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 鎌倉市材木座6にある補陀洛寺(ふだらくじ)は真言宗大覚寺派のお寺で南向山帰命院補陀洛寺という。補陀洛寺は養和元年(1181年)に源頼朝(久安3年(1147年)〜建久10年(1199年))の祈願所として創建され、その後は位牌所となったと伝えられている。開山は文覚上人(保延5年(1139年)〜建仁3年(1203年))、開基は頼朝であり、七堂伽藍を備える大寺であった。後に頽廃し、文和年間(1352年〜1356年)に鶴岡供僧頼基が中興した。自刻像と伝わる木造文覚上人裸形像(荒行像)が残っているが、長八寸の開基・頼朝の木像は、開山・文覚上人像を真似て作像したのであろう。頼朝像の前にある位牌に記された「征夷大将軍二品幕下頼朝神儀」は文覚の書とされる。寺紋は笹竜胆(ささりんどう)で源氏の家紋である。<br /> この寺に残る源頼朝坐像は寺伝では自刻像とされ、42歳の顔であるとも言われる。それなら、文治5年(1189年)の年に当たり、この年の後半には奥州・平泉に遠征しているために、年の前半のことになろう。遠征の長旅前に自分の像を残すことは心情的にも理解できる。 <br /> なお、補陀洛寺には平清盛筆とされる平家赤旗が伝来している。他寺の住職に言わせれば、緊急時にはご本尊、開山、開基の各像は最優先で運び出すという。戦利品や記念品などは後回しにするものだとされる。平家赤旗と開基像(源頼朝坐像)が残っているということは、開基像を持ち出す際に平家赤旗も一緒に持ち出したということであろう。<br /> 横浜市南区井土ヶ谷上町にある乗蓮寺は高野山真言宗のお寺で西向山妙歓院乗蓮寺という。乗蓮寺は貞応元年(1222年)に創建された。開山は照清法師、開基は平政子である。寺紋は三つ鱗(みつうろこ)で北条氏の家紋である。山号「西向山」は補陀洛寺の「南向山」に習ったものであろうか。また、高野山真言宗のお寺は源頼朝が晩年に創建(建久8年(1197年))した證菩提寺(横浜市栄区上郷町)(http://4travel.jp/travelogue/10652825)と同じである。<br /> この寺には政子坐像、政子化粧の井、政子お手植えのカヤが残っている。政子坐像は寺伝では自刻像とされ、62歳の姿だという。承久の変(承久3年(1221年)の際に、鎌倉で謀反があり、武蔵国引越村に難を逃れたのだという。平政子(保元2年(1157年)〜嘉禄元年(1225年))がこの地を去る際に、里人が名残惜しんだので、そっくりに似せた自分の分身を残したとされる。政子は日本史上では「北条政子」(おそらくは近世以降の呼び名であろう)として最も名の知られた女性の一人であり、頼朝と結婚後は「御台所」、頼朝没後は「尼御台」(あまみだい)、一般には「尼将軍」の名で知られている。政子は、朝廷から官位(建保6年(1218年)、従三位に叙される。(その後、同年10月には従二位に昇叙し、その4年後には剃髪し二位尼と称されたりしている。))を受ける際に「平政子」と名乗り(吾妻鑑や寺社への寄進・奉納物には「平政子」と記されている)以前の名は一切判明していないとされるが、寺伝では「朝日御前」と名付けられたとされる。<br /> 同じ1992年に世界遺産の暫定リストに掲載された彦根城には、有名な「ゆるキャラ」・ひこにゃんがいるが、鎌倉には「ゆるキャラ」さえもなかった。鎌倉の顔は鎌倉大仏であるかも知れないが、頼朝も政子もその顔が出てこないという不思議な形のままで「武家の古都・鎌倉」として世界遺産に推薦され、当然ながら落選(正確には推薦辞退)した。鎌倉市の世界遺産登録推進担当の部署では他の登録された世界遺産にも、同時に暫定リストに掲載された世界遺産候補にも無頓着・無関心だったという。それよりも何よりも、文化財行政にも無知であり、歴史にも無知であった。鎌倉市のホームページ(http://www.city.kamakura.kanagawa.jp/shisei/gaiyou/intro.html)には、鎌倉市の歴史を「12世紀末、源頼朝は源平の合戦で平氏を滅ぼし,征夷大将軍となり鎌倉に幕府を開きました。初の武士による政治がこの時から始まり、19世紀中ごろまで続く武家政権の基盤が作られました。」とし、鎌倉時代の始まりを全国に守護・地頭を置いた文治元年(1185年)からではなく、頼朝が征夷大将軍に任じられた建久3年(1192年)とする表現になっている。これでは小学生の教科書にある鎌倉時代の始まりとは反故をきたすことになる。あるいは、鎌倉時代の始まりを知らなかったので、「武家の古都・鎌倉」が世界遺産に落選する必然があったことを万人にも納得させる結果となっているとも言えようか(。これについては私からメールで鎌倉市に疑問を投げかけ、今では「鎌倉は、日本における古代から中世への転換期において源頼朝をリーダーとする武家が、日本で初めて武家政権を樹立し、それまでの貴族支配に替わる武家の支配を築いた場所です。幕府を開いた頼朝は、幕府の組織を整えるとともに都市づくりを開始しました。都市づくりがほぼ完成した1230年ころになると、幕府は全盛期を迎え、鎌倉は政治、軍事、外交、文化などあらゆる面で日本の中心になりました。」と書き改められている)。(http://dr-kimur.at.webry.info/201409/article_6.htmlから転載)<br /><br /> 上野の東京国立博物館(東博)では、正月2日(土)から開館し、「博物館に初もうで」と題した企画が催されている。1月11日(月・祝)が最初の展示替えのようなので、正月気分が残るうちにと出掛けてみた。<br /> 本館1階の入って右側の仏像展示には「伝源頼朝像」があった。文献上では最初に正月に初詣をしたのは頼朝であるとされているからこの催しにこの「伝源頼朝像」が選ばれたのだろう。またケースでの展示では<br />「重要文化財 伝源頼朝坐像<br /><br />        木造、彩色、玉眼<br />      鎌倉時代・13〜14世紀<br /><br /> 狩をする時の服装で烏帽子をいただくこの像のような姿は、武士の略式の正装。鎌倉鶴岡八幡宮に伝来したといい、同じ鎌倉にある建長寺の北条時頼像、明月院の上杉重房像とよく似ている。頼朝歿後100年近く経過したころの作で、どれだけ似ているかは不明。」(http://4travel.jp/travelogue/10881307)<br />との解説が付くのだが、こうしたオ−プンでの展示では「鎌倉鶴岡八幡宮境内にあった白旗神社に伝来したとされる。」で説明が終わる。建長寺の開基(北条時頼)像や明月院の開基(上杉重房)像と良く似ていると記載されていれば、来館者は、これも京都・神護寺の伝源頼朝像(肖像画)と同様に、源頼朝像ではないと思うはずだ。いつ行ったかで来館者に誤解を与える展示が日本のトップにある博物館が行なうべきことではなく、避けるべきことであると思う。<br /> 昨年だったと思うが鎌倉国宝館ではこうした良く似た像が3体同時に展示されたことがある。すなわち、これらの像は同一人物像で、北条時頼である。明月院のある谷は時頼邸跡であり、邸内に最明寺を建立した。その後、子・時宗が禅興寺として再興し、塔頭・明月院が設けられた。そうした経緯のある寺で唯一残った明月院に北条時頼像が伝わったとしても理解できることである。<br /> どうしてこの解説にしたのかを確認したいと思いこの展示を担当した学芸員を呼んでもらったが、本人は不在でそのリーダ(上司)がやって来た。<br /> 「頼朝像は見たことがあるのか?」「建長寺と甲府の善光寺のものを見ました。」と答える。まあ、頼朝像には関心が(少)ないようだ。「では、政子像は?」「…。」まあ、東博の仏像担当の学芸員のレベルはこの程度であろう。全国各地に点在する仏像を見て回ることなどほとんどないのだろう。東博の仏像関係の学芸員はレベルが低い(親と子のギャラリー 仏像のみかた 鎌倉時代編展(http://4travel.jp/travelogue/10903788))と言ってきているが、他にも学位(博士号)もないくせに威張っている学芸員(「クレオパトラとエジプトの王妃展」(http://4travel.jp/travelogue/11057078))や縄文時代のものを新しいから国宝にならないという室長(2つの遮光器土偶(http://4travel.jp/travelogue/11057679))や日本庭園の庭師としては甚だしくレベルが落ちてしまっていること(荒廃して行く東博−西洋タンポポが繁殖(http://4travel.jp/travelogue/11020321))など、枚挙に暇がない。<br /> STAP問題(小保方騒動)以降は普通に博士のレベルを疑う人が増えたと思う。私も他分野の博士のレベルを疑うことにしばしば鉢合わせている。中世史では黒田日出男氏(東大名誉教授)や五味文彦氏(東大名誉教授)(https://www.amazon.co.jp/gp/cdp/member-reviews/A18QCPBE4SQ40J/ref=pdp_new_read_full_review_link?ie=UTF8&amp;page=1&amp;sort_by=MostRecentReview#R2NCD2QQWRB1V5)などの実力を疑っている。いわんや博士でもないと昔から元々疑ってかかっている。それにしても東博に博士号を持つ学芸員が少ないのはおかしなことだ。<br />(表紙写真は「伝源頼朝像」)

源頼朝像と政子像は見たことがありますか?

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2016/01/08 - 2016/01/08

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ドクターキムル

ドクターキムルさん

 鎌倉市材木座6にある補陀洛寺(ふだらくじ)は真言宗大覚寺派のお寺で南向山帰命院補陀洛寺という。補陀洛寺は養和元年(1181年)に源頼朝(久安3年(1147年)〜建久10年(1199年))の祈願所として創建され、その後は位牌所となったと伝えられている。開山は文覚上人(保延5年(1139年)〜建仁3年(1203年))、開基は頼朝であり、七堂伽藍を備える大寺であった。後に頽廃し、文和年間(1352年〜1356年)に鶴岡供僧頼基が中興した。自刻像と伝わる木造文覚上人裸形像(荒行像)が残っているが、長八寸の開基・頼朝の木像は、開山・文覚上人像を真似て作像したのであろう。頼朝像の前にある位牌に記された「征夷大将軍二品幕下頼朝神儀」は文覚の書とされる。寺紋は笹竜胆(ささりんどう)で源氏の家紋である。
 この寺に残る源頼朝坐像は寺伝では自刻像とされ、42歳の顔であるとも言われる。それなら、文治5年(1189年)の年に当たり、この年の後半には奥州・平泉に遠征しているために、年の前半のことになろう。遠征の長旅前に自分の像を残すことは心情的にも理解できる。 
 なお、補陀洛寺には平清盛筆とされる平家赤旗が伝来している。他寺の住職に言わせれば、緊急時にはご本尊、開山、開基の各像は最優先で運び出すという。戦利品や記念品などは後回しにするものだとされる。平家赤旗と開基像(源頼朝坐像)が残っているということは、開基像を持ち出す際に平家赤旗も一緒に持ち出したということであろう。
 横浜市南区井土ヶ谷上町にある乗蓮寺は高野山真言宗のお寺で西向山妙歓院乗蓮寺という。乗蓮寺は貞応元年(1222年)に創建された。開山は照清法師、開基は平政子である。寺紋は三つ鱗(みつうろこ)で北条氏の家紋である。山号「西向山」は補陀洛寺の「南向山」に習ったものであろうか。また、高野山真言宗のお寺は源頼朝が晩年に創建(建久8年(1197年))した證菩提寺(横浜市栄区上郷町)(http://4travel.jp/travelogue/10652825)と同じである。
 この寺には政子坐像、政子化粧の井、政子お手植えのカヤが残っている。政子坐像は寺伝では自刻像とされ、62歳の姿だという。承久の変(承久3年(1221年)の際に、鎌倉で謀反があり、武蔵国引越村に難を逃れたのだという。平政子(保元2年(1157年)〜嘉禄元年(1225年))がこの地を去る際に、里人が名残惜しんだので、そっくりに似せた自分の分身を残したとされる。政子は日本史上では「北条政子」(おそらくは近世以降の呼び名であろう)として最も名の知られた女性の一人であり、頼朝と結婚後は「御台所」、頼朝没後は「尼御台」(あまみだい)、一般には「尼将軍」の名で知られている。政子は、朝廷から官位(建保6年(1218年)、従三位に叙される。(その後、同年10月には従二位に昇叙し、その4年後には剃髪し二位尼と称されたりしている。))を受ける際に「平政子」と名乗り(吾妻鑑や寺社への寄進・奉納物には「平政子」と記されている)以前の名は一切判明していないとされるが、寺伝では「朝日御前」と名付けられたとされる。
 同じ1992年に世界遺産の暫定リストに掲載された彦根城には、有名な「ゆるキャラ」・ひこにゃんがいるが、鎌倉には「ゆるキャラ」さえもなかった。鎌倉の顔は鎌倉大仏であるかも知れないが、頼朝も政子もその顔が出てこないという不思議な形のままで「武家の古都・鎌倉」として世界遺産に推薦され、当然ながら落選(正確には推薦辞退)した。鎌倉市の世界遺産登録推進担当の部署では他の登録された世界遺産にも、同時に暫定リストに掲載された世界遺産候補にも無頓着・無関心だったという。それよりも何よりも、文化財行政にも無知であり、歴史にも無知であった。鎌倉市のホームページ(http://www.city.kamakura.kanagawa.jp/shisei/gaiyou/intro.html)には、鎌倉市の歴史を「12世紀末、源頼朝は源平の合戦で平氏を滅ぼし,征夷大将軍となり鎌倉に幕府を開きました。初の武士による政治がこの時から始まり、19世紀中ごろまで続く武家政権の基盤が作られました。」とし、鎌倉時代の始まりを全国に守護・地頭を置いた文治元年(1185年)からではなく、頼朝が征夷大将軍に任じられた建久3年(1192年)とする表現になっている。これでは小学生の教科書にある鎌倉時代の始まりとは反故をきたすことになる。あるいは、鎌倉時代の始まりを知らなかったので、「武家の古都・鎌倉」が世界遺産に落選する必然があったことを万人にも納得させる結果となっているとも言えようか(。これについては私からメールで鎌倉市に疑問を投げかけ、今では「鎌倉は、日本における古代から中世への転換期において源頼朝をリーダーとする武家が、日本で初めて武家政権を樹立し、それまでの貴族支配に替わる武家の支配を築いた場所です。幕府を開いた頼朝は、幕府の組織を整えるとともに都市づくりを開始しました。都市づくりがほぼ完成した1230年ころになると、幕府は全盛期を迎え、鎌倉は政治、軍事、外交、文化などあらゆる面で日本の中心になりました。」と書き改められている)。(http://dr-kimur.at.webry.info/201409/article_6.htmlから転載)

 上野の東京国立博物館(東博)では、正月2日(土)から開館し、「博物館に初もうで」と題した企画が催されている。1月11日(月・祝)が最初の展示替えのようなので、正月気分が残るうちにと出掛けてみた。
 本館1階の入って右側の仏像展示には「伝源頼朝像」があった。文献上では最初に正月に初詣をしたのは頼朝であるとされているからこの催しにこの「伝源頼朝像」が選ばれたのだろう。またケースでの展示では
「重要文化財 伝源頼朝坐像

        木造、彩色、玉眼
      鎌倉時代・13〜14世紀

 狩をする時の服装で烏帽子をいただくこの像のような姿は、武士の略式の正装。鎌倉鶴岡八幡宮に伝来したといい、同じ鎌倉にある建長寺の北条時頼像、明月院の上杉重房像とよく似ている。頼朝歿後100年近く経過したころの作で、どれだけ似ているかは不明。」(http://4travel.jp/travelogue/10881307
との解説が付くのだが、こうしたオ−プンでの展示では「鎌倉鶴岡八幡宮境内にあった白旗神社に伝来したとされる。」で説明が終わる。建長寺の開基(北条時頼)像や明月院の開基(上杉重房)像と良く似ていると記載されていれば、来館者は、これも京都・神護寺の伝源頼朝像(肖像画)と同様に、源頼朝像ではないと思うはずだ。いつ行ったかで来館者に誤解を与える展示が日本のトップにある博物館が行なうべきことではなく、避けるべきことであると思う。
 昨年だったと思うが鎌倉国宝館ではこうした良く似た像が3体同時に展示されたことがある。すなわち、これらの像は同一人物像で、北条時頼である。明月院のある谷は時頼邸跡であり、邸内に最明寺を建立した。その後、子・時宗が禅興寺として再興し、塔頭・明月院が設けられた。そうした経緯のある寺で唯一残った明月院に北条時頼像が伝わったとしても理解できることである。
 どうしてこの解説にしたのかを確認したいと思いこの展示を担当した学芸員を呼んでもらったが、本人は不在でそのリーダ(上司)がやって来た。
 「頼朝像は見たことがあるのか?」「建長寺と甲府の善光寺のものを見ました。」と答える。まあ、頼朝像には関心が(少)ないようだ。「では、政子像は?」「…。」まあ、東博の仏像担当の学芸員のレベルはこの程度であろう。全国各地に点在する仏像を見て回ることなどほとんどないのだろう。東博の仏像関係の学芸員はレベルが低い(親と子のギャラリー 仏像のみかた 鎌倉時代編展(http://4travel.jp/travelogue/10903788))と言ってきているが、他にも学位(博士号)もないくせに威張っている学芸員(「クレオパトラとエジプトの王妃展」(http://4travel.jp/travelogue/11057078))や縄文時代のものを新しいから国宝にならないという室長(2つの遮光器土偶(http://4travel.jp/travelogue/11057679))や日本庭園の庭師としては甚だしくレベルが落ちてしまっていること(荒廃して行く東博−西洋タンポポが繁殖(http://4travel.jp/travelogue/11020321))など、枚挙に暇がない。
 STAP問題(小保方騒動)以降は普通に博士のレベルを疑う人が増えたと思う。私も他分野の博士のレベルを疑うことにしばしば鉢合わせている。中世史では黒田日出男氏(東大名誉教授)や五味文彦氏(東大名誉教授)(https://www.amazon.co.jp/gp/cdp/member-reviews/A18QCPBE4SQ40J/ref=pdp_new_read_full_review_link?ie=UTF8&page=1&sort_by=MostRecentReview#R2NCD2QQWRB1V5)などの実力を疑っている。いわんや博士でもないと昔から元々疑ってかかっている。それにしても東博に博士号を持つ学芸員が少ないのはおかしなことだ。
(表紙写真は「伝源頼朝像」)

  • 補陀洛寺に伝わる源頼朝坐像。

    補陀洛寺に伝わる源頼朝坐像。

  • 乗蓮寺に伝わる平政子坐像。

    乗蓮寺に伝わる平政子坐像。

  • 東博所蔵の「伝源頼朝像」。北条時頼像とされる。

    東博所蔵の「伝源頼朝像」。北条時頼像とされる。

  • 神護寺に伝わる伝源頼朝像。足利直義(足利尊氏の弟)との見方が有力視される。

    神護寺に伝わる伝源頼朝像。足利直義(足利尊氏の弟)との見方が有力視される。

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