赤穂旅行記(ブログ) 一覧に戻る
赤穂事件を考える際に、是非、押さえておかないといけないのは赤穂浅野家のことです。<br /><br />そもそも美濃の土豪にルーツを持つ浅野氏の転機は、織田信長の弓衆であった浅野長勝の頃。長勝が養女としていたねねが同じ織田信長の家来だった木下藤吉郎に嫁いだことに始まります。その後は、ご存じのとおり、秀吉が天下人に駆け上がるわけで、秀吉の数少ない親戚衆の一人として、浅野氏も出世していくわけです。長勝の跡を継いだ長政は朝鮮出兵から帰ると甲府22万石の城主となり、豊臣政権の五奉行筆頭として重きをなすこととなります。<br />一方で、長政は石田三成とは合わず、加藤清正や福島正則らの武闘派と近い関係に。石田三成は淀殿べったりなので、ねねと同じ長勝の養子である長政としては面白くなかったことは想像に難くありません。<br />その流れで関が原でも東軍に組し、長男の幸長は秀忠軍の先鋒として岐阜城攻めなどに活躍、紀伊国和歌山37万石へ加増転封となります。<br />この時、長政は隠居料として真壁に5万石を賜り、これを相続した三男の長重の子、長直の代になって、赤穂藩に移ります。これは正保2年(1645年)。そして、和歌山の方は、広島の福島家が実質的に改易となった後に広島に移るのですが、この時も42万石への加増となっています。元和5年(1619年)のこと。浅野家なかなか順調のようですが、いかにも危ない。徳川に対しての決定的といえるほどの貢献がない中での出世であり、微妙な立場であることが想像されますね。<br /><br />赤穂事件は、元禄14年(1701年)。時の将軍は第5代将軍徳川綱吉。生類憐れみの令といった悪政が有名となってしまいましたが、儒学を重んじ文治政治を推進。これは、新井白石・荻生徂徠・山鹿素行らの学者を輩出するきっかけとなりましたし、また、側用人の柳沢吉保らを重用して、自らの意思をはっきりと打ち出す将軍でもあったといえるでしょう。<br /><br />つまりこれだけを見ただけでも、非常に難しい要素をはらんでいるように思えます。赤穂事件は、ケンカ両成敗の考え方が無視された不公平な裁きという見方はあったにせよあくまで公儀の裁き。それも、朝廷を敬う気持ちの強かった綱吉の意思によるものと言われています。主君長矩の無念を晴らしたい忠義の心など、なんの足しにもならないような。具体的には、恭順派対武闘派。お家再興か、仇討優先か。なのですが、本家浅野家をはじめとする親戚衆は、当然前者。太平の世となったとはいえ、浅野本家ですら、改易などたやすいことだという強迫観念は十分にあったことと思います。関が原の戦いの同士だった、福島正則も加藤清正もすべて改易となっていますから、浅野本家も気が気ではなかったはずです。<br /><br />では、世間はどうだったのか。町人は豊かになるにしたがって知恵もついてきますから、これは徳川幕府の裁きに不公平があったことを見抜いている。そして、赤穂藩の不利な立場も十分わかったうえでの、判官びいきという高みの見物。赤穂藩を応援しながら、幕府の失態を期待する向きも多かったのではないかと思います。<br /><br />結果は、お家再興が絶たれたことから仇討に意見が収束。内蔵助の腹も固まります。ところで、もう一つ面白いのは、吉良家の実質的な警護を受け持つ上杉家の立場。上杉家の当主は吉良上野介の実子なので、親を助けたいのは当然ですが、上杉家としてもこの事件にへたに巻き込まれて、幕府に睨まれたのではどうにもならない。こちらも、戦々恐々としなければならない外様の弱い立場です。<br /><br />仇討が成就した後も、浪士たちは上杉の追手が現れるのではないかと気を緩めることはなかったということですが、それが杞憂に終わったのも当然と言えば当然です。<br /><br />かなり長くなりましたが、前置きはこれくらいにしましょうか。<br /><br /><br />

姫路・赤穂から伊部の旅(二日目前半)~赤穂浪士の故郷は、今でも義士の誇りを伝える街。喧嘩両成敗を無視した公儀の仕置きと主君の無念に身悶えする浪士の苦悩にも思いを馳せました~

44いいね!

2015/08/09 - 2015/08/09

38位(同エリア336件中)

0

120

たびたび

たびたびさん

赤穂事件を考える際に、是非、押さえておかないといけないのは赤穂浅野家のことです。

そもそも美濃の土豪にルーツを持つ浅野氏の転機は、織田信長の弓衆であった浅野長勝の頃。長勝が養女としていたねねが同じ織田信長の家来だった木下藤吉郎に嫁いだことに始まります。その後は、ご存じのとおり、秀吉が天下人に駆け上がるわけで、秀吉の数少ない親戚衆の一人として、浅野氏も出世していくわけです。長勝の跡を継いだ長政は朝鮮出兵から帰ると甲府22万石の城主となり、豊臣政権の五奉行筆頭として重きをなすこととなります。
一方で、長政は石田三成とは合わず、加藤清正や福島正則らの武闘派と近い関係に。石田三成は淀殿べったりなので、ねねと同じ長勝の養子である長政としては面白くなかったことは想像に難くありません。
その流れで関が原でも東軍に組し、長男の幸長は秀忠軍の先鋒として岐阜城攻めなどに活躍、紀伊国和歌山37万石へ加増転封となります。
この時、長政は隠居料として真壁に5万石を賜り、これを相続した三男の長重の子、長直の代になって、赤穂藩に移ります。これは正保2年(1645年)。そして、和歌山の方は、広島の福島家が実質的に改易となった後に広島に移るのですが、この時も42万石への加増となっています。元和5年(1619年)のこと。浅野家なかなか順調のようですが、いかにも危ない。徳川に対しての決定的といえるほどの貢献がない中での出世であり、微妙な立場であることが想像されますね。

赤穂事件は、元禄14年(1701年)。時の将軍は第5代将軍徳川綱吉。生類憐れみの令といった悪政が有名となってしまいましたが、儒学を重んじ文治政治を推進。これは、新井白石・荻生徂徠・山鹿素行らの学者を輩出するきっかけとなりましたし、また、側用人の柳沢吉保らを重用して、自らの意思をはっきりと打ち出す将軍でもあったといえるでしょう。

つまりこれだけを見ただけでも、非常に難しい要素をはらんでいるように思えます。赤穂事件は、ケンカ両成敗の考え方が無視された不公平な裁きという見方はあったにせよあくまで公儀の裁き。それも、朝廷を敬う気持ちの強かった綱吉の意思によるものと言われています。主君長矩の無念を晴らしたい忠義の心など、なんの足しにもならないような。具体的には、恭順派対武闘派。お家再興か、仇討優先か。なのですが、本家浅野家をはじめとする親戚衆は、当然前者。太平の世となったとはいえ、浅野本家ですら、改易などたやすいことだという強迫観念は十分にあったことと思います。関が原の戦いの同士だった、福島正則も加藤清正もすべて改易となっていますから、浅野本家も気が気ではなかったはずです。

では、世間はどうだったのか。町人は豊かになるにしたがって知恵もついてきますから、これは徳川幕府の裁きに不公平があったことを見抜いている。そして、赤穂藩の不利な立場も十分わかったうえでの、判官びいきという高みの見物。赤穂藩を応援しながら、幕府の失態を期待する向きも多かったのではないかと思います。

結果は、お家再興が絶たれたことから仇討に意見が収束。内蔵助の腹も固まります。ところで、もう一つ面白いのは、吉良家の実質的な警護を受け持つ上杉家の立場。上杉家の当主は吉良上野介の実子なので、親を助けたいのは当然ですが、上杉家としてもこの事件にへたに巻き込まれて、幕府に睨まれたのではどうにもならない。こちらも、戦々恐々としなければならない外様の弱い立場です。

仇討が成就した後も、浪士たちは上杉の追手が現れるのではないかと気を緩めることはなかったということですが、それが杞憂に終わったのも当然と言えば当然です。

かなり長くなりましたが、前置きはこれくらいにしましょうか。


PR

  • ホテルから、まず向かったのは、あこうパンです。<br />朝7時からやっているということでしたが、早めに着いたら7時前でも入れてくれました。<br />

    ホテルから、まず向かったのは、あこうパンです。
    朝7時からやっているということでしたが、早めに着いたら7時前でも入れてくれました。

  • それにしても、たくさんのスタッフがいて、活気がありますねえ。

    それにしても、たくさんのスタッフがいて、活気がありますねえ。

  • カレーパンをいただきましたが、変わった形だなあと思ったら、春巻きの皮で包んである。その春巻きの皮がぱりぱりしていて、見た目だけじゃなくて食感もとても面白いんです。

    イチオシ

    カレーパンをいただきましたが、変わった形だなあと思ったら、春巻きの皮で包んである。その春巻きの皮がぱりぱりしていて、見た目だけじゃなくて食感もとても面白いんです。

  • そして、カレーパンの中身はごろんとした肉の塊がとっても贅沢。カレーパンの発祥という東京の森下のカトレアにも匹敵するでしょう。いやはや、これはすごいパン屋さんに出会ってしまいました。

    そして、カレーパンの中身はごろんとした肉の塊がとっても贅沢。カレーパンの発祥という東京の森下のカトレアにも匹敵するでしょう。いやはや、これはすごいパン屋さんに出会ってしまいました。

  • これは、昨日の坂越でも渡った千種川。

    これは、昨日の坂越でも渡った千種川。

  • この先にちょっと行きたいところがあるんです。

    この先にちょっと行きたいところがあるんです。

  • どっちにしても、赤穂市街から千種川を越えたところになるので、この辺りは観光客にはなじみが薄い場所だと思いますが、この立派な神社は赤穂八幡宮。<br />

    どっちにしても、赤穂市街から千種川を越えたところになるので、この辺りは観光客にはなじみが薄い場所だと思いますが、この立派な神社は赤穂八幡宮。

  • 浅野家や赤穂南部一帯の氏神様だそうで、石の鳥居から橋を越えて本殿に向かう雰囲気ももったいが感じられます。

    浅野家や赤穂南部一帯の氏神様だそうで、石の鳥居から橋を越えて本殿に向かう雰囲気ももったいが感じられます。

  • 本殿の両翼には絵馬を掛けたスペース。

    本殿の両翼には絵馬を掛けたスペース。

  • 坂越でもありましたけど、この辺りだとお決まりのスタイルになっているようですね。この絵馬は、赤穂浪士です。

    坂越でもありましたけど、この辺りだとお決まりのスタイルになっているようですね。この絵馬は、赤穂浪士です。

  • 少しわきに入って、これは如来寺。赤穂八幡宮の別当神宮寺だったという寺は小さなお堂です。そのお堂には赤穂市指定有形文化財である不動明王立像が安置されているはずだったのですが、覗いてもよく分かりませんでした。<br />また、赤穂義士ゆかりの寺でもあり、大石内蔵助の画などもあるようですが、これも拝観できるかどうか。そんな感じではありませんでしたが。。

    少しわきに入って、これは如来寺。赤穂八幡宮の別当神宮寺だったという寺は小さなお堂です。そのお堂には赤穂市指定有形文化財である不動明王立像が安置されているはずだったのですが、覗いてもよく分かりませんでした。
    また、赤穂義士ゆかりの寺でもあり、大石内蔵助の画などもあるようですが、これも拝観できるかどうか。そんな感じではありませんでしたが。。

  • さらに進んで、同じ並びにあるのは、普門寺です。

    さらに進んで、同じ並びにあるのは、普門寺です。

  • 本尊の十一面千手千眼観世音菩薩は、国指定の重要文化財ということなので、

    本尊の十一面千手千眼観世音菩薩は、国指定の重要文化財ということなので、

  • 拝観を申し込んで、本堂の内陣に安置された仏様とご対面。十一面と千手という豪華な組み合せなんですが、千手の方がやや簡略化したかなあという印象。コテコテとした装飾性はありません。<br />

    拝観を申し込んで、本堂の内陣に安置された仏様とご対面。十一面と千手という豪華な組み合せなんですが、千手の方がやや簡略化したかなあという印象。コテコテとした装飾性はありません。

  • これは本堂から、境内を見た景色。緑がきれいです。

    これは本堂から、境内を見た景色。緑がきれいです。

  • さて、行きたかったところというのは、実はここ。喫茶店のレモンです。<br />姫路だけじゃなくて、赤穂にもアーモンドトーストがあって、ここがちょいと有名なんですね。<br />

    さて、行きたかったところというのは、実はここ。喫茶店のレモンです。
    姫路だけじゃなくて、赤穂にもアーモンドトーストがあって、ここがちょいと有名なんですね。

  • 8時の開店前から、開店を待つ人が何人もいて、これはすごい。人気店なんですねえ。明るい店内だし、モーニングのメニューも豊富。

    8時の開店前から、開店を待つ人が何人もいて、これはすごい。人気店なんですねえ。明るい店内だし、モーニングのメニューも豊富。

  • そして、目当てのアーモンドトーストがこれ。

    そして、目当てのアーモンドトーストがこれ。

  • 味も期待通りだし、この食器どうですか。萌木色のさわやかな色合い。こんな皿に目をつけるなんて、渋すぎます。やりますねえ。<br />すっかりうれしくなって、予想以上に大満足の朝食となりました。

    イチオシ

    味も期待通りだし、この食器どうですか。萌木色のさわやかな色合い。こんな皿に目をつけるなんて、渋すぎます。やりますねえ。
    すっかりうれしくなって、予想以上に大満足の朝食となりました。

  • ここから、赤穂の中心部に戻ります。<br />その途中で見つけたのは、通称、おせど。ここは、赤穂城開城の直前から山科へ移るまでの間、大石内蔵助が家族と共に暮らした仮住まいのよう。

    ここから、赤穂の中心部に戻ります。
    その途中で見つけたのは、通称、おせど。ここは、赤穂城開城の直前から山科へ移るまでの間、大石内蔵助が家族と共に暮らした仮住まいのよう。

  • 家僕の瀬尾孫左衛門の兄、元屋八十右衛門の別宅だった場所を仮住まいとしたんですね。<br />開城の準備は、執務所の遠林寺。ここから通ったのだそうです。その際、赤穂藩が発行していた藩札を銀に換えるなど、それまで昼行燈と呼ばれた内蔵助は鮮やかな実務能力も見せつけることとなりました。

    家僕の瀬尾孫左衛門の兄、元屋八十右衛門の別宅だった場所を仮住まいとしたんですね。
    開城の準備は、執務所の遠林寺。ここから通ったのだそうです。その際、赤穂藩が発行していた藩札を銀に換えるなど、それまで昼行燈と呼ばれた内蔵助は鮮やかな実務能力も見せつけることとなりました。

  • 敷地内は池のある日本庭園の跡があって、屋敷だったことが偲ばれる程度。ちょっと荒れた感じが痛々しいです。<br />

    敷地内は池のある日本庭園の跡があって、屋敷だったことが偲ばれる程度。ちょっと荒れた感じが痛々しいです。

  • これは播磨屋。観光客にとっては縁遠い場所だと思いますが、店構えは、外観からしていかにも老舗風。店内も凛とした雰囲気が漂います。

    これは播磨屋。観光客にとっては縁遠い場所だと思いますが、店構えは、外観からしていかにも老舗風。店内も凛とした雰囲気が漂います。

  • 赤穂の塩味まんじゅうも気になったのですが、最中「利休」をチョイス。

    赤穂の塩味まんじゅうも気になったのですが、最中「利休」をチョイス。

  • なるほど、これも餡子の甘さを引き立てるぎりぎりの塩加減と言うんでしょうか。塩味を効かせた絶妙の味わいが光ります。

    なるほど、これも餡子の甘さを引き立てるぎりぎりの塩加減と言うんでしょうか。塩味を効かせた絶妙の味わいが光ります。

  • 中心部に戻ってきて、まずは赤穂市立歴史博物館へ。

    中心部に戻ってきて、まずは赤穂市立歴史博物館へ。

  • 赤穂といえば赤穂浪士とくるのですが、もう一つ有名な方の赤穂の塩の歴史は実はもっとずっと古い。

    赤穂といえば赤穂浪士とくるのですが、もう一つ有名な方の赤穂の塩の歴史は実はもっとずっと古い。

  • もしかしたら弥生時代とかそれ以前にも遡るということを初めて知りました。そして、そこで確立された製塩の技術が瀬戸内や全国に広まって行くという説明はちょっと驚き。広島の竹原に行った時に赤穂の製塩技術がもたらされたことをちらりと聞いたことがありますが、ここまでとは思いませんでした。

    もしかしたら弥生時代とかそれ以前にも遡るということを初めて知りました。そして、そこで確立された製塩の技術が瀬戸内や全国に広まって行くという説明はちょっと驚き。広島の竹原に行った時に赤穂の製塩技術がもたらされたことをちらりと聞いたことがありますが、ここまでとは思いませんでした。

  • 歴史博物館を出て、本丸の方に向かいます。

    歴史博物館を出て、本丸の方に向かいます。

  • 外堀を越えて、城内へ。

    外堀を越えて、城内へ。

  • 5万石の城にしては過ぎた大きさの城だったそうですが、

    5万石の城にしては過ぎた大きさの城だったそうですが、

  • これだけではそこまでのようには感じません。<br />どちらかと言えば、コンパクトな印象です。

    これだけではそこまでのようには感じません。
    どちらかと言えば、コンパクトな印象です。

  • 本丸の手前で、これは山鹿素行の銅像。<br />山鹿素行は会津の出身ですが、徳川幕府公認の朱子学を批判したことで赤穂藩にお預けの身となりました。しかし、軍学を始め、幅広い教養の持ち主でもあり、赤穂藩士の教育を担い、大石内蔵助も門弟の一人だったのだとか。討ち入り事件の成功により、逆に、 山鹿素行の評価が高まるといった結果ともなって、赤穂と山鹿素行の関係はより深いものとなったようです。銅像は赤穂との関係を記念するモニュメントとなっています。<br />

    本丸の手前で、これは山鹿素行の銅像。
    山鹿素行は会津の出身ですが、徳川幕府公認の朱子学を批判したことで赤穂藩にお預けの身となりました。しかし、軍学を始め、幅広い教養の持ち主でもあり、赤穂藩士の教育を担い、大石内蔵助も門弟の一人だったのだとか。討ち入り事件の成功により、逆に、 山鹿素行の評価が高まるといった結果ともなって、赤穂と山鹿素行の関係はより深いものとなったようです。銅像は赤穂との関係を記念するモニュメントとなっています。

  • 赤穂城は、赤穂藩の初代藩主、浅野長直によって造られた城。軍学師範の近藤正純が設計した銃撃戦なども意識した実践的な城だということです。<br />

    赤穂城は、赤穂藩の初代藩主、浅野長直によって造られた城。軍学師範の近藤正純が設計した銃撃戦なども意識した実践的な城だということです。

  • 内堀を横目で見て、

    内堀を横目で見て、

  • 大手門というか、

    大手門というか、

  • 櫓や門、お堀などは復元されたものなので、まだ真新しい感じがしますが、立派な枡形ですね。とても実戦的な感じがします。<br /><br /><br />

    櫓や門、お堀などは復元されたものなので、まだ真新しい感じがしますが、立派な枡形ですね。とても実戦的な感じがします。


  • 本丸の内部は建物は一切ありませんが、

    本丸の内部は建物は一切ありませんが、

  • かつての御殿の間取りなどが示されていて、そんなのを見て想像することになります。

    かつての御殿の間取りなどが示されていて、そんなのを見て想像することになります。

  • 奥に日本庭園の一角があって、

    奥に日本庭園の一角があって、

  • これが唯一の潤い。

    これが唯一の潤い。

  • 天守台から見下ろすと庭園が美しいです。<br />この庭はもともとは浅野氏の時代に造られたもので、中国杭州の技術が入っているのではないかということです。

    イチオシ

    天守台から見下ろすと庭園が美しいです。
    この庭はもともとは浅野氏の時代に造られたもので、中国杭州の技術が入っているのではないかということです。

  • ところで、赤穂藩は、吉良義央に対する刃傷事件で浅野氏が改易となった後は、永井家、森家と続きますが、石高は浅野時代の5万3千石から、3万3千石、2万石とかなり削減されてしまいます。浅野時代でさえ、重かったというのですから、この城の維持は大変だったのかもしれません。<br />

    ところで、赤穂藩は、吉良義央に対する刃傷事件で浅野氏が改易となった後は、永井家、森家と続きますが、石高は浅野時代の5万3千石から、3万3千石、2万石とかなり削減されてしまいます。浅野時代でさえ、重かったというのですから、この城の維持は大変だったのかもしれません。

  • ほとんど城内にある赤穂神社は、大石邸跡に建てられた赤穂浪士を祀る神社。

    ほとんど城内にある赤穂神社は、大石邸跡に建てられた赤穂浪士を祀る神社。

  • 鳥居から本殿に続く参道には、

    イチオシ

    鳥居から本殿に続く参道には、

  • 47士の石像が並んで、

    47士の石像が並んで、

  • この時点で忠臣蔵の雰囲気がムンムンしています。<br />

    この時点で忠臣蔵の雰囲気がムンムンしています。

  • 有料施設として、義士宝物殿、義士木像奉安殿、大石邸長屋門があり、これは必見でしょう。

    有料施設として、義士宝物殿、義士木像奉安殿、大石邸長屋門があり、これは必見でしょう。

  • ということで、本殿をちらりと確認した後は、

    ということで、本殿をちらりと確認した後は、

  • 大石神社義士宝物殿・義士木像奉安殿は、大石神社の有料施設を拝見します。やっぱり、大石神社はこれを見ないと話にならないでしょう。<br />まずは、義士宝物殿。

    イチオシ

    大石神社義士宝物殿・義士木像奉安殿は、大石神社の有料施設を拝見します。やっぱり、大石神社はこれを見ないと話にならないでしょう。
    まずは、義士宝物殿。

  • 昔の学校みたいな飾らない建物です。<br />

    昔の学校みたいな飾らない建物です。

  • 玄関を入って、

    玄関を入って、

  • 中に入ると、こんな感じ。<br />

    中に入ると、こんな感じ。

  • 大石内蔵助を描いた掛け軸に、

    大石内蔵助を描いた掛け軸に、

  • 大石内蔵助の書簡に、

    大石内蔵助の書簡に、

  • 子供のために描いた手慰みの絵や

    子供のために描いた手慰みの絵や

  • 吉良邸討ち入りの際に使ったという采配まであって、お宝満載といった感じです。

    イチオシ

    吉良邸討ち入りの際に使ったという采配まであって、お宝満載といった感じです。

  • 大石主税の書簡は、内蔵助より力強い筆跡ですね。

    大石主税の書簡は、内蔵助より力強い筆跡ですね。

  • 吉良の首級を掲げて両国橋を渡ってくる四十七士の名場面の掛け軸も、是非チェックしておきたい展示品でしょう。<br />

    吉良の首級を掲げて両国橋を渡ってくる四十七士の名場面の掛け軸も、是非チェックしておきたい展示品でしょう。

  • もう一つの建物では

    もう一つの建物では

  • 入ってすぐにある短刀は、長矩から主税が拝領したというもの。主税は、この時、後になって命を散らせることで、これに報いることになろうとは想像もしなかったことでしょう。

    入ってすぐにある短刀は、長矩から主税が拝領したというもの。主税は、この時、後になって命を散らせることで、これに報いることになろうとは想像もしなかったことでしょう。

  • 全体に実際の遺品が意外に多く伝わっていて、リアルな展示が拝見できました。<br />

    全体に実際の遺品が意外に多く伝わっていて、リアルな展示が拝見できました。

  • こちらは、義士木像奉安殿。

    こちらは、義士木像奉安殿。

  • 前には絵馬がありましたが、安産祈願。赤穂浪士と安産ってどう結び付くんでしょうね。

    前には絵馬がありましたが、安産祈願。赤穂浪士と安産ってどう結び付くんでしょうね。

  • 館内は、

    館内は、

  • 大石内蔵助に始まって、

    大石内蔵助に始まって、

  • 赤穂浪士の最年長、堀部金丸。堀部安兵衛の義父でもあります。

    赤穂浪士の最年長、堀部金丸。堀部安兵衛の義父でもあります。

  • 大石主税に、

    大石主税に、

  • 人気者の堀部安兵衛。それぞれに、内面から出る人柄のようなものを表現しようとしていて、作者の苦心がうかがえます。また、後世に残って行くものなので、それなりの覚悟がなければ、ここに納めることはできなかった像でしょう。

    人気者の堀部安兵衛。それぞれに、内面から出る人柄のようなものを表現しようとしていて、作者の苦心がうかがえます。また、後世に残って行くものなので、それなりの覚悟がなければ、ここに納めることはできなかった像でしょう。

  • 大石良雄宅跡は、その隣り。宝物殿とかとセットになったチケットを買って入ります。

    大石良雄宅跡は、その隣り。宝物殿とかとセットになったチケットを買って入ります。

  • 入口はそうでもなかったのですが、

    イチオシ

    入口はそうでもなかったのですが、

  • 中に入ると池のある日本庭園を中心に、

    中に入ると池のある日本庭園を中心に、

  • 藩の重臣の屋敷だった面影がよく残っているように思いました。

    藩の重臣の屋敷だった面影がよく残っているように思いました。

  • 長屋門には、大石家の家族の人形が展示されていて、これも気分が出る工夫かと思います。

    長屋門には、大石家の家族の人形が展示されていて、これも気分が出る工夫かと思います。

  • これは大石内蔵助と主税。<br />大石家は代々、赤穂藩の家老という家なのですが、こうなったのは、大坂夏の陣での功績によるもの。<br /><br />真田雪村ほど有名ではありませんが、豊臣家の譜代家臣、毛利勝永の奮戦はむしろそれ以上のもの。天王寺口の戦いでは、兵4千を率いて徳川家康本陣の正面に布陣。戦闘が始まると本多、小笠原を粉砕。その勢いのまま、浅野長重らの諸隊を次々に撃破し、徳川家康の本陣に突入する大活躍をみせます。<br /><br />そして、その戦いで、浅野家は大損害を被り敗走したのですが、豊臣方の首級60をあげて一矢報いる。その戦いで活躍したのが浅野長重の家臣、大石良勝。この戦功をもって1500石を拝領し、大石家は、以降、浅野家の永代家老家とされたのです。<br /><br />こうした系譜からすれば、政治的な能力が高く評価される内蔵助ですが、武門としての誇りを強く意識する家柄であったことも窺えるかと思います。<br /><br /><br />

    イチオシ

    これは大石内蔵助と主税。
    大石家は代々、赤穂藩の家老という家なのですが、こうなったのは、大坂夏の陣での功績によるもの。

    真田雪村ほど有名ではありませんが、豊臣家の譜代家臣、毛利勝永の奮戦はむしろそれ以上のもの。天王寺口の戦いでは、兵4千を率いて徳川家康本陣の正面に布陣。戦闘が始まると本多、小笠原を粉砕。その勢いのまま、浅野長重らの諸隊を次々に撃破し、徳川家康の本陣に突入する大活躍をみせます。

    そして、その戦いで、浅野家は大損害を被り敗走したのですが、豊臣方の首級60をあげて一矢報いる。その戦いで活躍したのが浅野長重の家臣、大石良勝。この戦功をもって1500石を拝領し、大石家は、以降、浅野家の永代家老家とされたのです。

    こうした系譜からすれば、政治的な能力が高く評価される内蔵助ですが、武門としての誇りを強く意識する家柄であったことも窺えるかと思います。


  • 大石神社を出て、これが表から見た長屋門です。

    大石神社を出て、これが表から見た長屋門です。

  • 近藤源八宅跡長屋門は、大石神社の裏手。大石邸長屋門のはす向かいにあります。<br />

    近藤源八宅跡長屋門は、大石神社の裏手。大石邸長屋門のはす向かいにあります。

  • ここは、赤穂浅野家軍学指南、近藤家の屋敷跡。長屋門は江戸時代後期に建てられたもの。いったん敷地に入ったところに入口があって、そこから建物の中を見学します。

    ここは、赤穂浅野家軍学指南、近藤家の屋敷跡。長屋門は江戸時代後期に建てられたもの。いったん敷地に入ったところに入口があって、そこから建物の中を見学します。

  • わずかなスペースですが、門に付属していても居住は可能ですね。

    わずかなスペースですが、門に付属していても居住は可能ですね。

  • 住人は門番のような感じで、ここに住んでいたのかもしれません。

    住人は門番のような感じで、ここに住んでいたのかもしれません。

  • そこから、駅前通りの方に向かいます。

    そこから、駅前通りの方に向かいます。

  • 復元されたものなのでしょうが、立派な石垣が続きます。

    復元されたものなのでしょうが、立派な石垣が続きます。

  • これが、大手門でしょう。

    これが、大手門でしょう。

  • 櫓を配して、規模はさほどではないにせよ。赤穂藩の思いも感じられる城構えです。

    櫓を配して、規模はさほどではないにせよ。赤穂藩の思いも感じられる城構えです。

  • 巴屋は、赤穂城の大手門前にあって、かなり目立った派手な店構え。

    巴屋は、赤穂城の大手門前にあって、かなり目立った派手な店構え。

  • しかし、店内のゆったり感は、街歩きで疲れた観光客にとっては、かなりありがたい存在かもしれません。

    しかし、店内のゆったり感は、街歩きで疲れた観光客にとっては、かなりありがたい存在かもしれません。

  • 塩味饅頭を御土産に買いましたが、

    塩味饅頭を御土産に買いましたが、

  • むしろ奥の喫茶店の冷やしぜんざいの方が気になって仕方ありませんでした。時間があったら、そっちの方がよかったんですけどね。。

    むしろ奥の喫茶店の冷やしぜんざいの方が気になって仕方ありませんでした。時間があったら、そっちの方がよかったんですけどね。。

  • ここから駅前通りにそのままつながります。

    ここから駅前通りにそのままつながります。

  • 改めて、櫓をチェック。

    改めて、櫓をチェック。

  • 外堀もきちんとしていて、赤穂浪士の面々も、こんな風景を見ながら、育ったんでしょうか。

    外堀もきちんとしていて、赤穂浪士の面々も、こんな風景を見ながら、育ったんでしょうか。

  • あぐぅ家。は、赤穂城のほど近く。近場で昼食を取ろうとここにしました。<br />

    あぐぅ家。は、赤穂城のほど近く。近場で昼食を取ろうとここにしました。

  • お店の看板商品、焦がし豚丼をいただきましたが、お焦げの香りがとってもいいし、安くてうまい。

    お店の看板商品、焦がし豚丼をいただきましたが、お焦げの香りがとってもいいし、安くてうまい。

  • クオリティの高さがここまであれば、どうかすれば行列ができてもおかしくないんですが、そこは赤穂。ゆっくりと食べられる贅沢を味わいました。

    クオリティの高さがここまであれば、どうかすれば行列ができてもおかしくないんですが、そこは赤穂。ゆっくりと食べられる贅沢を味わいました。

  • そして、近くで寄り道したのは赤穂玩具博物館。<br /><br />

    そして、近くで寄り道したのは赤穂玩具博物館。

  • こちらは、昭和レトロの玩具というか、なんでもかんでもを集めた私的な小さな博物館です。

    こちらは、昭和レトロの玩具というか、なんでもかんでもを集めた私的な小さな博物館です。

  • 料金を払って奥に進みますが、

    料金を払って奥に進みますが、

  • 座敷の部屋は展示品であふれていて、通路は細い細い。

    座敷の部屋は展示品であふれていて、通路は細い細い。

  • 本当にこの先行けるんだろうかと心配になるくらいでした。

    本当にこの先行けるんだろうかと心配になるくらいでした。

  • 御主人の熱意はすさまじいものなんでしょうが、

    御主人の熱意はすさまじいものなんでしょうが、

  • ただ、もう少し整理をしないと展示品の持っている美しさや基本的な魅力は伝わらないかも。

    ただ、もう少し整理をしないと展示品の持っている美しさや基本的な魅力は伝わらないかも。

  • どうかすると、ゴミ屋敷と紙一重になってしまいそうな感じもしてしまいました。

    どうかすると、ゴミ屋敷と紙一重になってしまいそうな感じもしてしまいました。

  • さて、最後のハイライトはここ。<br />

    さて、最後のハイライトはここ。

  • 浅野家の菩提寺は東京の泉岳寺が有名ですが、

    浅野家の菩提寺は東京の泉岳寺が有名ですが、

  • 赤穂においてはこの花岳寺が菩提寺です。

    赤穂においてはこの花岳寺が菩提寺です。

  • 鐘楼や

    鐘楼や

  • 本堂に

    イチオシ

    本堂に

  • 内部の天井などは、自由に見学できるのですが、

    内部の天井などは、自由に見学できるのですが、

  • 奥に有料エリアがあって、宝物館や一族や義士の墓がある。赤穂に来たらこれは必見です。

    奥に有料エリアがあって、宝物館や一族や義士の墓がある。赤穂に来たらこれは必見です。

  • 赤穂義士の墓には、それぞれの銘に刃の字が入っていて、

    イチオシ

    赤穂義士の墓には、それぞれの銘に刃の字が入っていて、

  • これは切腹をしたからなのだそうです。

    これは切腹をしたからなのだそうです。

  • 宝物館と

    宝物館と

  • 別の建物には義士の木像もありますが、こうして眺めると赤穂義士はいかにも神々しい。扱いとしてはもう神様になっているようなことかと思います。<br /><br />巨大な幕府の壁にして、ひたすら恭順の姿勢を見せる一門・親戚衆に、太平の世で日和見も少なくなかった家中。城の引き渡し、その後の時間の経過とともに、脱落者も増えていく。お家再興の希望が絶たれ、残された選択肢は限られるにしても、仇討は容易なことではない。困難な状況の中から、同じ思いの同志を固め、本懐を遂げた大石以下の赤穂浪士は確かに賞賛に値します。<br />一方で、その熱い思いの根本は主君の無念を晴らしたいという無垢な忠義心。長矩が短慮であったことは間違いないのですが、形式的な主君という以上に、細やかな情を家臣との間に育んでいた人物であったことも否定できないと思います。<br />そして、主君への忠義とその忠義の志を助けたいと思う周囲の支援。思いが思いを呼んで、その先にまた今に至る日本人としての共感もある。単なる仇討ちを越えたその影響力の広がりにも、真摯にその意味するものを噛みしめるべきではないかと思います。

    別の建物には義士の木像もありますが、こうして眺めると赤穂義士はいかにも神々しい。扱いとしてはもう神様になっているようなことかと思います。

    巨大な幕府の壁にして、ひたすら恭順の姿勢を見せる一門・親戚衆に、太平の世で日和見も少なくなかった家中。城の引き渡し、その後の時間の経過とともに、脱落者も増えていく。お家再興の希望が絶たれ、残された選択肢は限られるにしても、仇討は容易なことではない。困難な状況の中から、同じ思いの同志を固め、本懐を遂げた大石以下の赤穂浪士は確かに賞賛に値します。
    一方で、その熱い思いの根本は主君の無念を晴らしたいという無垢な忠義心。長矩が短慮であったことは間違いないのですが、形式的な主君という以上に、細やかな情を家臣との間に育んでいた人物であったことも否定できないと思います。
    そして、主君への忠義とその忠義の志を助けたいと思う周囲の支援。思いが思いを呼んで、その先にまた今に至る日本人としての共感もある。単なる仇討ちを越えたその影響力の広がりにも、真摯にその意味するものを噛みしめるべきではないかと思います。

  • 一番奥が浅野三代の墓。

    一番奥が浅野三代の墓。

  • 三代というのは長重、長直、長友のこともともと、花岳寺は長直が、笠間から赤穂に移ってきて父長重のために建てたものです。長友は長直の長男。長友の長男が赤穂事件を起こした長矩です。赤穂での浅野は長直、長友、長矩の三代。55年の歴史だったことになります。<br /><br />余談ですが、鳥羽藩内藤家の話。創業家とも言うべき九鬼家が移封となって、その後が内藤家なのですが、三代目の内藤忠勝は、芝増上寺における四代将軍徳川家綱の法会の席上で、私情から丹後宮津藩の第2代藩主、永井尚長を殺害するという事件を起こします。そのため、内藤家は改易となったのですが、なんとこの内藤忠勝の叔父にあたるそうです。ちょっと血筋ということも考えてしまう話かと思います。

    三代というのは長重、長直、長友のこともともと、花岳寺は長直が、笠間から赤穂に移ってきて父長重のために建てたものです。長友は長直の長男。長友の長男が赤穂事件を起こした長矩です。赤穂での浅野は長直、長友、長矩の三代。55年の歴史だったことになります。

    余談ですが、鳥羽藩内藤家の話。創業家とも言うべき九鬼家が移封となって、その後が内藤家なのですが、三代目の内藤忠勝は、芝増上寺における四代将軍徳川家綱の法会の席上で、私情から丹後宮津藩の第2代藩主、永井尚長を殺害するという事件を起こします。そのため、内藤家は改易となったのですが、なんとこの内藤忠勝の叔父にあたるそうです。ちょっと血筋ということも考えてしまう話かと思います。

  • これは、浅野家の後を継いだ森家の墓。<br />森家というのは、本能寺の変で信長とともに最期を迎えた森蘭丸の末弟・森忠政の家系です。<br />実は、赤穂藩が浅野に変わったのは、その前の赤穂藩主の池田輝興が乱心し、妻(黒田長政の娘)や侍女を惨殺すると言う事件を起こして、改易となったから。城引き取りに派遣されたのが浅野長直だったのです。浅野家も赤穂事件で改易ですから、二度あることは三度ある。あまりいい気持ではなかったかもしれません。

    これは、浅野家の後を継いだ森家の墓。
    森家というのは、本能寺の変で信長とともに最期を迎えた森蘭丸の末弟・森忠政の家系です。
    実は、赤穂藩が浅野に変わったのは、その前の赤穂藩主の池田輝興が乱心し、妻(黒田長政の娘)や侍女を惨殺すると言う事件を起こして、改易となったから。城引き取りに派遣されたのが浅野長直だったのです。浅野家も赤穂事件で改易ですから、二度あることは三度ある。あまりいい気持ではなかったかもしれません。

  • 赤穂情報物産館は、赤穂駅前の大通り沿い。大きな看板もあるし、目立っていると思います。<br />

    赤穂情報物産館は、赤穂駅前の大通り沿い。大きな看板もあるし、目立っていると思います。

  • 一階が地元の特産品を扱う販売所。二階には赤穂義士関係の展示もあるようでしたが、靴を脱いで上がるようで、今回はパス。

    一階が地元の特産品を扱う販売所。二階には赤穂義士関係の展示もあるようでしたが、靴を脱いで上がるようで、今回はパス。

  • 販売所には

    販売所には

  • 色鮮やかで個性的なデザインの焼き物もあって、ちょっと興味を引かれました。<br />ちょっと駆け足でしたが、これで赤穂市内の観光はおしまい。これから伊部に向かって、今日はもうひとがんばりです。

    色鮮やかで個性的なデザインの焼き物もあって、ちょっと興味を引かれました。
    ちょっと駆け足でしたが、これで赤穂市内の観光はおしまい。これから伊部に向かって、今日はもうひとがんばりです。

この旅行記のタグ

関連タグ

44いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

この旅行で行ったスポット

この旅行で行ったグルメ・レストラン

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

この旅行記の地図

拡大する

PAGE TOP