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福島県白河市は幕藩体制下に在っては奥州街道上に於ける主要城下町であり、代々、譜代大名が支配する地であり、幕末には徳川御三卿と称された田安徳川家を出自とする松平家が配されていた。<br /><br />日本鐵道會社(にっぽん てつどう かいしゃ)は、明治14年(1881年)11月11日に会社設立されたが、東北、及び、蝦夷地への連絡を目論み、青森までの鉄道建設を最優先課題として進め,東北本線の前身たる本州線の路線延長を反復させ、明治20年(1887年)7月16日に黒磯(くろいそ)-郡山(こおりやま)間開通に伴い白河驛が開業した。<br /><br />因みに、該区間開業を急いだ理由として、同年8月19日に白河付近で発生した皆既日食観測の為だとする説が現在に至るも流布しているが、此れを裏付ける資料が、国立国会図書館憲政資料室保管資料で同年8月14日附発行の東京日日新聞(現 毎日新聞)記事に存在する。<br />即ち、<br />『《日蝕観測日帰汽車》来ル十九日ノ日蝕観測ノ為、日本鐵道ニテ上野白河間往復切符ヲ売出サルル由ハ前號ニ記セシガ、猶同社ニテ観測者ノ便利ヲ謀リ此日ニ限リ白河ヨリ午後五時三十五分臨時列車ヲ発セラル。サレバ上野ヨリ第一発車に乗込ハ、夫ヨリユルユル観測ヲ終ハリ、右ノ列車ニ乗ル時ハ其夜十二時ニハ帰京スヘシ。東京横濱ニ在ル事務繁忙ノ人ノ為ニハ大ナル便利ヲ与フルナルへシ』<br /><br />然るに、該区間開通当時の黒磯-白河間は現路線と比較し殆どの区間に於いて路線が異なる。<br />即ち、連続する25‰急勾配、及び、急曲線区間が存在し、殊に黒田原-白河間では、谷底平野の中を阿武隈川上流域たる黒川を5回も渡河する線形であった事から、黒川氾濫被害の都度、不通になる区間であった為に忽ち輸送上の隘路と化す。<br /><br />明治39年(1906年)11月1日に政府国是として全国主要私鉄買収計画に伴い、日本鐵道は政府に買収され逓信省鐵道作業局管理下に置かれたが、全国の主要私鉄買収が完了し世情に落着きを見せるが、現在の磐越西線が全通し新潟-東京間との交流が盛んになると、黒磯-白河間は喉元に突き刺ささる棘の如き存在となり、逓信省鐵道作業局が発展昇格した鐵道院は抜本的対策を迫られ、我が国の主要幹線たる東海道本線、及び、東北本線の問題路線変更を立案し実行に移した。<br /><br />また、此の間、明治42年(1909年)10月12日に鐵道院告示第54号に基き、日本鐵道から買収した本州線秋葉原-上野-青森間に対し東北本線(とうほくほんせん)と命名された。<br /><br />後に、隘路と化し輸送上のネックとなっていた区間は、大正9年(1920年)3月10日に黒磯-黒田原間、白坂間、同年10月10日に白坂-白河間、更に、同年11月1日に黒田原-白坂間が現路線に付替られた。<br /><br />現白河駅本屋は、大正9年(1920年)10月に竣工した第2代目建築物であり、初代駅本屋は現在位置より青森方120m地点に存在したが路線変更に拠り現位置に移転する。<br /><br />該駅第2代本屋は赤瓦と白壁のコントラストを基調とする木造平屋洋風建築である。<br />正二等辺三角形の巨大なファザードに幾何学模様装飾とステンドグラスの明かり窓が存在し、当時の白河の人々は驚異の目線で見張ったと伝えられている。<br /><br />現白河駅は築堤上に路線が存在するが、路線変更後は客貨取扱は以前同様地上線で行う。<br /><br />使用中止後の地上線部分は、大正5年(1916年)11月29日に白河町-磐城棚倉間23.3kmを開通させた白棚鐵道(はくほう てつどう)貨車のみ鐵道省線に乗入し旅客は白河町-白河間を徒歩連絡の不便さを強いられた。<br /><br />白棚鐵道は昭和9年(1934年)12月4日に水郡線(すいぐんせん)全線開業に拠り忽ち経営困難となる事が明確な事から、鐵道省に対し昭和8年(1933年)4月10日に起業廃止届を提出したが却下され、代りに、昭和11年(1936年)12月に経営困難救済を以って政府借上が決定し、翌々年たる昭和13年10月1日に富士身延鐵道と共に政府借上実施後は旅客列車も白河駅地上ホームに乗入させ白棚白河駅は廃止された。<br />白棚鐵道株券は1枚額面50円に対し25円で買上げられたが、経営困難から5円以下で取引され紙屑同然と揶揄された存在だった。<br />白棚鐵道は昭和16年(1941年)5月1日附で買収され鐵道省白棚線に編入されたが、輸送量過少を以って、大東亜戦争末期に橋場線、川俣線、有馬線等々と共に不要不急として休止対象路線に選定され、昭和19年(1944年)12月10日附で営業休止となり軌条類は撤去転用された。<br />後に、此の時期に休止扱となった路線は、戦後に大部分の路線が復旧されたが、田沢湖線に発展を遂げた橋場線を除き、国鉄財政悪化に伴い、大部分の路線は悉く特殊地方交通線に選定され、路線廃止の憂き目を見る。<br /><br />因みに、白棚線は戦後、鉄道復活計画された際にレールバス導入第1号に想定され、実際に白河-関山口間軌条敷設も完了していたが、輸送量過少を以って鉄道復活は断念され、昭和32年(1957年)4月26日より旧白棚線路盤を活用して国鉄自動車専用道路が完成しツバメのロゴも高らかに国鉄バスが運転されている。<br /><br />国鉄時代、該駅は東京鉄道局最北所在地で仙台鉄道局との境界であり、当時は白河駅以南の路線規格が甲線、以北が乙線だった関係で、非電化時代は該駅以北に大型旅客蒸気機関車C62型が入線出来ず、故に、必ず蒸気機関車の付替を必要とした。<br />即ち、該時代は急行列車と云えども全列車停車しホームには駅弁売りが声を張り上げ乗客は列を成し盛況だった。<br /><br />然るに、昭和34年(1959年)7月1日に黒磯-白河間が交流50Hz20000V電化され、更に、翌昭和35年(1960年)3月1日に福島まで交流電化区間が延伸された結果、該駅に於いて機関車交換は不必要となり停車時間は短縮され、更に、昭和36年(1961年)10月1日から上野-秋田間運転開始の気動車特急列車つばさ号は白河駅を通過する初めてのケースとなり、白河駅凋落の原点となる。<br /><br />白河駅隣駅間複線化は、久田野(くたの)まで昭和37年(1962年)11月30日、磐城西郷(いわきにしごう)(現 新白河)まで昭和38年(1963年)9月23日に完成した。<br /><br />昭和57年(1982年)6月23日に東北新幹線大宮-盛岡間が開業したが、同年10月1日の上越新幹線開業までの暫定開業とされ、在来線特急では、上野-盛岡間運転の やまびこ号が全廃された以外では一部列車廃止に止まったが、上越新幹線開業で本格開業となり、東北本線上野口特急は夜行列車を除き黒磯までの短距離特急数本と つばさ号、及び、あいづ号各1往復以外は全廃となった。<br /><br />野岩鉄道(やがん てつどう)は国鉄末期の財政悪化を理由とした工事凍結を解除され建設を再開していたが、昭和61年(1986年)10月9日に新藤原-会津高原(現 会津高原尾瀬口)間が全線開業すると特急あいづ号は郡山経由で迂回と解された為に翳りを見せる様になったが、更に、高速道路開通は更なる乗車率低下に拍車をかけ、平成5年(1993年)11月30日附を以って上野-郡山間の運転を廃止し、茲に白河駅停車の優等列車は全滅し、以後、臨時列車以外の普通列車限定停車駅となる。<br /><br />平成13年(2001年)4月1日附を以って東日本旅客鉄道は東京支社から大宮支社を分離独立させるにあたり、行政面との兼合いから、東北本線白坂-白河間を従来の東京支社管轄から仙台支社管轄に変更した為に、該駅も仙台支社所属となった。<br /><br />東北新幹線は線形関係上、白河駅を通過出来ず新白河駅経由となったが、それ故に、該駅駅本屋がビル化される事も無く今日まで残された要因であろう。<br /><br />当時の鐵道省施工の同時期設計建築の駅本屋として東海道本線大磯駅、横須賀線鎌倉駅、及び、中央本線国立駅等々が挙げられるが、鎌倉と国立は改築され現存しない。<br /><br />東北の駅100選選定<br /><br /><br />表紙の写真は白河駅旅客連絡通路回廊<br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=847<br />http://shirakawa315.com/<br /><br /><br /><br /><br />東北本線歴史的痕跡探記<br />~東京-上野間編 大正浪漫~<br />http://4travel.jp/travelogue/10719577<br />~上野駅編~<br /><br />~上野-田端-赤羽間編 明治頌歌~<br /><br />~赤羽-大宮間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10685059<br />~大宮-栗橋間編 明治頌歌~<br /><br />~栗橋-小山間編 明治頌歌~<br /><br />~小山-宇都宮間編 明治頌歌~<br /><br />~宇都宮-片岡間編(廃止線) 明治頌歌~<br /><br />~宇都宮-宝積寺-矢板間編(現行線) 明治頌歌~<br /><br />~矢板-黒磯間編 明治頌歌~<br /><br />~黒磯-黒田原-白河間編(廃止線) 明治頌歌~<br /><br />~黒磯-黒田原-白河間編(現行線) 大正浪漫~<br /><br />~白河駅編 大正浪漫~<br />http://4travel.jp/travelogue/10587375<br />~白河-須賀川間編(廃止線) 明治頌歌~<br /><br />~白河-須賀川間編(現行線) 明治頌歌~

東北本線歴史的痕跡探訪記 ~白河驛編 大正浪漫~

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2011/08/06 - 2011/08/07

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横浜臨海公園

横浜臨海公園さん

福島県白河市は幕藩体制下に在っては奥州街道上に於ける主要城下町であり、代々、譜代大名が支配する地であり、幕末には徳川御三卿と称された田安徳川家を出自とする松平家が配されていた。

日本鐵道會社(にっぽん てつどう かいしゃ)は、明治14年(1881年)11月11日に会社設立されたが、東北、及び、蝦夷地への連絡を目論み、青森までの鉄道建設を最優先課題として進め,東北本線の前身たる本州線の路線延長を反復させ、明治20年(1887年)7月16日に黒磯(くろいそ)-郡山(こおりやま)間開通に伴い白河驛が開業した。

因みに、該区間開業を急いだ理由として、同年8月19日に白河付近で発生した皆既日食観測の為だとする説が現在に至るも流布しているが、此れを裏付ける資料が、国立国会図書館憲政資料室保管資料で同年8月14日附発行の東京日日新聞(現 毎日新聞)記事に存在する。
即ち、
『《日蝕観測日帰汽車》来ル十九日ノ日蝕観測ノ為、日本鐵道ニテ上野白河間往復切符ヲ売出サルル由ハ前號ニ記セシガ、猶同社ニテ観測者ノ便利ヲ謀リ此日ニ限リ白河ヨリ午後五時三十五分臨時列車ヲ発セラル。サレバ上野ヨリ第一発車に乗込ハ、夫ヨリユルユル観測ヲ終ハリ、右ノ列車ニ乗ル時ハ其夜十二時ニハ帰京スヘシ。東京横濱ニ在ル事務繁忙ノ人ノ為ニハ大ナル便利ヲ与フルナルへシ』

然るに、該区間開通当時の黒磯-白河間は現路線と比較し殆どの区間に於いて路線が異なる。
即ち、連続する25‰急勾配、及び、急曲線区間が存在し、殊に黒田原-白河間では、谷底平野の中を阿武隈川上流域たる黒川を5回も渡河する線形であった事から、黒川氾濫被害の都度、不通になる区間であった為に忽ち輸送上の隘路と化す。

明治39年(1906年)11月1日に政府国是として全国主要私鉄買収計画に伴い、日本鐵道は政府に買収され逓信省鐵道作業局管理下に置かれたが、全国の主要私鉄買収が完了し世情に落着きを見せるが、現在の磐越西線が全通し新潟-東京間との交流が盛んになると、黒磯-白河間は喉元に突き刺ささる棘の如き存在となり、逓信省鐵道作業局が発展昇格した鐵道院は抜本的対策を迫られ、我が国の主要幹線たる東海道本線、及び、東北本線の問題路線変更を立案し実行に移した。

また、此の間、明治42年(1909年)10月12日に鐵道院告示第54号に基き、日本鐵道から買収した本州線秋葉原-上野-青森間に対し東北本線(とうほくほんせん)と命名された。

後に、隘路と化し輸送上のネックとなっていた区間は、大正9年(1920年)3月10日に黒磯-黒田原間、白坂間、同年10月10日に白坂-白河間、更に、同年11月1日に黒田原-白坂間が現路線に付替られた。

現白河駅本屋は、大正9年(1920年)10月に竣工した第2代目建築物であり、初代駅本屋は現在位置より青森方120m地点に存在したが路線変更に拠り現位置に移転する。

該駅第2代本屋は赤瓦と白壁のコントラストを基調とする木造平屋洋風建築である。
正二等辺三角形の巨大なファザードに幾何学模様装飾とステンドグラスの明かり窓が存在し、当時の白河の人々は驚異の目線で見張ったと伝えられている。

現白河駅は築堤上に路線が存在するが、路線変更後は客貨取扱は以前同様地上線で行う。

使用中止後の地上線部分は、大正5年(1916年)11月29日に白河町-磐城棚倉間23.3kmを開通させた白棚鐵道(はくほう てつどう)貨車のみ鐵道省線に乗入し旅客は白河町-白河間を徒歩連絡の不便さを強いられた。

白棚鐵道は昭和9年(1934年)12月4日に水郡線(すいぐんせん)全線開業に拠り忽ち経営困難となる事が明確な事から、鐵道省に対し昭和8年(1933年)4月10日に起業廃止届を提出したが却下され、代りに、昭和11年(1936年)12月に経営困難救済を以って政府借上が決定し、翌々年たる昭和13年10月1日に富士身延鐵道と共に政府借上実施後は旅客列車も白河駅地上ホームに乗入させ白棚白河駅は廃止された。
白棚鐵道株券は1枚額面50円に対し25円で買上げられたが、経営困難から5円以下で取引され紙屑同然と揶揄された存在だった。
白棚鐵道は昭和16年(1941年)5月1日附で買収され鐵道省白棚線に編入されたが、輸送量過少を以って、大東亜戦争末期に橋場線、川俣線、有馬線等々と共に不要不急として休止対象路線に選定され、昭和19年(1944年)12月10日附で営業休止となり軌条類は撤去転用された。
後に、此の時期に休止扱となった路線は、戦後に大部分の路線が復旧されたが、田沢湖線に発展を遂げた橋場線を除き、国鉄財政悪化に伴い、大部分の路線は悉く特殊地方交通線に選定され、路線廃止の憂き目を見る。

因みに、白棚線は戦後、鉄道復活計画された際にレールバス導入第1号に想定され、実際に白河-関山口間軌条敷設も完了していたが、輸送量過少を以って鉄道復活は断念され、昭和32年(1957年)4月26日より旧白棚線路盤を活用して国鉄自動車専用道路が完成しツバメのロゴも高らかに国鉄バスが運転されている。

国鉄時代、該駅は東京鉄道局最北所在地で仙台鉄道局との境界であり、当時は白河駅以南の路線規格が甲線、以北が乙線だった関係で、非電化時代は該駅以北に大型旅客蒸気機関車C62型が入線出来ず、故に、必ず蒸気機関車の付替を必要とした。
即ち、該時代は急行列車と云えども全列車停車しホームには駅弁売りが声を張り上げ乗客は列を成し盛況だった。

然るに、昭和34年(1959年)7月1日に黒磯-白河間が交流50Hz20000V電化され、更に、翌昭和35年(1960年)3月1日に福島まで交流電化区間が延伸された結果、該駅に於いて機関車交換は不必要となり停車時間は短縮され、更に、昭和36年(1961年)10月1日から上野-秋田間運転開始の気動車特急列車つばさ号は白河駅を通過する初めてのケースとなり、白河駅凋落の原点となる。

白河駅隣駅間複線化は、久田野(くたの)まで昭和37年(1962年)11月30日、磐城西郷(いわきにしごう)(現 新白河)まで昭和38年(1963年)9月23日に完成した。

昭和57年(1982年)6月23日に東北新幹線大宮-盛岡間が開業したが、同年10月1日の上越新幹線開業までの暫定開業とされ、在来線特急では、上野-盛岡間運転の やまびこ号が全廃された以外では一部列車廃止に止まったが、上越新幹線開業で本格開業となり、東北本線上野口特急は夜行列車を除き黒磯までの短距離特急数本と つばさ号、及び、あいづ号各1往復以外は全廃となった。

野岩鉄道(やがん てつどう)は国鉄末期の財政悪化を理由とした工事凍結を解除され建設を再開していたが、昭和61年(1986年)10月9日に新藤原-会津高原(現 会津高原尾瀬口)間が全線開業すると特急あいづ号は郡山経由で迂回と解された為に翳りを見せる様になったが、更に、高速道路開通は更なる乗車率低下に拍車をかけ、平成5年(1993年)11月30日附を以って上野-郡山間の運転を廃止し、茲に白河駅停車の優等列車は全滅し、以後、臨時列車以外の普通列車限定停車駅となる。

平成13年(2001年)4月1日附を以って東日本旅客鉄道は東京支社から大宮支社を分離独立させるにあたり、行政面との兼合いから、東北本線白坂-白河間を従来の東京支社管轄から仙台支社管轄に変更した為に、該駅も仙台支社所属となった。

東北新幹線は線形関係上、白河駅を通過出来ず新白河駅経由となったが、それ故に、該駅駅本屋がビル化される事も無く今日まで残された要因であろう。

当時の鐵道省施工の同時期設計建築の駅本屋として東海道本線大磯駅、横須賀線鎌倉駅、及び、中央本線国立駅等々が挙げられるが、鎌倉と国立は改築され現存しない。

東北の駅100選選定


表紙の写真は白河駅旅客連絡通路回廊
http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=847
http://shirakawa315.com/




東北本線歴史的痕跡探記
~東京-上野間編 大正浪漫~
http://4travel.jp/travelogue/10719577
~上野駅編~

~上野-田端-赤羽間編 明治頌歌~

~赤羽-大宮間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10685059
~大宮-栗橋間編 明治頌歌~

~栗橋-小山間編 明治頌歌~

~小山-宇都宮間編 明治頌歌~

~宇都宮-片岡間編(廃止線) 明治頌歌~

~宇都宮-宝積寺-矢板間編(現行線) 明治頌歌~

~矢板-黒磯間編 明治頌歌~

~黒磯-黒田原-白河間編(廃止線) 明治頌歌~

~黒磯-黒田原-白河間編(現行線) 大正浪漫~

~白河駅編 大正浪漫~
http://4travel.jp/travelogue/10587375
~白河-須賀川間編(廃止線) 明治頌歌~

~白河-須賀川間編(現行線) 明治頌歌~

同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円 - 3万円
交通手段
高速・路線バス JRローカル 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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この旅行記へのコメント (14)

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  • mzwさん 2015/12/14 09:21:37
    なんだかほっとする佇まい…
    横浜臨海公園さま

    この白河駅の外観、可愛い感じですね。


                 by MZW

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2015/12/21 08:58:20
    拝復
    MZWさま、おはようございます。


    この度は、小生の旅行記に投票と掲示板にコメントを賜りまして、誠に有難うございました。

    白河駅本屋は大正期の建築ですが、同時期の駅本屋建築で代表的存在だったのは高崎駅がありましたが、上越新幹線建設時に駅ビルに改築されてしまい、戦災で被災焼失したものなどを含め、現在では白河の存在は貴重なものだと思います。
    時間がございましたら、是非ともお立寄りされてみては如何でしょうか。




    横浜臨海公園
  • googooさん 2012/05/13 21:40:08
    趣ある木造駅舎
    やはり木造建築は何年たってもいいものです!
    実家に帰った時ときにでも行ってみたいと思います。

    更新楽しみにしています。

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2012/05/14 16:50:09
    拝復
    googooさま、この度は、小生のページに初訪問とフォロー登録を賜りまして誠に有難うございました。

    仰せの如く我が国でも一時期、利用価値無しとの概念から、次々と木造建築駅舎が解体された時期がございましたが、現在では当時のものを修理しながら再用する方針へと考えも変わってきた様子が見てとれる様です。

    今後とも何卒宜敷くお願い申します。

    また、googooさまの旅行記やクチコミ投稿を期待しております。



    横浜臨海公園
  • わんぱく大将さん 2011/11/07 10:10:20
    修学旅行時
    横浜臨海公園さん

    この駅、高校の修学旅行の時に通りました。 寝ていて、目が覚めたら、丁度、ここでした。

     大将

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2011/11/08 17:01:38
    拝復
    大将さま、こんにちは。


    拙稿旅行記への立寄りと投票を賜りまして誠に有難うございました。

    JR化以降、近代化が遅れていた地域でも活性化の名目のもとで駅舎の改築が積極的に進められ、結果的に何所に行っても同じ様な形態が見られ、歴史的建造物が次々と解体されてしまい遺憾に思っております。

    大将さまは目が覚めた際に列車が停車していたのが白河駅だったと云う事であれば、年齢が概ね判断されてしまいますね!

    今や、東北本線全線運転は唯一の列車たる北斗星号とカシオペア号ですが、どちらも白河駅とは無関係とばかり通過してしまい、往年の貫録は失せてしまいましたが、それでもあの建築物を見れば、全盛期を彷彿させる何かを感じさせずにはいられません。



    横浜臨海公園
  • パピーさん 2011/08/14 00:38:54
    この建物にもそんな歴史が・・・
    横浜臨海公園さま、こんばんは

    こんな廃屋のような建物にも、そんな歴史があって、そしてまだ現役なんてすごいですね。

    油燈を使用していたころの、車内照明は一体どんなだったんだろうと、想像してみるのも、おもしろいですね。

    今を基準にしたら、真っ暗に近かったんでしょうね。

         パピー


    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2011/08/14 15:18:31
    拝復
    パピーさま、こんにちは。


    旅行記への投票とメッセージを賜りまして誠に有難うございました。

    東海道線ではとっくに廃絶していた東京駅発客車普通列車が、東北線では昭和50年代後半に至っても、上野駅発列車にで相当数残存していたり施設も実は100年以上経過する物が現在でもゴロゴロしているのが現状です。

    油燈は現在からは想像出来ぬほど暗かったものと推定されます。
    また、走行中に油切れや強風で消灯してしまうなど不安定な存在だったでしょう。
    因みに、車内燈に現在の如き電燈が使用されるのは明治30年代前半で、当時、作家内田百間が生まれ故郷の岡山で山陽鐵道の機関車の後ろに蓄電車と書かれた車輌が連結されているのを見掛けたと作品の中に出て来るのが車内燈の嚆矢です。



    横浜臨海公園
  • Medinaさん 2011/08/10 21:09:14
    ご無沙汰しております。
    横浜臨海公園様

    こんばんはMedinaでございます。

     ご無沙汰しております。以前お伝えした震災の件、6月末まで復興支援して
    おりました。岩手県はできませんでしたが、福島県と宮城県はなんとかお手伝いができ、地元の方にも喜ばれて一安心致しました。

     今回の旅行記、拝読させて貰いましたが、写真で見るかぎり白河駅は震災の影響さほどなかったみたいですね。福島も場所によってかなり違うように思えました。早い復旧、復興を願いたいですね。

    話は変わりますが、横浜様のコメントで
    「東日本旅客鉄道電子型カード SUICAは東京首都圏、仙台支社圏内に於いて使用可能だが、該駅は各々の使用エリア外部に存在する為に、取残され改札口が残存。」

    やはり白川駅もスイカ駄目ですか!私も会津若松駅で駄目でした。
    それと只見線、磐越西線沿線も使用不可でした。

    私はモバイル・スイカを利用している為、電車の予約や買い物、車内販売を良く利用しているのですが、JR東日本圏内全部利用できるかと思いきや、使用できない駅が多数あるので大変困ります。

    私からの情報ですがスイカが使える場所で、熊本駅、博多駅、新山口駅、
    新大阪、京都、名古屋、首都圏、郡山、仙台、盛岡、新青森の新幹線が停車する駅は使用できますが、ローカル線はまだまだみたいですね。新青森駅はスイカが使えますが、なぜか?青森駅は使用できませんでした。あと鹿児島中央駅も使用できませんでした。
     
     それと、新幹線ですが上越、東北新幹線の車内販売はスイカが使用できるのですが、山陽新幹線、九州新幹線の車内でスイカの使用ができないので不便を感じました。もちろんJR東日本のカードなので当たり前と言えばそれまでですが。。要望としてJRグループの統一した共通カード出して欲しいですね。

    今年の冬に釧網本線に行く予定しているので、その時JR北海道で使用できるか試してみます。

    いつも詳しくご説明されているので大変勉強になります。
    これからも時間が取れたとき拝読させて貰いますので、宜しくお願い致します。

    Medina

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2011/08/13 20:53:46
    拝復
    Medinaさま、こんばんは。


    メッセージを賜りながら返事を差し上げるのが遅くなりまして誠に申し訳ございませんでした。

    >  今回の旅行記、拝読させて貰いましたが、写真で見るかぎり白河駅は震災の影響さほどなかったみたいですね。福島も場所によってかなり違うように思えました。早い復旧、復興を願いたいですね。
    →実は、駅を一歩出ると、街が損壊したのではと錯覚を覚えるほど、震災被害を受けております。
    福島県で震災被害は須賀川の被害が大きいようで、次いで、郡山市だと思われます。

    > 話は変わりますが、横浜様のコメントで
    > 「東日本旅客鉄道電子型カード SUICAは東京首都圏、仙台支社圏内に於いて使用可能だが、該駅は各々の使用エリア外部に存在する為に、取残され改札口が残存。」
    →有名な点では会社分界点たる熱海-函南間ですが、それと同様な事が、黒磯-須賀川間などでも発生しており、該区間を越えスイカの使用は不可能な状態です。

    > 私はモバイル・スイカを利用している為、電車の予約や買い物、車内販売を良く利用しているのですが、JR東日本圏内全部利用できるかと思いきや、使用できない駅が多数あるので大変困ります。
    →然し、モバイルスイカを他社区間で使用するとJR社員が目を見張って驚いてますね。
    特に、JR九州博多駅改札では社員全員が仰天した顔をしていたのを覚えてます。

    > 私からの情報ですがスイカが使える場所で、熊本駅、博多駅、新山口駅、
    > 新大阪、京都、名古屋、首都圏、郡山、仙台、盛岡、新青森の新幹線が停車する駅は使用できますが、ローカル線はまだまだみたいですね。新青森駅はスイカが使えますが、なぜか?青森駅は使用できませんでした。あと鹿児島中央駅も使用できませんでした。
    >  
    >  それと、新幹線ですが上越、東北新幹線の車内販売はスイカが使用できるのですが、山陽新幹線、九州新幹線の車内でスイカの使用ができないので不便を感じました。もちろんJR東日本のカードなので当たり前と言えばそれまでですが。。要望としてJRグループの統一した共通カード出して欲しいですね。
    →交通系カードは来年以降、全社で使用可能になる予定です。



    横浜臨海公園
  • kuritchiさん 2011/08/10 15:14:37
    大正ロマン。。。
    横浜臨海公園さん、こんにちは。
    東北本線歴史的痕跡探訪記 白河駅編にお邪魔しております。

    いつもながら、横浜臨海公園さんらしい?、ならでは?の旅行記ですね。。。
    私も、古い駅舎やホームを見かけると、横浜臨海公園さんだったら、どんな視点で見られるのだろうかと考えたりもします。

    へぇー!とか、そうなんだ…、くらいの感想しか持てない私ですが、大正ロマンを感じさせられる駅舎に、通路に、ホームを拝見して、ちょっぴり賢くなれた気分です…(笑)

    kuritchi

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2011/08/13 20:45:37
    拝復
    kuritchiさま、こんばんは。


    メッセージを賜りながら返事を差し上げるのが遅くなりまして誠に申し訳ございませんでした。
    過分なる評価を賜りまして恐縮しております。
    誠に有難うございました。

    古い駅舎は全国各地で見られたものでしたが、営業政策を優先した結果、駅ビル化の為に解体された例が多く、おちおち出来ない状態になってきました。

    兎に角、忙しい為に現地を訪れることなく消え去った駅舎の多き事が返す返すも残念です。



    横浜臨海公園
  • zzr-cさん 2011/08/09 16:08:12
    今はどうか解りませんが
    横浜臨界公園さま こんにちは!

    関門トンネルをブルートレインで走る時、確か下関か門司で機関車が
    変わった覚えがあります。直流とか交流の関係だったか忘れましたが^^;

    結構長い間停車していましたが、こちらの駅では蒸気機関車を
    線路の関係で付け替える必要があったのですね。

    その部分を読んでいた時、ふと昔乗ったブルートレインの事を
    思い出しました^_^

    じぃ〜

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2011/08/11 06:50:59
    RE: 今はどうか解りませんが
    zzr-cさま、おはようございます。


    メッセージを賜りながら返事を差し上げるのが遅くなりまして誠に申し訳ございませんでした。

    > 関門トンネルをブルートレインで走る時、確か下関か門司で機関車が
    > 変わった覚えがあります。直流とか交流の関係だったか忘れましたが^^;
    →仰せの通り、関門隧道は門司方出口付近に交直流の切換地点が存在する為に、下関、及び、門司駅で機関車の交換を必要としていました。
    同じく、北陸本線では当時は米原-田村間に切換地点が存在した関係で、米原と田村で其々、機関車の交換をしておりました。
    >
    > 結構長い間停車していましたが、こちらの駅では蒸気機関車を
    > 線路の関係で付け替える必要があったのですね。
    >
    > その部分を読んでいた時、ふと昔乗ったブルートレインの事を
    > 思い出しました^_^
    →そういえば、民営化後、ブルートレインは殆ど全滅してしまいましたね。
    時代の趨勢とは申せ残念です。



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