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山口市は、室町時代に愛妻家で知られる大内弘世が京都から陰陽師を招き、四神に則り、一の坂川を京の鴨川に見立てて街づくりを行いました。それ故に今も「西の京」と呼ばれ、街のあちらこちらにその風情を湛えています。<br />山口盆地の山裾にひっそりと寄り添った瑠璃光寺の境内に聳える五重塔の由緒は、少々複雑です。瑠璃光寺の境内は、元は大内義弘が創建した香積寺(こうしゃくじ)があった場所です。南北朝統一に尽力して義弘が守護大名に命じられ大内氏興隆の礎を築くと、これを苦々しく思った足利義満が大内氏取潰し謀略を画策しました。義弘は、それに対抗して1399(応永6)年に応永の乱を起こすも幕府軍によって敗死しました。家督を継いだ弟 盛見が、兄の菩提を弔おうと香積寺の境内に往時の技術の粋を集めて計画したのがこの五重塔です。しかし、1431(永享3)年、盛見は九州の大友氏との戦いで五重塔の完成を見ずに戦没しました。その後、着工から30年以上もの間建造が続けられ、1442(嘉吉2)年に完成しています。<br /><br />瑠璃光寺は香山公園の一画になります。公園のマップです。<br />http://choshuen.co.jp/wp-content/uploads/2013/11/e8b565bffe377e30e70e937418ffc869.pdf<br /><1日目><br />新大阪駅(新幹線)===福山駅---錦帯橋(昼食+散策)<br />---津和野(案内人と一緒に散策)---萩グランドホテル天空<br /><2日目><br />萩グランドホテル天空---松陰神社(ボランティアの方と一緒に散策)<br />---旧萩藩校明倫館(同じ)---萩城下町(同じ)<br />---蒲鉾店(ショッピング)---海鮮村北長門(昼食)<br />---青海島(クルーズコース・島上陸コース・金子みすゞ記念館コースから選択)<br />---秋吉台---瑠璃光寺---湯本観光ホテル西京(オプション:大谷山荘宿泊)<br /><3日目><br />湯本観光ホテル西京---宮島口===宮島(昼食+散策:3時間)===宮島口<br />---尾道===千光寺公園(ロープウェイ)---千光寺公園(山頂)<br />---福山駅(新幹線)===新大阪駅

早春賦 西国放浪記⑧瑠璃光寺

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2016/03/03 - 2016/03/05

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

山口市は、室町時代に愛妻家で知られる大内弘世が京都から陰陽師を招き、四神に則り、一の坂川を京の鴨川に見立てて街づくりを行いました。それ故に今も「西の京」と呼ばれ、街のあちらこちらにその風情を湛えています。
山口盆地の山裾にひっそりと寄り添った瑠璃光寺の境内に聳える五重塔の由緒は、少々複雑です。瑠璃光寺の境内は、元は大内義弘が創建した香積寺(こうしゃくじ)があった場所です。南北朝統一に尽力して義弘が守護大名に命じられ大内氏興隆の礎を築くと、これを苦々しく思った足利義満が大内氏取潰し謀略を画策しました。義弘は、それに対抗して1399(応永6)年に応永の乱を起こすも幕府軍によって敗死しました。家督を継いだ弟 盛見が、兄の菩提を弔おうと香積寺の境内に往時の技術の粋を集めて計画したのがこの五重塔です。しかし、1431(永享3)年、盛見は九州の大友氏との戦いで五重塔の完成を見ずに戦没しました。その後、着工から30年以上もの間建造が続けられ、1442(嘉吉2)年に完成しています。

瑠璃光寺は香山公園の一画になります。公園のマップです。
http://choshuen.co.jp/wp-content/uploads/2013/11/e8b565bffe377e30e70e937418ffc869.pdf
<1日目>
新大阪駅(新幹線)===福山駅---錦帯橋(昼食+散策)
---津和野(案内人と一緒に散策)---萩グランドホテル天空
<2日目>
萩グランドホテル天空---松陰神社(ボランティアの方と一緒に散策)
---旧萩藩校明倫館(同じ)---萩城下町(同じ)
---蒲鉾店(ショッピング)---海鮮村北長門(昼食)
---青海島(クルーズコース・島上陸コース・金子みすゞ記念館コースから選択)
---秋吉台---瑠璃光寺---湯本観光ホテル西京(オプション:大谷山荘宿泊)
<3日目>
湯本観光ホテル西京---宮島口===宮島(昼食+散策:3時間)===宮島口
---尾道===千光寺公園(ロープウェイ)---千光寺公園(山頂)
---福山駅(新幹線)===新大阪駅

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
カップル・夫婦
交通手段
観光バス 新幹線
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行あり)

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  • 瑠璃光寺<br />長州苑の駐車場から徒歩1分程で瑠璃光寺の入口に辿り着きます。<br />境内は香山公園となっていて、「日本の歴史公園100選」にも選ばれています。

    瑠璃光寺
    長州苑の駐車場から徒歩1分程で瑠璃光寺の入口に辿り着きます。
    境内は香山公園となっていて、「日本の歴史公園100選」にも選ばれています。

  • 瑠璃光寺 五重塔(国宝)<br />現存する大小69塔ある(江戸時代以前の五重塔は22塔)五重塔の中で10番目に古く、その美しさは日本3名塔のひとつと称され、室町時代中期における最も秀でた建造物と評されています。人によっては総合的に見て日本で一番美しい五重塔とも称されますが、観る者に感動を与える塔であることは間違いありません。 <br />瑠璃光寺五重塔の特筆すべき点は、日本庭園の中に塔が聳え立つ点にあり、他にはない際立った特徴です。塔の前にある池や借景の緑深い山々と共に一幅の絵画のような美しさと荘厳さは圧巻です。

    瑠璃光寺 五重塔(国宝)
    現存する大小69塔ある(江戸時代以前の五重塔は22塔)五重塔の中で10番目に古く、その美しさは日本3名塔のひとつと称され、室町時代中期における最も秀でた建造物と評されています。人によっては総合的に見て日本で一番美しい五重塔とも称されますが、観る者に感動を与える塔であることは間違いありません。
    瑠璃光寺五重塔の特筆すべき点は、日本庭園の中に塔が聳え立つ点にあり、他にはない際立った特徴です。塔の前にある池や借景の緑深い山々と共に一幅の絵画のような美しさと荘厳さは圧巻です。

  • 瑠璃光寺 雪舟像<br />水墨画家 雪舟の銅像があります。<br />雪舟は、備中の国、今の岡山県総社市に生まれて宝福寺で幼い頃に修行をしていました。40歳頃から亡くなる87歳までの間は、中国に渡航して修行をしていた時期を除いてこの山口で過ごしたそうです。<br />雪舟は、最高傑作「四季山水図(山水長巻)」をはじめ、「破墨山水図」「天橋立図」など数々の名作を描き、水墨画家として揺るぎない地位を築きました。また、それらの代表作のほとんどは、この山口で描いています。<br />雪舟は、明で禅学や画技を収めて帰国後、応仁の乱で荒廃した京都を避け、大内氏の庇護の下、山口天花にある「雲谷庵」を拠点に活躍しました。<br />銅像の傍らに立つて後方の山裾をよく見ると雪舟のアトリエ「雲谷庵」があります。

    瑠璃光寺 雪舟像
    水墨画家 雪舟の銅像があります。
    雪舟は、備中の国、今の岡山県総社市に生まれて宝福寺で幼い頃に修行をしていました。40歳頃から亡くなる87歳までの間は、中国に渡航して修行をしていた時期を除いてこの山口で過ごしたそうです。
    雪舟は、最高傑作「四季山水図(山水長巻)」をはじめ、「破墨山水図」「天橋立図」など数々の名作を描き、水墨画家として揺るぎない地位を築きました。また、それらの代表作のほとんどは、この山口で描いています。
    雪舟は、明で禅学や画技を収めて帰国後、応仁の乱で荒廃した京都を避け、大内氏の庇護の下、山口天花にある「雲谷庵」を拠点に活躍しました。
    銅像の傍らに立つて後方の山裾をよく見ると雪舟のアトリエ「雲谷庵」があります。

  • 瑠璃光寺 若山牧水の石碑<br />1907(明治40)年、若山牧水が21歳の時に東京から宮崎県に帰省の途中にこの地を訪れ、「はつ夏の 山のなかなるふる寺の 古塔のもとに立てる旅人」と詠った塔がこの五重塔です。

    瑠璃光寺 若山牧水の石碑
    1907(明治40)年、若山牧水が21歳の時に東京から宮崎県に帰省の途中にこの地を訪れ、「はつ夏の 山のなかなるふる寺の 古塔のもとに立てる旅人」と詠った塔がこの五重塔です。

  • 瑠璃光寺 司馬遼太郎『街道をゆく』(長州路より)の石碑<br />「長州は、いい塔を持っている」と司馬遼太郎に言わしめた五重塔を讃える石碑です。<br />「(長州は、いい塔をもっている)と、惚れぼれするおもいであった。長州人の優しさというものは、山口に八街九陌をつくった大内弘世や、ザビエルを保護した義隆などの大内文化を知らねばわからないような気もする」と刻まれています。

    瑠璃光寺 司馬遼太郎『街道をゆく』(長州路より)の石碑
    「長州は、いい塔を持っている」と司馬遼太郎に言わしめた五重塔を讃える石碑です。
    「(長州は、いい塔をもっている)と、惚れぼれするおもいであった。長州人の優しさというものは、山口に八街九陌をつくった大内弘世や、ザビエルを保護した義隆などの大内文化を知らねばわからないような気もする」と刻まれています。

  • 瑠璃光寺 五重塔<br />香積寺の境内に建立された五重塔が瑠璃光寺の所属となったのは、江戸時代のことでした。瑠璃光寺は、大内家筆頭家老 陶弘房(すえひろふさ)が応仁の乱で戦没した際、その菩提を弔うため、その夫人 妙栄大姉が1471(文明3)年に実家の山口市仁保に建立した安養寺が始まりです。その後、瑠璃光寺と名を改め、やがてこの地に移されました。<br />一方、大内義弘の菩提寺だった香積寺は、毛利氏の萩への移封に伴い引寺し、毛利氏別邸の用材となりました。戦国時代、義隆が自刃して果てるまでの200年31代続いた大内氏は、陶晴賢(はるかた)のクーデターをきっかけに毛利元就によって瓦解しました。その後毛利氏は中国地方を治めるも、関ヶ原の戦いで西軍総大将に担がれて敗北し、萩に減封されたのです。この時、五重塔も移築されるはずでしたが、地元の人々の存置の嘆願書により、奇跡的にこの地に残されました。往時の町民の行動としては珍しく、また、その嘆願が聞き届けられたことも奇跡とされ、五重塔に対する地元の人の愛情と誇りが察せられる逸話と言えます。その後、瑠璃光寺が移って来るまでは、五重塔は寺なき後の田圃の真中に80年以上もポツンと寂しく建っていたそうです。

    瑠璃光寺 五重塔
    香積寺の境内に建立された五重塔が瑠璃光寺の所属となったのは、江戸時代のことでした。瑠璃光寺は、大内家筆頭家老 陶弘房(すえひろふさ)が応仁の乱で戦没した際、その菩提を弔うため、その夫人 妙栄大姉が1471(文明3)年に実家の山口市仁保に建立した安養寺が始まりです。その後、瑠璃光寺と名を改め、やがてこの地に移されました。
    一方、大内義弘の菩提寺だった香積寺は、毛利氏の萩への移封に伴い引寺し、毛利氏別邸の用材となりました。戦国時代、義隆が自刃して果てるまでの200年31代続いた大内氏は、陶晴賢(はるかた)のクーデターをきっかけに毛利元就によって瓦解しました。その後毛利氏は中国地方を治めるも、関ヶ原の戦いで西軍総大将に担がれて敗北し、萩に減封されたのです。この時、五重塔も移築されるはずでしたが、地元の人々の存置の嘆願書により、奇跡的にこの地に残されました。往時の町民の行動としては珍しく、また、その嘆願が聞き届けられたことも奇跡とされ、五重塔に対する地元の人の愛情と誇りが察せられる逸話と言えます。その後、瑠璃光寺が移って来るまでは、五重塔は寺なき後の田圃の真中に80年以上もポツンと寂しく建っていたそうです。

  • 瑠璃光寺 五重塔<br />1690(元禄3)年に香積寺跡地に瑠璃光寺が移されてきました。ですから、瑠璃光寺は陶弘房の菩提寺であり、本尊は弘房念持仏の薬師如来像となります。<br />一方、五重塔には阿弥陀如来像と共に大内義弘のブロンズ像を祀り、大内家繁栄の象徴でもあります。町外れの山麓にあって、昔日の栄華を偲ぶ象徴として風雪に晒されながらも、崩落することも焼失することもなくその建築美を保ち得たのは、この地に住む人たちの大内氏に寄せる熱い想いが塔を守り続けて来たことの証と言えます。<br />陶弘房は、大内義隆を倒した陶隆房の曽祖父に当たります。しかし、陶氏も元は大内家16代盛房の弟 盛長が祖ですから、大内家の一族です。一族同士が争い、やがては両家とも滅び、栄華を象徴する五重塔だけが残されたのです。大内家の菩提寺 香積寺の跡地に陶氏の菩提寺瑠璃光寺が移ったのは、時代を超えて大内一族に戻されたとも思えます。

    瑠璃光寺 五重塔
    1690(元禄3)年に香積寺跡地に瑠璃光寺が移されてきました。ですから、瑠璃光寺は陶弘房の菩提寺であり、本尊は弘房念持仏の薬師如来像となります。
    一方、五重塔には阿弥陀如来像と共に大内義弘のブロンズ像を祀り、大内家繁栄の象徴でもあります。町外れの山麓にあって、昔日の栄華を偲ぶ象徴として風雪に晒されながらも、崩落することも焼失することもなくその建築美を保ち得たのは、この地に住む人たちの大内氏に寄せる熱い想いが塔を守り続けて来たことの証と言えます。
    陶弘房は、大内義隆を倒した陶隆房の曽祖父に当たります。しかし、陶氏も元は大内家16代盛房の弟 盛長が祖ですから、大内家の一族です。一族同士が争い、やがては両家とも滅び、栄華を象徴する五重塔だけが残されたのです。大内家の菩提寺 香積寺の跡地に陶氏の菩提寺瑠璃光寺が移ったのは、時代を超えて大内一族に戻されたとも思えます。

  • 瑠璃光寺 五重塔<br />瑠璃光寺に受け継がれた五重塔は、大内文化の最高傑作と称され、建築史家 近藤豊氏が斑鳩 法隆寺、京都 醍醐寺と共に「日本の三大塔」と賞賛したことでも知られています。植生豊かな庭園の中に聳え立つその姿は、極めてスリムで流麗なシルエットを描いています。高さ31.2mある割に初層の幅は5mと塔身が細く、また屋根の軒が深いのと初層の高さが5mと高いのも、塔を均整の取れたプロポーションに見せる仕掛けです。専門的に言えば、逓減率0.68であり、法隆寺五重塔の0.5より大きく、先細りの度合いが強調されています。因みに、醍醐寺五重塔は、これらの中間の0.61となっています。<br />初層には高欄のない切目縁、二層には高欄付きの縁を巡らしていますが三層以上には縁がありません。通常、五重塔は各層に高欄が巡らされますが、二層目だけというのは稀有な例です。また、初層の両脇間には盲連子(めくられんじ)が嵌められていますが、二層以上の脇間には見られず、層毎に意匠を凝らしています。

    瑠璃光寺 五重塔
    瑠璃光寺に受け継がれた五重塔は、大内文化の最高傑作と称され、建築史家 近藤豊氏が斑鳩 法隆寺、京都 醍醐寺と共に「日本の三大塔」と賞賛したことでも知られています。植生豊かな庭園の中に聳え立つその姿は、極めてスリムで流麗なシルエットを描いています。高さ31.2mある割に初層の幅は5mと塔身が細く、また屋根の軒が深いのと初層の高さが5mと高いのも、塔を均整の取れたプロポーションに見せる仕掛けです。専門的に言えば、逓減率0.68であり、法隆寺五重塔の0.5より大きく、先細りの度合いが強調されています。因みに、醍醐寺五重塔は、これらの中間の0.61となっています。
    初層には高欄のない切目縁、二層には高欄付きの縁を巡らしていますが三層以上には縁がありません。通常、五重塔は各層に高欄が巡らされますが、二層目だけというのは稀有な例です。また、初層の両脇間には盲連子(めくられんじ)が嵌められていますが、二層以上の脇間には見られず、層毎に意匠を凝らしています。

  • 瑠璃光寺 大内弘世の銅像<br />山門の左正面辺りに大内氏24代当主 弘世の馬上姿像があります。<br />広世は、周防・長門・石見の守護で、本拠を大内館から山口へ移転しました。室町時代の山口を中心とする文化は大内文化と呼ばれ、弘世が「西の京」として京の都をモデルに街づくりを行い、現在の山口市の礎を築きました。弘幸の子で、義弘、満弘、盛見、弘茂らの父に当たります。<br />

    瑠璃光寺 大内弘世の銅像
    山門の左正面辺りに大内氏24代当主 弘世の馬上姿像があります。
    広世は、周防・長門・石見の守護で、本拠を大内館から山口へ移転しました。室町時代の山口を中心とする文化は大内文化と呼ばれ、弘世が「西の京」として京の都をモデルに街づくりを行い、現在の山口市の礎を築きました。弘幸の子で、義弘、満弘、盛見、弘茂らの父に当たります。

  • 瑠璃光寺 <br />塔の前に広がる香山公園は、梅が満開でした。<br />参道は、早春は梅、春には桜、梅雨時には紫陽花、秋には山茶花、冬には雪と四季折々の風情が演出されます。<br />

    瑠璃光寺
    塔の前に広がる香山公園は、梅が満開でした。
    参道は、早春は梅、春には桜、梅雨時には紫陽花、秋には山茶花、冬には雪と四季折々の風情が演出されます。

  • 瑠璃光寺 うぐいす張りの石畳<br />五重塔を満喫した後は、毛利氏の墓所へ向かいます。人が多いとうぐいす張りの石畳が順番待ちになるからです。大内弘世公像から歩いて数分の距離にあります。<br />この石畳の奥が毛利家墓所です。石畳の上に白い印がある所に立ち、手を叩いてみて下さい。その音が前方の石垣や石段に反響して美しい音色をだす仕組みになっています。「キュ」というか、「ワァン」というような音が反響して返ってきます。<br />人為的に作られたものではなく、めったに体験できるものではないので、神秘性を秘めています。

    瑠璃光寺 うぐいす張りの石畳
    五重塔を満喫した後は、毛利氏の墓所へ向かいます。人が多いとうぐいす張りの石畳が順番待ちになるからです。大内弘世公像から歩いて数分の距離にあります。
    この石畳の奥が毛利家墓所です。石畳の上に白い印がある所に立ち、手を叩いてみて下さい。その音が前方の石垣や石段に反響して美しい音色をだす仕組みになっています。「キュ」というか、「ワァン」というような音が反響して返ってきます。
    人為的に作られたものではなく、めったに体験できるものではないので、神秘性を秘めています。

  • 瑠璃光寺 香山墓地<br />山林を背にして広大な敷地に整然と配置され、その規模の大きさと荘厳さに吃驚です。1981年に国の史跡に指定されたお墓です。<br />この墓地は、萩藩主 毛利本家の墓所で、13代敬親公が明治維新目前の文久年間に居城を萩から山口に移し、それ以降の墓地として使用するために造成したものです。明治維新以降の13代敬親、14代元徳、15代元昭の三公と各夫人及び毛利家歴代諸霊の7基の墓があります。向かって左から、元徳、敬親、元昭、歴代諸霊の順です。<br />中央の13代敬親公夫妻の墓は高さ1.8m、直径5.8mの饅頭型の墓で、前面には墓石があり、贈従一位大江朝臣敬親卿墓と刻してあります。長州藩に限ったことではありませんが、藩政府の人事は恒常的に階級であり、門閥を重視して慣習的に行われ、特に功績があった場合を除いては昇格、登用されることはありませんでした。そんな中、敬親は、時勢の流れを察して人材育成を奨励し、実力主義を採用した藩主でした。その中には、山縣小輔(有朋)や伊藤俊輔(博文)らがいます。<br />萩市所在の墓所は五輪塔・笠塔婆形であるのに対し、この墓所だけは土饅頭の前面に墓石を立てる形式をとるのが特徴です。

    瑠璃光寺 香山墓地
    山林を背にして広大な敷地に整然と配置され、その規模の大きさと荘厳さに吃驚です。1981年に国の史跡に指定されたお墓です。
    この墓地は、萩藩主 毛利本家の墓所で、13代敬親公が明治維新目前の文久年間に居城を萩から山口に移し、それ以降の墓地として使用するために造成したものです。明治維新以降の13代敬親、14代元徳、15代元昭の三公と各夫人及び毛利家歴代諸霊の7基の墓があります。向かって左から、元徳、敬親、元昭、歴代諸霊の順です。
    中央の13代敬親公夫妻の墓は高さ1.8m、直径5.8mの饅頭型の墓で、前面には墓石があり、贈従一位大江朝臣敬親卿墓と刻してあります。長州藩に限ったことではありませんが、藩政府の人事は恒常的に階級であり、門閥を重視して慣習的に行われ、特に功績があった場合を除いては昇格、登用されることはありませんでした。そんな中、敬親は、時勢の流れを察して人材育成を奨励し、実力主義を採用した藩主でした。その中には、山縣小輔(有朋)や伊藤俊輔(博文)らがいます。
    萩市所在の墓所は五輪塔・笠塔婆形であるのに対し、この墓所だけは土饅頭の前面に墓石を立てる形式をとるのが特徴です。

  • 瑠璃光寺 枕流亭<br />江戸時代末期に建立された14坪ほどの旧家です。2階の丸窓や欄干に昔日の面影が偲ばれます。安部半助方の離れ座敷として使われていた建屋で、往時は一の坂川の河畔にあったことからこの名が付けられました。<br />

    瑠璃光寺 枕流亭
    江戸時代末期に建立された14坪ほどの旧家です。2階の丸窓や欄干に昔日の面影が偲ばれます。安部半助方の離れ座敷として使われていた建屋で、往時は一の坂川の河畔にあったことからこの名が付けられました。

  • 瑠璃光寺 枕流亭<br />幕末には七卿落ちや禁門の変(蛤御門の変)などで対立していた長州藩と薩摩藩ですが、1866年に坂本龍馬の仲介で倒幕を目指した薩長同盟が結ばれました。その後、出兵を協議するため、ここの2階の奥の部屋で薩摩藩の重臣 西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀と長州藩 木戸孝允(桂小五郎)、広沢真臣、品川弥二郎、伊藤博文などが密議をしたと伝わります。<br />日本史のターニングポイントの舞台となった重要な場所と言えます。<br />

    瑠璃光寺 枕流亭
    幕末には七卿落ちや禁門の変(蛤御門の変)などで対立していた長州藩と薩摩藩ですが、1866年に坂本龍馬の仲介で倒幕を目指した薩長同盟が結ばれました。その後、出兵を協議するため、ここの2階の奥の部屋で薩摩藩の重臣 西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀と長州藩 木戸孝允(桂小五郎)、広沢真臣、品川弥二郎、伊藤博文などが密議をしたと伝わります。
    日本史のターニングポイントの舞台となった重要な場所と言えます。

  • 瑠璃光寺 枕流亭<br />内部にも入ることができます。1階はギャラリーになっており、明治維新で活躍した人物の顔写真がパネル展示されていますが、時間がないため素通りです。<br />1871(明治4)年にも西郷は岩倉具視と共に山口を訪れ、この枕流亭を宿としました。因みに、2016年は薩長同盟150年の節目に当たります。1960(昭和35)年に改修されてこの地に移築されています。<br />2階は往時のまま残され、瑠璃光寺五重塔が樹木の間から見えます。2階の畳の上で胡坐をかき、江戸末期の密談風景を想像しながら、600年前の五重塔を眺めていると何故か不思議な気分になります。明治(沈流亭)と安土桃山時代(五重塔)の両方を満喫できる贅沢な空間です。

    瑠璃光寺 枕流亭
    内部にも入ることができます。1階はギャラリーになっており、明治維新で活躍した人物の顔写真がパネル展示されていますが、時間がないため素通りです。
    1871(明治4)年にも西郷は岩倉具視と共に山口を訪れ、この枕流亭を宿としました。因みに、2016年は薩長同盟150年の節目に当たります。1960(昭和35)年に改修されてこの地に移築されています。
    2階は往時のまま残され、瑠璃光寺五重塔が樹木の間から見えます。2階の畳の上で胡坐をかき、江戸末期の密談風景を想像しながら、600年前の五重塔を眺めていると何故か不思議な気分になります。明治(沈流亭)と安土桃山時代(五重塔)の両方を満喫できる贅沢な空間です。

  • 瑠璃光寺 枕流亭<br />かつて天井には雲龍の絵があったそうですが、そこまでは復元されていないようです。「血天井」の云われはないのですが、手の跡のようなものが天井板に窺えます。<br />この天井自体、後世に張り替えられたものですので、ロールシャッハ・テストのようなものではないかと思います。

    瑠璃光寺 枕流亭
    かつて天井には雲龍の絵があったそうですが、そこまでは復元されていないようです。「血天井」の云われはないのですが、手の跡のようなものが天井板に窺えます。
    この天井自体、後世に張り替えられたものですので、ロールシャッハ・テストのようなものではないかと思います。

  • 瑠璃光寺 露山堂<br />幕末に長州藩主 毛利敬親が藩庁を萩から山口に移した際、藩庁内の一露山の麓に造らせた茶室です。小山の名から露山堂と号しています。ここで茶事にことよせて、井上馨や桂小五郎らと王政復古の密議をこらしたと伝えられています。<br />廃藩の後に持ち主が近藤芳樹に遷って中河原に移されましたが、さらに持ち主が改まり、荒廃していたのを松下村塾でも登場した品川弥二郎が有志と共に買収し、この地へ移築して保存したものです。1891(明治24)年にこの場所に移築されています。<br />露山堂の扁額は、三条実愛の揮毫になります。

    瑠璃光寺 露山堂
    幕末に長州藩主 毛利敬親が藩庁を萩から山口に移した際、藩庁内の一露山の麓に造らせた茶室です。小山の名から露山堂と号しています。ここで茶事にことよせて、井上馨や桂小五郎らと王政復古の密議をこらしたと伝えられています。
    廃藩の後に持ち主が近藤芳樹に遷って中河原に移されましたが、さらに持ち主が改まり、荒廃していたのを松下村塾でも登場した品川弥二郎が有志と共に買収し、この地へ移築して保存したものです。1891(明治24)年にこの場所に移築されています。
    露山堂の扁額は、三条実愛の揮毫になります。

  • 瑠璃光寺 五重塔<br />屋根は優雅な反りを魅せ、塔身は上層部に向かって細くなり、魂が上昇していく墓石のイメージを湛えています。また、上層部ほど高さを詰めた構造体になっており、安定感に満ち、優美に見えます。<br />屋根は檜皮葺、柱は長押で固め、軒裏は二軒の繁垂木と言われる平行垂木です。組物は伝統的な三手先で、中備は間斗束を用いています。板戸の建具や初層脇間の透連子窓など、基本は日本古来からの和様ですが、二層の高欄にある擬宝珠には上部が尖った禅宗様の逆蓮頭(ぎゃくれんとう)を用いるなど、禅宗様も一部に折衷されています。<br />内部は、初層から立つ心柱の周囲に四天柱が設けられ、それらを取り込むように禅宗様の円形須弥壇が据えられ、阿弥陀如来坐像と大内義弘坐像を安置しているそうです。このように塔婆に円形須弥壇を設ける例は他に類を見ず、大陸との交易により独自に開花し、栄華を極めた大内文化の塔ならではの特徴と言えます。<br />内陣は普段、扉が閉じられていて拝見できませんが、例年3月初旬から4月初旬までの土・日曜日は「山口お宝展」で特別公開され、五重塔の内部構造を見ることができるそうです。

    瑠璃光寺 五重塔
    屋根は優雅な反りを魅せ、塔身は上層部に向かって細くなり、魂が上昇していく墓石のイメージを湛えています。また、上層部ほど高さを詰めた構造体になっており、安定感に満ち、優美に見えます。
    屋根は檜皮葺、柱は長押で固め、軒裏は二軒の繁垂木と言われる平行垂木です。組物は伝統的な三手先で、中備は間斗束を用いています。板戸の建具や初層脇間の透連子窓など、基本は日本古来からの和様ですが、二層の高欄にある擬宝珠には上部が尖った禅宗様の逆蓮頭(ぎゃくれんとう)を用いるなど、禅宗様も一部に折衷されています。
    内部は、初層から立つ心柱の周囲に四天柱が設けられ、それらを取り込むように禅宗様の円形須弥壇が据えられ、阿弥陀如来坐像と大内義弘坐像を安置しているそうです。このように塔婆に円形須弥壇を設ける例は他に類を見ず、大陸との交易により独自に開花し、栄華を極めた大内文化の塔ならではの特徴と言えます。
    内陣は普段、扉が閉じられていて拝見できませんが、例年3月初旬から4月初旬までの土・日曜日は「山口お宝展」で特別公開され、五重塔の内部構造を見ることができるそうです。

  • 瑠璃光寺 五重塔<br />この五重塔をモチーフにした久木綾子著『見残しの塔』をご存知でしょうか?女史がこの塔の美しさに衝撃を受け、熱病の如く取り付かれのたのは70歳のことでした。取材に14年、執筆に4年を投じ、作家デビューはなんと齢89!中世史を学ぶために東京から姫路へ5年間、月1回通い、五重塔を自らの手で解体できる知識を習得するために建築や文化財の専門家を訪ね、備中国分寺の建築現場にも足しげく通われたという吃驚ポンの小説です。<br />女史は、この塔を仰ぎ見た刹那、「あの世が透けて見える」と思い、かつ「この世とあの世の境に立つ結界に思えた」と語っています。そこで、塔を造った人たちを中心に物語を書きたいと思い立ちました。しかし、18年という途方もない歳月をどう捉えればいいのか?五重塔の建造年月と同じように、計り知れない情熱と執念がなければ完成を見ることはなかったことでしょう。かつて文学を志すも、結婚により潔く筆を折り、良妻賢母としての半世紀を経て、晩期に再び文学の道へと帰趨させたのがこの五重塔でした。女史は若い仏僧 恵海にこう語らせます。「大工たちは神の手と、仏の慈悲と忍耐を持っている。でなければ、こんなに人の心を打つ堂塔伽藍は建ちあがらぬ」。女史の思いのたけが吐露されています。<br />物語は室町中期に塔を建てた純粋無垢な大工たちの魂の物語を縦糸に、新田義貞の末裔である姫君たちの運命を横糸に紡いでいきます。主人公の若き宮大工  左右近については、五重塔から発見された「此のふでぬし弐七」と番匠が墨書きした巻斗を見た刹那、宮崎の平家落人部落 椎葉からやって来た若者の顔が浮かんだそうです。<br />物語はこう切り出します。<br />「人は流転し、消え失せ、跡に塔が残った。塔の名を瑠璃光寺五重塔という。(中略)歳月が塔の朱を洗い流し、素木に還し、古色を加えたが、美形は変わらない。塔は今日も中空にのびのびと五枚の翼を重ね、上昇の姿勢を保ち続ける」。この冒頭の数行で見知らぬ五重塔へと誘われ、天空へと伸びる優美な屋根の曲線をうっとりと仰ぎ見る自分の姿がイメージできました。<br />凛然とした文体は瑞々しく流麗ですが、重厚な年輪の重なりが複雑に絡み合い、緊張感を湛えた語り口です。丹念に調査された地名や塔の建築工法など、端折れる箇所も主題に恥じないように忠実に描き切った力作と言えます。宮大工が抱く五重塔への思いと女史の小説への思いが重畳し、読み終えた後の余韻に長く浸れる秀作です。

    瑠璃光寺 五重塔
    この五重塔をモチーフにした久木綾子著『見残しの塔』をご存知でしょうか?女史がこの塔の美しさに衝撃を受け、熱病の如く取り付かれのたのは70歳のことでした。取材に14年、執筆に4年を投じ、作家デビューはなんと齢89!中世史を学ぶために東京から姫路へ5年間、月1回通い、五重塔を自らの手で解体できる知識を習得するために建築や文化財の専門家を訪ね、備中国分寺の建築現場にも足しげく通われたという吃驚ポンの小説です。
    女史は、この塔を仰ぎ見た刹那、「あの世が透けて見える」と思い、かつ「この世とあの世の境に立つ結界に思えた」と語っています。そこで、塔を造った人たちを中心に物語を書きたいと思い立ちました。しかし、18年という途方もない歳月をどう捉えればいいのか?五重塔の建造年月と同じように、計り知れない情熱と執念がなければ完成を見ることはなかったことでしょう。かつて文学を志すも、結婚により潔く筆を折り、良妻賢母としての半世紀を経て、晩期に再び文学の道へと帰趨させたのがこの五重塔でした。女史は若い仏僧 恵海にこう語らせます。「大工たちは神の手と、仏の慈悲と忍耐を持っている。でなければ、こんなに人の心を打つ堂塔伽藍は建ちあがらぬ」。女史の思いのたけが吐露されています。
    物語は室町中期に塔を建てた純粋無垢な大工たちの魂の物語を縦糸に、新田義貞の末裔である姫君たちの運命を横糸に紡いでいきます。主人公の若き宮大工 左右近については、五重塔から発見された「此のふでぬし弐七」と番匠が墨書きした巻斗を見た刹那、宮崎の平家落人部落 椎葉からやって来た若者の顔が浮かんだそうです。
    物語はこう切り出します。
    「人は流転し、消え失せ、跡に塔が残った。塔の名を瑠璃光寺五重塔という。(中略)歳月が塔の朱を洗い流し、素木に還し、古色を加えたが、美形は変わらない。塔は今日も中空にのびのびと五枚の翼を重ね、上昇の姿勢を保ち続ける」。この冒頭の数行で見知らぬ五重塔へと誘われ、天空へと伸びる優美な屋根の曲線をうっとりと仰ぎ見る自分の姿がイメージできました。
    凛然とした文体は瑞々しく流麗ですが、重厚な年輪の重なりが複雑に絡み合い、緊張感を湛えた語り口です。丹念に調査された地名や塔の建築工法など、端折れる箇所も主題に恥じないように忠実に描き切った力作と言えます。宮大工が抱く五重塔への思いと女史の小説への思いが重畳し、読み終えた後の余韻に長く浸れる秀作です。

  • 瑠璃光寺 山門<br />「保寧山」と掲げられた禅寺風の簡素な山門です。<br />五重塔が瑠璃光寺の主要伽藍の中から外れて建っているため、 五重塔からは庭園の中の小路を少し歩くと山門に至ります。山門の柱には、大本山 永平寺(福井)、總持寺(横浜)と記した札が掛けられています。  <br />右端にあるのは瑠璃光寺鎮守の石殿です。瑠璃光寺が今の場所に移転される以前は吉敷郡仁保の地にありましたが、最近ここに移設されたようです。この石殿は、16世の重堂専宗大和尚が寺の鎮守として1650(慶安3)年に造立したものです。山口県には江戸時代初期の年号のある石殿は比較的少なく、これは貴重な石造文化財だそうです。<br /><br />保寧山瑠璃光寺は防長屈指の曹洞宗大寺で、中国三山のひとつとも言われ、長門の大寧寺、周防の龍文寺と共に江戸時代末期まで西日本の僧録司(禅宗の統括・人事)の責務を果たしてきた古刹です。代々名僧を輩出し、九州佐賀藩主の菩提寺高傳寺をはじめとして県内外に30余ヶ寺の末寺を有していました。

    瑠璃光寺 山門
    「保寧山」と掲げられた禅寺風の簡素な山門です。
    五重塔が瑠璃光寺の主要伽藍の中から外れて建っているため、 五重塔からは庭園の中の小路を少し歩くと山門に至ります。山門の柱には、大本山 永平寺(福井)、總持寺(横浜)と記した札が掛けられています。
    右端にあるのは瑠璃光寺鎮守の石殿です。瑠璃光寺が今の場所に移転される以前は吉敷郡仁保の地にありましたが、最近ここに移設されたようです。この石殿は、16世の重堂専宗大和尚が寺の鎮守として1650(慶安3)年に造立したものです。山口県には江戸時代初期の年号のある石殿は比較的少なく、これは貴重な石造文化財だそうです。

    保寧山瑠璃光寺は防長屈指の曹洞宗大寺で、中国三山のひとつとも言われ、長門の大寧寺、周防の龍文寺と共に江戸時代末期まで西日本の僧録司(禅宗の統括・人事)の責務を果たしてきた古刹です。代々名僧を輩出し、九州佐賀藩主の菩提寺高傳寺をはじめとして県内外に30余ヶ寺の末寺を有していました。

  • 瑠璃光寺<br />参拝の前には、閻魔大王を拝んで日々の行いを懺悔しておきましょう。<br />この後生車は、一周回すと今生の罪を1つ帳消しにしてくれるというありがたいものです。「南無釈迦牟尼仏」と唱えながら、グルグルと石の輪を回します。<br />お祈りの時間が長かったのはこのせいだったのですね!?

    瑠璃光寺
    参拝の前には、閻魔大王を拝んで日々の行いを懺悔しておきましょう。
    この後生車は、一周回すと今生の罪を1つ帳消しにしてくれるというありがたいものです。「南無釈迦牟尼仏」と唱えながら、グルグルと石の輪を回します。
    お祈りの時間が長かったのはこのせいだったのですね!?

  • 瑠璃光寺<br />閻魔大王をよく見ると、拝んでいる自分の顔が映るように鏡を持たれています。

    瑠璃光寺
    閻魔大王をよく見ると、拝んでいる自分の顔が映るように鏡を持たれています。

  • 瑠璃光寺<br />石段を挟んで左側にあるのが、「身代わり地蔵」です。<br />悪い因縁や病気、不幸などから見切りをつけたいと願う人々のために身代わりになってくれるありがたい地蔵尊です。<br />よく観ると、身体の2ヶ所が横に切られています。

    瑠璃光寺
    石段を挟んで左側にあるのが、「身代わり地蔵」です。
    悪い因縁や病気、不幸などから見切りをつけたいと願う人々のために身代わりになってくれるありがたい地蔵尊です。
    よく観ると、身体の2ヶ所が横に切られています。

  • 瑠璃光寺 本堂<br />日本最古の正法眼蔵や各種の寺宝を残している他、本堂の右側には出雲の一畑薬師 奥之院山口分院があり、眼病予防の仏様としても信仰されています。<br />長寿薬師如来堂の裏手の高台には四国の金比羅神社もあります。

    瑠璃光寺 本堂
    日本最古の正法眼蔵や各種の寺宝を残している他、本堂の右側には出雲の一畑薬師 奥之院山口分院があり、眼病予防の仏様としても信仰されています。
    長寿薬師如来堂の裏手の高台には四国の金比羅神社もあります。

  • 瑠璃光寺 本堂 杓文字<br />本堂の前には県下で一番大きな杓文字と擂木(すりこぎ)が置かれています。<br />これらは「我が身を磨り減らし、人を救う」という仏心を象徴するものです。<br /><br />

    瑠璃光寺 本堂 杓文字
    本堂の前には県下で一番大きな杓文字と擂木(すりこぎ)が置かれています。
    これらは「我が身を磨り減らし、人を救う」という仏心を象徴するものです。

  • 瑠璃光寺 本堂 擂木<br />巨大な擂木です。<br />そう言われないとただの柱かと思ってしまうほどです。

    瑠璃光寺 本堂 擂木
    巨大な擂木です。
    そう言われないとただの柱かと思ってしまうほどです。

  • 瑠璃光寺 本堂<br />ご本尊は薬師如来です。元禄年間に佐賀藩主 鍋島家の菩提寺である高伝寺から寄進されたという薬師三尊像の脇座には、右に日光菩薩、左に月光菩薩が控えています。そして達磨大師も座してます。<br />手前の左には「布袋和尚」、右には「賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)」像が安置されています。

    瑠璃光寺 本堂
    ご本尊は薬師如来です。元禄年間に佐賀藩主 鍋島家の菩提寺である高伝寺から寄進されたという薬師三尊像の脇座には、右に日光菩薩、左に月光菩薩が控えています。そして達磨大師も座してます。
    手前の左には「布袋和尚」、右には「賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)」像が安置されています。

  • 瑠璃光寺 長寿薬師如来堂<br />ご本尊は長寿薬師如来像で、左奥に高祖承陽大師(曹洞宗開祖道元禅師)の像が鎮座しています。<br /><br />写真の四隅をよく見ていただくとケラレが発生しています。ファインダーでは気付かなかったのですが、手抜きしてUVフィルタ(レンズプロテクタ)とC−PLフィルタ(薄型)を2重で装着していたためです。因みに、ズームレンズの広角側は、35mm換算で18mmです。

    瑠璃光寺 長寿薬師如来堂
    ご本尊は長寿薬師如来像で、左奥に高祖承陽大師(曹洞宗開祖道元禅師)の像が鎮座しています。

    写真の四隅をよく見ていただくとケラレが発生しています。ファインダーでは気付かなかったのですが、手抜きしてUVフィルタ(レンズプロテクタ)とC−PLフィルタ(薄型)を2重で装着していたためです。因みに、ズームレンズの広角側は、35mm換算で18mmです。

  • 瑠璃光寺 長寿薬師如来堂<br />数珠玉が連なり、これをゆっくりと手前に引いて数珠玉を8個落すと、煩悩を払うことができるとされています。数珠玉が滑車から落ちて手前の玉とぶつかる時に「カチッ、カチッ」と音を立てるのが味わいを添えます。

    瑠璃光寺 長寿薬師如来堂
    数珠玉が連なり、これをゆっくりと手前に引いて数珠玉を8個落すと、煩悩を払うことができるとされています。数珠玉が滑車から落ちて手前の玉とぶつかる時に「カチッ、カチッ」と音を立てるのが味わいを添えます。

  • 瑠璃光寺 金比羅神社<br />本堂周りの喧騒を避け、本堂裏手の山腹に回ってみました。長寿薬師如来堂の右脇から裏に回れます。<br />この高台には、四国の金比羅さんの御分霊をお祀りした「金比羅神社」が建てられています。ここは、古来より航海安全、道中安全の神様として崇められている社です。<br />ここで旅の安全を祈念しておきます。

    瑠璃光寺 金比羅神社
    本堂周りの喧騒を避け、本堂裏手の山腹に回ってみました。長寿薬師如来堂の右脇から裏に回れます。
    この高台には、四国の金比羅さんの御分霊をお祀りした「金比羅神社」が建てられています。ここは、古来より航海安全、道中安全の神様として崇められている社です。
    ここで旅の安全を祈念しておきます。

  • 瑠璃光寺 <br />さらに登ると、石仏が小路の傍らにずらりと並んでいる光景にでくわします。<br />皆さん同じ毛糸の帽子を被られています。

    瑠璃光寺
    さらに登ると、石仏が小路の傍らにずらりと並んでいる光景にでくわします。
    皆さん同じ毛糸の帽子を被られています。

  • 瑠璃光寺 五重塔<br />罰当たりかもしれませんが、山腹にある墓地の敷地は、このように五重塔が見渡せる最高のビュースポットです。細い主道の他、魚の骨のような脇道が張り巡らされていて迷路のようになっています。普通の観光客はここまで登らないと思いますが、この風景写真を見たことがあり、どこかに五重塔を見下ろせる場所があると踏んでいました。<br />屋根の反りの曲線が綺麗です。因みに、五重塔の桧皮葺屋根は、30年毎に葺き替えられているそうです。<br /><br />2012年にオープンした「東京スカイツリー」は、五重塔のような魅力ある立ち姿を造ろうというのがデザインコンセプトでした。そのデザイン監修者の彫刻家で元東京芸術大学学長 澄川喜一氏は、「江戸時代以前に建立された全国に22ある五重塔の中で、山口の五重塔が一番美しい。・・・東京スカイツリーの出発点は、岩国の錦帯橋や山口の五重塔でもある」と語られています。<br />五重塔は心柱が最上層の大屋根を支える垂木と組み合わされただけで中間層の構造材に全く触れない構造であり、それが柔軟性のある制震構造になっています。日本の伝統技術や美に敬意を表しながら、最先端技術や多くの人々の経験・知恵を結集したのが東京スカイツリーです。その原点のひとつが、室町時代最大の権力者に果敢に挑み、往時の最先端の大陸文化を吸収し、多くの人々の心をも掴んだ大内氏の象徴とも言える瑠璃光寺五重塔だったのです。

    瑠璃光寺 五重塔
    罰当たりかもしれませんが、山腹にある墓地の敷地は、このように五重塔が見渡せる最高のビュースポットです。細い主道の他、魚の骨のような脇道が張り巡らされていて迷路のようになっています。普通の観光客はここまで登らないと思いますが、この風景写真を見たことがあり、どこかに五重塔を見下ろせる場所があると踏んでいました。
    屋根の反りの曲線が綺麗です。因みに、五重塔の桧皮葺屋根は、30年毎に葺き替えられているそうです。

    2012年にオープンした「東京スカイツリー」は、五重塔のような魅力ある立ち姿を造ろうというのがデザインコンセプトでした。そのデザイン監修者の彫刻家で元東京芸術大学学長 澄川喜一氏は、「江戸時代以前に建立された全国に22ある五重塔の中で、山口の五重塔が一番美しい。・・・東京スカイツリーの出発点は、岩国の錦帯橋や山口の五重塔でもある」と語られています。
    五重塔は心柱が最上層の大屋根を支える垂木と組み合わされただけで中間層の構造材に全く触れない構造であり、それが柔軟性のある制震構造になっています。日本の伝統技術や美に敬意を表しながら、最先端技術や多くの人々の経験・知恵を結集したのが東京スカイツリーです。その原点のひとつが、室町時代最大の権力者に果敢に挑み、往時の最先端の大陸文化を吸収し、多くの人々の心をも掴んだ大内氏の象徴とも言える瑠璃光寺五重塔だったのです。

  • 瑠璃光寺 五重塔<br />塔の上の相輪は、宝珠(ほうじゅ:仏舎利を納める)・竜車(りゅうしゃ:高貴な人の乗り物)・水煙(すいえん:火炎の透かし彫りですが、火は火災につながるので嫌われ、「水煙」と呼びます)・宝輪(ほうりん:9つの輪で五大如来、四大菩薩を表します)・請花(うけばな:蓮華の花)・伏鉢(ふせばち:お墓をあらわす)・露盤(ろばん」土台)の7パーツからなります。<br />中央を貫く芯は、「刹管(さつかん)」あるいは「擦(さつ)」と呼ばれます。<br />また、九輪にも小さな風鐸が付けられています。<br />1661年の解体修理の際、相輪も取り替えられ、伏鉢にその修理の経緯が刻まれているそうです。

    瑠璃光寺 五重塔
    塔の上の相輪は、宝珠(ほうじゅ:仏舎利を納める)・竜車(りゅうしゃ:高貴な人の乗り物)・水煙(すいえん:火炎の透かし彫りですが、火は火災につながるので嫌われ、「水煙」と呼びます)・宝輪(ほうりん:9つの輪で五大如来、四大菩薩を表します)・請花(うけばな:蓮華の花)・伏鉢(ふせばち:お墓をあらわす)・露盤(ろばん」土台)の7パーツからなります。
    中央を貫く芯は、「刹管(さつかん)」あるいは「擦(さつ)」と呼ばれます。
    また、九輪にも小さな風鐸が付けられています。
    1661年の解体修理の際、相輪も取り替えられ、伏鉢にその修理の経緯が刻まれているそうです。

  • 瑠璃光寺 五重塔<br />二層の壁には唐花を中央にあしらった飾板があります。<br />これは大内菱と呼ばれる家紋です。大内菱の中には、ハートマークに見えるものがあるそうです。高欄の角には唐様の逆蓮柱が見られます。<br />塔の真下からは見にくいのですが、遠目からなら確認することができます。

    瑠璃光寺 五重塔
    二層の壁には唐花を中央にあしらった飾板があります。
    これは大内菱と呼ばれる家紋です。大内菱の中には、ハートマークに見えるものがあるそうです。高欄の角には唐様の逆蓮柱が見られます。
    塔の真下からは見にくいのですが、遠目からなら確認することができます。

  • 瑠璃光寺 庫裡 開梆(ほう)<br />魚の形をしているため、魚板とも呼ばれます。<br />約550年前のもので、これを叩いて雲水たちに食事の準備ができたことを知らせました。<br />

    瑠璃光寺 庫裡 開梆(ほう)
    魚の形をしているため、魚板とも呼ばれます。
    約550年前のもので、これを叩いて雲水たちに食事の準備ができたことを知らせました。

  • 瑠璃光寺 <br />山門を潜ると左右に廻廊があり、左には我が身を切ってその人の身代わりとなられる見切地蔵があり、その後方には放生池があります。<br />右側には石造の五重塔があります。五重塔を模して作られた石造りの経塚で、1992年の創建550年の記念に建立されたものです。檀信徒や参拝者の幸せを祈って般若心境が書写・埋経してあるありがたいものです。<br />鐘楼は禅寺らしい雰囲気を湛えています。

    瑠璃光寺
    山門を潜ると左右に廻廊があり、左には我が身を切ってその人の身代わりとなられる見切地蔵があり、その後方には放生池があります。
    右側には石造の五重塔があります。五重塔を模して作られた石造りの経塚で、1992年の創建550年の記念に建立されたものです。檀信徒や参拝者の幸せを祈って般若心境が書写・埋経してあるありがたいものです。
    鐘楼は禅寺らしい雰囲気を湛えています。

  • 瑠璃光寺<br />誰もいなくなった渡り廊下を降りていきます。<br />

    瑠璃光寺
    誰もいなくなった渡り廊下を降りていきます。

  • 瑠璃光寺 放生池<br />水面に映る枝垂梅がきれいです。

    瑠璃光寺 放生池
    水面に映る枝垂梅がきれいです。

  • 瑠璃光寺 五重塔<br />「満月の庭」からのショットです。屋根の四隅にぶら下がっている風鐸が趣を湛えています。<br />五重塔は、古代インドのストゥーパと呼ばれる塔と同じ機能を持ちます。つまり、釈迦の骨「仏舎利」を納めたお墓です。ストゥーパが姿を変え、日本で発達したのが五重塔だと言われています。屋根の上には相輪があり、一説にはこの部分がインドのストゥーパの名残だとも言われます。つまり、五重塔とは、実用的な建物ではなく、拝む対象として建てられたものなのです。<br />何故五重かといえば、この世を形づくる5つの基礎となるものを表すためです。つまり、「地」、「水」、「火」、「風」、「空」で、これを「五大」と呼びます。<br /><br />二日目のツアースケジュールはこれでおしまいです。バスは、今夜のお宿となる長門湯本温泉郷へと軽快に走っていきます。<br />温泉郷ではホテル近くの大寧寺を散策しましたのでレポいたします。<br />この続きは、早春賦 西国放浪記⑨長門湯本温泉郷 大寧寺でお届けいたします。

    瑠璃光寺 五重塔
    「満月の庭」からのショットです。屋根の四隅にぶら下がっている風鐸が趣を湛えています。
    五重塔は、古代インドのストゥーパと呼ばれる塔と同じ機能を持ちます。つまり、釈迦の骨「仏舎利」を納めたお墓です。ストゥーパが姿を変え、日本で発達したのが五重塔だと言われています。屋根の上には相輪があり、一説にはこの部分がインドのストゥーパの名残だとも言われます。つまり、五重塔とは、実用的な建物ではなく、拝む対象として建てられたものなのです。
    何故五重かといえば、この世を形づくる5つの基礎となるものを表すためです。つまり、「地」、「水」、「火」、「風」、「空」で、これを「五大」と呼びます。

    二日目のツアースケジュールはこれでおしまいです。バスは、今夜のお宿となる長門湯本温泉郷へと軽快に走っていきます。
    温泉郷ではホテル近くの大寧寺を散策しましたのでレポいたします。
    この続きは、早春賦 西国放浪記⑨長門湯本温泉郷 大寧寺でお届けいたします。

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