2015/04/20 - 2015/05/10
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Weiwojingさん
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フイリピンには中国系の人々がたくさん住んでいるが、元々かなり古い時代に中国南部から渡って来たようである。現在、彼らは華僑というよりはもう中国系フイリピン人で、そのほとんどは中国語を話すことは出来ないし、名前もフイリピン風に変え、何ら普通のフイリピン人と変わらない。
ところが、こうした人々も季節ごとの祭りや伝統行事に中国人であることの証しとして先祖から伝えられてきたことを大事に守ってきている。
マニラにはチャイナタウンがあり、多くの中国系の人々が住んでいる。スペイン統治時代、スペイン人が住んでいたイントラムロスには中国人は住むことが許されなかつたので、この城壁都市の外に居を構え、スペイン人との商売を行ってきた。ここに多くの中国人が移り住むようになり、やがて中国人のコミ二ィティが出来、現在のチャイナタウンが形成されてきた。
彼らの歴史や文化を知る目的で Bahay Tsinoy ( 菲律歴史博物館 ) へ出掛けてみた。“Bahay Tsinoy”とは “Chinese-Philipino House” を意味する言葉である。今回、博物館での様々な資料を見て、この国における中国系の人々の様子がかなり分かったと言ってもよいだろう。
- 旅行の満足度
- 4.5
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「菲律歴史博物館」、はスペイン時代の城塞都市であったイントラモルス内にあり、歴史的建造物の多い周囲の建物と同様に、古さを感じさせられる建物の中にある。
現在この建物は Kaisa Angelo King Heritage Center となっていて、いわば中華系の人々の拠り所となっている。 -
博物館の中心はジオラマ式に中国から渡って来た中国人たちがどのようにしてフイリピンの地で定住し、どのような生活を送っていったかを示すものが多かった。これらは見ている者に視覚的なインパクトを与えるので、かなり効果的かもしれない。
この場面は中国人が帆船でやって来て、フイリピンの人々との織物の交易の様子を示すもので、右側の男性が中国人、左側の人々がフイリピンである。 -
小生が見学中に高校生の一団が押し寄せ、けたたましい声や騒々しいばかりの見学態度に辟易したが、あっと言う間にいなくなった。
引率していた先生に尋ねると、彼らは中華系の学校に通う生徒たちで、祖先の歴史を知るために来たとのことであった。しかし、あまり関心はなさそうで、どこの国でも祖先の人々の偉業に対する青少年の関心度は変わらないものだと思い知らされた。中には熱心にメモを取る生徒もいたが、ごくわずかであった。 -
中国人の日常生活を描いたジオラマを数多く見ることが出来る。蝋で出来た人物はかなり精巧で生々しい感じがする。
この人物は金細工職人で、中国人の得意な分野の職業であった。 -
天秤棒を担いでものを売り歩く男性。
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路上理髪店。
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中国から持って来た絹の布地等を売りさばいている男性。男性は皆弁髪をしている。
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工場で働いている労働者たち。
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街の一角で子供が凧揚げをしているところで、中国人が住んでいる区域ではよく見かける光景であるのだろう。
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ある商店の中の様子で、店主が七つ玉のそろばんを片手に何やらはじき出している様だ。この日の売り上げでも計算しているのだろうか。かなり成功した店構えをしている。
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この人物は立派な身なりをしていて、高官だろうか。説明によると、Captain Chino ( Gobernadorcilos ) とあり、マニラの中国人社会を治める長官のような人物であった。
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中国人の食卓の様を紹介している。手前の大きな魚、中央の麺 ( パンシット )、豆腐、春巻き ( ルンピア )、一番奥のマントウ等彼らのごく普通の食べ物である。これらは現在のフイリピンの食文化の一部となっている。
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窓辺で読書にふける男性の姿が見えるが、そのわきの障子のような戸に注目していただきたい。
まるで障子のように見えるが、木の格子に張られているのは紙ではなく貝なのである。カピスという貝( 日本名をマドガイ )を薄く延ばして、はり付けたものである。デザイン的にも採光や通気の観点からも大変優れている。ルソン島北部で見られる伝統的な( 中国人がもたらした )建築様式である。 -
サン・オウガスチン教会修道院の石で出来た階段は中国人技術者の手によるものである。
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サン・オウガスチン教会の聖歌隊の木で出来た座席も中国人技術者によつて造られたものである。
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フイリピンで活躍した中華系の人々を紹介したい。
この人物は、1898年スペインからの独立の際初代大統領なった Emilio Aguinaldo で、彼は中国系フィリピン人であった。 -
アメリカの West Point ( 陸軍士官学校 )をフィリピン人として初めて卒業した 中国系の Vin-
cent Lim ( 1888〜1946 ) 。 彼は太平洋戦争末期に日本軍と戦った経験を持つ。 -
珍しい写真があった。これは Dr. Sun Yatsen ( 孫 中山 ) ( 右側の人物 ) が1900年に横浜でMariano Ponce ( 左側 ) と共に撮った写真である。
孫中山と言えば、孫文という名でも知られているが、中国で辛亥革命を起こした人物で、東南アジア各国で活躍した人物である。 -
フイリピンの国民的英雄である ホセ・リサールも中国人の血を引いていることを忘れてはならない。
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医学博士の Tee Han Kee( 1880 〜1943 )。
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カトリツク教会で法王に次ぐ最高の地位に継いでいる Jaime Cardinal Sin ( ハイメ・シン枢機卿、 1928〜 )は、フィリピン出身の初めての中国系枢機卿として活躍した。
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コラソン ・ アキノ元大統領も中国にルーツを持つ系譜の持ち主である。
シン枢機卿と共にマルコス政権を退陣に追い込んだ立役者であった。 -
Vidal Tan ( 1893〜1978 ) はthe University of the Philippines の第8代総長を務めたが、同時に戯曲を書いたり、ユネスコ関係の要職に就くなどの文化人であった。
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著名な作曲家である Jeffry Ching ( 1960〜 )はイギリスの Royal Academy of London で学び、2000曲以上の作品を作曲した。その中もよく知られているものに、14歳の時に作った “Cantata in a Mercy of a Great man”と1992年の“The Imp of the Pewerse”がある。
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作詞家の Jose Mari Chan ( ホセ・マリ・チャン、 1945〜 )で、彼はと映画音楽を数多く手掛けたり、また歌手としても活躍した人物である。
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法曹界で活躍したClaudio S. Teeftankee ( 1918〜1990 )である。
各界で活躍している中国系の人々は実際はもっとたくさんいるが、ここでは紹介しきれない。 -
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最後に出口にフイリピンにおける中国人に関する書籍が何冊も置かれていた。英語以外に中国語で書かれたものもあった。
2時間余りの見学であったが、フィリピンにおける中国人 ( および中国系フィリピン人 )の軌跡を辿り、彼らの姿を知ることが出来、新たな目を開かれたと言ってもよい。他にも、中国系の人々による抗日運動の紹介もあったが、省かせていただいた。
博物館巡りも、次の「マニラで美術館・博物館巡りも亦楽しからずや ⑤ ー San Augustin Musuem ( サン・オウガスチン博物館 )」で完成である。併せてご覧ください。
http://4travel.jp/travelogue/11029127
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