2015/05/18 - 2015/05/18
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junemayさん
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2014年6月から7月にかけて、イタリア、フランス、スペインを勝手気ままに歩いた一人たびの心地よさが忘れられず、年が明けるや否や新しいプランを作成。今年は昨年最も強く心を惹かれてしまったイタリアに集中することにしました。6月のトスカーナは連日35度を超す猛暑だったので、今年は1か月前倒し。
まずは行きたいところをピックアップして、たびの拠点となる都市を選定。宿泊施設を押さえてから、詳細を詰めていくというのが私のスタイルなのですが、例によってこれも見たい、あそこも行きたい・・・とかく欲張りな私のこと、1か月じゃあ全く時間が足りないことがすぐに判明しました。とはいえ、時間とお金は限りあるもの。優先順位を決めて、何とかやりくりをして決めたのが下記のプランです。
イタリアには過去3度行ったことがあります。
最初のたびは、大学生の頃、スイスのチューリッヒから日帰りで行ったミラノ。最後の晩餐だけ見に行ったような、慌ただしいたびでした。
2回目は2001年、シシリアとアルベルベッロ、カプリ島、ローマを2週間かけて回りました。
3回目が2014年、ベネチアとトスカーナ州、リグーリア州が中心の2週間。
今回は、過去に行ったことのない場所をメインとした旅程となりました。たびを重ねるうちに、自分が最も興味を惹かれるものは、古い建物、神社仏閣教会等、そして彫刻、絵などの美術品 全て人が作り出したものだということがわかってきました。中でも、ここ2、3年、以前はあまり興味が沸かなかった教会に強く惹かれる自分がいます。基本的には無宗教なのですが、現在より人々の心が純粋で、神を敬う気持ちが強かった頃でなければ、創り上げられなかった文化の結晶とでもいうべき施設には畏敬の念を覚えます。というわけで、今回のたびの中心は教会を巡る街歩きとなってしまいました。
イタリア語は皆目見当がつかず、付け焼刃で2週間ほど本を見て勉強しましたが、やるとやらないでは大違い。後は度胸と愛嬌?で前進あるのみ。御陰様で、とても自己満足度の高いたびになりました。
2015/5/6 水 成田→モスクワ→ローマ
2015/5/7 木 ローマ
2015/5/8 金 ローマ→ティヴォリ→ローマ
2015/5/9 土 ローマ
2015/5/10 日 ローマ
2015/5/11 月 ローマ
2015/5/12 火 ローマ
2015/5/13 水 ローマ→ナポリ
2015/5/14 木 ナポリ→ソレント→アマルフィ→ラヴェッロ→アマルフィ→サレルノ→ナポリ
2015/5/15 金 ナポリ
2015/5/16 土 ナポリ→エルコラーノ→ナポリ→カゼルタ→ナポリ
2015/5/17 日 ナポリ→バーリ
2015/5/18 月 バーリ→マテーラ→バーリ
2015/5/19 火 バーリ→レッチェ→バーリ
2015/5/20 水 バーリ→オストゥーニ→チェリエ・メッサピカ→マルティーナフランカ→バーリ
2015/5/21 木 バーリ→アンコーナ→フォリーニョ
2015/5/22 金 フォリーニョ→スペッロ→アッシジ→フォリーニョ
2015/5/23 土 フォリーニョ→トレヴィ→スポレート→フォリーニョ
2015/5/24 日 フォリーニョ→ペルージャ→フォリーニョ
2015/5/25 月 フォリーニョ→コルトーナ→オルヴィエト
2015/5/26 火 オルヴィエト→チヴィタ ディ バーニョレージョ→オルヴィエト
2015/5/27 水 オルヴィエト→アレッツォ→オルヴィエト
2015/5/28 木 オルヴィエト→フィレンツェ→ボローニャ
2015/5/29 金 ボローニャ→ラヴェンナ→ボローニャ
2015/5/30 土 ボローニャ→モデナ→ボローニャ→フェラーラ→ボローニャ
2015/5/31 日 ボローニャ
2015/6/1 月 ボローニャ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/2 火 ヴィチェンツァ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/3 水 ヴィチェンツァ→ヴェローナ→ヴィチェンツァ
2015/6/4 木 ヴィチェンツァ
2015/6/5 金 ヴィチェンツァ→ミラノ
2015/6/6 土 ミラノ
2015/6/7 日 ミラノ
2015/6/8 月 ミラノ→モスクワ→
2015/6/9 火 →成田
マテーラのドゥオモのあるチヴィタ地区まで、えっちらおっちら階段を上って参りましたが、ドゥオモは外装、内装ともに修復の真っ最中で、まさかのクローズドでありました(号泣)!
マテーラのシンボル的存在への入場も楽しみの一つだったのですが、気を取り直して次、参りましょう。
せっかく坂を上ってきたので、この辺りを暫しそぞろ歩くとしますか・・・(転んでもただでは起きないが鉄則!)
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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チヴィタはマテーラが村だった頃からの中心的な地域で、険しい崖のグラヴィーナ渓谷に囲まれ、オーバーハングしたようなドゥオモとその鐘楼を頂点としたピラミッド型の要塞を形成しています。峡谷と何世紀にもわたって作られた壁により、もし攻め込まれても難攻不落の地域だったに違いありません。
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ドゥオモ広場からの道は皆この様なアーチ型のトンネルになっていましたが、昔はこのような通り抜けではなかったはず。最後の砦ですもんね。
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多分この辺りにデーンと城門がそびえていたのではないかな・・・ と考えながら歩いていたら、
!(^^)!ピンポーン
右の赤い十字架の下に、スーソ門と書かれているのを発見。 -
今度は、先ほど上ってきた方角とは逆の方向への道を探しつつ、面白いものがないかなとドゥオモ通りをうろうろします。
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16世紀建造のパラッツォ・サントーロ。城壁の一部と化したような外観が印象的です。
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パラッツォ・サントーロ前からの景色です。こちらは先ほどと同じバリサーノ地区です。天井のない建物が手前に数軒見えますね。
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次にやってきたのは、セディーレ広場。レストラン、ホテル、お土産物屋が軒を連ねるチヴィタ唯一の?繁華街です。どこから湧いたのかというほど、人がたくさんいましたよ。
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広場の片隅に、ちょっぴり気になるもの発見!
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なんだろう? と近づいてみたのですが、教会ではなさそう・・・よく見たら、コンセルバトーリオ。
おお〜 なんと!Conservatorio Statale di Musica E.R. Duniという名前の音楽学校でした。元は、18世紀後半に改築された市庁舎パラッツォ・セディーレだったそうです。入口両脇のニッチ内には、知恵・勇気・節制・正義の4体の寓話像が置かれています。 -
内部は、いかにも学校の受付といった雰囲気になっていました。
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セディーレ広場のお隣、サン・フランチェスコ広場に面していたアッシジの聖フランチェスコ教会。
こちらの教会は古い地下教会であるピエトロとパオロ教会の上に建てられていて、今でも中に入ると、左側の礼拝堂越しに、古い教会を垣間見ることが出来るそうです。創建は13世紀。とても美しい後期バロック様式のファサードは18世紀に作られました。
もう昼を過ぎているので、こちらの地方では当然のことのようですが、扉は堅く閉ざされていました。 -
教会の対面にあった銀行の建物。形状がとても変わっていて、すべての面において2階以上が外側に斜めに飛び出していて気になったので1枚。
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入るために開けているのか、見せるために開けているのか・・・
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ごく当たり前の地域はこの辺りでと、再びカヴェオーゾ地区への道を探します。
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あったあった! カヴェオーゾ地区へはこちらのトンネルを下っていけば良いようです。
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午後になって、少し天気が回復してきたみたい・・・
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お母さんの干したピンクのシーツも風にはためいています。
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tufoと呼ばれるこの辺りの凝灰岩は柔らかくて、削るのは簡単ですが、風化も早いみたいですねえ。
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周りの建物はバリサーノ地区と比べて、気のせいかお洒落で、居住比率も高いような気がします。
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ややや、これは・・・
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見事にドゥオモが乗っかったミニチュアのマテーラでした。手作りのオブジェが玄関周りを豪華に演出します。
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まだまだ、道は下っていますが、とこの時、忽然とカヴェオーゾ地区のシンボル サンタ・マリア・デ・イドリス岩窟教会が姿を現しました!!
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わお〜 岩山をそのままの形で利用したサンタ・マリア・デ・イドリス教会です。14世紀以降、文献に記されるようになったこのイドリスという名前は、「水」の意味で、教会内にある水を貯める貯水槽と主祭壇脇にある水瓶がそれを象徴しています。
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上の写真は望遠で撮ったので、もう一度今度は標準でパチリ! あの黒い服を着た女性が立っている辺りが底で、そこからまた今度は上りになるようです(汗)!
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道を左に回り込んで進んでいくと、たどり着いたのがこちらの教会前。イドリスに行く前に、まずこちらを見て行きましょう。
正式名称はChiesa dei Santi Pietro e Paolo al Sasso Caveoso。カヴェオーゾ地区の聖ピエトロと聖パオロの教会 という長い名前を持っています。 -
ピエトロとパオロの教会前から見るドゥオモは、また違った味わいがありますねえ・・・工事中のシートが見えないこちらの風景が気にいりました。
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あまり長い名前なので、通常この教会は「カヴェオーゾのサン・ピエトロ」と呼ばれているそうです。創建は1298年。建物は改修を繰り返し、17世紀の大改修の結果、オリジナルの要素は殆ど見つけることが困難になりました。今見得ている左側の鐘楼もその時付け加えられたものです。
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内部も17世紀の改修で、壁面がスタッコ装飾で覆われ、木製の天井が取り付けられました。
教会は、まずすべての祈る人、次いで信仰に基づいた芸術作品の美しさを称賛する人に開かれています と4か国語で書かれていました。
当初左右に4つずつの礼拝堂がありましたが、右側は説教所建設のために壊されたので、現存するのは左側のみです。 -
なんだかとても不思議なものをサイド・チャペルの一つで発見!
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これが何と呼ばれているものか分かりませんが、テーマは「聖誕」でした。中央のキリストの赤ん坊が、周囲の人に比べて物凄く大きいので、思わず苦笑してしまいました。まさしくジャンボ・ベイビー!
東方三博士から現代のローマ教皇まで新旧揃い組です。 -
サン・アントニオに捧げる礼拝堂の壁面を飾るレリーフも、彩色されていて楽しい! 1531年という制作年が入っているそうです。
パドヴァのサン・アントニオは若くして亡くなりましたが、数多くの奇跡を行ったと伝えられています。それが皆とてもユニーク!
左側下から2番目は、彼がリミニで行ったとされる「魚への説教」の場面です。魚たちが頭を水面に上げて、説教に聞きほれていますよ! -
この礼拝堂には17世紀のものとされる、少々傷んだ聖母子の絵もありました。
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一番主祭壇に近いイエスの聖心に捧げる礼拝堂には、珍しい13世紀の洗礼盤がありました。幾度となく修復された跡が見られる見事な浅浮彫で装飾されています。
祭壇には、初めて見る浅浮彫の少々コミカルな?人物像。これがキリスト? -
奥の壁には17世紀の修復の際に見つかったフレスコ画が2点向かい合わせに並んでいました。
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主祭壇です。明らかに、手前の白い花をフォーカスしていますが、ご容赦のほど!
左右にサン・ピエトロ、サン・パオロ、中央に聖母子が描かれている木製のポリプティック(多翼祭壇画)は1540年ころの作品と言われています。上部には永遠なる父、下部には、これは最後の晩餐でしょうか? キリストに抱かれるように眠っているヨハネの姿が印象的。 -
右側のかつての礼拝堂前に置かれていた聖母子像。幼子が玉を持っていますね。
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17世紀の修復で作られた天井は、凝灰岩の基盤に横板を張った、これも初めて見るもの。
2枚の大きな絵は、「教会の将来をピエトロに託すキリスト」(上)と、「コンファローネの聖母とパオロの改心」(下)です。 -
カウンターファサードにはステンドグラスを見ることもできました。色が抜けているけれど、左がピエトロ、右がパオロです。
あまり期待せずに入ったのですが、思ったよりずっと充実した時間を過ごすことが出来ましたよ。 -
さあ、それでは、サンタ・マリア・イドリス教会を見つけなくては! こちらの階段を上れば着くかしら?
表示は全くないので、感だけで進んでいきます。 -
こっちで良さそうですよ!奇妙な形をした岩が前方に見えてきました。
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次第に展望が開けて、辺りを見回しながら更に上り続けます。
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こちらがモンテッローネmonterrone。カヴェオーゾ地区の中心にそびえる巨大な岩の頂きです。
ドゥオモが正面に見えていますね。ごつごつした岩が方々に飛び出しているので、転ばないように注意が肝心です。
それから残念なことに、前の広場が狭すぎるため、ここからだとイドリス教会の全体像を撮ることはできません。やはり下から見上げる格好で撮るのが一番だと思います。 -
内部はここも撮影禁止なので、写真はありません。通常サンタ・マリア・デ・イドリスと呼ばれていますが、実はこの中には、もう一つ奥に、サン・ジョヴァンニ・イン・モンテッローネ岩窟教会があります。どちらかというと、見るべきものの少ないイドリスの主祭壇左側を進むと、別の教会に進むことが出来るのです。
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どちらの教会も人の手に寄り掘られたもので、サン・ジョヴァンニの方が先だと思われます。というのも、そこは壺をひっくり返したような、不定形の空間で、教会としての建築様式をとっていないからです。古い奥の教会の方がたくさんフレスコが残っていました。
こちらは、その古い方の教会の一番奥にあったサン・ピエトロのフレスコ画です。13世紀の作品。 -
フレスコはどれも完全ではなく、カッパドキアの岩窟教会同様、正教の影響を受けていることが聖人が身にまとっている衣服等から判断できました。描かれたのは、古いもので11世紀から12世紀、新しいものでは17世紀のものが見られました。
2枚の写真はパンフレットから拝借したものです。 -
教会の外側には、最近になってはめ込まれたらしい黒いパネルがありましたが、描かれた人物がどなたなのか確認するのを怠りました。
とにかくこの教会の凄さは、自然と一体化したその姿です。下から見上げて、奇妙な岩と岩の間に燦然と輝く十字架を見つけた人々は、もうそれだけで神を恐れ畏敬の念に打たれたに違いありません。 -
サッシに生活する人々の祈りの場をもう少し彷徨います。
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もう一度、カヴェオーゾ地区を見渡して、
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サンタ・マリア・デ・イドリス教会を左に眺め、
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先ほど訪れたサン・ピエトロ・イン・カヴェオーゾを見下ろしてから岩山を下りました。
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この階段を上ってくるのが、正規ルートだったか・・・
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イドリス教会の下にあったお土産物屋さん。日本語で、「ダッディエーゴ職人の大工房」と書かれています。「写真撮るな!」としつこいほど禁止マークがあるのを見て、撮りたくなりました。外は禁止できないもんね。
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カヴェオーゾ地区の祠です。
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こちらのお店には、サッセッティと呼ばれる、柔らかい石で作られたサッシの建物やふくろう等のおみやげがたくさん売られていました。
どうやらこの辺りが、マテーラ最大の観光スポットのようです。 -
次に訪れたのは、サンタ・ルチア・アッレ・マルヴェ岩窟教会。カヴェオーゾのピエトロ教会脇の道を更に進み、少し山を上ったところ、かつてゼニアオイ(マルヴェ)の花がたくさん自生していた地区にありました。サンタ・ルチアは日本ではシラクーサのルチアと呼ばれていて、目、及び視覚障害者の守護聖人です。
創建は8世紀。ベネディクト会の中で初の女性修道院として作られた歴史的にも重要な教会です。修道院は1283年まで使われていたそうです(修道院はその後チヴィタ地区へ、現在は町の平地(ピアノ)部分に移転)。 -
内部は三廊式。ローマ様式と正教様式の双方が混じり合っており、正教特有のイコノスタスの断片が残っていました。
主なフレスコとしては、一つ上の写真の「授乳の聖母」13世紀後半の作品で、珍しくリナルド・ダ・ターラントという画家名が判明しています。
個人的には、この写真の上部に描かれている聖アガタにぞっこん惚れ込んでしまいました。これは前述のイコノスタスの柱の断片に描かれていました。 -
サンタ・ルチア・アッレ・マルヴェの先ともなると、急速に町は寂れて行き、建物は粗末に、そして無人地帯へと変貌を遂げていきます。
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まさしく、この15年間思い描いてきたサッシはこんな廃墟のような町でした。こういった場所を私は歩きたかったんだと、今ここにいられることの幸せを噛みしめながら、さらに奥に進んでいきました。
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風化して、穴がたくさん開いた岩壁が印象的。
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廃墟となった岩窟住居を覗いてみると・・・
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内部は至るところ、黒っぽいカビ?で覆われていました。
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これは台所かな?
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マテーラの厳しい現実の一部です。
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人の住まなくなった家々は、今やたくましい雑草にその主役を奪われつつあります。
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ininerario turistico「観光ルート」の矢印に誘われていった先には・・・
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こんな素晴らしいイドリス教会とドゥオモの鐘楼が見える風景が待ち構えていました。この辺りはカザルスヌオヴォ地区と呼ばれていました。
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前の道を左に下りていくと、コンヴィチニオ・サン・アントニオという岩窟教会にたどり着きます。
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この門の前で待っていたら、やがて管理人がやってきて、扉を開けて中に入れてくれました。
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立派な見学通路が設けられていて、自由に中を見ることが出来ます。ただし説明がないので分かりにくい・・・
教会だったらしい部分と、地下(クリプト)に降りる階段が2か所にありました。 -
どうやらここはSan Primo、Santa Maria Annunziata and Sant'Eligio、San Donato、そしてSant'Antonio Abateという四つの小さな教会から構成されてるようです。壁の装飾は剥げ落ちて、ほとんど残っていません。
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わずかに残っていたフレスコを発見。ビザンティンの影響が大なようです。
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四つの教会のうちの一つ聖母とSant'Eligioは、主として家畜の守護聖人であるサンテリジオに捧げられていました。サンテリジオは農民、特に貧しい小作農に崇拝されてきました。12月1日の彼の記念日には、大勢の農民が家畜(ミュール、牛、馬など)を連れてここを訪れ、家畜の無事を祈ったそうです。
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クリプトに降りる階段付近。柵があって、これ以上は進めません。
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フレスコは聖人画だというのがかろうじてわかる程度に残っています。ヴォールトの十字架に注目!
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教会が作られたのは12世紀から13世紀頃といわれています。18世紀以降になるとワインの貯蔵庫として使われ始めました。ブドウを絞る機械などが敷地内から見つかっています。
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のどかな田園風景を描いたフレスコが残されていました。サンテリジオに護られている牛たちも絵の中に見ることが出来ます。
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四つ目の教会サン・タントニオ・アバーテ。
アーチに残されたフレスコ画で、一目見て分かったのは、こちらのサン・セバスティアーノだけ(16世紀)! -
右側のフレスコの顔ははっきりとはわかりませんが、この方がサンタントニオ・アバーテ?。右手はラテン式の祝福のポーズをとっていて、左手には本を携えています(15世紀)。
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こちらの部分のフレスコが一番状態が良かったです。
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外に出て、もう一度グラヴィーナ渓谷とその彼方に広がるサッシの風景を愛でます。ここまで来れて本当によかった!
見るものへの素直な感動と一番好みのスタイルで街歩きができたという達成感でいっぱいでした。 -
この後突然の雷雨に襲われて、近くの工事現場のおじさんたちと雨宿り。「すぐに止むよ。15分ってとこかな?」と話していたけれど、本気にはしませんでした。そしたら本当に15分でピタッと雨は止み、明るい太陽が顔を覗かせました。お天気のことはジモティが一番詳しい!!
ここはサッシを出て、その上の町に戻った場所、写真のB&Bがありました。 -
緩やかな下り坂の道を、町の中心部に向かって戻っていきます。
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途中にあった17世紀の美しい建物パラッツォ・ランフランキは現在バジリカータ州の中世、近代芸術が収められた美術館となっていました。
司教ヴィンチェンツォ・ランフランキの命により、修道士フランチェスコ・ダ・コペルティーノが設計を行ったもので、神学校として建てられましたが、のちに高等学校としても使われてきました。シンメトリーでないファサードがなかなか興味深いです。 -
傘までがアートを演出していました! まだお昼休み中だったので、ここは飛ばします。
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ランフランキ館辺りから見るイドリス教会。
うーむ。やはり谷底から見上げるのが一番インパクトがあります。 -
ここからは、歩行者専用のドメニコ・リドラ通りを歩きます。あっという間に現実の当たり前の世界に戻ってくるのがとても不思議。
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途中のトンネルにあったフレスコも逃しません!
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中央の聖母子だけ奇跡的に残っていました。お釈迦様の手と同様、幼子の手のポーズは意味があるのでしょう。これも祝福のポーズかしら?
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さっきはすごい土砂降りだったのに、ほらっ青空が広がってきましたよ!!
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エノテカの前にあったタイルでは、マテーラが丘の上の町のように描かれています。違うんだよな。これとは・・・
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サンタ・キアラ教会。17世紀後半の創建です。中央のニッチェにはカルミネ(修道会カルメル会)の聖母の彫像が、入口右脇には聖キアラ、左脇には聖フランチェスコの彫刻が置かれていました。
建物の下に行くにつれ、風化が激しくなっていきます。2本の付け柱も、根元部分がはっきりしません。中央扉の周りの見事な装飾は扉の上部部分のみ何とか持ちこたえている状態ですが、イタリア南部地方に伝わる繊細な透かし彫りをここでも見ることが出来ました。 -
お次は有名なプルガトリオ教会。プルガトリオとは地獄と天国の間にあるという煉獄の意味。煉獄は、死者の霊魂が天国に入る前に火によって罪の浄化を受けるとされる場所です。
中世の時代、教会の中枢はカヴェオーゾ地区にありましたが、司教がそこに行きつくのに大変苦労する場所が多かったため、マテーラの人々の全面的な協力を得て、町の高台に石造りの教会を建てることになったのです。町の人々自らミュールやロバを引き連れて労働力を提供しました。教会は1726年から21年間かけて現在の場所に建てられました。 -
この教会を有名にしたのは、ご覧のような骸骨がファサードのあちこちに見られること。当時のマテーラの人々は、死者を尊び、死者に捧げる教会を欲していたのです。
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中央扉の装飾もずらりと骸骨が並びます。全部で36の四角に分かれていて、最上部の骸骨は支配者、高位聖職者たち。下に行くにしたがって、教会建設に貢献した市民たちの骸骨となっているのだそうです。
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ファサード中央のペディメント部分には、教会の完成した1747という文字と、左に鎌のようなもの、右に砂時計を携えた骸骨を見ることが出来ます。中央の火で焼かれる場面は煉獄を表しているのでしょう。よく見ると、炎の部分には赤い色がわずかに残っています。
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最上部のニッチェには、ここからだとわかりにくいのですが、聖母子の姿がありました。左右に見える花籠のような装飾も独特なものがあります。
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正面向かって左手のニッチェには、大天使ミカエル・・・
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右側には、守護天使の彫像がそれぞれ収まっていました。
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お次の教会、どこかで見たようなと思ったら、お昼過ぎにドゥオモからカヴェオーゾ地区に向かう途中に通ったサン・フラナンチェスコ広場の、アッシジのフランチェスコ教会でした。道がこんな風に接続していたとは!! ドゥオモのあるチヴィタ地区はサッシを通らないと行けないものと思っていましたよ。
おっ今度は開いていますよ。教会は開いていれば、どこの教会だろうと入っていく私です。 -
アッシジのフランチェスコ教会の主扉から見ると、先ほど訪れたプルガトリオ教会が、目と鼻の先に見えますよ。
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さて、アッシジのフランチェスコ教会の内部です。中は思ったよりも狭く、一廊式にサイド・チャペルが付属した形式となっています。
バロック調の装飾は年代がわかりませんが、新しいもののように見えました。一瞬砂糖菓子のアイシングのようだなと思いました。 -
天井も穏やかな柔らかい装飾で覆われています。
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こちらは、ちょっと生々しい聖アガタの殉教の様子を描いた絵画。
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主祭壇に向かって左側。片側3つずつの礼拝堂がありました。
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右側2番目の礼拝堂には見事な木製の祭壇がありました。聖人画が描かれた説教壇も渋い!
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主祭壇で目を見張るのは、15世紀に作られたベネツィア風の板絵が9枚つづりのポリプティク(多翼祭壇画)です。フレームは17世紀のもの。ラッザロ・バスティアーニ Lazzaro Bastiani の作品で、中央には聖母子、その左側にはサン・ピエトロ、サン・フランチェスコ、サンタ・カテリナ、サン・ベルナルディーノ、右側にはサン・パオロ、サン・アントニオ、サンタ・エりザベッタ、そしてトローサのサン・ルドヴィコが描かれていました。
教会全体のイメージ同様、これらの絵も柔らかく繊細で、質の良い上品さを漂わせていました。 -
古代の地下教会が見えるという、左側3番目の礼拝堂にやってきたのですが、地下への扉は見つからず・・・トホホ状態でした。ここでは確かに古いフレスコが壁を覆っていました。
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古い扉の向こう、入ってよいのやら悪いのやら・・・いつになく遠慮してここから写真を写すのみで、出てきてしまいました。壁のフレスコは聖セバスティアーノのようですが、はっきりしませんね。
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まだまだ、行きたいところ山積みのマテーラです。こちらは、サンタ・ルチア・エ・アガタ・アッラ・フォンターナ教会。9世紀か10世紀の創建のベネディクト会の修道院でしたが、1938年に最後の修道女の死後に閉鎖となっています。
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その廃止された教会の中央扉の絵がなかなかユニークだったので、写してみました。最近の作品でしょうが、遊び心?に満ちています。
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1924年10月24日のマテーラ。この辺りを描いた作品が通りを飾っていました。
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お次はサン・ドメニコ教会。こちらの教会はマテーラでも最も古いものの一つで、その歴史は1230年まで遡ります。外観は13世紀の創建当時のプーリア・ロマネスク様式をかなりの部分残しています。
修道院として使われてきましたが、修復もままならないほど教会にはお金がなく、19世紀のナポレオン統治時代には、兵舎、郵便局として利用され、1927年以降は州政府の建物となっています。現在はホテルとして一般に開放されているほか、内部を見学するガイドツアーも行われているようです。 -
パラッツォ・デル・ゴヴェルノ。ドメニコ教会の裏にあった、こちらも州政府の建物です。
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朝ツアーを始めた起点のヴィットリオ・ヴェネト広場に戻ってまいりました。受胎告知の館。こちらもドメニコ会の修道院だった建物でした。
かつて、この広場の地下には、総面積が5000?という洞窟が張り巡らされた地下街が縦横武人に伸びていたそうです。町の恥部とされていた悪臭漂う地下街を埋めたて、町の人々に供給する雨水と湧水を貯める貯水タンクを置き、プレシピト広場と改名したのが1880年のこと。1993年の世界遺産登録をきっかけにさらに広場は整備され、現在のような美しい広場に変身しました。
本当のマテーラはこの広場の下に眠っていたんですね。 -
広場に残る遺構をちょっと見て行きましょう。こちらは、サント・スピリト教会の地下教会部分です。こちらの部分だけ、埋め立て作業から逃れたようです。創建は8世紀から9世紀。19世紀にいたるまで、絶えず修復を行い、拡張されてきました。状態は悪いですが、13世紀のフレスコが残っているそうです。
見学通路が設けられているのに、入口の扉はしっかりと閉まっていました。残念! -
地下遺構の反対側はこちら。古い地下街はこの下に埋もれています。
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次に訪れたのは元サン・ロッコ病院。教会だと思ったのですが、そばの解説板には「病院」と書かれていました。ここは装飾が大変綺麗に残っていました。
1610年に病院が建てられた背景には、建物のそばにある1233年創建の洗礼者サン・ヨハネ教会と深く関係があるようです。当時はペストが流行していて、病気の巡礼者の看護のため、病院施設が必要に迫られたからでした。 -
一つ一つ微妙に形の異なる、アカンサスとブドウの葉のデザインに脱帽です。ウットリ・・・ミケーレ・デル・ジューディチェとマルコ・ディ・ラウリアという2人の石工によって作られたそうですよ。
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と、ふと上を見上げると、あら! あそこにいらっしゃるのは洗礼者ヨハネ(ジョヴァンニ)さんではないですか! となると、こちらは、洗礼者ヨハネ教会ですよね。
解説板にすっかり惑わされてしまいましたが、1610年に病院ができた際に、入口が病院の一部に組み込まれてしまったらしいのです。
改めてご紹介します。1233年創建のサン・ジョヴァンニ・バッティスタ 洗礼者ヨハネ教会です。 -
中に入って確信しました。確かに洗礼者ヨハネが出迎えてくれました。
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プーリア州、(いやここはバジリカタ州でした!)名物の手の込んだ柱頭も見ることが出来ました。
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見てください!
柱の柱頭が一つ一つ異なっていて、それはそれは見事な出来栄えです。他のものが目に入らない状態でしたが、改めて見渡すと、思ったよりずっと広い空間が広がっていました。この教会でも、18世紀に華美なスタッコ装飾を剥がし、オリジナルに近い状態を復元したのだそうです。 -
シンプル・イズ・ザ・ベストといった雰囲気の主祭壇です。青っぽいステンドグラスにどうしても目が行ってしまいますが、主祭壇はその下です。
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ステンドグラスをアップするとこんな感じです。
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光の演出が憎いほど決まっていた礼拝堂です。古い作品ではありませんが、聖母子の絵がとても新鮮・・・
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身廊中央からカウンターファサード方面です。
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16世紀のフレスコ画の聖母子を取り込んだ幕屋。こちらの装飾も見事でした。ここでも注目は柱頭のデザインです。
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お終いは、マテーラの彫刻家パスクァーレ・カブレーセによる彩色の施された木像彫刻のピエタです。
この教会には木像が多く、他にも聖人の記念日には、お神輿の上にのせて町内を回る聖人像がガラスケースの中に展示されていました。 -
マテーラ放浪もそろそろ終盤です。サッシまで下りて行かずに、どこか眺めの良い場所はないかなと、洗礼者ヨハネ教会の前の道を歩いていきました。その名もサン・ロッコ通りです。
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今朝がた歩いたフィオレンティーニ通りは、この1本下の道です。
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これ以上行くと、また階段を下りることになってしまうなあ・・・
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古い住居の修復をしている大工さんたちにズームイン!
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最後はやはり、ここでしょう。
道の先で、飽かずこの景色を眺めていたジモティの女性と並んで、サッシバリサーノ地区をゆっくり楽しみます。近くの町に住むというその女性は、1か月に一度はこの景色を見るために訪れると話してくれました。 -
ドゥオモの工事現場を入れないで撮った1枚。時間がゆっくりと通り過ぎていきました。何という充実感でしょう!
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辺りには、朝な夕なこの景色を愛でることの出来るB&Bがたくさんありました。宿泊した人だけの特権ですね。
気が済むまで景色を堪能した後、そろそろ列車の時刻も気になる時間となったので、まてーらに別れを告げることにしました。夜景も見たかったのだけれど、夜の9時すぎないと暗くならないんですよねえ・・・ -
鉢植えの植物に、人々の緑への思いを知ることが出来ます。
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家に取り付けられた電灯が灯るころ、町はどんなふうに変身するのかな?
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これはどこの教会だっけ?
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サン・ジョヴァンニ・バッティスタ広場のタイル表示も見ごたえあり!
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サッシとのお別れ写真です。
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はい。出発点のヴィットリオ・ヴェネト広場の噴水前に戻って参りましたよ。夕方のせいか、人が大勢集まっていますね。待ち合わせ場所としてもここは最適ですよ。
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おまけです。噴水前にあった注意書きです。惜しいなあ・・・ここまで頑張ったのに・・・なぜこうなっちゃったのかしら???
明日はさらに南のレッチェを目指します。続きは、イタリア あっちも! こっちも! と欲張りなたび その48、 レッチェ(1)で。
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