2015/02/02 - 2015/02/06
3369位(同エリア4505件中)
明石DSさん
包手で朝食
包手が日本で店を開いても繁盛間違いなし
メニュー豊富で味も良し
店員の“オバチャン”も皆手際よくプロフェッショナル
きっとオーナーが素晴らしいのだろう
トップよければ全て良し
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3日目:2月4日(水):晴れ
恒春から枋寮・高雄下淡水渓鉄橋・日本海軍鳳山無線電信所(高雄)へ行く
2015/平成27年2月4日(水)
■恒春を発つ朝
恒春で二日目、そして出発の朝を迎えた。四泊五日の台湾南部の旅も初日と最後は移動日で正味は三日間。昨日は充実の一日だった。そして今日もそれを願って恒春を出発する。朝5時半頃起床、出発の準備をしてから「40元×2枚=80元」分の朝食券を持って「包手」へ。
今朝も昨日同様活気ある朝の光景があった。豊富なメニューに感心しながら何を食べようか?と、そして今日はあとで食べるつもりで野菜サンドと揚げパンも買った。料金は128元だったが昨日のことを覚えてくれていたようで48元もまけてくれた。
店では豆漿(とうじゃん・豆乳)とタマゴサンドと野菜饅頭を食べる。台湾は支那満洲より食物は何でも美味しい。
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豆漿(豆乳)はあれば必ず飲む
私が子供の頃“ソップ”と言っていた
神戸市の湊川市場の豆腐屋で5円か10円だった
サンドウィッチ・揚げパンはお持ち帰り -
7:27.撮影
二泊した「隆徳旅客之家」
一泊¥5,519、朝食付き
朝食は包手で、最高!
恒春中心部で便利
万が一再訪の機会あれば迷わず泊まる
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■バスで枋寮(ぼうりょう)へ
ホテルに戻り7時半前に退房した。墾丁快速巴士の始発は墾丁が午前8時(発)→南灣→恒春8時15分。なので待合室でゆっくりしようと思って「恒春轉運站(恒春バスターミナル)」行き「墾丁快速で枋寮まで」と窓口で切符を買おうとしたら「このバスに乗って」と言われ、145元の切符を買って考える間もなく座席に座った。
「えっ?墾丁快速に乗るつもりだったのに・・・また各駅停車のバスか」と一瞬頭をよぎったが、きっとこっちが早く枋寮に着くんだろうと、午前7時36分恒春から枋寮に向かった。
恒春に二泊したが本当に雰囲気も良く居心地の良い恒春古城だった。でも二度と来ることはないだろうなァ〜。やっぱり行ってない所を選ぶから。 -
7:36
恒春轉運站に行って枋寮までと言ったら
「このバスに乗って」と言われて乗った
「えっ! あれっ?」と思ったが乗った¥145元 -
8:07.乗車後31分
左に台湾海峡を見ながらR1号線を走る -
枋寮(ぼうりょう)に到着
8:25.枋寮に到着、49分のバスの旅
このバスに乗って来ました
慌しく乗ったからバスの外見も知らず
降りて見たら、観光バスみたいだった
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■枋寮に到着
来る時同様車窓の景色を楽しみながらあっと言う間に枋寮(ぼうりょう・ファンリャオ)駅前に到着。8時25分、50分弱の乗車だった。目的地は枋寮站から“Google”地図徒歩ルート検索10分の「東龍宮」“ストリートビュー”でも事前に確認しているが、やはり現場に立つと「えっ〜と、こっちの方だろう」という感じ。
枋寮站はかって日本最南端の鉄道駅だった。枋寮から南は1992年に延伸開業になっている。台湾出兵時の1874/明治7年の時も清兵が駐屯していたのはこの枋寮までで、その以南は当時清朝政府の管轄外であったようだ。
そして日清戦争後の台湾割譲を受けて1895/明治28年5月29日、北白川宮師団長率いる日本軍最初の上陸地点が澳底(おうてい)。続いて同年10月11日乃木希典中将率いる第二師団約1万人の日本軍がこの枋寮に上陸している。
https://www.google.co.jp/maps/place/%E5%A1%A9%E5%AF%AE%E6%B5%B7%E6%B5%9C%E5%85%AC%E5%9C%92/@25.0422301,121.9271169,19z/data=!4m2!3m1!1s0x0000000000000000:0x5bb1fecd9beb7250?hl=ja
枋寮に来たのは東龍宮に行くのが目的。台湾には日本人が祭神となっている寺が今も沢山ある。全部でどれくらいあるのか分らないが、二年前に台南の「鎮安堂飛虎将軍廟」、東石(とうせき)郷の「富安宮(ふあんぐう):義愛公」に行った。この東龍宮(とうりゅうきゅう)も日本人、田中綱常(たなか つなつね)少将が主祭神となって祀られている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E7%B6%B1%E5%B8%B8
「神社は祭神」「寺はご本尊」我が家の宗派は真言宗。私は墓参りは好きだが年数回行く程度。綾部にある菩提寺は遠く一年一回しか行かない。そして四男である我が家にはご先祖を祀る位牌もないが、小さな仏壇を購入し亡き両親はもとより親戚一同ご先祖を勝手に祀っている。そして朝夕二回づつ般若心経を暗誦し今日の無事をご先祖に願い夜には感謝する。私の宗教は八百万の神(神道)とご先祖様。
台湾の寺も「宮」「廟」「寺」等々あるが違いはよくわからない。しかし台湾人の宗教心の熱き気持ちは街を歩いていても伝わってくる。日本同様アチコチにそれられしき大小様々な宗教施設がありどこも花が飾られ供え物が溢れ掃除も行き届いている。その熱意はいつも賽銭の金額に迷う私の及ぶところではない。「仏教」「道教」「土地公」「媽祖」と何がなんだか分らないので祀られている神は、すべて勝手に「祭神」とする。
枋寮駅にはコインロッカーはなく駅員に言ったらリックを30元で預かってくれた。駅を背に左手方向(南)に歩く。駅すぐ横の「枋寮芸術村」の通りを「何やこりゃあ・・・」と見ながらボチボチ歩いた。その道をまっすぐ歩いたら10分足らずで午前9時前に「東龍宮」に辿りついた。写真では見ていたが「あっここや」と。今では“Google”アースや“ストリートビュー”で「下見?」しての旅。旅の様変わりを思う。 -
リュックを預けるために枋寮站に向かう
駅にコインロッカーはなく
「そこに置いてって」と駅員に言われた
料金は30元 -
1941/昭和16年12月15日開業
日本時代この枋寮が台湾最南端の駅
1992年、ここから南に延伸された
日本の台湾出兵時
枋寮には清兵が駐屯していた
367823,120.594958,3a,75y,58.88h,92.32t/data=!3m4!1e1!3m2!1sB9eiXAv8q4MF0gXXb30bqQ!2e0?hl=ja-JP -
枋寮站を背に左方向に歩く
「枋寮芸術村」なる案内塔があった
『エリア内の芸術家や藝術村展示スペースには
大学生が集まり作品を展示しています。』
ふ〜ん・・・。 -
カマキリのような?
ここを歩いて東龍宮に向かう -
「枋寮芸術村」ならではの案内標識
家の壁もキャンバスになっている
ブラブラ歩くには楽しい通り -
東龍宮に来る
8:48
増築中の東龍宮
「神社は祭神」「寺はご本尊」
ならば東龍宮は?
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■東龍宮(とうりゅうきゅう)に来る
「僑?國民小學」前にある。この小学校は民國48年(1959年)からなので日本時代にはなかった。東龍宮は道路側に増築中で足場が組まれコンクリートの建屋が出来ていた。まずお宮の外周を一周し外観の写真を撮り、どこから入れるのか探していた。人がいたので「日本から来ました。見学させて下さい」と言ったら「二階に上がれ」と言われた。
中に私と同年輩の“オジサン”がいたので挨拶したら日本語で書かれた「田中綱常将軍簡紹」というパンフレットをくれた。この“オジサン”は日本語を話せなかった。外観も豪華だが一歩中に入ったら豪華絢爛、周囲、天井含めて彫り物が溢れている。
何で日本人を祭神としてこれだけの宮を作れるのか?飛虎将軍廟も富安宮もそうだが台湾の人たちの信仰心を不思議に思う。私は近所で外国人を祭神として寺を建てるといってもピンと来ないし余程の関わりがなければ寄付することはない。
日本人が神となっているところは、どことも夢枕に出てきて供養したら、その結果良いことが続いて廟や宮の創建に繋がっている。そしてそれが地域に根ざし日本人を神とすることに何ら違和感も持たず“土地公”として親しまれこんな立派なお宮が各地で存在し続けている。 -
「僑?國民小學」の前に東龍宮は建っている
この小学校は1959年開校だから日本時代にはなかった -
増築前も立派な宮だが、また一段と大きくなる
台湾にはいたるところのこのような廟がある
日本にも神社仏閣お地蔵さん等々沢山あるが
https://www.google.com/maps/@22.363365,120.598957,3a,75y,215.97h,96.51t/data=!3m4!1e1!3m2!1sOMmzRrQJ89GydgUVDMh6Wg!2e0?hl=ja-JP -
東龍宮:五祭神すべて日本人
東龍宮の五祭神
左から
北川神将・良山神将・田中大元帥(主祭神)・中山神将・乃木大将軍
女性二人は一体誰なのだろう?
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■東龍宮:五祭神すべて日本人
ここは主祭神は田中将軍だが他に四人の神が祀られ全てが日本人。ホンマに不思議だ。乃木希典・北川直征伍長・中山奇美看護婦・良山秋子看護婦。乃木希典はこの枋寮に第二師団を率いて上陸し、後に第三代台湾総督にもなった。
そして北川直征伍長は新生日本初の海外派兵「台湾出兵」1874/明治7年5月17日、偵察中に敵銃弾を受け戦死した人物だ。明治維新後の日本軍最初の戦死者となった。
二人の日本人看護婦さんが誰なのか?今のところ詳細は分らない。日本に「従軍看護婦」制度が出来たのは明治20年以降と言われている。この二人の日本女性のことを知りたいけど情報はない。
ネット上には「東龍宮」紹介のHPもいろいろある。
『枋寮「東龍宮」と田中綱常少将のこと』
http://taiwanyuri.blog.fc2.com/blog-entry-490.html
『第二次台湾一周7日目①東龍宮(屏東縣枋寮?) 』
http://blogs.yahoo.co.jp/sekkie_taiwan/31767873.html
『日本人・田中將軍を祀る廟「枋寮東龍宮」』
http://ameblo.jp/loveformosa-makimaki/entry-10888587403.html
賽銭とは別にちょっと寄付したら“オジサン”が領収書のような「感謝状」を書いてくれた。そのあと10時前くらいに偶然ここの宮主(責任者)の石羅界(女性)さんが来られた。この方こそ東龍宮を建立した方で上記のHPでも紹介されている。“オジサン”の話では「毎日は来ない」ということだったので運が良かった。
飛虎将軍廟に行った時も
http://4travel.jp/travelogue/10841316
ちょうど廟の顧問の肩書きを持つ女性がおられていろんな説明を聞かせてもらい近くにある「親寺」にも案内してもらった。今回も宮主さんに出会えた。これも何かのお導きなのかと、運の良さに感謝。石羅界さんは毎年日本を訪れ今年も6月に行く予定とのこと。そして祭神ゆかりの地を訪ねている。
田中将軍の墓参もし、北川直征伍長の墓がある鹿児島にも行き、石羅界さん自身が鉛筆を使って苦労して墓の拓本である「墓拓」をとったと日本語で話をしてくれた。それが額に入れてある。墓碑には「明治七年五月十八日台湾於四重渓戦死 徴集隊第六○隊伍長 北川直征之墓 鹿児島懸士族」と記されている。
“E・H・ハウス”の従軍記や他の資料でも北川伍長の戦死日は5月17日だが墓碑には18日とある。北川伍長は徴集隊伍長とあるが維新後の日本の徴兵制度は・・・。
『明治六年十一月、国民皆兵の思想にもとづく徴兵令が布告される。この布告は、軍事的負担を士族のみではなく四民全体に求めるという意味において、日本の兵制のみならず近代国家の確立という観点からも大きな転換点であった。』
「台湾出兵における徴兵問題」
『陸軍省は開戦(日清戦争)に際し五万名近い兵員を必要とするが、明治六年の兵員数は一万一五八七名に過ない。つまり、陸軍省は四万名近くの増員を必要としたのである。』
http://www.musashino-u.ac.jp/facilities/institute_of_political_economy/pdf/nenpo05/05.goto_135-172.pdf#search='%E5%BE%B4%E9%9B%86%E9%9A%8A%E7%AC%AC%E5%85%AD+%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E5%87%BA%E5%85%B5'
二階にテラスがありそこで机を囲んでお茶を飲む。“おっちゃん”“オバチャン”の世間話が弾む場所なのだろう。私も座ってお茶を出してもらいしばらく筆談を交えて石羅界さんたちと話をした。この東龍宮もそうだがこういった宗教施設が地元の人たちの憩いの場になっているのだろう。日本の神社仏閣の格式の高さと違ってこれも又良し。
石羅界さんを知る日本人は多いと思う。私は初対面で少し話をしただけだが美人で姿勢良く、宮主としても人としても魅力ある人物だ。お茶を飲みながら「海岸まで歩いて行けますか?」と聞いたらそこにいたお兄さんが「単車で案内する」と言ってくれた。
今すぐでなくもう少しこの場に居て“ゆっくり”したかったがお兄さんにせかされるようにこの場を去ることになった。 -
本宮供奉主神:「田中大元帥」
他、神様が列挙されている -
ちょっと寄付したら丁寧にも感謝状を書いてくれた
この“オジサン”が守をしていた -
北川直征伍長も枋寮で神となって驚いただろう
ご遺族も驚いたに違いない -
右端:乃木大将軍
主祭神:田中綱常大元帥の最終階級は少将
乃木希典は大将、神となって田中綱常は大元帥になった -
この東龍宮参拝を通じて 日台の元日本兵軍人の交流がある
「愛する日本の孫たちへ」より
http://sakuranohana.jp/books/9784434103773/
許文龍氏の言葉
あの頃の私たちの感覚は「我々は百%日本人」というものです
日本軍が勝ったら「万歳!万歳!」と心から喜んで叫んでいました
命をかけても日本と言う自分たちの国を守るんだという気持ちを持っていたのです
今振り返っても、その思いに悔いはありません
物質的に苦しかったけれど、良い時代でした。
懐かしいです、本当に懐かしいです。 -
北川直征伍長の墓拓
宮主の石羅界さんが鹿児島県に墓参し
自ら苦労して鉛筆を使ってこの墓拓をとった
「明治七年五月十八日台湾於四重渓戦死
徴集隊第六○隊伍長 北川直征之墓 鹿児島懸士族」 -
東龍宮の内部は装飾品と四方八方彫刻に囲まれ
ぎっしりと詰め込まれている
果物やお酒などお供え品も沢山置かれてる
台湾の人たちの熱き宗教心には恐れ入る -
二階のテラスでお茶をご馳走になる
ここでしばらく日本語・中国語で話をした -
10:21
このお兄さんが単車で海岸へ連れて行ってくれることに
もう少しお茶を飲んでいたかったけど
単車の二人乗り、私はノーヘル
あっと言う間に海岸に到着
https://www.google.com/maps/@22.367074,120.590732,3a,75y,232.8h,86.42t/data=!3m4!1e1!3m2!1sPm-6bZ5557SDij8IEc3DKQ!2e0?hl=ja-JP -
昔あった乃木軍上陸記念碑
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■枋寮の海岸へ行く
石羅界さんにも会えたし東龍宮滞在1時間十分満足だった。単車の後部座席に座り東龍宮を後にした。ものの数分で海岸に到着、地図で見れば分るが歩いてもすぐに行ける距離だった。海岸沿いにトーチカが残っていた。このトーチカは作りが見た目粗雑で日本軍が作ったのではなく大東亜戦後が大陸との緊張状態のなかで国民党軍が作ったトーチカだろう。
帰国後分ったが明治28年の乃木軍上陸記念碑は、今の「枋寮国民小学」の近くにあった。枋寮国民小学は明治36年「阿猴廳枋寮庄枋寮公學校」として開設され昭和16年4月に「枋寮公学校」となり現在に至る。枋寮國民小學の校舎が見たかった。日本時代の校舎が残っているかも・・・と。
「故乃木将軍上陸記念碑」は戦後廃棄され1999年枋寮公所によって海岸沿いの公園内に概略を記した記念プレートが設置されているようだ。残念ながらそのことは知らず行けなかった。
日清戦争勝利で台湾割譲を受けたが、台湾はそれを受け入れず台湾民主国を建国し日本に抵抗を示した。そのため日本軍は1895/明治28年5月29日:北白川宮能久親王(きたしらかわのみやよしひさしんのう)率いる近衛師団が澳底より上陸。6月7日には台北を占領した。 http://4travel.jp/travelogue/10888694
第二師団:乃木軍は10月11日この枋寮に上陸し10月21日には台南入城、11月18日総督府による全島平定宣言に至る。
『明治28年11月18日台湾平定戦は終結した。この戦闘で、日本は約76000人の兵力(軍人約五万、軍夫二万六千人)を投入、死傷者5320名(戦死者164名、病死者4642名、負傷者514名)、さらに軍夫7000人の死者を出し、台湾民主国軍をはじめとする抵抗勢力は義勇兵・住民あわせて14000人の死者を出したとされる』
1895/明治28年11月から1945/昭和20年8月までの50年間台湾は日本国だった。併合し植民地ではなく日本国として台湾を統治し行政区分は最初が「台北県:台湾県:台南県:澎湖島庁の三県一庁」で始まり昭和20年の時点では「台北州:新竹州:台中州:台南州:高雄州:台東庁:花蓮港庁:澎湖庁の五州三庁」だった。
私の認識は誰が何と言おうが「台湾を植民地としたのではなく、併合し日本国とした」であり、当時の世界の常識を考えても日本の行った台湾統治は立派であり日本人の誇りとする。その理由の一つに教育がある。しかし私のこの思いは、私以外の日本人にも過去現在未来の台湾人にも同意を求めるものではない。
六士先生
『1895年:明治28年5月17日、日清戦争に勝利し台湾が日本に割譲され、すぐの5月21日より日本統治が始まった。日本統治開始後すぐに初代台湾総督に就任した樺山資紀は「教育こそ最優先すべき」とし同年6月、日本全国から集めた人材7名を連れて台湾へ渡り、台北北部の芝山巌恵済宮という道観の一部を借りて同年7月に芝山巌学堂という小学校を設立した。』
「台湾を植民地にして搾取」などいう魂胆が欠片でもあれば、こんなことは思いも及ぶまい。六士先生と用務員の七名は赴任すぐの明治29年1月1日現地抗日ゲリラに殺害された。それでも三ヵ月後には芝山巌学堂を再開している。植民地化と台湾人が言うのは仕方がないが日本人が言うのは先人を冒涜するに等しい。
海岸から椰子の実を見上げながら通りを歩き枋寮站に向かった。ここも恒春と同じ選挙区のようで通りには民進党候補「荘瑞雄」の選挙事務所があった。そして枋寮站が前方に見えたが12時22分(発)まで1時間くらいあったのでケーキ屋さん「枋寮85℃」に入って珈琲(¥35元)とケーキ(¥52元)で休憩した。 -
昔の地図
この附近にあった -
日本時代この附近に、第二師団:乃木軍が
1895/明治28年10月11日上陸した記念碑が建っていた
「枋寮附近古戦場導覧」
http://talin5814.web.fc2.com/war/iwe_study/6/chiadon.htm
https://www.google.com/maps/@22.38542,120.566612,3a,75y,175.21h,68.7t/data=!3m4!1e1!3m2!1sNRPA2ey_ZS58ZfzMcy-JNQ!2e0?hl=ja-JP -
海岸にあるトーチカ
日本軍築造とは、とても思えない雑な代物
戦後中共と対峙した国民党軍が作ったのだろう
乃木軍は枋寮に上陸し10月21日には台南入城
11月18日総督府による全島平定宣言に至る -
第二師団:乃木軍枋寮上陸風景
-
枋寮上陸の第二団第三旅団歩兵第四聯隊
白色夏季軍服、(矢印)乃木希典陸軍中将
写真の風貌からも乃木中将だと分る
「枋寮附近古戦場導覧」より
http://talin5814.web.fc2.com/war/iwe_study/6/chiadon.htm -
ここは枋寮站から南東方向の海岸
黒砂の海岸、この右手方向に
第二団は上陸してきた
枋寮 東龍宮
https://youtu.be/baICZaiahi8 -
枋寮郷公所の前で「台灣金指山慈善會」が
何かの慈善活動をしているようだった
なるほど「金指山」は宗教団体のようだ
ちなみに私の宗教は、「八百万の神」と「ご先祖様」 -
恒春から予定通り東龍宮の参詣を終え
枋寮駅前ケーキ屋「枋寮85℃」で休憩 -
11:13.撮影
珈琲(¥35元)とケーキ(¥52元)
さあ、ここから列車に乗って九曲堂に行く -
枋寮駅から九曲堂駅へ
枋寮駅内の売店
観光土産が多くあり記念に二つ買った
買ったのは台湾の全土の地図木版
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■枋寮から九曲堂駅へ
枋寮から九曲堂駅まで區間車(69元)で行く。預けていたリュックを引き取り切符を買って第一月台(一番ホーム)から定刻12時22分に出発。區間車といっても空いているし乗り心地は快適。車窓の景色を楽しみながら九曲堂駅(きゅうきょくどうえき)に向かった。
車窓から椰子畑が延々と広がっている景色は初めて見た。そりゃあ2月の明石は冬真っ只中。気温も景色も違う。
この列車は「林邊火車站」まで海岸沿いを走ってそこから北に向かう、そして屏東站から西に高屏渓に架かる鉄橋が日本人技師「飯田豊二」が作った「下淡水渓鉄橋(かたんすいけい-てっきょう)」だ。その鉄橋を見に来た。
列車の中ではどっち方向に走っているのかも分らず、鉄橋がどっちの窓から見えるのかも分らず。車窓から今は分断されている鉄橋を写真で撮りたかったが見えてから「あっ、これやろ」と思ったが、まともに写せず。午後1時13分九曲堂駅に到着した。乗車時間は51分。「臺灣鉄路管理局」
九曲堂駅は『明治40年(1907年)10月1日開業』と『明治41年(1908年)6月25日開業』と二つある。現在の駅舎はいつ建立されたものなのか?分らない。 台湾第二の都市:高雄の東郊外にある九曲堂駅前はのんびりしていた。 -
第一月台から12:22分に出発
一応来る前に時刻表を調べ予定を立てているが
いつも乗るまで不安、そしてネットの驚く進化で
情報があり過ぎ整理も大変、今後時代が変われど
外国旅行、未知なる土地への旅はきっと不安は続く -
台湾列車の旅はいつも快適だ!
區間車であろうが、莒光 自強であろうが
これだけ空いていれば尚のことフフフ -
13:21.撮影、枋寮より約1時間経過
竹田駅の手前で車窓の景色を写す
椰子畑が広がる景色は初めて見る
やっぱりここは異国だ
椰子畑が車窓に広がっていた -
13:52.撮影.下淡水渓鉄橋
気付いて「あっ?これがそうちゃう」
と、思ったが列車は走る
この時は、どの方向に走っているのかも分らず
やっとこさ車内から写した写真 -
1907?1908?年開業とある
日露戦争勝利1905/明治38年
駅舎はいつの時代に建立されたものなのか?
https://www.google.com/maps/@22.656529,120.420702,3a,75y,96.53h,90.56t/data=!3m4!1e1!3m2!1smenEcb2hP2hfellDyn6gOQ!2e0?hl=ja-JP -
飯田豊二技師(享年40歳)
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■飯田豊二の記念碑
古蹟・歴史・文化を尋ねての自転車道の案内図もあり「観光の街」の雰囲気はある。まず飯田豊二の記念碑へ行こうとその方向に向かった。駅を背に右手方向に久堂路鐵路巷を歩けば日本時代のレンガ造り、鳳梨(Fengli フォンリィ パイナップル)罐詰工場があった。歴史建築として保存されている。
そこからすぐの歩道沿いに写真で見ていた飯田豊二の履歴がタイルにプリントされた案内板の現物があった。『飯田豊二は日本静岡懸人、明治時代に屏東線鉄路の責任者として下淡水渓鐵橋建造時、過労によって台南病院で亡くなった。享年40歳』と大きな文字で書かれていた。台湾各所で日本人の功績を今に伝えてくれていることにいつも感動する。
その向こう線路のすぐ傍に「記念碑」との三文字が大きく刻まれた碑がある。記念碑は線路に向って建っていた。その台座に金属板に漢文で讃える文章を書いたものが嵌めこまれていた。
鉄橋は『1913年末に竣工、1913年12月20日、阿猴駅(現屏東駅)と九曲堂駅の間が開通』飯田豊二はその半年前、1913/大正2年6月10日満39歳で亡くなった。
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「下淡水渓鉄橋:日本最長の大橋梁」
国柄探訪:台湾人と日本人が共に生きた日々 「国際派日本人養成講座」より
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogdb_h21/jog591.html
飯田豊二技師(享年40歳)
■日本最長の大橋梁■
西南部の高雄県とその東の屏東(へいとう)県はかつて下淡水渓(しもたんすいけい)と呼ばれた大河川を県境としている。流域面積では台湾最大の河川である。この河川に大正2(1913)年、3年がかりで全長1526メートルもの大橋梁がかけられた。
完成時には、天竜川鉄橋や朝鮮の鴨緑江鉄橋よりも長く、日本最長を誇っていた。この橋はトラスという複数の三角形を組み合わせた構造を用いている。24連ものトラスが延々と続く光景は、世界の鉄道技術者を感嘆させるに十分なものだったという。
この橋梁が果たした役割は大きかった。これまで下淡水渓によって隔絶されていた屏東地方は、新興産業都市・高雄と直接結ばれ、農産物を鉄道で輸送できるようになった。また高雄の港湾施設にインドネシアからボーキサイトが輸入され、アルミニウム工業が発達した。屏東産のパイナップルは、アルミ缶に詰められ、大半が日本に出荷されるようになった。
高雄から鉄橋を渡る手前に位置する九曲堂駅の駅舎近くに古めかしい、見上げるような大きさの石碑が建っている。鉄橋の架設に努めた飯田豊二という技師の碑である。
飯田技師は静岡県生まれで、明治30(1897)年に28歳の若さで台湾に渡った。明治43(1910)年には鉄道部技師となり、翌年から台湾総督府鉄道部打狗(高雄)出張所の技師として、下淡水渓橋梁の架橋工事に携わった。
しかし、過労がたたって病に倒れ、自らが手がけた鉄橋の完成を見ることなく、大正2(1913)年6月10日、台湾総督府台南医院で世を去った。享年40歳であった。その後、台湾総督府は飯田技師の功績を讃え、この碑を建立したという。
現在では石碑を中心に公園が整備され、その由来が中国語と英語、日本語で案内板に書かれている。郷土史に興味を持つ人びとが頻繁に訪れ、鉄橋と共に歴史遺産の扱いを受けている
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九曲堂泰芳商會鳳梨罐詰工場
http://heritage.khcc.gov.tw/Heritage.aspx?KeyID=ae233e58-065c-4ab1-b839-9a208fc96855
ここ大樹郷はパイナップルの産地であり輸送の利便性から
缶詰工場や沢山あり、米・砂糖と並んで三大産業となった
戦後、この建物は陸軍の自動車修理工場、宿舎として使われた
そんな説明が書かれていた -
木造建築も良いが、レンガ造りも良い
この建物も遠目で見れば美しいが
近くで見れば結構粗雑なレンガ造りだった -
下淡水渓鐵橋を作った技師:飯田豊二の紹介パネル
簡潔な紹介文だ
飯田豊二は日本静岡懸人
明治時代に屏東線鉄路の責任者として
下淡水渓鐵橋建造時、過労によって
台南病院で亡くなった。享年40歳 -
記念碑もいたってシンプル
鉄路に正面向いて立つ
記念碑の三文字が刻まれている -
記念碑は線路に向かって立つ
-
漢文で書かれているとのこと
「温厚寡言(寡黙と同じ)」というのは読めた
飯田豐二記念碑 -
飯田豐二記念碑
http://content.ks.edu.tw/33k/007_dashutownship/004_kno03.html
https://www.google.com/maps/@22.658366,120.421445,3a,75y,150.08h,90t/data=!3m4!1e1!3m2!1s-dDQtrh2U1ACuxBSBu3edg!2e0?hl=ja-JP -
下淡水渓鐵橋へ行く
14:19
飯田豊二記念碑から下淡水渓鉄橋へ向かって
「久堂路鐵路巷」を北に歩く
https://www.google.co.jp/maps/@22.6584284,120.421396,21z?hl=ja
今も平屋の鉄道官舎長屋で人が暮らしている
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■下淡水渓(しもたんすいけいorかたんすいけい)鐵橋へ行く
その飯田が精魂を傾けて作った鉄橋を見に行こうと地図を手に向かった。どうやって行けば良いのか分らず。川も見えず・・・。“おっちゃん”に聞いたら「この道を真っ直ぐに行き次の交差点を右に曲がってまたまっすぐ」と教えてもらい歩く。久堂路鐵路巷は日本時代の平屋の鉄道官舎が左右に残っており今も人が暮らしている。
右に曲がって久堂路を西方向に真っ直ぐ歩いた。この道は鉄道をまたぐ道で21号線に突き当たる。その角にガソリンスタンドがあったのでそこでもう一度聞いたら「すぐ向こうににある」と教えてもらい記念碑から20分弱で辿りついた。そこには想像していなかった風景があった。
下淡水渓鉄橋に上がるエレベーターが設置され立派な公園(入場無料)として整備されていた。水曜日の午後2時半ごろだったが多くの観光客らしき人たちや遠足なのか?子供たちも沢山いた。この河川敷一帯が旧鉄橋湿地生態公園となっている。
「へェ〜、こんな素晴らしい状態で鉄橋が保存されているとは・・・」と驚く。「國定古蹟下淡水渓鐵橋」とある。早速エレベータで鉄橋に上がった。北側には1987/昭和62年新高屏渓橋(鉄橋)が完成し、1992/平成4年まで共に共用されていた。そして下淡水渓鐵橋は2005/平成17年台風(ハイタン)で破損し現在に至る。 -
14:22
久堂路鐵路巷から久堂路の大通りへ 右折してすぐに線路をまたぐ
高架上から九曲堂駅方向を写す -
台湾中油(GS)を左折し九大路(R29)を北へ
すぐに正面に鉄道高架橋が見えてくる
その右側に下淡水渓鉄橋の公園がある -
14:32.撮影
下淡水渓鉄橋に到着、正面左:エレベーター
飯田豊二の記念碑から13分ほどで到着した
九曲堂駅から徒歩15分ほど
こんな素晴らしい鉄橋公園として保存されているとは
来て、見て、驚いた!えっ?エレベーターまである・・・と
https://www.google.com/maps/@22.662102,120.426563,3a,75y,90.59h,79.48t/data=!3m4!1e1!3m2!1sFYlxvbaPkgGvBL7kXkLD8Q!2e0?hl=ja-JP -
高雄全洲景勝交通鳥瞰図
旅客服務中心(観光サービスセンター)内に展示されていた -
上図左上には日本も描かれている
イ(東京)・ロ(大阪)・ハ(神戸)・門司
何で?東京、大阪、神戸、門司なのか? -
下淡水渓鉄橋を歩く
14:35
?完工:1913/大正2年12月20日、全長1,526m
完工時、阿賀野川鉄橋・天竜川鉄橋・鴨緑江鉄橋よりも長く日本最長だった
大正2年11月22日 - 史上最後の征夷大将軍
徳川慶喜が感冒にて死去。享年77(76歳0ヶ月25日)
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■下淡水渓鉄橋を歩く
その新鉄橋を時折列車が通過して行くのを眺めながら飯田豊二が作った単線の鉄橋を歩いた。レールの横に鉄板が敷かれ遊歩道となっている。鉄橋の上部構造である鐵の骨組み(トラス)は日本で作って船で運ばれてきた。それが川の中央に向かって伸びており美しい芸術作品を思わせる。
途中で鉄橋遊歩道は柵で阻まれてしまうが、河川敷に広がる公園の上を歩き眺望も良く気分爽快。遊歩道の中間くらいに飯田豊二の写真入りの大きなパネル展示があった。来る前に飯田豊二の写真は見ていなかったので現地で顔を初めて知った。官服姿の上半身だけの写真だが凛々しく男前。「これが飯田豊二か、かっこいいなあ・・・」と。
その男前ぶりにも日本人として誇らしく思う。「臺灣総督府鐵道部技師:飯田豊二」とあった。ここに来て良かった。来れて良かった。明治開国から大東亜戦争敗戦のその日まで日本人は名誉を重んじ誇り高き民族として世界を舞台に雄々しく活躍した。その精神と資質あらばこそ彼らが作った建物も鉄橋も威厳と美に溢れ今も見る者を感動させる。
鉄橋遊歩道に敷かれた鉄板の上を歩き、枕木をまたいで歩き、鉄橋上からの景色を堪能し、今度は下に降りて下淡水渓鉄橋を見上げた。土台の橋台は一つ一つが芸術作品だった。花崗岩・煉瓦・コンクリートを使っているようだがその橋台の見た目のデザインにも驚嘆した。強度耐久性は無論だろうが、それに加えて見た目も素晴らしい。
これぞ明治大正昭和初期の日本人の真骨頂なり。作品はその人を表す。人は国を表す。国家と国民は不可分なり、国の体(テイ)が国民の体だ。立派な国には立派な人物が育つ、つまらん国にはつまらぬ奴が育つ。満ソ国境の関東軍要塞もみんな美しかった。台湾清水の清水國民小學の校舎にも感動した。
我大東亜戦争敗戦までの日本国と日本人に憧れる。敗戦後の日本に本物の人間は一人たりともいない。何故なら日本国そのものが偽国となったからだ。戦後日本は独立国ではない。誰が何と言おうが私の認識はそうだ。真の独立国とは、自主憲法は無論であり自分で自分の国を守る軍隊を持ち、自国の安全保障を外国軍隊の駐屯に頼らない国家である。
現行憲法を即刻廃棄し帝国憲法を改正するか、若しくは新憲法を創憲し、北鮮に拉致された同胞を手段を問わず奪還した暁に再生日本の一歩は始まる。そこでやっとまともな人間が育ち得る。偽善と綺麗事からは金輪際本物は生まれない。本物が一人もいなければ「偽者か?」「本物か?」も判別不能だ。百万遍の繰言なり。
下淡水渓鉄橋に素直に感動した。飯田豊二さんに感謝し、ご冥福を心から祈る!デジカメ時間「14:32〜15:24」・・・52分の滞在だった。 -
エレベーターで鉄橋の上に立つ
2月4日(水)昼下がり、観光客多し
河川敷一帯が旧鉄橋湿地生態公園となっている -
すぐ横の1987年完成の鉄橋を列車が通過する
当初二つの鉄橋は供用されていたが
1992年(平成4年)その役目を終えた。
2005/平成17年台風5号(ハイタン)によって破損現在に至る -
下淡水渓鉄橋
-
鉄橋中央部の紹介パネルに
飯田豊二の写真も掲示されていた -
この場で初めて飯田豊二の顔を知った
こんな凛々しいカッコ良い人物だったのかと -
ここで鉄橋遊歩道は終わり
もっと先まで行きたいけれど・・・
でもここまでして保存してくれてありがたい -
次々と訪れる人多し
台湾の若者たちは日本統治時代をどう思う
台湾の百年後は如何に?台湾独立を支持する -
下淡水渓鉄橋の橋脚は芸術作品の如くなり
-
花崗岩・煉瓦・コンクリートを使っている
強度耐久性は無論だろうが、見た目も素晴らしい
物づくり日本人の真骨頂ここにもあり -
鉄筋コンクリートの橋脚の重要性は強度のみなのか?
こんなんで良いのか?何かが違うのではないのか -
何故に古いほうが美しい
新しい方が美しくあってしかるべきではないのか
まるで人の新旧を見るが如し
サラバ!下淡水渓鉄橋 -
日本時代に建てられた「?碯伯公祠」
祠の前には樹齢数十年のガジュマロ
じっとこの地にありて移り変わりを見守る
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■「海軍鳳山無線電信所」へ向かう
気持ちも高揚し、また往路と同じ道で九曲堂站に向かう。駅に行くまでに再度「記念碑」を見に行った。そしてさっきは気付かなかった「?碯伯公小公園導覧」という案内版が目に入った。
それには『日本時代にここに「?碯伯公祠」という祠が建てられこの附近住民の信仰の中心となっている。祠の前には樹齢数十年の榕樹(ガジュマロ)があり、向こうには鐵路員工宿舎がある。皆様楽しいご旅行を!』と書いてあった。
その「?碯伯公祠」で何人かの“おっちゃん”がテーブルを囲んで休憩していた。祠の前に説明通りのガジュマロの大樹が茂り日陰を作っている。満足して次の目的地、日本海軍鳳山無線電信所へ行くために駅前客待ちタクシーの先頭車に声を掛けた。「ここに行きたい」と「海軍鳳山無線電信所」の地図を見せた。
https://www.google.co.jp/maps/place/%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E6%98%8E%E5%BE%B7%E8%A8%93%E7%B7%B4%E7%8F%AD/@22.6307927,120.3741005,18z/data=!4m2!3m1!1s0x346e1b10e352f213:0xb8cd2dccc28d4759?hl=ja
“Google”地図の車移動のルート検索では、九曲堂駅から「距離9キロ弱、時間18分」ほどでそんな遠くもなく、古蹟・遺跡観光案内図にもちゃんと無線電信所は掲載されいるので「タクシーの運転手なら誰でも行けるはずだ」と思っていたが、50代後半くらいの“おっちゃん”運転手は首を傾げて地図を見ながらため息をつくばかり。
そこに別の運転手“Oさん”がアドバイスをしてくれたが、それでも分らないようで、結局「お前が行け」と“Oさん”のタクシーに乗ることになった。そしてすぐに出発したが、実はその“Oさん”もはっきり知らず。近づいてから車を停めて道を聞いて無事に辿りついた。20分ちょっと掛かった。 -
?碯伯公祠
昔、日本人も台湾人と共にここでの暮らしがあった
五十年、百年という年月は何もかも変える
下淡水渓鉄橋
https://youtu.be/gHqbNkDOS7E -
先頭のタクシーの運転手に
「海軍鳳山無線電信所」へと地図を見せて頼んだが
頭をひねるばかりで出発せず
代わりのタクシーで行く事に
しかしその運転手も知らなかった -
16:17.撮影
海軍鳳山無線電信所
九曲堂駅前から20分ちょっとで無事到着 -
海軍鳳山無線電信所に入る
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■海軍鳳山無線電信所に入る
ここに行くことにしたのは「下淡水渓鉄橋から高雄へ行く途中にある」ということだけだった。電信所に関しての物語りも知らないし、どんな物なのかも知らなかった。行こうと決めてからも興味ある資料も見当たらず、ただそこが「大きいなァ〜、敷地が丸いなァ〜。一体何やこれ?」というだけだった。
それくらい何も知らずここに来た。そして日本での情報では参観できるのは「土日 9:00〜17:00」となっていたので「外から何が見えるのだろう」というくらいのものだった。タクシーを降りたのは電信所の南にある「中正国小」前。この小学校は戦後1958年開校で、それまではここも海軍敷地内だった。
電信所の門に近づくと大きな門柱に「海軍明徳訓練班」と看板が掛かり、門は大きく開いていた。その時午後4時17分、「えっ入れるの?」と思いながら入って行った。右手に受付があり「参観したい」と言ったら『國定古蹟(原)日本海軍 鳳山無電信所 中日版』の「日本語・中国語」の立派な案内パンフレットをくれた。
無線電信所は日本海軍の行動範囲が南洋方面まで拡大し長距離無線通信が必須となって、東京近郊の「ニイタカヤマノボレ」を打電した「海軍無線電信所船橋送信所」、九州西部の「針尾送信所」、そして高雄にも建設し海軍通信網の骨格を形成した。この鳳山電信所は、1917/大正6年完成。
そして入ってすぐに、ここの規模の大きさに驚いた。地図で緑色で示された「高雄市海風社区公園」がそうだ。参観終了までの残り時間は40分。「一体どこから何を見れば、見るべき物を見逃さずに見れるのか?」と一瞬迷ったが、とにかく見ていこうと歩いた。
まず前にあったレンガ作りの建屋、事務所廳舎及び教室。回廊が設けられ清水國民小學の校舎に雰囲気はちょっと似ている。
http://4travel.jp/travelogue/10841420
ここは当然だが日本時代には海軍無線電信所としての役割を果たしていた。
その頃は広大な敷地の中に、堅固な大要塞と無線設備、日本の技術を総結集させた通信基地として海軍軍人が戦時下のなかで日々の軍務に励んでいたのだろう。山かと思えばそれが大要塞だった。内部はがらんどうで壁や天井が煤こげたところも多い。その二階でこの部屋を舞台に二、三十人の人が撮影をしていた。
そのスタッフに「すみませんが撮影中なので入らないで下さい」と言われた。内部も広く廃墟とまではいかない不思議な空間なので、映画やドラマの撮影に使うには良い場所だ。外に出て要塞の上に登った。まるで小山か丘の上に登るように階段があった。
階段には「危険」と書いた立て札がありビニールテープで上がらないようにしていたが、立て札も倒れテープも用をなしていないので無視して登った。高台に上り頂上に出た。それなりの眺望もあり入場門近くの受付が前方にあり、その人達に見つからないように気をつけながらしばし佇む。
大要塞が山になったのは、連合軍の爆撃から守るために土を盛ったとある。それが今では山になり草ぼうぼう木も何本か茂っていた。十字のラジオ放送局が今の敷地の南側にある。ここは通信局として使われていたとのこと。内部は今も機材・設備が残っており電信所の雰囲気が一番あった。
入り口は分厚い鉄の耐爆撃扉があり、玄関前の床には海軍の錨のマークがくっきりと今も残っていた。鐵扉の開閉取っ手は舵型丸ハンドル。日本帝国海軍ここにあり。敗戦までの鳳山電信所は無線電信所として外とは遮断され厳重な警備がなされていたのだろう。爆撃を受けるまでの塀の中は兵舎・病院その他も完備され美しかったと思う。
しかし日本の敗戦後、ここは国民党の情報部隊の駐屯地となり、政治犯・思想犯などの収容所になる。その為なのか不思議な独居房もあった。目的を隠すために「鳳山招待所」と名付けられた。「台湾特捜百貨店 - 片倉佳史の台湾体験」によれば、映画『台湾アイデンティティー』 に登場する人も監禁されていたそうだ。
http://www.katakura.net/xoops/html/modules/wordpress/index.php?m=201401
今では、この電信所は戦後台湾の歴史にとっても貴重な物となっている。高雄市政府文化局「原日本海軍鳳山無線電信所」に「開放時間:週六、週日 09:00~17:00」と書かれている。5時11分まで中にいたが門は開けてくれていた。 -
黒瓦に赤レンガ、回廊のある教室
説明書には事務所及び教室とある
芝生のなかに瀟洒な校舎
スマートな帝国海軍を思わさせる
当時の軍人はカッコ良かっただろう
カッコ良くは品行も自ずと自己規制する -
煉瓦作りの貯水槽と倉庫
入ったが敷地内の全貌が分らず
ウロウロしながら見て周った -
山の前面にこの大要塞(第一送信所)入り口が
いやこの要塞に土を盛って山にした
海軍電信所ってどんなものなのか?
初めて目にして、へぇ〜、ホゥ〜としか
デカイ!凄い!と、こんなんか・・・と -
第一送信所内は幾つもの部屋に別れ
内部は暗く、今は秘密基地の様相を呈する
戦時、戦線は拡大の一途を辿り
大規模電信所を建設、通信網の骨幹を形成した -
大要塞の大きな一室で映画かなにかロケ中につき
入室撮影は遠慮して下さいとスタッフに言われた -
第一送信所(大要塞)の一室
天井すこぶる高く、床は煉瓦敷き黒板(正面)もあった
日本の敗戦後、ここは国民党軍情報部隊の駐屯地及び
鳳山招待所として政治犯思想犯の収容所となる
その頃、この大要塞は「山洞」と呼ばれていた
1962年、ここは海軍明徳訓練班となり宿舎として使う -
大要塞(第一送信所)の上に登る
「危険」の札で登らないように警告があったが
そんな危険そうに葉見えなかったので無視して登った -
16:46
上は草と樹木が茂り小高い丘の頂上だった
大要塞の上から表門方向を写す -
小要塞
大要塞(第一送信所)と比べて小さい山
「原日本海軍鳳山無線電信所」
http://lisa20081007.pixnet.net/blog/post/34281439-%e5%8e%9f%e6%97%a5%e6%9c%ac%e6%b5%b7%e8%bb%8d%e9%b3%b3%e5%b1%b1%e7%84%a1%e7%b7%9a%e9%9b%bb%e4%bf%a1%e6%89%80%28%e5%89%8d%e6%98%8e%e5%be%b7%e8%a8%93%e7%b7%b4%e7%8f%ad%29 -
上から見たら十字形の建物「ラジオ放送局」
創建時から撤去時まで通信局として使用 -
ラジオ放送局玄関の帝国海軍錨のマーク
海軍兵学校:五省(ごせい)
一、至誠に悖(もと)る勿(な)かりしか
一、言行に恥(は)づる勿かりしか
一、気力に缺(かく)る勿かりしか
一、努力に憾(う)らみ勿かりしか
一、不精に亘(わた)る勿かりしか -
ラジオ放送局内には未だ設備も少し残っていた
撤去時まで通信局として使っていたからだろう -
十字のラジオ放送局内部の一室
-
17:11.撮影、入門時の受け付け
広大な敷地に点々と建物が残っていた
海軍鳳山無線電信所
↓
鳳山招待所
↓
海軍明徳訓練班
https://www.google.com/maps/@22.63054,120.374293,3a,75y,97.96h,91.82t/data=!3m5!1e1!3m3!1sQ6oFQI3i05SIlB-I4cogMg!2e0!3e5?hl=ja-JP -
尊龍大飯店へ
鳳山國中站へ向かって歩く途中
振り返って電信所を写す
海軍鳳山無線電信所
https://youtu.be/mTDd-aln2O4
////////////////////////////////////////////
■尊龍大飯店へ
今日の散策は終了し、高雄の今日のホテル「尊龍大飯店(ズンロンダァファンディエン Zunlong da fandian) 住所:高雄市新興區七賢二路11號」に向かう。電信所から「捷運鳳山國中站(MRT・地下鉄)」へ歩く。10分ほどで駅に到着し美麗島站までの乗車券を券売機で購入(¥30元)プラスチックの丸型青色コイン。
二年前に台北でこのコインを使ったことがあるが自動改札で首を傾げていたら駅員が教えてくれた。鳳山國中站から六つ目の美麗島站で降り11番出口から地上に出た。出たところは中山一路と夜店で有名な六合二路の交差点。ホテルまでの地図をコピーして持っていたので「あっここか。もうすぐや」と北に向かって歩いた。
午後6時4分尊龍大飯店(“agoda”で予約:一泊¥8,347:朝食付き)に到着。美麗島で電車を降り地下道を歩いてホテルまで徒歩12分だった。部屋は1806:8階6号室。バスタブがあった。 -
10分足らずで駅に到着
二年前にMRTに乗ったが
乗車コインの使い方分らず -
普段日本ではほとんど車移動
地下鉄に乗ることもなく車内の様子は分らない
へぇ〜、こんなんか・・・と -
鳳山國中站から九つ目の美麗島站で下車
案内パネルに尊龍大飯店の表示があった
11番出口から出ればすぐだ -
18:06
尊龍大飯店に到着
一泊「¥8,347:朝食付き」
私にとって高級ホテルハハハ -
1806号室
ベッドは二つの方が整理がし易いが
文句はない。十分豪華 -
バスタブあり
ホテルに辿り着いたらホッとする -
六合国際観光夜市へ行く
六合二路の夜市は賑やかだった
これが毎夜毎夜のことなのか?
祭りのように活気がある
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■六合国際観光夜市へ行く
荷物を置いてすぐに六合二路の六合国際観光夜市に晩飯を食べに行く。
尊龍ホテルから徒歩2〜3分で六合二路に出る。「へェ〜こんな賑やかなのか・・・」が第一印象。水曜日の午後6時半頃だったが道の左右に露店がひしめき人の波が続く。「毎晩こんな状況なのか?」「週末はもっと賑やかなのかも?」なんて考えながら右を向いたり左を見たり、何を食べようかとキョロキョロしながら歩いた。
そして人がたかっていた一軒の露店を見て、とりあえず「これを食べてみよう」と注文した。それは「蚵仔煎(オアチェン)」台湾の代表的な小吃で、カキ入りのオムレツ。それを二皿と粥を食べた計150元。最初のうちは美味しかったが、最後の方は海鮮風味が口に広がりすぎてちょっと気持ち悪くなった。でも、まあ満足する。
超賑やかな六合夜市もそんなに距離は長くなく、端から端まで往復し「スイカとパイナップルの切り売り」「緑的元素 甘蔗(サトウキビのジュース)」「鳥蛋蝦焼(蝦のたこ焼き」を買ってホテルに戻った。部屋に到着は午後7時過ぎ。たこ焼きはまあまあ。メロンと思って買ったのがパイナップルだったのが残念だった。甘蔗ジュースはいまいち。
今朝は恒春、そしてバスで枋寮:「東龍宮」、列車で九曲堂駅へそこから歩いて近くの「下淡水渓鉄橋」そして「海軍鳳山無線電信所」に行った。一日の最後を六合夜市で締めくくり充実の一日は終了。明日は高雄市内の散策となる。天気が続いてありがたい。 -
蚵仔煎(オアチェン)を二つとお粥を食べる
これだけの人の賑わいあれば儲けも良いだろう -
食べ始めはうまかったが、食べ終わりはムッと
-
道路上に天幕張って宴会場に
平日の夜も関係なく食べて飲んで英気を養う
人間活力の源は「食う」「しゃべる」 -
19:08
「スイカとパイナップルの切り売り」
「緑的元素 甘蔗(サトウキビのジュース)」
「鳥蛋蝦焼(蝦のたこ焼き」
夜店で買って部屋に戻る
今日の一日も無事終了
明日は一日高雄巡り
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