2015/05/22 - 2015/05/22
38位(同エリア229件中)
junemayさん
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2014年6月から7月にかけて、イタリア、フランス、スペインを勝手気ままに歩いた一人たびの心地よさが忘れられず、年が明けるや否や新しいプランを作成。今年は昨年最も強く心を惹かれてしまったイタリアに集中することにしました。6月のトスカーナは連日35度を超す猛暑だったので、今年は1か月前倒し。
まずは行きたいところをピックアップして、たびの拠点となる都市を選定。宿泊施設を押さえてから、詳細を詰めていくというのが私のスタイルなのですが、例によってこれも見たい、あそこも行きたい・・・とかく欲張りな私のこと、1か月じゃあ全く時間が足りないことがすぐに判明しました。とはいえ、時間とお金は限りあるもの。優先順位を決めて、何とかやりくりをして決めたのが下記のプランです。
イタリアには過去3度行ったことがあります。
最初のたびは、大学生の頃、スイスのチューリッヒから日帰りで行ったミラノ。最後の晩餐だけ見に行ったような、慌ただしいたびでした。
2回目は2001年、シシリアとアルベルベッロ、カプリ島、ローマを2週間かけて回りました。
3回目が2014年、ベネチアとトスカーナ州、リグーリア州が中心の2週間。
今回は、過去に行ったことのない場所をメインとした旅程となりました。たびを重ねるうちに、自分が最も興味を惹かれるものは、古い建物、神社仏閣教会等、そして彫刻、絵などの美術品 全て人が作り出したものだということがわかってきました。中でも、ここ2、3年、以前はあまり興味が沸かなかった教会に強く惹かれる自分がいます。基本的には無宗教なのですが、現在より人々の心が純粋で、神を敬う気持ちが強かった頃でなければ、創り上げられなかった文化の結晶とでもいうべき施設には畏敬の念を覚えます。というわけで、今回のたびの中心は教会を巡る街歩きとなってしまいました。
イタリア語は皆目見当がつかず、付け焼刃で2週間ほど本を見て勉強しましたが、やるとやらないでは大違い。後は度胸と愛嬌?で前進あるのみ。御陰様で、とても自己満足度の高いたびになりました。
2015/5/6 水 成田→モスクワ→ローマ
2015/5/7 木 ローマ
2015/5/8 金 ローマ→ティヴォリ→ローマ
2015/5/9 土 ローマ
2015/5/10 日 ローマ
2015/5/11 月 ローマ
2015/5/12 火 ローマ
2015/5/13 水 ローマ→ナポリ
2015/5/14 木 ナポリ→ソレント→アマルフィ→ラヴェッロ→アマルフィ→サレルノ→ナポリ
2015/5/15 金 ナポリ
2015/5/16 土 ナポリ→エルコラーノ→ナポリ→カゼルタ→ナポリ
2015/5/17 日 ナポリ→バーリ
2015/5/18 月 バーリ→マテーラ→バーリ
2015/5/19 火 バーリ→レッチェ→バーリ
2015/5/20 水 バーリ→オストゥーニ→チェリエ・メッサピカ→マルティーナフランカ→バーリ
2015/5/21 木 バーリ→アンコーナ→フォリーニョ
2015/5/22 金 フォリーニョ→スペッロ→アッシジ→フォリーニョ
2015/5/23 土 フォリーニョ→トレヴィ→スポレート→フォリーニョ
2015/5/24 日 フォリーニョ→ペルージャ→フォリーニョ
2015/5/25 月 フォリーニョ→コルトーナ→オルヴィエト
2015/5/26 火 オルヴィエト→チヴィタ ディ バーニョレージョ→オルヴィエト
2015/5/27 水 オルヴィエト→アレッツォ→オルヴィエト
2015/5/28 木 オルヴィエト→フィレンツェ→ボローニャ
2015/5/29 金 ボローニャ→ラヴェンナ→ボローニャ
2015/5/30 土 ボローニャ→モデナ→ボローニャ→フェラーラ→ボローニャ
2015/5/31 日 ボローニャ
2015/6/1 月 ボローニャ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/2 火 ヴィチェンツァ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/3 水 ヴィチェンツァ→ヴェローナ→ヴィチェンツァ
2015/6/4 木 ヴィチェンツァ
2015/6/5 金 ヴィチェンツァ→ミラノ
2015/6/6 土 ミラノ
2015/6/7 日 ミラノ
2015/6/8 月 ミラノ→モスクワ→
2015/6/9 火 →成田
スペッロの駅から2時間に1本しかない列車でお隣のアッシジに向かいます。ローカル線なので、1本逃すと後が大変! 普段、電車が5分おきにやってくる便利な都会に住んでいるので、時間管理を厳格にしないと、とんでもない目に会います。とりあえず、今日のところはセーフです。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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やってきた列車で、スペッロの駅から、隣駅のアッシジへと向かいます。
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アッシジの駅は雨にもかかわらず観光客で溢れていました。程なくやってきたバスで町の高台にあるバスの停留所ピアッツァ・マッテオッティに降り立ちました。
意外にも、バスの乗客は地元の人と観光客が半数ずつ位でした。あらら・・・霧が出てきて、さっきより視界が悪くなっていますよ。 -
googleマップであらかじめ行くべき道を練習していたので、何とか迷わずに進むことが出来ましたが、霧は想定外でした。まずは、あのドーム、聖ルフィーノ大聖堂を目指します。
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スペッロとは雰囲気が異なるけれど、アッシジの道も大変綺麗に舗装がされていました。平らなのでとても歩きやすい・・・雨に濡れて、石が鮮やかです。
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この町の建物の石も、大聖堂に関してはスパシオ山から切り出してきたものかしら? 右手の建物に使われている粗削りな石とは対照的です。
霧の中に浮かぶのは、11世紀に作られた聖ルフィーノ大聖堂の鐘楼です。塔の上部(切り込みより上の部分)は13世紀のもの。塔はローマ時代の貯水槽の上に建てられたものだそうです。 -
この先行き止まりかなと思ったけれど、ちゃんと道は続いていました。
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見えた、見えた! あそこが聖ルフィーノ広場への出口です。バスを降りた場所から凡そ5分。とても素敵なプロムナードでした。
夜になると灯される電灯も雰囲気ありますね。 -
下ってきた道を振り返って撮った1枚。左側のアーチから出てきました。アッシジの町の大聖堂に到着です。
3世紀に殉教した町の守護聖人聖ルフィーノに捧げられた大聖堂は、歴史的に極めて重要な意味を持っています。ジョヴァンニ・ダ・グッビオの設計で1140年から建設が始まったこの大聖堂では、アッシジのフランチェスコ(1182年)、アッシジのキアラ(1193年)が共に洗礼を受けているのです。 -
ほぼ間違いなくスパシオ山の石で作られたと思われる、大聖堂前広場の噴水です。ライオンの頭が6つ並んでいます。左端ライオンの頭の上には、1532年に噴水を作った教皇領の執政官ヴィルジリオ・デ・ベルナルディの紋章と並んで、アッシジの紋章を見ることが出来ます。
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ライオンは、少しずつ顔の形も表情も異なります。その横にある長方形のライオンのレリーフはもっと古い時代のもので、碑文から1278年と読めます。こちらはおそらく、古い時代にあった噴水の痕跡だと思われます。
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大聖堂のファサードを構成する石材は、これまたスパシオ山の白とピンクの石です。ファサードは典型的な12世紀のウンブリアスタイルだそうです。オリジナルというのが嬉しいですね。
ファサードは縦に3つの部分に分かれ、それぞれに扉がついています。左から順番に撮ってみました。まずはこちら、正面向かって左側の扉です。
ピンクのティンパヌムにいる動物はライオンかしら? -
ひときわ立派な中央扉。ティンパヌムには中央に太陽と月を従えたキリスト、左に聖母子、右に聖ルフィーノの姿がありました。扉周りの装飾も美しいですね。ぶどうの蔓、花輪、寓意像、想像上の動物達のレリーフが見事です。
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右側。こちらのティンパヌムの主人公は雉でしょうか?
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それぞれの扉の前には、一対のライオン像が鎮座していましたが、こちらは中央扉前のライオンです。
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いくらなんでも、この無造作な金具の留め方は、ライオンさんに対して失礼でしょう! やり方ががさつで気に食わないなあ・・・
とはいえ、ライオンの損傷は、1997年にウンブリア州を襲った大地震の爪痕の一つなのかもしれませんね。 -
大聖堂に敬意に払って入場します。まず出迎えてくれたのは、この小さな町が生んだ聖人フランチェスコ。ご存知フランシスコ会の創設者で、イタリアで最も有名な修道士です。
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右側の壁には、常にフランチェスコと対にされるアッシジの聖キアラ。聖フランチェスコに最初に帰依した者の一人で、女子修道会キアラ会(クララ会)の創設者です。
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内部は三廊式。1566年に大規模改修が行われた結果、現在はご覧のようにやや殺風景な後期ルネッサンス様式となってしまいました。解説書によると改修の中身とは・・・
・見えていたゴシック様式のアーチを隠し、窓が見えなくなるよう、天井を低くした。
・クリプトの一部を潰して、高い位置にあった合唱隊席を床の高さまで下げた。
・後陣にあった2つの礼拝堂と側廊から内陣への入口の廃止。
・内陣上にドームの建設。
結果、ロマネスク様式のオリジナル部分は全くなくなってしまっています。 -
主祭壇に向かって右側にあった、聖ヨセフの礼拝堂です。跪く聴衆に向かって、聖ヨセフが聖母の結婚指輪を見せている場面だそうです。16世紀初頭のベルト・ディ・ジョヴァンニの作品といわれています。
当初エギディ家の礼拝堂として使われていて、1581年には存在していたという文書が残っています。絵の周りの装飾が今まで見たことのない形式で非常に新鮮でした。
後にファルシネリ家に譲渡されたため、上部の天使たちはファルシネリ家の紋章を掲げています。
カメラの画質が悪いのではっきりしませんが、ヨセフの絵の下にある楕円形のような形の絵(プレデッラと言う)には、聖家族を中心に、左にパドヴァの聖アントニオ、右にシエナの聖ベルナルドが描かれています。こちらはドノ・ドーニの作品。 -
画面下に見える生花で飾られているのは聖水盤です。この聖水盤で、フランチェスコとキアラが洗礼を受けたと言われています。
錬鉄製の柵に邪魔されて中身がよく見えませんが、聖水盤の上に取り付けられているテラコッタ製のカバーは、聖フランチェスコ生誕700年を記念して、1882年に作られたものです。聖フランチェスコの洗礼場面を描いている後ろの絵は、ウィーンの画家フランツ・デ・ローデンによる作品です。聖水盤の本物は、きっと絵の中のような、素朴な石製なのでしょうね。 -
聖水盤を守るグリフォン像。
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堂内は所々がガラス張りの床になっていて、古い時代の床を見ることが出来るようになっています。クリプトを見ることもできたのですが、時間が押せ押せになっていたので、今回は参加しませんでした。
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こちらは、アッドロラータ(悲しみ)の聖母の礼拝堂。1650年に再建された際に、上部に窓が作られました。力強い渦巻きのある柱が特徴的な祭壇の設計は1563年、ドノ・ドーニによります。祭壇に祀られている聖母像は、1672年製の多色木像です。
アッシジのグッド・フライディのパレードには、このマリア様が担ぎ出され、町を練り歩くそうですよ。 -
右翼廊のサクラメント礼拝堂への入口は、度重なる改修の影響を受けなかった部分で、1637年に作られた当時のままの姿を残しています。
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暗い場所にあるので、きれいに撮れていませんでしたが、こちらの入口かなり気に入ったようで、何回もシャッターを押しています。
正面の謎めいた絵は、17世紀の画家アンドレア・カルローネ作のエリヤ(預言者)の犠牲。イスラエルの神の預言者エリヤ(1人)とバアル神の預言者(450人もいた!)たちの間で行われた対決の様子が描かれています。それぞれの神のために雄牛を一頭用意し、火を使わずに火を付けた預言者の神が真の神という「コンテスト」だそう。 -
1541年に建てられたサクラメント礼拝堂です。入口の碑文から、1663年から66年にかけて、ジョヴァンニ・ランフランコの弟子だったジャコモ・ジョルゲッティによって再建されたということが分かっています。ここは思いっきりバロックですね。
全部で9枚ある壁の絵も、入口の絵と同じアンドレア・カルローネの作品です。 -
「11世紀に聖フランチェスコが祈った場所」とわざわざ注釈のついたクリプトへの階段です。なぜか覗きに行っていない・・・
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「キリストのための1ヴォルト」と名付けられたこの常設展示は、教皇ヨハネ・パウロ2世が訪問された時の写真展でした。ポーランド出身で、455年ぶりの非イタリア人教皇にして史上最初のスラヴ系教皇というこの教皇の活躍については、日本でも大きく取り上げられて、皆さま良くご存知ですよね。
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教皇といえば、いまだに私はこの方の顔が浮かびます。2005年に84歳で神の国へと旅立たれました
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大聖堂が捧げる町の聖人ルフィーノ・ヴェスコーヴォの彫像は、内陣近くにありました。日本ではなじみのない聖人ですが、アッシジにおける最初の司教でした。238年頃殉教しています。
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ルフィーノ・ヴェスコーヴォ 殉教者 と書かれた床のパネル。司教帽、杖、ヤシの葉が描かれています。前にもどこかで書きましたが、ヤシの葉は、殉教者のシンボルです。
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内陣です。1575年の大改修の際に、主祭壇を飾っていた聖ルフィーノの多翼祭壇画は外されて、無原罪のお宿りの礼拝堂に移されました。そして、クリプトから運ばれた聖ルフィーノの聖遺物が入った石棺が主祭壇に置かれたのが、1586年・・・と解説書に書かれていましたが、ご覧の通り、主祭壇には石棺らしきものは見当たりませんね。主祭壇に飾られた生花の下にあるのでしょうか?
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慰めの聖母の礼拝堂は、奇跡によって1496年に建てられました。1494年、ここを訪れた人々は、聖母がキリストを抱きながら泣いている姿を目撃したそうです。15世紀初頭にテラコッタで作られたオリジナルのピエタ像は最近盗まれ、現在あるのは木製のコピーですが、当時と同じ場所にあります。
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主祭壇に向かって左側の他の礼拝堂に関しては、皆ボケていてお見せできません。こちらが最後の1枚。その後また、サクラメント礼拝堂に戻って「エリヤの犠牲」の写真を撮り続けています。よほどインパクトがあったとみえます。恥ずかしいことに記憶が飛んでいます。もう9か月も前のことっていうか、わずか9か月前のことなのにねえ。
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もう少しじっくりと中を見ればよかったと今頃後悔しています。
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外は相変わらずの雨です。左のショーウインドーに、なぜかアッシジには全く似合わないブルース・リーの姿がありますね。
事前の予定ではこの後、アッシジの町の上に建つ古城ロッカ・マッジョーレを見るつもりだったので、とりあえず上っていってはみたのですが・・・ -
この霧じゃあ、行っても無駄と途中で諦めました。
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ロッカ・マッジョーレ大城塞からの景色を楽しみにしてきたんだけれど・・・城塞は古くはアクロポリスだったようで、ローマ時代にも監視所として使われてきました。
現在の城塞は、教皇領の拡大を目指し、教皇から特別許可をもらって傭兵とともにウンブリアでの足固めをしていた枢機卿アルボルノツにより、アッシジの町の独立性を高めるために、1362年から65年にかけて再建されたものです。アルボルノツについて調べると、枢機卿というよりは傭兵隊長という役回りであったことがわかります。
その後、ロッカ・マッジョーレには教皇から派遣された役人が常駐していたそうです。しかし、今日の天気じゃあ、敵がやってきても、わからないだろうなあ・・・ -
再び坂道を下りて向かったのは、お定まりのコースですが、町の中心広場とも言えるコムーネ広場です。
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スペッロよりさらに標高の高いアッシジは冷えて仕方がないので、ここで防寒用にレインコートまで買ってしまいました。傘もレインコートも日本から持ってきているのに、どんどん増えていきますが、少なくとも傘は帰国するまでに壊れそうだから、まっいいか。
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イタリアは小さな国の集まりと良く言われますが、アッシジの歴史を辿っても、これでもかと様々な国、民族、町、派閥の争いにさらされてきたことが窺えます。古くはウンブロ族の町、ローマ帝国時代にはローマの一都市に、帝国の衰退後にはランゴバルド王国、スポレート公国の一部に。その後独立して自治都市になったのもつかの間、今度は教皇派と皇帝派とに分かれ、対立する隣国ペルージャの支配下に。フランチェスコが信仰生活を始めたのは、こんな殺伐とした時代でした。彼自身、一兵士としてペルージャに捕えられ、捕虜生活を送っています。その後も町は17世紀に平和な時代が続くようになるまで、戦いに翻弄され続けます。
町には様々な過去の遺物が残っていますが、このコムーネ広場はローマ時代のフォロだった場所なので、色々な歴史の断片を見ることが出来ます。
噴水は1303年には文書に記録がありますが、その後何度か再建され、現在のものは1762年の作です。 -
コムナーレ広場の南側に建つのは、市庁舎として使われているプリオーリ宮。最初の建物は1275年の建造ですが、1442年、ペルージアの肉屋の息子で傭兵隊長であるニッコロ・ピッチニーノの略奪によりあらかた破壊され、その後1471年までかけて再建、拡張されました。
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プリオーリ宮の1階にあったヴォルタ・ピンタと呼ばれるアーチの中です。このアーチ、建築当初は、建物の裏にあった公営の売春宿への通路とされていたそうです。「良識」を装うために、背後に壁を設けたのはなんと1453年になってからのことです。って本当かな・・・?
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フレスコは、1556年、ローマ教皇の執政官マルチェロ・トゥティの命によるもので、中央には当時の教皇パウルス4世の紋章がよく目立っていました。
フレスコは2004年から8年にかけて大規模修繕を行っています。どおりで色が鮮やかですよね。 -
内容については良く分かりませんが、寓話が沢山盛り込まれているようです。トゥティが、15世紀後半にローマで発見された皇帝ネロの宮殿ドムス・アウレアのフレスコ画に触発されたとも言われています。
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イチオシ
見て! 広場の歩道には、こんな芸術品も残されていましたよ!
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そして、建物と建物の間に、迷路のように伸びる階段も芸術的! これ、普通の道です。
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プリオーリ宮の前には、ローマ時代の遺物が残されていました。一瞬ローマに戻ったような錯覚。
こちらは、紀元前41年から40年頃起こったペルージャ戦争のすぐ後に建てられたとされるミネルヴァ神殿です。見事ですねえ。ローマのパンテオン同様、その後教会に転用されたために生き残ったと言われています。 -
1836年にフランスの考古学者が発掘調査を行った結果、神殿が建てられた当時の地面は現在より5m低く、神殿は約5mの高さの台座の上に建てられていたことが判明しました。
神殿は1212年までサン・ドナートに捧げる教会として使用され、その後町に売却されました。2階部分はポデスタ(執政官)の住まい、領事の会議場、下層部分は牢として利用されてきたそうです。1階部分はその後も様々な名前の教会として使われてきました。現在はローマにある教会と同じ名前の「サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ」(ミネルヴァ神殿の上の聖母教会)教会として機能しているそう。確かにミネルヴァの神殿の上ですよ。いやはや〜びっくり!! -
ミネルヴァ神殿の中に入ると、お昼休みのためか、教会の扉は閉まっていました。ファサードの壁にはやはりスパシオ山の石灰岩が使われているようです。
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ミネルヴァ神殿の隣にそびえる塔はポポロの塔。ポポロというのは英語で言うpeopleで、この塔は、左隣にある町の民兵の司令官の館同様、住まいとして使われてきました。塔にある一番古い鐘の碑文には、1275年と刻まれているそうですが、窓のある最上部2層が完成したのは1305年のことです。
塔の中間部には時計、上部は鐘楼、そして最上階には狭間が設けられていますので、市民の町への帰属意識を鼓舞する象徴であるとともに、軍事及び監視目的を兼ねて作られた塔なのでしょうね。 -
順番が逆になりましたが、ポポロの塔の左隣にあるのが、塔より少し前に建てられた「司令官の館」です。1212年から建設が開始された町の公共施設第一号です。
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コムーネ広場から、サンタ・キアラ教会に移動する途中で見つけたキアザ・ヌオヴァ(新しい教会)に立ち寄ります。この教会はフランチェスコが生まれた家の上に建っているそうです。
1613年にここを訪問したスペインの神父アントニオ・デ・トレホはフランチェスコの家が老朽化しているのを見て悲しみ、家を購入。新しい教会の建設資金を調達するためにスペイン王フェリペ3世を説得し、教会は1621年頃無事完成しました。
ここで出迎えてくれたのは、フランチェスコとキアラ・・・ではなく、フランチェスコの両親です。父親は、フランチェスコの脱ぎ捨てた服を片手に抱えています。 -
ヌオヴァ教会のファサードです。レンガ造りで両側にニッチェがあるシンプルなバロック様式の建物はここ、アッシジでは少数派ですね。
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内部はギリシャ十字の形をしていて、奥行きが狭く、主祭壇に向かって左右に二つずつの礼拝堂があります。
のっけから内陣です。痛ましいフレスコ画が目を惹きました。中央に内臓を丸ごとえぐり取られている老人の姿が!
こちらはフランシスコ会修道士のフランダース地方での殉教の姿なのだそうです。 -
そして反対側には、1220年モロッコにおけるフランシスコ会修道士5人の殉教の様子が生々しく再現されていました。
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主祭壇です。なんと、祭壇画が外されて、真っ白い壁がむき出しになっています。主祭壇の絵がないというのは、初めて見ました。ここには「聖フランチェスコの夢」という絵が飾られているはずなのですが・・・
内陣のある場所は、幼いフランチェスコの寝室だった場所。祭壇画はまさにそれにふさわしい内容で、彼が十字のついた旗が沢山ある宮殿にいて、神のお告げを聞いた夢の場面が再現されているはずでした。
正直、がっかりしました・・・ -
お次の無原罪のお宿りに捧げる礼拝堂(主祭壇に向かって左側)にも、なぜか祭壇画がありませんでした。一体どうなっているんでしょう?
しかしながら、周りのフレスコは大変見事でした。ほとんどの作品が1621年、教会の完成当時のフレスコです。この教会で撮った写真はほとんどがフレスコ画です。 -
礼拝堂の左右の作品は、ジャコモ・ジョルゲッティによるもので、左側は「聖母の誕生」。
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右側は「エデンの園のアダムとイヴ」が描かれていました。イヴの足元に蛇がいるということは、これは禁断の果実を食べた後のこと?
これらのフレスコ画は、祭壇画の無原罪のお宿りを説明するものだったと思われます。すなわち、聖母、第二のイヴは、罪を持たずに生まれた・・・ -
パドヴァの聖アントニオの礼拝堂でも祭壇を写していない・・ということは、ここにも祭壇画がなかったのかしら?
左側のフレスコは、ジャコモ・ジョルゲッティの父で、同じく画家、建築家であるヴィンチェンツォ・ジョルゲッティの作品。
描かれているのはフランシスコ会修道士の殉教場面。主祭壇右側にもあったモロッコにおける1227年の殉教場面と・・・ -
こちら右側の舞台は何と長崎!! 26人のフランシスコ会、イエスズ会の会員たちが1597年に殉教した場面です。26人のうち、日本人は20人、スペイン人4人、メキシコ人、ポルトガル人がそれぞれ1人でした。日本にやってきたのはイエスズ会という先入観があったので、フランシスコ会も活動していたことに驚きました。本当に不勉強・・・
この26人の殉教については、以前メキシコのクエルナ・ヴァカの大聖堂で、長崎26聖人殉教壁画を見たことがあります。豊臣秀吉による長崎でのキリシタン迫害をつづった壁画で、エンペラドール(皇帝)タイコウサマの命令により・・・という碑文が残されていました。日本ではほとんど教科書でも扱っていないのに、この時殉教した26人はその後列聖されているんですね。 -
アッシジとは全く関係ありませんが、こちらがクエルナ・ヴァカ大聖堂の壁画です。出来の悪い写真ですが、上部にずらりと十字架が並んでいるのがお判りでしょうか? こちらは日本人を全く見たことがないメキシコ人(スペイン人?)が描いたもの。そして上は、日本人を全く見たことがないイタリア人が描いた日本の風景です。
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再び外に出て、サンタ・キアラ教会を目指します。途中の小さな城門をくぐった脇にこちらの噴水がありました。
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程なく到着したのが霧にむせぶサンタ・キアラ教会です。ファサード前はかなり大きなテラスになっていて、中央にはご覧の噴水(1872年アッティリオ・カンギ作)もありました。晴れた日であれば、テラスからの眺望も楽しむことが出来そうですが、今日は何も見えません。
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サンタ・キアラ教会は、キアラが亡くなった1253年の後程なく、以前からあったサン・ジョルジョ教会に隣接したこの地に建築を開始、1265年に完成を迎えました。1255年には教皇アレキサンデル4世により、キアラは列聖されています。
スパシオ山の赤と白の石灰岩を交互に並べて縞模様にしたファサードは、バラ窓と扉が一つずつという極めて簡素な造りです。 -
サンタ・キアラ教会は内部が撮影禁止だったため、ここで多くを伝えることが出来なくて残念です。アッシジではこれから行くサン・フランチェスコ聖堂も、サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会も撮影禁止だったため、結果として、天気の悪い日の暗い屋外の写真ばかりになってしまいました。
写真は中央扉です。ティンパヌムのフレスコが見えるでしょうか? 左右の高いところにライオンがいるのは珍しいですね。
キアラについては、ガイドブック等で紹介されているので、ここでは簡単な紹介に留めます。アッシジの裕福な家庭に生まれたキアラは1210年、前述のサン・ジョルジョ教会で初めてフランチェスコの説教を聞きます。そして、1212年、親が持ってきた結婚話から逃れるため、家出してフランチェスコの元を訪れ、修道生活に入りました。父親が娘を連れ戻しに来た際には、彼女は祭壇にしがみつき、キリスト以外の男性とは結婚しないと言い放ったと言います。
後にキアラはサン・ダミアーノ修道院で、清貧の女性修道会(後のキアラ会)を創立しています。そして多くの教えと励ましを受けた聖フランチェスコが病に倒れてから亡くなるまで献身的に看病を続けました。
フランチェスコの死後もキアラは自分の設立した修道会のセオリーを世の中に、教皇に発信し続けました。1253年、教皇インノケンティウス4世がキアラ会則を承認した2日後に、キアラは亡くなりました。 -
内部の印象は今ではすっかり薄れていますが、主祭壇にフィレンツェの教会でよく見た大きな十字架が吊り下げられているのを見て、「ああ、フィレンツェに近づいてきたな」と感じたのを覚えています。
教会を出て、外を巡った時に、建物の外側を支える3本のアーチを見つけました。いわゆるフライング・バットレスですが、こんな巨大なものを見るのは初めてで、少々驚きました。 -
教会の左側廊と左翼廊部分。あらゆるところが白とピンクの2色の石で装飾されています。
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サンタ・キアラ教会を出るとすぐあるこちらの門はアルコ・ディ・サンタ・キアラ。文字通り聖キアラのアーチです。城壁の延長部分として、1260年サンタ・キアラの修道院を守るために設けられました。
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真昼間なのに、ご覧のようにライトをつけて走ってくる車もありました。視界悪し。
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コムーネ広場に戻る間にあった土産屋さん。アッシジらしく、様々な形をした陶器製の聖水盤が並べられていました。
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一旦コムーネ広場に戻り、今度は町の反対側にあるサン・フランチェスコ聖堂を目指します。
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アッシジの町もスペッロ同様大変綺麗。町の隅々まで清掃が行き届いていて、イタリア人がボンボン投げ捨てるタバコの吸い殻一つ落ちていません。
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重厚感あふれるバロック様式の家。
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こういう古いアーチを見つけると、引き寄せられてしまいます。
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モノトーンに近い完璧な町並みです。道はゆったりとくねっていることが条件。
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アッシジでの最初の祠はサン・グレゴリオ通りにありました。フレスコが消えかかっていて、良く分かりませんね。
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狭い通りを車が行きかうので、なるべく車の通らない道を探して歩きます。
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こんな道ですれ違うなんて至難の業!
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あ〜あ。ちょっと広い道 ベルナルド・キンタヴァッレ通りに出てしまいました。
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尖頭アーチがいくつも重なるユニークな建物には、酒瓶がずらっと並んでいました。一杯、いやいっぱい飲ませるところですね。
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民家の門の上に乗っていたこれはなんだ?
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クリムトはスペッロでもアッシジでもオオモテです。
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ピアツェッタ・ガリバルディ。こんな小さなスペースも広場と呼ぶのが凄い! 右手の鐘楼が見えるところに古いフレスコの描かれた教会があったのですが、見逃してしまいました。オラトリオ・ディ・サン・フランチェスコという1429年創建の祈祷所です。
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フォンテヴェッラ通りを行きます。左手にアンティークなものがいろいろと並べられた面白い家がありました。
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晴れていれば、絶景かな?の景色が拝めるのですが・・・霧の中に小さく鐘楼が見えているのは、ベネディクト派の教会サンピエトロ寺院です。行く予定にしていたのだけれど、めげましたぁ・・・
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中央の赤いポールはアッシジのバス停です。但し、このバス停にはBのバスしか止まりません。
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なんとも個性的なお顔の持ち主が口から水を吐き出しています。聖水盤のような噴水ですね。顔の上にあるライオンのレリーフは古そうです。・・・この隣にはずっとまともなフォンテ・マルチェッラという噴水があったのですが写真なぜか撮らずじまい。
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アッシジの町の人々も、様々な工夫をして緑を楽しんでいます。古い石の壁に花や緑は映えますねえ。
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このお店のショーウインドーはなかなかユニークでしたよ。まじめなものが多いのですが、中には・・・
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こんな楽しいものもありました。生臭坊主ばっか・・・
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サン・フランチェスコ門までやって参りました。左奥に見える門はアッシジのメインゲートで、ペルージャへの道の出発点でもあります。
ここまで来たら、サン・フランチェスコ聖堂はもう直ぐです。 -
ここから道は再び上り坂になって、数多くの土産物店が軒を並べる門前町の賑わいとなります。といっても今日は寂しいけれど・・・
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サンタ・キアラ教会からゆっくりと道草しながら歩いて30分で、サン・フランチェスコ聖堂到着です。カトリック信者ではないけれど、胸が高まるのを覚えます。
細長いアッシジの町最西端の絶壁の上に鎮座するこの聖堂。アーチをくぐるとぱっと視界が開けるベストポジションに位置していますよ。
一番右に見えているのがゴシック様式で建てられている上部聖堂。この道をまっすぐ行ったところにあるのはロマネスクとゴシックが合わさった様式の下部聖堂です。 -
フランチェスコが亡くなった翌々年の1228年、教皇グレゴリウス9世は彼の聖遺物を収める新しい教会を建設することを発表、建設資金の寄付を募りました。3か月後にはフランチェスコの列聖を認め、その翌日には建設に取り掛かりました。
当時教皇と神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世は激しい対立の中にありましたが、聖堂は二人の仲が比較的良好だった1230年から39年の間に完成したようです。
教皇には当初から聖堂を下部と上部から成る複合施設にする構想があったようです。すなわち、下部聖堂は、フランチェスコの聖遺物を収めた主祭壇を敬慕する修道士、巡礼者用。そして上部聖堂は、教皇専用。グレゴリウス9世はなんと、付設の修道院の中に、豪華な宮殿までこしらえていたそうですよ。 -
下部聖堂前の広場の左右には、15世紀に作られたロッジアがあります。歴史のあるものではなさそうだけれど、壁が碑文が書いてあるパネルで覆われていた水飲み場。
雨なので、屋根のあるところがありがたい・・・ -
こちらも、ロッジアの壁面を飾っていた彫刻です。
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下部聖堂のファサードに到着です。大変複雑な建物で、この時点ではまだ構造が全く理解出来ていません。
中は撮影禁止なので、入る前に、ちょっくら周りを眺めてきましょう。 -
ファサードから眺められる鐘楼です。
鐘楼に最初の鐘が奉納されたのは1239年ですが、最初の鐘楼についていた尖塔部分は1530年に取り壊され、今見えているのはオリジナルではないそうです。中にはリミニの職人が作った7つの鐘が収められています。 -
上のアーチから中に入って眺めた鐘楼です。迫力ありますねえ。
鐘楼の先に出っ張っている部屋がありますが、こちらは聖具室。下の聖堂と上の聖堂の聖具室は階段でつながっています。鐘楼と左翼廊(一番奥のでっぱり)の間に1341年に作られました。秘密のお宝は鐘楼の1階部分に収納されていて、外からこのお宝部屋に入るためには、取り外し式の梯子が必要なのだそう。 -
こちらは、アーチから振り返って、アッシジの町の方向(東)を眺めた1枚。緩やかな傾斜のある道には、黒、灰色、白の3色のタイルが縞模様を作っています。
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一度中に入った私は、中の回り方が全く分からなかったために、ファサードに沿ってある建物の右側扉の中で、案内書を購入しました。中では、ほとんど全ての主要言語別に書かれた公式案内書を手に入れることが出来ます。勿論、日本語もありました。個人旅行者には必須アイテムですよ。
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下部聖堂のファサードというか、サイド・エントランスです。中央にあるバラ窓は、「世界で最も美しい教会の目」と呼ばれているんですって。今は扉が開いているので見えませんが、聖フランチェスコ、聖キアラ、聖アントニオ、聖ルドビコの生涯の物語が彫られている2枚の木製扉は、別々の作者が16世紀半ばに制作したものです。ファサード右側にも短めの鐘楼が見えますが、これは上部聖堂のためのものかしら?
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写真が1枚もないのは、あまりにも残念なので、購入した本から写した不鮮明な画像ですが、簡単にご紹介しますね。
こちらが下部聖堂の見取り図です。①が入口。中には雨だからなのか、アッシジ中の観光客が押し掛けたかと思うような混雑ぶりでした。普段の様子が分からないので、何とも言えませんが、購入したばかりの本を片手に回りました。 -
中央通路にあった、古い時代のフレスコで、状態はあまりよくありません。左側の壁にあった、小鳥への説教は、13世紀後半の無名の画家の作品ですが、私はジョットの同名の「有名な」作品よりこちらが好きです。
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主祭壇に向かって右側にあった、マグダラのマリアにささげる礼拝堂には、彼女の生涯からの場面がフレスコで表現されていましたが、ジョットの「我に触れるな」が光っていました。1310年の作品です。
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ひどい写真で済みません。雰囲気だけ味わってください。下部聖堂の主祭壇付近です。とにかくどちらを向いても、フレスコが降りかかってくるようで、めまいを感じました。
天井は余りに遠く、絵はあまりに小さく、望遠鏡がないと確認が難しい位でした。実際に行かないと視覚的、立体的な満足度は得られませんが、絵に関しては後でじっくり本で楽しんだ方が良いと感じました。 -
主祭壇の右天井には、ジョットとその弟子による、キリストの誕生に始まる聖書からのエピソードが描かれています。中世の文字の読めない人々が、ここにやってきて、壁や天井から聖書を学んだという史実が、実感できます。
写真はジョットの「十字架」。1310年代の作品です。 -
同じくジョットの「聖誕」。ぐるぐる巻きにされている赤ん坊の姿は、フィレンツェの捨て子養育院のファサードを思い起こさせます。
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そして、「エジプトへの逃避」です。
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好きな作品のみを並べております。バーリの聖ニコラにささげる礼拝堂に向かって右手にあったシモーネ・マルティーニの聖人画が目を惹きました。聖フランチェスコ、聖キアラを描いたものは沢山ありますが、個人的に思い描く二人にぴったりなのがこちら。
マルティーニ(1284年〜1344年)は、ゴシック期のシエナ出身の画家ですが、彼にかかわる文書がほとんど見当たらなく、常に学者の論争の的になっている人だそうです。
こちらの聖キアラは1322年から26年にかけての作品です。 -
聖フランチェスコ。わき腹と手には亡くなる2年前に受けたスティグマ(聖痕)の痕がはっきりと描かれています。
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主祭壇左側の天井で、一番美しいと感じたのは、こちらのピエトロ・ロレンツェッティ作の「夕日の聖母」。夕方になると、聖堂に夕日が差し込んで、この絵を明るく照らすことから名付けられたのだそうですが、夕日がなくても素晴らしい・・・
この絵の左にはフランチェスコ、右には福音記者聖ヨハネが描かれていましたが、聖母子だけの方がうんと良いので割愛。
チマブエの大傑作「幼きイエスを抱いて玉座に座る聖母」にも感動したのですが、適当な写真がなかったので、こちらも割愛。 -
下部礼拝堂の中は、ヴァチカンのシスティーナ礼拝堂とは雰囲気が異なりますが、額縁のない美術館のような場所。人がわさわさ、大声でしゃべる人、ガイドさんなどもいて、敬虔な気持ちになるどころか、落ち着かない気持ちになってしまったので、こちらの教皇シクストゥス4世の中庭に出てきたときにはなぜかほっとした気分でした。
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フランチェスコ聖堂の建設に当たっては、フランチェスコの弟子エリアが積極的にその指揮を取ったのですが、そのエリアが建設した1階部分に、200年以上たってからシクストゥス4世が2階部分を建て増しさせたので、「シクストゥス4世の中庭」と呼ばれています。
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見えているのは、上部聖堂の後陣です。左右についている階段を伝って、上部聖堂へと入ることが出来ます。
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風雨にさらされて、フレスコの状態ははっきり言って悪いです。
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上部聖堂へ行く間にあった、ジョヴァンニ・ディ・ピエトロの「天使たちに囲まれた玉座の聖母子」のテンペラ画です。1516年。
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こちらも、上部聖堂への通路にあった作品ですが、メモがないため作者が分かりません。
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この聖母の眼差し、どこかで見た記憶があるんだけれどなあ・・・
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上部聖堂の入り口付近にあった紋章です。また、写真が撮れなくなります。
上部聖堂の特徴は、陽の当たりにくい下部聖堂に比べて、明るく、建物の構造がすっきりとしています。グレゴリウス9世が聖堂を独占した時代にはまだチマブエやジョットのフレスコは描かれていませんでした。 -
上部聖堂の見取り図です。下部聖堂に比べて、身廊部分が細長く、後陣が、先ほど中庭から見た通り、多角形であることがお判りいただけますね。下部聖堂は後陣が半円形でした。
ここではジョットの作品だけ何点か紹介します。彼の作品は身廊部分にご覧の赤い番号の通り28枚並んでいます。 -
っとその前に、不鮮明な写真ですが、上部聖堂のイメージです。
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こちらは主祭壇右部分にあったジョットの「ユダの裏切り」。「ユダの接吻」と呼ばれることもありますね。
ジョットの作品では、パドヴァのスクロヴィーニ礼拝堂の同名作品の方が有名なようです。 -
身廊壁に描かれた28枚のフレスコは、聖フランチェスコの生涯からの主な場面です。本当にジョット作なのか…という論争もあるそうですが、ここで触れても仕方ありませんから、ジョットと信じて見て回ることにしました。
こちらは、アッシジのサン・ダミアーノ教会で祈っていたフランチェスコに、右に見える十字架が三度、「行って、私の教会を建て直しなさい。私の教会は壊れかけている!」と伝えた場面。私の教会とは、カトリック全教会を指すと、解説書には書かれていました。 -
世俗を捨て、着ていたものをすべて父親に渡したフランチェスコはこう叫びます。「ペトロ・ベルナルドーネ(父親の名前)が私を勘当したので、これからは天にいらっしゃる方をわれらが父よと、確信を持って呼びかけることが出来ます。」
先ほど訪れたヌオヴァ教会前で、放心したようにたたずんでいたフランチェスコの両親の像が浮かんできます。 -
アレッツォの町に巣喰っていた悪魔を見たフランチェスコは、弟子の一人で神父のシルベストロに命じて、悪魔祓いをさせました。
シルベストロが街の門から大声で叫ぶと、悪魔達は即座に逃げだし、アレッツォの街に平和が戻ったのです。 -
ジョット版「小鳥に説教をするフランチェスコ」。ベヴァーニャという町に行く途中、フランチェスコが小鳥たちに説教を始めた場面です。
小鳥たちが喜び、羽ばたき、フランチェスコの服をついばんだりするのを、同行の会員が目撃しました。
これも彼の行った奇跡の一つに入っているのかしら??? -
ベルナ山で祈るフランチェスコの前に、キリストが熾天使(セラフィム)の姿で現れ、その両手両足わき腹から光が発せられ、フランチェスコにキリストと同じ傷跡が印されました。いわゆる「フランチェスコのスティグマ(聖痕)」と呼ばれる場面です。
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フランチェスコの死。彼から抜け出した聖魂が、輝く星の姿の元に、天に上っていくのを、弟子の一人が目撃したそうです。フランチェスコ45歳。1224年10月3日のことでした。
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28の場面のうち、最後のピックアップは、聖キアラとの対面のシーンです。フランチェスコの亡骸は人々によりアッシジの町に運ばれて、キアラのいるサン・ダミアーノ修道院に立ち寄りました。
ということは、背後の教会はサン・ダミアーノ修道院の教会かしら? 話は変わりますが、左手に見える木に上る修道士、彼は一体何をしているのでしょう? -
上部聖堂から外に出てまいりました。霧が晴れてきたのか、今頃になって、アッシジの一番高い場所にあるロッカ・マッジョーレの一部が見えてきました。
上部聖堂に続く緑の芝生の上には、トリアピーで作られた平和を意味する大きなPAXの3文字が、そして、ここからだと見えにくいなあ・・・芝生の右奥に黒っぽい彫刻が見えますが、こちらが、スペッロ出身の画家ノルベルトが制作した「フランチェスコの帰還」という彫刻です。
訪れた時には、彼の彫刻がアッシジにあることを全く知りませんでした。ガックリ・・・ -
雨はだいぶ小降りにはなりましたが、まだしつこく降っています。上部聖堂前から、下部聖堂前の広場、そしてその先に広がるウンブリアの平野が、ここに着いた頃よりははっきりと見えだしました。
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上部聖堂の全貌です。レンガ造りのシンプルなファサードは、二本のエンタブラチュアによって3つの部分に分かれています。
中央のバラ窓は、4人の福音記者たちのシンボルが周りを取り囲んでいます。
中央の扉は、下部聖堂と同じ造りですね。巡礼者たちが出入りしやすいように設計されたと書かれていました。 -
もう、そろそろ暇を告げる時刻です。
さよなら アッシジ。次回は天気の良い日を選んで来ることにしますよ。時間が限られていたこともあり、思ったような町歩きが全くできなかったのが心残りでした。
2時間に1本しかない普通列車で、フォリーニョに帰るために早めにバス乗り場に急ぎます。 -
でも、もう一つだけ、どうしても見たい場所がありました。ポルツィウンクラです。フランチェスコが最初に11人の会員達と一緒に住んだ場所は、アッシジの中心地から4kmほど離れた場所リヴォトルトでしたが、そこを追い出されたフランチェスコ達が移った先が、ポルツィウンクラと呼ばれる小聖堂でした。元々その聖堂はベネディクト会の持ち物でしたが、フランチェスコらは年にかご1杯の魚という賃料で、1207年にこれを借り受けたのです。ここは、フランチェスコがこよなく愛した聖堂で、キアラが最初に修道服を手渡された場所、そして彼が最後を迎えた場所でもあります。
現在、その小さな聖堂は、サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会になっているとのことなので、バスで駅に着いた際、車掌さんに教会の所在地を尋ねると、「このまま乗っていろ」との返事。駅が終点じゃあなかったんだ! 聞いてよかった!
ところがです。それからバスは全く見当違いの郊外の村へと走りだし、20分たってもサンタ・マリア・デッリ・アンジェリには着きそうもありません。「参ったなぁ」・・・
ようやく、車掌さんが「ここだよ!」と降ろしてくれた時には、列車の出発時刻まであと15分に迫っていました。ちょうどこの辺りで降ろされました。駅までは歩いて5分位とのこと。それなら、駅で降りたのに・・・尋ねたことがかえって仇となりました。取り急ぎ走ります。 -
サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会は、9世紀に作られた、小さなポルツィウンクラ聖堂を包み込むように1569年から1679年にかけてマニエリスム様式で建てられました。長い工期は主として建築費不足によるものです。こちらも小さな教会と思いきや、とんでもない広さ! 世界で7番目に大きい教会なのだそうです。それはそれはお金がかかったことでしょう・・・右側の鐘楼は1684年に完成。当初は左側にも建設予定でしたが、建つことはありませんでした。
教会の入口にはまたしても、無情な言葉が・・・「撮影禁止」そうでしょうね。では一目見るだけ。 -
というわけで、ハアハアゼエゼエ言いながら中に入ります。
身廊の彼方に建っていた「ポルツィウンクラ」を一目見て、私は不謹慎ながら、「ヘンデルとグレーテルのお菓子の家」を思い浮かべてしまいました。不自然に可愛いのです。バロック様式の大きな教会の真ん中にぽつんと砂糖菓子で作られたミニチュアの家が置かれているというイメージでした。
何世紀にもわたって、内外をフレスコで装飾され、多分貧相だったに違いない聖堂は妙にあか抜けてしまって、フランチェスコの思いとは別の方向に走ってしまったような気がします。外壁は、1829年にヨハン・フリードリッヒ・ボーヴェルベックにより描かれたフレスコ「アッシジの悔悛」です。
本当に一目だけ見て、それからまた、駅までの道を走り続けました。どのみち、アッシジにはまた来なくてはならないという思いがありましたから、教会の詳細については、次回の楽しみとしました。
(こちらの写真は再び、アッシジの解説書からの1枚です。) -
5分よりは時間がかかりましたが、駅まではそんなに遠くありませんでした。駅舎とは反対側なので、途中で踏切を渡ります。写真中央にサンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会のクーポラと鐘楼が写っています。この場所から2分ほどで駅に到着します。
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せっかく頑張ったのに、今日のトレンイタリアは、しゃーしゃーと遅れておいでです。もう少しゆっくり歩けば良かった。
ともあれ、間に合ったのだから文句はありません。雨にたたられましたが、スペッロとアッシジ、どちらも大満足の1日となりました。
この続きは、イタリア あっちも! こっちも! と欲張りなたび その55 トレヴィで
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この旅行記へのコメント (2)
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- フィーコさん 2017/04/10 21:17:24
- サンタ・キアーラ聖堂
- junemayさん こんばんは
はじめまして。
イタリア、いろいろな都市に行かれているのですね。
つまみ読みさせていただいています。
2月にツアーでアッシジへ行きました。
ツアーなので案内される所だけ と思っていたのですが コムーネ広場で15分の自由行動があり サンタ・キアーラ聖堂に走りました。
が、扉が閉じていて中に入ることが出来ませんでした。写真撮影禁止だったのですね。
帰り、ヌオーヴァ教会に入ったのですが主祭壇がjunemayさんの写真とは違っていました。祭壇画はありませんでしたけどね。
何せ15分でしたので走りまくりでした。
サンタ・キアーラ聖堂はやっぱり質素でしたか?
また、立ち寄らせて頂きます。
フィーコ
- junemayさん からの返信 2017/04/11 14:25:04
- RE: サンタ・キアーラ聖堂
- フィーコさん 初めまして
junemayです。私のつたない旅行記をお読みいただいた上、沢山の「いいね」をいただきまして、ありがとうございました。
そうでしたか。ヌオーヴァ教会の主祭壇があまりにも貧弱だったので、ネットで調べてみたら祭壇画がないことに気が付きました。多分修復していた、あるいは貸し出されていたのではないかと思います。
私の記憶力は貧弱なもので、写真のない場所、撮影禁止だった場所の記憶の多くはもはや消え去ろうとしています。サンタ・キアラについても旅行記を書いた時点ですらあやふやだったので、今となっては???です。でも下界を見渡せるロケーションにあったので、お天気が良ければ素晴らしい眺望が得られたのではないかしら?
アッシジも再訪したいのですが、いつのことになるやらですね。
またのおいでをお待ちしております。ありがとうございました。
junemay
> junemayさん こんばんは
>
> はじめまして。
>
> イタリア、いろいろな都市に行かれているのですね。
> つまみ読みさせていただいています。
>
> 2月にツアーでアッシジへ行きました。
> ツアーなので案内される所だけ と思っていたのですが コムーネ広場で15分の自由行動があり サンタ・キアーラ聖堂に走りました。
> が、扉が閉じていて中に入ることが出来ませんでした。写真撮影禁止だったのですね。
> 帰り、ヌオーヴァ教会に入ったのですが主祭壇がjunemayさんの写真とは違っていました。祭壇画はありませんでしたけどね。
> 何せ15分でしたので走りまくりでした。
> サンタ・キアーラ聖堂はやっぱり質素でしたか?
> また、立ち寄らせて頂きます。
>
> フィーコ
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