2014/10/05 - 2014/10/05
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frau.himmelさん
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今年は、1914年に第一次大戦が勃発してちょうど100年目。
その端緒となった「サラエボ事件」で、暗殺されたオーストリア皇太子夫妻の乗っていた車が展示してあると聞いて「軍事史博物館」にやってきました。
最初は、弾丸が打ち込まれた車だけ見れば、あとはそんなに大したものはないだろうと軽い気持ちで訪れましたが、そんな簡単なものではありませんでした。
会場では折りしも「第一次世界大戦特別展」を開催中で、オーストリアの軍事史というより、今まであまり知識がなかった第一次世界大戦のことをしっかり勉強するいい機会になりました。
この戦争は、日本の歴史や多くの日本人の運命をも大きく変えた、やがて起きる第二次世界大戦の序章だったということも知りました。
◆◆
不完全な拙い研究発表で申し訳ありません。
あまりにも難しい課題であり、私のヘボ能力ではここまでまとめるのが精一杯。
間違いや勘違いなどありましたらぜひご指導くださいますようお願いいたします。
-
工事中のウィーン中央駅。
中央駅まで出れば、簡単に軍事史博物館は見つかるだろうとの思惑は大外れ。
駅の反対側は人もまばらで閑散としている。
道を尋ねる人もいないし、第一、軍事博物館ってドイツ語でなんと言って聞けばいいの?
「地球の歩き方」の小さな地図を頼りにあっち行ったり、いややっぱりこっちかしらと戻ったり、もう散々・・。
もっと真剣に詳しく調べてくるんだったなー。 -
どこをどう彷徨ったか、ズドティローラープラッツ駅に出ました。
5年前、ハイドンの生まれ故郷アイゼンシュタットに行った際、長距離バスは、確かこのズドティローラープラッツ広場から出ていたような気がするけど・・・。
今の私、方向感覚がまるで機能していません。
路線図をあっちこっち向けて方向を調べるけどさっぱり。
ともかく市電で一つ目の『Quartier Belvedere』に行ってみます。
それにしてもこの市電18番という路線、ホテル近くの停留所から1本で来られる路線ではありませんか! -
森の入り口の停留所を降りてしばらく歩いていると、この案内板が。
『Heeresmuseum』これがそのドイツ語で軍事史博物館なのです。
ほっとしました。 -
そして見えてきたのはこの建物。
これはさっきSバーンの中から見えた煉瓦色のあの立派な建物じゃない…!?
なーんだ、これが軍事史博物館だと知っていたら、駅を降りて引き返せばこんなに迷うことはなかったのに・・。 -
あんまり建物が新しすぎて綺麗すぎて、博物館には見えません。
どこかのテーマパークではないの?
さっきから子供連れの親子も大勢行き交っていたし・・・。
半信半疑で中に入ります。 -
中庭に泉があってその中央には兵士の像、そしてあちらの建物には観光バスも停まっているし、観光客の姿も・・。
軍事史博物館に間違いないようです。 -
受付で入場券を購入します。
少しでも安いチケットがいいので、
「シニア割引はありませんか?」と聞いたら、無料でいいよ!とニヤニヤ。
へえー、シニアって無料なんだ、ウィーン市って懐が広いなーと感激しました。
写真撮影料2ユーロだけ払って入場しました。 -
第一次世界大戦の特別展をやっていました。
1914年にヨーロッパ中が戦場となった第一次世界大戦が勃発して、2014年の今年はちょうど100年目になります。 -
一階右側の部屋は、第一次世界大戦が始まる前の皇帝フランツヨーゼフの時代から始まります。
1891年に描かれたフランツ・ヨーゼフ1世の騎馬像です。
このころは栄華を誇ったハプスブルク帝国にも暗雲が漂っていました。
1889年に皇太子ルドルフがマイヤーリンクで情死します。
皇后エリーザベト(シシー)は悲しみを旅で紛らわせていましたが、旅行先のスイスで暗殺されてしまうのです。 -
その当時の絵。
絵の中のフランツヨーゼフ1世も元気がなさそうに見えます。 -
2人の死に皇帝も大変落胆しますが、それを振り払うかのように、今まで以上に政務に没頭します。
ハプスブルク家の双頭の鷲の紋章と、フランツヨーゼフ1世の衣装・持ち物など。 -
その頃のハプスブルク家は、隣国のハンガリーを組み込んでオーストリア=ハンガリー帝国として統治していました。(1867年〜1918年)。
その当時の武器、10cm Feldhaubitze -
当時の軍服。
戦争のための服ではなく何となく優雅な感じさえ受けます。 -
軍事史博物館なんてマイナーな博物館、館内はガラーンとしているだろうと想像していましたが、どうしてどうして、
大人も子供も大勢の人が熱心に見学していました。 -
フランツ・ヨーゼフ1世の甥であるフランツ・フェルディナント皇太子が、次期皇位継承者でした。
フランツヨーゼフ1世の悲劇はまだ続きます。 -
オーストリア=ハンガリー帝国のフェルディナント大公は、妻ゾフィーと共にサラエボを訪れ、オープンカーで軍の閲兵をしていたところ、セルビア人のテロリストに暗殺されるのです。
実際に皇太子夫妻が乗っていたオープンカーが展示されていました。 -
これが全世界を巻き込んだ第一次世界大戦の幕開けなのです。
皇太子夫妻が至近距離から銃撃された黒塗りのオープンカー。右側側面には銃弾の痕が生々しく残っています。 -
フェルディナント皇太子が当日身に着けていた軍服。
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皇太子と共に暗殺されたゾフィー王妃
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セルビア人テロリストが暗殺に使用した銃も展示されていました。
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1914年8月、フランツ・ヨーゼフ1世はセルビアに対して宣戦布告しました。
ロシアがセルビアに加担すると、オーストリア=ハンガリー帝国と同盟を結んでいたドイツが参戦。 -
ロシアと3国同盟を結んでいた英・仏も参戦して、ヨーロッパ中を巻き込んでの戦いになりました。
当時の軍服 -
オーストリア=ハンガリー帝国旗、軍服など。
開戦当初、戦争は簡単に終わると思われていました。 -
兵士の持ち物。
多くの勲章のほかに飯ごう、スプーン、常備薬なども見られる。
まだこの頃の兵士は戦争はすぐ終わって、まもなく家に帰れると思い込んでいました。 -
ところがヨーロッパ中を巻き込んだ第一次世界大戦は、それまでの戦いとは様子が違いました。
威力ある武器が次々と開発されます。 -
性能のいい機関銃の開発・・。
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オーストロ・ダイムラー製
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一度に大勢の人が殺されていく、機械的な組織的な大量殺戮の戦いになったのです。
-
-
軍服も今までの華麗なものから、機能的なものに改造され、帽子は羽根飾りなどの装飾品はとられ、鉄兜になりました。
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この頃の絵。
負傷して撤退する兵士達と廃棄された兵器の山。
まだこの頃は馬は動力源でした。 -
偵察機も活躍しました。
空から特殊なカメラで何枚も撮影し、敵の規模や状態などを把握することが出来ました。 -
翼の下にはドイツ軍の鉄十字マーク。
後にヒトラーの片腕となるヘルマン・ゲーリングは、偵察機の優秀なパイロットでした。
そして、第一次世界大戦は戦闘機での空中戦も華々しく行われました。 -
また、化学兵器はドイツ軍によって頻繁に使用されました。
最初は敵を無力化するための刺激物質だったが、やがて殺傷力のある毒ガスが使われるようになりました。 -
英・仏軍の兵士達は苦しみながら死んでいき、生き残ったものも、やけどや失明などに苦しみました。
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この後、英仏軍はガスマスクなどの防護手段を導入したため、毒ガスの成果は上がらなくなりました。
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砲弾の先端に化学物質を詰め込むような兵器も作られた。
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第一次世界大戦ではそれまでの戦争とは比較にならないほど大量の弾薬が投入された。
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大量の殺戮合戦・・。
もはや敵国の兵士を人とも思わなくなり、徹底的に打倒しなければなりませんでした。 -
軍司令官、将軍達の軍服、勲章など。
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大勢の負傷者者もでました。
医薬品など。 -
負傷した兵士
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この戦いはまた塹壕戦でもありました。
両陣営あわせて700?にわたって塹壕が掘られました。
特にフランスのヴェルダンの戦いでは、ドイツ軍は火炎放射器などで仏軍を攻める壮絶な塹壕戦が繰り広げられました。
このときに両軍あわせて70万人以上の死傷者がでました。 -
多くの犠牲者を出した第一次世界大戦。
1918年大戦末期にはドイツ軍部にも大量投降や戦意喪失、水兵たちの反乱など、敗北は目の前でした。
またドイツ国内では長引く戦争に経済が破綻し「ドイツ革命」が起きました。 -
最後のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は退位し、オランダへ亡命しました。
ハプスブルク帝国皇帝カール1世は1918年に退位して国外に亡命。
ここに650年続いたハプスブルク家は崩壊したのでした。 -
短期決戦のはずの第一次世界大戦は4年続き、ドイツの降伏により終結。
1000万人とも言われる多くの人々の命が失われました。 -
最後に、私の印象に残った銃を持つ兵士の像を。
この戦いは終わったわけではありませんでした。
やがて起きる全世界を巻き込んだ悲惨な第二次世界大戦への序章となったのです。 -
次のコーナーへ移動します。
一階左側の部屋は、第一次世界大戦終戦後のオーストリアの歴史部門です。
歴代の大統領の肖像写真が展示してあります。 -
1918年に第一次世界大戦に敗北して、オーストリア=ハンガリー帝国が崩壊、オーストリア共和国となりました。
初代首相はカール・レンナー。
中央墓地にお墓がありましたね。 -
オーストロ・ファシズムの台頭。
多様な軍服。
後ろのパンフレットが面白い。
「HEUTE ROT - MORGEN TOT!」(今日は赤色、明日は死!) -
1932年、首相に就任したエンゲルベルト・ドルフースは、オーストロ・ファシズムやオーストリア・ナチスの活動を禁止しました。
アドルフ・ヒトラーの台頭は、オーストリアが国家として存続できなくなるのではないかとの危惧を抱いたためです。
ドルフースは、1934年9月、オーストリア・ナチス党員によるクーデターによって暗殺されました。 -
このクーデターにより、ヴィルヘルム・ミクラス大統領からクルト・シュシュニックが全権を委任され、事態の収集に当たることになります。
写真右:クルト・シュシュニック、左:ヴィルヘルム・ミクラス -
1938年2月12日、ヒトラーはベルヒテスガーデンにクルト・シュシュニック首相を呼びつけ圧力をかけます。
ナチス・ドイツが武力でオーストリアに攻め込んでくることを危惧したシュシュニックは首相を辞職しました。 -
そして1938年3月15日、ヒトラーは新王宮のバルコニーに立って「オーストリアは大ドイツ帝国の一部となった」と演説しました。
その後、4月10日にドイツとの併合の是非を問う国民選挙が行われましたが、国民には「Ja=賛成」と投票するような情報操作がなされました。
その結果97パーセントの国民が併合『賛成』に票を投じたということです。 -
国民の大多数の賛成を得て、オーストリアはドイツに併合されました。
アドルフ・ヒトラーのポスターの下に書かれた文字
「Ein Vork, Ein Reich, ein fuerer!」
一つの民族、一つの国家、一人の総統! -
併合された後の大ドイツ帝国の規模。
土地面積:554,000km2、人口75百万人。 -
1938年のアンシュルス以降のウィーンでは、反ユダヤ主義が猛威をふるいました。
ユダヤ人は男女を問わず暴行され、彼らの事業所・商店、シナゴーグは破壊されました。
アドルフ・アイヒマンは、ウィーンにユダヤ人移民のための中央管理局を設け、ユダヤ人を国外に追放します。 -
ナチスのプロパガンダの広告柱と、会場の様子
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そして、1939年9月、ドイツ軍によるポーランド侵攻により第二次世界大戦が勃発します。
兵器の数々。 -
ドイツ軍のジープと機銃砲
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連合国の兵士。
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さび付いたドイツ軍小型戦車と球形防空壕
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ドイツ敗戦。
オーストリアもドイツ同様、米・英・仏・ソの4カ国の占領下に置かれます。
連合軍のジープ。アメリカ製 -
4カ国の国旗。
ウィーンはソ連の占領下に置かれました。 -
ハプスブルク家崩壊後、オーストリア共和国の初代大統領だったカール・レンナーは、ソ連に要請されて、新生オーストリアの新政権樹立に動くことになりました。
『ドイツのファシズムによる犠牲者』としてのオーストリアは、1955年4カ国の占領から独立を果たし、永世中立国として歩むことになりました。 -
屋外展示場には新しい戦車や装甲車も展示してありました。
それにしても中も人が多かったけど外にも多いですね。
戦車は今も昔も子供たちに大人気です。 -
オーストリアの人は、こんなマイナーな博物館に興味を持っている人が多いのねーと思っていました。
-
戦車。
後でわかったことですが、第一日曜日は無料で入場できる日だったのでした。
今日は10月の第一日曜日。
だから私もシニア割引だったからではなく無料で入場できたのでした。
チケット売り場のおじさんがニヤニヤ笑っていた意味がわかりました。 -
Leichter Kampfpanzer M41
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このゴミ焼却機みたいなものは、
Bunker(防空壕)? -
歩きつかれて喉が渇きました。一休みします。
併設のカフェでメランジェを。 -
うーん、今食べたら晩御飯食べられなくなっちゃいます。
でも空腹には勝てない、ピザを注文。 -
さて、疲れが取れたところで、軍事史博物館の第2弾見学開始です。
Feldherrnhall。歴代56人の将軍達の像 -
2階に上がる赤絨毯の階段
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踊り場中央にはフランツ・ヨーゼフ1世の胸像
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更に階段を登ると・・
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鮮やかなフレスコ画の天井が目に飛び込んできました。
迎賓館のような豪華な部屋です。 -
目も覚めるような豪華な部屋。
これが戦いと何の関係が・・・? -
壁や天井の絵をよく眺めると、なんとみな戦いの場面が描かれているのです。
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30年戦争以前の部屋
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17世紀はじめ頃まで統一された装備がないため、戦争が始まると兵が徴集されていました。
いろいろな服装の兵士達。 -
貴族出身の将軍の服装。
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鎧や槍
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ヴァレンシュタイン将軍の胸像。
三十年戦争期のボヘミアの傭兵隊長。
神聖ローマ帝国の皇帝フェルディナント2世に仕えて、大活躍したが、後に皇帝の命令で暗殺された。 -
兵器
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-
-
神聖ローマ皇帝カール6世には男子がいなかったので長女マリア・テレジアを相続させた。
-
それを不服とするプロイセンなどとの間にオーストリア王位継承戦争が起こった。(1740-174)。
プロイセンにシュレジアを割譲することで決着。
オーストリア軍歩兵の服装 -
上段、マリア・テレジアと皇帝ヨーゼフ2世(1741-1790)、
下左:プロイセン王フリードリヒ2世(フリードリヒ大王)、
右:ロシア女帝エカテリーナ2世。
共に啓蒙専制君主。 -
再びプロイセンとオーストリアとの間に7年戦争勃発(1756-1763)。
しかしロシアやフランスの協力を取り付けたオーストリア軍の優勢に。
プロイセン陣営に夜襲をかけるオーストリア軍。1758.10.14 -
7年戦争で、オーストリア軍がプロイセン軍に勝利したマクセンの戦いの図。
1759年11.20 -
同上、マクセンの戦い。
プロイセンのフィンク中将と大勢の兵士が捕虜となった。 -
マリア・テレジア、夫のフランク・シュテファン、小さい頃のヨーゼフ2世
-
皇帝ヨーゼフ2世はロシアと同盟を結び、対トルコ戦争に挑みます。
このテントはトルコ軍将軍の謁見用。 -
オーストリア軍がトルコ戦争で、ベオグラードを砲撃した際に使用した臼砲。
ベオグラードを占領することに成功します。 -
再び階段を下りて、歴代の将軍達の像があるホールを通って、出口に向かいます。
-
公園の中を抜けて市電乗り場のほうへ。
あまりにも気持ちがいい森なので、ベンチでちょっと一休み。 -
すぐ目の前に小鳥が止まりました。
さっき散々迷ったのはなんだったの?
18番の市電1本でホテルに戻ることが出来るのです。
あ〜〜こんなに簡単だったのにね〜。
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この旅行記へのコメント (14)
-
- みさぱぱさん 2017/08/15 22:19:10
- 解説が素晴らしいです
- frau.himmelさん
はじめまして,こんにちは.
みさぱぱと申します.
軍事史博物館の旅行記を大変興味深く拝見いたしました.
展示内容に沿った歴史的な背景の説明に,ついぐいぐいと引き込まれ,
最後まで完読しました.
私達も昨年(2016年)夏,ウィーンを訪ねた際にこの軍事史博物館を
見学しました( 拙者の旅行記にご投票をありがとうございます ).
最初は軽い気持ちで入館したのですが,正直,展示されている生々しい
内容に圧倒され,
特に第一次世界大戦の引き金になったオーストリア皇太子暗殺事件に
関する展示は,当時の実物で,もう観ているだけで凄惨さが脳裏に浮かび,
とても写真を撮る余裕がありませんでした.
ので,frau.himmelさんの旅行記の写真を拝見しながら,こんな展示もあったなぁ〜と,思い出していた次第です.
これからfrau.himmelさんの他の旅行記も拝見させて頂きます.
どうもありがとうございました.
by みさぱぱ
- frau.himmelさん からの返信 2017/08/16 12:01:27
- RE: 解説が素晴らしいです
- みさぱぱさん、こんにちは。
コメントありがとうございます。
最初みさぱぱさんのページを開いたら「軍事博物館」がパッと目につきました。
マイナーな博物館だけに訪れる人は少ないので、ここでも珍しいのですよね。
私の目線とは違ったみさぱぱさんの軍事博物館、なつかしくじっくり拝見しました。
機械や大砲のことにお詳しいのですね。
その他のウィーン旅行記も、マリアヒルファー通りなど懐かしい場所もあり、楽しく拝見しました。
毎回アップしていらっしゃる奥様とのあのアイスクリームのツーショット、お好きなのですね。
ビールは全種類制覇なさったのではないですか?
また拝見させていただきます。
himmel
-
- jijidarumaさん 2014/12/19 00:21:05
- 軍事史博物館
- himmelさん
こんばんは。
『Heeresmuseum』軍事史博物館のHeerというドイツ語は普通ドイツ好きでも使用することもない、知らない単語ですね。
その軍事史博物館見学とは恐れ入りました。
それはともかく、今年が第一次大戦勃発から100周年を迎えたということは気にも留めていなかったです。今年、日本でもこのことが大きく報道されていませんよね。”忘れられた第一次大戦”(第二次大戦に比して)といわれることが、なんとなくわかるように思えます。
今春の旅でキールの近郊で見たUボートがこの大戦で活躍したこと、
ドイツ側の同盟国と英仏などの連合国の戦死・負傷者数を比較しても、連合国側が多いのにドイツ側が負けたこと、
この戦いでは日本は日英同盟もあってドイツを敵にして、戦勝国側になっていること、
日清・日露で勝ち、この大戦でも勝利し、日本が大国への階段を上って行った歴史などなど・・・。
”忘れられた第一次大戦”ではなく、”忘れられない第一次大戦”なのでしょう。
jijidaruma
- frau.himmelさん からの返信 2014/12/19 20:51:22
- RE: 軍事史博物館
- jijidarumaさん、こんばんは。
いつもありがとうございます。
いただいたコメントで更に第一次世界大戦のことを勉強させていただきました。
第一次世界大戦100年のことについては、大きくは報道されていませんでしたが、時々日経新聞などで目にしていました。
と言うのもウィーン訪問は6月に決行する予定が、思わぬアクシデントで10月になってしまったもので、第一次世界大戦という活字は早くから気にしておりました。
もう少しそれらの記事を真剣に勉強して行くべきだったなーと思っています。
旅行前は調べることが多くてどうしてもそれぞれは希薄になってしまいますね。
> この戦いでは日本は日英同盟もあってドイツを敵にして、戦勝国側になっていること、
そうですね。第二次世界大戦では日本はドイツと同盟を結んでいたのに、第一次では敵味方だったのですね。
日清・日露は日本が当事国ですから当然参戦したことは知られていますが、第一次大戦にも参戦したことは案外知られていないのではないでしょうか。
> 今春の旅でキールの近郊で見たUボートがこの大戦で活躍したこと、
Uボートといえば、昨年リューゲン島に行ったとき、ザスニッツ港に泊まっていたUボートを思い出しました。
あの時はあまり気に止めませんでしたが、あれは第一次世界大戦のものだったのでしょうか?
戦争末期には、キール港の水兵の出撃拒否や反乱もあったとか・・。
オーストリアは海がないのに、海軍は発達していたのですね。
そこのところの写真を撮り忘れていましたので、jijidarumaさんのコメントで思い出しました。
> ”忘れられた第一次大戦”ではなく、”忘れられない第一次大戦”なのでしょう。
第一次世界大戦の戦後処理がまずかったので、あのモンスターのヒトラー台頭を許したことを思えば、やはり「忘れてはいけない第一次世界大戦」なのでしょうね。
ありがとうございました。
himmel
- jijidarumaさん からの返信 2014/12/20 00:20:47
- Uボート
- himmelさん
こんばんは。
> 今春の旅でキールの近郊で見たUボートがこの大戦で活躍したこと、
Uボートが第一次・第二次大戦で活躍したのは事実ですが、ここで私が見学したのは(書いたのは)私の勘違いで、第二次大戦に活躍したUボートでした。(恐縮)
Deutscher Marinebund e.V.
D-24235 Laboe 、Strandstrasse 92
ドイツ海軍記念館の傍の海岸にあるUボート博物館にお目当てのドイツ潜水艦U995(1070t)が展示されている。
潜水艦U995は第二次大戦後期の1943年7月にハンブルグで建造・進水となった。長さ67.2 m、幅6.2 m、喫水4.8 m、高さ9.6 mと、近くに寄ってみると、やはり大きいなという実感がある。1400馬力6気筒ディーゼル機関2基。
甲板砲37mm 1門(砲弾220発)、対航空機対策として20mm双連機関砲2基を備え、魚雷発射管5門(艦首4門、艦尾1門)を常備していた。
戦歴:
1944年6月〜作戦に従事(哨戒9回)、
1944年5月21日 シェトランド諸島北東沖にて英飛行艇の攻撃を受け損傷、
1944年12月29日 北極海にてソ連掃海艇「T-883」を撃沈、
1945年3月2日 北極海にてソ連駆潜艇「BO-224」を撃沈。
戦争末期の1945年5月8日にU-995はノルウェーのトロンハイムで被弾し、英軍に降伏し、その後1948年10月にノルウェーの船主に引き渡された。1952年12月にU995はノルウェー海軍の潜水艦「Kauraカウラ」として現役を継続、1965年に退役した。
その後、1ドイツマルクという象徴的な価格で西ドイツへ売却され、1971年10月にラボー海軍記念館(Laboe Naval Memorial)で博物館船となった。
尚、リューゲン島に行ったとき、ザスニッツ港に泊まっていたUボートを思い出された由(私はこれを見ていません)ですが、ある方のプログでは
”第2次世界大戦時のドイツ軍のものかと思っていたら、こちらもイギリス海軍のもので1963年就航。・・・なぜここに?”
とありました。
但し、内容は未確認情報です。
jijidaruma
- frau.himmelさん からの返信 2014/12/20 21:11:20
- RE: Uボート
- jijidarumaさん、こんばんは。
またまたUボートに関する詳しい説明をありがとうございます。
リューゲン島に行ったときは、あまりUボートに興味がなかったものですから、あれ、あんなところにUボート博物館が・・と思ったくらいでした。
ですから第1次大戦のものか第2次大戦時のものか、深く考えませんでした。
早速、私のリューゲン島の旅行記をひっくり返してみました。
『大戦時のドイツ海軍のものかと思ったら、はためいているのはユニオンジャックの旗!?』
なんて記述しておりました。
英国軍のもののようですね。
ありがとうございました。
himmel
-
- 大和の住人さん 2014/12/18 17:04:39
- ウィーン紀行
- 第一次せ世界大戦がその後の第二次大戦に繋がって行った流れ、あらためて確認出来ました。ありありがとうございました!
- frau.himmelさん からの返信 2014/12/18 20:36:04
- RE: ウィーン紀行
- 大和の住人さん、こんばんは。
お久しぶりです。
今回は私のウィーンの旅行記に目を留めていただいてありがとうございます。
ウィーンは何回か行った事があり、今回は名所旧跡よりも、オーストリアの歴史を(特に近・現代史)を見たいと思っていました。
たった3日間という短い時間でしたが、いろいろ勉強しました。
これからオーストリアのユダヤ人問題にも触れますので、よろしかったらご覧になってください。
himmel
- 大和の住人さん からの返信 2014/12/20 00:08:59
- RE: RE: ウィーン紀行
- > 大和の住人さん、こんばんは。
>
> お久しぶりです。
> 今回は私のウィーンの旅行記に目を留めていただいてありがとうございます。
> ウィーンは何回か行った事があり、今回は名所旧跡よりも、オーストリアの歴史を(特に近・現代史)を見たいと思っていました。
> たった3日間という短い時間でしたが、いろいろ勉強しました。
> これからオーストリアのユダヤ人問題にも触れますので、よろしかったらご覧になってください。
>
> himmel
>
- 大和の住人さん からの返信 2014/12/20 00:35:55
- RE: RE: ウィーン紀行
- > 大和の住人さん、こんばんは。
>
> お久しぶりです。
> 今回は私のウィーンの旅行記に目を留めていただいてありがとうございます。
> ウィーンは何回か行った事があり、今回は名所旧跡よりも、オーストリアの歴史を(特に近・現代史)を見たいと思っていました。
> たった3日間という短い時間でしたが、いろいろ勉強しました。
> これからオーストリアのユダヤ人問題にも触れますので、よろしかったらご覧になってください。
>
> himmel
>
ウィーンは深くて豊かで美しくて複雑で魅力的で、何回でも訪れたい街です。フロイトやビルロート、キアリ、ローレンレンツ、モーツァルトやシューベルト、ベートーベン、ハイドン、シュトラウス、ハプスルク王家、ブリューゲルやクリムトやシーレほか数え切れないキーワードはあるのですが、最も今興味深いのは、やはりダークなところでヒトラーとウィーンの関係です。何ゆえあの美しい街があの醜悪な人間を産み出したのか、或はう産み出すのに寄与したのか知りたいのです。今、中島義道氏の『ヒトラーのウィーン』(新潮社)を読んでいます。ウィーン紀行、これからも期待しています。
-
- ベームさん 2014/12/17 12:15:11
- いつもながらの探究心に脱帽。
- himmelさん、
「サラエヴォ事件」の車を見に行くだけの好奇心が発展し中身までのめりこんでいく様、簡潔な説明と共にとても興味深かったです。
第1次世界大戦勃発から100年。
しかし100年はそんな昔のことではないような気がします。私の両親はその時すでにこの世にいましたから。でも第1次世界大戦ははや忘れられている感があります。
よくぞ忘れられた戦争、第1次世界大戦に目を向けてくださいました。20世紀の幕開け、800万から1千万人の死者が出たという無機質大量殺戮の戦争から100年、しかもその数十年後に人類は更なる悲劇第2次大戦も経験している。
歴史書とか文学作品、ロマン・ロランの「ジャン・クリストフ」、レマルクの「西部戦線異状なし」などを読んで私には第1次世界大戦はとても興味ある出来事でした。でもいろいろの資料を目の前にした感慨はまた格別のものが有ると思います。
更なる歴史探求を期待しています。
ベーム
- frau.himmelさん からの返信 2014/12/18 20:30:09
- RE: いつもながらの探究心に脱帽。
- ベームさん、こんばんは。
私の拙い第一次世界大戦の旅行記にコメントをありがとうございます。
歴史にも造詣の深いベームさんの前ではホントにお恥ずかしい限りです。
そうですね。100年前と言ったらまだ私達が記憶にある祖先が生きていた頃ですね。
ベームさんのコメントでそんなに昔のことではないのだと思い知りました。
私もハリウッドの勇敢な戦争映画は好きでした。
だけど、考えてみれば、第一次、第二次ごっちゃ混ぜになっているような気がします。
『西部戦線異状なし』って第一次大戦の映画だったのですね。
『大脱走』や『バジル大作戦』は第二次大戦の話。
映画を映画としてではなく、歴史として見ていくと、大変面白いことに気が付きました。
今回のウィーン軍事史博物館は、私にとっても第一次世界大戦を見直すいい機会になりました。
>しかもその数十年後に人類は更なる悲劇第2次大戦も経験している。
あれだけの大量の犠牲者を出したのに、人間って軍事面では発達は著しいのに、ちっとも学習していないのだなと思いますね。
ありがとうございました。
himmel
-
- norisaさん 2014/12/16 06:56:42
- 圧倒的な展示
- frau.himmelさん
おはようございます。
軍事史博物館、そうは見えない美しい建物ですね。
カラフルでデザイン性も高く、確かにテーマパークのようです。
しかし、内部は全く違う重厚な雰囲気。
そして展示内容が詳細かつ圧倒的です。
よくもここまで保存されていたものだとーー。
おっしゃるように第一次大戦は大量殺戮兵器の嚆矢となりました。
機関銃に飛行機。
そしてなんといっても化学兵器の発明の数々。
銃器や戦闘機などはもちろん現代も活躍?しています。
しかし、化学兵器は禁止されています。
それだけこの当時に開発された化学兵器、毒ガスは圧倒的な殺戮性、残虐性があったですね。
これは化学産業で最も進んでいたドイツが先行しました。
化学産業はもともとはイギリスのパーキンが薬草キニーネを人工的に作ろうと思い始めたところ間違ってモーベインという美しい染料を作り、それが大流行して興った産業です。
これはイギリスでしたが、ドイツはこの流れを巧みにくみ取り、当時では世界最大の化学会社群を伸ばしたわけで、それが毒ガス開発に生かされたわけです。
オーストリアもドイツの参戦でこうした兵器の実験の場となってしまったようです。
平和利用の染料産業が軍事に転用されるーー。
これはいつの世も類型がゴロゴロしている悲しい物語ですねーーー。
norisa
- frau.himmelさん からの返信 2014/12/16 22:59:10
- RE: 圧倒的な展示
- norisaさん、こんばんは。
昨夜睡魔に負けて、校正もそこそこにアップした私の不完全な旅行記。
まったく間違いだらけでお恥ずかしいです。
それにしてもnorisaさん、
すごい!凄すぎる。
何がって?
化学兵器の詳しいご説明。
ここまで書いて、化学兵器を科学兵器にしていないか、今一度見直しました(笑)。
そうだったのですか?
美しい染料技術から毒ガス開発に利用されたのですか。
norisaさんの詳しい解説でますます興味が湧き、もう少しその辺の事情を調べてみたいと思いました。
第一次世界大戦以前の戦いはいわば騎士道の世界だったのが、一気に大量殺戮戦争に・・、人間の進歩と言うのは恐ろしいですね。
今は化学兵器の使用は禁止されているそうですが、訳のわからない国がそれを守るとは考えられないし、
やっぱり戦争って何が何でも阻止しなければなりませんね。
ありがとうございました。
himmel
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