2016/04/08 - 2016/04/08
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belleduneさん
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京都市内の建仁寺塔頭である正伝永源院へ行きました。春の公開で庭園や細川氏の描いた襖絵、如庵の写しなどを見ることができます。元は、正伝院と永源院の2つの寺で、臨済宗大本山建仁寺の塔頭でした。明治新政府の断行した廃物毀釈、その主な目的は神仏分離政策による仏教排斥運動、そしてその具体的な処置として、本山を中心としての規模の縮小や住職のいない寺院の廃寺でした。明治6年、建仁寺領も四分の一程に縮小され、当時住職のいない永源庵は即刻廃寺となりました。ところが、永源庵は、本山の真北にあったため、その堂宇の取り消しは免れ、その地に本山の北東に位置した正伝院が移って来ました。こうして寺名も「正伝院」と変更されました。永源庵は、細川家の始祖・細川頼有以後の八代の菩提寺であり、数多くの菩提寺の中で、最も重要な寺でありました。「永源」の名が消えることを憂いだと細川侯爵は、「永源」の名を残すことを希望され、「正伝永源院」となりました。
- 旅行の満足度
- 4.5
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永源庵は、無涯仁浩(建仁第39世・1294〜1359)が開山であり、清水坂鷲峯下に同庵を構えました。当時、備後守護だった細川頼有公が同庵の門前で、無涯に会い、馬上から門法したことが縁で、師壇の関係ができたということです。以後、細川家が、同門住持に対する帰依が深まり、同家から同庵に出家したり、住職になるものさえ出ました。1372年、永源庵は、ここで建仁寺塔頭に列し、以後、細川家の庇護は、明治まで続きます。現在の客殿は、細川山斎公により再建され、その時の住持は、細川家から出家した九岩中達(建仁第300世)でした。
平成25年3月に第79代内閣総理大臣・細川護熙氏による襖絵24面が公開されているので、見ることができました。 -
もうすぐ、躑躅の季節ですが、この庭がツツジで赤くなります。この後に、絵師狩野山楽による襖絵が公開されていました。
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織田有楽斎は、織田信秀の11男で、信長(二男)の実弟として、天文16年(1547)尾張に生まれました。剃髪して、有楽斎如庵と号しました。本能寺の変で、兄信長が倒れた後、豊臣秀吉の配下となります。関ヶ原の没後、その功に因って、家康から禄を与えられ、豊臣秀頼の補佐役として、大阪城に居て、東西対立の和平に奔走しますが、不調に終わり、夏の陣を前にして、大阪を退き、京都二条に隠棲します。その後、元和3年12月に正伝院の借用を打診し、翌秋に、優美な林泉と典雅な茶亭「如庵」並びに客殿、庫裏を完成したとあります。元和7年12月13日、75歳の生涯を終えるまで、茶道三昧、悠々自適の生活をこの寺で送ったそうです。
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庭に下りて見ると、目線が低くなるので、ちょっと違いますね。勿論、内部は撮影できません。
数寄屋建築の中村昌生氏監修のもと、千家十職・当院責任役員永楽善五郎氏他多くの法縁の援助によって、平成8年10月に、この写しが完成したそうです。如庵の額は、細川護貞氏の揮毫。 -
奥にも、お茶室があるので、見て来ました。そこは写真を撮れませんでしたから、じっくり見させて頂きました。
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