2016/05/03 - 2016/05/06
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mikoyan358さん
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2016年5月3日~6日に、東北太平洋岸4県(青森・岩手・宮城・福島)をレンタカーで旅行しました。
震災前後にも行く機会のあった地域に加え、名前だけは知っていても未訪問だった地域も多数。
うまいものをたらふく食べて地域貢献しつつ、復興の状況が実際にはどのようなものなのか、そしてその教訓から学ぶべきことを探すことを主眼に置いた旅でした。
※震災の遺構なども、現状をありのままに伝える意味で掲載いたします
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.0
- ホテル
- 4.5
- グルメ
- 4.5
- 交通
- 4.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- レンタカー JR特急 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
3泊4日の旅行も今日が最終日。
国内旅行で3泊を超えると、特に2日目・3日目が精神的にも非常にゆったりと過ごせて、落ち着いた旅が出来ますね。
といっても、さすがに最終日は寂しいものがあります。
その憂いを吹き飛ばすべく、お料理自慢の宿の朝食を。松島プチホテル びすとろアバロン 宿・ホテル
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おかずのほうはシンプルな食材でしたが、特に目をひいたのがご飯。
朝から宮城県産ササニシキが登場し、その艶のよさに勢いよくおかわりに突入(笑)。
こうして、今日もいろいろ食べようと思っていたところで案の定?腹いっぱいになってしまいました。松島プチホテル びすとろアバロン 宿・ホテル
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こちらは、レストランに横付けするように作られたホテル部分。
プチというだけあり数室しかなく、この広さでありながら他の宿泊客の存在をあまり気にすることなく静かな滞在を楽しめるところです。
階段の下にある小さな談話スペースにあった、年代ものの立派なコンポが気になりました。
こんなので2〜3時間ずっと音楽だけ聴いていたい。松島プチホテル びすとろアバロン 宿・ホテル
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大満足の滞在を終えて、この日の旅をスタート。
今日はここ松島から宮城県の沿岸を南下。
その後、福島県へ入り相馬へ。
そして、原発事故の影響で帰還困難区域となっているエリアを通り抜け、いわきで車を返却して列車で東京へ帰る予定になっています。
今回は横目でだけ楽しんだ松島。
また5年後くらいに奥松島含めて巡りたいなあ。 -
松島から15分ほど走ると、塩竈の市街へと至ります。
ここは、5年前の夏、震災から数か月という時点で訪れたことがありました。
お寿司を食べて地域貢献、的なつもりでふらりと訪れましたが、そのあまりの被害の凄まじさに絶句した覚えがあります。
こちらは、その当時から頑張って営業していた、本塩釜駅前のホテルグランドパレス塩釜。
駅を挟んで海からは200メートル以上離れていますが、当然ながらここにも高さ2メートル近くの津波が押し寄せました。ホテルグランドパレス塩釜 宿・ホテル
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本塩釜の駅の裏手にある、地元では非常に有名なお寿司の店。
5年前は、まだ新しい建物で復旧したばかりのこちらの店にお邪魔して、海の幸を堪能しました。
当時とほとんど変わらず元気に営業しているようで何より。鮨 しらはた グルメ・レストラン
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こちらの写真は、上のお寿司屋さんの裏手を、前回5年前に通りかかった時に撮影したものです。
当時は、震災の如実な被害を見るのが本当に初めてだったので、ひん曲がった窓枠や垂れ下がった電線などに、その瞬間来ないとわかっていながらも恐怖感が強く身を震わせました。 -
5年後。
建物は取り壊され、周辺に再建された一部の建物を除き、まだ更地になっている場所が多く見られます。 -
それでも、塩竈は岩手や宮城北部の街と比べると、まだ復興が進んでいる方だといえるでしょう。
前回は仮整備していた本塩釜駅もずいぶんきれいになりました。本塩釜駅 駅
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仮設の建物で営業していた本屋さんなども、立派な建物に。
本塩釜駅 駅
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そこから海沿いへ歩いたマリンゲート塩釜。
ここや近くにあるイオンの屋上から撮影された映像で、先ほどまで普通に走っていた車が波に足をすくわれ、あっという間に視界の外へ追いやられる、という光景を映像で何度も目にしました...
5年前に残っていた傷跡はもうほとんど見られなくなりましたが、唯一、丸い窓から垂れ下がっている水の跡が、わずかに当時を感じさせます。マリンゲート塩釜 名所・史跡
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マリンゲートの前には、津波で大破した車がずらりと並べられていましたが...
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それらは撤去され、中古車販売のスペースとなっています。
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海からは100メートルもない場所であり、被害は甚大で「建設中の家が点々と並ぶ」という見た目の裏にある事実に歩くごとにため息をついていた街並みも、
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やや空き地は多いもののかなり復興が進み、震災の事実を知らずに歩いていれば気づかないかも、という気すらしてしまいます。
5年の歳月の流れは良く感じられましたので、個人的にはまた5年先に定点観測する形で、塩竈の街を訪ねてみようと思います。 -
再び、南下を始めます。
多賀城の街を通り、八戸から長らくずっと行動をともにしてきた?国道45号線とお別れ。
海沿いの工業地帯を進みます。 -
遮断機の無い貨物の踏切で10分近く待たされました。
久々にこんな長い踏切渡ったわ(笑)。 -
海岸線から数キロの場所を海岸とほぼ平行に走る「仙台東部道路」には乗らず、海に近い県道を進みます。
この辺は、仙台市若林区の「荒浜地区」。
忘れもしない、あの津波の一報をテレビで見た後に会社を出て、何とか家にたどり着いて最初に聞いたのが「仙台の荒浜地区で200人以上の遺体が見つかった」という内容でした。
海側には見渡す限り、建物はありません。
避けようのなかったあの大波で犠牲となった方に向け、心の中で合掌しながらハンドルを握り続けます。 -
建物がほぼ見当たらないこの場所にある、目立って高いこの建物。
かつての荒浜小学校です。
震災後の映像の中で、この建物以外がすべて水に覆われる中、屋上に避難した生徒や職員たちがヘリに向かって助けを求める、という映像で何度も目にしました。
津波による移住などでの人口減少などが理由で、学校自体は今年3月に別の学校に統廃合されてしまったようです。
この建物は震災遺構として残る可能性がありますが、ここにあった「空気」はもう二度と戻らないんですね。。 -
荒浜の一番建物が多かったあたり。
おそらく、かつてこの辺に住まわれていたと考えらえる人の姿も見えます。 -
一帯は災害危険区域に指定され、新たに住居などを自由に建てることが禁じられています。
他の場所でも見たメガソーラーのパネルが、ここにもたくさんありました。 -
荒浜と、対岸の名取市を結ぶ、名取川にかかる「閖上(ゆりあげ)大橋」。
NHKのヘリからの撮影で記録された、津波の第一報。
私は東京のオフィスで、ワンセグの画像で呆然とこの光景を傍観していました。
私自身は津波被災者ではありませんが、あの時の心境はもう思い出したくないですね。。
その映像で、海から一気に名取川を駆け上がり、周辺の集落をなぎ倒していった津波。
そんな中、この閖上大橋の上に停めたトラックの荷台に逃げた人がカメラに映っていました。
後で聞いたところその人は助かったそうですが、この孤立無援の場所で迫りくる水を目にしていったい何が頭に思い浮かんだんでしょうか。
今の平和な光景からは、ここを水が覆い尽くしたことがこれっぽっちも想像できません。 -
その閖上大橋を渡った左手前方が、名取市の「閖上地区」。
津波被害がことさら大きく、集落がまるごと1つ完全に消滅してしまいました。
テレビでも取り上げられることが多い場所で、ご存知の方も多いと思います。 -
閖上地区へは、県道から折れて名取川沿いの道を進みます。
本当は集落の真ん中へまっすぐ向かう道がかつてあったのですが、現在ではかさ上げ工事などが進んでいる関係で通れなくなっています。 -
極めて平たい閖上の一角ですが、見えてくるのはかさ上げが進んでいる土地ばかり。
完全に壁のようになっていて、ここに集落があったという実感すらも沸かない光景。
そして、すれ違うのはもうもうと砂煙を巻き上げていくダンプカーばかりです。 -
かさ上げが進んでいる場所を過ぎ、海沿いに閖上のかつての集落の中心へと向かいますが、やはり見えてくる建物はごくわずか。
そんな中の一つであるこちらへと足を伸ばしました。
海沿いにあるこちらの建物には「ゆりあげ港朝市」があり、たくさんの店が入っています。
震災直後から場所を変えながら粘り強く営業を続けてきた地元の商店の人たちが、故郷であるこの場所に築いた新たな拠点です。
私もそこを訪れるのを楽しみにしていましたが、残念ながらこの日は定休日。
なので、その朝市に隣接している「メイプル館」というギャラリー兼カフェ兼お土産物屋へと寄ってみました。
カナダ政府の支援で作られたことから、このような名前になっています。ゆりあげ港朝市 名所・史跡
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何かお土産を...と思って建物に気軽に入ったのですが、そんな我々を打ちのめしたのが、入口からよく見えるビジョンで流されていた、津波の映像の数々。
ここなら大丈夫だろう、という場所に襲ってきた波に、慌てて逃げる人々。
高台に避難し、最初はそれほど緊迫もしていなかったのに、途中から言葉を失っていく撮影者。
自らも津波にのまれるかもしれない、という恐怖の中「ここもだめかもしれません」と話しながらも、淡々と的確な情報を伝えていく、仙台空港の職員。
これまでテレビで見ることがなかった映像も紹介されており、あまりの生々しさにしばらく動けなくなってしまいました。。
この写真にあるような、津波がすべてを変えてしまった閖上の地で見るからこそ、一つ一つの言動が突き刺さってきます。ゆりあげ港朝市 名所・史跡
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かつてはこんなに美しい場所だった閖上。
自分が車でこの建物に来るまでに走ってきた距離を考え、これだけの大きさの街がほんの数分でまるごと消し去られてしまったという規模感に、改めて津波の威力を肌で感じます。
帰ってちゃんと見直す意味も込めて、売店で売られていた資料映像などを購入。ゆりあげ港朝市 名所・史跡
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市場とメイプル館が面する太平洋。
(正確には、直近に見えているのは入江ですが)
風の音しかせず、「のどか」を絵に描いたような場所です。
ここから見上げた空を、あの時自分も見た映像を撮影したヘリコプターが飛んでいたんですね。ゆりあげ港朝市 名所・史跡
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仙台空港がすぐ南にあるため、飛行機のアプローチが非常によく見渡せます。
空港もあの時滑走路の全面が使用できなくなっていましたが、わずか1か月で復旧しました。
また、アメリカ軍の「トモダチ作戦」の拠点となっていましたね。
彼らに伝えるべく、名もなき誰かが流木で作った「ありがとう」という文字がいまだに印象に残っています。ゆりあげ港朝市 名所・史跡
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ちょうどいいタイミングで着陸の一部始終を見ることができました。
ゆりあげ港朝市 名所・史跡
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同じ場所から、仙台市方向を見たところ。
ストリートビューでの2011年の画像には、うずたかく積み上げられた流木などが写っていますが、そういった痕跡はすべて消し去られています。ゆりあげ港朝市 名所・史跡
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メイプル館の裏手の駐車場に停めましたが、その界隈には小さな交差点がたくさん。
「この交差点に見合うだけの大きさの建物が建っていた」はずですが、5年経って土台などを含めすべて整理されてしまい、今はただ「どれを曲がってもそれほど変わらない路地」になっています。
お住まいだった方は、実際にこの風景は耐え難いものがあるはずです。。 -
その「どこを曲がっても一緒な」路地を通り、閖上の集落の中心にあるこの高台へ。
テレビでもたびたび取り上げられる場所なので、ご記憶の方も多いかと思いますが。日和山 自然・景勝地
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「日和山(ひよりやま」という高さ6メートルほどのこの山。
20世紀初頭に作られた人工の山で、山頂には神社の社殿がありました。
しかし、この山が隠れてしまう(後ろに写っている、山の上に立つ木の中くらいのところまで水が来たそうです)ほどのあの津波によって、それらもすべて流されてしまいました。日和山 自然・景勝地
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在りし日の閖上の賑わいを示す写真があります。
私が何気なく車を停めた、現在駐車場となっている山の目の前の空間。
ここが、お祭りの時に一番賑わう空間だったんですね...日和山 自然・景勝地
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一気に登ってくると息が切れるくらいの高さにあるこの山すら、津波の猛威に勝てなかったのか...
下に見える、石などを使って描かれている絵には、あれから何年何か月経ったかの数字が入れられています。
今は「5」年「1」か月でしたが、これが2桁になりどんどん大きくなっていったとき、この場所には再び賑わいが戻ってくるのでしょうか。
少なくとも、今のこの地域の様子からはどうしてもネガティブに考えてしまいがちです。日和山 自然・景勝地
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山の上には小さなほこらが立っていました。
このほこらは、閖上にお住まいだった宮大工の方が、津波で流されてしまった道具そして木材を丁寧に拾い集めて加工し、再建したものです。
姿は違えど、この場所にずっとあり続けたものでこうして甦ったのですね。日和山 自然・景勝地
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日和山の向かい側には、大震災の慰霊碑が建っていました。
真ん中にあるモニュメントの高さは、最も高かった時の津波の高さを示しています。
手前にある2つのボードには、犠牲者の名前がぎっしりと刻まれているのですが、同じ苗字が十人以上も並んでいる部分にいたたまれなくなってしまいました。
果たして観光客がここを訪れてよいのか悩みましたが、災害を正しく理解するためにもこの閖上の現実を見ることは、私には必要だったと考えています。
合掌。。閖上の記憶 名所・史跡
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貴重な閖上の訪問を終え、再び海に近い県道を進んでいきます。
この辺は若干高台になっていて、あとで調べたところ被災地域から移住される方々も多いそうです。 -
途中、仙台空港の滑走路の下をくぐる場所がありますが、タイミングよく離陸シーンに遭遇!
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ここが仙台空港の地下を通る部分。
あの、滑走路を車、家、そして飛行機が流れていくという衝撃的な場面はここだったのですね。。
この地下道で津波に遭遇するなど、本当に想像したくないところです。 -
閖上地区もそうですが、この界隈には丘のような地形も高い建物も一切ありません。
(特に空港周辺は規制もあるでしょうから)
逃げるとするならば、あの遠くに見えている山の付近になるのかと思いますが、果たしてあそこまで行こうという考えが出てくるのかどうか...
逃げずにとどまった方のことを疑うといったことが、この地形を見ていると全くできません。
むしろ、いったいどうすればよいのかという疑問だけが沸いてきます。 -
全く近寄ってこない山と海との距離を確かめ、ここでもし地震が発生しても自分にとって何が正しいのかを全く判断することができないまま、静かにこの阿武隈川を渡って亘理町へと入ります。
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ここからは、亘理の街にあるスマートICから常磐自動車道に乗って先を急ぎます。
この発想とセンス、決して嫌いではない(笑)。 -
この界隈の常磐道はつい7年前にできたばかりですが、この先にある原発エリアが通行止めになっていたこともあり、寸断された高速道でした。
今は、このまままっすぐ東京方面まで向かうことが可能です。
乗ってすぐに見えてきたのは、山元インター。
競馬好きとしては、山元トレーニングセンターがあることでおなじみです。
今回は出発が遅くて朝の調教に間に合わなかったので、見学はパス。
そういえば震災の時にも、有力馬がここで孤立していましたね。 -
海からも離れ、山の合間にちらほらと集落が見えるような景色が続き始めたとき、この「福島県」の看板が通り過ぎていきました。
気仙沼からここまで、海外線をずいぶん長い距離走ってきましたが、道中はずっとその被害の生々しさを見続けている状況でした。
岩手県がリアスの地形もあって集落ごとにピンポイントに被害が大きかったのに対し、宮城県は特に中南部で「面」で被害を受け、逃げ場のなさが際立っていたことに強い衝撃を受けました。 -
相馬の中心街が近づいてきています。
原発事故で霞んでしまってはいますが、相馬も多大なる被害を受けた地域。
ここからの区域こそ、ちゃんと見てちゃんと伝えなければならないと強く感じます。 -
しかし、地震の状況を体感する前に目に飛び込んでくるのは、この高速道路にすら設置されている線量計。
この先、広野町までの間の区間での線量を示しています。 -
心なしか、というよりも明らかに、相馬インターを過ぎると車の通りがぐっと減ります。
私は、もうそういったことを気にする年齢でもないし、ありのままを知りたいと思いこの場所を通りましたが、日常で走らねばならないドライバーさんなどがここから先を敬遠することについては全く異論をはさむことができません。 -
相馬から南相馬市へ入りましたが、この先は営業している店がどんどん減っていきます。
ということで、南相馬鹿島サービスエリアに寄ります。
ここのサービスエリアのお目当てが... -
2013年のB-1グランプリで見事グランプリに輝いた「なみえ焼きそば」。
豚肉ともやしのシンプルな具に、他ではなかなかお目にかかれない豪快な太麺が特徴です。
福島の物産展などで箱入りのものは買って家で作ったことがありましたが、お店で食べるのは初めて。
かつて浪江の街にいくつもあった店は散り散りになってしまい、この地でこの焼きそばが食べられるのはこのサービスエリアほかかなり限られた場所になってしまっています。
まあ、サービスエリアの食堂なので味はそれほど洗練されているとは言い難かったですが(笑)、福島でなみえ焼きそばを!という願いは果たせました。 -
それだけではちょっと足りなかったので(笑)、外の売店でおかわり。
奥が、福島の白桃を使ったソフトクリームとミックスジュース。
そして手前にあるのが「凍天(しみてん)」という名のおやつです。
南相馬の会社が作り出した、保存食である凍み餅(しみもち)をドーナツ生地で包んで揚げたというもの。
最初、良く知らずに「お焼き」的なものかと思って一口かぶりつき、中が甘いことに大いに驚きました(笑)。
初めての食感でしたが、ドーナツ生地と餅がケンカすることもなく濃厚な食感を作り出し、そのダブルもっちり度合いについおかわりしたいくらいな気分に。
これまでまったく知らないお菓子でしたが、今後見つけたら意識して買ってみようかと思うほどに記憶に残りました。
ちなみに、この凍天を作っている会社が大震災で操業を中止したとき、手を差し伸べたのが我が故郷福岡を代表する米菓の「もち吉」だったと知って、さらに親近感が増しましたw -
十分に腹を膨らませ、ここでもお土産を購入。
もう持ちきれないくらいになってきてますが、まあここまで来たら引き下がれません(笑)。
サービスエリアには、さすが本場でもあり相馬野馬追の展示がたくさんあります。 -
並ぶ写真どれもが、ここぞというシャッターチャンスで切り取られた迫力満点のものばかり。
津波では、人や家ばかりではなく、この馬たちも大きな被害を受けたと聞きます。
津波そして原発の影響がありながら、今では力強く復活している日本を代表する勇壮な祭り。
馬好きとしては、いつかこれが行なわれている時に来なければなりませんね。 -
ここからは、14年前にふらりと旅に出て車で通ったエリアだったので、そこをもう一度たどるべく南相馬インターから国道6号へと入ります。
こちらは原ノ町駅。
かつてドライブの途中にトイレだけ借りた記憶のある駅です(笑)。
原発事故の影響で、常磐線の営業はここから仙台方面へだけ。原ノ町駅 駅
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「ここを走り抜けて南側へ向かう列車のない」線路を見渡します。
ここにはつい1か月ほど前まで、大震災の時に出発できないまま原発事故の影響でこの駅から動けなくなってしまった「スーパーひたち50号」の車両がずっと放置された状態になっていました。
徐々に「復興する事すら許されていない」場所が近づいているのを肌で感じます。原ノ町駅 駅
-
原ノ町から国道6号を南下すると、このような看板が目立つようになりました。
人がいなくなったことで増えた牛などが急に飛び出すことも多いそうです。
ついつい普通の感覚で飛ばしてしまうのですが、この看板を見てからは細心の注意を払いながら車を進めるようにしました。 -
そして、浪江町へ。
既にこの手前の南相馬市南端から、「避難指示解除準備区域」へと入っています。 -
街の境目を過ぎて間もなく、商業施設の建物がいくつか目に入ってきます。
宿泊所に車もけっこう停まっていて、一見すると大きな変化はないように見えますが... -
ただ、やはり。
確かに街はあるのですが、その建物多さに比べた異様なまでの人の少なさ。
建物を覆うフェンス、閉じたままのカーテンなど、人がいまそこにいるという気配のなさ。
草ぼうぼうで、しばらく車が入った形跡のないだだっ広い駐車場。
注意して見ると、やはり何かが普通の街と異なっていることがわかります。 -
ここからは、浪江町の大半、そして南隣の双葉町と大熊町のほぼ全域、さらにその南の富岡町の一部までを含んだ「帰還困難区域」。
入口には警官が立ち、この道路を通る車を監視しています。 -
この「しまむら」とか普通に営業してそうに見えますがね。。
わずかに人の姿は見られますが、例外なく作業着を来て、何らかの任務を負ってこの場所にいるのであろうと思われる人ばかり。 -
わずか4分ほどで浪江町を通り抜け、双葉町へ。
-
至る所にある、誰にも邪魔されずに伸びきった雑草が、この地から人々が立ち去らざるを得なくなった年月を実感させます。
突然「いまの家から5分で立ち去れ」そして「30年は帰れない」と言われたら、その気持ちをどこへ持っていけばよいのか。。 -
ここに来ると、さらに「街の中で不自然に育った緑」の姿が目立ってきます。
意識しなくても、その違和感はじわじわと視界に飛び込み、息苦しさを覚えさせます。 -
こちらは、国道6号線から双葉駅へと向かう道との交差点。
この現在立ち入り禁止の道路の少し向こう側には、一時期ニュースでも話題になった、「原子力 明るい未来の エネルギー」と書かれたアーチがありました。
未来への戒めとして残すべきとの議論もありましたが、最終的には撤去されておりその気配はありません。 -
帰還困難区域は、ほぼすべての脇道がこうしてバリケードが張られ、警官が立ち入りを制限しているため、国道6号線を通り抜ける以外には選択肢はありません。
地元の方であれば短時間の立ち入りは可能ですが、線量はいったいどうなっているのか。。
立っている警官の方の健康も心配になります。 -
途中一切停まる、いや停められる場所もないまま、またわずか6分ほどの時間で双葉町を通過。
ここから大熊町、ということは、この2つの境目に建っていた原発のすぐ近く、という事を示しています。 -
国道6号線の中では最も近い場所であるここまで、およそ2.5キロほど。
いまだ、この道を左に曲がったすぐ先で作業を続けている方がたくさんいるんですね。。 -
海岸方面へ長く続く送電線。
そして、右手奥の森の陰には、施設の陰も見え隠れします。
14年前にここを逆側から通過した時には「あ、あるな」程度の関心しかなかった場所でしたが... -
左へ曲がると原発の敷地へ真っすぐと向かいますが、当然ながらバリケードが張られており近づくことは許されません。
手前にある「原子力運送」という看板の朽ち果て方が、何かを物語っているようです。 -
最接近地点からほんの数分走った場所にあった線量計。
毎時3マイクロシーベルトを超えており、かなり高いことがわかります。 -
この幸楽苑とか、おそらくまだできたばかりだったんでしょうね。。
建物がとてもきれいなまま、周辺が草に覆われて埋もれつつあります。 -
大熊町の賑わっていたはずの部分を通っていますが、すべての家の入口にフェンスが設けられていて、一切の受け入れを拒絶しています。
こういうところに来る不逞な輩も多いので、仕方ないでしょうか。
個人的には、この光景が走っていて一番ぞっとしました。 -
大熊町から富岡町へ。
富岡町は、帰還困難区域・居住制限区域・避難指示解除準備区域が混在している街。
復興拠点整備中!の文字が力強く掲げられています。 -
しかし、まだまだそれほど線量が減ったとは言い難い状況です。
-
ここまでが、帰還困難区域。
このエリア内では、立っている警官以外には、作業員も含めてほとんど屋外を歩いている人の姿はありませんでした。 -
道路の左側に立っているのは、まもる君的な人形ではなく、生身の警官。
しっかり出入りを見張っています。 -
ただ、区域の指定がどうであろうが、まだ人々の生活の息吹を感じられる場所は見出せません。
かれこれ30分近く走ってもまだ抜けられないそのエリア。
いかに、あの時テレビで見ていた出来事が恐ろしいものだったか、身をもって感じます。 -
おそらく5年と3か月前には普通にたくさんの車が停まっていたであろうスーパー。
このエリアの時間は、1秒たりともあの時から進んでいないですね。。 -
でも、こう思っている人がいる限り、我々も応援したいし、近い将来もう少し時間をかけて再訪できるようになったら、ぜひ来たいと考えています。
-
双葉・大熊を走っている時には明らかに少なかった車も、この辺から徐々に目立つようになってきました。
-
そして、楢葉町へ。
楢葉町といえば、何といってもJヴィレッジが有名な場所ですね。 -
この立派な建物は「道の駅ならは」。
現在は休館しており、警察署の臨時庁舎などが入っています。 -
楢葉町の南端、お隣の広野町とにまたがるエリアにあるJヴィレッジ。
個人的には、10年以上前に仕事で訪れ、またその前にこのエリアをふらりと旅行した際にも訪問していて、思い出深い場所でもあります。Jヴィレッジ 宿・ホテル
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仕事の際に訪れたセンターハウス。
レセプションやミュージアムなどがあった建物ですが、現在では部外者は立ち入れないようで素通りするほかありません。Jヴィレッジ 宿・ホテル
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この辺、仕事でいろいろ見せてもらったのが、懐かしく思い出されます。
もはや日本サッカーの拠点として復活することは困難なのかもしれませんが、それでもこの地域のスポーツが発展するきっかけの場所として、何とかこのまま姿をとどめておいてほしいと願っています。Jヴィレッジ 宿・ホテル
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停まっている車はたくさんありますが、おそらくこれは原発で作業する関係者などの車かと思われます。
駐車場の入口も厳重に見張られていました。Jヴィレッジ 宿・ホテル
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仕事でJヴィレッジを訪れた際にも目にして、係の人に「あれ原発ですか?」と質問してしまった、広野の火力発電所の煙突。
こちらはさらに施設も増設され、大活躍しています。 -
仕事で訪れた際、帰りに使った広野駅。
10年近く前とほとんど変わらない見た目です。
当時はここから上野まで特急で一気に移動しましたが、現在ではこの北側で不通が発生している影響で特急はこの駅にはやってきていません。広野駅 駅
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国道6号と並行して走る常磐線の美しい植え込みなどを見ながら走り、いよいよいわき市へ。
旅の終わりが少しずつ迫ってきていることを実感します。 -
ここからは塩屋埼へと向かうべく国道6号から海岸沿いへと進みます。
宮城や岩手に隠れがちですが、この辺も激しい津波の被害を受けた地域。
いまだにこうして木材が積み上げられているのが、目に飛び込んできます。 -
かつては塩屋埼までまっすぐ一気に綺麗な道を通って進むことができていました(前回来た時は逆からでしたが)。
しかし、岬の北側のエリアは「何もない場所」になり、再び「カーナビとは違う道」が登場し、大きく迂回することを余儀なくされます。 -
予定よりも時間をかけて到着した、この塩屋埼灯台。
14年ぶりですが、前に立つと「みだれ髪」がフルコーラスで流れる歌碑も、灯台も変わらない姿です。
さすがにこの高さまでは津波は来なかったということですね。塩屋岬 自然・景勝地
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歌碑から流れてくる曲を聴いていると、実家にいたころに母が料理しながらよく歌っていたのを思い出しました。
塩屋岬 自然・景勝地
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塩屋埼からさらに海岸沿いを南下し、ようやく見えてきたのがこちらの港。
小名浜漁港です。
小名浜は14年前の旅行の時にも寄って市場食堂で海鮮丼を食べ、10年前の仕事の時にも寄りました。
そして、震災から5か月後の2011年8月、アクアマリンふくしまが営業再開したというのを聞いて訪れたのが最新。
何かと自分には縁がある場所です。 -
5年前に見た建物がすっかり建てなおされていたり、折れ曲がった看板が架け替えられていたり、一方で当時ぽつんと立っていたコンビニが元気に営業を続けているのを見て安堵したりしながら、港のこの施設へと入ります。
この「いわきら・ら・ミュウ」は、お魚屋さんなどが集まり、小名浜の海の幸を堪能できる場所として有名でした。
あの津波では当然ここも甚大な被害をこうむり、5か月後に訪れた時点ではまだ営業が再開できていない状況でしたが、その年の秋には復活し現在へと至っています。いわき ら ら ミュウ お土産屋・直売所・特産品
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ただ...
残念ながら小名浜での水揚げは本格再開に至っておらず、現在では全国各地から取り寄せたお魚を並べて営業しています。
この施設は何度も来ていて頑張ってほしいところだったので、帰りの電車で食べるお弁当やかまぼこなどのおつまみを買ったり、こちらの「ウニの貝焼き」で口の中をホクホクさせたりしながら楽しみました。
※ちなみに、14年前に一人旅した時の写真を帰ってから見てみたら、やっぱりこの貝焼きを食べていました。
人間の好みはそう簡単には変わらないという事の証明ですね(笑)。いわき ら ら ミュウ お土産屋・直売所・特産品
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アクアマリンふくしまも、当時は奇跡的な早さでの営業再開と話題になりました。
今回は時間がありませんでしたが、そんなに海の動物に興味のない自分でも童心に帰ってはしゃげる場所でしたので、近場の方はぜひ行ってみてはいかがでしょうか。いわき ら ら ミュウ お土産屋・直売所・特産品
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そうこうしているうちに、車を返す時間まで30分ほど。
まだまだかさ上げ工事などが続き本格的な復旧一歩手前という小名浜港の前を通り過ぎ、常磐線の泉駅の前にあるレンタカー屋で車を返却。
メーターを見たら、走行距離は950キロあまりでした。
惜しい!どっかでもう少しうろちょろしていれば1000キロになったのに(笑)。
ともかく、秋田からここまで頑張って走ってくれたアクア君に感謝です。 -
泉駅に到着して特急を待ちましたが、どうやら直前でこの先の踏切で事故が起こったらしくて、かなりの遅れの中待ちぼうけを食らうことになってしまいました。
極めて順調な旅の最後に、こんな落とし穴があったとは。泉駅 (いわき市) 駅
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ようやくやってきた特急ひたちに乗り込んだ時には、もうすっかり夜のとばりが下りていました。
泉駅 (いわき市) 駅
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車内では、ら・ら・ミュウで買ったこのいかめしや、
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カニご飯などとともにビールを頂いて、長かった旅を振り返りました。
震災と津波の爪痕を確かに認識し、自分で出来る範囲の貢献を、と思って旅立った、今回の東北縦断ドライブ。
どの程度の貢献ができたかは私が判断すべきことではないですが、少なくとも「防災への意識」が飛躍的に高まり、大きな災害により多くの心構えをしておくまたとないきっかけとなりました。
この旅行を単なる物見遊山にしないことを誓い、帰ってからさっそく防災用具の点検と購入、何かあった場合の行動指針の確認などを進めています。
それが何かの役に立つ日がくるのかどうかは定かではありませんが、そうなった時にこの経験に感謝できるようになればと。
最後までご覧いただき、ありがとうございました!
(了)
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