2016/07/08 - 2016/07/09
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続日本百名城の高天神城の紹介です。戦国時代末期には武田信玄・勝頼と徳川家康が激しい争奪戦を繰り広げました。優美な山の形から鶴舞城の別称を持ちます。
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イチオシ
雨で煙り、幻想的な光景になった高天神城の山並み光景です。元亀2年(1571年)、武田信玄が2万5千余の軍勢を率いて高天神城を攻めた時の徳川方の守備陣の紹介です。
〇本丸:兵数五百余騎
〇三の丸:兵数二百五十余騎
〇西の丸:兵数三百余騎
〇御膳曲輪:兵数二百余騎
〇搦手門:兵数二百五十余騎 -
〇追手池の段:兵数三百余騎
このほか帯曲輪や遊軍も置かれ、その総数は2千余騎です。10倍上の攻め手に対し、耐え抜きました。これ等の軍勢は、元今川家に仕えていた小身の武士で近辺を知行していた者や、駿河より馳せ参じた浪士なども加わっていました。 -
高天神社がある高台から見下ろした光景です。瓦葺の家が見えました。その入口には、梅鉢紋がありましたから、高天神社の関連施設に間違いないようでした。
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高天神社の高台から見下ろした建物の紹介です。『社務所』の表札が懸かっていた建物の入口光景です。普段は無人のようでした。右手に梅鉢紋の一部が見えていますから、高天神社の社務所に間違いないようです。
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『堀切』の文字が記された白い木標の光景です。『堀切』は、城や城塞群において、外敵の侵入防止や遅延のために曲輪や集落の周囲や繋ぎの部分を、人工的に開削して溝(堀)するもので、空堀の一種です。
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こちらの木標には、『西の丸跡』の文字がありました。その脇の大木には注連縄が張られていました。高天神社の御神木かもしれません。側面に記された説明文は、この後紹介します。
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『西の丸跡』の木標の側面に記されていた説明文の紹介です。『西の丸は、岡部丹波守真幸が守備していたこともあり、「丹波曲輪」とも呼ばれている』との説明でした。武田側の高天神城最後の城代とされます。
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15世紀以前の高天神城のりゃくしの紹介です。箇条書きで紹介します。
〇913年:藤原鶴翁山頂に宮柱を建てる。
〇1180年:謂伊隼人直孝が山砦を築く。
〇1191年:土方次郎義政城砦を築く。
〇1446年:福島佐渡介基正城主となる。
〇1467年:戦国乱世、城飼郡内大いに乱れる。
〇1471年:福島上総介正成城主となる。 -
益々幻想的な光景となって来た、高天神城の城域です。続いて16世紀の出来事(前半)です。
〇1536年:小笠原右京進春儀、城主となる。
〇1542年:小笠原彈正忠氏清、城主となる。
〇1560年:城兵、桶狭間に出陣する。
〇1564年:小笠原与八郎長忠、城主となる。
〇1568年:当城、徳川氏に従属する。
〇1569年:城兵、掛川に出陣する。 -
高天神城の16世紀の出来事(後半)です。
〇1571年3月:武田信玄兵二万五千騎来攻、包囲する。城兵二千騎、籠城する。
〇1572年:城兵、三方原に出陣する。
〇1573年:城兵、諏訪原に出陣する。
〇1574年5月:武田勝頼兵二万騎来攻、包囲する。6月18日に大手門の戦い、6月28日に二の丸陥落し、7月2日休戦。小笠原長忠、降伏する。 -
左手に見える案内看板が、あとで写真を整理する時に役立ちました。現在位置が、井戸曲輪跡の上部、三日月井戸の下に記されていました。
最後の落城までの出来事です。
〇1580年9月:家康、攻城を開始する。
〇1581年3月:高天神城が落城する。
落城後、高天神城は廃城となり、その後も城郭として整備されることはありませんでした。 -
上下に道が分かれた場所の光景です。ボランティアガイドさんは、登りの道に案内されました。右に進む小路は、狭く、険しそうでした。
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地道の登り道は、二人が横に並んでも楽に歩ける広さがありました。階段状に造られた丸太の土留めが続いていました。
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『高天神を制するものは、遠江を制する』との解説をよく目にしますが、現在の地形からみれば、東海道から離れ、それほどの要所のようには思えません。勢力を伸ばしていた武田信玄・勝頼と、徳川家康が力を持った時代にせめぎ合った場所だったようです。織田信長とその同盟者の徳川家康による甲州征伐で、1582年(天正10年)に武田氏が滅びると、その重要性は全く失われたようです。
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最近の研究によって、『元亀2年(1571年)の武田信玄による高天神城攻めは無かった』とする説が有力になっているようです。日本の城郭や戦国時代などに詳しい、静岡大名誉教授の小和田哲男(1944~)氏による説です。
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雨の中を黙々と前に進む、城巡りツアーに参加の皆さん達です。梅雨時での見学でしたから、予め雨を想定しての参加者が多かったようです。
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『左上がる・大河内石窟・御前曲輪』の表示です。自由時間になった時ですから、大河内石牢に向かいました。
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右手に見える坂道は、本丸址の見学を終えて通った場所のように記憶しています。今も水路のようになっていましたが、帰り道の難所の一つになっていました。
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あちらこちらに水溜まりができてきた、高天神城の露地の光景です。足元に気を使いながらの見学となりました。
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道の傍らに立っていた、『大河内政局石牢道入口』の道案内標識です。この案内に従って崖路を下りました。
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今は、見学者のために頑丈な柵が設けてありますが、かつては、断崖上の険しい小路だったようです。石牢への通り道です。
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イチオシ
『大河内政局石窟』の文字が記された大きな木標と説明パネルの光景です。その中間に格子が嵌まった入口が見えました。大河内政局は、勇将大河内元綱の孫で、家康の祖母、伝通院の甥に当たるようです、家康の身寄りの者であり、家康が駿府で今川方の人質となった時、『保母介添え』として、家康に仕えました。それだけに家康に対する、忠節心が強かったようです。
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『本丸跡』の説明看板のズームアップ光景です。元亀2年(1571年)2月、高天神城を武田信玄が攻めた時から始まり、天正2年(1574年)5月、武田勝頼が父・信玄が落とせなかった高天神城を落とし、天正7年(1579年)8月の武田側の城兵交代と、天正9年(1581年)の家康による高天神城攻略が箇条書きにされていました。
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8年もの間に亘って幽閉された、大河内政局石窟の見学の後にやってきた『本丸址』です。『政局』の読み方は難しく、『まさもと』とするネット情報がありました。本丸は、高天神城の中では、最も広い曲輪になるようです。2千人以上が籠城できた高天神城ですが、その内の500人以上が本丸を守ったとされます。本丸に天守閣は築かれなかったようです。
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左が『本丸址』の木標、右がその説明看板です。高天神城は、武田信玄が大軍を率いてもってしても落とせなかった要塞でした。『甲陽軍鑑』によれば、武田勝頼はこの時から有頂天になり、家臣の言う事を聞かなくなったと記します。この城を落とした実績から勝頼は自信過剰になり、後の長篠の戦いでの敗戦の原因になったとする説もあります。
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『本丸跡』の説明看板のズームアップ光景です。元亀2年(1571年)2月、高天神城を武田信玄が攻めた時から始まり、天正2年(1574年)5月、武田勝頼が父・信玄が落とせなかった高天神城を落とし、天正7年(1579年)8月の武田側の城兵交代と、天正9年(1581年)の家康による高天神城攻略が箇条書きにされていました。
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『本丸址』の文字が刻まれた苔生した石標の光景です。天正3年(1575年)の長篠の戦いで、武田軍は織田・徳川連合軍の前に大敗を喫しました。これ以降、二俣城、犬居城などでの徳川方の反攻が始まり、諏訪原城を奪取したことで大井川沿いの補給路を封じました。また、横須賀城など多数の付城を築いて高天神城への締め付けを強化しました。
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現在の時刻は、午前10時頃ですが、降りしきる梅雨の雨で薄暗くなった本丸址の光景です。天正8年(1580年)10月、徳川家康は5000人の軍勢を率いて高天神城奪回を目指しました。家康は力攻めではなく、城を囲んで周囲に鹿垣をつくり、兵糧攻めを行いました。武田側の兵站線が長かったことが、武田側の高天神城守備の弱点でもありました。
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同じく、本丸址の光景です。盟友の信長は、この城攻めにあたり、家康に対して『高天神城の降伏を許さないように』という書状を送っています。信長は勝頼が高天神城を見殺しにしたという形にすることで、武田氏の威信が失墜することを狙っていたようです。武田側の内部事情により、勝頼は救援に来られないだろうと読んでいたとする信長の書状も残されています。
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右手に見えるのは虎口のようです。天正8年12月に信長は福富秀勝、猪子高就、長谷川秀一、西尾吉次などの側近衆を高天神城攻囲中の家康の陣に派遣して陣所を視察させ、戦略の詰めの調整をさせています。この包囲により城兵の大半が餓死し、3月25日午後、武田軍は城から討って出ましたが、徳川軍により殲滅されました。(『信長公記』)。
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