2015/02/02 - 2015/02/06
95位(同エリア321件中)
明石DSさん
恒春の朝
?自分で勝手口シャッターを開けてホテルを出たのは初めて
ホテル前で左手方向を写す
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2日目:2月3日(火):晴れ
恒春にて・猫鼻頭「潮音寺」・石門古戦場他へ行く
2015/平成27年2月3日(火)
■恒春(フォンチュン Hengchun こうしゅん)の朝
我が家で毎朝6時半頃起床している。だから台湾時間5時過ぎに目が覚める。時差1時間なのでどうってこないが、これが時差5時間とかそれ以上ならどんな状態になるのか?と、思えば10年前の2005/平成17年10月に「トルコ」に行ったが7時間の時差もあんまり苦になった記憶はない。
http://4travel.jp/travelogue/10056717
この「隆?旅客之家」は朝食付きだが、一枚40元の朝食券を二枚もらって斜め向かいの食堂「包手」に食べに行く。ホテルの玄関はシャッターが閉まったままで横の通路の先にある小さなシャッターを自分で開けて出て行った。店は5時半開店でメニューはホントに豊富。中華風からサンドイッチ等の種類も多く、なんでもありの弁当屋だった。店内でも食事が出来る。
美味そうな焼飯とサンドイッチ、それに豆漿(ドゥジャン Doujian 豆乳)が今朝の私の朝食。合計60元ちょっとだったがお釣はない。味も良くてこれなら日本で開店しても十分流行る。客も次々と来店し店員も多く手際よくさばいている。いろんな年齢の男女がここで弁当を買って勤めに出て行く、出勤風景の一部だろう。恒春のいつもの朝が始まっている。恒春で一押しの店だが営業は午前中だけのようだった。
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午前6時26分の恒春の表通りの風景
まだ車も人も多くなく朝の喧騒はない
大都会ではなく恒春古城、朝の静けさ -
通りを挟んで斜め前の「包手」で朝食を食べる
「40元×2枚=¥80元」の朝食券を手にして
一体そこには何があるのか?行ってのお楽しみ -
食べてみるまで味は分らず
とりあえず豆漿は飲む
焼飯とサンドウィッチ
美味い、旨い、文句はない
これにスープは飲み放題 -
お持ち帰りがメーンの弁当屋?と言う感じ
でも「包手」最高、メニューは中華西洋
サンドウィッチ何でもあり。選ぶのに苦労 -
次から次ぎと、ひっきりなしに客が来る
これなら弁当自分で作るより
ここで買って行ったほうが楽で美味しい
残念ながら営業時間は午前中だけのようだった
恒春行くならここで朝食を食べずになんとする -
恒春早朝散歩
「?屏東懸政府警察局恒春分局」
警察らしからぬなかなか瀟洒な建物だ
恒春古城中心部
https://www.google.com/maps/@22.002904,120.744832,3a,75y,119.92h,88.2t/data=!3m4!1e1!3m2!1sYFOZnxjYHhFY9Wvyj5z_QQ!2e0?hl=ja-JP
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■恒春早朝散歩
タクシー包車は8時出発なので、食後そこらを散歩した。恒春古城は警察・消防署・恒春転運站(バスターミナル)が街の行政の中心部。ここより北側が賑やかだ。朝早くから肉屋が店の前に置いた長さ2.5メートルくらいの木の台上で大きな豚を一頭捌(さば)いていた。内臓などはなかったが丸ごと一頭、頭から尻尾まで四本の足もある。
こんな光景を見たのは初めてだが、豚一頭の肉の量の多さに驚いた。そうか人間の餌になるために生まれ育てられ程よい頃に解体される。蚊を手で叩き殺すのも出来ない風を装い綺麗事ばかりほざいている偽善者連中をこの前に立たしたいなァ〜。これを前にして「可哀想」って白々しく言うのか?それとも目を背けて見ないのか?豚の顔は、そんな奴らの顔より余程美しい。
人間が一番残酷だってわざわざ言う気もないが、これが生きるってことの現実だろう。何がクジラを殺すな、イルカを保護しろだ。それぞれが勝手な能書きで自己満足しやがって。じっとこの前に立って豚の解体される姿を見ていろ。豚に同情などしないが素直に豚に感謝はする。「殺すか殺されるか」「食うか食われるか」それが生き物の現実世界だ。
人間はそれを国家と言う運命共同体の枠内で守り守られている。国家の枠を取っ払って地球市民・世界市民になればこの豚と同じになる。そこにあるのは「白・黒・黄、みんな同じ人間だ仲良く暮らそう」という綺麗事と真逆の弱肉強食の世界だ。自然界に暮らす動物世界も概ね同種・同族で群れをなし他種を受け入れない。
単独若しくは少数で生きるのは「虎・ライオン」のように他より圧倒的な強さがないと無理だ。国の存立は軍隊が根幹だ。軍隊のない国は自立は出来ない。日本は外国軍が駐屯し軍隊がない。自衛隊は軍隊ではない。ゆえに米国の保護国として属国から脱し得ない。そんな国と国民に誇りや名誉は元よりあるはずもない。
一頭の豚の肉の量の多さに驚いた。 -
消防署もこの美しさ
例え漢族といえど大陸支那と同じ民族とは言えぬ -
豚の解体ショー?これが日常の風景だ
これは大陸支那と同じだハハハ。
これを目の当たりにしてなんと言う
綺麗事しか言わない偽善者だらけの日本人よ -
初めて目にした豚一頭の解体
写真ではえらい薄っぺらいが
その場で感じたのは一頭の肉の量の多さだった
豚に生まれず人間に生まれてよかった
次に生まれ変わる時も人間でお願いします -
恒春観光に出発
半袖短パン姿、真っ赤な「フォルクスワーゲン」で登場の“Aさん”
「えっ?タクシーではないの?」と思ったが、良い人だった
約束の午前8時迎えに来てくれた。早速「鵝鑾鼻」へ向かう
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■恒春観光に出発
朝食と散歩を終えて部屋に戻り8時前に階下に下りた。すぐに赤い車が玄関前に停まった。タクシーはみんな黄色なのに真っ赤なワーゲンの乗用車「あれっ?タクシーではないのか」と思ったがホテルの紹介だし料金もはっきりしているので不安はなかった。
運転手は44歳独身“Aさん”母親は随分前(50代)に先立ち、親父さんも昨年75歳で亡くなった。去年は父親の介護で大変だったそうだ。半ズボン半袖のいでたちだった。趣味は釣り、魚の名前は分らないが100キロを越える大物を釣った経験があるらしい。
行き先の地図や資料を見せて私が決めていた順番通りに行ってもらうことになった。①鵝鑾鼻(がらんび)岬・②潮音寺(猫鼻頭岬)・③明治七年討番軍本營地・④琉球藩民墓・⑤石門古戦場。
早速、鵝鑾鼻岬へと向かって走った。20分も走らないうちに墾丁市街へ入る。街並みを抜けると広い車線で素晴らしい道路が岬に向かっていた。シーズンでないからか走っている車は少ない。“Aさん”は最初の観光として私の知らなかった「船帆石」の前で停まってくれた。
船帆石とは・・・。
http://www.dbnsa.gov.tw/user/Article.aspx?Lang=3&SNo=05002190
『これは陸地(台地)から海中へ転落して形成された珊瑚礁岩で、遠望すれば出帆をする帆船に似ている為に斯く命名をされたもの。又、近くで眺めると恰かもアメリカの前大統領ニクソンの横顔に見えるとの事で、ニクソンの頭の別名あり。 』
そう言われれば「ニクソン大統領」に見えなくもないハハハ。 -
墾丁の象徴ともいえる大尖山(ダァジィェンシャン Da jianshan)
“Aさん”は「大尖山は墾丁の富士山」だと言っていた。
大尖山(標高318m)は見る方向に寄って山の形がコロコロ変わる。 -
午前8時18分撮影
ホテル前から20分で墾丁街へ -
「船帆石」
“Aさん”が気を利かして案内してくれた
言われれば「ニクソン大統領」に似ている -
ラフな格好の“Aさん”
「えっ?仕事」って思うけど
ええ人でした
https://www.google.com/maps/@21.933492,120.823687,3a,75y,162.86h,78.28t/data=!3m4!1e1!3m2!1sGX4D3hYippAjPZzxv2rk6Q!2e0?hl=ja-JP -
鵝鑾鼻公園
台湾最南端、鵝鑾鼻公園入り口
戦時中、米潜水艦の攻撃で撃沈され
犠牲となった日本軍兵士、邦人が
この岬に流れ着いた
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■鵝鑾鼻公園
https://www.google.co.jp/maps/@21.9024931,120.8535468,17z?hl=ja
船帆石から5.6分で鵝鑾鼻公園に到着。ここは門票¥40元。“Aさん”には待ってもらって一人で入場門をくぐった。公園は緩やかな斜面に芝生が広がり左方向高台に白い鵝鑾鼻燈台が岬のシンボルに相応しい趣で建っている。1883年英国人により建てられ当初は砲台も備えていたそうだ。その後、1898/明治31年日本が修復し、大東亜戦争末期空爆で破壊されたが戦後修復して今に至っている。
燈台は外から眺めただけで中に入らずバシー海峡を見よう!と海岸に向かった。70年前の1945年、終戦までの一、二年の間にこの海峡で日本軍輸送船・商船が米軍潜水艦の餌食となり日本軍兵士だけではなく多くの邦人も犠牲となった。そしてサイパン・グアム・フィリピンなどへ送られる満洲の関東軍精鋭部隊が戦うことなく武器と共に波間に沈められた。その無念はあまりある。
バシー海峡での犠牲者の数は10万〜25万人と実数は不明だ。制海権、制空権とも敵の手に渡り、なすすべもない状況の中で日本は南方に兵員物資を送らねばならなかった。そんな輸送作戦を愚かだと切って捨てるのは簡単だが、それでも送り続け戦い続けるのが日本であり日本人だ。私は「愚か」などと決して思わないし言うつもりもない。
戦争に不条理は数多(あまた)あり、平和時にはその全てが「愚か」とも言われるのが戦争だ。当時の輸送作戦を立案作成した参謀たちも冷酷無比無能な人間ではない。戦後、国ともいえぬ北朝鮮に数多くの同胞を拉致されながら放置したままの今の日本と日本人こそが有史以来最も恥知らずの愚かな国家であり国民だ。
バシー海峡だけではなく大東亜戦争を通じて撃沈された商船の数も半端な数ではない。「戦没した船と海員の資料館」によれば『官・民一般汽船3,575隻:機帆船2,070隻:漁船1,595隻:合計7,240隻』『戦没船員数:60,331名』とある。 http://www.jsu.or.jp/siryo/
そしてここにも『1941年から1945年にかけて、日本がアメリカ・イギリス・オランダ・中国など、世界の多くの国と戦った第二次世界大戦は、こうした認識を忘れた無謀な戦争だったのです。』との注釈が書かれている。「無謀な戦争」と断じるなら、あの時どうすれば良かったのか?まずそれを示せ! -
門票40元
バシー海峡でなにがあったのか?
ここに来るまで、ほとんど知らずにいた
「愚者は経験に学び賢者は歴史に学ぶ」というが
経験極少歴史を学ぶも至らずあの世かな -
良く整備された綺麗な芝生が広がり
バシー海峡が一望できる素晴らしい公園だ -
白亜の燈台ここにもあり
1883/明治16年英国人により建てられる
1898/明治31年日本が修復
大東亜戦争末期空爆で破壊
戦後修復して今に至る -
鵝鑾鼻岬の海岸にて
?海岸沿いには木製桟橋の遊歩道が整備され歩きやすい
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■鵝鑾鼻(オウランビイ Eluanbi がらんび)岬の海岸へ
燈台から海岸への道は公園遊歩道として美しく整備されどっちから行っても周回できるようになっている。2分ほど歩けば目の前にバシー海峡が広がり右方向に猫鼻頭(マオビィトウ Maobitou まおびとう)岬が延びている。
「慟哭の海峡」には当時少年少女で今は台湾の老人が語るには、「米軍飛行機が泳いでいる日本兵に向かって銃撃しているのを見た」「流れ着いた遺体の火葬を手伝った」「生きて漂着した兵士をしばらく家で休ませ、その後軍隊の車で運んでいった」「日本の警察は厳しいから軍人が流されてきたと知らせたらすぐに駆けつけて来た」等々多くの逸話が書かれている。
鵝鑾鼻岬の海岸から波打ち際まで行こうと遊歩道の桟橋から岩場に降りると、岩場の表面はガラスのように尖っている。「珊瑚礁石灰岩」の海岸とあるが、この岩場を歩くには安全靴と丈夫な皮の手袋が必要だ。
何名かの釣り人がそれぞれ間隔を空けて釣をしていたが、準備万端で来ているのだろう。ちょっとバランスが崩れて岩場にほんのちょっと手を付いたらガラスで切れたかのように指先を傷つけ出血した。こんなところでひっくり返ったらたまったものではない。兵士たちも無事に海岸に漂着してもここでは上陸するのに弱った体力では体中が傷つきそうだ。他に砂浜の広がっているところもあるようなので・・・。
「慟哭の海峡」では、二人をこの本の主人公として取り上げている。その一人がこの海峡で戦死した柳瀬千尋(やなせちひろ)海軍少尉。柳瀬少尉(京都帝大:大正10年生、享年23歳)はアンパンマンの作者:柳瀬崇(やなせたかし)の弟。京都大学の学生だった柳瀬は徴兵延期が停止され召集されて陸軍へ行くよりと海軍に志願したようだ。そして昭和19年5月、海軍対潜学校を卒業し若竹型二等駆逐艦「呉竹(くれたけ)」に乗り組む。
柳瀬の役割は対敵潜水艦探知室(水測室)で敵潜水艦の音を聞き分ける対潜戦争において要の任務。その水測室は船底に近く敵の魚雷攻撃を受ければ機関室同様助かる可能性は低い。昭和19年12月30日バシー海峡に於いて敵潜水艦爆雷作戦中、無念にも敵魚雷を受け撃沈された。
一本はかわしたが二本目が艦橋の前に命中、弾薬庫に誘爆し船の前部が吹っ飛んだ。およそ180人の乗組員のうち助かったのは18名だけだ。
若竹型駆逐艦は八隻が就航したが、若竹(わかたけ)・呉竹(くれたけ)・早苗(さなえ / さなへ)・早蕨(さわらび)沈没・朝顔(あさがお / あさがほ)浸水着底・夕顔(ゆうがお / ゆふがほ)・芙蓉(ふよう)・刈萱(かるかや)以上8隻の内、6隻は敵の攻撃を受け戦没。
早蕨は台湾海峡荒天により転覆沈没。朝顔は唯一終戦時に健在だったが8月22日関門海峡で触雷し浸水着底。全艦姿を消した。
全艦姿を消したということは、当然だが多くの艦艇乗組員も共に戦没したことになる。大東亜戦争はその戦域があまりに広大であり戦死者数も不明確だ。阪神淡路大震災で死者「6,434」行方不明「3」計6,437、東日本大震災では死者「15,889」行方不明「2,594」計18,483人が還らぬ人となった。
毎年その時期が来ればすべてのメディアが取り上げ慰霊祭は盛大に行われている。そして、今年は戦後70年を迎えるが今一度日本人はこの壮絶な戦いの犠牲者に、もう少し思いを馳せるべきではないのか・・・。
ガラスの突起に覆われたような岩場を恐る恐る波打ち際まで行き、打ち寄せる波を片手ですくい口に含んだ。思ったより塩辛い。こんな海水を大波を被るたびに何度も飲み込んだらたまったものではない。漂流中の辛酸は体験者でないと分らない。鵝鑾鼻岬でバシー海峡を前にして手を合わせ犠牲者のご冥福を祈る。
この海岸からも墾丁の象徴ともいえる大尖山(ダァジィェンシャン Da jianshan)がくっきり見えていた。大尖山(標高318m)は見る方向によって山の形が変わる。“Aさん”は「大尖山は墾丁の富士山」だと言っていた。この鵝鑾鼻公園には8時半頃から9時半まで一時間ほどいた。いくら天気が良くてもさすがに100km先のフィリピンの島影は見えない。 -
前方に猫鼻頭岬が延び
バシー海峡が広がる -
桟橋遊歩道から岩場に降りたら
岩の表面はガラスの突起のようで危険を感じた
この岩場は安全靴と皮手袋が必要だ
良くぞ“こけず”に歩けたと思う -
墾丁の象徴:大尖山(ダァジィェンシャン)
ここから見れば三角錐 -
ささやかな慰霊
この岩場は今思い出してもヒヤッとする
ちょっと手を付いたら指先から出血した
ここに疲労困憊(ひろうこんぱい)流れ着いても上がれない
無理して這い上がれば体が傷だらけになる -
快晴でも100km先のフィリピンの島影は見えない
この海峡で一年くらいの間に10万人以上25万人とも言われる
多くの日本軍兵士・台湾朝鮮人及び邦人がなくなった
我64歳にして初めてバシー海峡を眺める -
猫鼻頭岬、潮音寺
?地図やグーグルアースの写真をプリントして持って来ていたが
“Aさん”は無論、地元の人でも潮音寺のことは知らない
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■猫鼻頭岬、潮音寺に向かう
鵝鑾鼻から猫鼻頭に向かった。右手に大尖山を見ながら車は走り20分ほどで猫鼻頭の目的地:潮音寺附近に来たが場所が分からず“Aさん”が一軒の店に入って聞いた。聞いたのは60代くらい?の男性だったが「潮音寺」の存在をはっきり知っているようではなかった。
地図を見せて場所を確認し、その場所へと車を走らせた。猫鼻頭の突端を東から西に走る道でバシー海峡を左に見ながら西に向かった。そして地図の通り右に一本の道があり「ここなのでは?」と道の奥を見れば正面に「潮音寺」が見えた。「ここや!」と私は“Aさん”に叫び車を停めてもらった。車を降りその道を真っ直ぐ潮音寺に向かった。
迷うことなく来れた。これもお導きだと感謝する。この潮音寺は常在の管理人もいなく普段は鍵が掛かっている。敗戦まで日本人であった台湾人郭徳発(かくとくはつ)氏のHPには前もって連絡すれば高雄市から鍵を開けに来てくれるという案内頁があるが、内部は見れずとも来るだけで十分だった。
http://kakutokuhatsu.katakura.net/choonzi.html -
この道を右に曲がって真っ直ぐ走れば
右手方向路地の正面奥に潮音寺が見える
https://www.google.com/maps/@21.934192,120.745503,3a,75y,216.68h,97.83t/data=!3m4!1e1!3m2!1sifc5grN2w3hi0JGwkFkADA!2e0?hl=ja-JP -
車窓から見えたので「ここや!」と叫んだ
でないとそのまま通り過ぎるところだった
https://www.google.com/maps/@21.928082,120.737874,3a,75y,339.65h,85.03t/data=!3m4!1e1!3m2!1soKfvnDE1TyUpO4engv8Lng!2e0?hl=ja-JP -
潮音寺
1981/昭和56年8月潮音寺の落慶法要が営まれた
潮音寺に常在の人はいない
一時取り壊しの危機があったが
裁判によって回避された
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潮音寺を建立した中嶋秀次氏
今回の旅のきっかけが「慟哭の海峡」門田隆将(著)との出会いであり、その主人公の中嶋秀次氏が建立した潮音寺参詣が旅の目的となった。中嶋氏は柳瀬千尋少尉と同じ大正10年生まれ、文学好きの青年だった中嶋だが徴兵猶予を辞退し真珠湾攻撃の二ヵ月後独立歩兵第13聯隊に入隊。
駐屯地は内蒙古・厚和(こうわ 現フフホト・呼和浩特)。通信隊の無線班に所属していた。
昭和19年8月南方への転戦命令で釜山から輸送船「玉津丸」に乗船。乗船前には漂水訓練をしたようだ。漂水訓練とは船の沈没に備えて「岸壁から飛び込んだり」「筏を組んで乗り組む」などの訓練をやったのである。
この玉津丸は1月に竣工しばかりの新造船だった。この9589tの大型揚陸母船の中にはドイツ製の大型戦車も4,50輌積み込んであったようだ。
そしてフィリピンに向かう昭和19年8月19日午前4時50分米潜水艦の魚雷が命中し被雷から四分間と言う短時間で水没した。
『短時間で沈んで脱出が難しかったうえ、孤立状態で沈んだため救助が遅れ、乗船者のほとんどが死亡した。戦死者は全乗船者4820人のうち約99%の4755人に上る。
内訳は、輸送中の安尾正綱大佐(独立歩兵第13連隊長)以下陸軍将兵4406人戦死、船砲隊208人中199人戦死、徴用船員138人中135人戦死などとなっている。』
助かったのは4820名中、65名。その中の一人が当時23歳の中嶋秀次上等兵である。
中嶋の漂流が始まった。
「漂流最初は筏の塊が出来50人ほどになった」「海水を飲む兵の小便の色は三日目から焦茶色に変わり尿毒症となり死んで行く」「無線班の後輩がSOSを打てず申し分けないと涙をこぼして謝っていた」「翌20日、救助船が来たが立ち去った」
漂流四日目
「七人くらいになっていた。顔は焦げ茶で火傷状態」「漂流五日目、次々狂い死に」「8月25日、漂流七日目に突入。中嶋は立てなくなる。残った三人のうちの一人が死ぬ」
「残ったのは中嶋と朝鮮人の軍属となる」「朝鮮人の軍属が死者の肝を食べようと中嶋に言う」「中嶋は断ったがその後意識をなくす。朝鮮人は食べたようで、それを後で知った中嶋は分け前をくれなかったことを罵った」
漂流9日目
「自分の足で立てなくなって三日が過ぎた」「一斗樽が浮いているのを見つけて泳いで取りに行き筏に上げる」「この樽が日除けになり命を永らえる」「漂流10日が過ぎ二人は言葉も発せられなくなった」「
漂流12日目
「駆逐艦より小さい海防艦の昭南に救助される」
「絵のごとし 水平線の空白に 艦(ふね)ひとつありて われに向いく(中嶋作)」
「朝鮮人は死後硬直が始まっていた」「苦労して筏に上げた一斗樽が発見の決め手となった」
最初50人くらいだったこの漂流筏で助かったのは甲種合格ではなく乙種で入隊した中嶋上等兵一人だった。中嶋氏は戦後旅行会社に就職しバシー海峡への慰霊の旅も手掛けるようになり、バシー海峡を前にして祈る遺族の姿を見て寺を建てることを考えた。
その後自らの精魂を傾け地元台湾の人や多くの協力を得て1981/昭和56年8月潮音寺の落慶法要が営まれた。2015/平成27年の今から34年前のことである。
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その潮音寺に来た。白亜の二階建て、遠目では住居のようだが前に観音菩薩像が建ち、二階ベランダ壁面に潮音寺の名前があった。玄関にはシャッターが降り無人だったが裏に回れば二階への階段がありベランダに上がれた。
正面に海が見える。海から5百メール以内に建物は建てられない法律があり潮音寺はそれを少し超えた場所にある。ベランダから屋上にも上がれた。屋上からは周囲にさえぎる物はなにもなく360度の眺望が開け樹林の向こうに鵝鑾鼻岬、大尖山、バシー海峡が広がる。寺は無人だが草も刈られ荒れ放題ではない。しかし裏側の倉庫は大分傷んでいた。
庭には「平和の祈念碑」「第二次世界大戦海軍巴士海峡慰戦没者慰霊碑」等があり、まだ新しい線香も手向けられていた。韓国の仏教法人が建立した碑もあった。大戦末期の短い間に10万以上25万人もの兵士・邦人がこの海峡で命を落とした。
3年前にフィリピン・マバラカットに行った時は、フィリピンでの戦死者数の多さに驚愕した。フィリピンでの戦闘は昭和19年9月以降から20年6月主力部隊壊滅までの一年足らずの間に「498,600人」が戦死している。白骨街道と言われたインパール作戦の戦死者は26,000人。 昭和12年から20年終戦まで八年間のシナ事変、大陸での戦死者「455,700人」
そして今回の旅を機にバシー海峡で亡くなった人の数に驚いた。何かを調べるたびに知らないことばかりに愕然とする。大東亜戦争はそれほど大きな戦いであり一丸となり精魂傾けて戦い抜いた。
この潮音寺建立の立役者、中嶋秀次氏が2013/平成25年10月21日92歳で亡くなられた。http://www.kadotaryusho.com/blog/2013/11/post_735.html
台湾の地に建てられた潮音寺の今後の維持は大変だと思う。潮音寺の行く末が日台関係の今後を表すことになるのだろう。
末永くこの地に存在していることを願う。デジカメ時間では潮音寺滞在は内部に入れないこともあってか?たった20分ほどだった。 -
前もって連絡すれば内部の参観も可能のようだが
連絡先
http://kakutokuhatsu.katakura.net/choonzi.html
潮音寺に来れただけで満足なり
雑草も刈り取られ荒れた感じはない -
右:「第二次世界大戦海軍巴士海峡慰戦没者慰霊碑」越しに潮音寺を写す
建物後部に倉庫があり、そこから2階ベランダ
そして屋上にも上がることが出来た -
屋上からバシー海峡を望む
潮音寺は法律により海岸から
五百メール離れたところに立っている
猫鼻頭岬「潮音寺」
https://youtu.be/I6C3_bjfCYk -
左手方向に鵝鑾鼻岬が見える
戦地へ着く前に海に沈んだ無念を思う -
猫鼻頭から見た大尖山(右)はこんな山
見る方向によって全然形が違う
https://www.google.com/maps/@21.922565,120.73774,3a,75y,216h,89.52t/data=!3m4!1e1!3m2!1sHwyeOufhExjfcl9jHiariQ!2e0?hl=ja-JP
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■猫鼻頭公園
当初の目的を達して次に最初は行く予定になかったが猫鼻頭公園に行った。潮音寺から車で2,3分で到着。鵝鑾鼻公園は有料だったが、ここは入場無料。それでも綺麗に整備されている公園で眺めも素晴らしい。
対岸には鵝鑾鼻岬がくっきり伸び大尖山が姿を変えて聳えていた。最近は大陸からの観光客も多いようで、この日も多くのそれらしき観光客で賑わっていた。
今は平和そのもので70年前にこの海岸に沢山の遺体が流れ着いている光景は想像しようにも出来ない。昭和20年8月に戦争は終わった。大東亜戦争の最前線で戦い散ったのは大正時代に生まれた日本男子がほとんどだった。生まれる時代も国も親も選べず。私自身も子も孫も戦争の当事者にはなりたくない。まことに情けないが、なる勇気も気概もない。
だから余計に、日本の誇りと名誉を守り、国家の自存自立を賭けて敢然と当事者となり戦い抜かれた先人には万感の敬意と感謝の想いで一杯だ。
公園の出口附近で法輪功の関係者なのか?大陸中共政府の弾圧を非難する掲示板を置きパンフレットを配っていた。私がパンフレット受け取ると何か話しかけてきた。それを見た“Aさん”が慌てて私の傍に来て腕を引っ張って離れるように促した。
大陸では出来ない活動が台湾では出来る。でも法輪功の実態とは如何なるものなのだろうか?分らない。 -
2月3日(火曜日)の猫鼻頭公園
多くの観光客が訪れていた
鵝鑾鼻公園は門票¥40元
こっちは無料、何で?
管理は行き届き美しい公園だった -
大陸からの観光客かも?
70年前と今と隔世の感あり
70年後は如何に・・・。 -
幾万人もの同胞がこの海峡に眠る
震災の慰霊はメディアも競って一色となるが
大東亜戦争の慰霊は今もってほとんどが関係者のみ
戦争に負けると敗戦国の国民は性根が腐るのか?
それは世界広しとえど日本だけのような気がしてならない
ご冥福を祈る!
サラバ巴士海峽 -
大陸からの観光客に対しての訴えなのだろう
法輪功弾圧への共産党批判の人たちの姿がここでもあった -
恒春に戻って
“Aさん”が「ここで食べよう」と来たけど
車を停めるところがなく諦めた
この場所は分からない
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■恒春に戻って
次の目的地は「明治七年討蕃軍本營地」、そこに向かうのには一旦恒春に戻ることになる。恒春に戻ったのは午前11時ごろだったが早昼を食べようと“Aさん”紹介の店に行ったが車を停める場所がなく、昼食は後回しで北に向かった。
その途中“Aさん”は車を停めて「檳榔、びんろう」を買った。この辺りでは檳榔を噛んでいる男をよく見かけた。一個もらって噛んでみたが美味しくはない。タバコのように精神に作用するのだろう。
日本でも近年タバコが敬遠され喫煙者は減ったが、こういった物はいつの時代もなくならない。タバコを悪玉に仕立て上げたために代わりに遥かに危険な脱法ドラッグが増え闇世界の大きな資金源になっている。
それならタバコをもっと許容し国家の税収としたほうが余程国家国民の益に適う。喫煙者は大幅に減ったが肺がんは昔より増えている。タバコ喫煙のタイムラグとか高齢者が増えたからといろいろ言われるが、昔はほとんどの日本人男性が吸っていたが肺がんは多くはなかった。すべてのガンはタバコより食生活が原因だ(私の推測信用無用)。 -
“Aさん”はずっと檳榔をしがんでいた
試しに一個もらってしがんで見た
しばらく噛んでいたが苦いだけでまずい
やっぱり口の中は真っ赤になった -
明治七年討蕃軍本營地
?明治七年討蕃軍本營地碑
地元の運転手“Aさん”も知らなかった
20メートル四方の広い敷地の真ん中に碑は建っていた
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■明治七年討蕃軍本營地
午前11時半頃、国立海洋生物博物館傍の「明治七年討蕃軍本營地」に着いた。ここも“Aさん”は分らず何人かに聞いて到着できた。恒春で観光客を案内する運転手でも潮音寺もそうだがここも知らないのが普通のようだ。もっとも日本人の私も旅の計画中に分ったことだが・・・。
明治維新から国内の大改革を始めた日本政府最初の海外派兵が1874/明治7年の/「台湾出兵」であり、日本軍は社寮(現在:射寮)に上陸した。この事件は「台湾征伐」「牡丹社事件」「征台の役」「台湾事件」などと多くの名称で呼ばれている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E5%87%BA%E5%85%B5
台湾出兵第一便の有効丸の乗組員が1874/明治7年5月8日上陸し最初の野営地としたのは四重渓と保力渓の二つの河川に挟まれた所だったが、冠水の恐れがあり3キロ南の亀山の南側に新に設営されることになった。
設営されたのは「明治七年討蕃軍本營地の碑」がある場所より南側の後灣村にあったようだ。新に設営された野営地には、限られた材木だが将校官舎や病院が作られ6月初め傷病者は病院に収容された。イギリス船の医師たちも日本の外科医の手当てを見て「見事なものだ」と高く評価している。
しかし『(ウィキペディア)日本軍の損害は戦死8名、戦傷25名と記録されるが、長期駐屯を余儀なくされたため、マラリアなどの感染症に悩まされ、出征した軍人・軍属5,990余人の中の患者延べ数は1万6409人、すなわち、一人あたり、約2.7回罹病するという悲惨な状況に陥った。』とある。
この碑は台座に記された文字は「昭和12年3月改修 恒春郡」と読めるが肝心の碑文は1945/敗戦後毀損され読めない。「本營地の碑」は亀山の南、博物館の東隣にあり 20メートル四方の囲いの中心に立っている。2013年に新しく『日軍「討蕃軍本營地」祈念碑起源』の碑も建てられた。
私がいる間誰も来なかったが今も整備保存されていることが台湾ならではと感謝したい。141年前の明治7年、この地に上陸した兵士たちもこの亀山や周囲の景色を目にしていた。そして、台湾出兵を調べるにあたり私は今まで知らなかった琉球と日本、琉球とシナの関係及び当時の世界情勢を知ることになった。 -
「牡丹社事件」日軍営址祈念碑
台湾出兵第一便の有効丸の乗組員が1874/明治7年5月8日
上陸し最初の野営地としたのは四重渓と保力渓の
二つの河川に挟まれた所だった
https://www.google.com/maps/@22.0607011,120.7092695,16z?hl=ja-JP -
この碑は1874/明治7年、西郷軍が撤退前に建立したが
その後清朝政府により破壊された
1914/大正3年再建し「昭和12年3月改修 恒春郡」とある
日本の敗戦によって碑文は毀損された
「台湾:文化資?個案導覽」
http://www.boch.gov.tw/boch/frontsite/cultureassets/caseBasicInfoAction.do?method=doViewCaseBasicInfo&caseId=TA10008000019&version=1&assetsClassifyId=1.2 -
亀山の麓にあった説明版によれば
日本軍駐屯場所は「本營地の碑」より
少し南側の後灣村にあったようだ -
右端に建つのが『日軍「討蕃軍本營地」祈念碑起源』の碑
https://www.google.com/maps/@22.046551,120.699914,3a,75y,257.31h,85.03t/data=!3m4!1e1!3m2!1sNb3icyfGrasxoDEsZxisbw!2e0?hl=ja-JP -
「征台の役従軍記」添付図より
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「台湾出兵」
「台湾出兵・大日本帝国の開幕劇」:毛利敏彦(著)より
台湾出兵の起因は1871/明治4年12月17日 宮古島の船が嵐で遭難し台湾南部(八瑤灣:はちようわん)に漂着。上陸時に3人溺死、66人が上陸するも牡丹社(ぼたんしゃ)と呼ばれた先住部族の襲撃にあい54人が殺害された。
かろうじて逃れた12人は、現地の清国人官民に保護され、翌1872/明治5年2月24日、清国福建省に置かれた琉球館に引き渡され、7月12日出航以来七ヶ月ぶりに那覇に帰還した。
そもそも琉球とは・・・。
14世紀、足利尊氏が室町幕府を開いた頃、沖縄本島では、山北(さんほく) 中山(ちゅうざん) 山南(さんなん)の三国が覇を争っていた。このころ大陸では元(げん)朝を倒して明朝(みんちょう)を開いた太祖洪武帝(こうぶてい)は周辺に使者を送って入貢(にゅうこう)をうながした。
これに応じた中山王:察度(さっと)は貢物をささげて明皇帝への忠誠を誓い琉球国 中山王に任命(冊封さくほう)された。北山王 山南王もこれにならった。
周辺国も朝貢して臣従すると見返りに国王として権威を付与するという従属関係のネットワークが放射線状に形成された。この前近代東アジア固有の国際秩序を「華夷(かい)秩序」と呼ぶ。これ以後琉球は華夷秩序の有力な一環となった。
ちなみに日本は室町幕府三代将軍足利義満のころに明皇帝に朝貢して一時的に華夷秩序に加わったことがあったが、まもなくこの関係は消滅して日本は華夷秩序から離脱した。
15世紀に入ると琉球では地方豪族の尚思紹(しょうししよう)とその子 巴志(はし)が中山王位を奪い、つづいて山北と山南を攻め滅ぼし、1429年琉球王国(中山王国)を統一し首里を都とした。これを第一尚氏王朝という。第一尚氏は七代で亡び、1469年尚円(しょうえん)が第二尚氏王朝を開いた。
この時期 琉球王国は明皇帝への朝貢行為と結合した貿易活動で繁栄した。これを進貢貿易と言う。
豊臣氏に替わって天下を掌握した徳川家康は1603年(慶長8年)江戸幕府を開くと秀吉の朝鮮出兵以来途絶したままになっていた明との国交を琉球の仲介で回復しようとはかり、薩摩の島津家久(いえひさ)に斡旋を命じた。
家久は琉球国王 尚寧(しょうねい)に明朝への仲介を求めたが、琉球側は宗主国明皇帝の意向をはばかって動かなかった。ここに琉球征服への絶好の口実を見いだした家久は、幕府の許可を得て1609年春進攻を開始し、一ヶ月足らずで奄美大島・徳之島・首里王城と次々に占領したので尚寧は降伏した。
戦後二代将軍徳川秀忠(ひでただ)は家久に琉球を与えて島津家の附庸(ふよう:属国)とした。家久は王国領のうちから北部の奄美諸島を割譲させて薩摩藩直轄とし、残りの地に形式的に琉球王国を再置して尚寧を国王に復帰させた。
ただし、王国の最高権力者は薩摩から派遣された在番奉行(ざいばんぶぎょう)であり、王府はその指揮監督下に置かれた。ここに琉球王国は薩摩藩に従属するいわば傀儡国家に転落したわけである。とはいえ薩摩藩主は琉球を意のままに支配できたわけではなく、国王の嗣立(しりつ)など重要事項は幕府の許諾を必要とした。
明治維新後の琉球は・・・。
1872/明治5年10月16日 明治天皇は琉球は日本と人種・風俗・言語・文化などが共通であるうえに長期間にわたって薩摩の支配下にあったからとして、琉球国王、尚泰(しょうたい)を琉球藩王に任命し、旧公卿や旧大名並みの華族に列した。ここに天皇と琉球藩王との直接の君臣関係が初めて成立した。
琉球王国は旧薩摩藩→鹿児島県の管轄から自立した琉球藩とされ、明治国家体制内に正式に位置づけられたのである。この措置も台湾出兵の名分つくりのためだったとの説もある。沖縄県史第一巻には『もともと琉球藩設置も明治政府が台湾出兵のための準備措置として大急ぎでおこなったものであった。』と記されている。
琉球が日本に属することを内外に示すことによって殺害を被った琉球民=日本国民のあだを討つための台湾出兵に理論的根拠を与えたのである。
このような上記説もあるが短絡化のきらいがある。史実はもっと複雑であり、もともと琉球藩設置方針は台湾出兵とは無関係に提起されたが、途中から両者が関係づけられるようになったのである。
琉球藩設置方針は台湾出兵問題とは直接に関係なく、いわば日本国家の統一、つまり近代国民国家として主権が及ぶ範囲である国家領域確定の観点から策定されたのである。
日本が明治維新によって前近代徳川国際秩序を清算し、近代国民国家としての自立を選択したからには、琉球民遭難事件があろうがなかろうが、琉球王国との関係を整理再編成して新国家体制内に位置づけ直す作業は、国家統一過程における一段階として遂行されるべくして遂行されたのであり、実際には琉球藩化の形をとったのであった。
こうした様々な経緯と維新後に揺れる国内問題噴出の中で台湾出兵が行われることになった。
明治10年勃発の西南戦争前、1874/明治7年西郷従道が率いた日本軍が社寮(現:射寮)に上陸し亀山に都督本営を置き、石門で三年前に宮古島島民を殺害した蕃人:牡丹社を征伐する目的で戦った。この戦いを「台湾出兵」と言う。
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石門古戦場
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台湾出兵の起因となった「宮古島島民遭難事件」は台湾のウィキペディアでは「八瑤灣事件」と紹介されており犠牲者と生還者の名簿やその者の職業も記されている。
http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E7%91%A4%E7%81%A3%E4%BA%8B%E4%BB%B6
名前を見れば沖縄風も多いが皆日本人の名前となっている。
その名前には私の知人でもある「下地」「島袋」という名前もあり、明治5年明治天皇が「琉球は日本と人種・風俗・言語・文化などが共通である」として琉球藩として正式に日本に編入したのは当然の成り行きだったのだろう。しかしながら今になって沖縄の政経メディア界は支那経済の躍進を受けてなのか?
琉球独立論も登場し、日本と支那と両天秤を掛けて日本の国益に損なう言動が多くなっている。琉球の正式な日本編入が1872/明治5年なら、それからまだ「2015−1872=143」と143年にしかならない。琉球の長い歴史を考えれば琉球、沖縄問題は今後も一筋縄ではいかないようだ。
「明治七年討蕃軍本營地」の碑は海洋生物博物館の東端にひっそりとあった。亀山の麓でもある。日本軍が上陸したのはこの戦いに従軍記者として帯同した米国人エドワード・ホワード・ハウス(Edward Howard House)が書いた「征台の役従軍記」によれば・・・。 http://www.japanusencounters.net/house_1.html
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「征台の役従軍記」
エドワード・ホワード・ハウス(Edward Howard House):アメリカ人従軍記者(著)
1874/明治4年5月5日
台湾出兵第一便の有効丸は1874/明治4年5月5日夕刻厦門(アモイ)を出航、午後9時頃、台湾南部の琅橋湾(ろんきょうわん)に入った。
台湾の原住民は清朝時代から熟蕃(じゅくばん:帰順した部族・漢化された部族)、生蕃(せいばん:反抗的な部族・首狩族・宮古島の島民を殺害した部族も含む)という呼称で呼ばれていた。この付近にも生蕃がいるかもしれないと思っている有効丸乗組員は寝ずに警戒していた。
5月7日:住民との初接触
しかしここの部族は熟蕃であり、住民との初接触は5月7日午前6時頃、有効丸の中国人通訳官が連れてきた社寮(現:射寮)の頭目の息子など地元民が船内に乗り込んできた。地元民の服装は厦門の下層階級と同じような服で弁髪も結っており、違いは檳榔を噛んでいて口が赤いことだけとある。その日7日は福島九成(ふくしまきゅうせい)少佐指揮の先発隊が上陸した。
5月8日 日本軍上陸
第一便乗組みの日本軍兵士の上陸は5月8日開始される。武器弾薬物資の荷揚げや野営地の設営には、兵士の数と同数くらい伴ってきた人夫が行っていたようだ。
“E・H・ハウス”は
『兵士は上流階級に属しており、卑しい任務や野外での特に骨の折れる労働を行なうものではない、といった古い考えがまだ広く行きわたっていたためであろう。』『輸送面にいたっては十六世紀に朝鮮に出兵した太閤様の時代の原則に基づいて行なわれている。』と記している。
この頃は日本軍といってもまだまだ武士の集団であり、以後の日本軍とは随分雰囲気も違ったのだろう。第一便で上陸した日本兵は数も少なく塹壕堀りも積極的にしないので地元民を雇って作らせた。侍たちが一応洋装の軍服を着ていた雰囲気が“E・H・ハウス”の言葉から感じられる。
琅橋湾の海岸、四重渓と保力渓の二つの河川に挟まれた所が野営地とされた。この地を上陸地点に選択したのは東側には宮古島島民を殺害した生蕃がおり、清朝の管轄区域で清兵一千名が駐屯していた枋寮からも南に32キロ離れており衝突の心配がなかった。
陸揚げされた武器にはガットリング砲もあり地元民の興味を引いたようだ。このガットリング砲は戊辰戦争で佐賀藩、そして河井継之助が率いた長岡藩兵が実戦使用していたとのこと。
上陸早々日本兵が露店風呂を作り入っているのを村の女性たちが嫌がり抗議を受けて中止している。元々地元民は裸に近い格好だが風呂に入る習慣がないので驚いたようだ。
5月10日
第二陣として赤松則良(あかまつ のりよし)海軍少将 谷干城(たにたてき/かんじょう)陸軍少将たちが「日進」で到着した。この二人が5月22日西郷従道到着まで実質最高指揮官となり、野営地も現在地は冠水の恐れがあり3キロ南の亀山の南側に新に設営されることになった。(明治七年討蕃軍本營地)
この時も現地民は墓がありダメだと言ったが一つひつとの墓を竹で囲むなど出来る限りの誠意を示した。雇用する現地民の日当なども不当とも思える高額な要求も概ね受けれている。(イラク、サマーワでの自衛隊の駐屯に対しての現地民との交渉を想起する。当時も今も日本人の資質に大差はない)。
日本軍の柔軟対応に厚かましく次々と不合理な要求をしてきたが、日本軍は「我々の忍耐にも限界がある」ことを現地民に告げると以降何も言わず約束は守られるようになった。
5月11日
新たな野営地として現在地より約三キロ(二マイル)南の地が選ばれる。雨期に入ると、現在地は冠水の恐れがあることが発見されたからだ。
5月17日 北川直征伍長戦死
12日頃から勝手に調査(探検)と称して無謀ともいえる行動をしていたが無事に帰還していた。しかし5月17日午後百名からなる兵士が偵察に送り出され、途中5〜6名が本隊から密林に分け入り一人が首に負傷し、北川直征伍長が撃たれて死んだ。反撃しようにも攻撃してくる場所が分からず死体を残したまま本隊まで撤退した。すぐに本隊は駆けつけたが北川伍長は首を刎ねられ武器は奪われ衣服も剥がされていた。敵の痕跡はすでになかった。
★北川直征伍長は枋寮の東龍宮で日本人五祭神の一人として祀られている。
5月21日
その後雨で野営地が冠水し数日調査に出れず5月21日、12名の調査隊が北川伍長が殺害された現場に向かった。殺害状況の調査をした後更に奥(本営から3〜4キロ)に踏み込んだ時に50人ほどの現地民から発砲され応戦、現地民1名を射殺。250名の全員を集め現場に送ったが山岳民は姿を消した。夜間の追撃は危険なので部隊を二つに分け、半分は現地で野営。半分は本営に戻った。
5月22日 石門の激戦
22日の朝、明治5年に起こった佐賀の乱で名声を博した佐久間左馬太陸軍中佐指揮する二隊が、昨夜前線に残してきた部隊を支援するために派遣された。狭い道を抜け切り立つ茂み道を半分ほど行った時、突然前に敵が立ち塞がり撃ち合いが始まった。敵は70名ほど。日本軍の総数は五百名であったが、この現場で有効に動けたのはわずか三十名、状況は日本軍に不利であった。
道もなく前に横たわる川(四重渓)の中央で戦闘が繰り広げられる。この川はこの方面から山岳民の雄ボタン族の集落へ通じる唯一の道で、石門を抜けて水が流れ落ちている。山岳民らは前もって準備をしていたとみえ、そびえる大岩に身を隠し、ほとんど日本兵からは見つけることが出来ない所から狙ってくる。日本兵も最良と思われる位置に身を置き、小一時間も戦闘が続いただろうか、その時間が過ぎると、山岳民らは突然身を引いた。
どの方角へどう退去したのか、一人としてその姿を認めることは出来ないほど鮮やかな撤去であった。彼等はけが人を担いで行ったが、十六遺体が残されており、大半は首を切り落として持ち帰られた。一方日本側でも六名が殺され、そのうちの一名は将校であった。負傷者も二十名近くあったが、大半は軽傷であった。
5月22日 石門古戦場
?
ボタン族族長の息子の死
西郷が到着する直前にチオムイ(石門)で行なわれた山岳民との衝突で、ボタン(牡丹族)はいくつかの武器類を残して逃げ去ったが、野営地に持ち帰ったそれら武器の中に、ボタン族の族長アロク(Alok・阿禄)の銃があった。これによってアロクが少なくとも重傷を負っているのが分かったし、さらに日本軍はチオムイから引きあげる際、戦闘で死んだ山岳民の首を切り落として持ち帰ったが、その頭部の一つが族長アロクの息子の首であることが判明したのである。
首を狩るなどというのは野蛮な行為であるが、皮肉にも情報を得るという効果を与えたのである。「首を狩る」という行為について西郷は不快感を表わし「今後は、決してこのような残虐な行為に及んではならない」と命じた。山岳民たちは、この一回の試練が十分身にしみたのであろうか、その後日本軍と真正面から立ち向かおうとはしなくなったのである。
“E・H・ハウス”の薩摩志願兵への印象
薩摩志願兵はともかく気がはやり、敵に対する恐れを知らない。普通ならば現地集落に入る場合慎重になって当然であるが、彼等は「止まる」ということを知らない。またそうした命令も彼等には意味がなかった。薩摩志願兵の多くは、これまで戦闘(明治維新戦争などをさす)で立派な戦績を残し、その功績を称える「赤い帽子」をかぶっていた。これは外の兵士の羨望を受け、歩きにくい大地を、志願兵も一般兵士も混じって、それゆけとばかり前進を遂げた。兵士たちもその赤い帽子がほしかった。
まさに一刻も早く功績を上げたいという雰囲気であった。日本の軍隊は、新しく組織され軍事訓練も受けていた。しかし、そうした軍事訓練はこうした場所では発揮されまいと私は思う。無鉄砲に突き進む勇敢さ、それこそがこうした複雑に入り込む山岳地形ではもっとも有効と思えたが、日本兵の姿はまさに江戸武士そのものであった。ただ彼等にはたしかに作戦に必要な剛胆さは満ち満ちていたが、その裏にある慎重さに恵まれているとは言えなかった。
二十二日の戦いで負傷した者は、まだ完璧とはいえないまでも相当整備されてきた病院、施設に入れられ治療を受けていたが日本人特有の不屈の精神で傷の痛みに耐えていた 最終的に一人の男を除いて全員回復した。日本軍駐屯地における兵士らの生活は総じて裕福といえるだろう。物資も豊富にあった(訳注:このハウスの見解とは別に、落合泰蔵らの記録では常に日本軍は物資の不足状態にあったことが報じられており、際立った違いが見られる。)
兵士の構成は、十人中の九人は二十歳から二十五歳の若者たちで、敵を追っかけている時は別にして、普段は温厚そのもの、仲間との口論さえ目にしない。近くに海や川がある関係上、彼等は一日に十回以上も泳いだり、水浴びしたりして楽しんでいた。これが兵士らを明るくさせている要因の一つであったようだ。総じて日本人というのはきれい好きな国民性を持っており、ここでも容易にそれが満たされたのである。
衛生面から見て見よう。駐屯地全体から見ると、決して衛生的であるとは言えない。当初決められていた生活上の規則は大半守られていなかったし、天幕の外側に集めるようになっていたゴミもすでに溢れかえり、衛生上の問題が起こっていた。しかし兵士らは微睡まどろみに浸ったり、仲間同士のやりとりを楽しんだり、さらには走競、相撲といった運動競技に汗を流し、こうした大量のゴミをどうするのか、まったく考慮されなかった。そして毎晩兵士らの競技を見ようと、砂浜は見物人で溢れた。
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台湾征伐 西郷都督
西郷侯爵家所蔵写真
中央椅子に座っているのが西郷従道
幕僚の武官・文官、帰順した生蕃等々
粗末な宿舎、軍服、生蕃の服装
皆是当時を偲ぶ資料である
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“E・H・ハウス”の従軍記によれば日本軍兵士の勇敢さ、普段の温厚さ、現地民への節度や思いやり等々人としての評価は高い。勇敢さは戦後70年の今の日本人に引き継がれているのか?まことに心もとないがその他の資質は今も当時も同じだと思う。
それは現在の自衛隊の海外派遣時や災害派遣時の現地での行動と評価に繋がる。他にも自己犠牲をいとわない兵士の行動、勇敢さや思いやりに彼が感動している記述が多い。 -
これも西郷侯爵家所蔵の絵
写真ではなく外国人が書いた絵
馬上の人物は西郷都督 -
眺望抜群、この地に来る機会あるなら
亀山に登らず帰るのはまことにもったいない
明治7年、維新後日本初の海外派兵
台湾出兵の際の上陸地点、設営地点
この上から見れば全てが見渡せる。万歳!
https://www.google.com/maps/@22.049744,120.704097,3a,75y,295.5h,92.21t/data=!3m4!1e1!3m2!1sKaOQmRCF0AzJ9eLZusD2Wg!2e0?hl=ja-JP
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■亀山に登る
「上陸地点の海岸が見たい」と“Aさん”に言ったら「亀山に登れば良い」と登山口に行ってくれた。当初この亀山(標高72m)に登ることは予定していなかったので幸運だった。
登山口から10分ほどで山頂に出た。そこには素晴らしい景観が広がっていた。「四重渓」と「保力渓」の二本の川に挟まれた最初の野営地が眼下に見え、琅橋湾を囲む北大武山脈の山並みが一望できた。日本軍兵士はこの川沿いから奥地に現地民調査に踏み込み石門で戦った。
この亀山は山というより丘、高台なので恒春を訪れる日本人には是非とも新生日本の初の海外派兵上陸地点が一望できるを亀山からの眺望を堪能してもらいたい。
この亀山には日本軍が築造した軍事坑道・要塞が残っている。そして第一景観台⇔第二景観台への道筋にトーチカのような物もあった。でもこのトーチカは日本軍の築造とは思えない質の悪さであり日本軍が作ったかどうか分らない。「軍事坑道・要塞」は質も良く説明版に書かれているように日本軍が作った物だと思う。亀山の内部に縦横に坑道があるようだった。
この要塞のことも事前には知らず亀山に登る途中の案内標示で知った。この地の重要さを認識した日本軍が作ったと書かれているが築造時期は不明。しかしネット検索では宜蘭の亀山島は要塞島として沢山の情報があるが、恒春の亀山のことはほとんど出てこず詳細は分らない。
坑道近くの第二景観台からは正面に台形の岬:大平頂(標高172m)が聳え亀山西側に広がる本営跡地が見渡せる。説明版には日本軍駐屯場所は「本營地の碑」より少し南側の後灣村とある。
ここで日本軍総数3,658名、軍属人夫合計5,980名が駐屯、台湾出兵での戦死者は資料によって「6名、8名、12名」だがマラリア等に罹患し「561名or531名」が亡くなった。この戦病死もこの地と長崎の軍病院移送後に亡くなった者もいるようだ。戦死者も病死者も数は資料によって若干違う。
この亀山に登れたことで上陸地点の全体像が良くわかり感激だった。旅先ではどこでもそうだが今自分が何処にいるのか?を常に把握したい。そのために高い所に登るのが一番だ。東西南北が分り自分の現在地がその地域の中で大体でも分らなければ歯がゆさが残る。そして今は事前事後に“Google”アースや地図で確認できるので本当にありがたい。
この亀山滞在はデジカメ時間40分だった。最初の予定になかった場所だったのでもっと長くいたかったが、“Aさん”に少し気兼ねをし降りて来た。そして昼食を食べようとこの近くにある“Aさん”お勧めの店「台灣牛 四學士姐妹経営」という拉麺店に入った。でも“Aさん”が「お腹が空いていないので食べない」と固辞するので「それなら私も食べない。終わってから食べるから」と店を出た。
私も正直あまり空腹感がなかったので昼抜きにした。今まで「昼食一緒に・・・」を何度誘っても断られた記憶はないが嫌な思いはしなかった。 -
山と言うより小高い丘
遊歩道も整備されお手軽ハイキング
途中景色を眺めながらも10分足らずで頂上へ -
東方向を眺める
虎頭山(左端 標高441m) -
第一景観台から北方向を眺める
台湾出兵第一便の有効丸は
1874/明治4年5月5日夕刻厦門(アモイ)を出航
午後9時頃、この琅橋湾に入った
入港後、ここにも生蕃がいるかもしれないと
有効丸乗組員は寝ずに警戒していたという -
手前の川が「保力渓」向こうが「四重渓」
この二つの川の間に上陸後最初に設営をした
現地民の代表たちが有効丸に乗り込んできたが
その時も檳榔を噛んでいて口は真っ赤だった
服装は厦門の中国人下層階級のものと同じで
長く垂れた弁髪にはきらきら輝く硬貨を
編み込んだ赤い紐が結え付けられていた -
上陸した日本兵はこの奥へと調査に踏み込んだ
1874/明治7年5月17日 北川直征伍長戦死者第一号となる
北川伍長は首が刎ねられ、衣服も剥がされ、武器も奪われていた -
亀山の第二景観台から南方向を望む
最初の宿営地は冠水の恐れがあり
亀山の南を新たな設営場所とした
赤丸:「明治七年討蕃軍本營地碑」が見える
実際の本営地はもう少し南の後灣村だった -
「明治七年討蕃軍本營地碑」をズームで撮影
広い正方形の敷地の中央に立っている
今も美しく整備されている
以下のHPに詳しく紹介されている
特派員、エドワード・H・ハウス (その2)
http://www.japanusencounters.net/house_2.html#relay -
亀山軍事坑道
ここの説明版には、日本軍がこの亀山を
重要な軍事拠点として築造したと書かれていた
しかしネット検索では宜蘭の亀山島は沢山あるが
この亀山の要塞は詳細不明 -
「亀山内部に縦横に坑道が張り巡らされている」とある
この要塞は築造程度も良く日本軍が作ったのだろう -
説明版に書かれているように日本軍築造の亀山要塞
一見して美しい
討蕃軍本營地と亀山
https://youtu.be/01tUvaAIylM -
予定になかった亀山登山で40分を費やし
午後12時半昼食を食べにここに来たが
“Aさん”食べないと言うので
私も食べずに次に向かう
入っただけの「台灣牛 四學士姐妹経営」
https://www.google.com/maps/@22.052981,120.722276,3a,75y,72.41h,83.56t/data=!3m4!1e1!3m2!1sMfsJU_XBoDfMYMTPEtO6Rw!2e0?hl=ja-JP -
26号線右折して199号線を東に向かってすぐ
右側に琉球藩民墓の小さな標識がある
その狭い路地を歩くと琉球藩民墓がある
墓苑公園のように整備されている
https://www.google.com/maps/@22.072066,120.728304,3a,75y,94.51h,88.45t/data=!3m4!1e1!3m2!1sqMj1BsGmSyAwKldOndIIgg!2e0?hl=ja-JP
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■「琉球藩民墓」へ
そして次に向かったのが「琉球藩民墓」、拉麺店から10分足らずで到着した。
https://www.google.co.jp/maps/place/%E7%90%89%E7%90%83%E8%97%A9%E6%B0%91%E5%A2%93/@22.0730097,120.7310006,15z/data=!4m2!3m1!1s0x3471b796b212ba69:0x7a8134b5c1a7c768?hl=ja
199号線沿い石門に向かって右側に小さな案内標示がある。小さな標示だけなので注意していないと見逃して通り過ぎてしまう。路地を入って行くと東屋がある公園のようなところが見えた。「あそこだろう・・・」と歩いて行く途中には小さな石灯籠が道の左右にあった。そして木の簡素な鳥居があり「車城統埔村導覧図・琉球藩民祈念園区」と記された地図の入った碑があった。
1874/明治7年6月2日、日本軍は石門の先の牡丹族の領地の入り口附近で宮古島島民の墳墓を見つけた。その時“E・H・ハウス”も同行していた。台湾出兵の原因となった墓を発見し兵士の意気は上がったそうだ。その後墓は「楊友旺、林阿九」たちによって現在地に一ヶ所にまとめられた。そして西郷軍によって墓は改修され12月2日の撤退に間に合わせるようにこの碑が作られた。「宮古島島民遭難事件」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%8F%A4%E5%B3%B6%E5%B3%B6%E6%B0%91%E9%81%AD%E9%9B%A3%E4%BA%8B%E4%BB%B6
この台湾出兵は明治4年の「宮古島島民の遭難」に端を発したものだが、江戸から明治となり新生日本への船出は今の世では想像も及ばない大改革の真っ只中だった。
明治2年「榎本武揚降伏。戊辰戦争終結」「版籍奉還」、明治4年「廃藩置県」「岩倉具視・遣欧使節団派遣」、明治6年「征韓論争。西郷隆盛下野(明治六年の政変)」、明治7年「2月、佐賀の乱(江藤新平)」そして「4月、台湾出兵」である。
台湾出兵は台湾蕃人の懲罰という名目だったが、背景には国内に山積する問題があり、新政権側になった者たちの思惑が絡み合う複雑な背景の中で挙行された。しかし結果的には琉球が日本に帰属することを認めさせただけではなく
“E・H・ハウス”曰く
『日本の能力は、海外の問題に関しても必要とあらば関わり把握する能力であり、威厳を保ち自主性をもって自国の当然なる権利を主張する能力であり、広い視野に立ち行動し、より広い経験に裏打ちされたいかなる国にも劣らない着実さと勇気と法的裏付けを得て目的を遂行する能力である。』
欧米列強の覇権主義全盛時代に、維新が幕を開け混乱期の渦中マリア・ルス号事件及び台湾出兵事後の清との外交交渉において、日本は列強の餌食とならない能力を示し得た。そんな先人たちの足跡を知るにつけ驚くばかりなり。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%82%B9%E5%8F%B7%E4%BA%8B%E4%BB%B6
この墓苑は1925/大正14年、島袋亀が墓の修復を発起し翌年1926年から修復を始め1927/昭和2年完工。1978/昭和53年、沖縄史家:又吉盛清氏の働きかけで1981/昭和56年、屏東懸、車城郷の同意を得、1982/昭和57年3月、修復したが「大日本」の三文字をセメントで流し込み隠すことが修復許可の条件だった
2000/平成12年、陳水扁が総統になり「大日本」の文字は復元し現在に至る。
「大日本琉球蕃民五十四名墓」と表に書かれ、その下に亡くなった人たちの氏名が刻まれていた。私がいる間誰も人は来ず公園は寂れてはいるが時折は手入れされているのか草ぼうぼうではない。
2011/平成23年の事件後140年には宮古島の遺族が出席しての慰霊祭も行われているが、その反面台湾の説明文に歴史捏造の文章があり宮古島遺族が削除を求める問題も起きている。
http://www.miyakomainichi.com/2011/12/28144/
デジカメ時間20分の滞在だった。54名の死が日本の歴史に大きな影響を与えた。ご冥福を祈る。 -
この路地を歩くとすぐに墓苑公園がある
路地の左右には小さな灯籠もいくつかあった -
1871/明治4年、宮古島島民が遭難したのは
東海岸の八瑤灣(はちようわん)
宮古島島民遭難事件
漂着した69人のうち3人が溺死
台湾山中をさまよった生存者のうち
54名が台湾原住民によって殺害された事件である。 -
簡素だが木の鳥居もあり
墓苑公園になっている -
台湾征伐の日本軍は明治7年
石門の先で宮古島島民の墳墓を見つけた
その時同行していた“E・H・ハウス”によれば
台湾出兵の原因となった墓を発見し
兵の士気は大いに上がったそうだ
その後、楊友旺、林阿九らによってこの地に移される
西郷軍によって墓は改修され撤退までにこの碑が作られた -
明治七年臺灣戦役ニ建設シタル琉球藩民墓
-
明治七年西郷從道臺灣討伐の時建立(撮影時不明)
-
その後墓は林阿九家族が管理し祭祀を行った
1925/大正14年、島袋亀が墓の修復を発起し
翌年1926年から修復を始め1927/昭和2年完工
1978/昭和53年、沖縄史家:又吉盛清氏の働きかけで
1981/昭和56年、屏東懸、車城郷の同意を得
1982/昭和57年3月、修復したが「大日本」の三文字を
セメントで流し込み隠すことが修復許可の条件だった
2000/平成12年、陳水扁が総統になり「大日本」の文字は回復した
その時の日台関係の良否は、台湾に存在する日本の遺跡の姿を見れば分る
統埔琉球民墓(琉球藩民墓)
http://tour.cultural.pthg.gov.tw/SceneriesDetail.aspx?Cond=adcf4fd5-391b-42c5-8723-0a9966758074 -
「大日本琉球藩民五十四名墓」を真横から写す
墓碑を横から見て、その薄さに驚いた
へェ〜、こんな薄い墓石を見たのは初めて
良くぞ長い年月を経ても立っているものよ -
亀甲墓に生存者12名を助けた
「楊友旺」「林阿九」
の名前も刻まれている
「牡丹社事件 琉球藩民墓」
http://ameblo.jp/taichu/theme-10042072469.html -
大日本という三文字に台湾出兵の意義が込められている
琉球は日本に属することを清朝だけではなく
当時の世界に認めさせることもこの出兵の目的だった
しかし琉球は台湾出兵後も清への朝貢を続ける
最終的に琉球の帰属が国際的に確定するのは
日清戦争後「1895/明治28年」のことになる
沖縄が日本になって「2015−1895=120年」
日本になって120年、沖縄県人の気持ちは如何に?
琉球藩
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%89%E7%90%83%E8%97%A9
琉球藩民墓
https://youtu.be/_thafdgE0Vs -
石門古戦場へ行く
四重渓沿いの道を石門古戦場に近づく
前方左手急峻な崖が石門山
1874/明治7年?5月22日 石門口(チオムイ)の激戦
この四重渓(川)は、牡丹族の集落へ通じる
昔は川沿いに道はなく日本軍総数は約五百名
しかし地形により有効に敵と対峙できるのは30名
岩陰に待ち伏せしていた牡丹族は約70名
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■石門古戦場へ行く
そして車は石門古戦場へと向かう。199号線を進むと石門古戦場の標識があり四重渓の両側に切り立った崖がV字型にそそり立っていた。そして色鮮やかなアーチが見えた。アーチの左横には壺の上に立つ牡丹社の勇士の像があり、壺に石門古戦場(牡丹郷)と書いていた。
帰国後知ったがこの手前(車城郷)にも「石門古戦場」の記念公園があり「忠魂碑」と「西郷提督遺蹟記念碑」がある。元の碑文は削り取られ、今は『澄清海宇還我河山』と記されている。残念だが“Aさん”も知らなかったようで行けなかった。
こんなHPも見つけた。「牡丹社事件 日軍営址紀念碑 」
http://ameblo.jp/taichu/theme-10042072469.html
「石門山歩道入口」に解説版がある。全長は約1050m、頂上標高384m、頂上まで約50分。登り始める時は「頂上に上がれば戦場を一望できるだろう」と楽しみに歩き始めた。“Aさん”から何のアドバイスもなかった。きっと登ったことはないのだと思う。登山道に人の気配なく少し登ったところに広場があり「石門古戦場歩道ガイド図」と日本語でも書かれた案内図があった。 -
1874/明治7年?5月22日 四重渓 石門口
佐賀の乱で名声を博した佐久間左馬太陸軍中佐指揮する日本軍は
途中正面の堡塁、右則の堡塁から猛烈な射撃を受ける
苦戦の末、左の崖をよじ登り、生蕃の背後に出て
敵の背後より射撃し敵を潰走させる
この戦いで生蕃側の戦死者は十二名
牡丹社(ボタン)の酋長阿禄父子も入っていた
日本側の死者は四名。負傷者二十名
(徳富猪一郎著『近世日本国民史・台湾始末編』)
死傷者数は資料によってバラツキがある -
牡丹郷と書かれたアーチ
ちょうど石門山古戦場前にある
ここから先(左側)が牡丹族の集落だったのだろう -
石門山登山口にある「牡丹社事件簡略」の説明が書かれた碑
石門山がどんな山なのか?何の情報も予備知識もないままで
亀山同様登山道が整備されているのだろうとくらいに思っていた
“Aさん”も石門山のことは何も知らず
知らずに登って正解だった。知っていれば登るに覚悟がいる
いや知っていればきっときっと登っていないだろう、あァ・・・。
「征台の役」
http://www.kaho.biz/main/seitai.html
https://www.google.com/maps/@22.110274,120.761189,3a,75y,1.3h,105.17t/data=!3m4!1e1!3m2!1sND3HFPX0Yb67V9Fe17etJQ!2e0?hl=ja-JP -
石門山に登る
13:25.撮影
石門山に登ろうと思ったのは
ただただ頂上からの景色を見たかったから
遊歩道のような道を想像して一歩を踏みだした
https://www.google.com/maps/@22.112366,120.761594,3a,90y,314.71h,79.05t/data=!3m4!1e1!3m2!1ss13YIMBTPOc2q0KhpAaToA!2e0?hl=ja-JP
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■石門山に登る
「石門古戦場歩道ガイド図」を見れば頂上から轉播台(放送センター)の方へ下る轉播台歩道がありそこを降りれば、私が行けなかった忠魂碑のある公園に行けていた。その時はその道を降りようと思いながら頂上を目指していたが忠魂碑のことは何故か?脳裏になかった。帰国後写したガイド図の写真には「西郷提督遺蹟記念碑」がちゃんと描かれている。
登山道はすぐに狭くなり傾斜もきつくなった。そりゃあ四重渓に向かってそそり立つ屏風のような岩山なので急斜面であることは覚悟をしていた。しかし想像以上に厳しい登山道だった。上り口には日本人観光客用の日本語併記の歩道ガイド図があり、観光客の女性でも登れるような道を想像していた。残念ながら写真ではその急勾配は分らない。 戦跡巡りであちこち歩いたが64年の人生で一番厳しい山登りとなった。
所々補助のローブが渡され、それを掴んで登った。足を踏み外しても樹木が茂って下まで転落はしないが手足の骨折は十分しそうだ。ガイド図をしっかり読んでいないので頂上までの時間も分らず。休憩もせずひたすら黙々と上を目指した。石門古戦場と言っても四重渓の左右に立ち上がるV字型の崖(石門)に牡丹族70名ほどが身を潜め近づく日本軍兵士を狙い撃ちした。牡丹族が待ち伏せした石門山に登っていることになる。
しかし樹木が密生し登山中眼下の景色はあまり見えない。途中一ヶ所展望テラスのような場所があったがそこから見えたのは上流の方向だった。急斜面をひたすら転げないように上を目指した。汗びっしょりだが休む気にもなれず。やっと平らな場所に出てそこが頂上であることを確認した。37分掛かった。ガイド図には約50分と書いている。それより13分早く着けた。
期待した眺めは360度樹木に覆われ視界ゼロ。そして下りは轉播台歩道を降りるつもりだったが、その道は草が生茂り行けそうになかった。無理して進んでいれば道が開けたのかも知れないが、その時はそんな気にもならず。ただ無事に下山しなければと同じ道を下った。転げ落ちないように万全の注意をしながら降りる。下りなのに登りと同じ時間が掛かっていた。
ただひたすら上り、ひたすら下りの石門山登山となる。この峡谷での戦いの場は狭く、敵に対峙できる日本軍は30名ほどで苦戦だったが石門の岩壁を攀じ登って優位に立ち牡丹族は16名の遺棄死体を残し撤収した。日本軍兵士は6名が戦死、20名くらいの負傷者を出した。この戦いで生蕃(牡丹社・高士佛社)は日本軍への抵抗を諦めたのか以後大きな戦いは起きていない。
石門山に攀じ登り無事に降りて来た。汗ぐっしょり、足は棒、緊張感もあって疲れ果てた。道中無論すれ違う人もなく。一体日本人観光客の何人がこの山の頂上に登ったのだろう。思いもかけない戦跡巡りであり、当時を思い起こす余裕もなく、ほとんど何も見えず、見えたのは足元の斜面だけだった。それでも不思議に達成感はあった。
往復の時間は1時間20分、“Aさん”も待ちくたびれたことだろう。朝8時に出発し、すでに午後2時42分。私は休憩なしの7時間弱。この旅のメーンテーマは「潮音寺・バシー海峡を見る」だったが、この台湾出兵を知りこっちが主になった。知らなかった歴史を少しは学べた。そうかそうだったのか・・・である。
恒春に戻る前にこの石門(チオムイ)の峡谷を写し帰路に着いた。 -
四重渓沿いの道路からは
川の両側に崖がV字型にそそり立つ
その岩陰に身を潜め牡丹族は攻撃をしてきた
日本軍は川のなか道なき道を進んでいた
待ち伏せの牡丹族は約70名
日本軍総数約五百名ながら
最前線は約30名程しか展開できない -
13:39.撮影.14分経過
遊歩道どころか急斜面ばかり
写真では険しさは分らない
こんな木製階段もあったが
ほとんどは道とは言えない道
汗まみれ、休憩する気もならず
ひたすら頂上を目指す -
13:43.撮影.18分経過
ロープが張られている
写真では分らん急斜面、行けば分る
転がり落ちれば骨折するだろう -
13:43.撮影.18分経過
途中一ヶ所の展望台あり
北東方向に開けている
この方向に牡丹族の集落があったのだろう -
13:55.撮影.30分経過
写真では分らん、行けば分る、急勾配
ただひたすら這うように登る
周囲の景色まったく見えず -
14:02.37分経過
頂上標高「384m」登山道「1050m」
悪戦苦闘の末?石門山頂上に無事到達 -
石門山頂上に立つも
360度樹木に覆われ視界ゼロ
折角汗にまみれて登ったのに
なじゃこりゃ、なにがなんだか分らない
自分が何処にいるのか分らない
今思えばもう少し粘って
視界広がる場所を探せば良かったと
しかしその時「もうええわ、しゃあない」と
すぐに降りることを考えてしまった -
14:22.57分経過
上り下り北東方向しか視界開けず -
14:37.72分経過
この天辺が石門山の頂上なのか?
ここから見れば岩山のように見えるけど
もうちょっと粘って視界が広がるところを探せば良かった
後の祭りとはこのことなり -
14:42.77分経過
下から頂上、37分
頂上滞在3分なら
頂上から下、37分
へェ〜、急斜面で慎重に降りたから
上り下り掛かった時間はほぼ同じのようだ
この石門山頂上制覇の日本人は
どのくらいいるのだろう?
頂上からの景色見るを適わず残念 -
1874/明治7年5月22日 石門口の戦い
この崖をよじ登り、生蕃の背後に出て
敵の背後より射撃し敵を潰走させた
牡丹族はは、この戦いで日本軍の強さを思い知り
その後日本軍に立ち向かおうとはしなくなった
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■「征台の役」
ホテル着は午後3時13分。“Aさん”が名刺をくれた。又ここを再び訪れることは残念ながらないだろうけど。十二分に満足の包車だった。
この台湾出兵後に行われた日清政府の外交交渉で大久保利通は李鴻章相手に堂々たる態度で挑み『(ウィキペディア)遭難民に対する撫恤金(見舞金)10万両(テール)、戦費賠償金40万両の計50万両を日本側に支払い、生蕃取締を保証するということになり、それと引き換えに、日本は1874年12月20日までに征討軍を撤退させることに合意した。』とある。
50万両を清朝から拠出させたのは良く知るところだが、
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1899780
『隱れたる事實明治裏面史:臺灣征伐の内情 』コマ番号「250−267」の(267)によれば、10万両は遺族に贈ったが、40万両は直ぐに清国政府に熨斗を付けて返却したそうだ。
抜粋
『「清国政府の手の及ばざる、早く言えば化外の民というべき臺灣の生蕃が成したことに就いて、清国政府が認めて呉れたのは、日本政府の満足する處である。従ってこれに対するの軍費を、清国政府に負担させたのは気の毒であるから、此金は返還する。」というのであった。各国公使もこの処分には非常に感激して、日本政府の潔白は世界に其比(そのひ)を見ぬ、というて激賞した位であった。』
今の日本と比較してまるで夢のような日本人がいる。金も必要だが誇りや名誉や意地を捨ててしまっては“カス”と化す。無論いつの時代も真人間ばかりでないことは百も承知だ。犯罪者も卑怯者もセコイ奴も裏切りも者も掃いて捨てるほどいただろう。でも軍隊軍人を忌避し、商人道すらない商人国家はカスだ。商人が権力を握れば綺麗事と金しか眼中にない。
「征台の役従軍記」の著者“E・H・ハウス”は生涯独身で日本女性を養女にし日本で亡くなり東京田端村大龍寺に墓がある。「特派員、エドワード・H・ハウス (その1・2・3)」にも詳しく書かれている。この従軍記のなかで今の私が感動し、今学ぶことが多く記されている。長いがここに転載する。
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「征台の役従軍記」
エドワード・ホワード・ハウス(Edward Howard House):アメリカ人従軍記者(著)
(一)西郷軍 出航(帰国) 1974/明治7年12月2日
十二月一日より前に中国側から示されていた金額が支払われた。その月の二日、予定されていた日時より二週間も早く、西郷中将は全軍を従えて台湾を離れた。
兵士の乗船する様子は、多くの島民達に見物された。近くのロンキョウ一帯に住む住民は無論のこと、東部に住む住民までも、かって見たことのない何の制限も受けずにやってきていたのである。中国語を話す文明化された島民は、慣れた態度で無関心を示すかのように見つめていたが、未開部族地から来た島民は、慎みのある態度をしていた。しかしこの態度は突如、崩れさった。
彼らは、去りゆく日本の兵士らを見送るうちに、新しくできた友人を失うような気持ちに襲われたようであった。彼らは今、彼らに人類愛の考えを説いた、これまで見知らぬ者達と切り離されていこうとしていた。日本人達は、彼らを理性ある存在として一貫して扱ってきた。
信頼と親切心を持って、日本人の持つ崇拝するに足る単純明確な本性を投げ打つことに成功していた。見送る未開部族の人々は明らかに奮ぶった感情をしていた。その感情の奮ぶりは、これから中国支配によってもたらされる状況に対する裏返しの気持ちから来るものにも思われた。並ではない西の隣人にどう思われるのか、そんなことにはお構いなしに、嘆きの感情を露骨に示した。
西郷中将が部下とともに陸を離れる船に移ると、彼らは手や衣服をつかんでしがみつき、やさしく引き離されるまで、見捨てないでほしいと懇願した。鋭敏な感性を持った西 郷はこうした献身の表われにいたく感じた。それは荒けずりの形であったが、本国で受ける大がかりな名誉のどれとも劣らず価値のあるもので、これは西郷の人柄と業績に対する感謝の表われと見ることができるであろう
/////////////////
2003/平成15年12月〜2009/平成21年2月まで行われた自衛隊イラク派遣「サマーワに架けた友情の架け橋」、その他のPKOでも自衛隊は現地住民に慕われている。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h17/jog378.html
/////////////////
(二)清朝政府の態度
事件が進展してゆくにつれ、特に後半にさしかかって、日本と中国の方針の違いが鮮明になってきた。北京における交渉時、中国側は議論の内容が外部に洩れることを嫌い、そのための措置をいろいろと講じていた。中国政府の機関紙である新聞(京報をさすと思われる)は会談中、日本が台湾に遠征隊を送ったということ、台湾における主権を主張する中国への抵抗などあったことすら、交渉が成立し日本が台湾より軍隊を引き揚げるまでただの一度も触れることはなかった。
中国皇帝自身は取引状況を全く知らず総理衙門(そうりがもん)で進行中のものが何であるかさえ中国皇帝には知らされることなく、皇帝(同治帝)は一八七五年に崩御されたそのことばかりが淡々と報じられた。そして大久保の北京出発と西郷の軍隊撤去の直後に、日本は屈辱的にこれまでの地位から降ろされ、中国政府に貢ぎ物を余儀なくされたと熱心に流された。
どうやら中国は故意に政治的な誤報を流していたようである。というのも九月、東京ではもし日中間に戦端が開かれた場合、日本に滞在する中国人に対してはその身の安全を保証するとの宣言が人道的な立場から出されていたが、これを日本の屈服ととらえたのである。こうした行動は中国官吏によってとられたものである
//////////////////
今も昔も中国人の態度は笑うくらい同じだ。自ら当てても当てられたと平気で嘯く「尖閣諸島中国漁船衝突事件」、恥も外聞も正義もなく結果が全ての見栄と面子の民が支那人だ。当時の日本外交はそんな相手に対して毅然としていたが・・・・今は情けない限りだ。
/////////////////
(三)西郷軍撤収後に台湾ロンキョウに入った中国軍
日本軍が引き揚げた後、中国軍がそれまで日本の駐留していた地に入ってきた。そしてすぐさま、日本駐留の痕跡をなくす作業に取りかかり、この地を獲得したのを祝う方向に進んだことは、すでに述べてきた。一八七五年の初めから数カ月間、中国軍の動きは精力的であった。
これまで主張のみで実質支配がなかったこの地に、中国が管轄しているという見せかけの現実感を持たせようとする努力が払われた。中国軍は山岳部に入ることを慎重に避けながら、西海岸へ急ぎ足を入れた。
(中略)
計画表に従って、小隊がロンキョウ湾より少し北側にあるホンカン(楓港・Hong Kang)に送り込まれた。この地は土着民の攻撃を受けることなく安全であると信じられていた。しかし、一月後半南へ通じる道路を巡回中、二名の兵士が通常の待ち伏せ攻撃を受けて殺された。すぐに報復部隊が編成され、二月十三日、襲撃した者達が来たと思われる村を占拠するために二百名の軍が送られた。
彼らは妨害もなく、その村へ到着した。そこには老人と女、子供しかいないことが判明したが、その全員を即刻処刑にした。作戦は完了したと判断し、家屋を破壊してホンカンへ向け帰り始めた。まだそう遠くない所まで来た時、周囲の丘や密林から怒りに狂った攻撃を受け、兵士らは極度の混乱に陥った。
中国軍の指揮官は落ち着いて勇敢に行動したと言われているが、部下達は取り返しがつかないほど混乱しきっていた。土着民は使える攻撃法はすべて使ってきた。初めは火器や槍、弓矢などで襲撃をかけ、次にトロイ戦争のやり方で高所から岩を投げ落とし、最後に決着をつけるために、刀を抜いて襲いかかってきた。
この襲撃で、指揮官を含む九十名以上の中国兵が死んだ。他方命を落とした未開部族の数は三十名と推定された。土着の台湾未開部族にまで中国の権限を拡げようとした初めての動きは、こうして終わったのであった。
///////////////////
大東亜戦争敗戦後の台湾へ国民党軍が侵攻し「2・28事件」を起こしたのは歴史の必然であり、今も新疆ウィグル・チベット・内蒙古が現在進行形で支那の侵略によって悲惨な状況になっている。日本の独立を堅持するために戦い抜いた先人を貶める日本人は万死に値する。
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(四)日本の能力
日本の能力について示しておきたいと思う。それは、国内問題だけではなく、海外の問題に関しても必要とあらば関わり把握する能力であり、威厳を保ち自主性をもって自国の当然なる権利を主張する能力であり、広い視野に立ち行動し、より広い経験に裏打ちされたいかなる国にも劣らない着実さと勇気と法的裏付けを得て目的を遂行する能力である。
(中略)
規模に関しては大規模とはいえないまでも、他の同じような作戦行動よりも、この遠征行動は詳細な内容にわたってほぼ完璧といってよいものであった。結末に関しても、双方の利害関係に十分配慮し成し遂げられており、どの西欧諸国においても示し得ないものである。
このように思慮され、実行された事業は、外交手腕、政治的手腕ともどもすばらしい資質を有することを証明するものであり、国際社会においていかなる場でも自国の立場を堅持できるしっかりした政治体制を持つ証と見なされて当然だと思われる。
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敗戦までの日本人のように誇りと名誉を守ることを第一にすれば、どれだけ元気が出るだろう。きっと不景気でも頑張れる。「武士は食わねど高楊枝」が日本人皆の当たり前の生き様なら目はいつも輝いているはずだ。そして名誉を重んじ誇り高き民族として日々生活すれば、必ずや経済力だって今より百倍増す。自虐し先人を貶めていたら真っ当な人間はホンマ元気は出ない。
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石門古戦場
https://youtu.be/imiw_n4uxrQ -
石牌公園に行く
https://www.google.co.jp/maps/place/%E7%9F%B3%E7%89%8C%E5%85%AC%E5%9C%92/@22.0047917,120.743126,17z/data=!4m2!3m1!1s0x0000000000000000:0xaac5b8446fce5239?hl=ja
恒春の石碑公園のことは知らずに来た
ここに忠魂碑があることも知らなかった
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■石牌公園に行く
午後3時過ぎに部屋に戻り汗でぐっしょり、下着もビショビショだったのでシャワーを浴び下着を替えて小休止。それもたった20分ほどで部屋から出て散策が始まった。いくら“ゆっくり”旅を心掛けても貧乏性は治らない。“Aさん”に朝一に教えてもらった公園に向かった。
恒春鎮石牌公園(猴洞山史蹟公園)に行く。
日本時代ここに忠魂碑があった。その他にもネット情報によれば「兵器整備記念碑」「日本軍恒春城攻略記念碑」「日本統治台湾最南端界隈碑」の四つがこの公園に集められていると帰国後知ったが、私が写真で撮ったのは二つ「忠魂碑」と「武器整備記念之碑」だけで他の二つは見なかった。
二つの石碑の文字は削られているが碑は立っている。しかし裏面の文字は削られていなく「武器整備記念之碑」には「恒春測候所職員一同」「台湾運輸株式会社職員一同」など献金者の名前と金額が残っている。なかに「○○捕鯨株式会社職員一同」と読み取れる文字もあった。台湾に捕鯨会社があったのか?「東洋捕鯨株式会社」か?
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00496586&TYPE=HTML_FILE&POS=1
恒春で忠魂碑に出会うとは・・・。事前に調べようと思っても抜け落ちるのが山ほどある。それよりあまりいろんなことを知れば行きたい場所が増えすぎて億劫になる。「来て見て分った」も大いに良し。文字は削っても碑は倒さない。その心は???それでも遺してくれて感謝する。日本の足跡が実際に残っていれば日本人がここで暮らしていたことを実感できる。日本時代は「恒春公園」その前は「猿洞山」名のように昔々は猿山だったようだ。 -
忠魂碑の三文字は削り取られた
削ったのは国民党「外省人」だろう
削られても忠魂碑と読める忠魂碑 -
武器整備記念之碑
石碑公園に集められたのか木のすぐ前に立つ
よって碑の前スペースなくから全体像撮れず -
「武器整備記念之碑」も文字は全て削られている
削る労力より倒して廃棄の方が簡単だろうに
何故残したのか?以下は私の推測だが・・・。
台湾人(本省人)命令されど廃棄忍ばず文字消して誤魔化す?
真相は如何に?
https://www.google.com/maps?z=5&layer=c&panoid=JesD1QbmtLDM9tYXkJuzNA&cbp=12,308.5818786621094,,0,2.351853370666504&hl=ja-JP&gl=JP -
?15:54.撮影 「恒春天后宮」
屏東縣.恒春鎮城西里福?路126號
確かにここに入った
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■「阿嘉(アガ)の家」と夕食
石牌公園から天后宮(寺院)に入り、次は映画「海角七号 君想う、国境の南」のロケ地「阿嘉(アガ)の家」に立ち寄った。いつものことなのだろうか観光客が集まっていた。
家の玄関に土産物店があり椅子に座って観光客がハガキに便りを書いていた。それを投函する緑のポストもある。
映画は『日本の敗戦で台湾から帰国する日本人教師が恋人である台湾人女性に船の中で書いた手紙が60年の時を経て台湾に送られたが、日本統治時代の住所「高雄州恒春郡海角七番地」を知る者はいなく宛先不明となってしまっていた』私もだいぶ前にDVDを借りて映画を見たが面白くなかった。
もう時間は午後4時頃になっていたが昼食を食べていないので「何か美味しい物は?」と「お粥」の店があったことを思い出し行ったがあいにく店は閉まっていた。仕方なく近くにあった拉麺店に入って昼夜兼用で拉麺(40元)を食べる。あっさりしたスープで美味かった。
次いで“7イレブン”でバナナ一本(18元)、オニギリ一個(18元)を食べ、その次に斜め前にある恒春バスターミナル(恆春轉運站)横の恒春古鎮内に鉄板焼きの店「大埔」が目に入り「お好み焼き?」と思って入る。まだ腹六分くらいだったから・・・。
「お好み焼き」ではなく肉と野菜の鉄板焼きだった。「豚肉・モヤシ炒め・野菜焼き¥110元」で十二分に満足する。お勧めの店。これで一段と元気回復また歩きに出るハハハ。 -
阿嘉(アガ)の家
観光客多し、家の前の土産物屋で
ハガキを購入しせっせと文を認め投函する
電子メールより自筆の手紙、ハガキは
たまには書くべし送るべし
https://www.google.com/maps?z=5&layer=c&panoid=5HtOnFOxwNNv7xwv14Z9qA&cbp=12,34.25742340087891,,0,1.7181638479232788&hl=ja-JP&gl=JP -
映画はDVDで見たがこの家の風景は記憶にない
内容も今一分らず面白くなかった
「康子十九歳 戦禍の日記」:門田隆将(著)
粟屋康子十九歳と梁敬宣(りょうけいせん)二十一歳
感動の小説だ、是非とも一読を! -
16:14.撮影
恒春古城にて拉麺を食べる40元、味まあまあ -
16:26.撮影
恒春警察署の前の“七・イレブン”にて
バナナとオニギリを食す -
16:46.撮影
恒春転運站の左隣「恒春古鎮」
鉄板焼きの店「大埔」に入る -
豚肉・モヤシ炒め・野菜焼き¥110元
うまかった満足した。入って良かった -
恒春古城「東門」
1880/明治13年完工 2015年現在築135年
https://www.google.com/maps/@22.00398,120.749891,3a,75y,105.75h,88.27t/data=!3m4!1e1!3m2!1szeQ9wfVmatkGYP42Ok2_2g!2e0?hl=ja-JP
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■恒春城門巡り
恒春城、南門と西門は昨日行ったので、東門に向かう。この恒春城は日本の台湾出兵1874/明治7年の翌年1875年から、清朝が国防上の理由で5年(1880完工)の歳月を掛けて築いた城壁。2015年の今年は築造135年目でまだ新しい。
門もそうだが城壁もかなり残っており城壁上が散歩道として整備され城内・城外の景色を眺めながらの散歩道となっている。
次いで東門から北門に向かった。北門は下が車道だが門幅が狭いのに一方通行ではなく、どちらかが門前で待って交互に通過する。
北門は横が公園でそこに「M41D軽戦車」が展示されていた。周囲に誰もいなかったので、戦車に64歳の“おっさん”が攀じ登った。身体が固いので滑らかにとは行かない。さすがに戦車の上のハッチは開かず内部には入れない。
映像はで戦車に上に兵士が乗って移動するのを良く見るが、今の私なら凸凹道なら簡単に振り落とされそうだ。戦車から降りるのも一苦労、飛び降りたら骨折しそうだし、こんな時“オジン”になったことを痛感する。へっぴり腰丸出しで慎重に降りる。
城壁の上を歩いて西門方向に向かう。城壁は補修していなくて崩壊寸前の壁もある。
午後6時前に西門に到着、昨日、今日で東西南北の門は歩いて周った。ちょうど散歩がてらに十分周回できる。それくらいの規模の恒春古城。その城内は今も活気があり、2月でも15℃〜23℃の気温だから気分も爽快。
観光にはお勧めの場所だ。西門も車が行き来している。西門から古城珊瑚公園歩道を歩いて中心部に戻った。 -
東門上から西方向を眺める
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東門から北門へ歩く
まだかなり城壁も残っている
日本軍の台湾出兵で清朝は危機を感じたようだが
城壁完成の15年後、1895/明治28年
日清戦争で台湾は日本に割譲されることになった -
17:26.撮影
北門到着
門は道をまたぎ車が行き来する
https://www.google.com/maps/@22.007809,120.747881,3a,75y,19.7h,85.08t/data=!3m4!1e1!3m2!1s5NHpAoiJ1o2ZRHKj9oRvUA!2e0?hl=ja-JP -
北門横に展示の「M41D軽戦車」に登る
64歳にして初めてタンクのてっぺんに
体が固くて足が上に上げにくく
無様な格好にて這い上がる
降りる時はもっと格好悪かった
戦車は硬かった -
M41D軽戦車
私が登ったあと子供も登っていた -
17:34.撮影
北門から西門へ 城壁散歩道を歩く
2月の恒春は春真っ只中、気分爽快 -
昨日の夜にも来た西門へ今日も来る
恒春古城はこじんまりして散策に良い -
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17:48.撮影
古城珊瑚公園歩道を歩いて中心部に戻る -
恒春の長い一日の終了
果物ジュース店発見
「薬は毒」で「食い物が薬」“医食同源”は真理
腸がすべて、身体は“ちくわ”消化器官は身体の外
口から肛門まで一直線美しく通り良ければ病なし
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■恒春の長い一日の終了
そのあと果汁の店を見つけて「綜合果汁¥40元」を頼んで飲む。この店を見つけたら大概飲んでいる。我が家でもミキサーを購入して作ろうと思う。以前ジューサーで野菜と果物で野菜ジュースを作っていたが絞りカスの処理が邪魔臭い。ミキサーなら全部がジュースになりカスがでない。丸ごと飲めるので栄養価も高そうだし。
「薬は毒」で「食い物が薬」「医食同源」を確信する私です。「ベジブロス」もやりたい。
午後6時15分部屋に戻った。朝5時半に起床し、「包手」で朝食を食べ、8時から目的地を回った。充実の一日に大満足し今日を終える。明日はまた楽しみな「包手」で朝食を食べてから枋寮に向かう。 -
綜合果汁(フルーツジュース)¥40元
果物そのままミキサーに水と砂糖をいれて混ぜる
果物新鮮ならばジュースは美味しい -
18:15.撮影
充実の一日だった
明日は枋寮から高雄に行く
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