2015/05/05 - 2015/05/05
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aquamarine_324さん
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2015年GW旅行記、7回目はポーランドのクラクフからバスで約1.5時間の場所にある、負の遺産、アウシュヴィッツ強制収容所跡です。
今回の旅行で最初に決まっていた目的地はここでした。
せっかく行くのだから一つでも多くのことを感じ取って帰ってこようと、出発前にいろんな本を読み漁り、映画も見ました。
(リストは下に示しています)
ナチス・ドイツにより、ヨーロッパの中心に位置するこの場所に各地から政治犯やユダヤ人が連行され、亡くなった方の数は約130万人とされています(諸説あり)。
他にも強制収容所は多数ありましたが、被害者の総数が飛び抜けて多かったことからアウシュヴィッツの名前が有名になり、1979年に世界遺産としてユネスコに登録されました。
決して楽しい場所ではないこの地を旅行の目的としてセレクトしたのは、
2014年9月にハンガリーのブダペストを訪れた際、ブダペストのゲットーの展示物に触れ、
アウシュヴィッツで亡くなったユダヤ人で一番多いのは
実はハンガリー系住民であることを知ったのが直接のきっかけです。
※そのときの旅行記にも
「来年か再来年、ポーランドのアウシュヴィッツ跡地へ足を運んでみたいと思っています」
と書き、想像以上に早く実現しました↓(かなり下のほう)
http://4travel.jp/travelogue/10931666
アウシュヴィッツの訪問者数は毎年過去最高を記録し続けており、特にドイツやポーランドの子供たちは社会科見学でここを訪問するのが必須というケースも多いようです。
ナチス・ドイツの横暴は戦後広く研究され、書籍も多数出ている一方で、歴史家でもない一般人が敢えてここまで足を運んで現場を見る意味は何でしょうか?
世界が猛スピードで変化していく中、自国が当事者・被害者という彼らとは異なる立場から、日本人として私たちは何を学ぶべきでしょうか?
幸い、唯一の日本人ガイドである中谷さんにガイドいただくことができ、
そのような問いを投げ掛けられたように感じました。
□4/29 成田→ヘルシンキへ、市街地散策 ヘルシンキ泊
□4/30 早朝タリンへ海路移動、散策、リガへ移動 リガ泊
□5/1 リガ散策、シャウレイへ移動、十字架の丘へ シャウレイ泊
□5/2 早朝ヴィリニュスへ移動、散策 夜行バスでワルシャワへ (車内泊)
□5/3 早朝ワルシャワ到着、散策 午後の高速鉄道でクラクフへ クラクフ泊
□5/4 ヴィエリチカ岩塩坑ツアー参加、クラクフ市街散策 クラクフ泊
■5/5 アウシュヴィッツ&ピルケナウ訪問 夕方の高速鉄道でワルシャワへ ワルシャワ泊
□5/6 早朝ワルシャワ散策 午後の便でヘルシンキ経由成田へ (機内泊)
□5/7 成田着
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《第2次大戦終結から70年、新しいヨーロッパのカタチ 目次》
①気温3℃、もうすぐ5月なのに雪が舞うヘルシンキ
http://4travel.jp/travelogue/11001248
②中世の街並みには青空が似合う! @タリン
http://4travel.jp/travelogue/11005555
③エンジ色の迷路 @リガ
http://4travel.jp/travelogue/11006315
④記録より記憶に留めたい風景 @十字架の丘
http://4travel.jp/travelogue/11008788
⑤70年ではなく24年。祈りのまちヴィリニュス
http://4travel.jp/travelogue/11008789
⑥中央広場はまるで大都会! @クラクフ
http://4travel.jp/travelogue/11009103
⑦いま、ホロコーストの悲劇を”日本人として”学ぶ意味 @アウシュヴィッツ&ビルケナウ
http://4travel.jp/travelogue/11009092
⑧「壁のひび一本に至るまで」 ショパンが愛したワルシャワ
http://4travel.jp/travelogue/11009041
【参考書籍】
○諜報の天才 杉原千畝 (著)白石仁章
○新訂増補版 アウシュヴィッツ博物館案内 (著)中谷剛
○ホロコースト ―ナチスによるユダヤ人大量殺戮の全貌 (著)芝健介
○夜と霧 新版 (著)ヴィクトール・E・フランクル
○アンネの日記 (著)アンネ・フランク
○ショパン (著)遠山一行
【参考映画】
○シンドラーのリスト
○戦場のピアニスト
○日本のシンドラー杉原千畝物語 六千人の命のビザ
○ライフ・イズ・ビューティフル
※+αとして、かもめ食堂(ヘルシンキといえばコレ)
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 交通
- 3.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 高速・路線バス 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
アウシュヴィッツへはクラクフからバス・鉄道でアクセスできます。
駅からは歩くので、私はバスを選択。
7:50発のオシフィエンチム・ミュージアム行きに乗りました。
アウシュヴィッツはドイツ語であり、ポーランド語ではオシフィエンチムです。
2時間近く乗りますが、運賃は12ズウォティ(400円弱?) -
発車時間がよくわからなかったので7時過ぎにバスターミナルへ着いたら
次のバスは7:50発車だといわれ、パンとカプチーノで朝食を取りながら待ちました。
到底バスとはいえない
この小さな車でしたMDA バスターミナル (クラクフ) バス系
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渋滞に巻き込まれることなく、9時過ぎには到着。
逆に鉄道は大幅に遅れていたようです。珍しく勘が冴えた模様
ミュージアムの少し手前で降ろされるので歩きますが
案内に従っていけば大丈夫ですオシフィエンチム (アウシュヴィッツ第一強制収容所) / アウシュヴィッツ博物館 建造物
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ミュージアムのすぐ手前で撮影
おびただしい数の国名が書かれています。
要するに、それだけいろんな国の方がここへ連れてこられ、そして命を落としたということ。オシフィエンチム (アウシュヴィッツ第一強制収容所) / アウシュヴィッツ博物館 建造物
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アウシュヴィッツ・ミュージアム
唯一の日本人ガイド・中谷さんに事前に申し込み、ガイドいただきました。
GWということもあってか、この日の参加者は20人!
鉄道で来た方が遅れたため、10:00スタート予定が10:30頃になりました。
前日ヴィエリチカの英語ツアーでお会いした方も何人かいましたオシフィエンチム (アウシュヴィッツ第一強制収容所) / アウシュヴィッツ博物館 建造物
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大きい荷物は有料で預けないといけないので
中谷さんの著書とメモ用の手帳だけ持って入場。
ARBEIT MACHT FREI「働けば自由になる」という有名な門から入ります。
収容者たちは、毎朝この門をくぐり、重労働を終えてクタクタになって
毎晩この門をくぐっていましたオシフィエンチム (アウシュヴィッツ第一強制収容所) / アウシュヴィッツ博物館 建造物
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収容所の外周には有刺鉄線が張られ、高圧電流が流されていました。
むろん、脱走を防ぐためです
絶望のあまり、自ら手を触れて感電死することを選ぶ被収容者もいたとか。。オシフィエンチム (アウシュヴィッツ第一強制収容所) / アウシュヴィッツ博物館 建造物
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被収容者が植えさせられたポプラの木
第2次大戦は、1939年9月にドイツが電撃的にポーランドへ侵攻したことで始まりましたが、
そもそも何故ドイツはポーランドへ侵攻したのか?
そもそもポーランドとはどんな国なのか、
日本人はあまり具体的なイメージを持っていないと思いますが
当時のドイツもいわゆる西欧中心主義で、同じ考え方だったとされます。
よくわからない、だから自分の物にしても問題ないと思って侵攻したものの
当然ながら侵攻される側が納得するはずがなく、ポーランドは激しく抵抗しました。
もともと、このアウシュヴィッツはそんな抵抗勢力に加わって逮捕された
ポーランド政治犯が収容される場所でした。オシフィエンチム (アウシュヴィッツ第一強制収容所) / アウシュヴィッツ博物館 建造物
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ところどころに、当時の風刺画が展示されています。
これは生還した被収容者の証言に基づいて再現した絵だったと思います。
新たな収容者が送還されてくるのを見越し
彼らの収容スペースとなるバラックを建設するために重労働を課せられている
収容者の姿です。
ナチスがカモフラージュで描かせた絵は全然違った描き方になっているから
注意だとガイドされました。オシフィエンチム (アウシュヴィッツ第一強制収容所) / アウシュヴィッツ博物館 建造物
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右奥はARBEIT MACHT FREIの門ですが
この建物の前に囚人のオーケストラ団員が集められ、毎朝マーチを演奏していたとか。
むろん、ナチスの指示です。
そうやってカモフラージュを行い、国際世論が収容所に批判的になるのを巧みにかわしていたようです。
団員たちは、ナチスの言うがままに演奏を続けることが、唯一の生存可能性を残す術でした。
同胞のユダヤ人が過酷な労働現場へ駆り出されるのを見届けるのは辛かった、
と証言した生還者の方がいたと記憶しています。オシフィエンチム (アウシュヴィッツ第一強制収容所) / アウシュヴィッツ博物館 建造物
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第2収容所、ビルケナウのガス室の模型です。
脱衣所で服を脱がせ、そしてシャワー室と称したガス室へ閉じ込め、
ナチス隊員が殺虫剤のチクロンBを投げ込む。
数分以内には全員が窒息死し、その死体は焼却炉へ運ばれ、燃やされる―。
到底、血の通った人間がすることではありません。
実際のところ、ナチスは死体の処理をせず、ユダヤ人にやらせていました。
そんな酷い任務に就かされたユダヤ人自身も、いずれは殺される運命にあったわけです。オシフィエンチム (アウシュヴィッツ第一強制収容所) / アウシュヴィッツ博物館 建造物
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チクロンBの空き缶の残骸。
製造メーカーからの納品書も残っていたそうです。
1日に最大で数千人をガス殺するという非人道的行為に歯止めが利かなかったのは、
ナチス自らが死体の処理のような「人間の死」を直視する行動から逃げたことが
背景にあったという説があります。
どんなにユダヤ人が憎かろうと、どんなにヒトラーの命令が絶対だろうと、
普通の人間ならば、人を殺すということに抵抗があるのが当然であり、
まして毎日数百人、数千人を流れ作業のように殺していくなど
有り得ません。
当時、文化水準が高かった先進国ドイツで、なぜこのような残虐行為が行われたのか?
日本人として、これは他人事なのか?オシフィエンチム (アウシュヴィッツ第一強制収容所) / アウシュヴィッツ博物館 建造物
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義足が残っていることから
障害者も容赦なくガス殺の対象となったことがわかります
むしろ、ナチスからすれば障害者は「働けない(=役に立たない)人間」と見做され
真っ先に生きる価値を否定される位置付けでした
そのほか、被収容者の靴や髪の毛も展示されています。
個人的に一番印象に残ったのは、あの髪の毛でした。
撮影は控えるよう言われたので、写真はありませんが。オシフィエンチム (アウシュヴィッツ第一強制収容所) / アウシュヴィッツ博物館 建造物
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バラックの模型
三段ベッドに、寝返りも打てないほど多くの人が詰め込まれていました
そもそも、ユダヤ人という人種など存在しないのに
ナチスが勝手に定義を決め、人々を枠にはめて管理し、
アーリア人ではない、自分と異なる人間を排斥しようという考え方になったのが
本質的な誤りだったのではないか、という説明でした。
グローバル化が進み「自分と異なる人間」と接する機会が増える中、
一つ考え方を間違うと、私たち自身がナチスと同じ思考回路になる危険性もはらんでいます。
といっても、教科書を読むだけではそこまで思いを巡らせるのは難しく、
だからここまで来て現場を見る意味があるし、それによって意識も行動も変わる、
現代を生きる日本人として、そういう物の見方で歴史を学ばなければならない―。
中谷さんの言葉が一つ一つ重みを持って感じられました。オシフィエンチム (アウシュヴィッツ第一強制収容所) / アウシュヴィッツ博物館 建造物
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「死の壁」
隣接する建物で有罪の判決を受けた被収容者は
ここに連れてこられ、銃殺されました
今でも献花が絶えませんオシフィエンチム (アウシュヴィッツ第一強制収容所) / アウシュヴィッツ博物館 建造物
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黒い木の壁が取り付けられているのは
被収容者から死刑執行が見えないようにするためですオシフィエンチム (アウシュヴィッツ第一強制収容所) / アウシュヴィッツ博物館 建造物
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アウシュヴィッツ強制収容所元所長、ルドルフ・ヘスは
戦後、戦争犯罪人として裁かれ、ここで処刑されました。
この敷地内で、妻・子供と一緒に暮らしていたそうです。
すぐ目と鼻の先で、毎日おびただしい数の
罪もないユダヤ人が殺されていたにもかかわらず。オシフィエンチム (アウシュヴィッツ第一強制収容所) / アウシュヴィッツ博物館 建造物
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多くの人が殺されたガス室。
戦後、再現された建物だったと思います
ナチス・ドイツの暴挙は、紛れもなく民主政治の中で生まれたものです。
北朝鮮のような、一指導者の独裁で行われたものではありません。
当時のドイツ国民がナチスを支持したのも事実ですし、
ヒトラー1人がすべて指示を出したわけでもなく、ナチスが組織的にユダヤ人虐殺の
仕組みを作り上げました。
そう考えると、現代の民主政治においても同じことが起こる可能性はありますし
そうならないよう、民主政治が本当の意味で機能するよう、私たち一人ひとりも
考えて行動しなければならないということです。オシフィエンチム (アウシュヴィッツ第一強制収容所) / アウシュヴィッツ博物館 建造物
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遺体を焼いていた焼却炉
もともと3台ありましたが、残っているのはこの2台オシフィエンチム (アウシュヴィッツ第一強制収容所) / アウシュヴィッツ博物館 建造物
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無料バスで、第2収容所ビルケナウへ移動しました。
あまりにも被収容者の数が増え
第1収容所のアウシュヴィッツだけでは足りなくなったため、
5kmほど離れたこの広大な土地が利用されました。
収容所の中へと続く線路の引き込み線は今でも残っています。
『白い巨塔』や『シンドラーのリスト』でもロケ地として使われ
あまりにも有名ですビルケナウ (アウシュヴィッツ第二強制収容所) 史跡・遺跡
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こちらは博物館ではなく、当時のままの姿が残されています
本当に広い場所にバラックが点々と立っていますビルケナウ (アウシュヴィッツ第二強制収容所) 史跡・遺跡
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奥の建物は監視塔です。
「この門をくぐったら、お前たちの出口は煙突だけだ」
と言われた被収容者もいたとか。
殺され、死体を焼かれ、灰となって煙突から出ていくしかない、
そういう意味でしょう。ビルケナウ (アウシュヴィッツ第二強制収容所) 史跡・遺跡
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被収容者は、この貨車に詰め込まれて遠方から連れてこられました。
降ろされると、労働者として使えるか否かを見た目だけで判断されました。
戦争末期はビルケナウの収容能力を遥かにオーバーするユダヤ人が連行されたため、
約70%は強制的に使えないと判断され、到着してすぐにガス室送りにされました。
とりわけ、女性や子供がその対象となりました。
有名な「アンネの日記」の著者である当時14歳のアンネ・フランクも
このビルケナウへ連れてこられましたが、労働者として使えると判断され
ここでガス殺されることはありませんでした。
しかし、やがて衛生状態が極度に悪かったとされるベルゲン・ベルゼン収容所へ移送され
そこでチフスに罹り、短い生涯を終えることになります。
戦争が終わる僅か数か月前のことでした。ビルケナウ (アウシュヴィッツ第二強制収容所) 史跡・遺跡
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戦後、復興のために木材が必要とされたため
多くのバラックは解体され、残っていませんビルケナウ (アウシュヴィッツ第二強制収容所) 史跡・遺跡
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ガス室の残骸
敗色濃厚となったナチスは、戦争犯罪の証拠隠滅のため
ガス室一帯の爆破を試みましたが、ソ連が予想以上に早く到着したため
すべてを処理することができませんでした。
ここは脱衣所。
自分の荷物に名前を書いておけ、と指示されたそうです。
後でここへ戻って来れると信じさせるためでしょう。ビルケナウ (アウシュヴィッツ第二強制収容所) 史跡・遺跡
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ガス室の残骸 その2
天井にはシャワーが付いており、また石鹸を持たされたともいいます。
本当にシャワーを浴びるのだと思わせるためでしょう。
出てきたのはお湯ではなく、水でもなく、毒ガスですビルケナウ (アウシュヴィッツ第二強制収容所) 史跡・遺跡
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ガス室の残骸 その3
焼却炉があった場所
近くの池には遺骨が投げ込まれましたが、あまりに犠牲者が多く入らなくなったので
穴を掘って埋めたとか。
血の通った人間がやったとは到底信じられませんが
わずか70年前の話ですビルケナウ (アウシュヴィッツ第二強制収容所) 史跡・遺跡
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右前方を歩いているのが、ガイドの中谷さんです。
ビルケナウ (アウシュヴィッツ第二強制収容所) 史跡・遺跡
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被収容者が寝かされていたバラック
ビルケナウは湿地帯に無理やり建てられていたので環境も悪く、
隙間風が入り込んだことから真冬は耐え難い寒さになっていたようです。ビルケナウ (アウシュヴィッツ第二強制収容所) 史跡・遺跡
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食事の調理場。
過酷な重労働と比べると恵まれた環境だったため、人気があったようです。
被収容者に与えられた食事は、わずか1,000カロリー/日。
また被収容者の中でもレベルが分けられており、ユダヤ人は最下層に位置付けられ、とりわけ過酷な状況に置かれていました。
栄養失調で働けなくなったら?ガス室送りです。
収容できないほどの人が送り込まれてきていたわけですから、労働不能になった人間を生かしておく理由などなかったのでしょう。
生体実験に使われたユダヤ人もいました。
「実験中に被験者が死んでしまったので、追加で5人欲しい」とほざいた医者がいたという記録も残っています。ビルケナウ (アウシュヴィッツ第二強制収容所) 史跡・遺跡
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労働前の朝と労働後の晩にだけ使えたトイレ
仕切りも何もなく、男女も分けられていません。
被収容者がもはや人間として扱われていなかったことを物語っていますビルケナウ (アウシュヴィッツ第二強制収容所) 史跡・遺跡
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何の罪もなかったのに生きたくても生きられなかった人、
最期は人間らしい生活すらできずに命を落とした人が
わずか70年前、この収容所だけで百万人以上いたという事実。
こうして自由に旅行ができ、美味しいものを食べているという日常に
もっと感謝しなければいけないし、二度とあのような残虐行為が繰り返されないよう
まずは過去の事実を正しく知り、後世に伝えていく―。
そんな当たり前のことから始めていきたいと思いました。
知らないというのは怖いことです。
戦後70年という区切りの年、ここへ来られて良かった。
ぜひ、中谷さんのガイドで実際に現場を見ることをオススメしたいと思います。
14:25発のクラクフ本駅行きのバスで、帰路に着きました。
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⑧「壁のひび一本に至るまで」 ショパンが愛したワルシャワ へ続きます。
http://4travel.jp/travelogue/11009041ビルケナウ (アウシュヴィッツ第二強制収容所) 史跡・遺跡
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この旅行記へのコメント (2)
-
- milkさん 2015/08/11 22:33:33
- 近いうちに訪れたい場所です。
- aquamarine_324さん、こんばんは。
私の猫祭りの旅行記に投票頂きましてありがとうございました。
昨日から、ヨーロッパの旅行記を拝見させて頂いていました。
バルト3国、個人で周られたんですね!
私も近いうちに行ってみたいのですが、個人で行くには大変そうなのでツアーを検討しています。
十字架の丘はやはり圧巻ですね。
是非、自分の目で見てみたいです。
そしてこのアウシュビッツ強制収容所。
行くならば私も中谷さんのガイドで、しっかりと説明を聞きながら周りたいと思っています。
今回の私のヨーロッパ旅行ではアムステルダムにも滞在し、アンネの家にも行って来ました。
この過去は今まで怖すぎて目を向けられなかったのですが、これを機にやっぱり見ておこうと思いました。
中谷さんのガイドは公式HPから予約されましたか?
いつ行かれるかは未定ですが、行く時の為に教えて頂けると嬉しいです。
行きたい所が多過ぎて、本当にいつ行かれる事やら(^_^;)
milk
- aquamarine_324さん からの返信 2015/08/12 08:53:46
- RE: 近いうちに訪れたい場所です。
- milkさん
こんにちは。コメントありがとうございます。
纏まった時間が取れないのですが、少しずつ読ませていただいています。
ベルギーは学生時代から行きたいと言い続けて、結局他の候補地を優先し続けて早7年ぐらい経ちました。。
フランクフルトから近くて短期の休みでも行けそうなので後回しになっているのですが、、成田−ブリュッセルの直行便をANAが新設したようなので、この機にそろそろ行ってみたいです。
アムステルダムのアンネ・フランク・ハウスも、アウシュヴィッツ訪問の流れで、個人的にはできるだけ早く行かねばならない場所です。本当に「アンネの日記」に書かれている通りの造りだったというコメントをどこかで見ました。
バルトは個人旅行でも十分回れると思いますよ。
有名な観光地と比べて情報が絶対的に不足しているのが厄介ですが、それでもヨーロッパ(EU)なので実際に現地へ行ってみると交通網はしっかりしています。
ヴィリニュス→ワルシャワの国際夜行バスだけが不安でしたが、何も盗まれず、ぐっすり眠れて経費も浮いて、全く不自由ありませんでした。
中谷さんのガイドは、確か地球の歩き方に載っているメールアドレスに直接メールしたと記憶しています。
中谷さんの予定が確定するのが1ヶ月前ぐらいなので、候補日を2-3日取って旅程を組んでおいて、どこか1日うまく都合が合えばラッキー、という感じですね。
拠点となるクラクフは見るところがたくさんあるので、アウシュヴィッツ訪問含めて2-3日滞在しても退屈はしないと思います。
私も行きたい場所だらけですが、諸事情で、9月のシルバーウィークの予定は未だに立っていません。
今から航空券を取るのでは値段が高すぎて、どうしようか迷走中です。。
aquamarine_324
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