2015/08/11 - 2015/08/11
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dimeizaさん
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2015年8月に行ってきた、主に戦国史跡巡りをテーマにした旅行記です。
近江(滋賀)から美濃(岐阜)にかけて、灼熱の猛暑の中を疾駆してきました。
竹生島→長浜城→安土城址→彦根城→犬山城→岐阜城→関ケ原→大垣城と回っています。
昨年計画していたのですが諸事情で行くことができず、2年越しの計画実現と相成りました。
記憶を記録に留めるべく、筆を起こしてみます。
それでは最後、4日目(関ケ原、大垣城)。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 5万円 - 10万円
- 交通手段
- 新幹線 JRローカル
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
さて4日目。
もう行くべき箇所は一箇所しか残っていませんでした。
帰りの新幹線までそこそこ時間もあるし、まぁ余裕を持って…ということもできましたが、この日も全力の快晴。
のんびりしていては日が昇ってしまい、熱中症対策をしていても体力を消耗しやすくなることは確か。
淡々と最速で朝食を食べ、チェックアウトします。
天然温泉 金華の湯 ドーミーイン岐阜駅前 宿・ホテル
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最後の目的地は岐阜から東海道本線で一本です。
が、途中でコインロッカーに荷物を預けて軽装化します。
結構乗客が多かったですが、この駅で降りた人は数人程度でしたね。
到着しました。
最後に見たかった、関ケ原です。
関ヶ原駅は南側にしか出口がありません。
実は最初に行くべき場所は北側にあるので、若干迂遠ですが線路を跨って行く必要があります。関ケ原駅 駅
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駅を出て右手に出ると陸橋があって、線路を越えることができます。
関ケ原駅 駅
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そのまま陸橋を渡ると、何やら旗が。
近づいていくと…。関ケ原古戦場 名所・史跡
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徳川と井伊の家紋ですね。
ということはあの御曹司か…?関ケ原古戦場 名所・史跡
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ですよね。
井伊直政と松平忠吉の陣跡。
井伊直政は徳川四天王の一にして、2日目に出てきた彦根城を建てた井伊氏の初代藩主。駅前に像があったあの方です。
武田の軍法から継承した赤備えが特に有名。
若くして病没しますが、実は病没の原因はこの関ヶ原の戦いで受けた戦傷が元と言われています。
松平忠吉は徳川家康の四男。
二代将軍、徳川秀忠のすぐ下の弟にあたります。関ケ原古戦場 名所・史跡
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諸説ありますが、一般的には先鋒の福島正則の前に出て、西軍に対して一番最初に仕掛けたことで開戦したと言われています。
当時忠吉は初陣で、山岡荘八の『徳川家康』では、愛児を最前線に発たせることで家康のこの戦に掛ける意気込みを示したという解釈をしていました。
それにしてもこのルートにこれがあるのはなかなか心憎い。
ここから戦国野郎の関ケ原が開戦するわけだな!
とテンションが一段階上がりました。関ケ原古戦場 名所・史跡
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と同時に、このそばには首塚が残っています。
国史跡 『東』首塚。
…ちゃんと西もあります。後で出てきます。関ケ原古戦場 名所・史跡
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合戦終了後、勝者は討ち取った大将の首を実際に確認することで本人確認をしていたわけですが、その確認をしやすいように血や泥を落としていた井戸がここです。
最後にはきちんと弔って供養するとはいえ、大分グロテスクな話ではあります。
我々戦国野郎はよく実感なく首実検とか言っちゃったりするわけですが、戦争自体は人類最大の蛮行ですからね。
こういう負の側面もきちんと押さえておく必要があります。
それにしても井戸、残ってるんですね。関ケ原古戦場 名所・史跡
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陣所と首塚を後にし先へ進むと、何やら旗指し物が増えてきました。
関ケ原古戦場 名所・史跡
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大一大万大吉。
あ、最初の目的地、ここです。
関ケ原町歴史民俗資料館。
ここでは関ケ原に関する展示とともに、レンタサイクルのサービスもやっています。
この建物はレンタサイクル用自転車の保管庫です。関ケ原町歴史民俗学習館 美術館・博物館
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こっちにも。
関ケ原町歴史民俗学習館 美術館・博物館
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正面から見ると、東西諸将と旗指し物が描かれていました。
資料館では鎧兜の展示があったり、関ケ原の戦いのあらましを音声案内していたりしていましたね。
二階では江戸期以降の関ケ原の資料を展示していて、宿場町としての関ケ原と、大日本帝国陸軍の火薬庫としての関ケ原を解説していました。
玉の火薬庫。
東洋一の火薬庫と言われていたそうです。
連合国側は、結局終戦までこの火薬庫の存在を知らなかったとか。
なんか最近公開されたそうですが、今回は戦国野郎として関ケ原を回るのでパスします。
旧陸軍に興味があるミリタリー系な方は行ってみるのも一興かもしれません。関ケ原町歴史民俗学習館 美術館・博物館
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展示を見たあと、レンタサイクルを借りたい旨を受付の人に話したら、この地図を渡してルートを書き込んでくれました。
『西軍、東軍、どの辺を中心に回りたいの?』
と言われたのですが、私は博愛主義者でございます。
関ケ原を描いた歴史小説で特に印象に残っているのは、
・司馬遼太郎『関ケ原』(三成メイン)
・山岡荘八『徳川家康』(家康メイン)
で、両軍の背景も戦いも葛藤も全て含めて関ケ原だと思っています。
逆にそれだけストライクゾーンが広かったので、
『あ、いや、特にこだわりは…』
という、拘りまくりのくせに一般人のような回答を返してしまいました。
ひと通り回りたいんですけど、という話をすると、自転車で回ることを含めたルートを蛍光ペンで追加してくれました。
四時間以内と四時間以上で料金が変わるそうですが、それほど人も多くないようだし、まぁ遅延したら延滞金を払えばいいか、と四時間以内でお願いしました。
鍵はここでもらえるので、貰って先ほどの自転車保管庫へ行き、サドルとかを調整して、いざ出発です。関ケ原町歴史民俗学習館 美術館・博物館
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回ったのはこの推奨ルートとほぼ同じ。
松平・井伊陣跡と東首塚はさっき立ち寄ったので、そこはパスでいいですね。
徒歩約三時間。
自転車であればもう少し短縮できるでしょうが、まぁそこにしばらくとどまるでしょうから、余裕はある程度必要です。
加えて、私はこれから数回道に迷っていますので、地元不案内のリスク分も見て回る時間を考えておいたほうが良いです。
ちなみにこの時9:50。
私は13:00まで関ケ原にいるつもりだったので、レンタサイクルの時間的にも、ルート周りの時間的にも、十分な余裕だろうと思っていました。関ケ原町歴史民俗学習館 美術館・博物館
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資料館を出ると、こののぼりが立つ場所に行くことができます。
歩いていける距離です。自転車を借りる前に見ておいても良いかも。徳川家康最後陣跡 床几場 名所・史跡
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いきなりクライマックスの一つに出くわすわけです。
先ほどの首実検をしている再現絵もありますね。徳川家康最後陣跡 床几場 名所・史跡
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三つ葉葵の旗指し物の奥に、石碑が立っています。
徳川家康最後陣跡 床几場 名所・史跡
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徳川家康の床几場。
先ほど家康が首実検をしていた場所そのままです。徳川家康最後陣跡 床几場 名所・史跡
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少し離れると石碑が。
『史跡 関ヶ原古戦場 徳川家康最後陣地』
ここから何箇所か、主だった場所にはこの大きめの石碑が建っています。
『最後陣地』。
家康は関ケ原開戦時、実はここにはおりませんで。
当初は桃配山という、もっと東の山に拠って陣を張っていました。
が、関ケ原の戦況が思わしくないと見た家康は、戦意高揚効果も意識した上で、桃配山を降りて関ケ原ヘ陣を進めていきます。
南宮山の毛利勢を考慮すると、自身が戦場へ降りていくのは避けたかったのではないかとも思うのですが、最高指揮官が前線に出る、という決断をパッと下して素早く諸将の後詰に入る辺り、十六歳の初陣以降、野戦の妙と将兵の士気、戦場の様相を知り尽くした老練の宿将という感があります。
戦場は計算だけでは動かない。兵数と士気が勝負を決する。
この辺りが文吏では成し得ない、武将としての采配ですね。
桃配山には、徳川家康最初陣跡があるそうですが、ちょっと距離的に遠かったので、松尾山とともに今回は見送りました。徳川家康最後陣跡 床几場 名所・史跡
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で、最後陣後からそのまま先に進もうとして地図を確認し、忘れてた場所に気づいたので戻って撮影しました。
田中吉政陣跡。
石田三成を捕らえた人として有名です。関ケ原古戦場 名所・史跡
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さて、ここから先は本格的に自転車で進みます。
順路が太線で示されているのですが、この順路に従うと見落としてしまう箇所がここ。
実際、私の前をレンタサイクルで進んでいた人は見落としていました。関ケ原古戦場 名所・史跡
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細川忠興陣跡。
細川家に生まれ、父藤孝同様、知識階級でもあり、東軍の外様諸将の中では文武両道の頼れる人物ですが、短気で嫉妬深いという激情家でもあります。
夫人のガラシャが関ケ原合戦前、石田三成に人質に取られそうになり、自害したという話はあまりにも有名ですが、おそらくそれを知っていたであろう忠興は、どんな思いでこの場所に立っていたのでしょうね。関ケ原古戦場 名所・史跡
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ちなみにここは太字で書かれた通りから路地を一本入ったところにあって、ご覧のとおり貯水池のそばにあります。
関ケ原古戦場 名所・史跡
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順路通り進むと大きな道路にぶつかりますが、ここの信号を渡ります。
関ケ原古戦場 名所・史跡
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順路だとこの大通りをある程度進んでから左折するのですが、自転車で来る場合は未舗装の道を通ることになるので、この『エコフィールド関ケ原』の看板がある所から入っていきます。
ところがここから結構な登り。
私は自転車を押して歩いていきました。関ケ原古戦場 名所・史跡
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ある程度登り切ると、柵に囲まれた何かが見えてきます。
関ケ原古戦場 名所・史跡
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池がありました。
中田池だったかな。
次の目的地にはここを右に行きます。関ケ原古戦場 名所・史跡
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するとこんな看板が見つかります。
資料館での話によると、ここに自転車を止めて徒歩で行くように、という話でしたね。
出るのか…。関ケ原古戦場 名所・史跡
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先ほどの看板の場所から真っすぐ進み、突き当りを右へ。
下り坂なので降りてしばし進むと、旗指し物があって、左手側への入り口があります。
そこから先には特に案内がないので、ここでいいんだよな…? と思いつつも登っていきます。関ケ原古戦場 名所・史跡
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登り切ると…ありました。
関ケ原古戦場 名所・史跡
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史跡 関ヶ原古戦場 岡山烽火場。
同時に黒田長政と竹中重門が共に陣を敷いた場所でもあります。
秀吉の両兵衛と言われた、かの二大軍師の息子二人が、共に東軍にあって同じ場所に、そしてこの高地に陣を構える、というのは甚深なものを感じます。
黒田長政。昨年大河の主人公、黒田官兵衛の息子ですね。
秀吉子飼いの武将にもれず彼も猛将ですが、関ケ原の折には内応調略をこなしていたりと、父には及びませんが頭も回せます。
長政は、関ケ原に関するエピソードが幾つもある味わいのある人ですね。
家康の内応状況確認に対して『もう戦ってんだから知らねーよ』と返したり。
捕縛された三成に、甚大な怒りを覚えながらも自分の陣羽織を脱ぎ、『これを召されよ』と勝者の寛容を示したり。
帰国後、父官兵衛に、『何故家康殺さなかったし』と怒られたり。
ご興味をお持ちになったら、ぜひ調べてみてください。『軍師官兵衛』を見返すのも良いかも。関ケ原古戦場 名所・史跡
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烽火場から決戦場を見据えながら、そこの旗指し物に書かれている家紋の人の話を。
竹中重門。
こちらは黒田長政ほど知っている人は多くないかもしれません。
秀吉の前半生の軍師、竹中半兵衛重治の息子ですね。
竹中半兵衛は3日目の岐阜城(稲葉山城)乗っ取りを行うほどの知略、武略に優れた人物でしたが、体が弱く早逝。
重門はどちらかというとあまり父の勢力を受け継ぐことができず、大名というより小領主でした。当初西軍にいたのですが、井伊直政に拠って東軍に鞍替え。関ケ原の戦いでは何気に小西行長を捕らえ、家康から感状をもらうなど大功を立てています。
黒田長政は重門の父、竹中半兵衛に命を救われています。
官兵衛がかつて敵に囚われた時、内応を疑った織田信長が、当時人質だった長政を殺そうとしたのですが、とっさに半兵衛が『殺しました』といって自分の領内に匿いました。
きっと、幼なじみという以上のつながりが二人にあったんだろうなぁと。
また、この光景。見通しの良い地形です。
名軍師を父に持つ二人の名将は、父たちと同じように戦場全体を見据えながら采配を振るったのではないでしょうか。
また、石田三成が当面の敵とはいえ、秀吉を支えた軍師の子として、豊臣、大阪を向こうに回しながら采配をふるう心境はどのようなものだったか…と、この陣跡から様々な想像が沸き起こってきます。そういう意味で甚深な場所でした。関ケ原古戦場 名所・史跡
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さて、二人の陣跡を後にし、自転車に乗って先へ進むことになるのですが、実はここから先、しばらく舗装されていない道が続きます。
この話は資料館でも聞いていなかったので予想外でしたが、地面に気をつけながら自転車を漕いでいきます。関ケ原古戦場 名所・史跡
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途中、池に面して建つこんな小屋が。
関ケ原古戦場 名所・史跡
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こんな展示が。
結構色々な生き物がいるようです。関ケ原古戦場 名所・史跡
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しばらく走ると舗装された道にぶつかります。
そしてローソン。
『関ケ原にはコンビニが2箇所しかないから、十分水分補給していってください』
とガイドの人に言われていました。
もちろん、この時も私の背中にはキャメルバックに氷と水が満載されている状態でしたが、それでもここに来るまでに少なからず水を消費してしまっています。
早速氷と水を追加して補給。関ケ原古戦場 名所・史跡
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で、次はローソンが面する道を道なりに行くのではなく、ローソンを横切って田んぼ側に降りていく必要があります。
私はここで道なりに進んでしまい、慌てて引き返しました。
しばらく進むと、田んぼの真中に何やら見えてきます。 -
史蹟 関ヶ原古戦場 決戦地。
後で出てきますが、小早川秀秋の裏切りによって敗色濃厚になった西軍と東軍がぶつかった場所ですね。
ここから進むと程なく石田三成の陣地があります。
関ケ原に展開していた東軍の将兵が、三成の首級めがけて殺到し、三成軍がそれを必死に阻む、という様相を示した場所だったようです。関ケ原古戦場 決戦地 名所・史跡
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って書いてありました。
関ケ原古戦場 決戦地 名所・史跡
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石碑から背後を振り返るとこんな感じです。
田んぼが広がっていて、今は戦を感じさせる何物もありません。
あ、止まっている自転車は私が借りたやつです。
ご参考までに。
右ハンドル付近に地図をはさみながら移動していました。関ケ原古戦場 決戦地 名所・史跡
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石碑からさらに進むと、何やら陣地っぽい雰囲気がある場所。
謎のオブジェはありますが…。関ケ原古戦場 名所・史跡
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ここにも関ケ原のあらましと観光案内図があります。
関ケ原古戦場 名所・史跡
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先ほどの柵、いわゆる馬防柵ですが、横から見るとこんな感じ。
関ケ原古戦場 名所・史跡
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いいですね。
関ケ原古戦場 名所・史跡
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馬防柵の間に階段があるので、そこを登っていきます。
たしかここにも木の杖が置いてありましたので、足腰に自身がない方は使うと良いと思います。関ケ原古戦場 名所・史跡
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暑い。
が、治部少輔の苦労に比べれば…。関ケ原古戦場 名所・史跡
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着きました。
史蹟 関ヶ原古戦場 石田三成陣地。関ケ原古戦場 名所・史跡
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ここは笹尾山といいます。
関ケ原合戦の西の首謀者は、ここに陣を張りました。関ケ原古戦場 名所・史跡
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展望台から。
石田治部少輔三成が見た関ケ原。
三成については超有名ですね。
この人物をどう評価するか、は関ケ原最大のテーマの一つです。
徳川方から見た三成。豊臣方から見た三成。
含蓄が深すぎてここでは書ききれそうもないので、個人的には先ほど紹介した『関ケ原』と『徳川家康』を読むことをオススメします。
というか、言っている私が読みたくなってきました。関ケ原古戦場 名所・史跡
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きっと島左近も見ていたことでしょう。
『三成に過ぎたるものが2つあり。島の左近に佐和山の城』
と当時うたわれたといいます。
島左近は当時三成に破格の高禄で召し抱えられていた名将。
畠山、筒井、豊臣(秀長)と主を変え、最後に三成に仕官します。
関が原の戦いで戦死したと伝えられていますが、死してなお東軍の諸将の語りぐさとなり、将兵をビビらせる程の勇猛さで奮戦したそうです。関ケ原古戦場 名所・史跡
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展望台には隻柄派の陣形図もありますので、位置関係を確認しておくと良いと思います。
関ケ原古戦場 名所・史跡
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さてまだまだ続く。
ここから先はしばらく西軍諸将の陣屋を回ることになります。
太線の順路にそって進んでいったのですが、ふと脇道にこんなのぼりがあって、おっと通りすぎるところだった、と呟きながらそちらの方角へ。関ケ原古戦場 名所・史跡
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島津義弘陣跡。
関ケ原古戦場 名所・史跡
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関ケ原における両軍の活躍はたくさんありますが、西軍最後の大舞台が『島津の敵中突破』。
西軍がほぼ総崩れになった時、それまでほぼ微動だにしなかった島津が動き出します。
が、その動きはおそらく両軍が想定していなかった動きだったでしょう。
島津は敵に、家康本陣に向かって決死の突撃を行ったのです。
島津は朝鮮出兵において、「鬼石曼子(グイシーマンズ)」と呼ばれ、朝鮮や明国から恐れられています。
そのうえ、島津の勇猛さというのはある意味で命を命とも思わず、平然と捨て放つ、言わば死兵としての強さを持っています。
この死兵に対し、あの猪の福島正則ですら、直接対決を避けています。
家康本陣まで突撃した後、南に進路を転じますが、ここで東軍の追撃を受けるや、島津は得意の捨て奸(すてがまり)戦法を展開して退き口を作ります。
この捨て奸、小部隊を殿に残しつつ、部隊が壊滅するまで戦わせ、壊滅したら次の小部隊を配し、同じことを味方が退却するまで続けるという壮絶な戦法。
さしもの島津も東軍の追撃により、島津豊久や長寿院盛淳といった身内や家臣を失いますが、義弘自身は突破に成功します。
一方追撃した東軍も、松平忠吉や井伊直政が負傷、ホンダム(本多忠勝)が落馬と凄まじい打撃を蒙りました。
…という話なんですが。
いや、ねぇよ。
島津おかしいよ(褒め言葉)、と。
敗色濃厚な状態だと、先ほどの決戦地に向けて東軍が殺到している状況で、敵しかいない状況のはずなのに、その密度の中、さっきの(そこそこ距離があるはずの)最後陣後まで驀進とか、普通に考えると正気を疑ってしまいます。
よくこんな無茶苦茶なミッションを成功させたものです。
こんなことをした意図が何だったか、考えてみるのもまた一興です。関ケ原古戦場 名所・史跡
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実は島津陣跡にはもっと立派な石碑があります。
よく見ると、『公爵 島津忠重書』と。
子孫末代に至るまで、関ケ原に島津あり、という意志を体現したかったのでしょうね。関ケ原古戦場 名所・史跡
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何やらたくさん名前が刻まれた石碑があったのですが、鹿児島県日置市の子供達が『関ヶ原戦跡踏破隊』として、島津勢退路を踏破しているとか。
今なお、『関ケ原に島津あり』は受け継がれていると。
すごいなぁ。関ケ原古戦場 名所・史跡
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ふたたび順路に戻ると、左右を田んぼに囲まれた道。
しばし進むと何やら、次の旗指し物が見えてきました。関ケ原古戦場 名所・史跡
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近くに駐車スペースがあるので、ここで自転車を止め、歩いて近づいていきます。
関ケ原古戦場 名所・史跡
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開戦地。
先ほどの井伊直政、松平忠吉と福島正則は、この辺りで砲撃を開始したと。関ケ原古戦場 名所・史跡
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史蹟 関ヶ原古戦場 開戦地。
当時は濃霧だったそうですから、開戦場所がここになったのは若干偶発的な要因もあったんだろうとは思います。関ケ原古戦場 名所・史跡
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そしてそのほど近く。
小西行長陣跡です。
キリシタン大名として、関ケ原の処刑時に切腹を拒否したことで有名な人です。商人上がりの武将というちょっと変わった経歴の持ち主。
どちらかと言うとこの人は朝鮮出兵でケチが付いてしまったような印象があります。
加藤清正との因縁とか、交渉失敗で秀吉を激怒させてしまったりとか。
とはいえ、石田、宇喜多と並んで西軍主力の一でした。関ケ原古戦場 名所・史跡
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太字で示された地図上の順路では、この行長の陣所から歩いて次の目的地に行くルートが示されているのですが、このルートも未舗装なので、舗装された道からの迂回が必要です。
関ケ原古戦場 名所・史跡
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で、迂回してみると、こんな場所に出ます。
ここで自転車を降りて、森の中を歩いていきます。関ケ原古戦場 名所・史跡
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この辺りから虫が気になり始めてきます。
実は笹尾山の陣所でスズメバチとかを見かけてしまって。
距離を取っていたのですがちょっと怖かったです。
この森のなかを歩いている時も、時々帽子に虫がぶつかってきたりするのですよ。
蚊に刺されることとかはありませんでしたが、虫除けをしていったほうが良かったかもしれません。
個人的には、『トンボはスズメバチすら食う』という話を聞いていて、トンボが辺り一面に沢山いたので、安全なんじゃないかな、と勝手に思ってはいました。関ケ原古戦場 名所・史跡
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しばし道を進むと、ウォーキング順路と合流します。
関ケ原古戦場 名所・史跡
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石段の先に灯籠と、曰く有りげな場所。
関ケ原古戦場 名所・史跡
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宇喜多秀家陣跡。
関ケ原古戦場 名所・史跡
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こういう小さい石碑もあったのですが、
関ケ原古戦場 名所・史跡
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もう少し大きな石碑も建てられていました。
備前宰相。
八郎ですね。
尼子経久、毛利元就などと並び称される中国地方三大謀将の一人、宇喜多直家の一粒種として生まれました。
この親父は戦国史に悪名を轟かした狡猾なワルなのですが、この人はずっと真っ直ぐな人ですね。
当主になった後、秀家は秀吉に可愛がられ、一門衆に加わります。
その後、文禄の役で大将を務めるなど、武功も上げており、最終的に秀吉から五大老に任ぜられるほどの大身になります。
関ケ原では毛利輝元に継ぐ副大将として、家康を除くと最大級の兵力一万七千を引っさげて関ケ原に参戦。
文字通り西軍の主力として獅子奮迅の戦いを展開しました。
敗戦後、本来なら死を受けるべきところを免じられ、八丈島に流罪になります。八丈島流罪は彼が初だそうです。
以降彼は八丈島で何と50年も暮らすことになるのですが、その折には福島正則の家臣との酒のやりとりとか、色々と面白い話を残しています。
84歳という当時としては異例の高齢で世を去りますが、既に4代将軍徳川家綱の治世でした。
石田三成と並んで、豊臣に対する恩顧を胸に立ち上がったのだろうと思いますが、おそらく西軍諸将の中ではもっとも『豊臣』『太閤殿下』の恩義を感じて、まっすぐに戦った人だったのではないか、と私は思っています。
三成には、やはり打算が見え隠れしてしまっていて。
この人と同じぐらい真っ直ぐな人が西軍にいるとしたら、おそらく刑部少輔をおいて他にはいないのではないかなと。
ええ、これから彼の所に向かいます。関ケ原古戦場 名所・史跡
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さて、ここからはちょっと遠い。
実は次の目的地である刑部少輔の所には、ウォーキングだと秀家陣後からダムを超えて歩いて行くルートがあって、それが地図上の順路なのですが、ここも未舗装道路。
ここも迂回しなければならないのですが、この迂回が一番大きいです。
まず、このガードを通って線路を超え、国道21号に出た後、歩道橋があるところの近くまで西進し、旧中仙道に入る必要があります。関ケ原古戦場 名所・史跡
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途中で不破関資料館を通り過ぎます。
今回はパス。関ケ原古戦場 名所・史跡
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さて、着きました。
ここに駐車場があるので、自転車を止めて先へ。関ケ原古戦場 名所・史跡
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ここを上がっていきます。
階段の先に踏切。関ケ原古戦場 名所・史跡
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左右を確認して…と。
関ケ原古戦場 名所・史跡
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何やら神社があるらしいです。
関ケ原古戦場 名所・史跡
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祭神が弘文天皇(大友皇子)。
そうか、壬申の乱に縁のある地なんですね、関ケ原は。関ケ原古戦場 名所・史跡
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更に進んでいくとこの神社の境内に出ます。右手側にこんな立て札が。
まずは陣跡へ向かいます。関ケ原古戦場 名所・史跡
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この先ずっとこんな具合の山道です。
足元に気をつけて進みましょう。関ケ原古戦場 名所・史跡
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こっちでいいんだよな…?
と迷い始めた頃に旗指し物が。関ケ原古戦場 名所・史跡
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大谷吉継陣跡。
関ケ原古戦場 名所・史跡
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ここに刑部少輔、大谷吉継が陣を布きました。
西軍を語るにあたって、大谷吉継のことを語らずに済ますことはできませんよね。
石田三成の無二の盟友。
業病を患った不遇の能吏。
そして、裏切り者となった小早川秀秋と最後まで戦い、最後に自害した人物です。
この人の話も三成との絡みでたくさん出てくるので、紹介は前掲の作品をご覧頂いたほうが。
個人的には、秀吉死後、実は家康に接近していたというのが意外ではありましたね。
…いや、意外ではないのか。
吉継は能吏として天下の趨勢がよく見えていたということです。それと承知のうえで三成に加わったというわけで…。
この一事だけでも、どういう心底で彼が敗色濃厚な関ケ原に臨んだのか、ということが見えてくるように思います。関ケ原古戦場 名所・史跡
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さて、刑部少輔がらみのポイントはあと2つあります。
この先には大谷吉継の墓があります。関ケ原古戦場 名所・史跡
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ここは結構長いです。
関ケ原古戦場 名所・史跡
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しばらく歩いて行くと、宇喜多秀家陣跡からのルートと合流します。
関ケ原古戦場 名所・史跡
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…到着しました。
史蹟 関ヶ原古戦場 大谷吉継墓。関ケ原古戦場 名所・史跡
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ここには2つの墓標があります。
関ケ原古戦場 名所・史跡
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大きな石灯籠は大谷吉継の墓。
関ケ原古戦場 名所・史跡
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そして、側には湯浅五助の墓があります。
大谷吉継の家臣で、吉継切腹の折に介錯をつとめました。
主君から自分の首を(病気で見苦しいので)敵に晒すなと言われた五助は、その後吉継の首を埋めた直後で敵(藤堂高刑)に見つかります。
五助は高刑に経緯を話し、自らの首と引き換えに主君の首の場所を隠してくれるように頼み、承諾した高刑によって首を打たれます。
その後家康に五助の首を見せた際、吉継の首の場所も知っているはずだと言われましたが、高刑は五助との約束を守って口を割りませんでした。
家康はその姿勢に感動して槍と刀を与えた、という話が残っています。
戦国における主従の姿、武士の一言金鉄の如しという、戦国のもののふの生き様が伝わってくる逸話です。
無念の敗戦ではありましたが、心を打たれるものを多々残してくれた二人に対し、私は手を合わせ、深い祈りを捧げました。関ケ原古戦場 名所・史跡
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二人の墓を後にし、陣屋まで戻ると逆の道を行きます。
こちらはそれほど遠くはありません。
すぐに明るくなってきました。関ケ原古戦場 名所・史跡
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写真では不文明ですが、肉眼では山頂に旗指し物がはためいているのが見えました。
おそらくはもっとも大谷吉継の思いが残る場所でしょう。
ここから、かの裏切り者、小早川秀秋が陣取っていた松尾山を一望することができます。
この眺望、明らかに監視ですね。関ケ原古戦場 名所・史跡
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小早川秀秋は秀吉の養子の一人。
小早川隆景亡き後の小早川家を継いでおり、金吾中納言と呼ばれていました。
東軍に通じつつも、三成からは関白職を約束されるなど餌で釣られ、一万三千と大兵力を率いて関ケ原へ参戦。
見ての通り松尾山は主戦場から離れ、かつ高みの見物ができる絶好のポイントです。
東軍に内応しつつも一向に動こうとしない秀秋に対して、家康はブチ切れて鉄砲を松尾山にブチ込むと、秀秋は驚き慌てて松尾山から攻めくだり、この大谷吉継の陣に突撃してきます。
大谷吉継は二千の兵しか持っていなかったにもかかわらず、これを三度も撃退しましたが、衆寡敵せず…という話です。
こうして大谷吉継を討った小早川秀秋は、この関ケ原から数年しないうちに早逝し、小早川家は断絶します。
大谷吉継が『呪い殺す』と叫んだという話もありますが、真偽はさておき、この裏切りは、きっと彼の死に影を落としていただろうと思います。関ケ原古戦場 名所・史跡
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この光景を見て、大谷吉継に思いを馳せた時には、色々と胸に迫るものがありました。
……。
次の天下の趨勢を知りつつも、ただ友情によって三成に味方し、裏切り者の存在を警戒しつつも備えきれず、そして、押し寄せてくる何倍もの敵を必死に追い払う味方の血闘が眼下の谷に見える中、果たして彼は何を思ったのかと。関ケ原古戦場 名所・史跡
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刑部少輔の足跡をしっかりと目に焼き付けてきた後、次の目的地へ。
と思ったらこんなのを見かけてニヤリ。
『一筆啓上 火の用心』
と言われたら、戦国野郎はこう返さなければなりません。
『お仙泣かすな 馬肥やせ』
本多作左衛門重次ですね。
さすが関ヶ原町、分かってらっしゃる。関ケ原古戦場 名所・史跡
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歩道橋付近まで戻って、反対側の旧中山道に入っていきます。
関ケ原古戦場 名所・史跡
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壬申の乱で天武天皇と弘文天皇が対峙した川だそうです。
壬申の乱ネタはあまり意識してなかったですね。
この辺勉強してくると、もっと面白かったかも。関ケ原古戦場 名所・史跡
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更に南に向かい、遠目に見える新幹線のガードを抜けていく必要があるのですが、左手に広がる豊穣を無視できずパチリ。
安土同様、ここも戦国の古戦場とは思えない田園になっています。関ケ原古戦場 名所・史跡
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ガードをくぐって程なく、こんな旗指し物が。
関ケ原古戦場 名所・史跡
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脇坂安治陣跡。
賤ヶ岳の七本槍の一人です。
関ケ原では、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保とともに、小早川秀秋に対する備えとして配置されていましたが、秀秋の裏切りに呼応して大谷勢に襲いかかりました。
1点、私が不勉強だったのは、脇坂安治は事前に東軍に通じていたため、戦後に他の3人とは違い本領安堵されているんですね(他の3人は減封か改易)。
同じ裏切り行為のように見えて微妙に差がありました。関ケ原古戦場 名所・史跡
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こんな感じです。
関ケ原古戦場 名所・史跡
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さて、西軍諸将はこれぐらいでおしまい。
ここからは残る東軍諸将の陣跡を回ります。
新幹線のガード下を抜け、春日神社へ向かうと、あの猪武者、福島正則の陣跡があります。
今までの話の通り、井伊直政に先んじられた後、ここから宇喜多勢に躍りかかったと。
秀吉子飼いの武将にして、賤ヶ岳七本槍の一。
三成嫌いの急先鋒として有名ですね。
この人は関ケ原の功で五十万石の大身を得ながらも、武家諸法度に反して改易食らって、最終的に元の木阿弥になっているんですよね。
非常に勿体無い話ではあります。
とはいえ、検地など政治上の業績は残しており、全くの猪武者というわけではないようです。関ケ原古戦場 名所・史跡
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ちなみに、この陣跡の直ぐ側に、こんな杉の巨木があります。
この木に依って陣を張ったんですかね。関ケ原古戦場 名所・史跡
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こんな具合。
右側の木です。関ケ原古戦場 名所・史跡
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次は藤堂高虎、京極高知の陣跡に行こうとしたのですが…。
ん?
この矢印の先は…?関ケ原古戦場 名所・史跡
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中学校ですよね…?
ひょっとして構内にあるのか、と、自転車を停めて中には行ってみました。関ケ原古戦場 名所・史跡
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あ、あった。
関ケ原古戦場 名所・史跡
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松尾山に備えながらも松尾山が味方になったので、じゃあ宇喜多にでも突っ込むかー、って感じでしょうね。
藤堂高虎は、何度も主人を変えた大名として有名ですね。
基本的に関ケ原より少し前から親家康派であり、築城等の才もあったことから、家康の晩年以降、三代の将軍から譜代に準ずるレベルで信頼された人でした。
京極高知は、浅井長政の娘 初を娶った京極高次の弟。関ケ原古戦場 名所・史跡
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さて、残る陣跡は後一つ。
と、国道21号を走っていたら、こんな所を見つけました。関ケ原古戦場 名所・史跡
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予告からずいぶん経ってしまいましたが。
関ケ原古戦場 名所・史跡
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ここが史蹟 関ヶ原古戦場 西首塚。
関ケ原古戦場 名所・史跡
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西首塚を通り過ぎた後、関ケ原のもう一つのコンビニで氷と水を補給し、最後の陣跡を目指すのですが、ちょっと道に迷ってしまいました。
最終的には国道365号線の信号『中町』→信号『西公門』と曲がってたどり着きました。結構路地が複雑でして。
旗指し物が見えていますが、左側が何故か破れていました。
直しておいてほしいものです。関ケ原古戦場 名所・史跡
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ホンダム(本多忠勝)の陣跡。
関ケ原古戦場 名所・史跡
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『家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八』
徳川四天王の一にして、徳川家きっての猛将。
織田信長いわく『花も実も兼ね備えた武将である』。
豊臣秀吉いわく『日本第一、古今独歩の勇士』。
と天下人たちから激賞された人です。
関ケ原前後ではもう歳なのか、どちらかと言うと軍監っぽい動きをしているように描かれることが多いですね。
ただ、あの福島正則から武勇を褒められ『敵が弱すぎたから』って答えている辺り、おそらく槍働きも一再ならずしていたのだろうとは思います。
晩年まで傷も負わず武勇の程も確かだったようですからね。関ケ原古戦場 名所・史跡
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よし、これで全て回り終えました。
この時確か12時半。
所要時間三時間半強と、割と良い具合に収まりました。
ちなみに温度は33度と表示されていました。関ケ原古戦場 名所・史跡
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後はレンタサイクルを返却して帰るだけです。
実際に回ってみると得るものはたくさんありましたね。
今まで書いてきた事柄と体験はもちろんでしたが、
『戦場で的確に戦況を掌握し、刻々の変化に応じるためには、指揮者は特に厳しく距離を能吏に刻んでおかねばならない』(『徳川家康』)
各陣所や戦場間の距離感を、この点で歩んで確認できたので、どういうスケールで、どういう方角で誰と誰がぶつかったのか、という臨場感を得られたように思います。
松尾山と桃配山には行けませんが、安土同様、ここにもまた来ることになるような気もしました。関ケ原駅 駅
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よし、全行程回った!
後は帰るだけだ!
と、私は荷物を預けたコインロッカーの駅まで戻ってきました。
一度改札を出た後、私は頭上を見上げ、駅名を確認してふと気づきます。
『あれ、ここには確か…』
時間はまだ1,2時間ほど残っていました。大垣駅 駅
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午後の炎天下、最後の最後でボーナスポイントを回るべく、駅から灼熱の炎天下を歩くこと10分ぐらい。
何やら城っぽいのがありますね。大垣城 名所・史跡
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この度のボーナスポイントその2、大垣城です。
関ケ原では西軍の本拠地となった場所。
実は戦前は国宝だったのですが、戦火で消失してしまい、現在は復元天守になっています。
天守の周りは公園になっています。大垣城 名所・史跡
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時間的にも体力的にも、ぼちぼち余裕がなくなってきたので、若干駆け足で回ります。
水之手門跡。大垣城 名所・史跡
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なかなかの威容ですね。
大垣城 名所・史跡
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大垣城 名所・史跡
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先に本丸内に入っていたので、一度表に。
大垣城 名所・史跡
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公園から見た門。
大垣城 名所・史跡
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大垣藩祖、戸田氏鉄です。
私も実はよく知らなかったんですが、家康の近習上がりの人ですね。
20代で関ケ原に参戦、最終的に大垣10万石の藩主になったそうです。
家綱のへその緒を切る、という役目を務めたりと、戦国末期から江戸幕府初期に働いた人のようです。大垣城 名所・史跡
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では改めて入ります。
大垣城 名所・史跡
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戦災復興事業完成 記念碑。
天守復興の記念ですね。大垣城 名所・史跡
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鉄門跡。
大垣城 名所・史跡
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天守の近影。
いい絵になってます。大垣城 名所・史跡
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大垣城の概略。
今は小さな本丸しか残ってませんが、秀吉も重要視していた要衝ですね。
この調子だと縄張りは公園の領域よりもずっと広いですね。
まぁそうでなければ西軍の根拠になんかできなかったでしょうけど。
平城ですね。大垣城 名所・史跡
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天守内は資料館になってます。
大垣城 名所・史跡
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関ケ原前哨戦 杭瀬川の戦いとかの図が展示されてました。
大垣城 名所・史跡
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火縄銃を持ってみようのコーナー。
実際に持てます。撃てませんけど。
結構重いです。大垣城 名所・史跡
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弓を引いてみようのコーナー。
あんまり引くと危ないから引きすぎないでね、とのこと。大垣城 名所・史跡
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天守からの眺め。
平城なので、天守最上層からでもそんなに視線は高くありません。大垣城 名所・史跡
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まぁ、街の中の城、という感じでした。
大垣城 名所・史跡
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石垣は意外に無骨でしたね。
大垣城 名所・史跡
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実は裏口から入って正門から出るという逆走をしていたのですが、正門にはこんなポスターがありました。
大垣のローカルヒーローらしい。
こんなの作ったんですね。
…うーん。まぁこの城の規模だと、攻防戦しても1,2時間で決着ついちゃうしなぁ…という戦国野郎のコメントは不要ですね。大垣城 名所・史跡
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というわけで、史跡 大垣城跡でした。
大垣城 名所・史跡
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帰りの新幹線は名古屋から乗ります。
この辺も見たい所満載ですが、ここにはなんだかんだ言ってくる機会がかならず訪れるように思います。
その折は尾張、三河、遠江の三カ国、平らげてご覧に入れましょうぞ。名古屋駅 駅
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再びグリーン車に乗り、車上から浜名湖を。
ここしばらく旅行に出かけていなかったのですが、ようやく旅行に出られるぐらいの余裕ができ、かねてから行きたかった安土や関ケ原に行くことができました。
現地では割と駆け足で回っていたのですが、こうして旅行記を仕上げていく中で、改めて現地を旅しなおしているように感じました。回っていく中で消化できなかった事柄を、旅行記を書くことで整理し意味づけしていくと。
結局、旅行記を書くのに数日かかったのですが、その意味では実際の旅行と合わせると、1週間分ぐらいの内容を凝縮して行ってきたんだなぁと。
充実した旅行でしたね。
戦国旅、また行きたいものです。
さて、次は何処にしようかしら。
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