 徒歩15分

    新河岸川橋梁 名所・史跡

  • 赤羽-川口間<br /><br /><br /><br />新河岸川橋梁(旅客線用)<br />昭和3年(1928年)架橋。<br /><br />東京都北区赤羽1無番地<br />東北本線(埼京線)北赤羽駅赤羽口 徒歩15分

    赤羽-川口間



    新河岸川橋梁(旅客線用)
    昭和3年(1928年)架橋。

    東京都北区赤羽1無番地
    東北本線(埼京線)北赤羽駅赤羽口 徒歩15分

    新河岸川橋梁 名所・史跡

  • 赤羽-川口間<br /><br /><br /><br />荒川橋梁<br />上流側<br />全景<br /><br />東京都北区赤羽3無番地<br />東北本線(埼京線)北赤羽駅赤羽口 徒歩17分

    赤羽-川口間



    荒川橋梁
    上流側
    全景

    東京都北区赤羽3無番地
    東北本線(埼京線)北赤羽駅赤羽口 徒歩17分

  • 赤羽-川口間<br /><br /><br /><br />荒川橋梁<br />下流側<br />全景<br /><br />東京都北区赤羽3無番地<br />東北本線(埼京線)北赤羽駅赤羽口 徒歩17分

    赤羽-川口間



    荒川橋梁
    下流側
    全景

    東京都北区赤羽3無番地
    東北本線(埼京線)北赤羽駅赤羽口 徒歩17分

  • 赤羽-川口間<br /><br /><br /><br />荒川橋梁<br />京浜東北線用<br />下流側<br />全景<br /><br />東京都北区赤羽3無番地<br />東北本線(埼京線)北赤羽駅赤羽口 徒歩17分

    赤羽-川口間



    荒川橋梁
    京浜東北線用
    下流側
    全景

    東京都北区赤羽3無番地
    東北本線(埼京線)北赤羽駅赤羽口 徒歩17分

  • 赤羽-川口間<br /><br /><br /><br />荒川橋梁<br />下流側<br />全景<br />昭和37年(1962年)4月8日公開された、映画 キューポラのある街 に於いて、主演 吉永小百合(よしなが さゆり)(昭和20年(1945年)3月13日〜     )が登場する場面のロケで該地付近が度々登場する。<br />監督は、浦山桐郎(うらやま きりお)(昭和5年(1930年)12月14日〜昭和60年(1985年)10月20日)である。<br /><br />川口市舟戸町1−24<br />東北本線(京浜東北線)川口駅東口 徒歩12分<br />

    赤羽-川口間



    荒川橋梁
    下流側
    全景
    昭和37年(1962年)4月8日公開された、映画 キューポラのある街 に於いて、主演 吉永小百合(よしなが さゆり)(昭和20年(1945年)3月13日〜     )が登場する場面のロケで該地付近が度々登場する。
    監督は、浦山桐郎(うらやま きりお)(昭和5年(1930年)12月14日〜昭和60年(1985年)10月20日)である。

    川口市舟戸町1−24
    東北本線(京浜東北線)川口駅東口 徒歩12分

    川口駅

  • 善光寺(ぜんこうじ)<br /><br /><br /><br />該寺は真言宗智山派に属し、正式には、平等山阿弥陀閻院善光寺と称する。<br />上野-熊谷間鉄道建設の際は、荒川を和舟水運で輸送した諸機材類を該寺裏手に陸揚搬入した。<br />旧本堂は天文4年(1734年)3月建築で昭和30年(1955年)11月1日附で埼玉県有形文化財指定と云ふ貴重な建築物だったが、惜しい事に、昭和43年(1968年)3月23日未明に床下で暖を取っていた浮浪者の火の不始末が原因で該寺は全焼し、その後、本堂は普遍的鉄筋コンクリート建築で再建。<br /><br />善光寺<br />川口市舟戸町1−24<br />?: 048−222−2124<br />東北本線(京浜東北線)川口駅東口 徒歩12分

    善光寺(ぜんこうじ)



    該寺は真言宗智山派に属し、正式には、平等山阿弥陀閻院善光寺と称する。
    上野-熊谷間鉄道建設の際は、荒川を和舟水運で輸送した諸機材類を該寺裏手に陸揚搬入した。
    旧本堂は天文4年(1734年)3月建築で昭和30年(1955年)11月1日附で埼玉県有形文化財指定と云ふ貴重な建築物だったが、惜しい事に、昭和43年(1968年)3月23日未明に床下で暖を取っていた浮浪者の火の不始末が原因で該寺は全焼し、その後、本堂は普遍的鉄筋コンクリート建築で再建。

    善光寺
    川口市舟戸町1−24
    ?: 048−222−2124
    東北本線(京浜東北線)川口駅東口 徒歩12分

  • 善光寺<br /><br /><br /><br />荒川旧陸揚地<br />鉄道資材だけで無く、川口鋳物製鉄に必要資材、及び、コークス等々原料等々、河川舟運陸揚地として昭和初期まで使用された。<br />明治43年(1910年)8月11日の関東大水害で付近一帯は冠水水没被害が発生し、内務省土木局主導に拠り河川改修が施行された。<br />更に、昭和22年(1947年)9月15日未明に東京埼玉方面に甚大被害をもたらしたキャサリン台風(KATHLEEN)復旧護岸工事で川堤が拡大され鉄道建設当時の面影は全く無い。<br />現在は整地され善光寺墓所。<br />該地は埼玉県鉄道発祥の地でありながら記念碑や説明案内板の類は一切無し。<br /><br />川口市舟戸1−29<br />東北本線(京浜東北線)川口駅東口 徒歩12分

    善光寺



    荒川旧陸揚地
    鉄道資材だけで無く、川口鋳物製鉄に必要資材、及び、コークス等々原料等々、河川舟運陸揚地として昭和初期まで使用された。
    明治43年(1910年)8月11日の関東大水害で付近一帯は冠水水没被害が発生し、内務省土木局主導に拠り河川改修が施行された。
    更に、昭和22年(1947年)9月15日未明に東京埼玉方面に甚大被害をもたらしたキャサリン台風(KATHLEEN)復旧護岸工事で川堤が拡大され鉄道建設当時の面影は全く無い。
    現在は整地され善光寺墓所。
    該地は埼玉県鉄道発祥の地でありながら記念碑や説明案内板の類は一切無し。

    川口市舟戸1−29
    東北本線(京浜東北線)川口駅東口 徒歩12分

  • 鉄道建設連絡線跡<br /><br /><br /><br />善光寺取付道路<br />上野-熊谷間鉄道建設時の旧線路跡。<br /><br />川口市川口1−9−42<br />東北本線(京浜東北線)川口駅東口 徒歩10分

    鉄道建設連絡線跡



    善光寺取付道路
    上野-熊谷間鉄道建設時の旧線路跡。

    川口市川口1−9−42
    東北本線(京浜東北線)川口駅東口 徒歩10分

  • 鉄道建設連絡線跡<br /><br /><br /><br />善光寺取付道路<br />善光寺方を見る。<br /><br />川口市川口1−5−33<br />東北本線(京浜東北線)川口駅東口 徒歩8分

    鉄道建設連絡線跡



    善光寺取付道路
    善光寺方を見る。

    川口市川口1−5−33
    東北本線(京浜東北線)川口駅東口 徒歩8分

  • 鉄道建設連絡線跡<br /><br /><br /><br />善光寺取付道路<br />現地はS字曲線を描く。<br /><br />川口市川口1−5−33<br />東北本線(京浜東北線)川口駅東口 徒歩8分

    鉄道建設連絡線跡



    善光寺取付道路
    現地はS字曲線を描く。

    川口市川口1−5−33
    東北本線(京浜東北線)川口駅東口 徒歩8分

  • 鉄道建設連絡線跡<br /><br /><br /><br />善光寺取付道路<br /><br />川口市金山町2−25<br />東北本線(京浜東北線)川口駅東口 徒歩7分

    鉄道建設連絡線跡



    善光寺取付道路

    川口市金山町2−25
    東北本線(京浜東北線)川口駅東口 徒歩7分

  • 川口駅<br /><br /><br /><br />善光寺取付道路<br /><br />川口市本町4−9−19<br />東北本線(京浜東北線)川口駅東口 徒歩4分

    川口駅



    善光寺取付道路

    川口市本町4−9−19
    東北本線(京浜東北線)川口駅東口 徒歩4分

  • 川口駅<br /><br /><br /><br />善光寺取付道路<br />上野-熊谷間開通後も暫く軌条が残存したが、昭和初期に軌条路盤共撤去され現在は道路として痕跡を残す。<br /><br />川口市川口1−7−1<br />東北本線(京浜東北線)川口駅東口 徒歩2分

    川口駅



    善光寺取付道路
    上野-熊谷間開通後も暫く軌条が残存したが、昭和初期に軌条路盤共撤去され現在は道路として痕跡を残す。

    川口市川口1−7−1
    東北本線(京浜東北線)川口駅東口 徒歩2分

  • 川口(かわぐち)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、明治43年(1910年)9月1日開業である。<br />埼玉県に於いて最初に鉄道設置がされたのは川口である。<br />即ち、日本鐵道は荒川水運で川口市舟戸町に所在する平等山阿弥陀閻院善光寺裏手に資材一式を運搬搬送し、該地に於いて陸揚げし移送された。<br />話は前後するが、明治9年(1876年)に編纂された 武蔵國郡村誌 に於ける当時の川口村に就いて、<br />男ハ鋳物ヲ専トシ農商之ニツク。女ハ農耕ヲ専トス。<br />と記載され、家内工業程度の存在だったとは申せ、明治初期の段階に於いて既に、川口周辺部が鋳物製造業が定着し盛んだった事が窺い知れる。<br />然し、上野-熊谷間が鉄道開業した際に川口には停車場が開設されなかった。<br />此れは、川口自体が鋳物製造地であったが、原材料たる銑鐵やコークス類等々は舟水運で輸送され、当時の家内工業状態では鉄道開通当時は鉄道輸送を必ずしも必要としていなかった為である。<br />然るに、当時の川口町が鉄道に対し全く無関心だったかと言えば必ずしもそうでは無く、該鉄道建設中たる明治16年(1883年)7月に当時の川口町長 芝崎五七は、第3代埼玉縣令 吉田清英(よしだ きよひで)(天保11年(1840年)10月7日〜大正7年(1918年)2月18日)(明治15年(1882年)3月4日〜明治22年(1889年)12月26日在任)に対し、鉄道停車場御設置願を請願提出したが、該地に停車場等は不要と判断され該請願は却下された。<br />その後、該社は、上野-大宮間複線化を決定し工事に着手したが、荒川橋梁のみ施工工事に時間を要する事から明治25年(1892年)10月20日附で該地に信号所が設置されたが、客貨扱も無く、該橋梁複線化竣工時たる明治29年(1896年)4月9日に廃止されてしまった。<br />明治39年(1906年)4月16日に、現在の川口駅位置に金山(かなやま)信号所が設置されたが、設置理由は皮肉にも複線化に拠る列車本数増発の為に、保安方式に双信閉塞式導入の結果であった。<br />該町面前に信号所が設置され、駅格上論が浮上するのは自然の理と言えた。<br />即ち、明治42年(1909年)6月22日に、川口鋳物取扱組合が中心となり、停車場設置が全会一致で可決され、同年7月9日附で鐵道院総裁 後藤新平(ごとう しんぺい)(安政4年(1857年)7月24日〜昭和4年(1929年)4月13日)宛に停車場設置請願書を提出し、該書面に該地に停車場設置決定の暁には所要必要地一切を無償提供し設置資金5000円を提供する旨、誓約されていた。<br />此れを受け鐵道院は請願書を審議した結果、駅設置理由有りと判断され設置工事に着手し川口町(かわぐちまち)驛が誕生した。<br />因みに、駅名が川口駅とならなかったのは、東北本線岩手県内に該設として川口驛が存在し同一路線内に於いて重複混同を忌避した結果である。<br />該駅設置に拠り、鋳物製品完成品販路が、該駅開業前は関東近隣地域に限定されていたものが、遠く、北海道、九州、朝鮮、台湾、東南アジア地域に拡大し、今日に於いて、北海道各地に残存する川口地区鋳物製石炭ストーブが見られるのは、駅開業に拠る販路拡大の結果に他ならない。<br />市制施行に依り、現駅名改称は複々線化に先立ち、昭和9年(1934年)2月15日に実施され、此れに先立ち同年2月1日附で川口驛は岩手川口(いわて かわぐち)驛に駅名改称された。<br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCD=523

    川口(かわぐち)駅



    該駅は、明治43年(1910年)9月1日開業である。
    埼玉県に於いて最初に鉄道設置がされたのは川口である。
    即ち、日本鐵道は荒川水運で川口市舟戸町に所在する平等山阿弥陀閻院善光寺裏手に資材一式を運搬搬送し、該地に於いて陸揚げし移送された。
    話は前後するが、明治9年(1876年)に編纂された 武蔵國郡村誌 に於ける当時の川口村に就いて、
    男ハ鋳物ヲ専トシ農商之ニツク。女ハ農耕ヲ専トス。
    と記載され、家内工業程度の存在だったとは申せ、明治初期の段階に於いて既に、川口周辺部が鋳物製造業が定着し盛んだった事が窺い知れる。
    然し、上野-熊谷間が鉄道開業した際に川口には停車場が開設されなかった。
    此れは、川口自体が鋳物製造地であったが、原材料たる銑鐵やコークス類等々は舟水運で輸送され、当時の家内工業状態では鉄道開通当時は鉄道輸送を必ずしも必要としていなかった為である。
    然るに、当時の川口町が鉄道に対し全く無関心だったかと言えば必ずしもそうでは無く、該鉄道建設中たる明治16年(1883年)7月に当時の川口町長 芝崎五七は、第3代埼玉縣令 吉田清英(よしだ きよひで)(天保11年(1840年)10月7日〜大正7年(1918年)2月18日)(明治15年(1882年)3月4日〜明治22年(1889年)12月26日在任)に対し、鉄道停車場御設置願を請願提出したが、該地に停車場等は不要と判断され該請願は却下された。
    その後、該社は、上野-大宮間複線化を決定し工事に着手したが、荒川橋梁のみ施工工事に時間を要する事から明治25年(1892年)10月20日附で該地に信号所が設置されたが、客貨扱も無く、該橋梁複線化竣工時たる明治29年(1896年)4月9日に廃止されてしまった。
    明治39年(1906年)4月16日に、現在の川口駅位置に金山(かなやま)信号所が設置されたが、設置理由は皮肉にも複線化に拠る列車本数増発の為に、保安方式に双信閉塞式導入の結果であった。
    該町面前に信号所が設置され、駅格上論が浮上するのは自然の理と言えた。
    即ち、明治42年(1909年)6月22日に、川口鋳物取扱組合が中心となり、停車場設置が全会一致で可決され、同年7月9日附で鐵道院総裁 後藤新平(ごとう しんぺい)(安政4年(1857年)7月24日〜昭和4年(1929年)4月13日)宛に停車場設置請願書を提出し、該書面に該地に停車場設置決定の暁には所要必要地一切を無償提供し設置資金5000円を提供する旨、誓約されていた。
    此れを受け鐵道院は請願書を審議した結果、駅設置理由有りと判断され設置工事に着手し川口町(かわぐちまち)驛が誕生した。
    因みに、駅名が川口駅とならなかったのは、東北本線岩手県内に該設として川口驛が存在し同一路線内に於いて重複混同を忌避した結果である。
    該駅設置に拠り、鋳物製品完成品販路が、該駅開業前は関東近隣地域に限定されていたものが、遠く、北海道、九州、朝鮮、台湾、東南アジア地域に拡大し、今日に於いて、北海道各地に残存する川口地区鋳物製石炭ストーブが見られるのは、駅開業に拠る販路拡大の結果に他ならない。
    市制施行に依り、現駅名改称は複々線化に先立ち、昭和9年(1934年)2月15日に実施され、此れに先立ち同年2月1日附で川口驛は岩手川口(いわて かわぐち)驛に駅名改称された。
    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCD=523

    川口駅

  • 川口駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />東口

    川口駅



    駅本屋
    東口

    川口駅

  • 川口駅<br /><br /><br /><br />サッポロビール埼玉工場跡地<br />該地に、大正12年(1923年)6月に日本麦酒が東京工場として着工し、途中、関東大震災発生の為に工事が中断したが、翌大正13年(1924年)6月に竣工操業開始が嚆矢。<br />その後、大東亜戦争後のビール製造企業分割後はサッポロビールに所属したが、昭和61年(1986年)11月1日附で該駅貨物取扱廃止まで、完成品は貨車で全国に配送されていた。平成15年(2003年)9月8日に工場閉鎖され、跡地は整備され、平成17年(2005年)11月29日に、アリオ川口、及び、イトーヨーカドー川口店が開設された。<br /><br />川口市東町3−1<br />東北本線(京浜東北線)川口駅東口 徒歩4分

    川口駅



    サッポロビール埼玉工場跡地
    該地に、大正12年(1923年)6月に日本麦酒が東京工場として着工し、途中、関東大震災発生の為に工事が中断したが、翌大正13年(1924年)6月に竣工操業開始が嚆矢。
    その後、大東亜戦争後のビール製造企業分割後はサッポロビールに所属したが、昭和61年(1986年)11月1日附で該駅貨物取扱廃止まで、完成品は貨車で全国に配送されていた。平成15年(2003年)9月8日に工場閉鎖され、跡地は整備され、平成17年(2005年)11月29日に、アリオ川口、及び、イトーヨーカドー川口店が開設された。

    川口市東町3−1
    東北本線(京浜東北線)川口駅東口 徒歩4分

    川口駅

  • 川口駅<br /><br /><br /><br />橋上駅本屋<br />全景

    川口駅



    橋上駅本屋
    全景

    川口駅

  • 西川口(にしかわぐち)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、昭和29年(1954年)9月1日開業である。<br />該駅は当該区間内に於ける、南浦和、及び、さいたま新都心と共に戦後の開業駅である。<br />該駅開業当時は手荷物、及び、小荷物の取扱は行ったが、当時は現在の如き宅急便制度など存在せず、一般人の荷物輸送は鉄道小荷物を利用するのが普遍的だった時代である。<br />然し、昭和34年(1959年)11月9日附で早くも新聞輸送以外の手荷物、小荷物輸送取扱が廃止された。<br />因みに、該駅本屋は国鉄初の橋上駅舎である。<br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1148<br /><br />

    西川口(にしかわぐち)駅



    該駅は、昭和29年(1954年)9月1日開業である。
    該駅は当該区間内に於ける、南浦和、及び、さいたま新都心と共に戦後の開業駅である。
    該駅開業当時は手荷物、及び、小荷物の取扱は行ったが、当時は現在の如き宅急便制度など存在せず、一般人の荷物輸送は鉄道小荷物を利用するのが普遍的だった時代である。
    然し、昭和34年(1959年)11月9日附で早くも新聞輸送以外の手荷物、小荷物輸送取扱が廃止された。
    因みに、該駅本屋は国鉄初の橋上駅舎である。
    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1148

    西川口駅

  • 西川口駅<br /><br /><br /><br />東口本屋<br />全景

    西川口駅



    東口本屋
    全景

    西川口駅

  • 西川口駅<br /><br /><br /><br />橋上駅舎<br />原型部分<br /><br /><br />

    西川口駅



    橋上駅舎
    原型部分


    西川口駅

  • 西川口駅<br /><br /><br /><br />橋上駅舎<br />原型部分<br /><br />

    西川口駅



    橋上駅舎
    原型部分

    西川口駅

  • 蕨駅<br /><br /><br /><br />初代蕨駅跡

    蕨駅



    初代蕨駅跡

  • 蕨駅<br /><br /><br /><br />初代蕨駅跡<br /><br />蕨市中央1−23−1<br />東北本線(京浜東北線)蕨駅西口 徒歩3分

    蕨駅



    初代蕨駅跡

    蕨市中央1−23−1
    東北本線(京浜東北線)蕨駅西口 徒歩3分

  • 蕨駅<br /><br /><br /><br /><br />初代蕨駅跡<br /><br />蕨市中央1−23−1<br />東北本線(京浜東北線)蕨駅西口 徒歩3分

    蕨駅




    初代蕨駅跡

    蕨市中央1−23−1
    東北本線(京浜東北線)蕨駅西口 徒歩3分

  • 蕨駅<br /><br /><br /><br />駅前通跡<br />桜並木で近隣に知られた存在だったが、明治43年(1910年)8月に超大型台風の被害に依り全滅した。<br /><br />蕨市中央1−23−1<br />東北本線(京浜東北線)蕨駅西口 徒歩3分

    蕨駅



    駅前通跡
    桜並木で近隣に知られた存在だったが、明治43年(1910年)8月に超大型台風の被害に依り全滅した。

    蕨市中央1−23−1
    東北本線(京浜東北線)蕨駅西口 徒歩3分

  • 蕨(わらび)駅<br /><br /><br /><br />西口<br />駅本屋<br />該駅は、明治26年(1893年)7月1日開業である。<br />該駅開設は、明治25年(1892年)6月24日附 蕨町長發日本鐵道會社宛停車場開設請願書が発端である。<br />該駅は前記日に開業したが、諸般の事情に拠り、営業開始は同年同月16日にずれ込む。<br />該駅開業当時は、駅長、及び、駅夫の2名が半ば住込み状態で勤務していたが、該駅停車列車が1日上下5本だった故に可能だった。<br />該駅夫は列車間の余暇を見つけ、安行村から特産のソメイヨシノ苗木の無償提供を受け、駅本屋横、及び、駅前通に植樹し大成した姿が近隣地域に於いても評判だったが、駅前通植樹分は明治43年(1910年)8月11日に関東中部地方を襲った記録的大豪雨被害時に枯死し、残った駅横の大樹も、昭和10年(1935年)9月18日襲来した台風で根元から折損し、現在では、該地域に桜樹群が存在した事は駅前通に存在する櫻橋に名を残すのみである。<br />該駅開業以来、長らく貨物取扱は無かったが、安行村特産苗木は遠く欧米にも輸出され、輸送の為に貨物取扱要望が高く、此れを受け、明治41年(1908年)4月より貨物取扱を開始した。<br />初代駅本屋は老朽化が著しく大正9年(1920年)に改築されたが、数年を経ずして関東大震災で倒壊する被害が発生したが、再組立され再用された。<br />東北本線赤羽-大宮間複々線化を見越し、駅本屋を昭和4年(1929年)6月1日に青森方100mの現位置に移転したが、既に該駅付近は市街密集地となり必要敷地獲得が困難な状態であり、移転前より駅前広場が狭隘になった。<br />昭和7年(1932年)9月1日に赤羽-大宮間電化で京濱線電車延長運転が実施されたが、反面、該駅を含め、東北本線、及び、高崎線普通列車既存停車駅だった川口町(現 川口)、浦和、及び、与野各駅は電車専用停車駅となり列車は通過となった結果、全国道府県庁所在地に於ける2等車連結列車通過は埼玉県のみの特異現象となった。<br />日本車輌製造は本拠を名古屋に構え、明治期創業の東京天野車輌を買収して該社東京本所に所在した隅田工場を含め当時の民間鉄道車輌製造企業だったが、関東大震災で隅田工場が壊滅的被害を受けたが再建され操業していたが、騒音関係を中心とした環境問題露呈と、敷地狭隘の為に拡張困難と判断された事から移転が決定し、蕨駅北側に土地を求め、昭和9年(1934年)9月1日に操業開始した。<br />現行駅本屋は、昭和42年(1967年)10月17日附に改築竣工した第4代目。<br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1704

    蕨(わらび)駅



    西口
    駅本屋
    該駅は、明治26年(1893年)7月1日開業である。
    該駅開設は、明治25年(1892年)6月24日附 蕨町長發日本鐵道會社宛停車場開設請願書が発端である。
    該駅は前記日に開業したが、諸般の事情に拠り、営業開始は同年同月16日にずれ込む。
    該駅開業当時は、駅長、及び、駅夫の2名が半ば住込み状態で勤務していたが、該駅停車列車が1日上下5本だった故に可能だった。
    該駅夫は列車間の余暇を見つけ、安行村から特産のソメイヨシノ苗木の無償提供を受け、駅本屋横、及び、駅前通に植樹し大成した姿が近隣地域に於いても評判だったが、駅前通植樹分は明治43年(1910年)8月11日に関東中部地方を襲った記録的大豪雨被害時に枯死し、残った駅横の大樹も、昭和10年(1935年)9月18日襲来した台風で根元から折損し、現在では、該地域に桜樹群が存在した事は駅前通に存在する櫻橋に名を残すのみである。
    該駅開業以来、長らく貨物取扱は無かったが、安行村特産苗木は遠く欧米にも輸出され、輸送の為に貨物取扱要望が高く、此れを受け、明治41年(1908年)4月より貨物取扱を開始した。
    初代駅本屋は老朽化が著しく大正9年(1920年)に改築されたが、数年を経ずして関東大震災で倒壊する被害が発生したが、再組立され再用された。
    東北本線赤羽-大宮間複々線化を見越し、駅本屋を昭和4年(1929年)6月1日に青森方100mの現位置に移転したが、既に該駅付近は市街密集地となり必要敷地獲得が困難な状態であり、移転前より駅前広場が狭隘になった。
    昭和7年(1932年)9月1日に赤羽-大宮間電化で京濱線電車延長運転が実施されたが、反面、該駅を含め、東北本線、及び、高崎線普通列車既存停車駅だった川口町(現 川口)、浦和、及び、与野各駅は電車専用停車駅となり列車は通過となった結果、全国道府県庁所在地に於ける2等車連結列車通過は埼玉県のみの特異現象となった。
    日本車輌製造は本拠を名古屋に構え、明治期創業の東京天野車輌を買収して該社東京本所に所在した隅田工場を含め当時の民間鉄道車輌製造企業だったが、関東大震災で隅田工場が壊滅的被害を受けたが再建され操業していたが、騒音関係を中心とした環境問題露呈と、敷地狭隘の為に拡張困難と判断された事から移転が決定し、蕨駅北側に土地を求め、昭和9年(1934年)9月1日に操業開始した。
    現行駅本屋は、昭和42年(1967年)10月17日附に改築竣工した第4代目。
    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1704

  • 蕨駅<br /><br /><br /><br />開設記念碑<br />全景<br />該駅西口階段下に建立。

    蕨駅



    開設記念碑
    全景
    該駅西口階段下に建立。

    蕨駅

  • 蕨駅<br /><br /><br /><br />開設記念碑<br />明治二十六年六月二十六日蕨驛開設ニ當リ郷土有志相謀リ其ノ記念碑ヲ蕨町駅前通リ町有地ニ建立ス<br />然ル二大正壱拾弐年九月壱日関東大震災ノ厄ニ遭ヒ碑石ノ一部ヲ残シ皆滅散セリ<br />仍テ今回該所ニ第四駐在所ノ新設ヲ機トシ委員有志協議ノ上現位置ヲ選ヒ之ヲ此處ニ再建ス<br />昭和拾七年七月二十五日<br />蕨町長代理 助役 従七位勲七等 岡村 丙 選書<br />碑文題書は 第24代鐵道大臣八田嘉明(はった よしあき)(明治12年(1879年)9月14日〜昭和39年(1964年)4月26日)。<br />因みに、鐵道省は大東亜戦争遂行行政合理化計画に伴い、昭和18年(1943年)11月1日附で逓信省と合体し運輸通信省が成立した為に発展的解消を遂げた事から、八田は最後の鐵道大臣。

    蕨駅



    開設記念碑
    明治二十六年六月二十六日蕨驛開設ニ當リ郷土有志相謀リ其ノ記念碑ヲ蕨町駅前通リ町有地ニ建立ス
    然ル二大正壱拾弐年九月壱日関東大震災ノ厄ニ遭ヒ碑石ノ一部ヲ残シ皆滅散セリ
    仍テ今回該所ニ第四駐在所ノ新設ヲ機トシ委員有志協議ノ上現位置ヲ選ヒ之ヲ此處ニ再建ス
    昭和拾七年七月二十五日
    蕨町長代理 助役 従七位勲七等 岡村 丙 選書
    碑文題書は 第24代鐵道大臣八田嘉明(はった よしあき)(明治12年(1879年)9月14日〜昭和39年(1964年)4月26日)。
    因みに、鐵道省は大東亜戦争遂行行政合理化計画に伴い、昭和18年(1943年)11月1日附で逓信省と合体し運輸通信省が成立した為に発展的解消を遂げた事から、八田は最後の鐵道大臣。

    蕨駅

  • 蕨駅<br /><br /><br /><br />東口<br />昭和24年(1949年)9月15日開設。<br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1704

    蕨駅



    東口
    昭和24年(1949年)9月15日開設。
    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1704

    蕨駅

  • 蕨駅<br /><br /><br /><br />東口<br />開設記念碑<br />全景<br />昭和24年(1949年)9月15日に該駅東口開設を記念し建立された。<br />該駅東口線路際に建立。<br /><br />蕨市塚越1−2

    蕨駅



    東口
    開設記念碑
    全景
    昭和24年(1949年)9月15日に該駅東口開設を記念し建立された。
    該駅東口線路際に建立。

    蕨市塚越1−2

    蕨駅

  • 蕨駅<br /><br /><br /><br />東口<br />開設記念碑<br />全景<br /><br />蕨市塚越1−2

    蕨駅



    東口
    開設記念碑
    全景

    蕨市塚越1−2

    蕨駅

  • 蕨駅<br /><br /><br /><br />東口<br />開設記念碑<br />裏面<br /><br />蕨市塚越1−2

    蕨駅



    東口
    開設記念碑
    裏面

    蕨市塚越1−2

    蕨駅

  • 蕨駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />旧貨物取扱所跡<br />日本車輌搬入搬出車両留置の為に該駅構内は広かった。

    蕨駅



    駅本屋
    旧貨物取扱所跡
    日本車輌搬入搬出車両留置の為に該駅構内は広かった。

    蕨駅

  • 蕨駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />旧貨物取扱所跡<br />拡大

    蕨駅



    駅本屋
    旧貨物取扱所跡
    拡大

    蕨駅

  • 蕨駅<br /><br /><br /><br />貨物取扱場跡<br />中央遠方のマンション群は旧日本車輌製造東京支店蕨工場跡地。<br />日本車輌は、東京本所から移転するに鑑み、蕨、浦和、及び、与野で土地選定時に浦和町は拒否、与野町では地主が該企業の足元を見て坪当り40円と言ふ高額を提示した為に交渉決裂し、結局、蕨芝村に落ち着く。

    蕨駅



    貨物取扱場跡
    中央遠方のマンション群は旧日本車輌製造東京支店蕨工場跡地。
    日本車輌は、東京本所から移転するに鑑み、蕨、浦和、及び、与野で土地選定時に浦和町は拒否、与野町では地主が該企業の足元を見て坪当り40円と言ふ高額を提示した為に交渉決裂し、結局、蕨芝村に落ち着く。

  • 蕨駅<br /><br /><br /><br />東口駅前通<br /><br />蕨市中央1−7<br />東北本線(京浜東北線)蕨駅西口 徒歩1分

    蕨駅



    東口駅前通

    蕨市中央1−7
    東北本線(京浜東北線)蕨駅西口 徒歩1分

    蕨駅

  • 蕨駅<br /><br /><br /><br />旧 日本車輌製造東京支店跡<br />現 UR都市機構川口芝園団地<br /><br />蕨市芝園町2<br />東北本線(京浜東北線)蕨駅西口 徒歩5分

    蕨駅



    旧 日本車輌製造東京支店跡
    現 UR都市機構川口芝園団地

    蕨市芝園町2
    東北本線(京浜東北線)蕨駅西口 徒歩5分

    蕨駅

  • 蕨駅<br /><br /><br /><br />日本車輌製造東京支店車輌発送搬入線跡<br />橋台<br />全景<br /><br />蕨市芝園町2−3<br />東北本線(京浜東北線)蕨駅西口 徒歩5分

    蕨駅



    日本車輌製造東京支店車輌発送搬入線跡
    橋台
    全景

    蕨市芝園町2−3
    東北本線(京浜東北線)蕨駅西口 徒歩5分

    蕨駅

  • 蕨駅<br /><br /><br /><br />日本車輌製造東京支店車輌発送搬入線跡<br />橋台<br />発送搬入が煩瑣を極めた時代に建築され、単線構造が当然の時代に複線構造で構築。<br /><br />蕨市芝園町2−3<br />東北本線(京浜東北線)蕨駅西口 徒歩5分

    蕨駅



    日本車輌製造東京支店車輌発送搬入線跡
    橋台
    発送搬入が煩瑣を極めた時代に建築され、単線構造が当然の時代に複線構造で構築。

    蕨市芝園町2−3
    東北本線(京浜東北線)蕨駅西口 徒歩5分

    蕨駅

  • 蕨駅<br /><br /><br /><br />日本車輌製造東京支店(にっぽん しゃりょう せいぞう とうきょうしてん)跡地<br />該社東京支店とは、明治期に遡り東京市本所区(現 東京都墨田区)に所在した天野鐵工所が嚆矢。<br />該鐵工所では車輌製造も手掛けていたが、関東大震災直前に日本車輌に吸収合併され日本車輌製造東京工場となったが、該震災で被災全滅した。<br />工場復旧後は該工場周囲が住宅密集地と化し手狭拡張困難になった事から、当時新工場移転先として蕨、浦和、及び、与野の3候補に絞られ検討された。<br />最終的に与野が有利だったが、移転確実と見た該地、地主どもが足元を見て土地売却価格を吊上げた為に、土地買収交渉は決裂し、再検討を行った結果、該駅北部の芝村に全面移転が決定し、昭和9年(1934年)4月1日附で移転操業開始し、該駅は車輌発送搬入地として広く知れ渡る事となった。<br />戦後も暫く存続したが、大阪吹田市で開催された日本万国博覧会(にっぽん ばんこく はくらんかい)(昭和45年(1970年)3月14日〜9月13日)終幕後に於ける我が国全面的構造不況の状態に於いて鉄道車輌発注製造数が激減した事から、日本車輌製造では合理化を決定し東京蕨分工場を豊川工場に併合を決し、昭和46年(1971年)8月31日に該地に於ける37年間の幕を降ろす。<br />該工場跡地は住宅公団団地が造成された。<br /><br />蕨市芝園町2<br />東北本線(京浜東北線)蕨駅西口 徒歩5分

    蕨駅



    日本車輌製造東京支店(にっぽん しゃりょう せいぞう とうきょうしてん)跡地
    該社東京支店とは、明治期に遡り東京市本所区(現 東京都墨田区)に所在した天野鐵工所が嚆矢。
    該鐵工所では車輌製造も手掛けていたが、関東大震災直前に日本車輌に吸収合併され日本車輌製造東京工場となったが、該震災で被災全滅した。
    工場復旧後は該工場周囲が住宅密集地と化し手狭拡張困難になった事から、当時新工場移転先として蕨、浦和、及び、与野の3候補に絞られ検討された。
    最終的に与野が有利だったが、移転確実と見た該地、地主どもが足元を見て土地売却価格を吊上げた為に、土地買収交渉は決裂し、再検討を行った結果、該駅北部の芝村に全面移転が決定し、昭和9年(1934年)4月1日附で移転操業開始し、該駅は車輌発送搬入地として広く知れ渡る事となった。
    戦後も暫く存続したが、大阪吹田市で開催された日本万国博覧会(にっぽん ばんこく はくらんかい)(昭和45年(1970年)3月14日〜9月13日)終幕後に於ける我が国全面的構造不況の状態に於いて鉄道車輌発注製造数が激減した事から、日本車輌製造では合理化を決定し東京蕨分工場を豊川工場に併合を決し、昭和46年(1971年)8月31日に該地に於ける37年間の幕を降ろす。
    該工場跡地は住宅公団団地が造成された。

    蕨市芝園町2
    東北本線(京浜東北線)蕨駅西口 徒歩5分

    蕨駅

  • 蕨駅<br /><br /><br /><br />日本車輌製造東京支店跡地<br />該工場廃止跡地は住宅公団団地が造成された。<br />現在は、UR都市機構川口芝園団地<br /><br />蕨市芝園町2<br />東北本線(京浜東北線)蕨駅西口 徒歩5分

    蕨駅



    日本車輌製造東京支店跡地
    該工場廃止跡地は住宅公団団地が造成された。
    現在は、UR都市機構川口芝園団地

    蕨市芝園町2
    東北本線(京浜東北線)蕨駅西口 徒歩5分

    蕨駅

  • 蕨駅<br /><br /><br /><br />日本車輌製造東京支店跡地<br />写真中央部は線路跡。<br />右手フェンスが該工場時代の痕跡。<br /><br />蕨市芝園町2<br />東北本線(京浜東北線)蕨駅西口 徒歩6分

    蕨駅



    日本車輌製造東京支店跡地
    写真中央部は線路跡。
    右手フェンスが該工場時代の痕跡。

    蕨市芝園町2
    東北本線(京浜東北線)蕨駅西口 徒歩6分

    蕨駅

  • 南浦和(みなみ うらわ)駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />全景<br />該駅は、昭和36年(1961年)7月1日開業である。<br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1476

    南浦和(みなみ うらわ)駅



    駅本屋
    全景
    該駅は、昭和36年(1961年)7月1日開業である。
    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1476

    南浦和駅

  • 南浦和駅

    南浦和駅

    南浦和駅

  • 南浦和駅<br /><br /><br /><br />全景

    南浦和駅



    全景

    南浦和駅

  • 南浦和-浦和間<br /><br /><br /><br />旧大谷場村付近<br />川口善光寺付近から該付近まで線路を敷設。<br />試運転が実施された。<br /><br />さいたま市浦和区岸町1−18<br />東北本線浦和駅北口 徒歩15分

    南浦和-浦和間



    旧大谷場村付近
    川口善光寺付近から該付近まで線路を敷設。
    試運転が実施された。

    さいたま市浦和区岸町1−18
    東北本線浦和駅北口 徒歩15分

  • 南浦和-浦和間<br /><br /><br /><br />砂田架道橋<br />全景<br /><br />さいたま市浦和区岸町1−17<br />東北本線浦和駅北口 徒歩12分

    南浦和-浦和間



    砂田架道橋
    全景

    さいたま市浦和区岸町1−17
    東北本線浦和駅北口 徒歩12分

  • 南浦和-浦和間<br /><br /><br /><br />砂田(すなだ)架道橋<br />昭和7年(1932年)7月15日に蕨-大宮間複々線化時に該付近築堤を嵩上した際に、従来の踏切を架道橋化した。<br />当時は埼玉県南部には架道橋が存在せず、近隣住民が弁当持参で見学に来た。<br /><br />さいたま市浦和区岸町1−17<br />東北本線浦和駅北口 徒歩12分

    南浦和-浦和間



    砂田(すなだ)架道橋
    昭和7年(1932年)7月15日に蕨-大宮間複々線化時に該付近築堤を嵩上した際に、従来の踏切を架道橋化した。
    当時は埼玉県南部には架道橋が存在せず、近隣住民が弁当持参で見学に来た。

    さいたま市浦和区岸町1−17
    東北本線浦和駅北口 徒歩12分

  • 浦和駅<br /><br /><br /><br />西口<br />駅本屋<br />該駅は、明治16年(1883年)7月28日開業である。<br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCD=259

    浦和駅



    西口
    駅本屋
    該駅は、明治16年(1883年)7月28日開業である。
    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCD=259

    浦和駅

  • 浦和(うらわ)駅<br /><br /><br /><br />東口<br />駅舎<br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=259

    浦和(うらわ)駅



    東口
    駅舎
    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=259

  • 北浦和(きたうらわ)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、昭和11年(1936年)9月1日開業である。<br />然し、大正10年(1921年)11月に旧制浦和高等学校、即ち、現在の埼玉大学文理学部が開学され、該高等学校受験者便宜の為に、大正10年(1921年)2月に臨時乗降場設置が該駅嚆矢。<br />然し、<br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=555

    北浦和(きたうらわ)駅



    該駅は、昭和11年(1936年)9月1日開業である。
    然し、大正10年(1921年)11月に旧制浦和高等学校、即ち、現在の埼玉大学文理学部が開学され、該高等学校受験者便宜の為に、大正10年(1921年)2月に臨時乗降場設置が該駅嚆矢。
    然し、
    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=555

  • 北浦和駅<br /><br /><br /><br /><br />駅本屋<br />全景

    北浦和駅




    駅本屋
    全景

    北浦和駅

  • 浦和北公園<br /><br /><br /><br />旧制浦和高等学校跡<br />旧正門<br />該校は文部省令に依り、大正10年(1921年)11月1日附で浦和高等学校(うらわ こうとうがっこう)として開校した。<br />その後、昭和20年(1945年)5月25日の東京山手大空襲に攻撃参加したB29数機が該高等学校上空から焼夷弾を投下し際に、不運にも、本館、及び、講堂に命中発火し該施設は全焼した。<br />昭和44年(1969年)に埼玉大学文理学部は市内下大久保に全面移転し、跡地は整備され昭和47年(1972年)4月1日に浦和北公園として一般公開された。<br /><br />浦和北公園(うらわ きたこうえん)<br />さいたま市浦和区常盤9−30<br />?: 048−833−27272<br />9:00〜17:00<br />月曜(祭日の際は翌火曜)、及び、年末年始休園<br />東北本線(京浜東北線)北浦和駅東口 徒歩4分<br />http://urawa-ballpark.org/urawakita/

    浦和北公園



    旧制浦和高等学校跡
    旧正門
    該校は文部省令に依り、大正10年(1921年)11月1日附で浦和高等学校(うらわ こうとうがっこう)として開校した。
    その後、昭和20年(1945年)5月25日の東京山手大空襲に攻撃参加したB29数機が該高等学校上空から焼夷弾を投下し際に、不運にも、本館、及び、講堂に命中発火し該施設は全焼した。
    昭和44年(1969年)に埼玉大学文理学部は市内下大久保に全面移転し、跡地は整備され昭和47年(1972年)4月1日に浦和北公園として一般公開された。

    浦和北公園(うらわ きたこうえん)
    さいたま市浦和区常盤9−30
    ?: 048−833−27272
    9:00〜17:00
    月曜(祭日の際は翌火曜)、及び、年末年始休園
    東北本線(京浜東北線)北浦和駅東口 徒歩4分
    http://urawa-ballpark.org/urawakita/

    北浦和駅

  • 北浦和-与野間<br /><br /><br /><br />大原信号所跡

    北浦和-与野間



    大原信号所跡

  • 与野(よの)駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />全景<br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1650

    与野(よの)駅



    駅構内
    全景
    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1650

  • 与野駅<br /><br /><br /><br />該駅前身は、明治39年(1906年)4月16日開設の大原(おおはら)信号所が嚆矢。<br />該信号所は現 与野駅より約300m東京方たる現さいたま市中央区針ヶ谷4−7−35大原陸橋付近に設置された。<br />然し、該信号所設置を地元が黙視する筈が無く、鐵道院への請願の結果、明治44年(1911年)10月27日附 鐵道院東部鐵道管理局長名で、「大原信号所ヲ停車場ニ変更ニ附敷地地区指定ノ為メ技術員派遣方御申出相成候不日技術員派遣可致候得共当分ノ処耕作向等差控ヘ不相成方可御下存候」と回答が有り、駅昇格に一歩前進した。<br />該停車場設置の為の測量は明治45年(1912年)3月に実測され、同年に工事に着工し改元後の同年たる大正元年11月1日に竣工開業した。<br />駅名命名に際し、地元は駅所在地たる北足立郡木崎村から木崎駅を希望するも、与野村からは与野駅命名が要望されたが、結果的に与野と命名する事に決定した。<br />此れは表向きには当時、他に木崎駅が存在した事から重複を避ける為に与野と命名された事にされているが、与野村の中心地は現在の与野本町駅付近であり、中心部から離れているのも拘らず牽強付会的に与野と決定したのは、駅昇格にあたり多額寄付金額で与野村は木崎村の追従を許さなかったからだとされた。<br />駅昇格後、改めて、与野町請負人 中村吉五郎から当時の第14代埼玉縣知事 島田剛太郎(しまだ ごうたろう)(慶應3年(1867年)9月15日〜昭和20年(1945年)2月26日)宛に、大正元年(1912年)12月18附文書で鐵道停車場道着手届が提出され、此れを受け、与野本町から与野駅への取付道路建設が着手され、翌大正2年(1913年)3月5日附で竣工した道路こそ、現在の県道119号線である。<br />事実、該道路は与野本町から該駅まで東に一直線に設置された。<br />因みに、与野本町自体への鉄道開業は、遥か後年たる埼京線開業と同時で昭和60年(1985年)9月30日である。<br />現在でも痕跡は残り、駅所在地登録は中央区与野では無く浦和区上木崎1−1である。<br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1650

    与野駅



    該駅前身は、明治39年(1906年)4月16日開設の大原(おおはら)信号所が嚆矢。
    該信号所は現 与野駅より約300m東京方たる現さいたま市中央区針ヶ谷4−7−35大原陸橋付近に設置された。
    然し、該信号所設置を地元が黙視する筈が無く、鐵道院への請願の結果、明治44年(1911年)10月27日附 鐵道院東部鐵道管理局長名で、「大原信号所ヲ停車場ニ変更ニ附敷地地区指定ノ為メ技術員派遣方御申出相成候不日技術員派遣可致候得共当分ノ処耕作向等差控ヘ不相成方可御下存候」と回答が有り、駅昇格に一歩前進した。
    該停車場設置の為の測量は明治45年(1912年)3月に実測され、同年に工事に着工し改元後の同年たる大正元年11月1日に竣工開業した。
    駅名命名に際し、地元は駅所在地たる北足立郡木崎村から木崎駅を希望するも、与野村からは与野駅命名が要望されたが、結果的に与野と命名する事に決定した。
    此れは表向きには当時、他に木崎駅が存在した事から重複を避ける為に与野と命名された事にされているが、与野村の中心地は現在の与野本町駅付近であり、中心部から離れているのも拘らず牽強付会的に与野と決定したのは、駅昇格にあたり多額寄付金額で与野村は木崎村の追従を許さなかったからだとされた。
    駅昇格後、改めて、与野町請負人 中村吉五郎から当時の第14代埼玉縣知事 島田剛太郎(しまだ ごうたろう)(慶應3年(1867年)9月15日〜昭和20年(1945年)2月26日)宛に、大正元年(1912年)12月18附文書で鐵道停車場道着手届が提出され、此れを受け、与野本町から与野駅への取付道路建設が着手され、翌大正2年(1913年)3月5日附で竣工した道路こそ、現在の県道119号線である。
    事実、該道路は与野本町から該駅まで東に一直線に設置された。
    因みに、与野本町自体への鉄道開業は、遥か後年たる埼京線開業と同時で昭和60年(1985年)9月30日である。
    現在でも痕跡は残り、駅所在地登録は中央区与野では無く浦和区上木崎1−1である。
    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1650

  • 与野駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />南口<br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1650

    与野駅



    駅構内
    南口
    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1650

  • 大宮(おおみや)駅<br /><br /><br /><br />東口<br />駅本屋<br />該駅は、明治18年(1885年)3月16日開業である。<br />明治初期に於ける当時の大宮は、官幣大社氷川神社神域西端に位置し、該地付近は、江戸期たる享保12年(1727年)に当時の徳川幕府が新田開発の為に干拓した見沼(みぬま)跡を見下す大宮高鼻台地上に所在する一寒村に過ぎなかった。<br />日本鐵道會社は、明治16年(1883年)7月28日に上野-熊谷間開通時に、王子、浦和、上尾、及び、鴻巣各停車場を設置したが、該駅は、赤羽と共に設置が見送られた。<br />該社に於ける會社設立趣意書には、東京対東北、及び、蝦夷地間連絡が主目的とされ、該書に第2期工事区間を、「現路線中央ヨリ阿久津(現 栃木県氏家)ヲ経テ白河マデ)と記載され、建設可能ならば最短距離路線となる事が望ましかったが、明治中期当時に於ける鉄道建設に於いて最も困難とされた技術は、大中河川架橋、及び、長距離隧道掘削とされていた。<br />当初計画案では、利根川渡河地点を熊谷付近とし、渡河後は桐生経由で北進する計画だったが、該案では、路線距離延伸に伴う事から、該区間最短距離結合の趣旨に反するとして不採用となり改めて検討する必要に迫られた。<br />他方、大宮村有力者たる 白井助七(しらい すけしち)(天保12年(1841年)12月20日〜明治29年(1896年)5月19日)は、大宮に鉄道分岐点を設置する事で該地に於ける将来発展の基となると考え、上野-熊谷間建設中たる明治15年(1882年)2月7日附工部省鐵道作業局宛文書で大宮分岐に関する請願書を提出したが、同年10月25日附回答書で、工部卿 佐々木高行(ささき たかゆき)(文政13年(1830年)11月26日〜明治43年(1910年)3月2日)名回答書に依り、分岐地案が、大宮外に浦和、及び、熊谷の数案が存在する事を知り得た。<br />然し、白井は停車場開業に要する土地無償提供を申し出て、停車場設置誘致を積極的に推し進め、此れを受け、該社は検討の結果、明治17年(1886年)12月16日附を以って、改めて最終的に大宮分岐案を採用決定し、、直ちに工事に着工し開業に漕ぎ着けた。<br />該駅は、路線三又点に所在したが、他方、該社上野工場が手狭になり、且つ、該工場周囲が住宅密集地たる事もあり、騒音臭気等々の環境問題も無視する事は出来ず、此の為に移転問題が浮上したが、白井は大宮誘致を推し進めた結果、該駅西北部に移転が決定し、明治27年(1894年)3月29日に着工し、同年12月15日に竣工したのが日本鐵道大宮工場、即ち、現在の東日本大宮総合車両センターの嚆矢である。<br />大正期には施設も拡充し、大正10年(1921年)7月18日附で該駅は1等駅扱認定となる。<br />その後、関東大震災では該駅構内に於いて主だった被害は発生しなかった。<br />昭和4年(1929年)12月11日に総武鐵道(現 東武鉄道野田線)が粕壁(現 春日部)-大宮間を開通させ、更に、昭和7年(1932年)9月1日に京濱線電車が該駅に乗入し、乗降客が激増し、日本鉄道開業以来の駅本屋は手狭で老朽化もあり、昭和9年(1934年)8月に駅本屋改築工事が起工され同年11月3日附で第2代目駅本屋が竣工した。<br />昭和10年(1935年)3月16日に該駅開業50周年を記念し式典が施行される。<br />大東亜戦争中に於ける空襲被害は、昭和20年(1945年)4月10日に該駅構内保線区建物、同年5月25日空襲で該駅構内停車中のモユニ12011が焼夷弾攻撃で直撃弾命中で全焼、同年8月10日空襲では送電線への被害が甚大だった為に、12日まで電車運転を中止した為に中距離客車列車を川口、蕨、浦和、及び、与野に臨時停車させる処置を講じ旅客対策対処をしたが、沿線他駅と比較して該駅被害は軽微だった。<br />戦後は京浜東北線利用者が激増したが、該駅構内配線の状態では列車本数増加は困難であり、且つ、青森方で、東北本線、及び、高崎線が平面交差する関係で、安全面に於いても問題を有していた事から、駅本屋改築と同時に、構内配線改良工事を実施する事に決定し、先ず駅本屋改築工事に昭和41年(1966年)8月4日から工事を進行させ、翌昭和42年(1967年)10月3日に竣工した。<br />該駅ビル建設の為に、長年、大宮在住者に親しまれた駅本屋直結ホーム1番線は廃止が決定し、該駅ビル工事進捗の過程で大部分が撤去されたが、現在も、東武鉄道野田線ホーム、及び、該駅ビル基部に該ホーム痕跡が現存する。<br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=350

    大宮(おおみや)駅



    東口
    駅本屋
    該駅は、明治18年(1885年)3月16日開業である。
    明治初期に於ける当時の大宮は、官幣大社氷川神社神域西端に位置し、該地付近は、江戸期たる享保12年(1727年)に当時の徳川幕府が新田開発の為に干拓した見沼(みぬま)跡を見下す大宮高鼻台地上に所在する一寒村に過ぎなかった。
    日本鐵道會社は、明治16年(1883年)7月28日に上野-熊谷間開通時に、王子、浦和、上尾、及び、鴻巣各停車場を設置したが、該駅は、赤羽と共に設置が見送られた。
    該社に於ける會社設立趣意書には、東京対東北、及び、蝦夷地間連絡が主目的とされ、該書に第2期工事区間を、「現路線中央ヨリ阿久津(現 栃木県氏家)ヲ経テ白河マデ)と記載され、建設可能ならば最短距離路線となる事が望ましかったが、明治中期当時に於ける鉄道建設に於いて最も困難とされた技術は、大中河川架橋、及び、長距離隧道掘削とされていた。
    当初計画案では、利根川渡河地点を熊谷付近とし、渡河後は桐生経由で北進する計画だったが、該案では、路線距離延伸に伴う事から、該区間最短距離結合の趣旨に反するとして不採用となり改めて検討する必要に迫られた。
    他方、大宮村有力者たる 白井助七(しらい すけしち)(天保12年(1841年)12月20日〜明治29年(1896年)5月19日)は、大宮に鉄道分岐点を設置する事で該地に於ける将来発展の基となると考え、上野-熊谷間建設中たる明治15年(1882年)2月7日附工部省鐵道作業局宛文書で大宮分岐に関する請願書を提出したが、同年10月25日附回答書で、工部卿 佐々木高行(ささき たかゆき)(文政13年(1830年)11月26日〜明治43年(1910年)3月2日)名回答書に依り、分岐地案が、大宮外に浦和、及び、熊谷の数案が存在する事を知り得た。
    然し、白井は停車場開業に要する土地無償提供を申し出て、停車場設置誘致を積極的に推し進め、此れを受け、該社は検討の結果、明治17年(1886年)12月16日附を以って、改めて最終的に大宮分岐案を採用決定し、、直ちに工事に着工し開業に漕ぎ着けた。
    該駅は、路線三又点に所在したが、他方、該社上野工場が手狭になり、且つ、該工場周囲が住宅密集地たる事もあり、騒音臭気等々の環境問題も無視する事は出来ず、此の為に移転問題が浮上したが、白井は大宮誘致を推し進めた結果、該駅西北部に移転が決定し、明治27年(1894年)3月29日に着工し、同年12月15日に竣工したのが日本鐵道大宮工場、即ち、現在の東日本大宮総合車両センターの嚆矢である。
    大正期には施設も拡充し、大正10年(1921年)7月18日附で該駅は1等駅扱認定となる。
    その後、関東大震災では該駅構内に於いて主だった被害は発生しなかった。
    昭和4年(1929年)12月11日に総武鐵道(現 東武鉄道野田線)が粕壁(現 春日部)-大宮間を開通させ、更に、昭和7年(1932年)9月1日に京濱線電車が該駅に乗入し、乗降客が激増し、日本鉄道開業以来の駅本屋は手狭で老朽化もあり、昭和9年(1934年)8月に駅本屋改築工事が起工され同年11月3日附で第2代目駅本屋が竣工した。
    昭和10年(1935年)3月16日に該駅開業50周年を記念し式典が施行される。
    大東亜戦争中に於ける空襲被害は、昭和20年(1945年)4月10日に該駅構内保線区建物、同年5月25日空襲で該駅構内停車中のモユニ12011が焼夷弾攻撃で直撃弾命中で全焼、同年8月10日空襲では送電線への被害が甚大だった為に、12日まで電車運転を中止した為に中距離客車列車を川口、蕨、浦和、及び、与野に臨時停車させる処置を講じ旅客対策対処をしたが、沿線他駅と比較して該駅被害は軽微だった。
    戦後は京浜東北線利用者が激増したが、該駅構内配線の状態では列車本数増加は困難であり、且つ、青森方で、東北本線、及び、高崎線が平面交差する関係で、安全面に於いても問題を有していた事から、駅本屋改築と同時に、構内配線改良工事を実施する事に決定し、先ず駅本屋改築工事に昭和41年(1966年)8月4日から工事を進行させ、翌昭和42年(1967年)10月3日に竣工した。
    該駅ビル建設の為に、長年、大宮在住者に親しまれた駅本屋直結ホーム1番線は廃止が決定し、該駅ビル工事進捗の過程で大部分が撤去されたが、現在も、東武鉄道野田線ホーム、及び、該駅ビル基部に該ホーム痕跡が現存する。
    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=350

    与野駅

  • 大宮駅<br /><br /><br />西口<br />該開設は、昭和2年(1927年)3月15日である。<br />該駅は、長らく東口本屋側だけで、西側は鐵道省大宮工場職員通路が存在するだけだったが、関東大震災以降、現在の大宮区桜木町一帯在住者が増え、東京鐵道局上野運輸事務所で該駅西口設置が決定された。

    大宮駅


    西口
    該開設は、昭和2年(1927年)3月15日である。
    該駅は、長らく東口本屋側だけで、西側は鐵道省大宮工場職員通路が存在するだけだったが、関東大震災以降、現在の大宮区桜木町一帯在住者が増え、東京鐵道局上野運輸事務所で該駅西口設置が決定された。

    大宮駅

  • 大宮駅<br /><br /><br />西口<br />近接

    大宮駅


    西口
    近接

  • 大宮駅<br /><br /><br /><br />構内郵便ポスト

    大宮駅



    構内郵便ポスト

    大宮駅

  • 大宮駅<br /><br /><br /><br />構内郵便ポスト<br />通常の郵便ポストに鉄道車輌廃材を活用し完成。<br />テールランプ、車側灯、貨車用車輪を使用。<br />同様例は、首都圏で、他に、東京駅、及び、新宿駅、等々に存在。<br />

    大宮駅



    構内郵便ポスト
    通常の郵便ポストに鉄道車輌廃材を活用し完成。
    テールランプ、車側灯、貨車用車輪を使用。
    同様例は、首都圏で、他に、東京駅、及び、新宿駅、等々に存在。

    大宮駅

  • 大宮駅<br /><br /><br /><br />第3番ホーム<br />全景<br />側壁石積に原型を残す。

    大宮駅



    第3番ホーム
    全景
    側壁石積に原型を残す。

    大宮駅

  • 大宮駅<br /><br /><br /><br />第3番ホーム<br />側壁<br />車輌の進化の過程でステップ段差の差異がホーム段差に痕跡。

    大宮駅



    第3番ホーム
    側壁
    車輌の進化の過程でステップ段差の差異がホーム段差に痕跡。

    大宮駅

  • 大宮駅<br /><br /><br /><br />旧第1番ホーム跡<br />昭和4年(1929年)12月11日に総武鐵道?が該駅に乗入した際、0番線1線使用だったが、列車本数を増発させる事が困難だった事から、該駅旧1番線末端部を活用し2線使用が可能になった。<br />東武鉄道野田線ホームに流用。

    大宮駅



    旧第1番ホーム跡
    昭和4年(1929年)12月11日に総武鐵道?が該駅に乗入した際、0番線1線使用だったが、列車本数を増発させる事が困難だった事から、該駅旧1番線末端部を活用し2線使用が可能になった。
    東武鉄道野田線ホームに流用。

    大宮駅

  • 大宮駅<br /><br /><br /><br />旧第1番ホーム跡

    大宮駅



    旧第1番ホーム跡

    大宮駅

  • 大宮駅<br /><br /><br /><br />旧第1番ホーム跡<br />昭和41年(1966年)8月4日に第3代目駅本屋工事起工まで該ホーム跡が旧1番線で上り長距離列車発着用として機能していた。

    大宮駅



    旧第1番ホーム跡
    昭和41年(1966年)8月4日に第3代目駅本屋工事起工まで該ホーム跡が旧1番線で上り長距離列車発着用として機能していた。

    大宮駅

  • 大宮駅<br /><br /><br /><br />旧第1番ホーム跡<br />現在は該駅本屋駅ビル構築に埋没したが基礎部分が一部現存。<br />残存北半分は東武鉄道野田線ホームに転流用。

    大宮駅



    旧第1番ホーム跡
    現在は該駅本屋駅ビル構築に埋没したが基礎部分が一部現存。
    残存北半分は東武鉄道野田線ホームに転流用。

    大宮駅

  • 大宮駅<br /><br /><br /><br />旧第1番ホーム残滓

    大宮駅



    旧第1番ホーム残滓

    大宮駅

  • 大宮鐘塚公園<br /><br /><br /><br />領徳碑<br />白井助七顕彰胸像建立実行委員会<br />上野-高崎間に鉄道が開通時に、当初、大宮には赤羽と共に停車場設置がされなかった。<br />白井助七(しらい すけしち)(天保12年(1841年)12月20日〜明治29年(1896年)5月19日)は、日本鐵道會社が東北連絡線建設の為に分岐案を、浦和、大宮氷川神社付近、熊谷に3点に絞った事を知り、嘗て旧幕時代、大宮は中仙道の宿場町として繁栄していたが、明治維新と共に傳馬制度廃止が原因で大宮は衰退の一途を辿っていた事から、将来に対する該地不安をして大宮氷川神社付近分岐案実施の為に、駅設置を時の第3代埼玉縣知事 吉田清英(よしだ きよひで)(天保11年(1840年)10月7日〜大正7年(1918年)2月18日)に請願したが却下された。<br />然し、白井は諦めず自身の所有地を無償献納し周囲を説得した事で停車場設置が決定し、明治18年(1885年)3月16日に大宮駅が開業した。<br />白井は、更に、日本鐵道會社と交渉し、該社汽車課材料工場(現 東日本旅客鉄道大宮車輌センター・日本貨物鉄道大宮工場)誘致にも成功し、該功績が認められ、明治28年(1885年)5月に大宮町長に推挙された。<br />没後、遺徳を偲び建立された。<br /><br />さいたま市大宮区吉敷町1712

    大宮鐘塚公園



    領徳碑
    白井助七顕彰胸像建立実行委員会
    上野-高崎間に鉄道が開通時に、当初、大宮には赤羽と共に停車場設置がされなかった。
    白井助七(しらい すけしち)(天保12年(1841年)12月20日〜明治29年(1896年)5月19日)は、日本鐵道會社が東北連絡線建設の為に分岐案を、浦和、大宮氷川神社付近、熊谷に3点に絞った事を知り、嘗て旧幕時代、大宮は中仙道の宿場町として繁栄していたが、明治維新と共に傳馬制度廃止が原因で大宮は衰退の一途を辿っていた事から、将来に対する該地不安をして大宮氷川神社付近分岐案実施の為に、駅設置を時の第3代埼玉縣知事 吉田清英(よしだ きよひで)(天保11年(1840年)10月7日〜大正7年(1918年)2月18日)に請願したが却下された。
    然し、白井は諦めず自身の所有地を無償献納し周囲を説得した事で停車場設置が決定し、明治18年(1885年)3月16日に大宮駅が開業した。
    白井は、更に、日本鐵道會社と交渉し、該社汽車課材料工場(現 東日本旅客鉄道大宮車輌センター・日本貨物鉄道大宮工場)誘致にも成功し、該功績が認められ、明治28年(1885年)5月に大宮町長に推挙された。
    没後、遺徳を偲び建立された。

    さいたま市大宮区吉敷町1712

    鐘塚公園 公園・植物園

    鐘塚公園〔公園〕 by 横浜臨海公園さん
  • 大宮鐘塚公園<br /><br /><br /><br />領徳碑<br />近接<br /><br />さいたま市大宮区吉敷町1712

    大宮鐘塚公園



    領徳碑
    近接

    さいたま市大宮区吉敷町1712

    鐘塚公園 公園・植物園

    鐘塚公園〔公園〕 by 横浜臨海公園さん
  • 大宮公園(おおみや こうえん)<br /><br /><br /><br />白根多助領徳碑<br />白根多助(しらね たすけ)(文政2年(1819年)6月27日〜明治15年(1882年)3月15日)は、前任者辞任を受け明治6年(1873年)5月21日に権令事務代行拝命〜同年12月27日縣令拝命〜明治15年(1882年)5月21日まで第2代埼玉縣令(県知事)を務め、現在の埼玉県発展の基礎を築く。<br />尚、該碑は埼玉県庁前庭に建立され、関東大震災や大東亜戦争時に被災せず原型を保持していたが、昭和23年(1948年)埼玉県庁火災時に類焼焼損。<br /><br />さいたま市大宮区高鼻4<br />?: 048−641−6391<br />東武鉄道野田線北大宮駅 徒歩5分<br />http://www.pref.saitama.lg.jp/page/910-20091204-92.html

    大宮公園(おおみや こうえん)



    白根多助領徳碑
    白根多助(しらね たすけ)(文政2年(1819年)6月27日〜明治15年(1882年)3月15日)は、前任者辞任を受け明治6年(1873年)5月21日に権令事務代行拝命〜同年12月27日縣令拝命〜明治15年(1882年)5月21日まで第2代埼玉縣令(県知事)を務め、現在の埼玉県発展の基礎を築く。
    尚、該碑は埼玉県庁前庭に建立され、関東大震災や大東亜戦争時に被災せず原型を保持していたが、昭和23年(1948年)埼玉県庁火災時に類焼焼損。

    さいたま市大宮区高鼻4
    ?: 048−641−6391
    東武鉄道野田線北大宮駅 徒歩5分
    http://www.pref.saitama.lg.jp/page/910-20091204-92.html

  • 大宮公園<br /><br /><br /><br />白根多助領徳碑<br />昭和23年(1948年)埼玉県庁全焼時に碑石表面焼損し、現在、碑文本文判読は困難。<br /><br />さいたま市大宮区高鼻町4<br />?: 048−641−6391<br />東武鉄道野田線北大宮駅 徒歩5分<br />http://www.pref.saitama.lg.jp/page/910-20091204-92.html

    大宮公園



    白根多助領徳碑
    昭和23年(1948年)埼玉県庁全焼時に碑石表面焼損し、現在、碑文本文判読は困難。

    さいたま市大宮区高鼻町4
    ?: 048−641−6391
    東武鉄道野田線北大宮駅 徒歩5分
    http://www.pref.saitama.lg.jp/page/910-20091204-92.html

  • 十條跨線橋(じゅうじょう こせんきょう)<br /><br /><br /><br />初代戸田川橋梁橋桁<br />該河川は大正期まで古名を戸田川と称した荒川水系所属の1級河川である。<br />初代戸田川橋梁は、明治16年(1883年)7月26日に上野-熊谷間開通時には存在せず該河川合流点も上流に存在したが、河床が異なる事から度々氾濫原因となり、その後、内務省土木局は該河川合流地を荒川に平行させ下流域に変更させる事に決定し、河川改修の結果、明治28年(1895年)3月に追加架橋されたものでm英ショコラン(Cochrane)社に於いて製造された錬鐡製橋梁である。<br />該橋梁は錬鉄製ポニー・ワーレントラス橋30.2m×4連で構成され、腹付結合がピン結合様式だった。<br />腹付、及び、下弦材料にピン結合を有する米トラス橋梁に対し、英トラス橋梁の特徴は腹付結合のみピン結合だったが、各部締結を要し、且つ、磨耗保守に手を焼くピン結合橋梁は厄介な存在だった。<br />明治43年(1910年)8月11日に関東地方を襲撃した大暴風に拠り、該橋梁橋脚基礎部分が洗盤された。<br />大正中期に、当時の鐵道省は輸送量逼迫打開の為に東北本線上野-大宮間客貨列車分離運転計画を策定し、該橋梁架替案が浮上した最中に関東大震災が発生したが、該橋梁は特に異常が発生しなかった<br />昭和2年(1927年)に上流方に下路複線ワーレントラス橋62.3m×3連を架橋させ、開通と同時に該橋梁は廃止され、昭和3年(1928年9に橋台、橋脚共々撤去した跡に下路複線ワーレントラス橋62.8m×3連が架橋され、昭和2年架橋分は貨物線用、昭和3年架橋分は旅客線用に区分使用された。<br />然し、重量物たる鉄道車輌通過は使用困難でも人車等々であれば再用可能と判断された事から、昭和6年(1931年)に十條跨線橋として転用再使用された。<br /><br />東京都北区東十条2−18−51<br />東北本線(京浜東北線)東十条駅南口 徒歩2分

    十條跨線橋(じゅうじょう こせんきょう)



    初代戸田川橋梁橋桁
    該河川は大正期まで古名を戸田川と称した荒川水系所属の1級河川である。
    初代戸田川橋梁は、明治16年(1883年)7月26日に上野-熊谷間開通時には存在せず該河川合流点も上流に存在したが、河床が異なる事から度々氾濫原因となり、その後、内務省土木局は該河川合流地を荒川に平行させ下流域に変更させる事に決定し、河川改修の結果、明治28年(1895年)3月に追加架橋されたものでm英ショコラン(Cochrane)社に於いて製造された錬鐡製橋梁である。
    該橋梁は錬鉄製ポニー・ワーレントラス橋30.2m×4連で構成され、腹付結合がピン結合様式だった。
    腹付、及び、下弦材料にピン結合を有する米トラス橋梁に対し、英トラス橋梁の特徴は腹付結合のみピン結合だったが、各部締結を要し、且つ、磨耗保守に手を焼くピン結合橋梁は厄介な存在だった。
    明治43年(1910年)8月11日に関東地方を襲撃した大暴風に拠り、該橋梁橋脚基礎部分が洗盤された。
    大正中期に、当時の鐵道省は輸送量逼迫打開の為に東北本線上野-大宮間客貨列車分離運転計画を策定し、該橋梁架替案が浮上した最中に関東大震災が発生したが、該橋梁は特に異常が発生しなかった
    昭和2年(1927年)に上流方に下路複線ワーレントラス橋62.3m×3連を架橋させ、開通と同時に該橋梁は廃止され、昭和3年(1928年9に橋台、橋脚共々撤去した跡に下路複線ワーレントラス橋62.8m×3連が架橋され、昭和2年架橋分は貨物線用、昭和3年架橋分は旅客線用に区分使用された。
    然し、重量物たる鉄道車輌通過は使用困難でも人車等々であれば再用可能と判断された事から、昭和6年(1931年)に十條跨線橋として転用再使用された。

    東京都北区東十条2−18−51
    東北本線(京浜東北線)東十条駅南口 徒歩2分

  • 十條跨線橋<br /><br /><br /><br />横景<br /><br />東京都北区中十条2−9−17<br />東北本線(京浜東北線)東十条駅南口 徒歩30秒

    十條跨線橋



    横景

    東京都北区中十条2−9−17
    東北本線(京浜東北線)東十条駅南口 徒歩30秒

  • 十條跨線橋<br /><br /><br /><br />第2代目戸田川橋梁橋桁<br /><br />東京都北区東十条2−18−51<br />東北本線(京浜東北線)東十条駅南口 徒歩25秒

    十條跨線橋



    第2代目戸田川橋梁橋桁

    東京都北区東十条2−18−51
    東北本線(京浜東北線)東十条駅南口 徒歩25秒

  • 十條跨線橋<br /><br /><br /><br />第2代目戸田川橋梁橋桁<br />上部<br />組立後118年経過。<br /><br />東京都北区東十条3−18−51<br />東北本線(京浜東北線)東十条駅南口 徒歩25秒<br />

    十條跨線橋



    第2代目戸田川橋梁橋桁
    上部
    組立後118年経過。

    東京都北区東十条3−18−51
    東北本線(京浜東北線)東十条駅南口 徒歩25秒

  • 十條跨線橋<br /><br /><br /><br />第2代目戸田川橋梁橋桁<br />ピン結合<br />赤羽-大宮間に於ける明治期の現存造営物は大宮駅ホーム側壁を除き該橋梁のみ。<br /><br />東京都北区東十条2−18−51<br />東北本線(京浜東北線)東十条駅南口 徒歩25秒

    十條跨線橋



    第2代目戸田川橋梁橋桁
    ピン結合
    赤羽-大宮間に於ける明治期の現存造営物は大宮駅ホーム側壁を除き該橋梁のみ。

    東京都北区東十条2−18−51
    東北本線(京浜東北線)東十条駅南口 徒歩25秒

  • 十條跨線橋<br /><br /><br /><br />第2代目戸田川橋梁橋桁<br />江ヶ崎跨線橋は老朽化の為に架替が実施され撤去されたが十條跨線橋は未だ現役である。<br />然し、橋梁各部に於ける老朽化は確実に進行しており、橋梁架替計画も浮上している。<br /><br />東京都北区中十条2−9−17<br />東北本線(京浜東北線)東十条駅南口 徒歩30秒

    十條跨線橋



    第2代目戸田川橋梁橋桁
    江ヶ崎跨線橋は老朽化の為に架替が実施され撤去されたが十條跨線橋は未だ現役である。
    然し、橋梁各部に於ける老朽化は確実に進行しており、橋梁架替計画も浮上している。

    東京都北区中十条2−9−17
    東北本線(京浜東北線)東十条駅南口 徒歩30秒

  • 十條跨線橋<br /><br /><br /><br />第2代目戸田川橋梁橋桁<br />裏部<br /><br />東京都北区中十条2−9−17<br />東北本線(京浜東北線)東十条駅南口 徒歩45秒

    十條跨線橋



    第2代目戸田川橋梁橋桁
    裏部

    東京都北区中十条2−9−17
    東北本線(京浜東北線)東十条駅南口 徒歩45秒

  • 十條跨線橋<br /><br /><br /><br />第2代目戸田川橋梁橋桁<br />裏部<br />横並魚腹台枠構造<br /><br />東京都北区中十条2−9−17<br />東北本線(京浜東北線)東十条駅南口 徒歩45秒

    十條跨線橋



    第2代目戸田川橋梁橋桁
    裏部
    横並魚腹台枠構造

    東京都北区中十条2−9−17
    東北本線(京浜東北線)東十条駅南口 徒歩45秒

  • 十條跨線橋<br /><br /><br /><br />第2代目戸田川橋梁橋桁<br />全景<br /><br />東京都北区東十条3−18−51<br />東北本線(京浜東北線)東十条駅南口 徒歩1分<br /><br />

    十條跨線橋



    第2代目戸田川橋梁橋桁
    全景

    東京都北区東十条3−18−51
    東北本線(京浜東北線)東十条駅南口 徒歩1分

  • 十條跨線橋<br /><br /><br /><br />全景<br />自動車通行量増加に伴い歩行者保全の為に昭和44年(1969年)に腹付で橋梁両側に歩道追加。<br /><br />東京都北区中十条2−13−24<br />東北本線(京浜東北線)東十条駅南口 徒歩1分

    十條跨線橋



    全景
    自動車通行量増加に伴い歩行者保全の為に昭和44年(1969年)に腹付で橋梁両側に歩道追加。

    東京都北区中十条2−13−24
    東北本線(京浜東北線)東十条駅南口 徒歩1分

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この旅行記へのコメント (4)

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  • レイジーガーデナーさん 2016/11/11 17:22:21
    ありがとうございます(^^)
    いつもご訪問&投票いただき、ありがとうございます。

    こちらの旅行記を拝見すると、膨大かつ詳細なデータに
    圧倒されますが、私のような門外漢から鉄道愛好家、専門家の方まで、
    多くの方がいつでも自由にアクセス、閲覧できるのは、すごいことだと
    改めて思います。

    新しい路線や車両がどんどん生み出される一方で、全国各地で
    廃線や廃駅も多々あるようですが、横浜臨海公園さんの貴重なデータや
    ご意見、アドバイスが適切に生かされると良いですね。

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2016/11/12 15:06:35
    拝復
    レイジーガーデナーさま、こんにちは。


    掲示板にコメントを賜りまして、誠に有難うございました。

    > こちらの旅行記を拝見すると、膨大かつ詳細なデータに
    > 圧倒されますが、私のような門外漢から鉄道愛好家、専門家の方まで、
    > 多くの方がいつでも自由にアクセス、閲覧できるのは、すごいことだと
    > 改めて思います。
    →過分なるお褒めのお言葉を賜りまして深謝しております。
    近現代日本史は真偽が入り混じっており、例えば昭和12年(1937年)の中国南京事件など、日本軍が中国人30万人を虐殺したなど伝えられておりますが、当時の南京には軍民合計7万人弱しか存在しないものが、何故30万人と成り得るのか具体的検証も無く、受け売り通りとなっているのは甚だ遺憾な事です。
    兎に角、小生の旅行記作成には資料精査に時間を費やしており、此れだけで1年以上を要するのが当然となっている状況です。
    呆れるのは、一言の断りも無く、小生のデータを流用したり、甚だしきに至っては、小生の旅行記発表後、概ね1週間以内にウィキペディアも内容が改定されたりと、著作権のイロハをも知らぬモラル低下が散見されるのは遺憾に思っております。

    今後とも愚作を宜敷く御願い申します。



    横浜臨海公園
  • しょうちゃんさん 2015/10/21 11:46:47
    RE 赤羽駅周辺
     今日は
     昭和48年4月2×日 動労(共産党支持)による順法闘争により、被害を受けました。当時小生は、羽田の港湾労務者で、新入社員教育(情報システム)を担当していましたが、帰宅途中(8時過ぎ)秋葉原駅から電車は動かなくなり、線路を歩いて赤羽駅に到着(12時半)しました。TBSラジオでのインタビューを受けた後、20分ほどあるいて(旧陸軍病院隣)帰宅し、また朝5時に起き、赤羽駅6時発の電車で9時1分に羽田につきました。ヒラリーマン生活でただ一度の遅刻でした。なお、新入社員は9時からの授業には誰も遅刻しておりませんでした。

     最近(たしか2014年)に赤羽と川口を結ぶ鉄橋、おそらく新河岸より周辺で米軍が爆撃した爆弾(不発弾)が見つかり、陸上自衛隊の爆弾処理班の尽力により、処理されました。

     追:朝鮮戦争中、米軍の依頼により、海上保安庁職員が元山沖の機雷処理中、触雷し、31ないし33名が殉職したことを思いだしました。
     今なら、左翼系あるいは進歩的文化人と称する人たちが、9条!9条!と騒ぐのでは?

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2015/10/21 15:55:16
    拝復
    しょうちゃんさま、こんにちは。


    小生投稿の旅行記に投票とコメントを賜りまして誠に有難うございました。

    >  昭和48年4月2×日 動労(共産党支持)による順法闘争により、被害を受けました。当時小生は、羽田の港湾労務者で、新入社員教育(情報システム)を担当していましたが、帰宅途中(8時過ぎ)秋葉原駅から電車は動かなくなり、線路を歩いて赤羽駅に到着(12時半)しました。TBSラジオでのインタビューを受けた後、20分ほどあるいて(旧陸軍病院隣)帰宅し、また朝5時に起き、赤羽駅6時発の電車で9時1分に羽田につきました。ヒラリーマン生活でただ一度の遅刻でした。なお、新入社員は9時からの授業には誰も遅刻しておりませんでした。
    →仰せのとおり、動労は共産党系、それも極左に属する反体制集団です。

    >  最近(たしか2014年)に赤羽と川口を結ぶ鉄橋、おそらく新河岸より周辺で米軍が爆撃した爆弾(不発弾)が見つかり、陸上自衛隊の爆弾処理班の尽力により、処理されました。
    →かの界隈には、未だ埋没したままの不発弾が存在すると思っております。

    >  追:朝鮮戦争中、米軍の依頼により、海上保安庁職員が元山沖の機雷処理中、触雷し、31ないし33名が殉職したことを思いだしました。
    →当時、海上を掃海可能なのは旧海軍出身者で構成された経験豊富な海上保安庁職員だけが可能な作業でした。
    20年ほど前に証言者が出るまで、該一件は、台湾に国民党軍隊に指導の為に渡航した白軍の方々の一件と共に封印された史実でした。

    >  今なら、左翼系あるいは進歩的文化人と称する人たちが、9条!9条!と騒ぐのでは?
    →昨今の安全保障に関する法改正で国会前あたりでの騒動などを見ていると、小生の観点からは、幕末に開国を必要としていたにも拘らず、攘夷運動で動いていた世間知らずで無学浅はかなアウトローな連中を想起させます。



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