湖東三山・多賀・東近江旅行記(ブログ) 一覧に戻る
2014年7月14日に沖縄戦跡国定公園を訪れたことに端を発した、南の島を歩きながらその街にある戦争関連の史跡を訪ねる旅の続編です。<br /><br />ふとしたきっかけで我が街滋賀県にもいくつか戦争のことを後世に残す場所があることを知りました。気にはなっていたのですが、なんせ滋賀県と言うと琵琶湖を真ん中にあり東西南北に結構な距離があります。そのため思い立ってもすぐには行動できませんでした。それがやっと今日になって訪れるチャンスが巡ってきました。今回は東近江市の&quot;滋賀県平和祈念館&quot;と&quot;陸軍八日市飛行場跡&quot;を訪れます。<br /><br />湖東三山の麓に位置するこの場所東近江市に滋賀県平和祈念館ができたのは平成24(2012)年3月17日のことです。東近江市は我が街大津とは少し離れているため、それも行けなかったひとつの理由です。開館してからまだ日が浅いため知名度は高くありませんが、&quot;行けるときに行ってみよう&quot;の精神で足を運びました。<br /><br />名神高速八日市インターを出て走ること20分程、道の駅R307あいとうマーガレットステーションの近くに滋賀県平和祈念館があります。こちらは滋賀県が運営しているもので、入場無料となっています。月・火曜日が閉館日ですが、祝日の際は開館します。あと12月28日~1月4日も閉館です。詳細はその都度祈念館に問い合わせて下さいとのことでした。<br /><br />【沿革】<br />滋賀県議会で昭和59(1984)年頃より県内に平和祈念館を作る意見が出始める。<br />平成16(2004)年建設予定地を八日市市に決定。<br />平成22(2010)年東近江市愛東支所を活用した平和祈念館の建設大綱が決定。<br />平成24(2012)年3月17日滋賀県平和祈念館オープン。<br /><br />この滋賀県平和祈念館ですが、今までに行った平和資料館の由来に比べると、滋賀県自体がそれほど大きな空襲を受けていないことを幼少から聞かされていたため、なぜ滋賀県平和祈念館なのかと思うところは正直ありますが、そのことを明確にはされていないようなのでここでは触れないことにします。平成の大合併でできたここ東近江市は、湖東地区の中核都市でもあります。元八日市市ですが、大凧祭の他に日本初の民間飛行場ができた場所としても知られています。民間飛行場ができた後に旧八日市町が軍を誘致し、その結果できたものが陸軍八日市飛行場になります。そのような背景もこの滋賀県平和祈念館設立の謂われに入っているのかも知れません。<br /><br />建物前に車を停め祈念館に入場します。エントランスホール右手には&quot;平和の燈(へいわのともしび)&quot;があり、開館時より平和のへの祈りを込めた燈火が来館者を迎えてくれます。資料館は1階フロアのみになりますが、バリアフリー対応はちゃんとされていました。順路で行くとまず床に大きく描かれた滋賀県の地図があり、そこに軍施設や空襲など戦争に纏わる場所が&quot;どこ&quot;なのか具体的にわかるようになっています。今回は主に私の住む大津市に纏わるものを中心にご紹介します。<br /><br />先述した八日市には陸軍の飛行場がありました。そして我が街大津にも陸海軍の航空基地や航空兵練習場などがありました。あと知る人ぞ知る悪名高き人間特攻兵器&quot;桜花(おうか)&quot;の秘密発射基地もありました(正確には未完成)。元々桜花とは一式陸攻(戦闘機)に吊るされて目的の米国艦まで近づき、発射されて操縦士もろとも突っ込む&quot;許されざる兵器”でした。しかし重量のある桜花を吊るしての一式陸攻はスピードもコントロールもままならず、結果桜花共々撃ち落されてしまうことも多く犠牲者を増やしてしまった事実があります。そのことから桜花単独で発射させるための発射台&quot;カタパルト&quot;を持った秘密基地が、滋賀と京都の県境にある比叡山山中に建設されました。結局出撃は無く終戦を迎え、戦後米軍に破壊されて秘密基地の歴史は終わることになります。<br /><br />また滋賀県には大規模な紡績工場がいくつかあり、大津市の我が街石山にも東洋レーヨン(東レ)の工場がありました(現在もあります)。戦時中は軍需工場としても稼働しており、米軍の戦略爆撃の対象にもなりました。昭和20(1945)年7月24日早朝に飛来した米軍のB29が工場を空爆し、工員の方16名が亡くなり多数のけが人がでました。そして7月30日正午頃、大津陸軍少年飛行兵学校と滋賀海軍航空隊に米軍艦載機が飛来し、ロケット弾と機銃掃射により職員の方1名が亡くなっています。現在は琵琶湖と瀬田川、そして石山寺・建部大社をはじめとする多くの神社仏閣がある風光明媚な場所として知られている我が街石山ですが、70年前には規模はともかく戦争の爪痕があることを、戦後生まれの私はなんともやるせない気持ちになります。<br /><br />この祈念館には、生き残られた隊員の方々と戦没者ご遺族の方々から寄贈された品物が多く展示されています。それが今まで訪れた資料館と少し異なる気がします。展示されている品々に纏わる悲哀話はさておき、ビジュアル的に&quot;目を覆いたくなるもの&quot;は多くはなかったように思います。考え方は千差万別ありますが、それはそれで逆に良いところもあるように思います。感受性の高い方だと沖縄の戦跡絡みの資料館だと、目の前で戦時中の悲惨さを感じ過ぎてしまう故に、それ以降行くことができなくなった話を耳にしたことがあります。上手く言えませんが&quot;苦手意識&quot;を持ってしまうことが一番の問題ではないかと思います。折角平和を考えるに相応しい場所を訪れることができるのに、それを出来なくなってしまうこと・・・。それは本当に悲しいことだと思います。その点ここ滋賀県平和祈念館は、謂れを持つ展示品を直視しながら抵抗感なく純粋な気持ちで平和のありがたみを噛みしめることができるように思います。<br /><br />ちょうどこの滋賀県平和祈念館が、訪れた翌日の&quot;讀賣新聞滋賀版&quot;朝刊誌面に掲載されていました。その記事を紹介します。<br /><br />-------------------読売新聞滋賀版の記事抜粋(平成27年1月22日)--------------------<br /><br />「戦時を物語る収蔵品」<br /> 終戦から今年で70年を迎えるのに合わせ、元兵士や遺族が保管していた戦時中の資料など約220点を紹介する企画展「収蔵品が語る戦時の想い」が、東近江市下中野町の県平和祈念館で開かれている。6月21日まで。無料。<br /><br />「護る(まもる)」「祈る」「記す・伝える」の3テーマに分類し、「護る」では、インド・インパールの攻略を目指した「インパール作戦」の際、銃弾が当たった双眼鏡を展示。所有する元兵士が一命を取り留めたエピソードが記されている。<br /><br /> 「祈る」では、戦死した兵士が小学生の時、修学旅行で購入した木造観世音菩薩像(高さ24cm)が目を引く。母親や妻が形見として大切に保管し、長い間、花を供え続けていたという。<br /><br /> 「記す・伝える」では、物資が乏しい中、ミャンマーの捕虜収容所で作られた半袖シャツなどがあり、当時の生活の厳しさを想像させる。<br /> 同館では2012年の開館以来、元兵士ら約1700人から証言を聞き取ったり、資料の提供を受けたりしている。担当者は「資料を間近に見ることで、戦争のことを考えるきっかけになれば」と話している。(小宮宏祐記者)<br /><br />----------------------------------------------------------------------------------<br /><br />ゆっくりと1時間半位かけて見学をした後、次の目的地である陸軍八日市飛行場跡へと向かいます。所要時間は15分位で到着しました。<br /><br />陸軍八日市飛行場は、大正4(1915)年6月に日本初の民間飛行場&quot;沖野ケ原飛行場&quot;として開設整備されたことに始まります。それ以前に地元の富裕な呉服商の出でフランスまで自費で飛行機の免許を取りに行った荻田常三郎氏が緊急用の不時着場所とデモフライト用の臨時飛行場として利用していましたが、大正4(1915)年1月に飛行機の墜落事故で亡くなってしまいます。<br /><br />大正3(1914)年9月の12分45秒程の荻田氏によるデモフライトを除けばさほど大きな利用実績もなく、唯一大正5(1916)年5月に中華民国の辛亥革命(しんがいかくめい)の指導者である孫文(そんぶん)がここで飛行士の訓練を受けさせた話程度しかありませんでした。荻田氏のデモフライトから僅か8ヶ月程で借金をしてまで飛行場を作りあげた八日市町は、困った挙句町民に&quot;開墾費&quot;の名目で借金を負担させようとします。そのことで町議会が大紛糾し、結果飛行場と飛行学校の設立計画は頓挫してしまうかに思われました。<br /><br />しかし翌大正6(1917)年11月に滋賀県を舞台とした陸軍の特別演習が行われ、その際にこの沖野ヶ原飛行場が使われました。八日市町はその時期と前後し、この地に陸軍の航空部隊の誘致を進めることをしていましたが、軍の飛行場だと現状の50,000坪の用地では足りず、周辺町村さらには滋賀県の協力を得て、大正9年(1920)年1月冲野ヶ原飛行場に陸軍航空隊&quot;航空第三大隊&quot;の配置が決定します。<br /><br />そして三ヶ月をかけて移動してきた部隊は、大正11(1922)年1月に開隊式が行われ、同時に名称も&quot;陸軍八日市飛行場&quot;に改称されました。大正14(1925)年には時の航空第三大隊長後藤元治大佐の意向で、出兵する隊員達の安全祈願と連隊の守護神及び当地の人々を守護する神社として位置づけられた&quot;冲原神社&quot;が創祀されます。<br /><br />陸軍の航空基地を誘致したことで、周辺地域では軍需による恩恵を受けました。しかしその反面騒音問題や基地拡張に伴う立ち退き問題など、現在でも起こっている問題も起こったそうです。しかし毎年4月3日には飛行場祭り(現在の基地祭に相当)が執り行われるなど軍民一体で楽しめる行事が定例化していたそうです。元々陸軍八日市飛行場は、民間の沖野ヶ原飛行場を地域の誘致活動によって軍用化したものであり、各地に点在する&quot;軍によって接収された&quot;基地ではないため、このようなイベントが行われていたとの考えがされているようです。ただ時代背景に、基地を取り囲む情勢がそれほど深刻化していなかった頃だったことはあるのかも知れません。<br /><br />沖原神社が創祀されて間もなく、&quot;航空第三大隊&quot;は大正14(1925)年&quot;飛行第三連隊&quot;と改称され、戦闘機2個中隊・偵察機1個中隊の飛行機約50機を持つ編成となります。その後満州事変・日中戦争に一部隊を派兵しつつ、昭和13(1938)年に&quot;飛行第三戦隊&quot;と改称されて爆撃機部隊となり、八日市飛行場は実戦部隊の基地になります。<br /><br />そして昭和16(1941)年12月8日、太平洋戦争が勃発します。常駐していた&quot;飛行第三戦隊&quot;は太平洋戦争が開始された翌年の昭和17(1942)年に樺太の豊原市に転出し、後にフィリピンに転出し全滅します。その後&quot;第一〇四教育飛行連隊&quot;が配属されます。戦況の影響で部隊の入れ替わりも激しくなり、実戦部隊に代わって教育隊等が配備される一方、近畿・中部地区の防空任務をはじめとする前線基地としての活動を担うことになります。終戦間近では航空部隊として&quot;第八航空教育隊&quot;&quot;飛行第二四四戦隊&quot;等、陸上部隊として&quot;第二五四飛行場大隊&quot;&quot;独立機関砲第五六中隊&quot;等が駐屯していました。<br /><br />また全国各地の陸軍飛行場から南方へと移動する部隊の中継基地としても利用されました。多くの空に憧れた青少年が、この滋賀県の八日市の地を経由し南方へと飛んで行かれたこと…、滋賀県民(あみんちゅ)として複雑な心境です。また&quot;世界のミフネ&quot;こと三船敏郎氏が昭和16(1941)年に第八航空教育隊に写真工手として配属になり、後に第七中隊の特別業務上等兵として炊事の責任者をされていたことは有名な話です。<br /><br />以前旅行記に書きましたが、終戦間近に特攻機として使われた飛行機は&quot;最新鋭&quot;のものではありません。零式・一式と呼ばれるものなので、昭和15(1940)年・16年の製造されたものになりますが、ここ八日市飛行場には東京調布飛行場から進出していた陸軍飛行第244連隊所属の五式戦闘機を含む約220機の飛行機が配備されていました。五式とは皇紀2605年=昭和20年=1945年製造、つまり最新鋭の戦闘機が配備されていました。これをどのように使ったのか?また使う目的は?と言うことは明確ではありませんが、終戦間近にこの八日市飛行場から出撃した五式戦闘機が、米国海軍F-6戦闘機と交戦し戦果として10機撃墜したらしいとの記録が残っていることから、機能面で優れていたことは間違いないように思います。<br /><br />この八日市飛行場を狙った米軍による機銃掃射を終戦間近の昭和20(1945)年7月24・25日に受けており、飛行場勤務の民間人4名が亡くなられています。そして昭和20年(1945)8月15日の終戦を迎え、陸軍八日市飛行場も進駐軍に接収されます。飛行場にあった220機に及ぶ機は、米軍兵士の&quot;ライターの火&quot;によって焼却処分されていきます。また飛行場も廃止され、跡地は農地として払い下げられます。八日市町が作った民間の飛行場から始まったこの陸軍八日市飛行場は、こうして僅か31年で歴史を閉じることになります。<br /><br />終戦後70年を迎える2015年、飛行場の名残を留めるものは、掩体壕(えんたいごう:飛行機を隠すためのカマボコ型の格納庫みたいなもの)、沖原神社と神社境内に移設された連隊本部門柱、第八航空教育隊跡石碑、留魂の碑くらいになっています。<br /><br />今回陸軍八日市飛行場の歴史を紐解いた訳ですが、この場所を訪れるのに実はとんでもない勘違いをしていました。それは広大な飛行場跡をピンポイントの目的地として捉えていたこと、即ち第八航空教育隊石碑だけを目的地としていたため、その他を見逃してしまいました。玉園中学校と八日市自動車学校の間にあるこの石碑こそがすべてと思っていたため、沖野神社などはノーマークでした。後から資料を整理していてそのことが判明したため、どうしようもなかったのですが、まあ言い訳するなら日暮れも間近だったし、車では行けそうもなかった…、そういうところでしょうか。いずれにせよもう一回再訪の必要性あります。<br /><br />いつもならなにがしら思うところを並べるところですが、小規模で運営されている滋賀県平和祈念館は、どんな方でも展示物を&quot;見て考える&quot;ことのできる場所のように思います。<br />「護る(まもる)」「祈る」「記す・伝える」のコンセプトで展示されているものには、人それぞれの「想い」があり、それは見る方がどのように感じても&quot;的外れ&quot;な答えにはならないように思います。例えば特攻隊員として&quot;生き残られた&quot;隊員の方がいらっしゃってこそ初めてその複雑な想い、そして飛行服などの装備といった&quot;真の事実&quot;が&quot;時の生き証人&quot;として後世に伝えるものにぶれることはないと思います。また陸軍八日市飛行場についてですが、広大な土地を利用して作られた場所ゆえ当然敷地跡も広範囲になります。しかしどこでも言われる話かも知れませんが、戦後の再開発の過程で多くの戦争史跡は取り壊される憂き目に逢っています。現在の地図で具体的な飛行場跡を記載しているものはなかったようなので、過去の地図から転記しましたが、結構曖昧なものだと思います。ただそれを見るだけでも広く点在していることは容易にわかり、かつ場所によっては&quot;行く手段&quot;を考えなければならない場所もあります。今回は準備不足で回れなかったことを反省し、次回に繋げたいと思います。<br /><br />本年平成27(2015)年は、終戦後70年の節目の年です。生あるもの、形あるものはいつか滅びてしまいます。そう心に思いつつ今年も戦跡の無言の言葉に耳を傾け続けたい…。<br /><br />これにて&quot;あみんちゅ戦跡を訪ねる旅滋賀Ⅰ-1~滋賀県平和祈念館・陸軍八日市飛行場跡編~&quot;は終わります。<br /><br />【関連旅行記】<br />≪滋賀県平和祈念館と陸軍八日市飛行場跡を含むもの≫<br />あみんちゅ淡海を爆走する旅その五~東近江・守山編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10974450<br /><br /><br /><br />以下興味が湧いたらご覧下さい。<br />~戦跡を巡る旅シリーズ~<br /><br />以下興味が湧いたらご覧下さい。<br />~戦跡を巡る旅シリーズ~<br />【通番001】さんふらわあで航(い)く鹿児島陸軍特攻戦跡を訪ねる旅~万世・知覧編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10933877<br /><br />【通番002】さんふらわあで航(い)く鹿児島海軍特攻戦跡を巡る旅~笠之原・串良・鹿屋編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10933914<br /><br />【通番003】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅沖縄壱之①~豊見城・旧海軍司令部壕編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10963283<br /><br />【通番004】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅沖縄壱之②~宜野湾・嘉数(かかず)高台公園《私見》沖縄戦解釈編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10981023<br /><br />【通番006】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅福岡壱之①~碓井平和祈念館編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10990537<br /><br />【通番007】【通番007】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅福岡壱之②~武富戦争資料館(兵士・庶民の戦争資料館)編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10990699<br /><br />【通番008】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅福岡壱之③~筑前町立大刀洗平和記念館編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10990539<br /><br />【通番009】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅鹿児島その弐~喜界島戦争史跡:戦闘指揮所跡・海軍航空基地戦没者慰霊之碑・掩体壕編~<br />http://4travel.jp/travelogue/11015120<br /><br />※未完成<br />【通番010】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅沖縄壱之③~石垣島・八重山平和祈念会館とバンナ公園編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10964521<br />

第六章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~滋賀:滋賀県平和祈念館・陸軍八日市飛行場跡編~

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2015/01/21 - 2015/01/21

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たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。

たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん

2014年7月14日に沖縄戦跡国定公園を訪れたことに端を発した、南の島を歩きながらその街にある戦争関連の史跡を訪ねる旅の続編です。

ふとしたきっかけで我が街滋賀県にもいくつか戦争のことを後世に残す場所があることを知りました。気にはなっていたのですが、なんせ滋賀県と言うと琵琶湖を真ん中にあり東西南北に結構な距離があります。そのため思い立ってもすぐには行動できませんでした。それがやっと今日になって訪れるチャンスが巡ってきました。今回は東近江市の"滋賀県平和祈念館"と"陸軍八日市飛行場跡"を訪れます。

湖東三山の麓に位置するこの場所東近江市に滋賀県平和祈念館ができたのは平成24(2012)年3月17日のことです。東近江市は我が街大津とは少し離れているため、それも行けなかったひとつの理由です。開館してからまだ日が浅いため知名度は高くありませんが、"行けるときに行ってみよう"の精神で足を運びました。

名神高速八日市インターを出て走ること20分程、道の駅R307あいとうマーガレットステーションの近くに滋賀県平和祈念館があります。こちらは滋賀県が運営しているもので、入場無料となっています。月・火曜日が閉館日ですが、祝日の際は開館します。あと12月28日~1月4日も閉館です。詳細はその都度祈念館に問い合わせて下さいとのことでした。

【沿革】
滋賀県議会で昭和59(1984)年頃より県内に平和祈念館を作る意見が出始める。
平成16(2004)年建設予定地を八日市市に決定。
平成22(2010)年東近江市愛東支所を活用した平和祈念館の建設大綱が決定。
平成24(2012)年3月17日滋賀県平和祈念館オープン。

この滋賀県平和祈念館ですが、今までに行った平和資料館の由来に比べると、滋賀県自体がそれほど大きな空襲を受けていないことを幼少から聞かされていたため、なぜ滋賀県平和祈念館なのかと思うところは正直ありますが、そのことを明確にはされていないようなのでここでは触れないことにします。平成の大合併でできたここ東近江市は、湖東地区の中核都市でもあります。元八日市市ですが、大凧祭の他に日本初の民間飛行場ができた場所としても知られています。民間飛行場ができた後に旧八日市町が軍を誘致し、その結果できたものが陸軍八日市飛行場になります。そのような背景もこの滋賀県平和祈念館設立の謂われに入っているのかも知れません。

建物前に車を停め祈念館に入場します。エントランスホール右手には"平和の燈(へいわのともしび)"があり、開館時より平和のへの祈りを込めた燈火が来館者を迎えてくれます。資料館は1階フロアのみになりますが、バリアフリー対応はちゃんとされていました。順路で行くとまず床に大きく描かれた滋賀県の地図があり、そこに軍施設や空襲など戦争に纏わる場所が"どこ"なのか具体的にわかるようになっています。今回は主に私の住む大津市に纏わるものを中心にご紹介します。

先述した八日市には陸軍の飛行場がありました。そして我が街大津にも陸海軍の航空基地や航空兵練習場などがありました。あと知る人ぞ知る悪名高き人間特攻兵器"桜花(おうか)"の秘密発射基地もありました(正確には未完成)。元々桜花とは一式陸攻(戦闘機)に吊るされて目的の米国艦まで近づき、発射されて操縦士もろとも突っ込む"許されざる兵器”でした。しかし重量のある桜花を吊るしての一式陸攻はスピードもコントロールもままならず、結果桜花共々撃ち落されてしまうことも多く犠牲者を増やしてしまった事実があります。そのことから桜花単独で発射させるための発射台"カタパルト"を持った秘密基地が、滋賀と京都の県境にある比叡山山中に建設されました。結局出撃は無く終戦を迎え、戦後米軍に破壊されて秘密基地の歴史は終わることになります。

また滋賀県には大規模な紡績工場がいくつかあり、大津市の我が街石山にも東洋レーヨン(東レ)の工場がありました(現在もあります)。戦時中は軍需工場としても稼働しており、米軍の戦略爆撃の対象にもなりました。昭和20(1945)年7月24日早朝に飛来した米軍のB29が工場を空爆し、工員の方16名が亡くなり多数のけが人がでました。そして7月30日正午頃、大津陸軍少年飛行兵学校と滋賀海軍航空隊に米軍艦載機が飛来し、ロケット弾と機銃掃射により職員の方1名が亡くなっています。現在は琵琶湖と瀬田川、そして石山寺・建部大社をはじめとする多くの神社仏閣がある風光明媚な場所として知られている我が街石山ですが、70年前には規模はともかく戦争の爪痕があることを、戦後生まれの私はなんともやるせない気持ちになります。

この祈念館には、生き残られた隊員の方々と戦没者ご遺族の方々から寄贈された品物が多く展示されています。それが今まで訪れた資料館と少し異なる気がします。展示されている品々に纏わる悲哀話はさておき、ビジュアル的に"目を覆いたくなるもの"は多くはなかったように思います。考え方は千差万別ありますが、それはそれで逆に良いところもあるように思います。感受性の高い方だと沖縄の戦跡絡みの資料館だと、目の前で戦時中の悲惨さを感じ過ぎてしまう故に、それ以降行くことができなくなった話を耳にしたことがあります。上手く言えませんが"苦手意識"を持ってしまうことが一番の問題ではないかと思います。折角平和を考えるに相応しい場所を訪れることができるのに、それを出来なくなってしまうこと・・・。それは本当に悲しいことだと思います。その点ここ滋賀県平和祈念館は、謂れを持つ展示品を直視しながら抵抗感なく純粋な気持ちで平和のありがたみを噛みしめることができるように思います。

ちょうどこの滋賀県平和祈念館が、訪れた翌日の"讀賣新聞滋賀版"朝刊誌面に掲載されていました。その記事を紹介します。

-------------------読売新聞滋賀版の記事抜粋(平成27年1月22日)--------------------

「戦時を物語る収蔵品」
 終戦から今年で70年を迎えるのに合わせ、元兵士や遺族が保管していた戦時中の資料など約220点を紹介する企画展「収蔵品が語る戦時の想い」が、東近江市下中野町の県平和祈念館で開かれている。6月21日まで。無料。

「護る(まもる)」「祈る」「記す・伝える」の3テーマに分類し、「護る」では、インド・インパールの攻略を目指した「インパール作戦」の際、銃弾が当たった双眼鏡を展示。所有する元兵士が一命を取り留めたエピソードが記されている。

 「祈る」では、戦死した兵士が小学生の時、修学旅行で購入した木造観世音菩薩像(高さ24cm)が目を引く。母親や妻が形見として大切に保管し、長い間、花を供え続けていたという。

 「記す・伝える」では、物資が乏しい中、ミャンマーの捕虜収容所で作られた半袖シャツなどがあり、当時の生活の厳しさを想像させる。
 同館では2012年の開館以来、元兵士ら約1700人から証言を聞き取ったり、資料の提供を受けたりしている。担当者は「資料を間近に見ることで、戦争のことを考えるきっかけになれば」と話している。(小宮宏祐記者)

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ゆっくりと1時間半位かけて見学をした後、次の目的地である陸軍八日市飛行場跡へと向かいます。所要時間は15分位で到着しました。

陸軍八日市飛行場は、大正4(1915)年6月に日本初の民間飛行場"沖野ケ原飛行場"として開設整備されたことに始まります。それ以前に地元の富裕な呉服商の出でフランスまで自費で飛行機の免許を取りに行った荻田常三郎氏が緊急用の不時着場所とデモフライト用の臨時飛行場として利用していましたが、大正4(1915)年1月に飛行機の墜落事故で亡くなってしまいます。

大正3(1914)年9月の12分45秒程の荻田氏によるデモフライトを除けばさほど大きな利用実績もなく、唯一大正5(1916)年5月に中華民国の辛亥革命(しんがいかくめい)の指導者である孫文(そんぶん)がここで飛行士の訓練を受けさせた話程度しかありませんでした。荻田氏のデモフライトから僅か8ヶ月程で借金をしてまで飛行場を作りあげた八日市町は、困った挙句町民に"開墾費"の名目で借金を負担させようとします。そのことで町議会が大紛糾し、結果飛行場と飛行学校の設立計画は頓挫してしまうかに思われました。

しかし翌大正6(1917)年11月に滋賀県を舞台とした陸軍の特別演習が行われ、その際にこの沖野ヶ原飛行場が使われました。八日市町はその時期と前後し、この地に陸軍の航空部隊の誘致を進めることをしていましたが、軍の飛行場だと現状の50,000坪の用地では足りず、周辺町村さらには滋賀県の協力を得て、大正9年(1920)年1月冲野ヶ原飛行場に陸軍航空隊"航空第三大隊"の配置が決定します。

そして三ヶ月をかけて移動してきた部隊は、大正11(1922)年1月に開隊式が行われ、同時に名称も"陸軍八日市飛行場"に改称されました。大正14(1925)年には時の航空第三大隊長後藤元治大佐の意向で、出兵する隊員達の安全祈願と連隊の守護神及び当地の人々を守護する神社として位置づけられた"冲原神社"が創祀されます。

陸軍の航空基地を誘致したことで、周辺地域では軍需による恩恵を受けました。しかしその反面騒音問題や基地拡張に伴う立ち退き問題など、現在でも起こっている問題も起こったそうです。しかし毎年4月3日には飛行場祭り(現在の基地祭に相当)が執り行われるなど軍民一体で楽しめる行事が定例化していたそうです。元々陸軍八日市飛行場は、民間の沖野ヶ原飛行場を地域の誘致活動によって軍用化したものであり、各地に点在する"軍によって接収された"基地ではないため、このようなイベントが行われていたとの考えがされているようです。ただ時代背景に、基地を取り囲む情勢がそれほど深刻化していなかった頃だったことはあるのかも知れません。

沖原神社が創祀されて間もなく、"航空第三大隊"は大正14(1925)年"飛行第三連隊"と改称され、戦闘機2個中隊・偵察機1個中隊の飛行機約50機を持つ編成となります。その後満州事変・日中戦争に一部隊を派兵しつつ、昭和13(1938)年に"飛行第三戦隊"と改称されて爆撃機部隊となり、八日市飛行場は実戦部隊の基地になります。

そして昭和16(1941)年12月8日、太平洋戦争が勃発します。常駐していた"飛行第三戦隊"は太平洋戦争が開始された翌年の昭和17(1942)年に樺太の豊原市に転出し、後にフィリピンに転出し全滅します。その後"第一〇四教育飛行連隊"が配属されます。戦況の影響で部隊の入れ替わりも激しくなり、実戦部隊に代わって教育隊等が配備される一方、近畿・中部地区の防空任務をはじめとする前線基地としての活動を担うことになります。終戦間近では航空部隊として"第八航空教育隊""飛行第二四四戦隊"等、陸上部隊として"第二五四飛行場大隊""独立機関砲第五六中隊"等が駐屯していました。

また全国各地の陸軍飛行場から南方へと移動する部隊の中継基地としても利用されました。多くの空に憧れた青少年が、この滋賀県の八日市の地を経由し南方へと飛んで行かれたこと…、滋賀県民(あみんちゅ)として複雑な心境です。また"世界のミフネ"こと三船敏郎氏が昭和16(1941)年に第八航空教育隊に写真工手として配属になり、後に第七中隊の特別業務上等兵として炊事の責任者をされていたことは有名な話です。

以前旅行記に書きましたが、終戦間近に特攻機として使われた飛行機は"最新鋭"のものではありません。零式・一式と呼ばれるものなので、昭和15(1940)年・16年の製造されたものになりますが、ここ八日市飛行場には東京調布飛行場から進出していた陸軍飛行第244連隊所属の五式戦闘機を含む約220機の飛行機が配備されていました。五式とは皇紀2605年=昭和20年=1945年製造、つまり最新鋭の戦闘機が配備されていました。これをどのように使ったのか?また使う目的は?と言うことは明確ではありませんが、終戦間近にこの八日市飛行場から出撃した五式戦闘機が、米国海軍F-6戦闘機と交戦し戦果として10機撃墜したらしいとの記録が残っていることから、機能面で優れていたことは間違いないように思います。

この八日市飛行場を狙った米軍による機銃掃射を終戦間近の昭和20(1945)年7月24・25日に受けており、飛行場勤務の民間人4名が亡くなられています。そして昭和20年(1945)8月15日の終戦を迎え、陸軍八日市飛行場も進駐軍に接収されます。飛行場にあった220機に及ぶ機は、米軍兵士の"ライターの火"によって焼却処分されていきます。また飛行場も廃止され、跡地は農地として払い下げられます。八日市町が作った民間の飛行場から始まったこの陸軍八日市飛行場は、こうして僅か31年で歴史を閉じることになります。

終戦後70年を迎える2015年、飛行場の名残を留めるものは、掩体壕(えんたいごう:飛行機を隠すためのカマボコ型の格納庫みたいなもの)、沖原神社と神社境内に移設された連隊本部門柱、第八航空教育隊跡石碑、留魂の碑くらいになっています。

今回陸軍八日市飛行場の歴史を紐解いた訳ですが、この場所を訪れるのに実はとんでもない勘違いをしていました。それは広大な飛行場跡をピンポイントの目的地として捉えていたこと、即ち第八航空教育隊石碑だけを目的地としていたため、その他を見逃してしまいました。玉園中学校と八日市自動車学校の間にあるこの石碑こそがすべてと思っていたため、沖野神社などはノーマークでした。後から資料を整理していてそのことが判明したため、どうしようもなかったのですが、まあ言い訳するなら日暮れも間近だったし、車では行けそうもなかった…、そういうところでしょうか。いずれにせよもう一回再訪の必要性あります。

いつもならなにがしら思うところを並べるところですが、小規模で運営されている滋賀県平和祈念館は、どんな方でも展示物を"見て考える"ことのできる場所のように思います。
「護る(まもる)」「祈る」「記す・伝える」のコンセプトで展示されているものには、人それぞれの「想い」があり、それは見る方がどのように感じても"的外れ"な答えにはならないように思います。例えば特攻隊員として"生き残られた"隊員の方がいらっしゃってこそ初めてその複雑な想い、そして飛行服などの装備といった"真の事実"が"時の生き証人"として後世に伝えるものにぶれることはないと思います。また陸軍八日市飛行場についてですが、広大な土地を利用して作られた場所ゆえ当然敷地跡も広範囲になります。しかしどこでも言われる話かも知れませんが、戦後の再開発の過程で多くの戦争史跡は取り壊される憂き目に逢っています。現在の地図で具体的な飛行場跡を記載しているものはなかったようなので、過去の地図から転記しましたが、結構曖昧なものだと思います。ただそれを見るだけでも広く点在していることは容易にわかり、かつ場所によっては"行く手段"を考えなければならない場所もあります。今回は準備不足で回れなかったことを反省し、次回に繋げたいと思います。

本年平成27(2015)年は、終戦後70年の節目の年です。生あるもの、形あるものはいつか滅びてしまいます。そう心に思いつつ今年も戦跡の無言の言葉に耳を傾け続けたい…。

これにて"あみんちゅ戦跡を訪ねる旅滋賀Ⅰ-1~滋賀県平和祈念館・陸軍八日市飛行場跡編~"は終わります。

【関連旅行記】
≪滋賀県平和祈念館と陸軍八日市飛行場跡を含むもの≫
あみんちゅ淡海を爆走する旅その五~東近江・守山編~
http://4travel.jp/travelogue/10974450



以下興味が湧いたらご覧下さい。
~戦跡を巡る旅シリーズ~

以下興味が湧いたらご覧下さい。
~戦跡を巡る旅シリーズ~
【通番001】さんふらわあで航(い)く鹿児島陸軍特攻戦跡を訪ねる旅~万世・知覧編~
http://4travel.jp/travelogue/10933877

【通番002】さんふらわあで航(い)く鹿児島海軍特攻戦跡を巡る旅~笠之原・串良・鹿屋編~
http://4travel.jp/travelogue/10933914

【通番003】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅沖縄壱之①~豊見城・旧海軍司令部壕編~
http://4travel.jp/travelogue/10963283

【通番004】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅沖縄壱之②~宜野湾・嘉数(かかず)高台公園《私見》沖縄戦解釈編~
http://4travel.jp/travelogue/10981023

【通番006】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅福岡壱之①~碓井平和祈念館編~
http://4travel.jp/travelogue/10990537

【通番007】【通番007】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅福岡壱之②~武富戦争資料館(兵士・庶民の戦争資料館)編~
http://4travel.jp/travelogue/10990699

【通番008】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅福岡壱之③~筑前町立大刀洗平和記念館編~
http://4travel.jp/travelogue/10990539

【通番009】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅鹿児島その弐~喜界島戦争史跡:戦闘指揮所跡・海軍航空基地戦没者慰霊之碑・掩体壕編~
http://4travel.jp/travelogue/11015120

※未完成
【通番010】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅沖縄壱之③~石垣島・八重山平和祈念会館とバンナ公園編~
http://4travel.jp/travelogue/10964521

旅行の満足度
4.5
観光
4.5
グルメ
4.0
ショッピング
4.0
交通
4.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
自家用車
旅行の手配内容
個別手配

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この旅行記へのコメント (3)

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  • わんぱく大将さん 2015/02/21 22:42:45
    こんな所にも
    たかティムはるおままゆさん

    またもや勝手省略ですみません。 滋賀にもこういった所があったんですね。 残ってる所持品はその方の魂が残っているようで、辛いです。

     大将

    たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。

    たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん からの返信 2015/02/21 23:57:50
    そうなんです・・・。
    わんぱく大将さま

    色々と省略を考えて頂き恐縮です(笑)。
    そうなんですね…、「平和祈念」で検索したところ、「滋賀県平和祈念館」とヒットしたことに住人が?????????となりました。

    開館して日が浅いのもあるかもしれませんが、4traでも登録が入っていませんでした。県がやっているので週休2日なんで、ジモティならいざ知らず他地域からはちょっとついでとはいかないかも知れません。しかし入場者が少ないと、本当にゆっくりと遺品などの展示物と向き合えて、いろいろと物思いにふけることができました。またご帰国時にお立ち寄り下さい。

    たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。
  • まむーとさん 2015/02/05 12:53:22
    私もアミンチュです
    はじめまして!こんにちは!
    この度はフォローしていただきありがとうございます(*^^*)

    こちらの記念館は小さな看板を見つけ、次は行こうと思っていた場所でした。
    想像したより充実してることがわかりました。

    戦争については、知りたい、伝えたい気持ちが強くあり、中身の濃い戦跡の旅行記を見て驚きました。

    沖縄については、今も戦争が終わっていない現実があり、私は沖縄から日本を見る勉強をしています。
    沖縄から日本を見ると、黒い闇の日本が見えます。
    沖縄を旅行するすべての人(特に未成年)は、この綺麗な沖縄で想像以上の恐怖と悲劇で苦しみがあり、今もなお苦しみ続けていることを知るべきだと思っています。

    ありがとうございました。

    まむーと

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