2015/12/12 - 2015/12/12
1286位(同エリア2026件中)
滝山氏照さん
天正8年(1580)豊臣秀吉派遣の前田利家(まえだ・としいえ)・上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)を総大将とする北国軍の攻撃に対し八王子城本丸に次ぐ松木曲輪を守備していた氏照重臣中山勘解由家範(なかやま・かげゆ・いえのり)は利家の助命降伏の呼掛けにも拘わらず八王子城を守って討死した優れた武将として知られています。
中山勘解由家範の出自は武蔵七党の丹党の庶流で、高麗五郎経家なる豪族が武蔵国高麗郡加治郷に定住し地名から加治氏と名のり、後に数えて13代目の家勝(いえかつ)の頃同郷の中山村に移ったため中山氏と自らを称します。
家勝は関東管領家の山内上杉氏に仕え上杉氏の先兵となって上野国から武蔵国を転戦、然しながら天文15年(1546)の河越の戦いで小田原北条氏に大敗し勢力を失った上杉氏から離反し小田原北条氏三代当主氏康(うじやす)に臣従するに至ります。
家勝の子家範(いえのり)は武蔵国西部を中心とする所領を有する大石定久の婿養子として入った藤菊丸(後の氏照)に仕えます。
さて、智将勘解由家範最期を聞き感銘した徳川家康は入間郡加治にて潜伏している二人の息子を探し出しそれぞれを家康や徳川氏の近習として出仕させます。
嫡男中山照守(なかやま・てるもり、1570~1634)は家康の息子秀忠(ひでただ)に仕え、慶長5年(1600)秀忠軍に従い真田幸村の軍勢と戦い軍功を挙げるも軍紀違反を咎められ一時閑居しますが後に許され300石を安堵されます。
照守は高麗八条流の馬術の使い手であったので秀忠に馬術を教授し評価を得、続く家光にも手ほどきを授けています。また大坂の陣でも得意の馬術で戦功を挙げ石高が加増され、寛永9年(1632)には鎧奉行に就任、遂に3500石の大旗本に至り、その後裔直邦(なおくに)に至っては黒田家の名跡を引継ぎ譜代大名となっています。
二男信吉(のぶよし、1577~1642)家康の近習として仕え、慶長14年(1609)常陸水戸藩の立藩に際して正直な性格と人柄から信任を得ていた家康より幼少の十一男頼房(よりふさ)を補佐し幕府の意向を踏まえて藩政を主導する附家老を命ぜられ、信吉以降歴代の中山氏は水戸藩の家老職を継ぐなか戸沢氏転封後は松岡周辺は水戸藩領として中山氏の居館となり、明治維新後は短命ながら中山氏を藩主とする松岡藩が立藩し廃藩置県まで続きます。
特筆すべきは初代藩主頼房の後継を巡っては信吉は光圀(みつくに)を将軍家光に推挙したと伝えられ後に光圀の水戸藩主が実現します。
尚根古屋地区にある旧宗関寺跡に建てられた北条氏照供養塔については氏照没後100年忌にあたり水戸藩附家老の中山信治(なかやま・のぶはる、1628~1689)が寄進したもので、氏照重臣で松木曲輪で討死した中山勘解由家範の後裔にあたります。
八王子城跡看板に記載の「八王子城の構造」については次の通りです。
「八王子城の構造
八王子城は、深沢山(城山)山頂に本丸を置き、周辺に延びる尾根や細かく入り組んだ谷、麓の平地など、自然の地形を利用して築かれた戦国時代の城郭です。城の構造は、山頂や尾根は平に削りとって大小の曲輪を何段にも並べ、建物を作りました。谷間には盛土して平地とし、館を構え、麓には屋敷割をして城下町をつくりました。山中を流れる城山川は堀として利用し、橋を架けることによって、防御の大きな役割を担っていたと思われます。
八王子城は跡は、約154haにもおよぶ広大な範囲の史跡の指定を受けていますが、そのい周辺にも当時の遺構が残っています。想像以上に大規模な縄張であったことがうかがえます。
八王子城は、その地形的な特徴や、防御の方法を考えると、いくつかの地区に分けられます。本丸など主郭を中心とした山頂付近とそれに続く尾根に造られた要害地区、御主殿跡など館と見られる居館地区、城下町となる根古屋地区に分けられます。その範囲は少なくとも、東西約2Km、南北約1Kmに及んでいます。現在でも、建物などを建てた曲輪の跡、石垣や堀切、土塁や通路の跡など、当寺野遺構がよく残っています。八王子城跡は、全国的にみても、これら戦国時代の遺構をよく残す代表的な山城跡といえるでしょう。」
- 旅行の満足度
- 4.5
- 交通手段
- 高速・路線バス JRローカル 徒歩
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八王子城要害地区地図
八王子城は根古屋地区、居館地区及び要害地区により構成され要害地区については入口に設置の要害地区地図を確認します。 -
要害地区入口
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木橋
早速左右両方向が川となっている木橋を渡ります。 -
要害地区登口
「八王子城跡本丸公園」と記載された看板を脇目にいよいよ本丸めがけて登ります。 -
新道・旧道標識
新旧ル−ト標識があり、左折が多くのハイカ−が利用する新道ル−ト、右折が旧ル−トとなります。自分は往は新道、復は旧道を選択しました。 -
新道ルート
たちまち細い小路を進むことになります。 -
新道ルート
細い小路の眼下には急斜面が展開しています。 -
新道ルート
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新道ルート
途中には所々左右に開けた狭い曲輪が見られます。 -
金子曲輪標柱
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金子曲輪
氏照重臣金子三郎右衛門家重(かねこ・さぶろううえもん・いえしげ)が守備していた曲輪で、尾根をひな壇上に造成して敵の侵入を防ぐ工夫がなされています。 -
金子曲輪説明
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柵門跡
山頂の本丸方向に続く道の尾根上に築かれた八合目にある平坦地で、柵門跡(さくもんあと)と呼ばれています。尚この柵門跡で新道と旧道が合流する位置となります。旧道は途中で陣馬街道方向への道に繋がります。 -
柵門跡説明
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新道ルート
途中の登り道を振り返ります。 -
九合目石柱
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市街展望
暫く進むと左手に市街を見下ろす展望が現れます。 -
市街展望
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市街展望
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市街展望
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休憩所
本丸周辺の曲輪として配された松木曲輪、小宮曲輪は籠城のための施設と考えられ、下からは攻めにくく上からは攻撃できる防御には有利な構造となっています。 -
本丸周辺の曲輪説明
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八王子神社
石段を登ると切削された上部に八王子神社が控えています。 -
八王子神社拝殿
麓の管理棟で入手したパンフレットの中にある「八王子神社と地名の由来」によれば『、八王子神社は、牛頭天皇(ごずてんのう)と眷属神(けんぞくしん、主神につき従う神々)である八人の皇子を祀る信仰とともに全国に展開します。この城山の八王子権現は、延喜16年(916)に華厳菩薩妙行が祀り、北条氏照が城の守護神としたもので、城の名称や八王子の由来になったとされてます。』 -
神楽殿
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横地社
八王子城落城の際檜原城に逃れるも追手に包囲され檜原城落城後に自害した氏照重臣で城代の横地監物吉信が祀られた祠堂で、奥多摩小河内ダム建設で奥多摩湖の湖底に沈むのを惜しんだ有志が資金を出し合って八王子城跡に移転することとなり本堂脇に鎮座しています。 -
横地社由来記石碑
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八王子神社境内風景
拝殿から境内を一望します。 -
八王子城本丸
階段を登り詰めると切削された八王子城本丸があります。 -
イチオシ
八王子城本丸跡
小規模の祠堂と共に「八王子城趾」と刻された石碑が立しています。 -
本丸跡
切削された本丸は広くなく建物はなかったようです。北国軍攻撃に対しては城代の横地監物吉信が守備をしていたと言われています。 -
イチオシ
八王子城本丸趾石碑
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本丸跡説明
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本丸跡への階段
振り返ると急襲な階段を登ってきたことがわかります。 -
八王子城本丸跡
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八王子神社
本丸を離れ松木曲輪に移動、そこから八王子神社の神楽殿並びに拝殿を一望します。 -
松木曲輪跡
本丸に続く二の丸に相当する曲輪と言われており、北国軍攻撃に対し中山勘解由家範が守備をしていましたが多勢に無勢で防ぐ切れなかったようです。この戦いで奮戦した家範の勇猛ぶりが徳川家康の耳に入り、遺児兄弟は取立てられ弟信吉(のぶよし)は水戸藩家老になりました。 -
松木曲輪説明
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市街展望
松木曲輪からの展望は格別です。 -
八王子城城跡碑
松木曲輪には大正8年(1919)建立の「八王子城址の碑」が建っています。題字は北条氏康の後裔で最後の河内狭山藩主で後に子爵に叙された北条氏恭(ほうじょう・うじゆき)、碑文は当曲輪で討死した中山勘解由家範の末孫にあたり後に男爵に叙された中山信実(なかやま・のぶざね)となっています。 -
子爵北條氏恭氏毫額(近景)
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八王子神社(遠景)
松木曲輪から神楽殿を始めとする八王子神社を一望します。 -
小宮曲輪(遠景)
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小宮曲輪
三の丸あるいは一庵曲輪とも呼ばれ、現在では曲輪に建つ祠堂があります。 -
小宮曲輪
氏照重臣狩野一庵が守備したという曲輪で北国軍の内上杉景勝軍によって当曲輪の陥落が引き金となって次々と他の曲輪が破られます。 -
小宮曲輪標柱
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小宮曲輪説明
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腰曲輪案内板
手製ですが案内板が立っています。 -
腰曲輪
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帰路風景
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市街展望
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高丸
この先は切岸となっており案内板には危険と記されています。 -
高丸
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