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第十六章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~八重山:忘勿石(わすれないし)編~<br /><br />昨年平成26(2014)年12月はに石垣島にある八重山平和祈念館を訪れた際、八重山エリアに於ける戦争とは、戦闘に於ける被害や犠牲よりも軍の主導による強制疎開によってもたらされたマラリアに罹患して死に至った〝戦争マラリア〟によるものであることは先述した通りです。<br /><br />犠牲者の数は島によってばらつきはあるものの八重山各島々に於いて、その犠牲者を追悼する慰霊碑が建立されています。戦争マラリアを後世に伝えるべく資料館として作られた八重山平和祈念館に対し、慰霊碑のひとつとしてもっとも知名度が高いものが、西表島西部の南風見田(はえみだ)浜に建立されている忘勿石之碑となります。今回の旅に於ける戦争を知る場所のひとつとして訪れました。<br /><br />昭和20(1945)年3月、沖縄戦が不可避な状況に於いて、八重山守備隊として宮嵜武之少将以下3,400名の独立混成第45旅団が石垣島に配置されました。史上稀にみる地上戦といわれる沖縄戦とはまた違う、艦砲射撃と空爆が中心だった八重山の戦争は、比較的のんびりしたものであったと表現されるものがあるくらい本島のものとは異なっていました。戦闘による犠牲者が少なかった、では八重山での戦争による犠牲者が出た理由はなんなのか?それが軍命によりマラリア有病地域に強制疎開させられ、薬もない状況で結果として多くの犠牲者を出した戦争マラリアに起因するものでした。<br /><br />マラリア罹患者の血液中からマラリア原虫をハマダラカが媒介し、健常者へと蚊の唾液を介して起こる原虫感染症のひとつであるマラリアという病気ですが、当時八重山地区の一部の島々で最も重篤な症状が出る〝熱帯性マラリア〟の有病地であった場所が存在しました。西表島の南風見田(はえみだ)もそのうちのひとつであり、ここは過去にマラリアによって廃村になったところでもありました。<br /><br />日本最南端の有人島である波照間島。リゾート開発もされていない自然がいっぱいのこの島に昭和20(1945)年2月に山下というひとりの青年が、代用教員として来島しました。体が大きくて温厚な性格の彼は誰にも好かれる好青年でした。しかし1ヶ月ほど経ったある日のこと、石垣島に駐屯する独立混成第45旅団司令部が波照間島民の強制疎開命令を発しました。しかし候補地とされた南風見田がマラリアの有病地区であったと知る波照間島民は当然反対します。そこで山下は態度をがらりと豹変させます。陸軍中野学校出身の離島残置工作要員〝山下虎雄軍曹〟は軍服を着て軍刀を振りかざし「言うことを聞かなければ叩き切る」と脅します。<br /><br />山下の態度に恐怖を覚えた島民は軍命に従うしかありませんでした。4月から始まる強制疎開を前に「米軍の食糧になる」という理由で島の豊かな家畜ほぼすべての屠殺命令を出します。このとき機転を効かせた島民が、一部の家畜を隠したことが数か月後に帰島した時に役立ったとされています。しかし多くの屠殺した家畜の多くは石垣島に送られ軍の食糧になったという説が濃厚のようです。<br /><br />昭和20(1945)年4月8日波照間島民の強制疎開が開始されます。西表大原へと到着した後、一部はマラリアの有病地区ではない由布島へと疎開するものの多くの島民は波照間島を望む南風見田へと疎開し、4月末までに全島民が疎開を完了しました。そして5月には波照間国民学校校長である識名信升(しきな しんしょう)氏が波照間島を望む現在忘勿石の碑が建立されている〝ヌギリヌバ〟と呼ばれる鋸の歯のような岩盤を持つ海岸で子供達を集め〝入学式〟を行い、授業の再開を試みるものの、ほぼ時期を同じくして蚊が発生し爆発的にマラリアに罹患する者が増えてゆきました。体力のない老人や子供から罹患し、高熱に苦しみそして死んでいく姿…。波照間国民学校長として疎開を進めなければならなかった結果、マラリアに罹患し教え子が亡くなって行く姿を目の当たりにした識名校長の心中を察することはできないものの、言葉で表現できるものではなかったでしょう。そのため見つかるとどうなるのかもわかった状況で波照間島を抜け出し、石垣島の独立混成第45旅団の宮嵜司令官に直訴し帰島を認めさせます。昭和20(1945)年7月31日のことでした。既に沖縄本島での日本軍の組織的抵抗は終わっていた時期でした。さすがにこうなると山下も手の打ちようがなく、波照間に帰島する島民に一時は同行しています。<br /><br />波照間への帰島が始まったのが昭和20(1945)年8月半ばの話であり、2艘の小船しか使えなったものの8月末にはすべての島民が帰島を果たします。しかし西表島での悪夢は止まりません。マラリアに罹患したまま帰島をした島民がキャリアとなり、疎開生活での蓄積した疲労、加えて家畜を屠殺してしまったことに起因する栄養失調や、その際ろくに後処理もできなかったことによる衛生状態の悪化が拍車をかけ、患者が増えていきます。あるもので対処しなければならない状況下で、蘇鉄から抽出したデンプンなどを抽出して食用にしたことなどは広く知られていることでもあるものの十分なものとは到底言えないものでした。<br /><br />猛威を振るったマラリアが一定の沈静化へと向かったのは、年が明けた昭和21(1946)年1月のことになります。石垣に駐屯していた旧独立混成第45旅団司令部より、軍が保有していた僅かばかりの食料やマラリア治療薬が届けられたことによるものでした。最終的に八重山地区に於けるマラリアの終息は米軍の統治下となった昭和23(1948)年、マラリア診療所の開設やハマダラカの撲滅工作といった予防的なものと、坑マラリア薬の普及などの対処療法的なものが構築された時期になります。軍命令によってマラリア有病地帯である西表島南風見田へと疎開を強制され罹患した、その数全島民数1,590名のうち1,587名で罹患率99.8%。うち死者477名で死亡率28.2%では実に3人に1人が死に至ったということになります。そして波照間国民学校の児童も323人のうち66名という20.4%にのぼる犠牲者を出しましたが、軍命に従わざるを得なかった識名信升校長は、そのことを深く悔やんでおられたようで、波照間島への帰島が始まる前、自身が3ヶ月前に入学式を行った波照間島を望むこの南風見田浜にある砂岩の大岩に、〝波照間住民よ、この石を忘れるなかれ〟という意味を込めて彫ったとされる〝忘勿石 ハテルマ シキナ〟の文字を残しました。<br /><br />生前この〝忘勿石〟のことを識名校長が口にすることはほとんどなかったようです。この〝忘勿石 ハテルマ シキナ〟の10文字の発見も、一般的に言われている〝調査〟によって発見された訳ではなく、たまたま〝釣り〟にやってきた波照間住人の悲劇を知る方々が、〝シキナ〟と書かれていることから、識名校長が刻んだのではないかと考えたことがきっかけだったようです。偶然の積み重ねで日の目を見ることになった〝忘勿石〟ですが、その後隣に建立された〝忘勿石之碑〟があまりにも立派過ぎた・・・。勿論そのことに異議を唱えるものではありませんが、その〝忘勿石之碑〟を訪れる方の実に多くの方が〝忘勿石〟の存在に気付かずその場を去ってしまうという現実には、なにかやりきれない気持ちを感じます。<br /><br />〝忘勿石之碑〟は完成度の高いものであると思います。波照間島民がこの西表島南風見田の地に強制疎開を余儀なくされ、マラリアに罹患し多くの方が亡くなった。その中でも波照間国民学校長として323名の児童を引率し、ヌギリヌパで入学式を行った識名信升先生。その入学式に出席した学童のうち66名が亡くなった。そのことを心に刻んで忘れないようにとの思いを込めて刻んだ〝忘勿石 ハテルマ シキナ〟の文字。そのことを時代背景とともに後世に伝えるべく建立された〝慰霊碑的要素〟を持つものが〝忘勿石之碑〟のように思います。しかしいつの間にか〝忘勿石之碑〟と〝忘勿石〟の相関関係が不明瞭になり、結果〝忘勿石〟=〝忘勿石之碑〟という誤った概念が独り歩きをしてしまっている。それが現実となっているように思えてなりません。元々の建立目的が〝忘勿石〟の案内役ではない〝忘勿石之碑〟であるため、位置関係は当然書かれていません。また識名校長の胸像や忘勿石の〝文字〟までもがひとつの碑にまとめられているため、余計に間違った概念が一人歩きをしているように思えます。偉そうに言っているように私も、実はその間違いをしていたひとりでした。前回訪れた時の写真等が消えてしまったこともあり、〝忘勿石之碑〟に纏められていることと、この碑が波照間島の〝学童慰霊碑〟と向かい合っているということ、そしてそのふたつの碑を隔てる70余年前と変わらない(だろう)きれいとしか言えない海の様子に舞い上がってしまったことがその理由です。幸いなことに〝写真がない〟ことに気付いたのがその日の晩のことであり、翌日夜に泊まったところが忘勿石之碑保存会会長である平田オジィがオーナーである民宿南風荘だったこともあり、日を改めて訪れることができました。しかしこれは偶然の積み重ねによって再訪できた〝稀なケース〟だったことのように思います。通常ならば帰宅してから仮に〝忘勿石〟の存在に気付くことはあったとしても、次回再訪したときにそのことを覚えているかどうか、また自然現象など取り巻く環境の変化により前回と〝違ったもの〟に見えることにより〝舞い上がってしまった〟等不確実な知識により〝本当のこと〟がわからないまま月日が経ってしまう・・・。勿論正確な知識、正確な情報に裏付けられた情報を共有できれば問題はないのかも知れません。しかし〝受身〟ではなかなかそういうことも出来ないのが事実です。この〝忘勿石〟のことにしても、西表島を訪れた経験のある方ならほとんどが〝聞いたことがある〟と答えるでしょう。しかし忘勿石之碑保存会のように情報発信されているところでも、公式なwebサイトを持っておられないのが現実です。それではなにから情報収集するのか?このあたりが曖昧なまま進んでいるのが現状であり、ガイドブックや個人が書いたブログといったものになるのでしょうが、見る限り知識不足と思える内容でしか書かれていないものが数多く存在します。それが事実と誤認されることにより間違った知識が蔓延ってしまう・・・それを危惧します。<br /><br />今回ブログに載せた写真は、同じようなものや意図不明な動画と思われるかも知れません。実はこれには訳があり、平田オジィから〝わかりやすい〝忘勿石〟と〝忘勿石之碑〟との位置関係を示した写真〟が欲しいと言われたことに基づくものです。最初は〝指差し〟で場所を示したものといったリクエストもありましたが、一人旅で足場の悪い岩盤の上で三脚を立てて撮影したとしても逆に上手くいかなかったこともあり、動画を取り入れてみた次第です。<br /><br />この忘勿石のことを知る方々は、異口同音にして同じことを言われます。ここはただの観光地ではありません。ヌギリヌパという特殊な地形を持つこの西表島南風見田の地で、強制疎開を強いられた1,599名の波照間島民がいました。その中に波照間国民学校の児童が323人。児童達を集めて入学式を執り行った識名信升校長は、その場にいた児童のうち66名の児童が、故郷に近くて遠い異郷の地でマラリアにより亡くなったことを〝忘れることなかれ〟という思いを込めて、この波照間島を望む入学式を執り行った場所にある砂岩の巨石に10個の文字を刻みました。〝忘勿石 ハテルマ シキナ〟と。<br /><br />理不尽な強制疎開を強いられた挙句、多くの住人がマラリアに罹患して亡くなった〝戦争マラリア〟という史実。そして忘勿石に込められた思い。子供達が集った波照間島を望むヌギリヌパの海岸。これらすべての組み合わせこそが〝忘勿石〟であると・・・。<br /><br />知識を持たずして来るところではないという意見もありますが、それはこの〝絶妙なコンビネーション〟を見て〝関心を持つこと〟で補えるようにも思えます。しかし現状として海岸にあるため天候に左右されるのは仕方がないにしても、満潮時に〝通路〟がなくなるといった理由で訪れない・訪れたことがないといった声に対し、西表島の観光業者を主体とした改善要求は〝いつでも行ける場所〟にすることでした。長く据え置きにはなっていたことのようですが、近々〝忘勿石之碑〟の後方にまっすぐに繋がる通路と、バス4台、車20台が停められる駐車場が新設されるようです。竹富町が9,000万円の予算を計上し、今年度中の完成を目指しているとのこと。別に具体案を見た訳ではなく、あくまでも聞いた話ではありますが、事実〝忘勿石〟と〝忘勿石之碑〟の間に測量をした形跡は見ることができました。どんなものになるのかはわかりませんが、便利さを追求するあまり今現在この場所を訪れた時の印象とまったく変わってしまうことにならないかを危惧します。何度も繰り返しますが忘勿石を取り囲む要素すべてが絡みあって、はじめて忘勿石の持つ意義を知ることになるのは普遍の事実に違いはありません。<br /><br />一説では忘勿石之碑が慰霊碑だという考えもあり、遺族が碑を参拝する際に潮の満ち引きに左右されないようにするためにといった地元意見も連絡通路建設の理由になっているようです。その思いは一観光客として現地を訪れたに過ぎない私にもわかりました。<br /><br />理想論でなにもかも語るには、あまりにも背景となるものが多すぎる〝忘勿石〟と〝忘勿石之碑〟について。このふたつのものが今後どのように後世に伝わり、なにを語っていくのか?70余年前の出来事を心の中に刻み付けることはできました。次回西表島を訪れた際にどのようなことを感じることができるのかは興味深いことではあります。<br /><br />いくつか第十章で記述した内容の曖昧な点を修正します。まず〝忘勿石〟について、識名校長が刻んだ文字は〝小石〟にと書きました。これは大いなる間違いで、正しくは〝砂岩の巨石〟になります。この間違いは実は大変多い間違いであり、〝忘勿石之碑〟に見られる〝忘勿石〟の〝レプリカ〟のイメージが強すぎるため、そのように考える方が多いようです。<br /><br />そして波照間島民をマラリアに罹患させる強制疎開を強いた山下軍曹について。なぜ戦後3回も波照間島を訪れたのか?そのことが歓迎されないことはわからないのか?ということについて。どうやら彼は〝特定の人〟に会いに来たという説が正しいようです。山下のまわりにいた人物ということになりますが、波照間島で下宿生活を送った際にお世話になった方々だったとのこと。軍支給の抗マラリア薬を分け与えた〝ある特定の人〟との記述が多い方々ということになります。別に暴露を目的にしている訳ではないので名前は敢えて出しませんが、その方々からすると山下は〝命の恩人〟であり、山下から見ると波照間で世話になった方々である。その関係の旧交を温めるための来島であるならば納得のいくものになります。波照間島までは行っていないにしろ2回は石垣島を訪れている。そこで波照間島行きを思いとどまらせた。そのような背景もあるようです。<br /><br />また波照間島民の帰島に一度は同行した山下が、昭和20(1945)年10月に人知れず波照間を後にしたという記述も、8月15日の敗戦を知った独立混成第45旅団の宮嵜司令官が8月19日石垣島に於いて傘下各部隊の部隊長会合を開催し、そこに離島残置工作員も出席し終戦の主旨伝達を受けています。その後玉屋旅館にて善後策を協議した離島残置工作員4名のうち与那国に派遣された柿沼秀男以外の3名である山下虎雄(波照間島)・山川敏雄(黒島)・山本政雄(与那国島)の若い離島残置工作要員六戌(中野学校下士官学校生)は、その後の協議をした際に、沖縄島に於いて〝逆上陸〟をして戦争を挙げようとするも、柿沼の必死の思いで説得に応じ断念します。そして波照間島への帰島に同行した後旅団長に今後を相談するために石垣へと向かった際に、〝波照間へはもう行かない方が良い〟と指摘され、そのまま本島への帰国船に身分を隠して乗船し帰国したということだったようです。もっとも〝身の安全〟というよりもは連合国側の〝捕虜〟となったときに、旧日本軍の関与がリークされることを恐れたことに対する配慮という説の方が、理に叶っているように思います。<br /><br /><br />元々西表島内離島にあった〝船浮臨時要塞〟跡の補充部隊として沖縄本島より派遣された第4遊撃隊第4中隊所属の下士官であった山下が、この地に降り立ったのは昭和19(1944)年10月のこと。祖納集落で八重山の島々から集めた要員をゲリラ隊員として訓練するも、結局部隊の稼働は無いまま終戦を迎えています。どこまで訓練をしていたかは不明なところは多いものの、軍が駐留していない八重山の島々の状況を、石垣の旅団司令部に逐一知らせていたという記録もあります。身分を隠しての離島への配置ですが、沖縄県知事の〝沖縄県青年学校指導員〟という辞令を持って行ったことが、住人の方々に歓迎された理由のひとつではあります。この時期の沖縄県知事というと〝島田叡(しまだあきら)〟氏。勿論脅しに屈するような方ではありませんがどうしようもなかったことは想像がつきます。<br /><br />また山下の本名を酒井某と書いてあるものが大変多いようですが、陸軍中野学校には〝卒業〟という扱いはなく、また離島残置工作要員として配属された際に、戸籍そのものを抹消させていた、またそうしなければならなったという記録も残されています。勿論それは容易に想像がつきます。また万一捕虜となったとしても軍命で動いていたことを口外しないことは、絶対的なものだったに違いありません。山下が酒井姓を名乗ったのは、養子に行ったためであり、その実家が滋賀県であり酒井家だったということのようです。であるならば戦前の酒井某という名前は、戦後のどさくさの中で作られたものということになるのではないでしょうか?<br /><br />戦後酒井某にマスコミが〝軍命の有無〟を問うた際、本人の口から〝あった〟との証言が得られています。軍命の内容は絶対に言えないとしても、軍命があったのであれば、戦争マラリアで犠牲となった方々は、間違いなく戦争による犠牲者であることに疑う余地はありません。八重山に於ける戦争マラリアによる犠牲が、史上稀に見る地上戦の戦場となった沖縄本島に比べると〝知名度の低さ〟や〝知識不足〟が指摘されることには残念な想いがあります。<br /><br />また相変わらず多くの記述がされており、違和感を感じて仕方がないことに〝マラリア菌〟という誤った概念があります。広義に言っても、菌というと風邪等のウィルスや細菌により引き起こされるものであり、その治療薬の効果は〝細胞膜〟の破壊によるものになります。しかしマラリアは原虫によって引き起こされるものであり、その治療薬であるキニーネの効果は、マラリア原虫が栄養源として取り込んだヘモグロビンを分解する際に生じるヘム(鉄)を、酵素を用い無毒化する作用を阻害するものであり、全く違う作用によって効果を発揮するものになります。どちらも有機物である蛋白質を標的にするものであれど、作用機序は全く異なるものであり、それを混同するようでは本当のマラリア被害というものを伝えられないのではないか、そう思えてなりません。<br /><br />沖縄を訪れる観光客の二極化、すなわち時代背景の予備知識もなくまた知ろうともしない〝ただの観光〟だけに徹する者。未来を変えるにはまず〝過去の過ちを繰り返さない〟ことだとわかっている者。どちらが良いか悪いか答えはないものの、せっかくの沖縄を〝たかが沖縄されど沖縄〟にしてしまわないように心掛けたいものです。確かに理想論ではあるとは思います。しかし僅か70余年前に多くの方々が志半ばで倒れていったという〝史実〟を風化させることのないようにする努力、それは間違いなくしなければならないそう思います。<br /><br />忘勿石之碑のすぐ側にある忘勿石。それに気づかないで忘れるなかれ・・・。<br /><br /><br /><br />忘勿石連絡通路が出来る前、必ず考えないといけない潮の干潮の情報についてですが、実際には潮のひく度合いにも左右されるものの、前後2時間であれば問題ないようです。<br />《西表島の干潮情報》<br />http://www.tenki.jp/wave/10/50/272.html	<br /><br /><br />長文にお付き合い頂きありがとうございました。これで〝第十六章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~西表島:忘勿石(わすれないし)編~を終わります。

第十六章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~八重山:忘勿石(わすれないし)編~

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2015/10/13 - 2015/10/17

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たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。

たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん

第十六章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~八重山:忘勿石(わすれないし)編~

昨年平成26(2014)年12月はに石垣島にある八重山平和祈念館を訪れた際、八重山エリアに於ける戦争とは、戦闘に於ける被害や犠牲よりも軍の主導による強制疎開によってもたらされたマラリアに罹患して死に至った〝戦争マラリア〟によるものであることは先述した通りです。

犠牲者の数は島によってばらつきはあるものの八重山各島々に於いて、その犠牲者を追悼する慰霊碑が建立されています。戦争マラリアを後世に伝えるべく資料館として作られた八重山平和祈念館に対し、慰霊碑のひとつとしてもっとも知名度が高いものが、西表島西部の南風見田(はえみだ)浜に建立されている忘勿石之碑となります。今回の旅に於ける戦争を知る場所のひとつとして訪れました。

昭和20(1945)年3月、沖縄戦が不可避な状況に於いて、八重山守備隊として宮嵜武之少将以下3,400名の独立混成第45旅団が石垣島に配置されました。史上稀にみる地上戦といわれる沖縄戦とはまた違う、艦砲射撃と空爆が中心だった八重山の戦争は、比較的のんびりしたものであったと表現されるものがあるくらい本島のものとは異なっていました。戦闘による犠牲者が少なかった、では八重山での戦争による犠牲者が出た理由はなんなのか?それが軍命によりマラリア有病地域に強制疎開させられ、薬もない状況で結果として多くの犠牲者を出した戦争マラリアに起因するものでした。

マラリア罹患者の血液中からマラリア原虫をハマダラカが媒介し、健常者へと蚊の唾液を介して起こる原虫感染症のひとつであるマラリアという病気ですが、当時八重山地区の一部の島々で最も重篤な症状が出る〝熱帯性マラリア〟の有病地であった場所が存在しました。西表島の南風見田(はえみだ)もそのうちのひとつであり、ここは過去にマラリアによって廃村になったところでもありました。

日本最南端の有人島である波照間島。リゾート開発もされていない自然がいっぱいのこの島に昭和20(1945)年2月に山下というひとりの青年が、代用教員として来島しました。体が大きくて温厚な性格の彼は誰にも好かれる好青年でした。しかし1ヶ月ほど経ったある日のこと、石垣島に駐屯する独立混成第45旅団司令部が波照間島民の強制疎開命令を発しました。しかし候補地とされた南風見田がマラリアの有病地区であったと知る波照間島民は当然反対します。そこで山下は態度をがらりと豹変させます。陸軍中野学校出身の離島残置工作要員〝山下虎雄軍曹〟は軍服を着て軍刀を振りかざし「言うことを聞かなければ叩き切る」と脅します。

山下の態度に恐怖を覚えた島民は軍命に従うしかありませんでした。4月から始まる強制疎開を前に「米軍の食糧になる」という理由で島の豊かな家畜ほぼすべての屠殺命令を出します。このとき機転を効かせた島民が、一部の家畜を隠したことが数か月後に帰島した時に役立ったとされています。しかし多くの屠殺した家畜の多くは石垣島に送られ軍の食糧になったという説が濃厚のようです。

昭和20(1945)年4月8日波照間島民の強制疎開が開始されます。西表大原へと到着した後、一部はマラリアの有病地区ではない由布島へと疎開するものの多くの島民は波照間島を望む南風見田へと疎開し、4月末までに全島民が疎開を完了しました。そして5月には波照間国民学校校長である識名信升(しきな しんしょう)氏が波照間島を望む現在忘勿石の碑が建立されている〝ヌギリヌバ〟と呼ばれる鋸の歯のような岩盤を持つ海岸で子供達を集め〝入学式〟を行い、授業の再開を試みるものの、ほぼ時期を同じくして蚊が発生し爆発的にマラリアに罹患する者が増えてゆきました。体力のない老人や子供から罹患し、高熱に苦しみそして死んでいく姿…。波照間国民学校長として疎開を進めなければならなかった結果、マラリアに罹患し教え子が亡くなって行く姿を目の当たりにした識名校長の心中を察することはできないものの、言葉で表現できるものではなかったでしょう。そのため見つかるとどうなるのかもわかった状況で波照間島を抜け出し、石垣島の独立混成第45旅団の宮嵜司令官に直訴し帰島を認めさせます。昭和20(1945)年7月31日のことでした。既に沖縄本島での日本軍の組織的抵抗は終わっていた時期でした。さすがにこうなると山下も手の打ちようがなく、波照間に帰島する島民に一時は同行しています。

波照間への帰島が始まったのが昭和20(1945)年8月半ばの話であり、2艘の小船しか使えなったものの8月末にはすべての島民が帰島を果たします。しかし西表島での悪夢は止まりません。マラリアに罹患したまま帰島をした島民がキャリアとなり、疎開生活での蓄積した疲労、加えて家畜を屠殺してしまったことに起因する栄養失調や、その際ろくに後処理もできなかったことによる衛生状態の悪化が拍車をかけ、患者が増えていきます。あるもので対処しなければならない状況下で、蘇鉄から抽出したデンプンなどを抽出して食用にしたことなどは広く知られていることでもあるものの十分なものとは到底言えないものでした。

猛威を振るったマラリアが一定の沈静化へと向かったのは、年が明けた昭和21(1946)年1月のことになります。石垣に駐屯していた旧独立混成第45旅団司令部より、軍が保有していた僅かばかりの食料やマラリア治療薬が届けられたことによるものでした。最終的に八重山地区に於けるマラリアの終息は米軍の統治下となった昭和23(1948)年、マラリア診療所の開設やハマダラカの撲滅工作といった予防的なものと、坑マラリア薬の普及などの対処療法的なものが構築された時期になります。軍命令によってマラリア有病地帯である西表島南風見田へと疎開を強制され罹患した、その数全島民数1,590名のうち1,587名で罹患率99.8%。うち死者477名で死亡率28.2%では実に3人に1人が死に至ったということになります。そして波照間国民学校の児童も323人のうち66名という20.4%にのぼる犠牲者を出しましたが、軍命に従わざるを得なかった識名信升校長は、そのことを深く悔やんでおられたようで、波照間島への帰島が始まる前、自身が3ヶ月前に入学式を行った波照間島を望むこの南風見田浜にある砂岩の大岩に、〝波照間住民よ、この石を忘れるなかれ〟という意味を込めて彫ったとされる〝忘勿石 ハテルマ シキナ〟の文字を残しました。

生前この〝忘勿石〟のことを識名校長が口にすることはほとんどなかったようです。この〝忘勿石 ハテルマ シキナ〟の10文字の発見も、一般的に言われている〝調査〟によって発見された訳ではなく、たまたま〝釣り〟にやってきた波照間住人の悲劇を知る方々が、〝シキナ〟と書かれていることから、識名校長が刻んだのではないかと考えたことがきっかけだったようです。偶然の積み重ねで日の目を見ることになった〝忘勿石〟ですが、その後隣に建立された〝忘勿石之碑〟があまりにも立派過ぎた・・・。勿論そのことに異議を唱えるものではありませんが、その〝忘勿石之碑〟を訪れる方の実に多くの方が〝忘勿石〟の存在に気付かずその場を去ってしまうという現実には、なにかやりきれない気持ちを感じます。

〝忘勿石之碑〟は完成度の高いものであると思います。波照間島民がこの西表島南風見田の地に強制疎開を余儀なくされ、マラリアに罹患し多くの方が亡くなった。その中でも波照間国民学校長として323名の児童を引率し、ヌギリヌパで入学式を行った識名信升先生。その入学式に出席した学童のうち66名が亡くなった。そのことを心に刻んで忘れないようにとの思いを込めて刻んだ〝忘勿石 ハテルマ シキナ〟の文字。そのことを時代背景とともに後世に伝えるべく建立された〝慰霊碑的要素〟を持つものが〝忘勿石之碑〟のように思います。しかしいつの間にか〝忘勿石之碑〟と〝忘勿石〟の相関関係が不明瞭になり、結果〝忘勿石〟=〝忘勿石之碑〟という誤った概念が独り歩きをしてしまっている。それが現実となっているように思えてなりません。元々の建立目的が〝忘勿石〟の案内役ではない〝忘勿石之碑〟であるため、位置関係は当然書かれていません。また識名校長の胸像や忘勿石の〝文字〟までもがひとつの碑にまとめられているため、余計に間違った概念が一人歩きをしているように思えます。偉そうに言っているように私も、実はその間違いをしていたひとりでした。前回訪れた時の写真等が消えてしまったこともあり、〝忘勿石之碑〟に纏められていることと、この碑が波照間島の〝学童慰霊碑〟と向かい合っているということ、そしてそのふたつの碑を隔てる70余年前と変わらない(だろう)きれいとしか言えない海の様子に舞い上がってしまったことがその理由です。幸いなことに〝写真がない〟ことに気付いたのがその日の晩のことであり、翌日夜に泊まったところが忘勿石之碑保存会会長である平田オジィがオーナーである民宿南風荘だったこともあり、日を改めて訪れることができました。しかしこれは偶然の積み重ねによって再訪できた〝稀なケース〟だったことのように思います。通常ならば帰宅してから仮に〝忘勿石〟の存在に気付くことはあったとしても、次回再訪したときにそのことを覚えているかどうか、また自然現象など取り巻く環境の変化により前回と〝違ったもの〟に見えることにより〝舞い上がってしまった〟等不確実な知識により〝本当のこと〟がわからないまま月日が経ってしまう・・・。勿論正確な知識、正確な情報に裏付けられた情報を共有できれば問題はないのかも知れません。しかし〝受身〟ではなかなかそういうことも出来ないのが事実です。この〝忘勿石〟のことにしても、西表島を訪れた経験のある方ならほとんどが〝聞いたことがある〟と答えるでしょう。しかし忘勿石之碑保存会のように情報発信されているところでも、公式なwebサイトを持っておられないのが現実です。それではなにから情報収集するのか?このあたりが曖昧なまま進んでいるのが現状であり、ガイドブックや個人が書いたブログといったものになるのでしょうが、見る限り知識不足と思える内容でしか書かれていないものが数多く存在します。それが事実と誤認されることにより間違った知識が蔓延ってしまう・・・それを危惧します。

今回ブログに載せた写真は、同じようなものや意図不明な動画と思われるかも知れません。実はこれには訳があり、平田オジィから〝わかりやすい〝忘勿石〟と〝忘勿石之碑〟との位置関係を示した写真〟が欲しいと言われたことに基づくものです。最初は〝指差し〟で場所を示したものといったリクエストもありましたが、一人旅で足場の悪い岩盤の上で三脚を立てて撮影したとしても逆に上手くいかなかったこともあり、動画を取り入れてみた次第です。

この忘勿石のことを知る方々は、異口同音にして同じことを言われます。ここはただの観光地ではありません。ヌギリヌパという特殊な地形を持つこの西表島南風見田の地で、強制疎開を強いられた1,599名の波照間島民がいました。その中に波照間国民学校の児童が323人。児童達を集めて入学式を執り行った識名信升校長は、その場にいた児童のうち66名の児童が、故郷に近くて遠い異郷の地でマラリアにより亡くなったことを〝忘れることなかれ〟という思いを込めて、この波照間島を望む入学式を執り行った場所にある砂岩の巨石に10個の文字を刻みました。〝忘勿石 ハテルマ シキナ〟と。

理不尽な強制疎開を強いられた挙句、多くの住人がマラリアに罹患して亡くなった〝戦争マラリア〟という史実。そして忘勿石に込められた思い。子供達が集った波照間島を望むヌギリヌパの海岸。これらすべての組み合わせこそが〝忘勿石〟であると・・・。

知識を持たずして来るところではないという意見もありますが、それはこの〝絶妙なコンビネーション〟を見て〝関心を持つこと〟で補えるようにも思えます。しかし現状として海岸にあるため天候に左右されるのは仕方がないにしても、満潮時に〝通路〟がなくなるといった理由で訪れない・訪れたことがないといった声に対し、西表島の観光業者を主体とした改善要求は〝いつでも行ける場所〟にすることでした。長く据え置きにはなっていたことのようですが、近々〝忘勿石之碑〟の後方にまっすぐに繋がる通路と、バス4台、車20台が停められる駐車場が新設されるようです。竹富町が9,000万円の予算を計上し、今年度中の完成を目指しているとのこと。別に具体案を見た訳ではなく、あくまでも聞いた話ではありますが、事実〝忘勿石〟と〝忘勿石之碑〟の間に測量をした形跡は見ることができました。どんなものになるのかはわかりませんが、便利さを追求するあまり今現在この場所を訪れた時の印象とまったく変わってしまうことにならないかを危惧します。何度も繰り返しますが忘勿石を取り囲む要素すべてが絡みあって、はじめて忘勿石の持つ意義を知ることになるのは普遍の事実に違いはありません。

一説では忘勿石之碑が慰霊碑だという考えもあり、遺族が碑を参拝する際に潮の満ち引きに左右されないようにするためにといった地元意見も連絡通路建設の理由になっているようです。その思いは一観光客として現地を訪れたに過ぎない私にもわかりました。

理想論でなにもかも語るには、あまりにも背景となるものが多すぎる〝忘勿石〟と〝忘勿石之碑〟について。このふたつのものが今後どのように後世に伝わり、なにを語っていくのか?70余年前の出来事を心の中に刻み付けることはできました。次回西表島を訪れた際にどのようなことを感じることができるのかは興味深いことではあります。

いくつか第十章で記述した内容の曖昧な点を修正します。まず〝忘勿石〟について、識名校長が刻んだ文字は〝小石〟にと書きました。これは大いなる間違いで、正しくは〝砂岩の巨石〟になります。この間違いは実は大変多い間違いであり、〝忘勿石之碑〟に見られる〝忘勿石〟の〝レプリカ〟のイメージが強すぎるため、そのように考える方が多いようです。

そして波照間島民をマラリアに罹患させる強制疎開を強いた山下軍曹について。なぜ戦後3回も波照間島を訪れたのか?そのことが歓迎されないことはわからないのか?ということについて。どうやら彼は〝特定の人〟に会いに来たという説が正しいようです。山下のまわりにいた人物ということになりますが、波照間島で下宿生活を送った際にお世話になった方々だったとのこと。軍支給の抗マラリア薬を分け与えた〝ある特定の人〟との記述が多い方々ということになります。別に暴露を目的にしている訳ではないので名前は敢えて出しませんが、その方々からすると山下は〝命の恩人〟であり、山下から見ると波照間で世話になった方々である。その関係の旧交を温めるための来島であるならば納得のいくものになります。波照間島までは行っていないにしろ2回は石垣島を訪れている。そこで波照間島行きを思いとどまらせた。そのような背景もあるようです。

また波照間島民の帰島に一度は同行した山下が、昭和20(1945)年10月に人知れず波照間を後にしたという記述も、8月15日の敗戦を知った独立混成第45旅団の宮嵜司令官が8月19日石垣島に於いて傘下各部隊の部隊長会合を開催し、そこに離島残置工作員も出席し終戦の主旨伝達を受けています。その後玉屋旅館にて善後策を協議した離島残置工作員4名のうち与那国に派遣された柿沼秀男以外の3名である山下虎雄(波照間島)・山川敏雄(黒島)・山本政雄(与那国島)の若い離島残置工作要員六戌(中野学校下士官学校生)は、その後の協議をした際に、沖縄島に於いて〝逆上陸〟をして戦争を挙げようとするも、柿沼の必死の思いで説得に応じ断念します。そして波照間島への帰島に同行した後旅団長に今後を相談するために石垣へと向かった際に、〝波照間へはもう行かない方が良い〟と指摘され、そのまま本島への帰国船に身分を隠して乗船し帰国したということだったようです。もっとも〝身の安全〟というよりもは連合国側の〝捕虜〟となったときに、旧日本軍の関与がリークされることを恐れたことに対する配慮という説の方が、理に叶っているように思います。


元々西表島内離島にあった〝船浮臨時要塞〟跡の補充部隊として沖縄本島より派遣された第4遊撃隊第4中隊所属の下士官であった山下が、この地に降り立ったのは昭和19(1944)年10月のこと。祖納集落で八重山の島々から集めた要員をゲリラ隊員として訓練するも、結局部隊の稼働は無いまま終戦を迎えています。どこまで訓練をしていたかは不明なところは多いものの、軍が駐留していない八重山の島々の状況を、石垣の旅団司令部に逐一知らせていたという記録もあります。身分を隠しての離島への配置ですが、沖縄県知事の〝沖縄県青年学校指導員〟という辞令を持って行ったことが、住人の方々に歓迎された理由のひとつではあります。この時期の沖縄県知事というと〝島田叡(しまだあきら)〟氏。勿論脅しに屈するような方ではありませんがどうしようもなかったことは想像がつきます。

また山下の本名を酒井某と書いてあるものが大変多いようですが、陸軍中野学校には〝卒業〟という扱いはなく、また離島残置工作要員として配属された際に、戸籍そのものを抹消させていた、またそうしなければならなったという記録も残されています。勿論それは容易に想像がつきます。また万一捕虜となったとしても軍命で動いていたことを口外しないことは、絶対的なものだったに違いありません。山下が酒井姓を名乗ったのは、養子に行ったためであり、その実家が滋賀県であり酒井家だったということのようです。であるならば戦前の酒井某という名前は、戦後のどさくさの中で作られたものということになるのではないでしょうか?

戦後酒井某にマスコミが〝軍命の有無〟を問うた際、本人の口から〝あった〟との証言が得られています。軍命の内容は絶対に言えないとしても、軍命があったのであれば、戦争マラリアで犠牲となった方々は、間違いなく戦争による犠牲者であることに疑う余地はありません。八重山に於ける戦争マラリアによる犠牲が、史上稀に見る地上戦の戦場となった沖縄本島に比べると〝知名度の低さ〟や〝知識不足〟が指摘されることには残念な想いがあります。

また相変わらず多くの記述がされており、違和感を感じて仕方がないことに〝マラリア菌〟という誤った概念があります。広義に言っても、菌というと風邪等のウィルスや細菌により引き起こされるものであり、その治療薬の効果は〝細胞膜〟の破壊によるものになります。しかしマラリアは原虫によって引き起こされるものであり、その治療薬であるキニーネの効果は、マラリア原虫が栄養源として取り込んだヘモグロビンを分解する際に生じるヘム(鉄)を、酵素を用い無毒化する作用を阻害するものであり、全く違う作用によって効果を発揮するものになります。どちらも有機物である蛋白質を標的にするものであれど、作用機序は全く異なるものであり、それを混同するようでは本当のマラリア被害というものを伝えられないのではないか、そう思えてなりません。

沖縄を訪れる観光客の二極化、すなわち時代背景の予備知識もなくまた知ろうともしない〝ただの観光〟だけに徹する者。未来を変えるにはまず〝過去の過ちを繰り返さない〟ことだとわかっている者。どちらが良いか悪いか答えはないものの、せっかくの沖縄を〝たかが沖縄されど沖縄〟にしてしまわないように心掛けたいものです。確かに理想論ではあるとは思います。しかし僅か70余年前に多くの方々が志半ばで倒れていったという〝史実〟を風化させることのないようにする努力、それは間違いなくしなければならないそう思います。

忘勿石之碑のすぐ側にある忘勿石。それに気づかないで忘れるなかれ・・・。



忘勿石連絡通路が出来る前、必ず考えないといけない潮の干潮の情報についてですが、実際には潮のひく度合いにも左右されるものの、前後2時間であれば問題ないようです。
《西表島の干潮情報》
http://www.tenki.jp/wave/10/50/272.html


長文にお付き合い頂きありがとうございました。これで〝第十六章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~西表島:忘勿石(わすれないし)編~を終わります。

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
ホテル
5.0
グルメ
5.0
交通
5.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
5万円 - 10万円
交通手段
高速・路線バス レンタカー 自家用車 徒歩 Peach

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