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ユーラシア大陸旅行記 小さな世界地図(2) - <ロシア号>ウラジオストク発、零時五十五分 -

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1996/08/01 - 1996/10/12

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JIC旅行センター

JIC旅行センターさん

 出発する前にしなければならないことがある。風呂に入ることだ。御存じのとおり、シベリア横断鉄道は世界一長い距離を走る。ウラジオストクからモスクワまで通して乗ると、走行距離は9,297キロ(「ソ連邦鉄道地図」より)、日数にして7日間である。モスクワまで直行することも可能だが、僕はイルクーツクで途中下車し、「シベリアの真珠」と呼ばれるバイカル湖を訪れるつもりだ。イルクーツクまでは4,106キロあり、まるまる三日間の旅になる。その間、列車では風呂に入ることができない。シベリアとはいえ、夏は暑い。きっとイルクーツクに着く頃には頭もかゆくなるだろう。だからこそ出発前には風呂に入り、入念に体を洗っておく必要がある。

 僕は「寝貯め」ならぬ、三日分の「洗い貯め」をするつもりでゴシゴシとやっていた。すると突然、パッと闇に包まれた。

 「停電だッ」

 とっさにそう思ったが、リュドミラさんとマリーナさん(ホームステイ先の母娘)は、台所でタ食のしたくをしているはずだ。僕は石鹸の泡だらけで情けない格好をしている。このまま出て行くわけにもいかない。ほどなくバスルームのドアがノックされ、ロウソクが差し入れられた。

 僕は炎にシャワーがかからないようにしながら、やっとのことで風呂を出た。ロウソクの灯で風呂に入るのは以外と難しいものである。

 やっとのことで電灯がつくと、食後の紅茶になった。もちろんロシアンティーである。自家製のイチゴやラズベリーで作ったジャムを舐めながら飲むのだ。今回はラズペリーのジャムである。ラズベリーはロシア語で「マリーナ」という。スペルは一字違うが、音はマリーナさんの名前と同じである。リュドミラさんは、ジャムと彼女を交互に指差し、「シン、これもマリーナ、あれもマリーナよ!]と言った。マリーナがクスクス笑った。

◆ ◆

 僕は、いただいたジャムや黒パンをバックパックにしまった。準備完了だ。僕は、マリーナさんのお父さんが運転するMAZDAのワゴン車に乗り込んだ。家族そろって見送りにきてくれるのだ。

 途中、丘の上の展望台からウラジオストクの夜景を眺めた。「あいにく停電で真っ暗です」ということにならなくて良かった。金角湾は閣に包まれた暗黒の角となり、光リ輝くウラジオストクの街に食い込んでいるようだった。

 派手なネオンや人為的なライトアップこそなかったが、僕は素晴らしいと感じた。電気事情が悪いにも関わらず、街が僕の出発を祝して輝いているようだったからだ。僕は夜景をカメラに収めなかった。「夜景モード」が付いてはいたが、この時ばかりは、眼のなかに焼きつけておくのも悪くないと思ったのだ。

◆ ◆

 駅はかなリ大きく、深緑色の客車がたくさん並んでいる。ロシアでは標準的な旧東ドイツ製の客車である。貨物列車も多い。その中にひときわ目立つ列車が止まっていた。薄暗い水銀灯に照らされて、その姿が浮かび上がっている。

 列車番号1番「特急・ロシア号」である。ボディはロシア国旗のカラーにちなんで、上から白、青、赤の三色に塗られている。車体の横にはプレートが掛けられ、

[RUSSlA/MOSKVA ? VLADIVOSTOK]

と書かれていた。かつてソ連のシンボルが付いていた部分には、ロシア国鉄の新しいマークが描かれていた。しかも、汚れてくすんだ深緑色の列車に対し、国旗力ラーの「ロシア号」はピカピカだった。ロシアのメンツがかかっているようだ。

◆ ◆

「ロシア号」を牽引する電気機関車が動いた。先頭車両から順に、連結器のたるみがとれる金属音が一瞬で伝わってくる。

ガッシャン!!

 僕が乗った7号車にも、機関車から熱い息が吹き込まれた。

 さあ、行くぞっ。おもむろに動きだす。連結器が重そうにきしんだ。

 と、同時に、金属音が指揮者の合図であるかのように、勇ましい行進曲が深夜のプラットホームに鳴り響いた。「ロシア号」の出発は威厳に満ちていて、僕は思わず身震いした。曲は「スラブ行進曲」である。

 重々しく、ゆっくりとした加速だった。徐々にマリーナさん達の姿が遠くなる。僕は叫んだ、

「もう一度ここを訪れたい! さようなら!!」

 僕は窓から身を乗リ出し、手を振り続けた。ホームに残された見送りの人々が流れ去る。皆、「シェスリーバ!(お元気で、しっかりな!)」と言って、励ましてくれた。ホームのスピーカーは行進曲を流し続けている。それが深夜の街にこだまし、街全体が「いってらっしゃい!」と言っているようだ。プラットホームが見えなくなっても、行進曲は響いてきた。

◆ ◆

「ワッチョアネイム?」

 ちょっと可笑しな英語に、僕は我にかえった。車掌さんがニコニコしながら寝台のシーツと枕力バー、そしてタオルを持ってきたのだ。彼女は外国人の僕に気を使って、英語で名前をきいているのである。僕はあえてロシア語で、

「ミニャー ザブートゥ シン(私の名前はシンです)」と答えた。そして丁寧に名字を言おうとしたら、

 「ファミーリャ ニナーダ(名字は結構ヨ)」

と言われてしまった。

 どうやらこの車掌さんとはうまくやっていけそうだ。シベリア横断鉄道ロシア号の旅は、たった今、始まったばかりである。

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