2016/05/25 - 2016/05/26
438位(同エリア1920件中)
クッキーさん
雪の大谷ウォークに惹かれて計画し始めた飛騨・北陸・信州への周遊旅行です。
夫の仕事の都合で2週間ずれ込んだり、直前に名古屋到着が伊勢志摩サミットにかぶることがわかったりと、いろいろありましたが、実に30数年ぶりの二人旅が実現しました。
初日は飛騨高山の散策から。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- ANAグループ JR特急 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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ニュースを見ていたら、セントレア空港での注意喚起として空港からのバス便や近鉄線が運行停止とありました。サミットと自分たちの旅行が関係しているなんて思いもよらなかったのです。
幸い予定していたミュースカイは運行していたので無事名古屋駅に到着。
空港内は警備関係者のほうが多いのではないかと思える位でしたが、さっさと空港内から出て行って、という雰囲気。出発した松山空港でのチェックの方がいつもより念入りでした。
JR名古屋駅にはサミット関連のボランティアの案内役の人が多くいたので、迷うことなくアルペン周遊チケットを入手。 -
立山黒部アルペンチケット周遊券です。このチケットを使うと、個別に購入するよりも割安になりました。でも、このネット時代に駅でしか購入できないなんて不便この上なしです。
フランスの鉄道チケットでさえもネット購入できたというのに・・
往復ともに1回の乗車に限り指定席も予約できます。 -
ここまでは全く計画通りの移動です。
見たところ、どの車両もガラガラですね。 -
高山までこの列車で向かいます。
列車のルート検索をしていたら、岐阜経由って出てきて、どうして岐阜なの?って思っていたんです。
この日の目的地・飛騨高山は岐阜県だってことを今回の旅行で初めて知りました。あの辺の山の辺り、としてしか認識していなかったのです。 -
途中、観光客向けの車内放送があり、遠くに犬山城が見えました。
木曽川のほとりの小高い山の上に建てられた天守閣です。テレビで犬山城の歴史を放送していましたが、いつか寄ってみたいですね。 -
犬山市を超えた辺りで木曽川から離れ、飛騨川に沿って進んでいくようです。
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飛騨川。
まだ渓谷という風ではありません。 -
20分ほど走ると、深い渓谷に。
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つい最近BSジャパンで、日本茶に魅せられて独自にフレーバー茶を開発しているというフランスのリヨン出身のステファン・ダントンさんに関する番組を見かけました。
彼は白川茶だけでなく、リヨンに似ているというこの辺りの風景にも惹かれてこの地をたびたび訪れているのだとか。 -
深い山々。
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栽培されているのが白川茶でしょうか。
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下呂温泉に近づきました。
下呂市のすぐ東辺りが御嶽山だったんですね。 -
下呂温泉駅で1組の日本人観光客のグループが降りたので、
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車内の乗客は私たち以外、見事にインバウンドの方たちばかりになりました。
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下呂温泉のホテル街。
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田圃は棚田とは言えないものの、少しずつの段差があるようです。
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高山駅に到着です。
こんな光景を見て、夫はしきりに「まるで海外に来たみたいだ」を連発。 -
ホテルに荷物を預けて、早速街を散策。
天狗屋総本店。ここで飛騨牛を味わいたかったのですが、残念ながらこの日は定休日とのこと。 -
筏橋から。
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筏橋を渡ると、まさに想像していたような街並みが見えてきました。
高山は東は乗鞍岳、南に御嶽山、西に白山、北には立山。飛騨高山はその山々に包み込まれるように位置しています。
安川村という小さな村だった山里高山に江戸のはじめに大きな旋風が巻き起こります。 -
風情のある喫茶店ですが、休憩するには早すぎます。
織田氏、豊臣氏、徳川氏の家臣として渡り歩いた金森長近は、関ヶ原の戦いで功績を収め初代高山藩主となりました。
長近は京都に習って市街地を碁盤目状に作り、東山に寺を集め、侍屋敷・職人町を作り、現在の町の原形を造り上げました。 -
宮川沿いに歩くと見えてきた赤い橋。
三町筋は元々野原や川原の状態でした。高山城は18年間かかって本丸・二の丸・三の丸と造られ、飛騨国中案内という本に「日本に5つとない名城」と書かれるほどになりました。その土砂などを使って川原を整備し、でき上がった3つの筋を「一番町」「二番町」「三番町」として商人に住まわせ、町人街を作りました。 -
中橋です。
すでに江戸情緒たっぷりです。
三の丸近辺には侍屋敷が作られ、武士が住んでいました。職人は空町や川の西側に住みました。こうして、二代目の可重(ありしげ)までに立派な城下町が形成され、かつて山里だった高山の町並みは大きな変貌を遂げたのです。 -
向うに見える小高い山の辺りが高山城があった所でしょうか。
ゆっくりこの雰囲気を味わいたいのですが、夫はどんどん先を歩いて行ってしまっています。 -
高山陣屋。
しかし、元禄5年(1692)幕府の直命で、六代目城主は出羽国上ノ山に国替えとなり、金森氏の治世は終わりました。
財政難の江戸幕府が、豊かな森林資源と亜鉛鉱山のある飛騨を獲ってしまったんですね。外様の宿命なのかもしれません。
飛騨は徳川幕府直轄の天領となり、それ以来高山は、町人の町として栄えます。
そうして町衆文化が主となる高山文化が彩りはじめていったのです -
陣屋入口。
『天領(幕府直轄地)となった高山は、代官としては関東郡代が兼任する事になりましたが、高山城在番として金沢藩主「前田 綱紀」がその任を仰せつかりました。金沢藩はその為に莫大な出費を強いられるので、必要な時には再建するという約束のもと、城取り壊しを幕府に願い出ました。幕府は元禄8年1月城破却の命を出し、在番は6月18日に取り壊しを 終了し帰藩しました。』 -
陣屋の内側から。
『 高山陣屋は、この時代の代官(後に郡代)が飛騨を治めたお役所です。明治まで24代177年間この時代が続きました。門や 庭・玄関は当時のままのもので、日本に現存する唯一の郡代所史跡です。』 -
ここは高山城主金森氏の下屋敷の一つでした。
御役所。 -
御役所。
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内部には、御役所、御用場、大広間、役宅、吟味所、白州などのほか裏手には、高山城三の丸から移した御蔵(米藏)8戸前(藏は戸前とかぞえる)も昔のまま残されています。
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玄関辺りが見えています。
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町年寄詰所。
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湯呑所?
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陣屋の柱のあちこちにこの鋲が打たれています。
釘隠しとは、部屋の長押などに打った釘の頭を隠す飾り金具です。
この兎紋は兎が真正面を向いているので「真向兎」というそうです。
因幡の白兎や月で餅をつく兎の話など、兎は昔から人間に幸せをもたらす動物であり、 幸福招来の意で用いられている。
長い耳で領民の意見をよく聞けとの意もあるといわれており、為政者の居館に多く見られるのだとか。
高山陣屋内には152個あるそうです。
由来はともかく、こんな金具の意匠にこだわる職人の心意気が感じられます。
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書役部屋。
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内側から見た外観。
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濡縁の外に見える中庭。
この辺りは役宅で、いわゆる官舎です。 -
嵐山の間。
役宅の御居間ですから来客用でしょうか。 -
こちらは将棋の名人戦対局が行われた部屋。
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茶の間の向こうには女中部屋も。
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台所。
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もちろん茶室もあります。
「お代官様・・」「お主も悪よのう・・」なんていう会話もあったのかしら。 -
順路は役宅のあと再び御役所の大広間へ。
書院造の大広間は三室に分かれており、公式の会議等に使用されていました。
1816年に改築されたものです。 -
玄関脇には吟味所とお白洲。時代劇で見るような責め道具もいくつか展示されていますよ。
こちらを出てから、御蔵を見学。
かつて年貢米を保管した藏ですが、天領時代の歴史を物語る資料が数多く展示されていて、斜め読みながらも見応えのあるものでした。 -
高山に来たからにはこのだんごを食べなくては、ということで陣屋前の角にある陣屋だんご店でみたらし団子をいただきます。
香ばしくてほんのり塩味なのにだんごのもち米の甘さも感じられて、美味しかったです。
普通のみたらし団子と違ってたれが落ちてこないのも、立ち食いにはもってこいです。お値段も1本70円位とリーズナブル。 -
お隣の飛騨牛にぎり寿司にも惹かれますが、夕食に飛騨牛のお店を予約しているので今は我慢。
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左に見える背後の山の辺りが東山遊歩道でしょうか。
遊歩道を歩きたかったのですが、結局その時間は取れませんでした。 -
人力車を引くおじさんが休憩中。
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このまま時代劇になりそうな風景です。
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高山市政記念館。
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陣屋の見学に時間をとられたので、入り口付近だけを様子伺い。
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高山市政記念館を外観だけカメラに収めます。
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二之町辺り。
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夫が、一休みに最適な場所を発見。前庭は喫煙可なのです。
町屋建築を活かした、おしゃれなカフェ。 -
一人旅では座ってゆっくり休憩するなんて一日の内で一回あるかないかなのですが・・・
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ようやく一服し終わり、街歩き再開。こちらは三之町通り。
上三之町を中心とした一帯、南北約420メートル、東西約150メートルの範囲が「高山市三町」として重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。 -
『武士がいない高山の街では、「旦那衆」と呼ばれる豪商たちが力を持ち、幕府や北陸諸藩の大名にまで資金を融資しました。京都好みの文化に加えて江戸の情報も入るようになったため、高山祭りや工芸品、高山の町家造りなどの町人文化が花開きました。』
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『高山近郊の農村の次男・三男だった男性が、農産物や材木の商い、酒造業から身を起こして成功したのが旦那衆です。そのため、屋号は出身地から取られています。』
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『現代に伝わる豪華絢爛な祭屋台の数々は飢饉の年の雇用対策、一種の公共事業として豪商たちが拠出した金で作られたと言われています。』
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『飛騨国は高山県から筑摩県、岐阜県へと統合され、高山はその中心都市でしたが、山国で交通網から取り残され、鉄道開通が長年の悲願でした。国鉄高山線は昭和9年にようやく高山駅まで全通し、人々が発展に期待したのも束の間、時代は戦争一色になって発展どころではなくなり、奇跡的に古い町並みが残されます。』
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『戦後の混乱が収まり、登山ブームが起きた昭和30年代、飛騨側から北アルプスに登山した人たちは、帰りの列車を待つ時間に飛騨高山を歩き、昔の街並みや伝統工芸が残っていることを発見しました。』
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東山方面をバックにしたほうがより江戸情緒が感じられます。
『雑誌編集長であった花森安治は「暮しの手帳」で飛騨高山を「山の向こうの町」と初めて紹介します。その後1970年代に国鉄のディスカバージャパンキャンペーン、雑誌アンアンやノンノの創刊などで、アンノン族と呼ばれる若い女性の旅行ブームが始まり、飛騨高山は全国有数の観光地になっていきました。』
かつてのアンノン族の一人として、日本海側を山口から金沢までは辿ったのですが・・・ここまではたどり着けなかった。 -
気が付くと、夫はふっとこのお店に入っていきます。
何に惹かれたのかしら。 -
様々な刺し子の作品が並んでいます。
刺し子用の糸は色とりどりのものが並び、とてもきれいでした。 -
『建ち並ぶ高山の町家は、いずれも黒っぽい色彩で統一されているが、これは柿渋にベンガラとすすを混ぜた塗料で着色されている為である。
その意匠は格子が多用されており、一階部分では目の細かい千本格子や吹寄せ連子格子、または高山格子と呼ばれる升目状に組まれた格子となっている。前方へせり出した出格子も多い。』 -
『二階部分は板連子や板格子がはめられており、こちらも土壁の露出は少ない。庇を支える腕木の木口は、胡粉塗(ごふんぬり)で処理されている。これは部材の断面を塗装する事で、割れたり腐ったりするのを防ぐ為ではあるが、意匠の美しさを高めるアクセントにもなっている。
このように、高山の町家は飛騨の匠と称されてきた飛騨大工たちの手腕が存分に発揮された、非常にクオリティの高いものとなっている。』 -
渋い色合いの格子が堪りません。
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三町筋の造り酒屋「山車」
安政2年(1855)創業の原田酒造場です。 -
地酒がたくさん並べられています。
銘酒「山車」。大吟醸の冷酒はすっきりした辛口の味わいだそう。 -
旅の初日ですから、荷物は重くしたくないので写真に収めるだけ。
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『通りに面した母屋の奥は、うなぎの寝床のように中庭、離れ、土蔵と細長く続いていく。「三町の町家に統一感が生まれたのには、さまざまな理由があります。たとえば軒高が低い位置で揃っているのは、高山陣屋(金森氏の下屋敷)よりも高い建物を造ってはならないという遠慮があったため。また、間口が狭く奥行きが深いのは、身分的に一番低い商人のわきまえでしょうね。」と、高山市上三之町町並保存会会長の大野二郎さんは話す。』
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素敵なカフェです。
通りのいたる所に町家を改装したレトロカフェがあります。
中には、裏庭に望んでの安らげる空間を持つカフェなどもあるそうです。
町の人たちの熱い想いがないと、こんな風に通りを維持できるものではありません。 -
用水路の流れも涼やか。
『現在4つある各保存会の範囲も屋台組を基準にしているんですよ。建物の修繕を行う際は保存会に了解を求めてから。江戸時代と変わらない、いわば伝統的な不文律によって町並みが守られているのです。それに、三町の人々はここに住んでいる、営んでいるという誇りを持っていて、昔から習慣として家や近隣の美化に努めてきたことも、町並みを守る上で重要な要素になっているのではないでしょうか。町をきれいにしよう、お客様を温かくお迎えしようという気持ちが生活の中に自然と溶け込んでいるのだと思います。」と大野さんは続ける。』
この後、列車で飛騨古川へ向かいます。
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