2015/04/25 - 2015/04/26
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naoさん
岐阜県大垣市赤坂町は、江戸時代には、中山道の江戸日本橋から数えて56番目にあたる赤坂宿があったところです。
赤坂町の東を流れる杭瀬川は、かつて上流の池田山からの湧水により豊富な水量を有していたことから、赤坂は川湊として人と物資の運搬に重要な役割を果たしており、最盛期には500艘もの船が出入したと云われています。
赤坂が中山道の宿場に指定される以前は、西に隣接する青墓が宿場として利用されていましたが、青墓宿から赤坂にある川湊まで距離があったことから、渡船を待つ旅人のために赤坂宿が指定されることとなりました。
慶安2年(1649年)に中山道の宿場に指定された赤坂宿は、本陣、脇本陣、問屋場、旅篭屋17軒を数える宿場町へと徐々に形を整え、杭瀬川の水運とともに繁栄を迎えます。
東町、子安町、羽根町と続く町並みの中ほどから、北は延歴17年(798年)創建の西国33番霊場、谷汲山華厳寺へ至る谷汲巡礼街道や、南は養老の滝で知られる養老町へ至る養老街道が分岐しており、その分岐点には天和2年(1682年)の銘のある常夜燈が立っています。
人と物資の運搬に重要な役割を果たしてきた杭瀬川の水運も、大正8年の旧国鉄美濃赤坂線の開通やトラック輸送の発達とともに急激に衰退したことから、旧川湊附近は埋め立てられ、四阿、遊歩道、噴水などを設けた赤坂港跡として整備されています。
現在、享保15年(1730年)建築と云われる旧清水家住宅の再生など、文化財の保全や、地域の活性化に努めておられる町並みには、切妻屋根の平入りで、虫籠窓や格子のある町家が点在し、宿場町の面影を色濃く残しています。
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 自家用車 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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中山道の、江戸日本橋から数えて56番目にあたる赤坂宿に着きました。
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街道筋にある、下見板張りの塀で囲われたお屋敷です。
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町角には、歌川広重が描いた中山道六十九次(木曽街道六十九次として描かれている)の中の赤坂宿の風景画が掲げられています。
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赤坂宿の東の入口附近にある御使者場跡の石碑。
御使者場とは、大名などが宿場を通るとき、宿場役人や名主が送迎のために立礼した所です。 -
この辺りは、赤坂が中山道の宿場に指定される要因となった川湊があった辺りです。
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かつて旅人の道案内をした・・・
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常夜灯が立っています。
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常夜灯の向かいには、時の鐘のモニュメントが立っています。
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現在、埋め立てられた旧川湊附近は、四阿、遊歩道、噴水などを設けた赤坂港跡として整備されています。
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これは、赤坂屈指の旧家、矢橋家一族の元岐阜天文台副理事長をされていた方が発明した「矢橋式日時計」です。
金属盤を調整する事によって正確な時刻を確認出来るようになっているこの日時計は、全国で200ケ所余り設置されているそうです。 -
こちらは赤坂港会館です。
この建物は、明治8年(1875年)、中山道と谷汲巡礼街道の分岐点に建てられた、岐阜県警察大垣出張所の第5分区屯所の外観を復元したものだそうです。 -
会館内では、古くから石灰や大理石産業の町としてにぎわっていた当時の様子などが紹介されています。
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赤坂港跡のお隣には浅間神社があります。
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浅間神社の手水舎の龍の吐水口。
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社殿の前でかしこまる吽形の狛犬と・・・
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阿形の狛犬。
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赤坂港跡はこれくらいにして、町歩きに戻ります。
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頑丈な格子の入った町家です。
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こちらはNPO法人が運営している「まちの家赤坂宿」です。
地域の方々が気軽に立ち寄れる場所をと、築100年の古民家を改装したもので、2013年にオープンしたそうです。 -
こちらの町家にも頑丈な格子が入っています。
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2階に防火のための袖壁がある町屋。
今は空き地が目立ちますが、かつてはこんな町家が連なっていたんでしょうね。 -
かつての本陣跡が赤坂本陣公園として整備されています。
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公園の一角には、文久元年(1861年)、第14代将軍徳川家茂に嫁いだ皇女和宮が宿泊されたことをしのぶ顕彰碑が立てられています。
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こちらは享保15年(1730年)の建築と云われる旧清水家住宅です。
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平成24年にこの住宅を寄贈された大垣市は、町並みの核となるようにと整備を進め、平成27年3月に完成しました。
今後は、観光施設や休憩所として、まちづくり活動の拠点となるべく運営されるとのことです。 -
中庭から見た縁側の様子。
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室内に置かれた行燈がほのかな灯りを灯しています。
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欄間に彫られた鳥たちは・・・
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躍動感にあふれています。
では、町並みに戻ります。 -
町並みの中ほどにある枡形。
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枡形に面して建つ大きな町家。
1階の格子がリズミカルです。 -
また、枡形のあるこの辺りは四つ辻と呼ばれていて・・・
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北は延歴17年(798年)創建の西国33番霊場、谷汲山華厳寺へ至る谷汲巡礼街道が、また、南は養老の滝で知られる養老町へ至る養老街道が分岐していて、天和2年(1682年)の銘のある常夜燈が立っています。
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四つ辻から南へ延びる養老街道の光景。
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養老街道に沿って大きな土蔵が続いています。
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こちらは「矢橋式日時計」の発明者を生んだ、赤坂屈指の旧家、矢橋家です。
ちなみに、先ほどの大きな土蔵は矢橋家のものです。 -
天保4年(1833年)の建築と云われる母屋は、黒漆喰塗りの壁や千本格子など、江戸時代末期の大規模町屋の特徴がよく表れています。
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白漆喰塗り籠めの袖壁を持つ町家。
拭き込まれた格子が、この建物に対するご主人の愛着の深さを示しています。 -
2階の窓がアルミサッシに変えられていますが、かつての風情は窺い知れる町家です。
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こちらの町家は、建てられた当時の姿を保っておられます。
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矢橋家の母屋です。
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こちらはかつての脇本陣跡で、現在は「榎屋」の屋号で旅館を営んでおられます。
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脇本陣跡の先にある「五七」と看板が出ているお店はお休み処です。
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赤坂宿が江戸日本橋を含むと57番目の宿場にあたるので「五七」と名付けられたそうです。
一般的に、「赤坂宿は56番目の宿場」だと云われているんですが、「五七」は年齢を「数え」で数えるのと同じ考え方なんですね。
紛らわしい〜! -
こちらは「お嫁入り普請探訪館」です。
お嫁入り普請とは、第14代将軍徳川家茂に嫁ぐ皇女和宮様が赤坂にお泊りになるにあたって、古びた町家ばかりで和宮様がお嘆きにならないようにと、街道筋の古い町家を急遽二階建て風に改修したり、54か所の空き地に新しい町家を普請したことを云うそうです。
この「お嫁入り普請探訪館」は、当時のお嫁入り普請と同じ構造の建物で、関連資料を展示しています。 -
こちらの町家は、持ち送りで支えた出窓がしつらえられています。
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こちらの町家の2階のガラス障子には、流水模様の桟が嵌め込まれています。
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雨戸の戸袋に下見板を使った町家。
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東側から見た赤坂宿の町並みです。
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こちらの町家も、持ち送りで支えた出窓がしつらえてあります。
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雨戸が閉められた町家。
お留守ではないと思うんですが・・・。 -
今は自動販売機が主流になっていますが、昔は煙草は対面販売していたんですよね・・・。
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この町家は、赤坂宿では珍しく外格子をしつらえてあります。
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2階のガラス障子の桟に、建てられた当時の面影を見ることが出来ます。
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商売柄、建物の改装はお手の物のようです。
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赤坂宿の西の入口附近にも、東側と同様に御使者場跡の石碑が立っています。
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御使者場跡の石碑の上には、甲塚と呼ばれる塚があります。
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ここには、関ヶ原の合戦前日の戦で戦死した兵士の鎧兜が納められているとのことです。
では、この辺りで引き返します。 -
西側から見た赤坂宿の町並みです。
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脇本陣跡まで戻って来ました。
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こちらは創業以来110年続く和菓子屋さん。
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旧清水家住宅の辺りまで戻って来ました。
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こちらは建具屋さん。
では、赤坂宿はこれくらいにして、この旅最後の目的地へ向かいます。 -
最後の目的地へ向かう途中の青墓には、歌舞伎や浄瑠璃などの主人公として登場する小栗判官(おぐりはんがん)の妻、照手姫ゆかりの水汲み井戸が残されています。
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自分に無断で小栗判官と結婚したことに腹を立てた照手姫の父は、酒に毒を盛って小栗判官を毒殺したうえ、我が娘、照手姫を川に沈めてしまうよう息子たちに命じます。
しかし、気がとがめる息子たちは、照手姫を乗せた牢輿をそのまま川に流してしまいます。
相模国に流れ着いた照手姫は、漁師の長に助けられますが、妻の嫉妬から、人買い商人に売り飛ばされてしまいます。
その美しさゆえに次々と転売された照手姫は、美濃国青墓の遊女宿に辿り着きます。
小栗判官への貞操を守るため、遊女になることを拒んだ照手姫は、水汲み女としてこの井戸での苛酷な労働に耐える日々を送っていました。
一方、毒を盛られた小栗判官は、熊野古道のつぼ湯のおかげで蘇ることとなり、照手姫が青墓に居ることを聞きつけると、すぐに駆けつけ、末永く幸せに暮らしました。
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