2015/05/27 - 2015/05/27
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junemayさん
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2014年6月から7月にかけて、イタリア、フランス、スペインを勝手気ままに歩いた一人たびの心地よさが忘れられず、年が明けるや否や新しいプランを作成。今年は昨年最も強く心を惹かれてしまったイタリアに集中することにしました。6月のトスカーナは連日35度を超す猛暑だったので、今年は1か月前倒し。
まずは行きたいところをピックアップして、たびの拠点となる都市を選定。宿泊施設を押さえてから、詳細を詰めていくというのが私のスタイルなのですが、例によってこれも見たい、あそこも行きたい・・・とかく欲張りな私のこと、1か月じゃあ全く時間が足りないことがすぐに判明しました。とはいえ、時間とお金は限りあるもの。優先順位を決めて、何とかやりくりをして決めたのが下記のプランです。
イタリアには過去3度行ったことがあります。
最初のたびは、大学生の頃、スイスのチューリッヒから日帰りで行ったミラノ。最後の晩餐だけ見に行ったような、慌ただしいたびでした。
2回目は2001年、シシリアとアルベルベッロ、カプリ島、ローマを2週間かけて回りました。
3回目が2014年、ベネチアとトスカーナ州、リグーリア州が中心の2週間。
今回は、過去に行ったことのない場所をメインとした旅程となりました。たびを重ねるうちに、自分が最も興味を惹かれるものは、古い建物、神社仏閣教会等、そして彫刻、絵などの美術品 全て人が作り出したものだということがわかってきました。中でも、ここ2、3年、以前はあまり興味が沸かなかった教会に強く惹かれる自分がいます。基本的には無宗教なのですが、現在より人々の心が純粋で、神を敬う気持ちが強かった頃でなければ、創り上げられなかった文化の結晶とでもいうべき施設には畏敬の念を覚えます。というわけで、今回のたびの中心は教会を巡る街歩きとなってしまいました。
イタリア語は皆目見当がつかず、付け焼刃で2週間ほど本を見て勉強しましたが、やるとやらないでは大違い。後は度胸と愛嬌?で前進あるのみ。御陰様で、とても自己満足度の高いたびになりました。
2015/5/6 水 成田→モスクワ→ローマ
2015/5/7 木 ローマ
2015/5/8 金 ローマ→ティヴォリ→ローマ
2015/5/9 土 ローマ
2015/5/10 日 ローマ
2015/5/11 月 ローマ
2015/5/12 火 ローマ
2015/5/13 水 ローマ→ナポリ
2015/5/14 木 ナポリ→ソレント→アマルフィ→ラヴェッロ→アマルフィ→サレルノ→ナポリ
2015/5/15 金 ナポリ
2015/5/16 土 ナポリ→エルコラーノ→ナポリ→カゼルタ→ナポリ
2015/5/17 日 ナポリ→バーリ
2015/5/18 月 バーリ→マテーラ→バーリ
2015/5/19 火 バーリ→レッチェ→バーリ
2015/5/20 水 バーリ→オストゥーニ→チェリエ・メッサピカ→マルティーナフランカ→バーリ
2015/5/21 木 バーリ→アンコーナ→フォリーニョ
2015/5/22 金 フォリーニョ→スペッロ→アッシジ→フォリーニョ
2015/5/23 土 フォリーニョ→トレヴィ→スポレート→フォリーニョ
2015/5/24 日 フォリーニョ→ペルージャ→フォリーニョ
2015/5/25 月 フォリーニョ→コルトーナ→オルヴィエト
2015/5/26 火 オルヴィエト→チヴィタ ディ バーニョレージョ→オルヴィエト
2015/5/27 水 オルヴィエト→アレッツォ→オルヴィエト
2015/5/28 木 オルヴィエト→フィレンツェ→ボローニャ
2015/5/29 金 ボローニャ→ラヴェンナ→ボローニャ
2015/5/30 土 ボローニャ→モデナ→ボローニャ→フェラーラ→ボローニャ
2015/5/31 日 ボローニャ
2015/6/1 月 ボローニャ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/2 火 ヴィチェンツァ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/3 水 ヴィチェンツァ→ヴェローナ→ヴィチェンツァ
2015/6/4 木 ヴィチェンツァ
2015/6/5 金 ヴィチェンツァ→ミラノ
2015/6/6 土 ミラノ
2015/6/7 日 ミラノ
2015/6/8 月 ミラノ→モスクワ→
2015/6/9 火 →成田
アレッツオで待望の教会巡りの1日。聖フランチェスコ、ピエーヴェ・ディ・サンタ・マリア、ドゥオモ、聖ドメニコ、サンティッシマ・アヌンツィアータと5つの教会を巡ってきました。あといくつ見れるかな?
- 旅行の満足度
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 鉄道 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
大聖堂へと戻る道を辿りながら、本日6つ目の教会サンタ・マリア・イン・グラディ教会に寄っていきます。ベネディクト会の修道士、聖ロムアルドによって創設された修道会カマルドーリ会が建てた教会です。アレッツォの町の守護聖人聖ドナートが最初に葬られた場所としても有名で、修道院は1043年にすでに文書に記録があります。古いロマネスクの教会は11世紀から2世紀に遡りますが、現在の建物はバルトロメオ・アマンナティの設計により、1611年に完成しています。
この建物もヴァザーリ以降流行したマニエリスム様式だということですが、私にはどこがそうなのかさっぱり・・・ -
内部は一廊式。ドーリア式のシンプルな壁柱が作るアーチの間に、17世紀に作られた礼拝堂が左右3つずつ並んでいます。天井は18世紀の格間天井です。
見たところでは翼廊はなく、長方形の整然とした空間です。 -
壁には見かけだけのニッチェに立つ12人の使徒達のフレスコがズラリと並んでいました。1617年頃にトスカーナ派に属する画家ウリッセ・ジオッキ、ジョヴァンニ・バッティスタ・アンツォリーニらによって描かれたとのことです。いつもの周り方で、反時計回りに見ていきます。
妙に引き延ばされた体を持つ天使の姿を見ると、こちらは確かにマニエリスムを感じますね。
左がタダイ、右がマティアかなあ・・・持っているアトリビュートで判定しようかと思いましたが、難しい・・・ -
シンメトリーに並んだ身廊左右の祭壇は16世紀の末、ティオフィーロ・トッリの設計によるものです。
右側最初の祭壇画は、バロック期のフィレンツェで活躍した画家ヴィンチェンツォ・ダンディーニの作品で、「カルロ・ボッロメオとサンタンドレア・ツォエランドロSant'Andrea Zoerandro」。二人ともあまり馴染みのない聖人ですね。1658年。カルロ・ボッロメオは16世紀のミラノの大司教です。
ヴィンチェンツォは家族皆が画家の家に生まれ、それぞれが活躍していましたが、「ダンディーニ一族の中でも、その才能は他に抜きんでている」と言われたそうです。
」 -
2つ目の礼拝堂の祭壇画はアレッツォ出身の画家ベルナルディーノ・サンティーニによる「聖人達が見守る聖母被昇天」。色を抑えた穏やかな雰囲気が結構好みです。1633年。
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フレスコは、修復されているのか、500年前のものとは思えないほど、色鮮やかです。
下地のスタッコが乾かないうちに絵を描き上げねばならないところから、フレスコ(=新鮮)と言うのであって、何百年も経ってから修復したら、フレスコでなくなってしまいますよね。それは単なる絵に変わってしまいます。ですから、厳密な意味でのフレスコの修復ということは不可能なのだそうです。 -
3番目の礼拝堂は2階建てになっていました。こちらは2階部分。天使達による音楽会が開催されていました。題して「天使達の栄光」。ここまで徹底して天使だけという絵もあまり見かけませんよね。和やかな空気が流れています。サルヴィ・カステルッチの1654年頃の作品です。
その下にある金メッキで縁どりされた部分は、最近修復された聖歌隊席です。身廊の反対側にも同じ様式の聖歌隊席がありました。 -
1階部分には、同じ画家による「聖家族」が描かれていました。聖母の右側で、跪いて幼子に会則を見せているのは、聖ベネデット(聖ベネディクト)。修道制度の父と呼ばれる人で、最古の修道会ベネディクト会の開祖です。
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身廊右側の壁が終わって、聖域に入っていきます。
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シンプルな石造りの主祭壇です。祭壇画はなく、長い燭台が全部で11本、祭壇の上に並べられています。祭壇はジョルジョ・ヴァザーリの甥っ子で同じ名の建築家が1607年に白い大理石に様々な色大理石をちりばめて制作しました。ジョルジョ・ヴァザーリに甥っ子がいたという話は初めて耳にしましたよ。
ちなみに、バザーリ本人と区別するために「若い方」と意味のil giovaneがついていました。 -
主祭壇からカウンターファサードを撮った1枚です。教会は完全に私の独占状態。なんて贅沢なんでしょう!
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主祭壇に向かって、左側に移ります。天使の音楽隊があった祭壇の対面には、上部にオルガン、そして聖歌隊席、下に小さな祭壇が設けられていました。
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小さな祭壇には、聖ピエトロと聖ベルナルドのいる磔場面。この絵もベルナルディーノ・サンティーニによる1枚で、彼はここで制作したとのことです。1629年。
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2番目の礼拝堂との間に細長い隙間があり、地下のクリプトへ向かう通路となっています。
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細長い通路の両側にもフレスコ画が2枚ありました。どちらも奇跡についての物語のようです。
下のイタリア語をちょっと訳してみると、カッリという町に向かっていた旅人が途中で強盗に襲われ、身代金を請求されたが、聖トマーゾに祈りを捧げたところ、無事解放されたというような内容。良く分からないので、正確ではありませんよ! -
こちらはもっとわからない。右側の男性はどうも聖人の幽霊?で、左側の女性にしか見えない存在。彼女に渡しているものは多分軟膏のようなもので、それを塗ると信心深い彼女の体にあった腫瘍が見事になくなり、めでたしめでたし というお話かなあ・・・殆ど空想の世界です。
こういう奇跡のお話、人間考えることはどこでもあまり変わらないということがわかって、古今東西どこのものも好きなんですけれどね。
フレスコの下に窪みが見えますが、そこから、クリプトへの階段が下に伸びていました。 -
さて、サンタ・マリア・イン・グラディの旧教会部分にあったクリプトです。階段は閉鎖されていたので、上から覗き込んだだけです。
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こういう古い石造りのヴォールトを見ると、ゾクゾクします! 怖いのではなくて、楽しくて!
10世紀か遅くとも11世紀の終わりごろの建造だそうです。 -
祭壇にある木製の十字架像は、13世紀後半から14世紀の作です。遠くからなのでよく見えませんが、素朴な味わいのある木像のようですね。
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クリプトから階段を上がると、今度はこちらの隙間に出てきます。先ほどの入り口と同じように、フレスコが両方の壁に描かれていました。右側のはかなりおどろおどろしい絵のようでした。
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ちょうど2番目と3番目の礼拝堂の間から出てきましたよ。クリプトへの出入り口は、礼拝堂一つ分しかない狭い空間をうまく利用していました。
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左身廊2番目の礼拝堂は、資料がなく、詳しい内容がわかりませんが、聖母子に礼拝している人々が描かれています。聖母のスカーフや衣服がイスラム風に見えます。
こういう絵を見るたびに、キリスト教もイスラム教も起源的には殆ど変わらないんだということを改めて思い知らされます。
おっと深入りするのは厳禁ですね。私は単に美術を愛でているだけなのですから・・・ -
そして、最後の礼拝堂がこちら。祭壇にはアンドレア・ロッビアと彼の工房による「慈悲の聖母」の陶板がありました。1480年〜90年に制作されたものだそうです。流行病の際に沢山作られたという、聖母の慈悲深いマントの下にすがる大勢の人々を、ここでも見ることが出来ました。
聖母の両脇には、聖ピエトロと聖ベネデット(聖ベネディクト)、なぜか聖パオロは見当たりません。 -
父なる天の神は、天から伸びてきている両手だけで表されています。大いなる祝福のポーズで、神が満足していることがわかるのだそうです。聖母子の慈愛に満ちた表情が、どれほど人々の心を癒したことでしょう。何百年経っても劣化の少ないセラミカゆえに、最初に目にした6世紀前の人々と同じ感動を得ることが出来るのが素晴らしいですね。
少々お粗末に思えるプラデッラにはキリストを中心に聖母、聖ヨハネ、一番左で天秤を持っているのは正義の女神ユースティティアかしら? -
こちらが、左壁の終わり〜カウンターファサードにかけてです。見事に早回り出来ましたね。
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最後にもう一度右側の礼拝堂と・・・
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左側の礼拝堂を眺めて、サンタ・マリア・イン・グラディ教会を後にしました。
ローマ帝国時代から、この辺りは陶器を焼く竈が沢山並んでいた地域だったとのことで、教会の完成の100年以上前に制作されたロッビアの工房の作品があったのも、どうやらそれと関係がありそうですね。 -
この後、大聖堂に寄って、内部を見学し、続いて大聖堂の裏手にあるこちらのプラト公園にやってきました。実はこの写真は、大聖堂に行く前に撮った1枚です。
大聖堂の内部については、イタリア あっちも! こっちも! と欲張りなたび その67 アレッツォ2をお読みくださいね。 -
そして、こちらが大聖堂を出た後訪れた時の1枚。空が晴れてる! 晴天と曇天では、こんなに写真のイメージが違うんですね。
突如現れたこの白い立派な彫像群は、14世紀のアレッツォの詩人にして学者、人文主義者の父と言われているフランチェスコ・ペトラルカを記念して作られたものです。ペトラルカはイタリア人ならだれでも知っている有名人ですが、日本では知名度低いですね。
フィレンツェのウフィツィ美術館前のロッジアにも、彼の彫像がありましたよ。 -
ウィキペディアによると、彼は法学を修め、アヴィニョンに移った教皇庁で書記を務めつつ、ラウラと言う女性に捧げた一連の抒情詩「カンツェニオーレ」を始めとする多くの詩を書き、学者としてラテン語の文法を整備したり、ラテン文学の研究に勤しみました。
20世紀の初めから、ここに彼の彫像群を建てる計画があったようですが、第一次大戦の混乱から工事は遅れ、1928年に、アレッサンドロ・ラッツェリーニによって完成を見ました。 -
完成後の世間の評判は芳しくなく、彫像群の出来は「平凡」。中には高価なカラッラ大理石の無駄とまで評した学者もいたそうです。ペトラルカの生涯からのエピソードを詰め込み過ぎたという批判もあったようです。
彫像群の後ろ側に回ると、「ローマの雌狼」が見えますね。その下には、1341年、ローマのカンピトリオの丘で彼が桂冠詩人の栄を受けている場面がありました。
その横にあるメダリオンの中の女性がラウラだそうですよ。 -
後のエピソードについては、勉強不足でわからずじまい・・・なかなか手が込んでいて面白い彫像と思ったのですが、世間は厳しかったですね。
大聖堂の鐘楼がよく見える位置にあります。ピエーヴェ・ディ・サンタ・マリア教会から大聖堂に向かう途中の公園の中にあるので、是非お立ち寄りください。 -
プラト公園を東方向に歩いていくと、やがて見えてくるのは五角形をした要塞 通称「メディチ家の要塞」です。この辺りが、町の最高地点(標高308m)になるそうです。
作られたのはコジモ1世の時代の16世紀のこと。彼が城壁を拡張したのと同時期の建造です。元々9世紀か10世紀に作られた中世のチタデル(要塞)の跡に作られました。 -
現在の要塞は、1538年から1560年にかけて、ジュリアーノとアントニオ(イル・ヴェッキオ)・ダ・サンガッロ親子の描いた設計図に忠実に、アントニオ(イル・ヴェッキオ)の息子で同名のアントニオ(イル・ジョヴァーネ)ダ・サンガッロの指揮の元行われました。ややっこしい〜!!
この要塞を建てるために、コジモ1世は当時グランデ広場に並んでいた市庁舎(パラッツォ・トッレ・ロッサ)、町の民兵司令官の館(パラッツォ・デル・ポポロ)をはじめ、17もの教会を解体したため、古くからあった町の中心部は廃墟と化してしまいました。これにより、フレンツェ支配に反抗していたアレッツォの住民に無駄な抵抗はするなと釘を刺したのですね。
グランデ広場については、イタリア あっちも! こっちも! と欲張りなたび その67 アレッツォ2をご覧ください。 -
メディチ家の紋章のある入り口から中に入ってみたのですが、どうやら工事が行われている模様で、一般公開はしていないようでした。雰囲気だけ味わって退散です。
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町の最高地点からそろそろ下ることにしましょう。見えているのはプレトリオ宮の裏にある塔と市庁舎の塔です。手前の塔のある辺りに、先ほど彫像を見たペトラルカの生家があったそうです。
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階段を下りて行くと、目の前にヴァザーリの回廊宮殿が! はは〜ん。これはどうやら宮殿の裏側ですね。
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グランデ広場には寄らず、町の一番東寄りの道ペッリッチェリア通りを下っていきます。この辺りまで来ると、もう観光客は誰も歩いていません。
ペッリッチェリア通りは14世紀の町並みが一番色濃く残っている道だそうですよ。 -
左側に続く連続したアーチはルネサンス期の特徴をよく表している14世紀の建物と書かれていました。車が邪魔なんですけれど・・・
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こちらは、聖アニェーゼ教会。ローマ帝国時代に4つあった中枢的教会のうちの1つで、4つのうち、聖アンドレア教会と聖ジュスティーノ教会は現存しません。
1025年には文書にその存在が記録されています。中世初期の創建ですが、17、18世紀に建物はひどいダメージを受け、1932年にジュゼッペ・カステルッチにより、復元されました。ファサードの最も古い部分は13世紀に遡ります。 -
中央扉上のルーネットにあった天使を両脇に従えた聖アニェーゼのモザイクです。神の子羊を抱いています。アニェーゼAgneseと子羊Agnusの発音が似ているので、イタリアでは彼女は子羊と一緒に描かれることが多いのだそうです。
残念ながら教会は閉まっていました。 -
尚も、ベッリッチュリア通りを下っていきます。凄い坂道でしょう。前方にこの地区の旗が何本も通りを飾っていますね。サラセン人の馬上槍試合の時には、アレッツォの町は全部で4つの地区に分かれて競い合いますが、赤と緑の旗は、そのうちの1つポルタ・クルチフェラの旗です。
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もう1つ残るローマ帝国時代からの教会がこちらの聖ロレンツォ教会です。やはり1025年発行の文書に記載があります。創建は初期キリスト教時代とのことですが、13世紀に再建、1583年に修復、そして1705年には再び再建されています。1932年に聖アニェーゼ教会同様、ジュゼッペ・カステルッチにより改修が行われています。
後陣にロマネスク時代の装飾が残っていたようですが、見なかったなあ・・・ -
急坂に建つパラッツォ・アルベルティは、かなりの修復が行われてはいますが、14世紀の建物の特徴をよく残している小さめの宮殿です。
アルベルティ家は元々フィレンツェ出身ですが、アレッツォ郊外に広大な土地を所有しており、アレッツォの貴族社会の一員となりました。サラセン人の槍試合の際には、この屋敷がポルタ・クルチフェラ地区の本部となります。
左側のアーチが並んでいる窓がとても美しいですね。 -
聖ジュースト広場までやってきました。道はアーチをくぐってなおも南東へと続いています。旗の色が変わりましたね。緑と白はポルタ・サンタンドレア地区の旗です。
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左側を見ると、町の東側の大きな門 トレントとトリエステ門(ポルタ・トレント・エ・トリエステ)が見えました。
1816年に作られたアレッツォで一番新しい門です。元々はフェルデイナンダ門と呼ばれていました。この門から始まるジュゼッペ・ガリバルディ通りは、ぐるりと弧を描いていて、弧の内側に旧市街の見どころが集中しています。 -
トレントとトリエステ門の外側です。第一次大戦後に今の名前に変わったのだそうです。工事中だったこともありますが、あまり面白みのある門ではないですねえ。
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というわけで、ここからジュゼッペ・ガリバルディ通りを西に向かいました。遠くで鐘楼が「おいでおいで」をしていますよ。
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しばし歩くと、カルーセルが設置されている大きめの広場に出ました。聖アゴスティーノ広場です。広場の中央部分は周辺部より高くなっていて、その下は駐車場にでもなっているのかな。
最近整備されたと思われる無機質な広場ですが・・・ -
来た方向を振り返ると、シンプルなルネサンス時代の教会が目に入ります。聖アゴスティーノ教会です。
修道会托鉢のアウグスティン会が、教皇アレクサンデル4世の承認を受け、ここに最初の礎石を置いたのが1257年のことです。最初の建物は小さかったため、1330年から41年にかけて身廊を拡張。1766年から77年にかけて、フィリッポ・フェッラーラ・ジュスティーニの設計により大規模な修復を行っています。
但し、荒削りの石造りのファサードは13世紀の面影を残していますし、隣接する鐘楼は19世紀に落雷により損傷を受けた屋根部分を除いて15世紀に建てられた当初の姿を伝えています。 -
内部は18世紀の大規模改修ですっかりバロック様式に様変わりしていました。スタッコ装飾はミラノ出身のフランチェスコとジュリアーノ・ルスカ、それにカルロ・スプローニによるものです。
この教会も翼廊がなく、ほぼ長方形。一廊式で、左右5つずつのアーチの中に礼拝堂が作られていました。 -
左側廊入ってすぐにあったペンテコステ(聖霊降臨祭)のステンドグラスは、新しもので、フィレンツェのガラス工房の作品です。2003年。
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ヴァザーリの著書によれば、14世紀末から16世紀初めにかけて、教会の壁はパッリ・スピネッロ、タッディオ・ディ・バルトーロなどの画家達によって描かれたフレスコや絵画で装飾されていたそうですが、18世紀の改修(身廊を半分のサイズに縮小した)によって、全て姿を消してしまいました。
こちらは残っている貴重なフレスコの一つで、3人の聖人を描いたものです。中央が聖ベルナルディーノ。左右に聖ジローラモとイニャッツァオ・ダンティオキア(アンティオキアのイグナティオス)を従えています。作者はわかっていませんが、ピエロ・デッラ・フランチェスカの影響を受けていると言われています。1498年。 -
無原罪の御宿りかロザリオの聖母かな? これは最近の作品でしょう。
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主祭壇です。ここでは2枚しか写っていませんが。後陣に4枚、主祭壇に1枚の絵が飾られています。緑とピンクの色がふんだんに使われていて、バロックの装飾が非常に明るくてソフトな印象を与えています。
今写っている2枚(左聖アゴスティーノ、右マグダラのマリア)はマッテオ・ラポッリの16世紀初頭の作品です。 -
中央の小さな「慰めの聖母」(マドンナ・デッラ・コンソラツィオーネ)は18世紀末の作品ですが、作者不詳です。主祭壇に飾られた経緯がどうも良く分かりません。ここでは奇跡が起こったという話も聞いていませんしね。
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ズームアップした1枚です。
ここで素朴な疑問。天に召された聖母は、天上界の女王になったとする考えから、(先に昇天した)キリストにより冠が授けられる場面、いわゆる聖母戴冠の絵は様々な場所でこれまで目にしてきています。聖母戴冠の考えは特にイタリアで顕著で、13世紀から15世紀にかけてブームになり、18世紀ころまでよく絵画に描かれました。
しかし、聖母子が共に戴冠している姿は、どう解釈したら良いのでしょうね??? 一体誰が戴冠を行ったのかしら? 初期キリスト教時代や正教のイコンなどで、こうした王冠を被った聖母子を見ることは多々あったのですが、この絵が描かれたのは18世紀ですよ! あんまり深く考えないことですな・・・ -
左側の礼拝堂に移りました。聖母子の下左に聖アゴスティーノ、右に聖モニカが描かれているこちらの絵は、今日何度も登場したベルナルディーノ・サンティーニの1650年ごろの作品です。
聖母もさることながら、聖人達を取り巻く天使達のなんて美しいこと! -
福者クリスティーナ・ヴィスコンティ、スポレートのクリスティーナとも呼ばれています。裕福な医者の家に生まれ、普通の主婦だったクリスティーナは、夫の死後様々な問題を抱えた生活を送るようになり、ある日人生を更改したいと贖罪の旅に出ます。アウグスティン会と巡り合い、その後の人生を奉仕と慈善と祈りに捧げました。1457年にアッシジ、ローマ、パレスティナへと長い巡礼の旅に出た彼女は、その翌年、帰り道に寄ったスポレートで亡くなりました。
ボケてしまいましたが、1650年ごろの作品です。 -
こちらの祭壇の絵画は、「キリストの割礼」。なんと! ニコラス・ソッギ、ドメニコ・ペコーリ、スペイン人のヤネス・デ・ラ・アルメディーナ3人の画家による合作で1506年の作品です。
元々三位一体教会のために作られた作品でしたが、18世紀にこちらの教会に移されたものです。惨めな姿になってしまった背景には、こんなエピソードがありました。1922年、教会に盗みに入った泥棒がなんと作品を5分割して、闇市で売りさばこうとしたのです。実行直前になって犯人は捕まりましたが、こんな大きな傷がついてしまいました。
中央部分の小さな1枚はベルガモで、他の部分はアレッツォにある州立中世近代美術館において10年以上の歳月をかけて修復され、教会に戻ってきました。
解説を読んでも、3人の画家がどこをどのように担当したのかはわかりませんでした。傷が激しい中央の部分がとりわけ素晴らしいのに・・・残念ですね。 -
いろいろな意味で”惜しい”教会ではありましたが、見ごたえある作品も多数残っていたので、帰りに「ちょと寄る」ことが出来て正解でした。バロック装飾をそのまま残す教会。全部剥がしてしまう教会。全くもって千差万別です。
そうそう、紹介し忘れましたが、中央通路の床には、古い墓碑をいくつも見ることが出来ましたよ。 -
再び聖アゴスティーノ広場です。この広場もかなりの傾斜があることがお判りでしょうか? アレッツォには平坦な土地は殆どありません。
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広場では、次の週末のイヴェントに向け、準備作業が行われていました。聖アゴスティーノ教会の身廊が半分のサイズにされる前の古い教会の跡が、ガリバルディ通りから見えたそうですが、気が付かなかったなあ・・・
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歩き疲れたので、ちょいと休憩と思っていたら、渡りに船とばかりに、こんなお店が現れましたよ。「ヨゴリーノyogorinoは冷凍ヨーグルトで、ジェラートよりずっと健康的なのよ」とは店の女主人の弁です。日本でも食べたことあるけれど・・・
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選んだのはイチゴのヨゴリーノ。う〜ん! 生き返りましたぁ!
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行きに見逃した聖フランチェスコ教会横のペトラルカ劇場(もちろん町が生んだ偉大な詩人ペトラルカを記念してつけられた名前です)です。1830年にヴィットリオ・ベッリーニの設計により建設開始、1833年に完成しました。劇場をちらっと横目に眺めて・・・、
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次にやってきたのは、ローマ時代の円形競技場です。競技場は城壁都市アレッツォの南東部分に位置しています。作られたのはハドリアヌス帝時代の117年〜138年にかけてだと言われています。
1914年〜15年にかけて初めての発掘調査が行われましたが、二度の大戦で中断。1950年以降に再開され、ようやく遺跡は日の目を浴びることができました。 -
径の一番長い部分で71.9m、短い部分で42.7mあり、ローマのコロッセオ(77m×46.5m)と比べても決して引けを取らない大きさです。かつての階段状になった観客席の一部分を利用して、14〜15世紀にかけて、聖ベルナルド教会と付設の修道院が建てられましたが、現在修道院があった場所(写真の白い建物)は考古学博物館となっています。観客席の形状に合わせて、緩やかに弧を描いている建物ですね。
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遺跡は柵で覆われているので、その外側をゆっくり歩きながら見て回りました。競技場はレンガと砂岩ブロック、そして大理石を使って建造されたようです。但し、前述の教会と修道院等を建設する際に大量に持ち去られているので、レンガ以外めぼしいものは残っていません。
ほらっ! ゲートらしきものを見つけましたよ。 -
その先にも1つ!
観客席の下には、往来用の屋根のある通路があったそうですが、今は確認できません。放射状に並んだ基盤部分を残すのみとなっています。 -
エルコラーノ遺跡で散々見てきた、バーカウンターらしきものがシートの下に見ることが出来ました。ここで観客は飲み物や食べ物を購入したのでしょうか?
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収容人数は8000人から10000人という大円形競技場も今は兵どもの夢の跡。観客席がないので、野外劇場としては使っていないのかしら?
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こちらが、その国立考古学博物館です。下にガイオ・チルニオ・メチェナーテと書かれていますが、日本語ではガイウス・マエケナスと呼ばれている紀元前70年から紀元前8年頃に活躍した政治家の名前です。初代皇帝アウグストゥスの政治外交面での助言者であり、あの有名なアグリッパと共に、アウグストゥスを支えた一人です。
彼はアレッツォ生まれで、エトルリア人の祖先を持ち、その血統を大変誇りとしていたそうです。アレッツォが生んだ最初の有名人だと言えそうですね。 -
博物館の裏側です。建物に円形競技場の壁の一部が使われているのがわかりますね。
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興味を持ったので、略奪品で建てられたと書いてあった隣の聖ベルナルド教会にやってきました。1319年に、ベネディクト会の一派であるモンテ・オリヴィエート会は、当時の司教グイド・タルラーティから円形劇場の半円部分を使って教会及び修道院の建設許可を得ており、、教会の新築工事はアレッツォの貴族アッツィ家からの資金を得て、1340年〜75年にかけて行われました。
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これはどこにあったのか記憶にないのですが、アンドレア・デッラ・ロッビア風のセラミカです。幼子キリストの顔が気の毒な状態。
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略奪品の柱かなにかあるかなと思ってやってきたのですが、見事空振り。一廊式の内部は大変質素で、地味な造りでした。一時は派手な装飾があったこの教会、第二次大戦のさ中に空襲を受け、戦争後に再建されたそうです。がっくり・・・
でも折角だから見ていきましょう。
15世紀には修道院が完成し、1583年には広い主祭壇に7つの礼拝堂、様々な芸術品を所有していました。しかしそれに続く数世紀の間に教会は全てを失っていきます。 -
主祭壇にあったこちらのフレスコは、1512年アンジェロ・ディ・ロレンティーノの作品で、聖母子と聖人達(聖ベネデット、聖ベルナルド)です。聖母や聖人達の表情がうつろなのがちと気になりました。
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後は驚くほど何にもありません。洗礼堂の壁にかかっていたこちらの絵は新しいものでしょうが、新感覚の「キリストの洗礼」で、好感を覚えました。
ヴァザーリの著書によれば、かつて教会にはスピネッロ・アレティーノ、パッリ・スピネッロ、ビッチ・ディ・ロレンツォ、ピエロ・デッラ・フランチェスカらのフレスコ、そしてヴァザーリ本人の描いたロッジアの天井画が飾られていたそうですが、今は何もなし。ビッチ・デイ・ロレンツォとマルコ・ダ・モンテプルチャーノによる修道院の回廊にあった聖ベネデットの生涯の物語もなくなっています。全部売っちゃったんだねえ。 -
教会が所蔵していたフィリッポ・リッピ作「聖母戴冠」のテンペラ画は、幸運なことに教皇グレゴリウス16世が19世紀半ばに骨董屋で見つけて購入し、現在はヴァティカンの絵画館にあります。発見された時、絵は壊れてバラバラになっていたそうです。
ファサード中央扉上のルーネットにあったバルトロメオ・デッラ・ガッタ作の「聖ベルナルドのヴィジョン」は現在中世近代美術館にあります。
こちらは同じく洗礼堂にあったもう1枚の「キリストの洗礼」です。 -
解説が何もないのですが、ステンドグラスが綺麗だったので写しましたよ。第二次大戦後の作品であることは確かですが、作者も何もわかりません。
こちらは「イサクの犠牲」。アブラハムが神からの命令により、たった一人の愛すべき息子イサクを神に生贄として捧げている場面が描かれています。 -
エデンの園のアダムとイヴですね。二人の間に蛇が巻き付いた知恵の木があります。
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細長い上下関係の構図は大変新鮮でした。マリアの下にはラテン語でEcce Ancilla Domini 「「主のはしためを見よ」と書かれていました。
「受胎告知」を日本語でこういうんだぁと初めて知りましたよ。 -
十字架のキリストと福音記者聖ヨハネ。
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キリストの復活
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こちらの女性は聖テレーザ・マルゲリータ・レディ。カルメル会の修道女でアレッツォ生まれの聖人です。下に置いてある本には「自由は親愛なる神であります」と書かれていました。
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最後に素晴らしいバラ窓をどうぞ。
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もう駅の傍まで戻って来てしまいました。ヴァザーリの家、中世近代美術館を見逃しましたが、今更戻る元気もなく、最後に元城壁の一部で、かつてサン・スピリト門だった建物を見て、帰るとしましょう。
サラセン人の槍試合で戦われる4つの地区のうち、3番目のサン・スピリト地区の本部になっています。旗は黄色と青。
残念ながら、残る1つ、深紅に黄色の旗のサン・ロレンツォ地区だけ写真がありません。サンティッシマ・アヌンツィアータ教会辺りの地区なんですけれどね。 -
この建物をぐるりと回っていくと・・・
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この場所に出ます。両側の古びた建物の間に16世紀に築かれたサン・スピリト門がありました。サン・スピリト門はすでに14世紀に町の南西に当たる場所に作られていたのですが、16世紀に入り、フィレンツェによる支配が始まると、今の場所に移動したのです。その門も1893年には解体され、代わりに築かれたのが、サン・スピリト城壁(イタリア語でバスティオーニ)です。
この向かい合う二つの建物はかつて城壁の一部で、特に頑強に作られた分厚い部分ということになります。 -
中世の時代の高い塔とは異なり、町に近づく者に対し正確に照準を合わせることができる狙撃者には好都合の構造となっていました。
現在こちらの建物は、サラセン人の槍試合におけるサント・スピリト地区博物館になっているそうです。かつて門があった場所にはレストランやカフェが軒を並べ、たいへん賑わっていました。本当は道路なのに、この部分は通り抜けできません。 -
どこの国でも公衆電話は少なくなっているけれど、まだあったわ〜と懐かしくなっての1枚。
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アレッツォの駅に戻って参りました。ちょうどうまい具合に18時13分のローマ行きがあったので、それでオルヴィエートに帰りましょう。到着は1時間20分後です。明日は移動日。いよいよイタリアの北部へと駒を進めます。
この続きは、イタリア あっちも! こっちも! と欲張りなたび その70 フィレンツェ1で
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