2015/11/22 - 2015/11/24
1263位(同エリア3986件中)
愛吉さん
錦秋の京都を歩く、番外編です。
初日の11月22日、西山の紅葉見物より京都駅に戻ったのが午後3時過ぎ、その足で枳殻邸に向かいます。
枳殻邸はご存知、東本願寺の別邸です、3代将軍家光から寄進を受けた土地に時の住職が自分の隠居所を建てたのが始まりです。
その後代々の住職の隠居所となりました。 作庭は詩仙堂の石川丈山で回遊式庭園となっています。
続いて訪れたのは三十三間堂、ここはすごい人混み、堂内撮影禁止ですがラッシュの電車内並みの混みようです。
初日は此処まで。
2日目は高尾と北野で日没。
3日目は真如堂から祇園界隈に戻り遅い昼食、その後は八坂神社等付近を散策して時間待ちをする予定でしたが、まだ4時間程時間があります。
そこで思い切って、前から気になって居た処、チョイ見で済ませる処を訪ねる事にします。
そこは信長本廟と言われる阿弥陀寺と本能寺跡です。
両方を訪ねて京都駅に戻って来ましたがまだ時間があります。
お茶をして時間を潰し、お弁当を買って東京に戻ります。
忙しい三日間でした。
表紙の写真は枳殻邸
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 新幹線
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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11月22日、西山の紅葉見物を済ませ京都駅に戻って来ました。
時刻は3時を過ぎた処、京都駅前にある枳殻邸(渉成園)に向かいます。
渉成園枳殻邸は東本願寺の隠居所であった処。作庭は詩仙堂の石川丈山です。
これは正門前に建つ石碑、拝観入口は西門から、ここから200米程離れています。 -
これを何だと思われますか。実は西門を入った正面に組まれている石垣なのです。
橋桁のようなな長方形な石、石臼、大きな建物の礎石、普通な山石等変化を求めて人の目を引きます。 -
庭園入口
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臨池亭
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傍花閣
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池に掛かる回掉廊
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池の淵を飾る赤い実
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キョウトタワーが直ぐそこに見えます。
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茶室縮遠亭
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印月池
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侵雪橋
帰って調べると、枳殻邸には13景と呼ばれる名所が有ります、又名物と呼ばれる灯篭、石塔、手水鉢等もあちこちに散在します。
ここはやはり時間を掛けてゆっくり回る処でしょう。 -
枳殻邸を出て七条大橋を渡り三十三間堂を目指しています。
ここは高瀬川でしょうか。 -
三十三間堂、ラッシュ並みの人混みです。外人も目立って多いように思います。
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庭の紅葉
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24日の午後。
真如堂からバスで祇園に来ました。
今回の京都旅行の予定は、一応全てクリヤー出来たので、祇園界隈で昼食を取り、後は付近の散策や買い物等で汽車待ちをする予定です。 -
万亭の暖簾
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暖簾を潜り万亭の玄関。
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祇園花見小路
近くで昼食を取り時計を見ると、汽車時刻まで4時間もあります。
そこで予定を変更し、前から気になって居た処、チョイ見で済まされる処を回る事にします。 -
先ず訪問したのは阿弥陀寺、織田信長の本廟です。
京阪出町柳から歩きます。
織田信長は本能寺で明智光秀に討たれましたが、その遺骸を密かに引き取り埋葬したのが、当時の阿弥陀寺の住職だったのです。
阿弥陀寺門前です -
門前には、謂れが掛かれた立札が出ています。
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門を潜り境内に入ります。
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裏の墓地の一角に、織田信長、信忠、討死衆の墓所が有ります。
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こちらが織田信長、信忠親子の墓です。
本能寺にある信長の墓に比べると小さく貧弱に感じますが、密かに葬った事を思うと、それなりに納得できます。 先ずはお参りを。 -
こちらが本能寺で討死した家来衆の墓です。 森三兄弟の名前が読めます。
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こちらの墓にも織田家臣、本能寺、二条城討死衆と読めます。
資料によると変後本能寺に残された織田方の遺体は57体だったそうで、これらの遺体も阿弥陀寺住職が光秀の許可を得て引き取り、埋葬したそうです。 -
こちらは織田家祖先の墓です。
信長公12世の方が建立。
阿弥陀寺は織田家の菩提寺なのです。 -
次ぎは本能寺跡です。
地下鉄烏丸御池で下車、目標の六角堂を目指します。
六角堂に到着。活花発祥の地です。 -
隣のビルに登り、六角形の本堂を眺めます。
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庭には可愛い羅漢さんの像が並んでいます。
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境内には京都の中心を示すへそ石が有ります。
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六角堂の横。烏丸通りには、京都市の中心を示す京都市道路元標の碑が建って居ます。
京都の道路は三条大橋がスタート地点なのでは。
それとも、 へそ石と関係があるのでしょうか。 -
六角堂から5分も歩くと本能寺跡です、昔を偲ぶものは何も在りません。
当時の本能寺は東西140米、南北270米の広大な面積を擁し、しかも幅2〜4米、深さ1米の堀に囲まれ、堀端は0.8米の石垣、その上に土塀を築く城塞並みの造りでした。
この本能寺に天正10年6月2日早暁(1582年6月21日)明智光秀が襲い掛かったのです。 -
立札も存在しますが、本能寺の変についてはあまり記されていません。
当時光秀は1万3千人の兵を率いていましたが、直接本能寺を攻撃した人数は3千人程だったと云われます。
他の1万人は信忠の居た妙覚寺の攻撃、要所の守備、予備軍等に使用したのでしょう。
一方の織田方は、多くて150〜60人と言われます。
戦いの時間は、午前4時に始まり8時には終了したとの事です。
433年前私が立ってるこの場所で、信長が討死したのです。 49歳でした。
南無阿弥陀仏。 -
もう一方の外れにも、この石碑があります。
前はこの碑が本能寺跡を示す唯一のものでした、写真でよく見た石碑です。
前出の写真に写る碑は最近造られたものでしょう。
信長の無念さを思いつつ六角堂に戻ります。
これで今回の京都旅行は終了です、地下鉄で京都駅に戻り、荷物を受け取り、お弁当を買って東京に戻ります。
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