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横浜開港当時の面影を色濃く残す山手の丘。緑豊かな公園と異国情緒溢れる空間が広がる山手エリアには、無料入館かつアットホームな西洋館が7館点在しています。こうした洋館を巡れば、贅沢な癒しの時間がゆったりと流れていくのが感じられます。3館は前編で紹介いたしましたので、残りの4館+αをレポいたします。<br />先日、神戸北野異人館(ほとんどが有料)を巡ったこともあり、きれいに整備されて訪れる人に癒しを与えてくれる山手西洋館が何故無料でやっていけるのか不思議に思いました。基本的には、運営費の多くは横浜市民の税金で賄われているそうです。しかし、節約できる所は節約し、掃除などはボランティアの方々が担っておられるそうです。また、協会も、グッズ販売や喫茶、コンサート、結婚式などの自主事業を展開して補填しておられます。<br />目に見える快適な空間の陰には、目に見えない多くの人の支えや努力があることを忘れないようにしたいなと気付かせてもらった西洋館でした。<br />今回活用させていただいた山手西洋館マップです。<br />http://www2.hama-midorinokyokai.or.jp/download/pdf/seiyoukan-map.pdf

問柳尋花 横浜逍遥④山手西洋館<後編>

851いいね!

2015/05/21 - 2015/05/22

7位(同エリア9493件中)

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

横浜開港当時の面影を色濃く残す山手の丘。緑豊かな公園と異国情緒溢れる空間が広がる山手エリアには、無料入館かつアットホームな西洋館が7館点在しています。こうした洋館を巡れば、贅沢な癒しの時間がゆったりと流れていくのが感じられます。3館は前編で紹介いたしましたので、残りの4館+αをレポいたします。
先日、神戸北野異人館(ほとんどが有料)を巡ったこともあり、きれいに整備されて訪れる人に癒しを与えてくれる山手西洋館が何故無料でやっていけるのか不思議に思いました。基本的には、運営費の多くは横浜市民の税金で賄われているそうです。しかし、節約できる所は節約し、掃除などはボランティアの方々が担っておられるそうです。また、協会も、グッズ販売や喫茶、コンサート、結婚式などの自主事業を展開して補填しておられます。
目に見える快適な空間の陰には、目に見えない多くの人の支えや努力があることを忘れないようにしたいなと気付かせてもらった西洋館でした。
今回活用させていただいた山手西洋館マップです。
http://www2.hama-midorinokyokai.or.jp/download/pdf/seiyoukan-map.pdf

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
カップル・夫婦
交通手段
新幹線 JRローカル 徒歩

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  • エリスマン邸<br />緑の木立に囲まれて建つ風情が美しく、山手散策を愉しむ観光客を集める洋館があります。生糸貿易商社シーベルヘグナー商会の横浜支配人だったスイス人フリッツ・エリスマン氏の旧邸宅です。設計者は、「日本現代建築の父」とも称されるチェコ出身の建築家アントニン・レーモンド氏です。<br />1925(大正14)年から翌年にかけてエリスマン邸として建てられ、その後戦災も免れ、所有者が転々としながらもその姿を留めてきました。1982年にマンション建設のために解体の憂き目に遭いましたが、その歴史的価値が高く評価され、当時の所有者から横浜市が譲り受け、1990年に現在地に移築復元されています。

    エリスマン邸
    緑の木立に囲まれて建つ風情が美しく、山手散策を愉しむ観光客を集める洋館があります。生糸貿易商社シーベルヘグナー商会の横浜支配人だったスイス人フリッツ・エリスマン氏の旧邸宅です。設計者は、「日本現代建築の父」とも称されるチェコ出身の建築家アントニン・レーモンド氏です。
    1925(大正14)年から翌年にかけてエリスマン邸として建てられ、その後戦災も免れ、所有者が転々としながらもその姿を留めてきました。1982年にマンション建設のために解体の憂き目に遭いましたが、その歴史的価値が高く評価され、当時の所有者から横浜市が譲り受け、1990年に現在地に移築復元されています。

  • エリスマン邸<br />レーモンド氏は、世界的建築家フランク・ロイド・ライト氏に師事し、1919(大正8)年、旧帝国ホテル建築の際にライト氏の助手として来日、第二次世界大戦中には一時帰国したものの戦後再び来日し、その活躍の舞台を日本に求めました。東京女子大学本館、同礼拝堂、軽井沢夏の家、イタリア大使館山荘などの作品を残しています。日本近代建築におけるレーモンド氏の功績の大きさは計り知れず、吉村順三氏や前川國男氏といった高名な建築家を輩出しています。1973年にレーモンド氏は日本を離れ、1976年に米国ペンシルベニア州ニューホープで88年の生涯を閉じています。<br />このエリスマン邸は、独立して間もない頃の作品で細部にはまだライト氏の影響が偲ばれますが、独自の作風も随所に見られ、変遷期の貴重な遺品と言えます。簡潔で清涼なイメージが、彼の作品の真骨頂です。ここでは、他の洋館群とは少々異なる趣を味わうことができます。

    エリスマン邸
    レーモンド氏は、世界的建築家フランク・ロイド・ライト氏に師事し、1919(大正8)年、旧帝国ホテル建築の際にライト氏の助手として来日、第二次世界大戦中には一時帰国したものの戦後再び来日し、その活躍の舞台を日本に求めました。東京女子大学本館、同礼拝堂、軽井沢夏の家、イタリア大使館山荘などの作品を残しています。日本近代建築におけるレーモンド氏の功績の大きさは計り知れず、吉村順三氏や前川國男氏といった高名な建築家を輩出しています。1973年にレーモンド氏は日本を離れ、1976年に米国ペンシルベニア州ニューホープで88年の生涯を閉じています。
    このエリスマン邸は、独立して間もない頃の作品で細部にはまだライト氏の影響が偲ばれますが、独自の作風も随所に見られ、変遷期の貴重な遺品と言えます。簡潔で清涼なイメージが、彼の作品の真骨頂です。ここでは、他の洋館群とは少々異なる趣を味わうことができます。

  • エリスマン邸<br />白い窓枠、白板の壁に映えたターコイズブルーの鎧戸のコンビネーションが美しく、サンルーム全体が光を帯びているようです。<br />簡潔なデザインは、欧米直輸入のような他の洋館群とは少々異なる、モダンな趣が感じられます。屋根の勾配を緩くし、1〜2階の間に見切りの庇を回し、軒先を張り出すなど、異人館的要素を持ちながらも軒の水平線を強調するなどライト氏の影響を垣間見ることができます。<br />2階部分の外壁は下見板張りで、横板を下部で重ねて張っています。下見板張りには段差が見られず、ドイツ下見という種類と思われます。1階部分は、竪羽目板張りと言い、板が垂直に張られています。<br />最大の特徴は、全体のボリューム感です。寄棟を雁行状に配置し、2階の2面にバルコニーを設けて壁面を後退させるなど、全体に凸凹を付与しているために単純な直方体ではなく、全体を大きく見せています。<br />さらに、鎧戸や上げ下げ窓、バルコニーといった従来の洋館のデザイン要素を用いながら、開口を大きくして窓には大ガラスを入れ、明るくモダンな印象に仕上げています。

    エリスマン邸
    白い窓枠、白板の壁に映えたターコイズブルーの鎧戸のコンビネーションが美しく、サンルーム全体が光を帯びているようです。
    簡潔なデザインは、欧米直輸入のような他の洋館群とは少々異なる、モダンな趣が感じられます。屋根の勾配を緩くし、1〜2階の間に見切りの庇を回し、軒先を張り出すなど、異人館的要素を持ちながらも軒の水平線を強調するなどライト氏の影響を垣間見ることができます。
    2階部分の外壁は下見板張りで、横板を下部で重ねて張っています。下見板張りには段差が見られず、ドイツ下見という種類と思われます。1階部分は、竪羽目板張りと言い、板が垂直に張られています。
    最大の特徴は、全体のボリューム感です。寄棟を雁行状に配置し、2階の2面にバルコニーを設けて壁面を後退させるなど、全体に凸凹を付与しているために単純な直方体ではなく、全体を大きく見せています。
    さらに、鎧戸や上げ下げ窓、バルコニーといった従来の洋館のデザイン要素を用いながら、開口を大きくして窓には大ガラスを入れ、明るくモダンな印象に仕上げています。

  • エリスマン邸 デルビル磁石式電話機<br />玄関脇に置かれた明治時代の「デルビル磁石式電話機」です。復元したものですが、普通に使える公衆電話です。<br />本来は壁掛式ですが、据え置き型にアレンジされています。<br />正面にはマイク、右側面には手回しハンドルも付けられています。このハンドルを回して磁石発電機から交換手に信号を送るので「磁石式」と呼ばれ、主に市内用として使用されていたそうです。 <br />

    エリスマン邸 デルビル磁石式電話機
    玄関脇に置かれた明治時代の「デルビル磁石式電話機」です。復元したものですが、普通に使える公衆電話です。
    本来は壁掛式ですが、据え置き型にアレンジされています。
    正面にはマイク、右側面には手回しハンドルも付けられています。このハンドルを回して磁石発電機から交換手に信号を送るので「磁石式」と呼ばれ、主に市内用として使用されていたそうです。

  • エリスマン邸 サンルーム<br />広く光彩窓を取ったサンルームの窓辺には、籐製のデッキチェアが並べられています。お昼寝するには最適ですね!<br />サンルームをぼんやり眺めていると、エリスマン氏とその家族の姿が光の中に浮かんでくるような気がします。<br />8枚あるサンルームの扉には、全て違う鍵が付けられているため、開け閉めは一苦労だそうです。クリスタルのドアノブは、ライト氏から引き継いだ意匠のひとつです。

    エリスマン邸 サンルーム
    広く光彩窓を取ったサンルームの窓辺には、籐製のデッキチェアが並べられています。お昼寝するには最適ですね!
    サンルームをぼんやり眺めていると、エリスマン氏とその家族の姿が光の中に浮かんでくるような気がします。
    8枚あるサンルームの扉には、全て違う鍵が付けられているため、開け閉めは一苦労だそうです。クリスタルのドアノブは、ライト氏から引き継いだ意匠のひとつです。

  • エリスマン邸 食堂兼居間 <br />館内は整然とまとめられ、室内の様子や調度品がエリスマン氏の帰宅を待ち焦がれているように感じられます。<br />ダイニングテーブルなどは、過去にレーモンド氏が設計した調度品類を参考に忠実に復元したもので、意匠はライト風です。こうした内部の様子から往時の暮らしぶりを偲ぶことができます。

    エリスマン邸 食堂兼居間
    館内は整然とまとめられ、室内の様子や調度品がエリスマン氏の帰宅を待ち焦がれているように感じられます。
    ダイニングテーブルなどは、過去にレーモンド氏が設計した調度品類を参考に忠実に復元したもので、意匠はライト風です。こうした内部の様子から往時の暮らしぶりを偲ぶことができます。

  • エリスマン邸 食堂兼居間<br />サンルームの奥は食堂兼居間になっています。<br />部屋の片隅に置かれた引き出しの沢山ある大きな家具は、楽譜入れだそうです。生糸貿易商社の邸宅にこのような大きな楽譜入れは不似合ですが、実はこの箪笥(たんす)は、この邸宅の雰囲気に相応しい家具として移築後に有志の方から寄贈されたものだそうです。こうした所からも西洋館が市民の方々に愛されているのが伝わっています。

    エリスマン邸 食堂兼居間
    サンルームの奥は食堂兼居間になっています。
    部屋の片隅に置かれた引き出しの沢山ある大きな家具は、楽譜入れだそうです。生糸貿易商社の邸宅にこのような大きな楽譜入れは不似合ですが、実はこの箪笥(たんす)は、この邸宅の雰囲気に相応しい家具として移築後に有志の方から寄贈されたものだそうです。こうした所からも西洋館が市民の方々に愛されているのが伝わっています。

  • エリスマン邸 応接室<br />エリスマン邸宅は全館スチーム暖房なのですが、応接室にはエリスマン氏がリクエストして造らせた暖炉が残されています。応接室の「顔」として暖炉を重んじたのでしょう。<br />上部両脇には多角形に切り込んだ特異な装飾を施こし、下部の大谷石を加工しただけのシンプルなマントルピースとは対照的です。このアール・デコ調のモダンなデザインには、師であるライト氏の作風を離脱し、独自のスタイルを確立したレーモンド氏の矜持が感じられます。

    エリスマン邸 応接室
    エリスマン邸宅は全館スチーム暖房なのですが、応接室にはエリスマン氏がリクエストして造らせた暖炉が残されています。応接室の「顔」として暖炉を重んじたのでしょう。
    上部両脇には多角形に切り込んだ特異な装飾を施こし、下部の大谷石を加工しただけのシンプルなマントルピースとは対照的です。このアール・デコ調のモダンなデザインには、師であるライト氏の作風を離脱し、独自のスタイルを確立したレーモンド氏の矜持が感じられます。

  • エリスマン邸 応接室<br />暖炉の装飾は、立体的な鋲のようなものだけのシンプルさです。他の館の暖炉と比べるとコテコテした装飾もなく質素に見えますが、どこか温かみが感じられる色合いです。火が点るともっとふんわりとした温かい色を呈することでしょう。<br />応接間に置かれている家具もレーモンド氏がデザインしたものを復元したものです。

    エリスマン邸 応接室
    暖炉の装飾は、立体的な鋲のようなものだけのシンプルさです。他の館の暖炉と比べるとコテコテした装飾もなく質素に見えますが、どこか温かみが感じられる色合いです。火が点るともっとふんわりとした温かい色を呈することでしょう。
    応接間に置かれている家具もレーモンド氏がデザインしたものを復元したものです。

  • エリスマン邸 <br />明り取り窓には、鎧戸と同じターコイズブルーのシンプルながら優美なアイアングリルが嵌められています。<br /><br />1階には2014年4月にオープンしたカフェ「しょうゆ・きゃふぇ」があり、ここを目当てに訪問される方が増えているようです。往時厨房だった部屋は、今では小さなカフェとして使われています。横浜山手にあるナチュラルフレンチのお店「エリゼ光」の六川光シェフが「お醤油」をテーマに作ったお店です。メニューにはお醤油を使ったパンや料理が並びます。目玉は、「生プリン」です。秘伝の味付けに漬け込んだ最高品質の「コトブキ園」のこだわり卵をプリンの上に載せ、それをかき混ぜながら食します。<br />エリゼ光のHPです。<br />http://www.elysee-hikaru.com/new.html

    エリスマン邸
    明り取り窓には、鎧戸と同じターコイズブルーのシンプルながら優美なアイアングリルが嵌められています。

    1階には2014年4月にオープンしたカフェ「しょうゆ・きゃふぇ」があり、ここを目当てに訪問される方が増えているようです。往時厨房だった部屋は、今では小さなカフェとして使われています。横浜山手にあるナチュラルフレンチのお店「エリゼ光」の六川光シェフが「お醤油」をテーマに作ったお店です。メニューにはお醤油を使ったパンや料理が並びます。目玉は、「生プリン」です。秘伝の味付けに漬け込んだ最高品質の「コトブキ園」のこだわり卵をプリンの上に載せ、それをかき混ぜながら食します。
    エリゼ光のHPです。
    http://www.elysee-hikaru.com/new.html

  • エリスマン邸 <br />エリスマン邸の設計者レーモンド氏の夫人は、家具や室内意匠のデザイナー ノエミ・ペルネッサンさんです。60年以上寄り添うことになる2人が巡り合ったのは、第1次世界大戦直前の混乱した欧州から逃れるための最終渡米船でした。米国に着いた2人はその後結婚。ノエミ夫人の友人がライト氏と親交があったことから、レーモンド氏は来日時の助手として雇われました。来日した夫妻は、「こんなに自然と融合した暮らし方があるのか」と感銘を受け、モダンで使い勝手のいい簡素なデザインに日本の伝統美を融合させた独自のスタイルを確立していきました。<br />エリスマン邸は、ライト氏の影響と共に、日本の自然や風土に根差した実用性とシンプルさといったレーモンド氏が希求した構造美を垣間見ることができます。

    エリスマン邸
    エリスマン邸の設計者レーモンド氏の夫人は、家具や室内意匠のデザイナー ノエミ・ペルネッサンさんです。60年以上寄り添うことになる2人が巡り合ったのは、第1次世界大戦直前の混乱した欧州から逃れるための最終渡米船でした。米国に着いた2人はその後結婚。ノエミ夫人の友人がライト氏と親交があったことから、レーモンド氏は来日時の助手として雇われました。来日した夫妻は、「こんなに自然と融合した暮らし方があるのか」と感銘を受け、モダンで使い勝手のいい簡素なデザインに日本の伝統美を融合させた独自のスタイルを確立していきました。
    エリスマン邸は、ライト氏の影響と共に、日本の自然や風土に根差した実用性とシンプルさといったレーモンド氏が希求した構造美を垣間見ることができます。

  • エリスマン邸 階段<br />階段横の柱もライト的な直線デザインで統一され、腰高壁の大きな段がシャープなリズムを刻んでいます。<br />レーモンド氏の揺るぎない美意識に感動させられます。本当に定規で引いたような線が好きな人だったことが伝わってきます。また、壁や階段には真鍮の釘が打たれているのですが、等間隔に打たれており、ほとんど目に触れることの無いような釘すらもデザインの一要素として捉えているのには吃驚です。

    エリスマン邸 階段
    階段横の柱もライト的な直線デザインで統一され、腰高壁の大きな段がシャープなリズムを刻んでいます。
    レーモンド氏の揺るぎない美意識に感動させられます。本当に定規で引いたような線が好きな人だったことが伝わってきます。また、壁や階段には真鍮の釘が打たれているのですが、等間隔に打たれており、ほとんど目に触れることの無いような釘すらもデザインの一要素として捉えているのには吃驚です。

  • エリスマン邸 階段<br />階段は、エリスマン邸の見所のひとつでもあります。<br />手摺りの水平線と壁のジグザグ線といった幾何学で構成された大胆なデザインが、アール・デコを彷彿とさせます。<br /><br />

    エリスマン邸 階段
    階段は、エリスマン邸の見所のひとつでもあります。
    手摺りの水平線と壁のジグザグ線といった幾何学で構成された大胆なデザインが、アール・デコを彷彿とさせます。

  • エリスマン邸 2階廊下<br />鎧戸から漏れる陽光がグラデーションを誘い、ターコイズブルーを一際強調しています。<br />このような美しい光景が見られるとは、鎧戸も侮れません。<br /><br />山手西洋館の中では一番人の数が多かったように思います。これは併設された「エリゼ光」の賜物でしょうが、食事のついでであってもレイモンド氏の作品に触れていただけることは彼にとっても建物にとっても光栄なことではないかと思いました。そしてレストランとのコラボは、末永く西洋館を維持保存するためのひとつのビジネスモデルでもあるような気がしました。一過性の流行で終わらないことを願いたいと思います。

    エリスマン邸 2階廊下
    鎧戸から漏れる陽光がグラデーションを誘い、ターコイズブルーを一際強調しています。
    このような美しい光景が見られるとは、鎧戸も侮れません。

    山手西洋館の中では一番人の数が多かったように思います。これは併設された「エリゼ光」の賜物でしょうが、食事のついでであってもレイモンド氏の作品に触れていただけることは彼にとっても建物にとっても光栄なことではないかと思いました。そしてレストランとのコラボは、末永く西洋館を維持保存するためのひとつのビジネスモデルでもあるような気がしました。一過性の流行で終わらないことを願いたいと思います。

  • 山手234番館<br />山手本通りに 面した立地に、関東大震災によって横浜の地を離れた外国人にUターンしてもらおうと、建築家 朝香吉蔵氏の設計により共同住宅(アパートメントハウス)として1927(昭和2)年に建築されました。現在のところ、この234番館と隣接する「えの木てい」以外に、所在がはっきりする朝香氏の設計作品は知られていないそうです。<br />戦後暫くは米軍に接収されたものの、昭和50年代まで現役アパートとして使用され、1989年に歴史的建造物や景観保全に積極的だった横浜市がこれを取得し、その後、改修や整備を施して1999年に一般公開されました。

    山手234番館
    山手本通りに 面した立地に、関東大震災によって横浜の地を離れた外国人にUターンしてもらおうと、建築家 朝香吉蔵氏の設計により共同住宅(アパートメントハウス)として1927(昭和2)年に建築されました。現在のところ、この234番館と隣接する「えの木てい」以外に、所在がはっきりする朝香氏の設計作品は知られていないそうです。
    戦後暫くは米軍に接収されたものの、昭和50年代まで現役アパートとして使用され、1989年に歴史的建造物や景観保全に積極的だった横浜市がこれを取得し、その後、改修や整備を施して1999年に一般公開されました。

  • 山手234番館<br />山手234番館は、山手本通り側から見た建物の意匠が美しく、緑の木々を纏って建つ艶姿が昭和初期の山手の風景を彷彿とさせると言われています。<br />外観は、玄関ポーチを挟み左右対称に2戸の住宅が配され、それが2層に重なる構造になっています。かつては4世帯を収容していましたが、現在はひとつの建物として改修が施され、共同住宅としての居住まい跡を探すのは難しくなっています。<br />内部はコンパクトかつ合理的な3LDKの間取りです。洋風住宅の標準的要素と言える上げ下げ窓や鎧戸、煙突などが残され、大震災後の洋風住宅の意匠の典型と言われています。

    山手234番館
    山手234番館は、山手本通り側から見た建物の意匠が美しく、緑の木々を纏って建つ艶姿が昭和初期の山手の風景を彷彿とさせると言われています。
    外観は、玄関ポーチを挟み左右対称に2戸の住宅が配され、それが2層に重なる構造になっています。かつては4世帯を収容していましたが、現在はひとつの建物として改修が施され、共同住宅としての居住まい跡を探すのは難しくなっています。
    内部はコンパクトかつ合理的な3LDKの間取りです。洋風住宅の標準的要素と言える上げ下げ窓や鎧戸、煙突などが残され、大震災後の洋風住宅の意匠の典型と言われています。

  • 山手234番館<br />正面ファサードは、ギリシア建築を彷彿とさせるトスカナ式柱頭を持つオーダー(列柱)で支えられたベランダが印象的な建物です。<br />実はこの列柱が少し変則的な造りで、均等な間隔で並んでいるわけではなく、不規則な間隔で立てられています。アンバランスの妙と言うか、何かに配慮した結果なのでしょうが…。<br />館内にあった往時の館の模型を見ると、このオーダーやベランダは見当たりません。つまり、これらは後世に付け足された構造物のようです。<br />横浜市が保全改修工事を開始したのは平成に入ってからですが、その時に何故創建当時の姿に復元しなかったのか疑問です。何故なら、このオーダーの主張が強すぎて、元々の正面ファサードの印象が薄くなっている気がするためです。強度的な問題を解消する手段だったのでしょうか?

    山手234番館
    正面ファサードは、ギリシア建築を彷彿とさせるトスカナ式柱頭を持つオーダー(列柱)で支えられたベランダが印象的な建物です。
    実はこの列柱が少し変則的な造りで、均等な間隔で並んでいるわけではなく、不規則な間隔で立てられています。アンバランスの妙と言うか、何かに配慮した結果なのでしょうが…。
    館内にあった往時の館の模型を見ると、このオーダーやベランダは見当たりません。つまり、これらは後世に付け足された構造物のようです。
    横浜市が保全改修工事を開始したのは平成に入ってからですが、その時に何故創建当時の姿に復元しなかったのか疑問です。何故なら、このオーダーの主張が強すぎて、元々の正面ファサードの印象が薄くなっている気がするためです。強度的な問題を解消する手段だったのでしょうか?

  • 山手234番館<br />暖炉用の煙突が軒を貫いて屋上に真っ直ぐに伸びています。

    山手234番館
    暖炉用の煙突が軒を貫いて屋上に真っ直ぐに伸びています。

  • 山手234番館 1階居間<br />入口を入って左手の部屋は、20畳ほどの大きな居間になっています。<br />天井に見える大きなアーチが優美な曲線を描いているのが印象的です。このアーチ形の袖壁によって、居間と食堂を分ける役目を果たしていたそうです。<br />床のフローリングは、4戸の各部屋から使える床材を取り外し、再度張り直して復元したものだそうです。スチーム暖房器具、暖炉なども創建時を再現しています。<br />左隅にあるのは、蓄音器です。据え置き型のHMV(英国グラモフォン)製です。1930年まで製造された、HMV-157 型のようです。時々、この居間で蓄音器コンサートが行われているようです。

    山手234番館 1階居間
    入口を入って左手の部屋は、20畳ほどの大きな居間になっています。
    天井に見える大きなアーチが優美な曲線を描いているのが印象的です。このアーチ形の袖壁によって、居間と食堂を分ける役目を果たしていたそうです。
    床のフローリングは、4戸の各部屋から使える床材を取り外し、再度張り直して復元したものだそうです。スチーム暖房器具、暖炉なども創建時を再現しています。
    左隅にあるのは、蓄音器です。据え置き型のHMV(英国グラモフォン)製です。1930年まで製造された、HMV-157 型のようです。時々、この居間で蓄音器コンサートが行われているようです。

  • 山手234番館 2階居間<br />左隅にはポータブル型蓄音器が置かれています。<br />暖炉の位置が1階と同じですので、煙突は各階の暖炉とつながっているようです。

    山手234番館 2階居間
    左隅にはポータブル型蓄音器が置かれています。
    暖炉の位置が1階と同じですので、煙突は各階の暖炉とつながっているようです。

  • 山手234番館 2階居間<br />常設で展示されているリード(足踏み)オルガンです。<br />リードと言われる音源の歌口に風を送って発音させる仕組みです。このオルガンは山葉製作所製で通称「山葉8号」と言われ、製造番号から1938(昭和13)年に製造されたものと推定されています。鍵盤の上にあるボタンを押すことによって音色が変えられるのが特徴のようです。

    山手234番館 2階居間
    常設で展示されているリード(足踏み)オルガンです。
    リードと言われる音源の歌口に風を送って発音させる仕組みです。このオルガンは山葉製作所製で通称「山葉8号」と言われ、製造番号から1938(昭和13)年に製造されたものと推定されています。鍵盤の上にあるボタンを押すことによって音色が変えられるのが特徴のようです。

  • 山手234番館 2階居間<br />2階の大部分はギャラリーなどの貸し出しスペースになっています。<br />家具などは配置されておらず、常時イベント用のスペースとして使われているようです。

    山手234番館 2階居間
    2階の大部分はギャラリーなどの貸し出しスペースになっています。
    家具などは配置されておらず、常時イベント用のスペースとして使われているようです。

  • 山手234番館 2階光庭<br />建物の中心には、こじんまりとした中庭を配した吹き抜けがあります。 <br />案内図には「光庭」と書かれており、採光とバスルームの換気の機能を果たしています。<br />小さな空間ですが、やさしい光が差し込んできます。<br />こうした中庭が4世帯が暮らしていた面影を残しています。

    山手234番館 2階光庭
    建物の中心には、こじんまりとした中庭を配した吹き抜けがあります。 
    案内図には「光庭」と書かれており、採光とバスルームの換気の機能を果たしています。
    小さな空間ですが、やさしい光が差し込んできます。
    こうした中庭が4世帯が暮らしていた面影を残しています。

  • 元町公園の広場に灯台を彷彿とさせるレトロな電話ボックスがありました。<br />1990年に電話100年を記念して、1900年に京橋(東京)に設置された公衆電話ボックスを再現したものだそうです。横浜→港→灯台という連想から、この地に設けられたものと思います。<br />因みに、1890年に横浜-東京間で日本で最初の電話交換業務が開始されています。<br /><br />港町 神戸でも同じような形の電話ボックスを見かけました。ルーツは同じかな?<br />http://4travel.jp/photo?trvlgphoto=38308814

    元町公園の広場に灯台を彷彿とさせるレトロな電話ボックスがありました。
    1990年に電話100年を記念して、1900年に京橋(東京)に設置された公衆電話ボックスを再現したものだそうです。横浜→港→灯台という連想から、この地に設けられたものと思います。
    因みに、1890年に横浜-東京間で日本で最初の電話交換業務が開始されています。

    港町 神戸でも同じような形の電話ボックスを見かけました。ルーツは同じかな?
    http://4travel.jp/photo?trvlgphoto=38308814

  • 山手資料館(旧中澤邸)<br />山手本通り沿いに佇む館は、明治期(1909年竣工)の木造西洋建築物としては横浜に遺された唯一のものだそうです。庭園にバラが咲き誇り、ロマンチックな雰囲気に満ちています。<br />横浜山手に建ち並ぶ洋館群の中でも異彩を放つ存在で、小さな建物ですが意匠も可愛らしくメルヘンチックです。垂直な仕上げ面を見せるドイツ下見板張りの木造建築で、四方に破風を構える屋根とその破風を支える妻飾りに2連のアーチ窓を配するなど、頭部の飾りが特に華やかです。<br />こちらの資料館は、有料です。お庭は、無料です。

    山手資料館(旧中澤邸)
    山手本通り沿いに佇む館は、明治期(1909年竣工)の木造西洋建築物としては横浜に遺された唯一のものだそうです。庭園にバラが咲き誇り、ロマンチックな雰囲気に満ちています。
    横浜山手に建ち並ぶ洋館群の中でも異彩を放つ存在で、小さな建物ですが意匠も可愛らしくメルヘンチックです。垂直な仕上げ面を見せるドイツ下見板張りの木造建築で、四方に破風を構える屋根とその破風を支える妻飾りに2連のアーチ窓を配するなど、頭部の飾りが特に華やかです。
    こちらの資料館は、有料です。お庭は、無料です。

  • 山手資料館<br />切妻の赤い妻壁には2連のアーチ窓を設け、妻飾りには中世の教会天井などに見られるハンマービーム(水平の梁をアーチ材で支える工法)のデザインが用いられています。明治期の洋館らしいクラシックな趣深い建物です。

    山手資料館
    切妻の赤い妻壁には2連のアーチ窓を設け、妻飾りには中世の教会天井などに見られるハンマービーム(水平の梁をアーチ材で支える工法)のデザインが用いられています。明治期の洋館らしいクラシックな趣深い建物です。

  • 山手資料館<br />元々、この洋館は北方村(現在の諏訪町)で牧場を営んでいた中澤氏の居宅として明治末期に本牧に建てられた屋敷の来客用の洋館部分だそうです。屋敷は戸部村の大工が建てたもので、この洋館もその大工の手によるものというから吃驚です。<br />現在は独立した洋館として建っていますが、往時は和館に附属した施設として和館部分から出入りしていたそうです。

    山手資料館
    元々、この洋館は北方村(現在の諏訪町)で牧場を営んでいた中澤氏の居宅として明治末期に本牧に建てられた屋敷の来客用の洋館部分だそうです。屋敷は戸部村の大工が建てたもので、この洋館もその大工の手によるものというから吃驚です。
    現在は独立した洋館として建っていますが、往時は和館に附属した施設として和館部分から出入りしていたそうです。

  • 山手資料館<br />幸いにも関東大震災を免れ、戦後は一時期米軍に接収され、やがて返還されるも昭和50年代に入ってマンションの建設のために取り壊される運命となりました。その時、横浜10番館のオーナーだった故本多正道氏が洋館部分を買い取り、1977年、現在地に移築したそうです。西洋館中、唯一有料ですが、内部には横浜開港期を偲ぶ様々な資料が展示されています。

    山手資料館
    幸いにも関東大震災を免れ、戦後は一時期米軍に接収され、やがて返還されるも昭和50年代に入ってマンションの建設のために取り壊される運命となりました。その時、横浜10番館のオーナーだった故本多正道氏が洋館部分を買い取り、1977年、現在地に移築したそうです。西洋館中、唯一有料ですが、内部には横浜開港期を偲ぶ様々な資料が展示されています。

  • 山手外人墓地 正門<br />J・H・モーガン氏の設計と言われている正門です。彼の作品という決定的な証拠は見つけにくいのですが、そう言われてみればなんとなくそんな感じもするという造りになっています。また竣工年も不詳ですが、彼が日本フラー社の技師として来日した1920年以降のものとされています。現在の門は1948(昭和23)年に写真を基に復元されたものだそうです。<br />因みに、1937(昭和12)年に亡くなったモーガン氏もこの墓地で安らかな眠りに就いています。

    山手外人墓地 正門
    J・H・モーガン氏の設計と言われている正門です。彼の作品という決定的な証拠は見つけにくいのですが、そう言われてみればなんとなくそんな感じもするという造りになっています。また竣工年も不詳ですが、彼が日本フラー社の技師として来日した1920年以降のものとされています。現在の門は1948(昭和23)年に写真を基に復元されたものだそうです。
    因みに、1937(昭和12)年に亡くなったモーガン氏もこの墓地で安らかな眠りに就いています。

  • 山手外人墓地 <br />墓地内は通常非公開ですが、正門を入った所の広場から下を見下ろせます。緑の中に白い十字架の墓標が並んでいます。<br />この墓地は、1854(安政元)年にペリー提督と共に日本へ渡来したロバート・ウィリアムズという24歳の水兵を埋葬したのが始まりだそうです。その後は横浜居留の外国人やその子孫などに広がり、埋葬記録では4800柱を越し、墓石数は2500程になっているそうです。現在は財団法人横浜外国人墓地の下で運営されています。 <br />十字架やマリア像などの墓標が並ぶ景観は異国情緒溢れるものですが、ここに眠る人々はまさか観光名所として人気を博すようになるとは思いもよらず、さぞ驚かれていることでしょう。<br />訪れた際には、景観を楽しむだけではなく、祖国を離れて遠い極東の島国に眠る人々への敬意と弔意を忘れないようにしたいものです。

    山手外人墓地
    墓地内は通常非公開ですが、正門を入った所の広場から下を見下ろせます。緑の中に白い十字架の墓標が並んでいます。
    この墓地は、1854(安政元)年にペリー提督と共に日本へ渡来したロバート・ウィリアムズという24歳の水兵を埋葬したのが始まりだそうです。その後は横浜居留の外国人やその子孫などに広がり、埋葬記録では4800柱を越し、墓石数は2500程になっているそうです。現在は財団法人横浜外国人墓地の下で運営されています。 
    十字架やマリア像などの墓標が並ぶ景観は異国情緒溢れるものですが、ここに眠る人々はまさか観光名所として人気を博すようになるとは思いもよらず、さぞ驚かれていることでしょう。
    訪れた際には、景観を楽しむだけではなく、祖国を離れて遠い極東の島国に眠る人々への敬意と弔意を忘れないようにしたいものです。

  • イギリス館(旧英国総領事公邸)<br />港の見える丘公園のほぼ中央、ローズガーデンのバラに包まれるようにしてイギリス館が佇んでいます。<br />イギリス館から岩崎博物館の辺りまでは、幕末〜明治初期に英軍が駐屯した場所です。幕末の混乱期、各地で攘夷派浪人などによる外国人殺傷事件が多発し、自国民を守るためというのが駐屯の主たる理由でした。隣り合う「フランス山」エリアには仏軍が駐屯し、両国が極東の島国で覇権を競っていたことは想像に難くありません。英軍がこの地に駐屯したのは10年余りのことで、1875(明治8)年には英仏両軍共に撤退しています。<br />1937(昭和12)年、英軍駐屯地跡に上海の大英工部総署の設計で英国総領事公邸として建築されたのがイギリス館です。コロニアルスタイルという飾り気のない建物は、往時の英国都市建築を象徴する様式だそうです。合理的な設計ながら伝統を感じさせ、威圧感なく穏やかな表情を見せるあたりは英国的な美意識を感じさせます。現在は市文化財に指定されています。

    イギリス館(旧英国総領事公邸)
    港の見える丘公園のほぼ中央、ローズガーデンのバラに包まれるようにしてイギリス館が佇んでいます。
    イギリス館から岩崎博物館の辺りまでは、幕末〜明治初期に英軍が駐屯した場所です。幕末の混乱期、各地で攘夷派浪人などによる外国人殺傷事件が多発し、自国民を守るためというのが駐屯の主たる理由でした。隣り合う「フランス山」エリアには仏軍が駐屯し、両国が極東の島国で覇権を競っていたことは想像に難くありません。英軍がこの地に駐屯したのは10年余りのことで、1875(明治8)年には英仏両軍共に撤退しています。
    1937(昭和12)年、英軍駐屯地跡に上海の大英工部総署の設計で英国総領事公邸として建築されたのがイギリス館です。コロニアルスタイルという飾り気のない建物は、往時の英国都市建築を象徴する様式だそうです。合理的な設計ながら伝統を感じさせ、威圧感なく穏やかな表情を見せるあたりは英国的な美意識を感じさせます。現在は市文化財に指定されています。

  • イギリス館<br />鉄筋コンクリート2階建、主屋1階の南側にはサンポーチ、客間、食堂と並び、2階には寝室や化粧室が配置されています。階の両端に丸窓が設けられていますが、それ以外は直線的でシンプルにまとまっています。<br />現在、1階ホールはコンサート、2階集会室は会議等に利用されています。2002年から展示室と復元された寝室を一般公開しています。昭和初期における英国総領事の異国の小さな島国での生活に思いを馳せてみるのも趣き深いものがあります。

    イギリス館
    鉄筋コンクリート2階建、主屋1階の南側にはサンポーチ、客間、食堂と並び、2階には寝室や化粧室が配置されています。階の両端に丸窓が設けられていますが、それ以外は直線的でシンプルにまとまっています。
    現在、1階ホールはコンサート、2階集会室は会議等に利用されています。2002年から展示室と復元された寝室を一般公開しています。昭和初期における英国総領事の異国の小さな島国での生活に思いを馳せてみるのも趣き深いものがあります。

  • イギリス館<br />玄関の近くには、青銅製と思しき旧いポストが置かれています。バラの花の造形部分だけが薄いピンクで塗られ、浮き出して見えます。

    イギリス館
    玄関の近くには、青銅製と思しき旧いポストが置かれています。バラの花の造形部分だけが薄いピンクで塗られ、浮き出して見えます。

  • イギリス館<br />玄関脇には、小振りの窓の間に王冠入りの銘板が嵌め込まれ、旧英国領事館公邸の由緒を感じます。<br />王冠の下には「GR」と「IV(ローマ数字の6)」との合わせ文字、さらにその下に「1937」の文字を刻み、ジョージ6世時代に建てられたことを伝えています。Gと?がGeorge?世を表し、RがRex(レックス)でラテン語で王様という意味です。広々とした開放感溢れる敷地と建物規模が、領事公邸の中でも上位の権威であったことを裏付けています。 <br />ジョージ6世といえば、映画『英国王のスピーチ』の主人公。兄ウィンザー公は、離婚歴のあるシンプソン夫人との「王冠を賭けた恋」で退位したエドワード8世。兄の退位によって国王となったジョージ6世が、自らの吃音を乗り越えるまでを描いた映画は感動を呼びました。英国史上、最も内気な国王とされるジョージ6世は、その善良な性格で王妃エリザベスと共に英国国民から敬愛され、現在の英国王室人気の基礎を作ったと言われています。

    イギリス館
    玄関脇には、小振りの窓の間に王冠入りの銘板が嵌め込まれ、旧英国領事館公邸の由緒を感じます。
    王冠の下には「GR」と「IV(ローマ数字の6)」との合わせ文字、さらにその下に「1937」の文字を刻み、ジョージ6世時代に建てられたことを伝えています。Gと?がGeorge?世を表し、RがRex(レックス)でラテン語で王様という意味です。広々とした開放感溢れる敷地と建物規模が、領事公邸の中でも上位の権威であったことを裏付けています。
    ジョージ6世といえば、映画『英国王のスピーチ』の主人公。兄ウィンザー公は、離婚歴のあるシンプソン夫人との「王冠を賭けた恋」で退位したエドワード8世。兄の退位によって国王となったジョージ6世が、自らの吃音を乗り越えるまでを描いた映画は感動を呼びました。英国史上、最も内気な国王とされるジョージ6世は、その善良な性格で王妃エリザベスと共に英国国民から敬愛され、現在の英国王室人気の基礎を作ったと言われています。

  • イギリス館 玄関<br />緩やかなカーブのあるアプローチを進むと玄関です。<br />こうした玄関扉にも英国の威厳の中に来客を迎え入れる暖かみがブレンドされています。<br />また、シンプルなアイアンワークが品格を漂わせています。<br />

    イギリス館 玄関
    緩やかなカーブのあるアプローチを進むと玄関です。
    こうした玄関扉にも英国の威厳の中に来客を迎え入れる暖かみがブレンドされています。
    また、シンプルなアイアンワークが品格を漂わせています。

  • イギリス館 玄関<br />玄関はガラス扉と木製扉の2重になっており、その間の天井には円筒ガラスが嵌め込まれたスカイライトが設けられています。カーブを描いた天井に整然と並べられた瓶の底を彷彿とさせるアール・ヌーボー風の円筒ガラスが、玄関に柔らかい陽光を届けています。

    イギリス館 玄関
    玄関はガラス扉と木製扉の2重になっており、その間の天井には円筒ガラスが嵌め込まれたスカイライトが設けられています。カーブを描いた天井に整然と並べられた瓶の底を彷彿とさせるアール・ヌーボー風の円筒ガラスが、玄関に柔らかい陽光を届けています。

  • イギリス館 玄関ホール<br />玄関ホールにある灯りです。<br />燈篭風のランプシェードが和洋折衷の雰囲気です。総領事公邸時代からのものだそうです。

    イギリス館 玄関ホール
    玄関ホールにある灯りです。
    燈篭風のランプシェードが和洋折衷の雰囲気です。総領事公邸時代からのものだそうです。

  • イギリス館 玄関ホール<br />階段右横のスペースには、壁を丸く窪ませたニッチと呼ばれるスペースが設けられています。かつて、ここには、ジョージ6世の肖像画が掛けられていたそうです。よく見ると絵を掛けたと思われる小さなフックが残されています。

    イギリス館 玄関ホール
    階段右横のスペースには、壁を丸く窪ませたニッチと呼ばれるスペースが設けられています。かつて、ここには、ジョージ6世の肖像画が掛けられていたそうです。よく見ると絵を掛けたと思われる小さなフックが残されています。

  • イギリス館 ホール<br />立派な暖炉が置かれています。<br />余分な装飾を廃して徹底的にシンプルにしたのが英国流の美意識だそうです。確かに、今まで見てきた中では一番シンプルかも!

    イギリス館 ホール
    立派な暖炉が置かれています。
    余分な装飾を廃して徹底的にシンプルにしたのが英国流の美意識だそうです。確かに、今まで見てきた中では一番シンプルかも!

  • イギリス館 サンルーム<br />主屋1階には、サンルームの他、玄関ホール、3つのホール、配膳室、厨房があり、中央に階段が設けられています。

    イギリス館 サンルーム
    主屋1階には、サンルームの他、玄関ホール、3つのホール、配膳室、厨房があり、中央に階段が設けられています。

  • イギリス館 階段<br />厚みがあり、エッジをなくした手摺から温かみが伝わってきます。手摺りの先端は、カタツムリのように渦を巻いた形になっています。<br />木製の階段は踏むと軋む音がします。イギリス人によると、これはわざとそう造られていると言います。つまり、防犯に配慮した設計だそうです。知恩院の「鴬張りの廊下」も「忍び返し」とも言われ、曲者の侵入を知るための警報装置の役割を担ったとされています。「セコム」が無かった時代の共通概念だったのかもしれません。<br /><br />

    イギリス館 階段
    厚みがあり、エッジをなくした手摺から温かみが伝わってきます。手摺りの先端は、カタツムリのように渦を巻いた形になっています。
    木製の階段は踏むと軋む音がします。イギリス人によると、これはわざとそう造られていると言います。つまり、防犯に配慮した設計だそうです。知恩院の「鴬張りの廊下」も「忍び返し」とも言われ、曲者の侵入を知るための警報装置の役割を担ったとされています。「セコム」が無かった時代の共通概念だったのかもしれません。

  • イギリス館 階段<br />アーチ窓が優しい自然光を階段の足元に届けています。<br />階段の角度は緩やかで天井が高く、ゆったりしています。<br />

    イギリス館 階段
    アーチ窓が優しい自然光を階段の足元に届けています。
    階段の角度は緩やかで天井が高く、ゆったりしています。

  • イギリス館 2階スリーピングポーチ(午睡室)<br />2階はベッドルームや衣装室などプライベートエリアとなっています。<br />ベッドルームの奥にはスリーピングポーチがあります。スタイリッシュな丸窓のあるサンポーチが付属しており、右側の扉の先には半円形のバルコニーがあります。スリーピングポーチと呼ばれていることから、ここでお昼寝でもしていたのでしょう。<br />丸窓が可愛らしいアクセントになり素敵です。この丸窓は、イギリス的な感じはしないのですが、船の窓がモチーフだそうです。この館を造るのに上海から船で建材が運ばれましたが、その経験から設計者が船窓の特徴をデザインに取り入れたものと伝えられています。<br />とは言うものの、この丸窓は日本的なものよりはるかに大きなものです。<br /><br />今まで回った横浜西洋館の中では、一般公開にはあまり力を入れられていないような気がしました。どちらかと言うと市民向けのイベント・用途に注力されているようです。領事公邸の中でも上位の権威を持った建物ですので、もう少し工夫されると観光客のリピーターも増えるのではないでしょうか?2階を一部公開するようになったのは最近のようですので、まだ発展途上にあるのかもしれませんが…。<br />日本は世界の国々に比べれば狭い国です、日本が観光立国を目指すには、リピーターが生命線です。リピート率を上げないと一過性の現象で終始してしまう危惧があります。

    イギリス館 2階スリーピングポーチ(午睡室)
    2階はベッドルームや衣装室などプライベートエリアとなっています。
    ベッドルームの奥にはスリーピングポーチがあります。スタイリッシュな丸窓のあるサンポーチが付属しており、右側の扉の先には半円形のバルコニーがあります。スリーピングポーチと呼ばれていることから、ここでお昼寝でもしていたのでしょう。
    丸窓が可愛らしいアクセントになり素敵です。この丸窓は、イギリス的な感じはしないのですが、船の窓がモチーフだそうです。この館を造るのに上海から船で建材が運ばれましたが、その経験から設計者が船窓の特徴をデザインに取り入れたものと伝えられています。
    とは言うものの、この丸窓は日本的なものよりはるかに大きなものです。

    今まで回った横浜西洋館の中では、一般公開にはあまり力を入れられていないような気がしました。どちらかと言うと市民向けのイベント・用途に注力されているようです。領事公邸の中でも上位の権威を持った建物ですので、もう少し工夫されると観光客のリピーターも増えるのではないでしょうか?2階を一部公開するようになったのは最近のようですので、まだ発展途上にあるのかもしれませんが…。
    日本は世界の国々に比べれば狭い国です、日本が観光立国を目指すには、リピーターが生命線です。リピート率を上げないと一過性の現象で終始してしまう危惧があります。

  • 山手111番館(旧ラフィン邸)<br />港の見える丘公園の南端のワシン坂通りに面した広い芝生を前庭に、ローズガーデンを見下ろすスパニッシュスタイルの山手111番館は、1926(大正15)年に竣工した米人両替商ラフィン氏が結婚する長男のために建てた邸宅です。べーリック・ホールと同じくJ.H.モーガン氏初期の設計で、赤いスペイン瓦屋根と白壁、3連アーチの玄関部分の外観が軽快で明るい印象です。また、正面両端には曲線を描く破風を用いているのも特徴です。横浜市が建物・敷地を取得し、1999年から一般公開しています。 <br />右側にある赤い葉は、恐らく春に紅葉するノムラモミジだと思います。夏には緑になり、秋にまた赤くなります。

    山手111番館(旧ラフィン邸)
    港の見える丘公園の南端のワシン坂通りに面した広い芝生を前庭に、ローズガーデンを見下ろすスパニッシュスタイルの山手111番館は、1926(大正15)年に竣工した米人両替商ラフィン氏が結婚する長男のために建てた邸宅です。べーリック・ホールと同じくJ.H.モーガン氏初期の設計で、赤いスペイン瓦屋根と白壁、3連アーチの玄関部分の外観が軽快で明るい印象です。また、正面両端には曲線を描く破風を用いているのも特徴です。横浜市が建物・敷地を取得し、1999年から一般公開しています。
    右側にある赤い葉は、恐らく春に紅葉するノムラモミジだと思います。夏には緑になり、秋にまた赤くなります。

  • 山手111番館<br />スパニッシュ風の外観の美しさは、山手に残る洋館の中でも特筆に値するとも言われています。パーゴラ(藤棚)を持った玄関ポーチ、そこに見られる3連アー チ、ワシン坂から芝生の庭の中をまっすぐに延びるアプローチの佇まいなど、とても魅力的な風情を漂わせています。どことなく 南欧のリゾート地を彷彿とさせる居住まいです。モーガン氏の設計コンセプトが潤沢に散り嵌められた秘宝とも言えます。

    山手111番館
    スパニッシュ風の外観の美しさは、山手に残る洋館の中でも特筆に値するとも言われています。パーゴラ(藤棚)を持った玄関ポーチ、そこに見られる3連アー チ、ワシン坂から芝生の庭の中をまっすぐに延びるアプローチの佇まいなど、とても魅力的な風情を漂わせています。どことなく 南欧のリゾート地を彷彿とさせる居住まいです。モーガン氏の設計コンセプトが潤沢に散り嵌められた秘宝とも言えます。

  • 山手111番館<br />モーガン氏は、1873年に米国ニューヨーク州に生まれ、1920(大正9)年に日本フラー建築会社の設計技師長として来日しました。来日後、フラー社を退社、自身の事務所を開設して各地に作品を残しています。東京や仙台、神戸などにも彼が設計した建物が現存しますが、半数以上は横浜に建てられ、ユニオンビルディングや山手聖公会など著名な建物を残しています。1928(昭和3)年に自身が設計したユニオンビルディング内に事務所を構え、生涯をそ こで建築の仕事に携わりました。1937(昭和12)年、63歳で亡くなり、山手外国人墓地で永い眠りに就いています。

    山手111番館
    モーガン氏は、1873年に米国ニューヨーク州に生まれ、1920(大正9)年に日本フラー建築会社の設計技師長として来日しました。来日後、フラー社を退社、自身の事務所を開設して各地に作品を残しています。東京や仙台、神戸などにも彼が設計した建物が現存しますが、半数以上は横浜に建てられ、ユニオンビルディングや山手聖公会など著名な建物を残しています。1928(昭和3)年に自身が設計したユニオンビルディング内に事務所を構え、生涯をそ こで建築の仕事に携わりました。1937(昭和12)年、63歳で亡くなり、山手外国人墓地で永い眠りに就いています。

  • 山手111番館<br />玄関灯は、ガス灯を思わせる趣があります。

    山手111番館
    玄関灯は、ガス灯を思わせる趣があります。

  • 山手111番館 ホール<br />1階は、ホールを中心に、応接室、食堂、厨房、浴室と個室が2つあります。<br />この館の見所は、何と言っても豪華なシャンデリアが輝く吹き抜けのホールとそれを囲む2階の回廊です。この回廊は片持梁で廻されており、支え柱がないのが特徴で、広々とした1階ホールを構成しています。また、床板も普通のフローリングではなく、創建当初のナラ材が寄木細工のように組まれていて目を惹き付けます。<br />このような建築様式はとても珍しく貴重なものだそうです。

    山手111番館 ホール
    1階は、ホールを中心に、応接室、食堂、厨房、浴室と個室が2つあります。
    この館の見所は、何と言っても豪華なシャンデリアが輝く吹き抜けのホールとそれを囲む2階の回廊です。この回廊は片持梁で廻されており、支え柱がないのが特徴で、広々とした1階ホールを構成しています。また、床板も普通のフローリングではなく、創建当初のナラ材が寄木細工のように組まれていて目を惹き付けます。
    このような建築様式はとても珍しく貴重なものだそうです。

  • 山手111番館 ホール<br />暖炉の上の2階回廊の張り出しが、コンサートホールの貴賓席のようで優雅です。<br />2階の回廊は、老朽化と強度面で多数の往来に向かないため、現在は上ることはできません。

    山手111番館 ホール
    暖炉の上の2階回廊の張り出しが、コンサートホールの貴賓席のようで優雅です。
    2階の回廊は、老朽化と強度面で多数の往来に向かないため、現在は上ることはできません。

  • 山手111番館 ホール<br />ここの床のデザインは、箱根の寄木細工を彷彿とさせます。<br />もしかしたら、設計者モーガン氏がラフィン夫妻の出会いの場所が箱根だったことを知り、この床の意匠を思いついたのかもしれません。<br /><br />航海中、乗船していた船が急遽修理の必要を生じ、横浜に寄港。ラフィン氏は当初予定になかった横浜の地を踏みました。修理を待つ間、箱根に出かけた彼は、そこで後に夫人となるミヨさんと出会い、一目惚れしてしまいました。2人は大恋愛の末に結婚し、以後彼は日本に根を下ろします。8人の子宝に恵まれ、この館は結婚する長男のために建てられたと伝えられています。<br />山手111番館の優しい雰囲気は、こうした愛情深い両親のロマンティックな出会いのエピソードにぴったりと言えます。

    山手111番館 ホール
    ここの床のデザインは、箱根の寄木細工を彷彿とさせます。
    もしかしたら、設計者モーガン氏がラフィン夫妻の出会いの場所が箱根だったことを知り、この床の意匠を思いついたのかもしれません。

    航海中、乗船していた船が急遽修理の必要を生じ、横浜に寄港。ラフィン氏は当初予定になかった横浜の地を踏みました。修理を待つ間、箱根に出かけた彼は、そこで後に夫人となるミヨさんと出会い、一目惚れしてしまいました。2人は大恋愛の末に結婚し、以後彼は日本に根を下ろします。8人の子宝に恵まれ、この館は結婚する長男のために建てられたと伝えられています。
    山手111番館の優しい雰囲気は、こうした愛情深い両親のロマンティックな出会いのエピソードにぴったりと言えます。

  • 山手111番館 食堂<br />ホールの隣室は、大きな窓のある食堂です。ここの床板もホールと同様のデザインになっています。<br />家具は現在のものですが、洋館の雰囲気に合わせて横浜家具が置かれています。一枚板の立派なテーブルです。

    山手111番館 食堂
    ホールの隣室は、大きな窓のある食堂です。ここの床板もホールと同様のデザインになっています。
    家具は現在のものですが、洋館の雰囲気に合わせて横浜家具が置かれています。一枚板の立派なテーブルです。

  • 山手111番館 食堂<br />創建当時から全館スチーム暖房だったそうですが、ステイタスシンボルとしての暖炉も設けられています。<br />ホールと食堂には、間に壁を挟んで2つの暖炉が背中合わせに構成されています。これは、煙突をひとつにする合理的な設計です。<br />煉瓦の周りを飾り彫りが施された金属プレートで囲み、全体は重厚な色艶の木が引き締めています。木の部分にも、花などの飾り彫りを配することで印象を優しくしています。

    山手111番館 食堂
    創建当時から全館スチーム暖房だったそうですが、ステイタスシンボルとしての暖炉も設けられています。
    ホールと食堂には、間に壁を挟んで2つの暖炉が背中合わせに構成されています。これは、煙突をひとつにする合理的な設計です。
    煉瓦の周りを飾り彫りが施された金属プレートで囲み、全体は重厚な色艶の木が引き締めています。木の部分にも、花などの飾り彫りを配することで印象を優しくしています。

  • 山手111番館 応接室<br />山手西洋館で行われるコンサートや展示会などのパンフレットが置かれています。<br /><br />1階ホールを広くするための回廊の構造への工夫や、ラフィン夫妻の出会いの場から発想した床の寄木細工的デザインなど見所満載の館でした。住人の家族にまつわるエピソードなどを知ることで、建物が持つ特別な意味合いを深く理解することができました。

    山手111番館 応接室
    山手西洋館で行われるコンサートや展示会などのパンフレットが置かれています。

    1階ホールを広くするための回廊の構造への工夫や、ラフィン夫妻の出会いの場から発想した床の寄木細工的デザインなど見所満載の館でした。住人の家族にまつわるエピソードなどを知ることで、建物が持つ特別な意味合いを深く理解することができました。

  • 港の見える丘公園 フレンチラベンダー<br />横浜のバラ・スポットで一番人気なのが、港の見える丘公園のローズガーデンです。<br />この公園の歴史は長く、開園は1962年です。周辺は、幕末から明治初期にかけてはフランスやイギリス軍の駐屯地があり、公園はイギリス海軍病院の跡地に設けられています。<br />1948年にヒットした歌謡曲『港が見える丘』が公園の名の由来とされ、園内にはその歌碑が建てられています。

    港の見える丘公園 フレンチラベンダー
    横浜のバラ・スポットで一番人気なのが、港の見える丘公園のローズガーデンです。
    この公園の歴史は長く、開園は1962年です。周辺は、幕末から明治初期にかけてはフランスやイギリス軍の駐屯地があり、公園はイギリス海軍病院の跡地に設けられています。
    1948年にヒットした歌謡曲『港が見える丘』が公園の名の由来とされ、園内にはその歌碑が建てられています。

  • 港の見える丘公園 レッド メイディランド<br />1989年にフランスの名門メイアン家が作出したバラの品種です。<br />赤いバラの花言葉は、「あなたを愛します」「愛情」「美」「情熱」「熱烈な恋」「美貌」などです。時期的には、このバラが一番の見頃でした。<br /><br />港の見える丘公園の展望台の周りには、幕末〜明治初期にかけて英国軍兵舎が置かれ、山裾にはフランス軍が駐屯していました。その後、高台には英国領事官邸が、山側にはフランス領事館が建てられ、現在では英国領事官邸がそのままイギリス館として市民に利用されています。フランス領事館は既になくなっていますが、フランス領事館跡やフランス橋、フランスから寄贈されたパビリオン・バルタール等が今でも往時を偲ばせます。

    港の見える丘公園 レッド メイディランド
    1989年にフランスの名門メイアン家が作出したバラの品種です。
    赤いバラの花言葉は、「あなたを愛します」「愛情」「美」「情熱」「熱烈な恋」「美貌」などです。時期的には、このバラが一番の見頃でした。

    港の見える丘公園の展望台の周りには、幕末〜明治初期にかけて英国軍兵舎が置かれ、山裾にはフランス軍が駐屯していました。その後、高台には英国領事官邸が、山側にはフランス領事館が建てられ、現在では英国領事官邸がそのままイギリス館として市民に利用されています。フランス領事館は既になくなっていますが、フランス領事館跡やフランス橋、フランスから寄贈されたパビリオン・バルタール等が今でも往時を偲ばせます。

  • 港の見える丘公園 新雪<br />1969年に京成バラ園芸が作出したバラの品種です。<br />降ったばかりの淡い雪を思わせることから命名されています。<br /><br />1862(文久2)年に起きた生麦事件など、攘夷派による外国人殺傷事件が相次ぎ、フランスは横浜居留地に住む自国民の保護と居留地の防衛を目的に英国と共に軍隊の駐屯を決定しました。<br />港の見える丘公園の園内にあるフランス山は、フランス軍が駐屯した場所です。何故外国の軍隊が横浜に駐屯していたかというと、生麦事件など攘夷派による外国人襲撃の他、薩英戦争や下関戦争といった不安があり、外国居留民の保護のため、幕府はこの港が見渡せる一等地の高台をフランス軍に提供したのです。最初は20人ほどだった陸軍が、その後300人まで増えたそうです。その後、1875(明治8)年まで英仏含めた外国軍が撤退するまで約12年間駐屯しました。フランス軍はこの地から日本の明治維新を見つめていたわけです。<br />これがフランス山と呼ばれるようになった由来です。

    港の見える丘公園 新雪
    1969年に京成バラ園芸が作出したバラの品種です。
    降ったばかりの淡い雪を思わせることから命名されています。

    1862(文久2)年に起きた生麦事件など、攘夷派による外国人殺傷事件が相次ぎ、フランスは横浜居留地に住む自国民の保護と居留地の防衛を目的に英国と共に軍隊の駐屯を決定しました。
    港の見える丘公園の園内にあるフランス山は、フランス軍が駐屯した場所です。何故外国の軍隊が横浜に駐屯していたかというと、生麦事件など攘夷派による外国人襲撃の他、薩英戦争や下関戦争といった不安があり、外国居留民の保護のため、幕府はこの港が見渡せる一等地の高台をフランス軍に提供したのです。最初は20人ほどだった陸軍が、その後300人まで増えたそうです。その後、1875(明治8)年まで英仏含めた外国軍が撤退するまで約12年間駐屯しました。フランス軍はこの地から日本の明治維新を見つめていたわけです。
    これがフランス山と呼ばれるようになった由来です。

  • 港の見える丘公園 ラブ<br />1980年にアメリカのJ&amp;Pが作出したバラの品種です。<br />花びらの表が真っ赤で裏が真っ白と、見事に色が付け分けられた不思議なバラです。1輪でも紅白で縁起担ぎになるのかもしれません。<br /><br />フランス駐屯部隊の撤退により兵舎が不要となり、海兵隊当局はフランス山の永代借地権をフランス駐日外交代表部に譲渡しました。その後、フランス人居留民の有志らが領事館建設の請願書を提出したことがきっかけとなり、1894(明治27)年にフランス人建築家サルダ氏の設計で領事館と領事官邸の新築が始まりました。<br />その建物は、関東大震災により倒壊し、官邸は1930(昭和5)年にスイス人建築家ヒンデル氏の設計で山手186番に再建されました。その官邸も、戦後間もない1947(昭和22)年に火災で焼失しました。現存する遺構は、その際に焼け残った1階部分です。

    港の見える丘公園 ラブ
    1980年にアメリカのJ&Pが作出したバラの品種です。
    花びらの表が真っ赤で裏が真っ白と、見事に色が付け分けられた不思議なバラです。1輪でも紅白で縁起担ぎになるのかもしれません。

    フランス駐屯部隊の撤退により兵舎が不要となり、海兵隊当局はフランス山の永代借地権をフランス駐日外交代表部に譲渡しました。その後、フランス人居留民の有志らが領事館建設の請願書を提出したことがきっかけとなり、1894(明治27)年にフランス人建築家サルダ氏の設計で領事館と領事官邸の新築が始まりました。
    その建物は、関東大震災により倒壊し、官邸は1930(昭和5)年にスイス人建築家ヒンデル氏の設計で山手186番に再建されました。その官邸も、戦後間もない1947(昭和22)年に火災で焼失しました。現存する遺構は、その際に焼け残った1階部分です。

  • 港の見える丘公園 エバーゴールド<br />1966年にドイツのコルデス家が作出したバラの品種です。コルデス家は、数々の歴史的名花を作出し、フランスのメイアン家と並んで20世紀のバラ育種をリードしてきた名門です。<br /><br />横浜市の花は何故バラなのか、ご存知でしょうか?<br />1989年、市政100周年・開港130周年を記念して市の花を制定することになり、市民に好きな花を投票してもらったところ、バラが一番人気でした。その結果、花と緑が溢れる街を創造するシンボルとして、9月23日に横浜市の花としてバラが制定されました。<br />横浜とバラのつながりは意外に古く、鎖国状態にあった江戸幕府が横浜を開港した歴史と共に始まりました。山手外国人居留地に西洋文化と一緒に持ち込まれ、洋館の庭に植えられました。また、山手公園でフラワーショーが開かれるようになり、そこにバラも展示されていたそうです。日本で一般に出回るようになったのは大正になってからですが、横浜が発信地だそうです。

    港の見える丘公園 エバーゴールド
    1966年にドイツのコルデス家が作出したバラの品種です。コルデス家は、数々の歴史的名花を作出し、フランスのメイアン家と並んで20世紀のバラ育種をリードしてきた名門です。

    横浜市の花は何故バラなのか、ご存知でしょうか?
    1989年、市政100周年・開港130周年を記念して市の花を制定することになり、市民に好きな花を投票してもらったところ、バラが一番人気でした。その結果、花と緑が溢れる街を創造するシンボルとして、9月23日に横浜市の花としてバラが制定されました。
    横浜とバラのつながりは意外に古く、鎖国状態にあった江戸幕府が横浜を開港した歴史と共に始まりました。山手外国人居留地に西洋文化と一緒に持ち込まれ、洋館の庭に植えられました。また、山手公園でフラワーショーが開かれるようになり、そこにバラも展示されていたそうです。日本で一般に出回るようになったのは大正になってからですが、横浜が発信地だそうです。

  • 港の見える丘公園 ふれ太鼓<br />1974年に京成バラ園芸が作出したバラの品種です。<br />赤や黄色、オレンジと色変わりがおきますので、グラデーションを楽しむことができます。

    港の見える丘公園 ふれ太鼓
    1974年に京成バラ園芸が作出したバラの品種です。
    赤や黄色、オレンジと色変わりがおきますので、グラデーションを楽しむことができます。

  • 港の見える丘公園 エルサレムセージ<br />シソ科フロミス属の常緑多年草です。エルサレムの地に咲く野の花のひとつです。エルサレムセージを含むフロミス属は地中海沿岸から中央アジアに約60種が分布します。<br />属名のフロミスはギリシア語のフェレーゴ(焼く)に由来するとか、プロミス(モウズイカという植物)に似ているからとか、諸説あります。「セージ(ヤクヨウサルビア)」の名前が付けられていますが、セージの仲間ではありません。鮮やかな黄色い花を咲かせ、香りが良いのでポプリやドライフラワーに使われ、その点ではハーブとしても扱われています。

    港の見える丘公園 エルサレムセージ
    シソ科フロミス属の常緑多年草です。エルサレムの地に咲く野の花のひとつです。エルサレムセージを含むフロミス属は地中海沿岸から中央アジアに約60種が分布します。
    属名のフロミスはギリシア語のフェレーゴ(焼く)に由来するとか、プロミス(モウズイカという植物)に似ているからとか、諸説あります。「セージ(ヤクヨウサルビア)」の名前が付けられていますが、セージの仲間ではありません。鮮やかな黄色い花を咲かせ、香りが良いのでポプリやドライフラワーに使われ、その点ではハーブとしても扱われています。

  • 港の見える丘公園 花霞<br />1984年に京成バラ園芸が作出したバラの品種です。<br />淡いピンクのぼかしが、ちりめんぼんぼりを彷彿とさせる可愛らしいバラです。

    港の見える丘公園 花霞
    1984年に京成バラ園芸が作出したバラの品種です。
    淡いピンクのぼかしが、ちりめんぼんぼりを彷彿とさせる可愛らしいバラです。

  • 港の見える丘公園 大仏次郎記念館<br />公園内の沈床花壇(ちんしょうかだん)越しに見る、横浜ゆかりの作家 大仏次郎記念館の風景が絵になります。公園の奥にある、アーチ型の屋根と赤煉瓦の館が大仏次郎記念館です。<br />大佛次郎氏は、横浜で生まれ、そして横浜を最も多く描いた作家です。中でも『霧笛』や『幻燈』は文明開化期の横浜を愛惜を込めて描いた名作です。代表作には『パリ燃ゆ』や『天皇の世紀』、『帰郷』、『赤穂浪士』などがあり、『鞍馬天狗』の作者としても親しまれています。

    港の見える丘公園 大仏次郎記念館
    公園内の沈床花壇(ちんしょうかだん)越しに見る、横浜ゆかりの作家 大仏次郎記念館の風景が絵になります。公園の奥にある、アーチ型の屋根と赤煉瓦の館が大仏次郎記念館です。
    大佛次郎氏は、横浜で生まれ、そして横浜を最も多く描いた作家です。中でも『霧笛』や『幻燈』は文明開化期の横浜を愛惜を込めて描いた名作です。代表作には『パリ燃ゆ』や『天皇の世紀』、『帰郷』、『赤穂浪士』などがあり、『鞍馬天狗』の作者としても親しまれています。

  • 港の見える丘公園 展望台広場<br />長さ30m程の半円型の屋根が付けられた展望台があります。<br />港の見える丘公園は、1991年に横浜市の花制定記念として造られたバラ園を整備し、1999年に現在のような美しい姿になりました。ゆるやかな起伏のある園内には、水路やベンチ、花壇などが設けられ、ゆったりと散策できます。バラの数は、80種類約1800株あるそうです。バラの他にも、四季折々に様々な草花が愉しめ、山手らしい異国情緒のある公園です。

    港の見える丘公園 展望台広場
    長さ30m程の半円型の屋根が付けられた展望台があります。
    港の見える丘公園は、1991年に横浜市の花制定記念として造られたバラ園を整備し、1999年に現在のような美しい姿になりました。ゆるやかな起伏のある園内には、水路やベンチ、花壇などが設けられ、ゆったりと散策できます。バラの数は、80種類約1800株あるそうです。バラの他にも、四季折々に様々な草花が愉しめ、山手らしい異国情緒のある公園です。

  • 港の見える丘公園 展望台<br />現在は 前方に建ち並ぶビル群に隠されてしまい、残念ながらここからいわゆる横浜港は少しだけしか望むことができません。<br />ネットでは「ベイブリッジが見える丘」と揶揄されていますが、横浜の重要な港湾産業が見渡せる丘であり、美しく丁寧に整備された横浜を代表する公園であることは間違いありません。<br />海の見える公園の案内図です。<br />http://www.city.yokohama.lg.jp/kankyo/park/yokohama/images/kouen007heimenzu.pdf

    港の見える丘公園 展望台
    現在は 前方に建ち並ぶビル群に隠されてしまい、残念ながらここからいわゆる横浜港は少しだけしか望むことができません。
    ネットでは「ベイブリッジが見える丘」と揶揄されていますが、横浜の重要な港湾産業が見渡せる丘であり、美しく丁寧に整備された横浜を代表する公園であることは間違いありません。
    海の見える公園の案内図です。
    http://www.city.yokohama.lg.jp/kankyo/park/yokohama/images/kouen007heimenzu.pdf

  • 港の見える丘公園 <br />2011年のスタジオジブリの映画『コクリコ坂から』の記念スポットとして、主人公の松崎海が毎朝掲げていた、「安全な航行を祈る」という意味の国際信号旗のU旗とW旗が掲揚されています。『コクリコ坂から』 は、1963年の横浜が舞台になっており、主人公の下宿屋「コクリコ荘」がある場所は港が見える公園がモデルとなっています。因みに、フランス語「コクリコ」は、「ヒナゲシ」を意味しています。与謝野晶子の歌にも「コクリコ」を使ったものがありますね!<br />http://4travel.jp/photo?trvlgphoto=34588663<br /><br />海は父親から「旗を掲げておけば、お父さんは迷子にならず帰ってくる」と教えられたので、窓辺に毎日旗を掲げていました。父が亡くなった後も、その習慣が続いていることを描写しています。<br />尚、原作漫画では、父親は10年前に遭難して生死不明となっていますが、海は父が亡くなったことをまた信じていないような描写がなされています。一方、映画では、父は朝鮮戦争中に触雷で死亡しており、海もその現実を受け入れているようです。<br />その旗の下には、仲睦まじくご夫婦が腰を下ろされています。

    港の見える丘公園
    2011年のスタジオジブリの映画『コクリコ坂から』の記念スポットとして、主人公の松崎海が毎朝掲げていた、「安全な航行を祈る」という意味の国際信号旗のU旗とW旗が掲揚されています。『コクリコ坂から』 は、1963年の横浜が舞台になっており、主人公の下宿屋「コクリコ荘」がある場所は港が見える公園がモデルとなっています。因みに、フランス語「コクリコ」は、「ヒナゲシ」を意味しています。与謝野晶子の歌にも「コクリコ」を使ったものがありますね!
    http://4travel.jp/photo?trvlgphoto=34588663

    海は父親から「旗を掲げておけば、お父さんは迷子にならず帰ってくる」と教えられたので、窓辺に毎日旗を掲げていました。父が亡くなった後も、その習慣が続いていることを描写しています。
    尚、原作漫画では、父親は10年前に遭難して生死不明となっていますが、海は父が亡くなったことをまた信じていないような描写がなされています。一方、映画では、父は朝鮮戦争中に触雷で死亡しており、海もその現実を受け入れているようです。
    その旗の下には、仲睦まじくご夫婦が腰を下ろされています。

  • 港の見える丘公園 ハマナス<br />バラ科バラ属の落葉低木。<br />ハマナスの名は、浜(海岸の砂地)に生え、果実がナシに似た形をしていることから「ハマナシ」という名が付けられ、それが訛ったものだそうです。ナスに由来するものではありません。<br />赤い実がなるので花も赤いものと思っていましたが、このような紫色です。紫の花と言うことから「ナス」に結びついているのかも知れません。

    港の見える丘公園 ハマナス
    バラ科バラ属の落葉低木。
    ハマナスの名は、浜(海岸の砂地)に生え、果実がナシに似た形をしていることから「ハマナシ」という名が付けられ、それが訛ったものだそうです。ナスに由来するものではありません。
    赤い実がなるので花も赤いものと思っていましたが、このような紫色です。紫の花と言うことから「ナス」に結びついているのかも知れません。

  • フランス山 風車<br />1896(明治29)年にフランス領事館とその官邸が建設された時、このフランス山にはこの高台まで井戸水を汲み揚げるための風車が設置されました。この風車が設置されたのは、煉瓦造井戸の遺構が残されている場所です。<br />残念ながら、往時の風車の形は写真などの資料が残されておらず不明だそうですが、同時代に使われていた「フェリス女学院の赤い風車」や「ヴィラ・サクソニアの風車」の写真からこのような多翼型の風車であったろうと考えられています。尚、風車は、1909(明治42)年頃までは存在していたそうです。<br />復元された風車の色は、フランス国旗の色に因んでトリコロール(青・白・赤)に塗り分けられ、ハイカラです。

    フランス山 風車
    1896(明治29)年にフランス領事館とその官邸が建設された時、このフランス山にはこの高台まで井戸水を汲み揚げるための風車が設置されました。この風車が設置されたのは、煉瓦造井戸の遺構が残されている場所です。
    残念ながら、往時の風車の形は写真などの資料が残されておらず不明だそうですが、同時代に使われていた「フェリス女学院の赤い風車」や「ヴィラ・サクソニアの風車」の写真からこのような多翼型の風車であったろうと考えられています。尚、風車は、1909(明治42)年頃までは存在していたそうです。
    復元された風車の色は、フランス国旗の色に因んでトリコロール(青・白・赤)に塗り分けられ、ハイカラです。

  • フランス山 煉瓦造井戸遺構<br />公園整備の際に、風車の煉瓦造の基礎が発見されています。北側斜面に2基、南側に2基の合計4基あります。<br />この井戸の水はすでに涸れていますが、井戸の深さは約30mあり、使われている煉瓦は円形に積むために扇型をした特注品です。

    フランス山 煉瓦造井戸遺構
    公園整備の際に、風車の煉瓦造の基礎が発見されています。北側斜面に2基、南側に2基の合計4基あります。
    この井戸の水はすでに涸れていますが、井戸の深さは約30mあり、使われている煉瓦は円形に積むために扇型をした特注品です。

  • フランス山 旧フランス領事館遺構<br />旧領事官邸が関東大震災で倒壊した後、1930(昭和5)年にマックス・ヒンデル氏の設計によって建てられ、戦後の1947(昭和22)年に焼失した領事官邸の遺構です。<br />領事官邸は1階部分がコンクリート造、2〜3階部分は木造でした。残された遺構はその1階部分です。建物には4階部分に相当する屋根裏部屋も設置され、一部には塔屋もあったと傍らの解説板に記されています。<br />ヒンデル氏は、1887年生れのスイス人建築家で、1924(大正13)年に来日。札幌で建築活動を開始し、1927(昭和2)年に横浜に移転、中区本牧満坂に事務所兼住宅を設け、1935(昭和10)年に事務所を閉鎖するまで横浜で活動しました。その後ドイツに渡り、1963年に死去しています。

    フランス山 旧フランス領事館遺構
    旧領事官邸が関東大震災で倒壊した後、1930(昭和5)年にマックス・ヒンデル氏の設計によって建てられ、戦後の1947(昭和22)年に焼失した領事官邸の遺構です。
    領事官邸は1階部分がコンクリート造、2〜3階部分は木造でした。残された遺構はその1階部分です。建物には4階部分に相当する屋根裏部屋も設置され、一部には塔屋もあったと傍らの解説板に記されています。
    ヒンデル氏は、1887年生れのスイス人建築家で、1924(大正13)年に来日。札幌で建築活動を開始し、1927(昭和2)年に横浜に移転、中区本牧満坂に事務所兼住宅を設け、1935(昭和10)年に事務所を閉鎖するまで横浜で活動しました。その後ドイツに渡り、1963年に死去しています。

  • フランス山 旧フランス領事館遺構<br />『江戸幕末滞在記』を執筆したフランス海軍 青年士官エドゥアルド・スエンソン氏(24歳)が横浜に上陸したのが1866(慶応2)年。横浜開港後7年目のことでした。彼が見た江戸末期の日本は、日本人が思うより遥かに民主的国家であり、独裁者に屈服する民族には映らなかったようです。「大君から乞食まで大人しく穏やかながら、他人に屈服することはない」と記しています。フランスが幕府を支援したこともあり、彼はレオン・ロッシュ公使と将軍 徳川慶喜の謁見の際に陪席の機会も得ています。<br />「海から見ると横浜は完全にヨーロッパの町である。小さな庭と花壇に囲まれた美しい住宅の列がこちらの丘から向こうの町まで続いている」とも述懐しています。この頃には、すでに西洋風の建物が建ち並んでいました。<br />一方、明治初期に日本を訪れた英国女性旅行家イザベラ・バード女史は、「横浜はどのようにも印象的ではありませんでした。このような混成の都市は少しも心に残りなどしません。山手はボストン郊外、海岸線はバーゲンヘッド郊外の亜熱帯の幻想を足したようなもの」と酷評しています。しかし、これが往時の外国人の率直な見解ではなかったでしょうか?自分は歴史の歯車の中の一部なのだと思わせる語り口で、横浜の風景が少し違って見えたほどです。<br />スエンソン氏は横浜がとても気に入ったようですが、それには訳があります。彼はそれまでベトナムに滞在し、そこで病気になり、「コーチシナ(ベトナム)の焼け付くような太陽とドナイ河の毒々しい悪臭が日本の森の木陰と爽やかな潮風に入れ替わってくれるよう、全身全霊で願っていた」との思いで日本に上陸したからです。横浜は彼にとって別天地だったに違いありません。

    フランス山 旧フランス領事館遺構
    『江戸幕末滞在記』を執筆したフランス海軍 青年士官エドゥアルド・スエンソン氏(24歳)が横浜に上陸したのが1866(慶応2)年。横浜開港後7年目のことでした。彼が見た江戸末期の日本は、日本人が思うより遥かに民主的国家であり、独裁者に屈服する民族には映らなかったようです。「大君から乞食まで大人しく穏やかながら、他人に屈服することはない」と記しています。フランスが幕府を支援したこともあり、彼はレオン・ロッシュ公使と将軍 徳川慶喜の謁見の際に陪席の機会も得ています。
    「海から見ると横浜は完全にヨーロッパの町である。小さな庭と花壇に囲まれた美しい住宅の列がこちらの丘から向こうの町まで続いている」とも述懐しています。この頃には、すでに西洋風の建物が建ち並んでいました。
    一方、明治初期に日本を訪れた英国女性旅行家イザベラ・バード女史は、「横浜はどのようにも印象的ではありませんでした。このような混成の都市は少しも心に残りなどしません。山手はボストン郊外、海岸線はバーゲンヘッド郊外の亜熱帯の幻想を足したようなもの」と酷評しています。しかし、これが往時の外国人の率直な見解ではなかったでしょうか?自分は歴史の歯車の中の一部なのだと思わせる語り口で、横浜の風景が少し違って見えたほどです。
    スエンソン氏は横浜がとても気に入ったようですが、それには訳があります。彼はそれまでベトナムに滞在し、そこで病気になり、「コーチシナ(ベトナム)の焼け付くような太陽とドナイ河の毒々しい悪臭が日本の森の木陰と爽やかな潮風に入れ替わってくれるよう、全身全霊で願っていた」との思いで日本に上陸したからです。横浜は彼にとって別天地だったに違いありません。

  • フランス山 シャクナゲ<br />ツツジ科ツツジ属無鱗片シャクナゲ亜属、無鱗片シャクナゲ節の総称です。<br />名の由来は、漢字の「石南花」は中国産の別種ですが、これを誤って用いて「しゃくなんげ」となり、その後「しゃくなげ」になったと言われています。<br />その他、「尺にも満たないから」とか「癪に効くから」と言う説もありますが、俗説と言われています。

    フランス山 シャクナゲ
    ツツジ科ツツジ属無鱗片シャクナゲ亜属、無鱗片シャクナゲ節の総称です。
    名の由来は、漢字の「石南花」は中国産の別種ですが、これを誤って用いて「しゃくなんげ」となり、その後「しゃくなげ」になったと言われています。
    その他、「尺にも満たないから」とか「癪に効くから」と言う説もありますが、俗説と言われています。

  • フランス山 <br />木々の間から横浜マリンタワーが見えてきました。<br />このタワーは、1961年(昭和36年)に 完成した高さ106mの展望塔ですが、灯台の機能を持つため、世界で一番高い灯台としてギネスブックに登録されたそうです。

    フランス山
    木々の間から横浜マリンタワーが見えてきました。
    このタワーは、1961年(昭和36年)に 完成した高さ106mの展望塔ですが、灯台の機能を持つため、世界で一番高い灯台としてギネスブックに登録されたそうです。

  • パビリオン・バルタール<br />「RUE BALTARD=バルタール通り」と記されています。<br />この純鋳鉄製の骨組みは、1860年代フランスのパリに建てられ1971年まで100年余り存続したパリ中央市場(レ・アール)の地下の一部をこの地へ移築したものです。設計者の名から「パビリオン・バルタール」と称されています。<br />中央市場は再開発のために解体され、その際、横浜市は19世紀末の純鋳鉄製構造物として貴重な学術的・文化的遺産であるため、パリ市にその一部の移設を申し入れました。その結果、当局の厚意により地下に使用されていた鉄骨柱13本とその柱の繋ぎ梁としてのアーチ梁の寄贈を受け、かつてフランス領事館のあったこの地に1980年に移築しました。

    パビリオン・バルタール
    「RUE BALTARD=バルタール通り」と記されています。
    この純鋳鉄製の骨組みは、1860年代フランスのパリに建てられ1971年まで100年余り存続したパリ中央市場(レ・アール)の地下の一部をこの地へ移築したものです。設計者の名から「パビリオン・バルタール」と称されています。
    中央市場は再開発のために解体され、その際、横浜市は19世紀末の純鋳鉄製構造物として貴重な学術的・文化的遺産であるため、パリ市にその一部の移設を申し入れました。その結果、当局の厚意により地下に使用されていた鉄骨柱13本とその柱の繋ぎ梁としてのアーチ梁の寄贈を受け、かつてフランス領事館のあったこの地に1980年に移築しました。

  • パビリオン・バルタール<br />レ・アール(中央市場)は、セーヌ川北岸のパリ1区にあり、12世紀以来市民に親しまれた市場でしたが、19世紀後半にナポレオン3世時代のオスマン市長が建築家バルタールに設計を依頼して新たな姿にしたものです。設計は、著名なV.バルタール氏です。機能性・経済性に優れた鋳鉄とガラスによる地上2階、地下1階の大規模な市場を10棟設計し、棟同士はガラス屋根付きのアーケードで連結されていました。<br />しかし、1969年に市場はパリ市南部のオルリー空港近くのランジスに移転しました。その後レ・アールは、美術展覧会や劇場、遊歩道等に利用されましたが、2年後の1971年に惜しまれながら解体されました。<br />この公園に設置された構造体は地階部分のものであり、上部構造を支るえ柱やアーチ、梁等すべて鋳鉄製で構成されている珍しいものです。創建時期は、エッフェル塔以前であり初期の鉄骨様式を知る上で貴重な遺構とされています。<br />現在、設計者の名を冠した「パビリオン・バルタール」は、世界に2つ存在しています。もうひとつは、ヴァンサンヌの森の外れにあるノジャン・シュール・マルスに移築されたレ・アールの1棟です。<br />いずれもかつての雄姿を留めるものではありませんが、レ・アールは自らの解体と引き換えに、後世に貴重な遺構を遺すきっかけを与えました。レ・アールを解体したことの反省が、歴史的建造物である現オルセー美術館を救ったのです。<br />1900年に建築されたオルセー駅は1939年に廃駅となり、大戦中は捕虜や流刑囚の収容所になり、戦後はホテルとして1973年まで営業した歴史的建造物です。営業終了後、解体案が出されましたが、レ・アール解体の反省を基に「歴史的建造物を取り壊すのは犯罪である」との声が湧き起り、今日見る美術館に模様替えされて延命を果たしています。

    パビリオン・バルタール
    レ・アール(中央市場)は、セーヌ川北岸のパリ1区にあり、12世紀以来市民に親しまれた市場でしたが、19世紀後半にナポレオン3世時代のオスマン市長が建築家バルタールに設計を依頼して新たな姿にしたものです。設計は、著名なV.バルタール氏です。機能性・経済性に優れた鋳鉄とガラスによる地上2階、地下1階の大規模な市場を10棟設計し、棟同士はガラス屋根付きのアーケードで連結されていました。
    しかし、1969年に市場はパリ市南部のオルリー空港近くのランジスに移転しました。その後レ・アールは、美術展覧会や劇場、遊歩道等に利用されましたが、2年後の1971年に惜しまれながら解体されました。
    この公園に設置された構造体は地階部分のものであり、上部構造を支るえ柱やアーチ、梁等すべて鋳鉄製で構成されている珍しいものです。創建時期は、エッフェル塔以前であり初期の鉄骨様式を知る上で貴重な遺構とされています。
    現在、設計者の名を冠した「パビリオン・バルタール」は、世界に2つ存在しています。もうひとつは、ヴァンサンヌの森の外れにあるノジャン・シュール・マルスに移築されたレ・アールの1棟です。
    いずれもかつての雄姿を留めるものではありませんが、レ・アールは自らの解体と引き換えに、後世に貴重な遺構を遺すきっかけを与えました。レ・アールを解体したことの反省が、歴史的建造物である現オルセー美術館を救ったのです。
    1900年に建築されたオルセー駅は1939年に廃駅となり、大戦中は捕虜や流刑囚の収容所になり、戦後はホテルとして1973年まで営業した歴史的建造物です。営業終了後、解体案が出されましたが、レ・アール解体の反省を基に「歴史的建造物を取り壊すのは犯罪である」との声が湧き起り、今日見る美術館に模様替えされて延命を果たしています。

  • 謎のトンネル<br />フランス山に登る2つの階段の間には、謎めいたトンネルがあります。雑草のために遠目では確認できませんが、確かにトンネルの入口らしきものが確認できます。ただし、入口はブロックで塞がれていて中には入れません。<br />戦時中の防空壕だと思っていましたが、ネットで調べてみると、1870年にフランス軍が作成した整備拡大設計図面には「洗濯場」と記されているようです。しかし、トンネルを洗濯場にするのは合理的ではなく、計画されただけで実施されていない可能性もあります。とすれば、誰かが別の目的でトンネルを掘ったことになります。<br />謎のトンネルは未だ謎のままのようです。

    謎のトンネル
    フランス山に登る2つの階段の間には、謎めいたトンネルがあります。雑草のために遠目では確認できませんが、確かにトンネルの入口らしきものが確認できます。ただし、入口はブロックで塞がれていて中には入れません。
    戦時中の防空壕だと思っていましたが、ネットで調べてみると、1870年にフランス軍が作成した整備拡大設計図面には「洗濯場」と記されているようです。しかし、トンネルを洗濯場にするのは合理的ではなく、計画されただけで実施されていない可能性もあります。とすれば、誰かが別の目的でトンネルを掘ったことになります。
    謎のトンネルは未だ謎のままのようです。

  • フランス橋<br />フランス橋は、中村川を跨いで軽やかにカーブを描く桁が美しい橋です。1984年に竣工され、山下町方面と山手町、元町方面と結んでいる人道橋です。<br />右側に見える大きな奇抜な形の建物が、横浜人形の家です。<br />フランス橋を横浜人形の家の所で右折すれば、ポーリン橋(歩道橋)を渡って山下公園へ降りることができます。<br />山手イタリア山庭園から合計7つの西洋館を巡り、海の見える公園からフランス山を経由して山下公園へと下りてきました。<br />この続きは、問柳尋花 横浜逍遥⑤山下公園でお届けいたします。

    フランス橋
    フランス橋は、中村川を跨いで軽やかにカーブを描く桁が美しい橋です。1984年に竣工され、山下町方面と山手町、元町方面と結んでいる人道橋です。
    右側に見える大きな奇抜な形の建物が、横浜人形の家です。
    フランス橋を横浜人形の家の所で右折すれば、ポーリン橋(歩道橋)を渡って山下公園へ降りることができます。
    山手イタリア山庭園から合計7つの西洋館を巡り、海の見える公園からフランス山を経由して山下公園へと下りてきました。
    この続きは、問柳尋花 横浜逍遥⑤山下公園でお届けいたします。

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