2015/12/10 - 2015/12/10
295位(同エリア747件中)
ニッキーさん
我が街佐倉が誇れるものの筆頭、それは国立歴史民俗博物館(通称 歴博)です。展示が充実しているだけでなく、第一線に立つ研究施設でもあります。どうしてこんな素晴らしい施設が佐倉に造られたのか、理由は知りませんが、ここは本当に佐倉の自慢です。
そんな歴博へ久しぶりに行って来ました。これまでの経験では、だいたい第1~第3展示室を見るだけで疲れてしまい、第4~第6展示室は駆け足になることが常でした。
今回は初めて一人での見学なので、じっくり見て回ろうと思っていました。が、あまりにもていねいに見たため、結局第1~第3展示室を回ったところで時間切れ。閉館時間になってしまいました。まあ、車で20分ほどの距離に住んでいるのだから、続きはまた出直すことにします。
歴博へは皇太子さまがよくおいでになりますが、私が行く2日前には天皇皇后両陛下が8年ぶりにお見えになったそうで、常設展ではなく企画展か何かをご覧になったそうです。
佐倉インターチェンジから白バイとパトカーの先導で10数台の車を連ねてのご一行。You Tubeで見たら、美智子さまは寒いのに車の窓を開けて沿道に集まった人々に手を振っていらっしゃいました。博物館では佐倉市長、歴博館長らがお出迎え。歴博はやっぱり佐倉の誇りです。
- 旅行の満足度
- 4.5
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歴博は佐倉城址公園の中にあります。
広々した入口。
私は歴博は4度目かな?
我が家にホームステイしていたドイツ人留学生のハウケを案内して来て以来だから、前回来てからかれこれ15年になります。
一人で来るのは今回が初めて。
展示もかなり変わったと聞いているので、楽しみです。国立歴史民俗博物館 美術館・博物館
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展示室へ入る前に「プロローグ」という通路ができていました。
「プロローグ」へ入ったとたん、こんな演出に心をぐいっとつかまれます。 -
うわぁ、この通路、すごい〜。
オーロラのような頭上の幕をくぐるたび、現代・近代から近世〜中世〜古代・原始へと時代をさかのぼって行きます。
突き当りにあるのは2万5000年前、最も寒かった頃の地球です。
いやぁ、このつかみは凄いでしょう。
「プロローグ」と呼ばれるこの通路は「ディスプレイデザイン賞2011」で優秀賞を取ったそうです。 -
2万5000年前の地球。
気温は今より7度も低く、海面は現在より120メートルも下にあったということです。
日本は今より太っちょで、四国も九州も本州と地続き。北海道は大陸にくっついてますねー。
その頃日本は旧石器時代。
そんな寒さの中でも人々は動物や木の実を求めて移動して暮らしており、全国からたくさんの遺跡が見つかっているそうです。 -
第1展示室のテーマは「原始・古代」です。
縄文土器や高床倉庫が見えます。
ワクワク感をそそる演出です。
昔は「縄文式土器」「高床式倉庫」と習いましたが、最近は「式」は外して呼ぶそうです。
なお、歴博ではほとんどの展示品が複製(レプリカ)です。
オリジナルを見る感動はありませんが、目に見える形で展示されるというのは大切なこと。写真よりずっといいです。
展示は多岐に渡ります。
私は時間をかけてかなり念入りに見ましたが、旅行記では特に惹かれた所だけ、復元模型やジオラマを中心にピックアップしてご紹介します。 -
歴博では土器についているススや煮焦げ5000件を対象にAMS(加速器質量分析)法による炭素14年代測定を実施しました。
結果、日本で最初の遺跡は3万7000年前のもの、縄文時代の始まりは今から1万6000〜1万5000年前、弥生時代の始まりが3000年前、と従来の年代観よりも古いことが判明したとして、従来の年代表記でなく炭素14年代測定法に基づく年代表記を推進、展示品の年代表記も改められています。
年代に関しては諸説あるようですが、それにしても日本人はずいぶん昔から活動していたんだなーとしばらくこの表を眺めました。 -
「縄文人の顔つき・体つき」 約3500年前
40代の男性・18歳前後の女性の骨格と、それを基に顔つき体つきを復元したもの。
成人式や結婚式の際、健全な歯を抜歯する風習があったようで、痛そう〜。
糸切り歯を抜くならまだしも、展示されている頭蓋骨の中には上の前歯4本を抜歯したものもありました。 -
青森県三内丸山(さんないまるやま)遺跡の復元
縄文時代、6000年前から4500年前まで約1500年続いた大規模な村の跡です。
1500年も続いた村ってすごいですね。
周りには20〜数十棟の竪穴住居があり、中には面積が200平米以上の大型のもあったとか。
女性たちが土器を焼いたり植物の繊維を編んでざるや籠を作っています。 -
「約4500年前の住居跡」
千葉県市川市の姥山(うばやま)貝塚で発見された竪穴住居内の縄文人の家族です。
老年の女性1体、成人の男性2体、成人の女性1体、子ども1体です。
深い穴は柱の跡、浅い穴は炉の跡です。
右の人と一番左の人は腕に貝殻のブレスレットをしています。 -
各地の遺跡から出土したもの。
縄文人たちが何を食べていたかがわかります。
魚の骨(クロダイ・マダイ・スズキ・フグ)
貝類(アサリ・ハマグリ・アカニシ・マガキ・スガイ)
鳥獣の骨(タヌキ・カモ・イノシシ・シカ・アナグマ)
その他、クジラ・イルカ・ウミガメなど
フグも食べてたのか〜。 -
縄文時代の土偶など。
有名な宇宙人みたいな土偶(中央)もレプリカが展示してありました。
オリジナルは東京国立博物館にあり、重要文化財です。 -
弥生時代の展示に入ります。
「高床の倉」
4隅の柱と上り口には「ネズミ返し」の板がつけられていますね〜。
ところで、この階段がユニークですよね。
取り外しできるようになっているのでしょうけど、言いたいのはステップが浅いということ。
重い穀物袋を持って上る時、体のバランスを取るのが難しそうです。 -
「縄文人と弥生人の骨格比較」
左2体が女性、右2体が男性です。
水色が縄文人、オレンジ色が弥生人です。
女性の平均身長は147.3センチから150.0センチへ、
男性の平均身長は159.9センチから162.8センチへ高くなっています。
顔つきも面長になって、この変化は朝鮮半島の人々が渡来し混血が進んだためと考えられているそうです。 -
小型の銅鐸が吊るしてありました。
稲の祭りで神を招くのに使ったといいますが、前からこれ、どうやって使うのか知りたかったんです。
中に吊るされている棒で打ち鳴らすのかと思ったら、違うんです。
本体を揺すって鳴らすんです
逆転の発想でした。
解説にそう書いてあったので、前にいたご夫婦と半信半疑でやってみたら、銅鐸が揺れて中に吊るした棒に当たり、「カーンカーン」と甲高い音が鳴りました。
ただ、この使用法も「推定」だそうです。 -
時代と共に銅鐸は1メートルを超す大型になり、鳴らされることはなくなったそうです。
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レプリカですが、「金印」 1世紀
オリジナルは国宝です。
とても小さい。
漢委奴国王の印字面が見えるように、鏡がセットしてありました。
ピントが鏡の方に合ってしまいました。 -
古墳時代の展示へやって来ました。
「奈良県桜井市の箸墓(はしはか)古墳(3〜4世紀)の模型」
実物は全長280メートルの大きさです。
第7代孝霊天皇の皇女で三輪山の神に仕える巫女であった倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)の墓とされていますが、最近の科学的な年代測定法により建設年代が変わり、卑弥呼の墓だとする説もあるそうです。
卑弥呼も確か神に仕える巫女でしたよね?
真実は今後の研究に期待するしかありませんが、そんなことを聞くと夢が膨らみます。
いずれにせよ、これだけの規模のお墓です。大きな権力を持った人物のお墓であることには間違いありません。 -
反対側に回ってみると、建設された当時の姿になっていました。
円形部分は段々になって斜面は葺き石で覆われています。 -
このコーナーでは奈良県新山(しんやま)古墳から出てきた34面の銅鏡の裏のデザインのいろいろを紹介しています。
動物のデザイン、抽象的なデザイン、年号を入れた銅鏡など。 -
埴輪は地域ごとに特徴が違うと言います。
これらは千葉県市原市山倉1号墳の埴輪。
一体一体見ていくと、何故か楽しくなります。 -
6世紀半ばの群馬県の村の復元ジオラマ。
複数の住居と高床倉庫、作業小屋、家畜小屋などが柴垣に囲まれています。
よくできてますよー、これ。
畑ではサトイモを栽培しています。 -
群馬県の宝塔山(ほうとうざん)古墳(7世紀 )横穴式石室の復元模型 縮尺5分の1
奥行き12メートルの横穴の奥に石室があり、石棺がおかれています。
内部の壁は漆喰を塗って白くしてあります。
横穴と石室は側面からも見えるようになっています。
昔はスイッチを押すと横の壁が動いて内部が見える仕掛けになっていたような気がするんですけど、今は最初から見えていました。 -
イチオシ
「律令国家」の展示へやって来ました。
これこれ。
平城京の入口に建っていた羅城門(らじょうもん)の10分の1サイズの復元です。
迫力あります〜。
奈良時代になると建築様式や建築技術が急速に発達したのですね。
急に文化の匂いがしてきます。 -
「平城京の復元模型の写真」
整然として立派です。
一番手前に羅城門があり、幅80〜90メートルの朱雀大路が平城宮までどーんと3.7キロに渡って続いていたそうです。
まるで滑走路。
大迫力だったことでしょう。
最近は奈良の平城宮跡に朱雀大路も一部復元されているそうですね。 -
天皇の住まいや役所があった平城宮の模型。
右手奥に天皇が住んだ内裏や政務・儀式を執り行った大極殿があります。
平城宮には1万人の官人が勤務したと言います。
少数の世襲制の上級官人(貴族)と大多数の下級官人です。
下級官人の勤務例が書いてありました。
下級官人、出雲臣安麻呂29歳は年間320日出勤、うち185日は夜勤。13年経っても位階は3階しか上がらなかったと。 -
山背国愛宕郡計帳(やましろのくにあたごぐんけいちょう) 8世紀 複製
現代人の私でも何となく読めます〜。(*^^)v
「計帳」というのは課税のための台帳で、ここには各世帯の戸主、家族構成員の名前・性別・年齢などが書いてあります。
これは上記の下級官人、出雲臣安麻呂が記載された部分です。
面白いことに、「右頬ほくろ」「右腕ほくろ」など、各人の容貌の特徴が書いてあります。 -
これは奈良の薬師寺に関する展示です。
他にもたくさんの貴重な展示があり、1時間半もかかってようやく第1展示室を見学し終えました。
第6展示室まであるというのに、この調子では全部回るのは無理です。
ここ、本当に展示が多いんです。
全部見るのは諦めて目標を切り替え、今回は第3展示室までにする、その代わりしっかり見ることにしました。 -
ここから第2展示室(中世)。
「平安京地形模型」
平安京の中心は現在の京都の中心よりやや南西に寄っています。 -
「摂関家藤原氏の屋敷の一つ 東三条殿」
藤原道長も住んだ寝殿造りの屋敷です。
南北2町(218メートル)、東西1町(109メートル)の広さ。
源氏物語の世界を見るようです。
余談ですが、私は大原麗子が紫の上、東山紀之と片岡孝夫が光源氏を演じたテレビ版の源氏物語が一番好きでした。まるで舞台劇のようなセットは豪華で季節感にあふれていました。 -
「王朝貴族の生活」
この装束は冬の装いだそうです。
十二単(じゅうにひとえ)は象徴的な呼び名で、実際に12枚着ている訳ではありません。
でも10枚ぐらいは着てますよ。 -
御帳台(みちょうだい)は天皇や貴人が用いた組み立て式の寝所です。
中をのぞくと、組み立て式の柱を立てて布をかけただけということがわかります。
これで寒さや人目をしのいだのです。
昼間は布を巻き上げて御座所として用いられたと言います。
グッドアイデアですね。 -
「左大臣 藤原道長の一箇月」 1004年1月
道長が一か月のうち内裏へ出仕した日は19日、物忌みで邸にこもった日も7日あります。 -
「蔵人頭(くろうどのとう) 藤原行成(ゆきなり)の一箇月」 1001年2月(旧暦)
蔵人頭とはいわば天皇の秘書官長だそうです。
連日内裏や道長邸その他を行き来して、なんと一日も休みがありません。
泊まりもあります。
現代なら問題になりそうな激務です。 -
「御堂関白記(みどうかんぱくき)」1007年(寛弘4年) 複製
藤原道長の自筆の日記です。
毎日書かれています。
ここでは大和国の金峯山(きんぷせん)へ参詣した時の様子などが事細かに記されています。
私も「時々雨」「終日雨」と書いてある所だけ読めました。(^_^)v -
「鎌倉幕府を支えた武士の館」13〜14世紀の代表的な姿
堀に囲まれた館です。
敷地内には主人が住む主屋を中心に、家来たちが出仕する侍廊(さむらいろう)、下人たちの小屋、厩舎(うまや)、倉などがあります。 -
各展示室内部はさらに5〜7つのパートに分かれています。
ここ第2展示室の場合は6つのパートに分かれていて、ここは「大名と一揆」のパート。
中央のジオラマは16世紀福井県の戦国大名、朝倉義景(よしかげ)の館の復元模型です。 -
洛中洛外図屏風(歴博甲本)16世紀
複製 オリジナルは重文
京都の名所や祇園祭りなどの行事が描かれていて、見ているととても楽しいです。 -
何が描かれているかはこんな親切な図が用意されています。
左の屏風には渡月橋、龍安寺、北野神社、鹿苑寺(金閣寺)、上賀茂神社、室町幕府(将軍邸)などが、右の屏風には東福寺、三十三間堂、清水寺、南禅寺、内裏(現在の京都御所)などが描かれています。 -
中央の社は北野神社です。
ここで小学生が大勢やって来ました。
手にワークシートを持っていて、課題になっているものを展示物の中から見つけ出し、レポートを書いている様子。
賑やかな子どもたちの様子をしばらく面白く見てましたが、ふと、お腹がすいていることに気づきました。
一旦展示場を出て館内のレストランでお昼を食べることにしました。 -
館内の「レストランさくら」で遅めの昼食。
以前、古代米カレーを食べたことがあったので、今回はおろし豚カツセットにしました。
飲み物付きで1,230円です。
豚カツはサクッとして美味しかったけれど、古代米は普通の雑穀米とあまり変わりがありませんでした。レストランさくら グルメ・レストラン
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再入場して再び第2展示室へ戻ったら、小学生たちはいなくなっていました。
小学生たちに大人気だった京の復元模型。
「こんなの大好き。私、何時間でも見てられる」と言っていた女の子がいました。
本当、ジオラマは面白いですね。
洛中洛外図屏風を基に復元された戦国末期(1570〜1580年頃)の京都四条室町周辺の町並みです。 -
四条通りに面する店。
手前が扇屋、その向こうが米屋。
四条通りには水路が造られていたのですね〜。
通りでは水牛を使って米俵を運んでいます。
家の屋根は石で押さえてありますね。 -
こちらは室町通り。
目線を低くすると、京の町に入って行ったような気になります。
後ろの男性が巨大に見えます〜。 -
スクリーンがあり、画面上でお店や人物のシルエットにタッチすると・・・
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こんな風にその部分のアップ画像が見られます。
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店の裏手は奉公人の家。
ここも細かく作ってあります。 -
「民衆の生活と文化」のパート。
「大鋸(おが)」 15世紀
室町時代に中国から導入された大鋸(おが)と呼ばれるのこぎり。
製材が容易になり、建築界に一大革新をもたらしたそうです。 -
一枚の平面図が目に入りました。
鎌倉末期から室町時代にかけて治水と潅漑目的で造られた「京都桂川用水の配置図」です。
なぜ目に留まったかと言うと、子どもの頃ここに住んでいたからです。
解説には、現在なお農業用水に利用されている、とありました。 -
現在の用水路の写真。
うわー、子供の頃遊んだ用水路そっくりです。
藻が生えていてフナがたくさんいたので、フナすくいをしてました。
流れが速いので、子どもながらに「落ちると危ない用水路」と認識して注意して遊ぶようにしていました。
鎌倉〜室町時代に造られたものだったとは。
航空写真で斜めに流れているのが桂川。
黄色の線が用水路です。
中央少し上の緑の森は桂離宮です。
しげしげと眺めて、住んでいた場所が写っていることを発見しました。
地味な展示なので、ここでこんなにまじまじと見る見学者は珍しいと思います。
いつまでも写真を見ている私に、展示室の警備スタッフは「この人よっぽど用水路に関心があるんだな」と思ったことでしょう。(^_^; -
「大航海時代の日本」のパート
ヨーロッパ人が初めて日本へやって来て、日本にもたらしたものの一つは鉄砲(火縄銃)。 -
そしてもう一つはキリスト教ですね。
キリシタンが盛んであった頃、人々は南蛮名を名乗り、飲食や服装も南蛮風を好んだと言います。
ローマ字印章もそうした南蛮風俗の一つで、キリシタン大名はもとより信者でない人までローマ字印を用いた例もあるそうです。
写真は大名たちが用いたローマ字印章。 -
「ポルトガル語由来のことば」の展示
カステラ、テンプラは知ってましたが、ジュバン(襦袢)、ヒリョウズ(がんも)、コンペイトウ(金平糖)も外来語なんですって。 -
桃山時代の螺鈿蒔絵(らでんまきえ)箱。
日本製漆器は「ジャパン Japan」と呼ばれ、特に貝細工の螺鈿をほどこした華やかなものは西洋で珍重され、大量に輸出されたそうです。 -
「朱印船 10分の1モデル」 17世紀初め
江戸時代初め、朱印状を持った船だけが東南アジアと交易に出航することを許されたという、あれです。
シンプルな美しさがあります。 -
日本へもやって来た17世紀中頃のオランダの船(910トン) 縮尺24分の1
世界の海へ出て行ったオランダ船。
大砲をずらりと備え物々しい様子。
これが入港して来たら迫力ありますね。
上の朱印船とは模型の縮尺が違います。
朱印船模型の10分の1に対してこちらは24分の1です。 -
ようやく第3展示室(近世)へ入ります。
ここでは16世紀末〜19世半ばまでの生活や文化を紹介しています。
「江戸図屏風」
3大将軍徳川家光の頃の江戸が描かれています。
さまざまな行事や儀式を見ることもできて、面白いです。
この時代の江戸の様子がわかる貴重な資料なのだそうです。 -
家光当時の江戸城の様子。
-
踏絵です。
これはレプリカで、オリジナルは東京国立博物館にあります。
レプリカであっても、このような総合博物館ではいろいろな時代のものを一度に見られるからいいですね。 -
オランダ貿易で輸出用の陶磁器。
手前のは酒器になっています。 -
歴博ではイスも地図入りです〜。
江戸幕府選正保(しょうほう)地図 17世紀後半
よくできた地図です。
北海道、樺太(さはりん)、千島列島も地図に入っています。
ただ、北海道が極端に小さい。 -
伊能忠敬は歩幅や縄、鎖を使って長さを計ったそうです。
伊能忠敬の一歩は69センチであったと言います。
伊能忠敬のわらじの跡をたどってみましたが、私にはとてもこんな広い歩幅では歩けません。 -
江戸橋広小路辺りのジオラマ 18世紀末から19世紀初頭の様子。
スタッフから「ボタンを押すと解説が聞けるのでどうぞご利用ください」と勧めてもらいました。
ボタンを押すと一旦部屋の明かりが消え、次に部分部分が順にライトアップされ、解説を聞くことができます。 -
東海道中山道追分道標 1816年(文化13年)
草津宿の東海道と中山道の分岐点に建てられた道標です。 -
街道と宿場町が発達すると、旅に出かける人も多くなったのでしょう。
工夫した旅の小道具が展示されていました。
左から「折り畳みろうそく立て」
「小田原提灯(携帯用提灯)」
「手燭のついた携帯枕」
特に折り畳みろうそく立てが興味深いです。 -
道中日記
私が旅行記を書くように、江戸時代の旅人も記録をつけたのですね。
絵を載せているのもありました。
旅のガイドブックやグルメブックなども出版されていたそうです。 -
「伊勢・西国旅行」の楽しげな様子。
「ここはにぎやか日本橋
めざすは富士山の遥か西
ここから始まる伊勢への旅は
まず東海道が楽しみだ」
重ね絵と文を通してわくわくしながら旅に出る人々の様子が伝わって来ます。 -
伊勢詣りの道筋、三重県椋元(むくもと)にある旅籠「角屋(かどや)」
現在も正面を改装して営業しているそうです。
2階には上がれませんが、1階の和室へは靴を脱いで上がることができます。
2階に行燈に照らされた人影があり、雰囲気抜群です。 -
どうですか?こんな展示室。
迫力あるでしょう?
手前が「小鵜飼舟(こうかいぶね)復元模型」
鵜飼をする船ではなく、最上川の水運を担った舟だそうです。
向こう側は「北前船(きたまえぶね)復元模型」
北前船とは日本海を通る西回り航路を行き来した船のことで、船種としては弁財船というタイプの貨物船が使われていたそうです。 -
閉館15分前になりました。
何とか第3展示室まで回り、原始・古代から近世までの歴史を堪能しました。
残る第4〜第6展示室はまた別の日に来ることにします。
歴博は本当に展示が多い博物館です。
展示は模型やジオラマ、解説映像などで楽しめるよう工夫されているので、小学校高学年以上であれば楽しめると思います。
写真はロビーに展示されていた京都東福寺三門の10分の1模型。
実物は1425年(室町時代)建立で、国宝に指定されています。
最後の最後まで楽しませてもらいました。
今日のところはここまでです。
また来ることを楽しみに家へ帰ります。
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この旅行記へのコメント (2)
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- ねいちゃさん 2016/06/11 11:36:25
- ご無沙汰しております〜♪
- お久しぶりですね〜、お元気でしたか?
私もぼちぼちやっております。。。
というわけで、今回は歴博にお邪魔させてもらいます。
最初に思ったのは、なんと私めには「ドストライク」な資料館。
立派な施設があるんですね〜〜〜〜。
原始古代からこれでもかというくらいの日本史三昧・・・素敵です。
職業柄、時代考証とか、んなものについつい目が行きがちですが
オールクリアですね。ニッキーさんの解説も100点満点。(笑)
縄文期を1万6千年前と規定されていましたが
教科書的には1万3千年前と一般的には記されているようです。
しかしこれは諸説あるので誤差の範囲内ですからね。
抜歯の通過儀礼のことや、骨格部分での縄文系と弥生系の違いなど
完璧な内容でございました。
亀ヶ岡土偶とか高床倉庫なんて、ワクワクしますね〜。(私だけ?)
ちゃんとネズミ返しまで言及されていて、ばっちりです。
銅鐸も舌(ぜつ)とともに発見された遺物が最近見つかりましたね。
銅鐸の巨大化は、本来の実用品から、宝器や祭器への変遷で
これは同時に大陸から鉄器が入ってきたことに由来するわけですが
ちゃんと使用されなくなったと書かれていて、脱帽です。
腕あげましたね。(笑)
箸墓の「やまとととびももそひめのみこと」なんて、
4トラの旅行記で名前が見られるとは思いもしませんでした。
箸墓の名前の由来は、エロチックなお話なんで面白いですよ〜。
計帳は租税台帳の一種で、戸籍ととともにつくられたもの。
古代の税は成年男子にのみ課せられたもので、その人となりを残して
個人を特定したものと言われています。
だからほくろの場所とか書いてあるんですね。
東三条殿は現在は石碑しか残っていませんが、
御所が焼失した時、一条帝など里内裏として使った場所で
藤原氏にとっては貴重な場所だったことがわかっています。
御所から引っ越した数日間の記録なども「御堂関白記」には残っていますから、ほんとワクワクしますよね〜。
室町期には、定期市から常設店へと発展した頃で、いわゆる見世棚があふれてきた時代・・・。見世棚はお店の語源とも言われてます。
江戸時代は貨幣経済を押しとどめた時代なんで、室町から戦国期の方が貨幣経済は華やかに発展したんですよね。
あぁ、嬉しくなってウダウダ書き散らしてしまいました。
こういう資料館、いけません。筆がとまりませんわ〜。
京都は特化した資料館は多くあるんですが、こういう網羅的なものはないので、とっても新鮮でした。
また、お邪魔しまーす。
ねいちゃ
- ニッキーさん からの返信 2016/06/12 21:58:21
- RE: さすがはねいちゃさん
- うわー、やっぱりねいちゃさんの知識はすごいですね。ねいちゃさんならこう書くのかー。
歴史物の旅行記をねいちゃさんに読んでいただくなんて、恥ずかしくて顔から火が出そうです。甘めに満点評価をいただきましてありがとうございます。内心ほっとしました(笑)。まあでも、おかしな点がありましたら、愛の鞭でどうぞご指摘ください。
銅鐸は祭事に使用したと昔習いましたが、何のためにあんな特殊な形をしているのかずっと疑問に思ってました。もともとは釣鐘として使用されていたとわかり、納得しました。吊るされた銅鐸は初めて見ました。それにしても、鳴らし方が意外でした。中の棒(舌というのですね?)と一緒に発見されたのなら、確かにそうだったのでしょう。私は仮に釣鐘だったとしても、お寺の鐘のように外から叩いて打ち鳴らしたのだろうと思っていました。
旅行記には載せていませんが、でき上がったばかりの銅鐸の見本も展示されていまして、これがなんと金ぴかに輝いていてびっくりしました。銅鐸も銅矛も青いのしか見たことがなかったので、青銅器は青銅という青い金属でできていると思い込んでいたのです(恥)。いえいえ、銅が緑青で青くなることは知ってたんですよ。お寺の銅葺き屋根もそうですし。ただ、銅鐸の青い色が緑青の結果だとは思ってもみなかったんです。この歳まで気づかなかったなんて、思い込みとは恐ろしい・・・。
「御堂関白記」、内容は淡々とした日記のようなものでしたが、あれは道長の自筆でしょう?そのような貴重なものが残っていて当時の暮らしがわかるなんて、すごいことですよね。
五百年前、千年前も今と同じように人々が政治を行い仕事をし、日々の生活を送っていたと考えると不思議な気がします。千年前に道長が京都のこの場所に暮らし、その様子が日単位で追跡できるとなると・・・確かにワクワクしますね。歴史好きなねいちゃさんなら、なおさらでしょう。
ちなみに箸墓古墳の名前の由来、ねいちゃさんに乗せられて調べてみました。
あらまあ・・・
(*^_^;)
見世棚→店
これは納得です。
今回は写真で紹介しやすいものだけに限定して載せたのですが、実際には紹介しきれないほどの膨大な展示がありました。ねいちゃさんが行かれたらきっと夢中になられると思いますよ。
私の方は2人目の孫(長男第2子)が生まれ・・・で、次はたぶん今週あたり3人目の孫(次男第1子)誕生です(笑)。
そんなこんなでばたばたしてまして、ねいちゃさんの「姫路城」も書き込みもせず失礼しました。でも、しっかり読ませていただきましたよ。
またよろしくお願いします。
ニッキー
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