2015/04/12 - 2015/04/12
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元カニ族さん
「游相日記」による渡辺崋山の3日目の行程は、下鶴間村の「まんじゅう屋」を出発し、途中「小園村」に立ち寄って、お銀さまの消息をつかみ、その後「厚木」まで行くことでした。
ここで、渡辺崋山とお銀さまの生い立ちについて調べてみます。
渡辺崋山は1793(寛政5)年、三河国の小藩・田原藩家臣の長男として江戸に生れました。
一方、お銀さまは相州早川村の生まれで、渡辺崋山が少年の頃の渡辺家に奉公する女中でした。渡辺家が藩主の側用人を務めていた関係で、お銀さまも藩主(第11代三宅康友)のお世話をしているうちに、藩主のお手が付き、鋼蔵(後の友信)を生み、側室に昇格しました。
翌年、お銀さま実家の母が急死したため、乳飲み子を江戸に残して、実家に帰りました。その間に、思いもよらぬ悲劇がおこりました。お銀さまは江戸に帰れなくなってしまったのです。表面上は、当時流行った疫病を江戸に入れないということですが、小藩・田原藩の悲しさか、御世継を生んだ側室にもう用はない、というのでしょうか、離縁されてしまったのです。
それから20数年の歳月が過ぎ、鋼蔵も一児(第15代田原藩主三宅康保)の父となり、赤ん坊の時分かれた生みの母「お銀」の消息を知りたいと、崋山に依頼したのでした。そうして渡辺崋山の旅が、藩主・三宅氏の家譜編纂のための調査の一部である「御側室譜」の作成という名目で実現しました。
「游相日記」では、崋山は道中いろいろな人に尋ねた結果、お銀さまはその後小園村の清蔵という家に嫁に行っていることがわかり、たいそう喜んでその家を訪ねました。そしてようやくお銀さまに会うことが出来ました。会った時の様子の一部を抜粋します。
(そのうちにお銀さまの父の)幾右衛門も(早川村から)やってきた。年は78で、まだ壮健な老人である。さらに行く末、来し方の物語が重なって、皆、時々涙をこぼしあった。(お銀さまは)自分の身の上を語っては泣き、江戸のことを思い出しては泣いている。「今日という日は、神仏のご加護があったのでしょうか、こういう方が、草深い田舎家までお訪ねくださったとは・・・・」
図は崋山が描いたその時の様子で、左が幾右衛門、中央がお銀さま、右が崋山です。
今回の私の旅行記では、前回のゴールの「さがみ野」から、大山街道を進み、途中小園に立ち寄り、海老名までを紹介します。
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 私鉄 徒歩
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この日のルートマップです。朱色は大山街道を離れたコースです。
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①「さがみ野駅入口」交差点です。真直ぐに伸びているのが大山街道です。
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すぐに②「相模鉄道の踏切」があります。
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踏切を超えて真直ぐ進みます。
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やがて③「大塚本町交差点」があります。このあたりに「大塚宿」がありました。
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道路に沿った建物の隙間に大山が望めます。
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どんどん直線状の道路を進むと④「パブコ前バス停」につきます。
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パブコはトラックの大きな箱型の荷台を作っている会社です。
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パブコの前を過ぎると、動物病院があり、ここから右曲がって、富士塚を目ざします。
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開発された住宅地の中に、写真の富士塚を見つけました。富士山の火山灰を積み上げて作ったので「富士塚」というようです。
富士塚 名所・史跡
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富士塚の上に、文久13(1816)年に柏ケ谷の講中が建てた庚申塔があります。
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大山街道に戻って進みむと、赤坂バス停の手前、根回りの太い銀杏の古木の根本に⑥「不道明王座像」があります。
不動明王座像 名所・史跡
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不道明王座像は、道標を兼ねた高い石柱の上にあます。石柱の根本にはいくつかの石造物がころがっておます。
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少し進むと、⑦「渡辺崋山ゆかりの道案内板」があります。
渡辺崋山ゆかりの道 名所・史跡
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脇に歩細長い道標があります。読みにくいですが、「向テ右 小? 早川 綾瀬村小園」とよめます。
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大山街道をそれて、右の道を入って行きます。
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坂道を降りていきます。
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道から、大山が望めました。
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一旦降りた道を、また上がって行きます。
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道路が、行き止まりになっていますが、そのまま進みます。
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ここから、⑧「旧東海古道」が始まります。。「游相日記」では、
(この辺りは)まことに世を離れた片田舎で、江戸の空を思い出すとなんとなくもの悲しくなったが、ただ、木や草のにおいは新鮮で、涼風のさわやかさは身にしみる。・・・・・ -
落ち葉で埋もれた道を滑らないように、慎重に下って行きます。
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やがて、道端に小さな⑨「道祖神」を見つけました。
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⑨「道祖神」のアップです。
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坂道を降り、普通の道に合流する所で、⑨「古東海道の説明板」がありました。
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普通の道を進んでいくと⑩「地蔵堂」がありました。「游相日記」では、
(崋山は)里の子供達に銭を与え、案内してもらった。道の傍の地蔵堂があった。そこを過ぎた時髪の毛が栗のいがのような子供が大変驚いた顔をしてたたずんでいた。道案内の子供が「ここれこそ清蔵(お銀さまの夫)の子です」というから、しげしげと顔をみると、疑いなく私がこれから尋ねようとしている人(お銀さま)にそっくりであった。
とかかれています。その時の地蔵堂がこれだと思います。地蔵堂 名所・史跡
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地蔵堂の説明板です。
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やがて⑪「JAさがみ早園支店」の前を通りました。ここは、お銀さまの家の跡といわれています。
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「游相日記」では、スケッチとともに次のように書かれています。
清蔵(お銀さまの夫)の家に到着した。比較的大きな母家で、物置小屋、薪小屋などが左右に並び、栗があたり一面にほしてあり、犬や鶏がそれを守るかのように庭内にいる。ちょうど(桃花源記の)武陵ともいうべきであろう。
縁近くに進んで声をかけてみた。(中から)頭を手拭で包んだ老女が(出てきて)「どちらからお越しでございましょうか」と恐る恐るきいた。(その時)私が心中で思ったことは、案内してくれた子供はお銀さまに似ているけれども、この老女は姑でもあるのだろう。
しかしながら、指折って数えてみれば(お銀さまが藩邸にいた時から)もう二十年以上もたっている。昔美しかったその姿のままでいるはずもないのだから―― と(思い直し)、その老女の顔から視線をはなさず、なおもいりいろな角度から眺めているうちに、耳の下に大きめの疣(いぼ)があるのを発見した。
これだ、これこそ間違いないお銀さまの証拠だと思い当たって、・・・・ -
「あなたの名は何とおっしゃいますか」
「私は町というものでございます」
「昔の名は何といわれましたか」
「やはら町でございます」
それなら、人違いであったのかと、心中、面目ないと思いもしたが、何としても疣こそ確かな証拠(と思いなおして)、
「お銀と申されたことはありませんか」と言うと、相手は一段と驚いた様子で、
「昔、江戸にいました時、そう呼ばれたこともございます。それではあなた様は麹町(の三宅藩邸)からいらっしゃって下さった方ですね」と、うって変わった表情になって、
「まずまず、奥の方にお上がりください」といってくれたが、(部屋は)皆板敷で、畳がない。(老女は急いで)花筵を持ちだしてきてそれを敷き、私たちの席を設けてから、さて、とあたためて顔を覆っていた手拭を脱ぐと、それは間違いなくお銀さまその人であった。(しばらくの間は)ただ涙にむせんでお互い問答することさえ出来ずに時を移した。・・・・・・
その後、お銀さまのもてなしがあり、お銀さまの父親も早川村から駆けつけ表紙の説明になりました。 -
お銀さまのお墓が有る近くの公園「小園広場」の裏の共同墓地に向かいました。
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公園の中にある、説明板です。
お銀さまの墓 名所・史跡
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公園裏の共同墓地を見つけました。
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写真、中央がお銀さまのお墓です。その左は夫・清蔵の墓です。
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お銀さまのお墓の側面に「文久二年八月・・」と彫られています。享年七十八歳くらいといわれています。
ここで、私は手を合わせ、お銀さまの波乱に満ちた人生を想いながら「般若心経」を唱えました。 -
お墓参りを終えて、大山街道に戻り、⑬「馬頭観音」を探しました。
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次いで、近くの⑭「道祖神」を見つけました。
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⑮「目久尻川」を渡りました。
目久尻川 自然・景勝地
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目久尻川沿いの道のフエンスの中に⑮「石橋供養塔」がありす。
これは、1757(宝暦7)年、橋を石橋に架け替えるための募金活動をした地元の篤志家、重田七三郎の功績を讃えるために建てられてものです。石橋供養塔 名所・史跡
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再び大山街道に戻ると、⑯「史跡逆川碑」があります。
逆川は、目久尻川から人工の堀を作り、ここから北西に流れを変える用水堀で、蛯名耕地の感慨や運搬などに使われた水路です。低い方から高い方に水を流したことから、逆川と呼ばれました。逆川碑 名所・史跡
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逆川は、目久尻川から人工の堀を作り、ここから北西に流れを変える用水堀で、蛯名耕地の潅漑や運搬などに使われた水路です。低い方から高い方に水を流したことから、逆川と呼ばれました。
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国分寺に入り、⑰「相模国分寺跡」に向かいました。写真は国分寺跡の広場を背にした「道標」です。
相模国分寺跡 名所・史跡
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近くに、相模国分寺跡の案内図がありました。
相模国分寺は相模国尼分寺とともに、1741(天平13)年、聖武天皇の詔勅によって建てられたました。ここは国の指定史跡になっています。
東西160m、南北123mの回廊に囲まれ、東側に金堂、西側に高さ65m七重塔がありました。相模国分寺 寺・神社・教会
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上の案内図の史跡指定部分の地図のアップです。
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七重塔の復元想定図です。
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七重塔の跡地です。基壇が復元されています。
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七重塔の基壇の上に残っている「礎石」です。
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中門と南面廊の跡です。
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国分寺跡から、坂道を下って来た所に、神奈川県の天然記念物に指定された⑲「大欅(けやき)」があります。通称「海老名の大ケヤキ」です。
海老名の大ケヤキ 自然・景勝地
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説明板には、この欅は、かつて船つなぎ用の杭として打ったものが発芽して大きくなり、以来、人々が保護し育ててきたものと伝えられています。
根回り15.3メートル、目通り7.5メートル、樹高20メートル」と書かれています。 -
⑱「高野山真言宗 国分寺」の石段です。奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、相模国分寺の後継寺院にあたります。
相模国分寺 寺・神社・教会
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石段を登ると、本堂の脇に枝垂れ桜は綺麗に咲いていました。
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真新しい鐘楼に、国指定の重要文化財の「梵鐘」があります。
相模国分寺 梵鐘 寺・神社・教会
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説明板に、鎌倉時代に当時の名工物部国光が鋳造したものと書かれています。
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本日のウオークの最後は、海老名駅前のあるショッピングセンター「ビナウオーク」の中庭にある国分寺七重塔のモニュメントに向かいました。
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説明板には「この塔は、海老名観光協会が、故大岡實氏の復元図を元に実物大の三分の一スケールで建設したモニュメント」と書かれています。
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その後、小田急線「海老名駅」に向かいました。写真は海老名駅から見えた大山です。
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