2014/10/02 - 2014/10/06
40位(同エリア180件中)
ハナママゴンさん
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天気予報が心もとなかったので、(今日なら天気がもちそうだな)と思った日に、市壁一周を決行しました。一周すると3km強あるそうですが、変わっていく風景が楽しくて、疲れを感じませんでした。
ヨークは9世紀から10世紀にかけて、100年近くヴァイキングに支配されていました。ヨークの市門が現在も、ノルウェー語で“gatehouse”を意味する“○○bar”と呼ばれているのも、また“street”を意味する“○○gate”と名づけられた通りが多く残っているのも、その名残りだそうです。
ヨークの4大市門は、モンク・バー(Monk Bar)とブーサム・バー(Bootham Bar)とミックルゲイト・バー(Micklegate Bar)とウォルムゲイト・バー(Walmgate Bar)。以前は4大市門のすべてに楼門(バービカン)が備わっていましたが、うち3つがその後取り壊されてしまい、楼門が現在も残るのはウォルムゲイト・バーのみです。
三角おむすびの右上頂点近くにあるモンク・バーから、反時計周りに一周してみました。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- ホテル
- 4.5
- グルメ
- 4.5
- 交通
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 5万円 - 10万円
- 交通手段
- 鉄道 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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ヨークの市壁は、三角おむすび型。途中3ヶ所で途切れていますが、保存状態は良好です。
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モンク・バーから一周をスタート。
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市壁の内側、グッドラムゲイト通りから見たモンク・バーです。14世紀建立のこの門は4大市門のうち最も高く、4階建て。高さは19.2mあります。砦として機能するよう、各階はそれぞれが独立して防衛できるよう設計されています。1577年からは、牢獄として使われたこともありました。警官の住居だったこともあり、1914年までは人が住んでいたそうです。
楼門は1815年から1825年の間に取り壊されましたが、落とし格子は現在も動かせる状態で残っています。最後に落とし格子が下げられたのは、1953年のエリザベス女王の戴冠のお祝いの際だったということです。
現在内部には『リチャード3世博物館』が入っています。モンク・バーに最上階を増築したのはリチャード3世で、1484年のことだったそうです。 -
入口は狭かったです。 お相撲さんには・・・ (←しつこすぎっ! #`Д´)
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市壁歩き。ローテンブルクを思い出しました。あれより大分白っぽいです。
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外側は草に覆われた斜面になっていました。
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市壁沿いに住む人は、こうして覗かれることに慣れっこになっているんだろうな。
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ホテルの裏庭っぽいので調べてみたら、Grays Court Hotel でした。背後に見えるのは、ヨーク・ミンスターと付随するチャプター・ハウスの三角屋根です。
このホテル、以前は事務弁護士の家系として知られるグレイ(Gray)家の私邸でした。1751年にハルで生まれたウィリアム・グレイは1777年に結婚、1788年にこの屋敷を購入しました。グレイ家の末裔は1945年までここで暮らしました。 Grays Solicitors は現在も、ミンスターにほど近い一等地に健在です。
「来年4月中旬に一泊」でホテルの宿泊料金を調べてみたら、ダブル・ルームの一番高い部屋が238ポンド(44,000円)、一番安いのでも181ポンド(33,500円)・・・・・ orz
ばちが当たりそうで、私にはとても泊まれません・・・ (−_−) -
せっかくこんな素敵なホテルに泊まっても、(時間が惜しい!観光しなきゃ!)と、あんな風に優雅にティータイムを楽しむ余裕もないでしょうし。
人間、身の丈に合った生活をするのが一番なのです。
って、これ、旅行記でしたよね?! 道徳の時間じゃなくて・・・ (´∀`;) -
三角おむすびのてっぺんにあるのは、ロビン・フッド・タワーだそうです。特にロビン・フッドらしさは感じられませんでしたが。
現在の塔は1888年から1889年にかけて建設されましたが、それ以前にもこの場所には塔があり、異なる名前で呼ばれていました。1370年は Bawing Tower、1485年は Frost Tower で、 Robin Hood Tower と呼ばれるようになったのは1622年からだそうです。 -
ロビン・フッド・タワーから、歩いてきた市壁を振り返ったところ。
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先はこうなっています。
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次の市門、ブーサム・バー(Bootham Bar)が見えてきました。
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ブーサム・バーの矢狭間から、ミンスターに向かって延びるハイ・ピーターゲイト通りを覗いてみました。
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こんな所から覗かれているなんて、誰も思うまい・・・ ( ̄ー ̄)
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市壁の内側から見たブーサム・バーです。大部分は14世紀と19世紀に建立されましたが、11世紀か12世紀に建立された部分も現存しているという、最古の市門です。
イングランド内戦で1644年にヨーク市が包囲された際には、マンチェスター伯の軍の攻撃で大きな損傷を受けましたが、7年後に修復され、18世紀には歩行者用のアーチ道も付け加えられました。
見せしめのため処刑された人間の首を晒すこともあり、例えばチャールズ2世の王政復古に抵抗した三人の反逆者の首は、1663年にブーサム・バーに晒されました。
ブーサム・バーの道路を広げ歩道を加えるため、1831年に楼門が取り壊されました。1832年にはブーサム・バー全体の取り壊しが提案されましたが、4大市門の他の3つが保存され修復されていること、また地域住民の反対にあったことから、取り壊す代わりに修復することが1834年に決まりました。 -
ヨークの起源となった、ローマ時代の要塞都市イーボラークム(Eboracum)。ブーサム・バーは、イーボラークムの北西の市門があったのとほぼ同じ位置に立っています。中世期になってローマ時代の砦の真上、あるいはすぐ近くに建立された、唯一の市門だそうです。
門の上に立つ3体の像は、風雨に晒されて傷んでいた中世期のオリジナルと交代して1894年に付け加えられました。左から: ブーサム・バーの模型を抱えた石工、14世紀に市長だったニコラス・ラングトン、剣と楯を構えた騎士、だそうです。 -
ここからは市壁が途切れているので、ブーサム・バーを後に大通りに沿って歩きます。
この写真の左手には、ブーサム・バーに面するかたちでエキシビション・スクェアという広場とヨーク市美術ギャラリーがあるのですが、全面的に工事中だったので写真は撮りませんでした。 -
ミュージアム・ガーデンズへの入口。
ローマ時代の砦は、ブーサム・バーからミュージアム・ガーデンズ内に残る Multangular Tower(多角塔)へと続いていたそうです。 -
ウース川にかかるレンダル橋を渡りつつ、東岸にあるレンダル塔を振り返ったところ。
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レンダル塔(Lendal Tower)は13世紀に建立されました。塔内には巨大な鉄の鎖が保管され、鎖は毎晩、川向こうにあるバーカー塔(Barker Tower)まで川を横切って渡されました。それにより紛争や戦争から町は守られ、また船乗りが通行料を払わずに町に入ることを困難にしました。
17世紀になるとレンダル塔の役目は防衛から供給へと転換しました。塔からヨーク市の隅々まで淡水が供給されるようになったため、1631年から塔は“ウォーターハウス”として知られるようになりました。水の汲み上げ技術は改善され、18馬力を供給できる蒸気エンジンが設置されると、一時間に1万500ガロンの水の供給が可能になりました。1780年代から1836年まで働き続けた蒸気エンジンは、その後他所に建設されたエンジン・ハウスに移設されました。ヨーク市自治体からわずかな家賃でレンダル塔を借りていたヨーク・ウォーターワークス社は、その後2000年までレンダル塔を、重役会議室、オフィス兼倉庫として使用していました。
その後塔は売りに出され、2010年に投資家によってその歴史的重要性と特徴を保持しつつ全面的に改装され、現在は自炊タイプのホリデー・コテージとして借りることができます。ダブルの寝室が3つあり、屋上からの眺めは素晴らしそう!7泊8日の賃貸料金は現在のところ、最低(冬季)で1150ポンド(21万3千円)、最高(夏季)で1950ポンド(36万円)のようです。 -
レンダル橋から300mほど西にかかる鉄道橋スカーバラ橋(フットパス付き)から眺めたレンダル橋です。向かって左側にレンダル塔が見えます。
市壁とは関係ないですが、ついでに・・・
長さ53mのレンダル橋は1863年に完成しました。設計者はロンドンのウエストミンスター橋を設計したトマス・ペイジ。1860年にウィリアム・ドレッジの主導で最初の橋の建設が始まりましたが、橋は崩壊し、作業員5名が死亡したそうです。
橋ができるまで、ウース川を渡るにはロープ・フェリーを使うしかありませんでした。1852年にハワード城に向かっていたフローレンス・ナイチンゲールも、フェリーで川を渡ったそうです。 -
ウース川西岸に立つバーカー塔(Barker Tower)です。14世紀に建立され、レンダル塔とともに巨大な鉄の鎖を張ることにより水上交通を通せんぼしていました。すでに1380年に、トマス・スマイスという人の名が鎖番として記録に残っているそうです。
その後バーカー塔は、1863年にレンダル橋ができるまで、フェリーの渡し守に貸し出されていました。レンダル橋完成によりフェリーが廃業すると、バーカー塔は様々な目的に使われました。19世紀には短期間ではあったものの、遺体安置所として使われたこともあったそうです。 -
バーカー塔とウース川、1680年。フェリーの渡し守の中には女性もいたそうです。記録によると、1344年にアグネスという女性が、聖レオナード病院のスタッフと患者さんを乗せてフェリーを操っていました。
バーカー塔(Barker Tower)の名前は、バーク(bark=樹皮)に由来すると考えられています。昔この辺りでは、皮なめし業が営まれていました。きれいにされた動物の皮は、樫の木から barker たちによって採取されたタンニンに、一年ほど漬け込まれました。こうして茶色に染まった皮は、靴・鞍・ベルト・(刀剣の)さや・バケツなどの材料として保存されました。この近くには、Tanner Row という名の通りも残っています。 -
レンダル橋を渡りきってから振り返った、バーカー塔とレンダル塔。
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市壁から見下ろしたステーション通り(Station Road)。駅に着いて市壁内に入る前に見たジョージ・リーマン像が見えます。
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市壁と道路の間の草地には、以前は鉄道の待避線があったそうです。1839年に開業した鉄道駅は、市壁の外のクィーン通りに仮設された木造の建物でした。1840年にヨークからロンドンに向けて、最初の列車が走りました。
1841年1月4日にヨークの最初の鉄道駅が、市壁内にオープンしました。やがて駅に併設された初めてのホテルも開業しました。1850年代には一日に13本の列車がヨークとロンドン間を走り、年間34万1千人を輸送するようになりました。しかしこの駅は終着駅として設計されていたため、ロンドンからヨーク以北に向かう列車は一度市壁内に入るとバックで出なければなりませんでした。“鉄道狂時代”を迎えて不便が高じたため、市壁の外側に駅が建設されることになりました。1877年に現在の場所に開業したとき、ヨーク駅は世界最大だったそうです。市壁内の Tanner Row に残る旧鉄道駅舎とホテル(ここからすぐです)は、現在はヨーク市当局のオフィスとして使われています。
救急車が停まっています。なぜかというと・・・ (6枚後の写真に続く) -
新駅がオープンしてからも、旧駅の線路は引き続き88年間も利用されていたそうです。いつ頃のものかわかりませんが、市壁内に線路があった頃の画像をネットで見つけました。
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《アップ後の追記》 市壁内にある駅舎が描かれた絵も見つけました。1841年前後のものだそうです。
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《アップ後の追記》 こちらは写真。
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《アップ後の追記》 これは、現在ヨーク市自治体のオフィス・ブロックとして使われている、ヨークの旧駅舎だそうです。なるほど、そう言われてみればたしかに、駅舎らしい建物です。
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《アップ後の追記》 これもネットからの借り物画像です。って、当然ですが(汗)。
旧駅舎とその周辺の鳥瞰図。ヨーク訪問中は旧駅舎の存在など知らなかったため、旧駅舎の右側面とその向こうの大きなホテル(赤茶色の立派な建物)の間を歩いたのに、写真を撮りませんでした。 -
(6枚前の写真から続く)
・・・女性が誤って市壁上の歩道から落ちてしまったようです。歩道に立って心配そうに見下ろしているのがご主人と思われます。
(物見高げで申し訳ないので、通り過ぎてから振り返って写真を撮っています。) -
草地から歩道まで、少なく見積もっても1.7mはありそう・・・
皆さんも、どうか気をつけてくださいね。 -
市壁上から見たヨーク駅。
ヨークは比較的小さな都市ですが、イングランドの首都ロンドンとスコットランドの首都エディンバラのほぼ中間に位置するヨーク駅は、イギリスの鉄道ネットワークにおける重要な駅のひとつです。 -
《アップ後の追記》 1881年の『イラスト入りロンドン・ニュース』に掲載された、新駅舎と旧駅舎が同時に存在したヨークのイラストです。(ブーサム・バーとウォルムゲイト・バーのイラストがちょっと邪魔ですが。)
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次の市門、4大市門の中で最も立派なミックルゲイト・バーが見えてきました。南の方向からヨークに到着する際の、最大の入口です。
1389年のリチャード2世以来ずっと、王族や高僧など要人の訪問の際に使用されてきた門で、彼等は伝統によりこの門の前で一時停止し、ヨーク市長に市内に入る許可を求めたそうです。 -
3階建ての門で、上の2階には1918年まで人が住んでいました。現在は『ヘンリー7世博物館』になっています。
1100年から1132年の間に建てられた最初の門は小さなものでしたが、上の2階が14世紀に増築されました。1333年(1350年という情報源も)に楼門が建設され、重い落とし格子も加えられました。楼門は1826年に取り壊され、門邸はそれ以降何度も改築されました。この門の重要性から、ヘンリー・パーシー、第3代ヨーク公リチャード・プランタジネット、トマス・パーシーなどの首が、反逆者としてこの門の上に晒されたこともあったそうです。最後に晒された首は、1754年に取り除かれました。 -
歴史に疎いので調べてみたら、王室の一員だったヨーク公は、ヘンリー6世に反旗を翻して薔薇戦争を勃発させた人物。戦死した彼の遺体は埋葬されましたが、首だけは1461年にこのミックルゲイト・バーに晒されたそうです。晒し首は通常、猛禽につつかれ風雨にさらされたまま何年も(最長で9年間!)放置されました。しかしながらヨーク公の首は、敵を破って王位についた息子のエドワード4世によって3ヶ月後には回収され、敵の首が代わりに晒されることになりました。
シェイクスピアが1590年頃に書いた史劇『ヘンリー6世』には、ヨーク公の首を市門に晒すことに言及する場面があるそうです。『ヘンリー6世・第3部』第1幕第4場。ヨーク公を捕えて刺殺したクリフォード卿とヘンリー6世の妃マーガレット・オブ・アンジュー(実際に残忍な野心家だったらしいです)。マーガレット王妃はこう提案します。
“Off with his head and set it on York gates; So York may overlook the town of York.”(首を切り取ってヨークの門にさらしましょう、ヨーク(公爵)がヨークの町を眺められるように。)
・・・怖っ! たとえ王族に生まれても、昔の人は大変でしたよねぇ・・・ (_ _lll) -
門に取り付けられた案内板には、「門は1350年に上階を増築され、その際落とし格子と楼門も加えられた。門には1196年から人が住み、最後の住人は1918年に門を離れた」とありました。
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門を内側から見たところ。『外面(そとづら)』に比べるとシンプルな『内面(うちづら)』です。この通りはミックルゲイト通り(Micklegate)。
ミンスターやシャンブルズ界隈と比べると、一番立派な門であるにもかかわらず、ミックルゲイト・バー周辺は殺風景だし静かでした。 -
ミックルゲイト・バーの位置です。ここまでで約1/3周したことに。
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門の2階部分に戻って、市壁あるきを続行します。
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南東の方向に延びる、市壁上の歩道。
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歩き出してすぐ目に入ったオブジェ(?)。
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この家の持主、ミニ・クーパーのファンみたいですね。飾ってあるのは、ナンバー・プレートのコレクション?それとも歴代使用したナンバー・プレートかな?明らかに市壁を歩く人を対象にしたディスプレイで、そのサービス精神に拍手です。
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市壁の影が、くっきりと落ちています。
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振り返って見たミックルゲイト・バーです。
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時々あるこういう外に出っ張った部分は、昔は監視塔だったのかもしれませんね。
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次の市門は、マイナーなヴィクトリア・バーです。名前から察せられるとおり、ヴィクトリア女王が戴冠された1838年に、市壁の外側のナナリー通り(Nunnery Lane)と内側のビショップヒル(Bishophill)との間のアクセスを容易にするため建設された、かなり新しい市門です。
両脇の歩行者用アーチは、1864年と1867年に付け加えられたそうです。 -
ヴィクトリア・バーの建設のため草と土が取り除かれたとき、市壁内部への小さな出入り口の残骸が発見されたそうです。これはおそらく、12世紀の古書に記述のある、建造されたもののその後塞がれ隠されていた Lounelith Gate だったと考えられています。(Lounelith は「隠された、あるいは目立たない門」を意味するそうです。)
主要道路から離れた地区なので、辺りはとても静かでした。 -
歩道にかかるアーチから見た市壁内部。人の姿がありません。
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ヴィクトリア・バーの案内板です。
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1845年当時のジョージ・ハドソン(1800−1871)。ヴィクトリア・バーの中央のアーチ上にその名が銘刻されている人物です。若くして莫大な遺産を相続した彼は、ヴィクトリア・バーが建設されたときヨーク市長を務めていました。
ジョージ・スティーヴンソンは1830年に、リヴァプールとマンチェスター間にイギリス初の都市間列車を走らせました。ロンドンとイングランド北部のニューカッスルを結ぶ鉄道を建設する計画を始めた彼を、その線がヨークを通過するよう説得し成功させたのはジョージ・ハドソンでした。この決定がもたらした効果は誰にも予測がつかないものでした。ヨークは主要な鉄道の中継地となったおかげで経済的停滞を回避できたのです。 -
『パンチ』誌に1849年に掲載された、ジョージ・ハドソンを風刺した漫画“Off the Rail”。
鉄道網の拡張に投資し、その成功により『鉄道王』と呼ばれ、やがては国会議員にまで選出されたハドソンでしたが、詐欺が発覚して富と名声の絶頂から一気に転落、破産します。1865年7月には負債のためヨーク城に監禁されましたが、友人たちが多額の金を集めて彼の負債を返済してくれたおかげで1866年10月に釈放されました。そのため彼の名は、『思い上がった野望と不安定な幸せ』の教訓としてよく引き合いに出されるそうです。
そんな波乱の一生を遂げた彼ですが、一時は英国の鉄道の1/3を共同で所有した『鉄道王』の栄誉を讃えて、彼の名を冠した George Hudson Street が現在も、旧駅舎の近くに残っています。 -
ヴィクトリア・バーから200m足らずで、市壁の最南端に位置するビッチドーター塔(Bitchdaughter Tower)に達します。 (失礼な名・・・ `ω´*)
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この塔、昔はずっと大きくて2〜3階あり、監獄として使われたこともあったそうです。その後上階は取り壊され、石は1567年にウース橋を修復する際に使われました。下の部屋には暖炉があり、1645年のヨーク市包囲の際には監視小屋として使われました。19世紀には厩舎として使われたということです。
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市壁はここで大きくカーブ。それに合わせて内側の道路もカーブします。
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《注: これはネットから拝借した画像です》
やがて市壁は、林に突っ込みます。 -
左手には小山があって、市壁上の歩道とは柵で仕切られています。
柵、どうせならここではなく、女性が転落した場所のように歩道が高くなっている場所につければいいのに?と思いました。 -
階段を降りていくと、・・・・・
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・・・・・ここで市壁は途切れていました。
《注: この箇所では写真を撮り忘れたので、これもネットから拝借した画像です。》 -
“べイル・ヒル――ヨークの失われた城
ベイル・ヒルは、1069年の反乱のあと町の南西部の防衛を強化するために建造された、ノルマン時代のモット・アンド・ベイリー(小山と外壁)形式の城オールド・ベイル(Old Baile)の名残りである。人口の土山(モット motte)はウィリアム征服王の命で築かれた。小山はもともとは深い水を張った溝で囲まれ、木造の堅固な塔が山頂に立っていた。この城は、ウース川対岸にヨーク城が出来た一年後に築かれた。二つの城は町を守り、ウース川の水上交通を制御した。”
(現在残っている小山は、もともとの人口丘の東側の一部に過ぎないようです。) -
1718年当時のベイル・ヒルの様子。立派な門を構えていたのが見えます。その後馬車の往来が増加したため、門は1807年に取り壊されました。ベイル・ヒルとウース川の間にあった市壁も、1878年にスケルダゲイト橋(Skeldergate Bridge)建設のため取り壊されました。
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オールド・ベイル城の人口小山は高さ約12m、直径66m。大きな堀に囲まれていました。(現存する小山の高さは8m弱だそうです。)
のちに強化され石で再建された対岸のヨーク城も、当初はオールド・ベイル城と大差ない規模だったそうです。
上流のレンダル塔のように、水上交通を規制し通過料を徴収するため、ここからウース川の対岸まで巨大な鎖が渡された時期もあったそうです。 -
《注: ネットから拝借した画像です。》
オールド・ベイル城は14世紀前半までには打ち棄てられ、外壁に囲まれていた中庭は、家畜が草を食んだり、中世期の兵士が弓の練習をしたりなどに使われました。外壁の2側面はやがて市壁に取り込まれました。17世紀半ばのイングランド内戦の際にはベイル・ヒルに盛り土がされ、砲撃に使用されたそうです。
オールド・ベイル城があった場所には1880年代に家々が建てられ、城の面影は今日まったく残っていません。 -
スケルダゲイト橋から眺めるウース川下流です。
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対岸に渡ってから眺めたスケルダゲイト橋(Skeldergate Bridge)。1878年から1880年にかけて、通行料を徴収する有料橋にする目的で建設されました。1914年4月1日に、通行料徴収が公式に廃止されました。
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ウース川を渡るとヨーク城の一部だったクリフォード・タワーはすぐそこですが、市壁あるきを続行します。
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1504年から1507年にかけて建造された、フィッシャーゲイト・タワー(Fishergate Tower)です。屋根は当初は平らでしたが、1676年にタイル製の現在のものに交換されました。
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“フィッシャーゲイト・タワーは、1399年にヨーク市長ロバート・ド・トールカンにちなんで名づけられたトールカン・タワーに代わるものとして、1505年頃に建造された。その目的は、隣にあるフィッシャーゲイト通用門(小さなアーチ口)を使っての市内への出入りを抑制することにあった。門にはもともと落とし格子が備わっており、上部から昇降させることができた。
塔の2階には中世期に使われたトイレが残っている。落とし樋は外部についていた。トイレは現在は使用されていないので、見物しても安全。” -
ウィリアム征服王はウース川の東岸にヨーク城を建て、城を防衛のため水をたたえた堀で囲めるよう、ウース川の支流であるフォス川を堰き止めました。これにより二つの水車小屋が無駄になり、土地の価値も1/4に下がったそうです。しかしながら堀は、城とヨーク市の防衛には大いに役立ちました。フォス川の堰き止めによってできた大きな池は“King's Fishpool”と呼ばれました。
17世紀までには池は縮小し、湿地化して“Foss Island”(画像の右上の水色部分)と呼ばれるようになりました。1792年に4万5千ポンドが投資され、フォス川は14マイルにわたって今日の姿に整備されました。
黄緑色の矢印はフィッシャーゲイト・タワーの位置を示しています。 -
ピカディリー通りを挟んでフィッシャーゲイト・タワーに相対する位置には Travelodge ホテルがありましたが、その一部がフィッシャーゲイト・タワーと対をなすような造りになっていて感心しました。 ♪v(⌒o⌒)v♪
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市壁の外側をはしる主要道路に沿って、とてもイギリスらしい素敵なパブもありました。こんな大きな通り沿いに置いておかず、空輸して田舎の村に落としてあげたくなりました。
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フィッシャーゲイト・タワーを離れるとすぐに、市壁は東へとほぼ直角に曲がります。これは歩いてきた部分を振り返ったところ。そばに立つのは公営の集合住宅のようです。
後から近辺を歩き回ってみましたが、三角おむすびの右下にあたるこの辺りは、華やかさからかけ離れた、現実的な生活実感溢れる地域(平たく言えば、ややうらぶれた地域)という印象を受けました。 -
次の市門、フィッシャーゲイト・バー(Fishergate Bar)です。大部分は1487年に完成しました。しかしそのわずか2年後の1489年に、暴動により大きな損傷を受けたため、出入り口はレンガで固められました。ようやく1827年(1834年という情報源も)になって再開され、現在は歩行者と自転車のみが通行できます。
これは市壁の外側から見たところ。 -
市壁の内側から見るとこうなります。
1489年の農民による反乱は、ヘンリー7世が課した重税に抵抗してのものでした。仲介役を務めようとしたノーサンバーランド伯が殺害されたものの、反乱は間もなく鎮静化したそうです。フィッシャーゲイト・バーがレンガで通行止めになってしまい、町への新たな出入り口が必要になったため、前述のフィッシャーゲイト・タワーの建設が決まったのでした。 -
次の市門は、4大市門のうち最後の、ウォルムゲイト・バー(Walmgate Bar)です。4大市門は以前はすべてに楼門が備わっていましたが、その後取り壊されてしまい、現在楼門が残るのはこのウォルムゲイト・バーのみです。
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内側には12世紀に建造された部分も残っているものの、楼門を含む大部分は14世紀に建造されたものです。落とし格子と15世紀のオーク製の扉も現存しているそうです。(私は先を急いでいたので内部を見ませんでしたが。)
ウォルムゲイト・バーは住居として賃貸され、1376年の家賃の年額は10シリングでした。第二次大戦後の1957年まで、人が住んでいたそうです。 -
ウォルムゲイト・バーは何度も攻撃を受け、その都度修復されてきました。1489年の農民による反乱ではフィッシャーゲイト・バーと同様に火が放たれ、大きな損害を受けました。1644年にイングランド内戦でヨーク市が包囲された際には大砲による砲撃を受けました。その後打ち棄てられていたウォルムゲイト・バーは、1840年に修復されました。
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ここまで来れば、市壁あるきも2/3周を過ぎたことに。
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14世紀に建造された楼門は、当時は水を張った堀の上に立っていました。敵兵を楼門内部のふたつの扉の間に閉じ込め、全滅させたそうです。
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1644年の『マーストン・ムーアの戦い』のあと、ヨーク市外の豆畑に隠れるルパート王子の風刺画。
イングランド内戦中チャールズ1世に忠実だったヨーク市は、1644年4月から議会軍に包囲されました。激しく攻撃されたウォルムゲイト・バーには、注意して探すと今でも大砲や銃撃による損傷のあとが見られるそうです。1万5千の兵を率いたルパート王子(王の甥)は議会軍を撤退させることに成功しますが、議会軍は数では劣勢だったにもかかわらず戦況を逆転させ、マーストン・ムーアでルパート王子の軍を破りました。ヨーク市は1644年7月16日に降伏しました。 -
市壁の内側には、石柱に支えられたエリザベス1世時代の住居が増築されています。おそらく1584年から1586年の間に付け加えられたものだそうです。この部分、ちょっと場違い感が否めません・・・ (−_−) 現在はカフェになっているそうです。
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市壁の下に、さりげなくベンチがありました。
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三角おむすびの右下を、北に向かって延びる市壁。
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三ヶ所で途切れる市壁の、最後の途切れ場所が見えてきました。
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歩いてきた市壁を振り返ったところ。
ここはレッド・タワー(Red Tower)と呼ばれています。 -
“レッド・タワーは1490年から1491年にかけて築かれた。この塔は、フォス川を堰き止めることによってできた King's Fishpool 池周辺を見張る監視塔として使われた。池のおかげで、こことレイヤーソープ橋の間に市壁を築く必要はなかった。池は徐々に沈泥化し、17世紀には湿地となって Foss Islands (フォス島)と呼ばれた。
レッド・タワーが他の塔と比べると低くずんぐりして見えるのは、石でできた土台が現在は地中にあるからである。1852年撮影の写真をもとに描かれた右の図画を見れば、当時のレッド・タワーとレイヤーソープ橋の様子がわかる。塔の壁から突き出ているトイレにもご注目を。”
“反目するギルド
レッド・タワーは石ではなくレンガでできているため、そう呼ばれている。(ヨークの市壁のうち、レンガが使用されているのはレッド・タワーだけ。経費節約のためレンガで、ということになったらしいです。)異なる建築材の選択は石工とレンガ職人の間に摩擦を生んだ。仕事を奪われた石工は、憤懣を募らせた。1491年にレンガ職人のジョン・パトリックが殺害され、二人の石工が犯人として逮捕されたものの、すぐに釈放された。
レッド・タワーは他の用途に使われたこともあった。厩舎、牛小屋、火薬を作るための硫黄工場などである。硫黄工場だったときは、タワーは Brimstone House (硫黄の家)として知られた。” -
右は1610年にジョン・スピードによって作成された地図だそうです。当時は King's Fishpool がレッド・タワーのすぐ先に広がっていたことがわかります。
“1068年にヨーク城を建てたウィリアム征服王がフォス川を堰き止めたことによりできた池 King's Fishpool は、その後700年間存在し続けた。ブリームやカワカマスといった魚が大量に棲む池のため、管理人が任命されて池の管理を任された。ヨーク市の平民は池での魚釣りは禁止され、池の管理人と僧とフォス橋の監視人だけが池にボートを出すことを許された。池にゴミを捨てることは軽犯罪で、100ポンドもの罰金が科される可能性もあった。” -
レッド・タワーも1644年にヨーク市が包囲された際には大砲で大きな損傷を受けたそうです。1645年にタワーの周囲に溝が掘られましたが、これはその後埋め立てられました。
18世紀にはかなりひどい状態のまま種々の用途に使われていました。19世紀に入り、1855年にレッド・タワーの取り壊しが提案されましたが、歴史保存協会がこれに反対し、タワーは1857年にきちんと修復されました。同時に Foss Islands(以前の King's Fishpool)は水を抜かれ、Foss Islands Road が建設されたということです。
レッド・タワーを後にします。そうそうトイレというのは、右側壁の突き出た部分のことらしいです。 -
フォス川と広い道路(Foss Islands Road)にはさまれた歩道をしばらく歩くと、市壁の再開部分らしいものが見えてきました。
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これです。
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レイヤーソープ橋(Layerthorpe Bridge)。
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“中世期にはこの辺りの様子は現在とかなり異なっていた。市壁はフォス川のふちまで続いていた。その後橋ができ、馬車に積んだ品々は市内に入れるようになった。記録に残る最初の橋は、1309年にさかのぼる。長年に渡り、橋は不遇な目に遭ってきた。1644年には一部が壊され、1829年に再建され、1926年には増築された。1996年にはとうとう取り壊され、新しいふたつの橋にとって代わられて現在に至る。
レイヤーソープとレッド・タワーの間に市壁がないのは、その間は700年にわたって King's Fishpool と呼ばれる人工池により防衛されたからである。17世紀に入ると池は沈泥化し始め、やがて Foss Island と呼ばれる湿地帯になった。現在フォス川と平行してはしる道路が Foss Island Road と呼ばれているのは、その名残りである。” -
“ジュービュリー(Jewbury)
この部分の市壁の外側をはしる道路はジュービュリーと呼ばれている。これは、中世期にはここにユダヤ人墓地があったことに由来する。1829年から1830年にかけてレイヤーソープ橋が取り壊され再建されたとき、秘蔵されていた硬貨とユダヤ教の魔除けが発見された。1983年には、すぐそばの(現在セインズビュリーズ・スーパーマーケットの駐車場になっている)土地が「昔のユダヤ人墓地だった」ことが判明した。
12世紀のヨークは、イングランドでも有数のユダヤ人社会を抱え、ユダヤ人学生もユダヤ人学者も多くいた。ヨークの歴史で最も恥ずべき日は、1190年の、ユダヤ人たちがクリフォード・タワーに閉じ込められ、自害を強制された日である。ユダヤ人はその後もヨークに住み続けたが、1290年にエドワード1世の命令ですべてのユダヤ人がイングランドから追放された。” -
(注: これはネットからの借り物画像です。)
そのためスーパー・セインズビュリーズの駐車場には、こんな銘板がはめ込まれているそうです。このユダヤ人墓地は、1177年頃からユダヤ人が追放された1290年まで使われていたと考えられています。 -
市壁あるきを再開すると間もなく、ミンスターのセントラル・タワーとチャプター・ハウスの三角屋根が見えてきました。
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ミンスターはもうすぐです。
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ローマ時代の市壁についての案内板がありました。
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“紀元71年に、ローマ軍はウース川の土手にイーボラークム(Eboracum)と呼ばれる砦を建設した。この地点は、砦の東の角の塔があった場所である。砦は長方形をしていて、面積は20ヘクタール(50エーカー)あった。4つの大きな門邸は、今日のセント・ヘレン広場、キングス広場、トレジャラーズ・ハウスの北東とブーサム・バーの4箇所に位置していた。この地点の市壁は当時と同じ5mの高さがあり、塔はさらに3m高かった。現在の地面はローマ時代より3m近く高くなっているため、当時の市壁は地面の下に続いている。 ・・・
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・・・ ローマ人は紀元410年頃にヨークを離れたが、彼等が築いた防衛壁は現在も残っている。北西と北東の壁は、比較的良好な状態にある。しかし中世期に土と草に覆われてしまったため、それらが見られる箇所は少ない。発掘作業により、砦の中での生活の手がかりとなるものが発見されている。バラックの構造や、浴場や、排水・下水の入り組んだシステムなどである。しかしその多くは、現在も我々の足元に隠れている。”
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薄紫色の長方形は、ローマ時代の砦イーボラークムの防衛壁を示します。
なるほど。この地点にミュージアム・ガーデンズに残る Multangular Tower (多角塔)と対角をなす Eastern Corner Tower があったというわけですね。 -
市壁あるきの出発地点、モンク・バーが見えてきました。
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3km強ある市壁あるきを達成! (*^ワ^*)
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しかし私、うっかりしたことに、モンク・バーを外側から写真撮影するのを忘れてきました orz ・・・ そんな訳で、
これ ↑ はネットからの借り物画像です。
なんとも締まりのないエンディング・・・ (´‐ω‐)=з
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この旅行記へのコメント (2)
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- inaminさん 2015/03/15 19:23:36
- 城壁1/3周
- 1月にYorkへ行ってきました。ハナママゴンさんの市壁あるきを先に見ておけば良かったです…
城壁1/3周程度歩くコースがIngressのミッションになっていたので歩いてきました。
https://www.ingress.com
朝、仕事前の時間がある時に歩いたのですが、霜で凍ってるし、ハトのふんが湿ってるしで、何度も滑って転びそうになって危険でした。歩くなら昼間ですね…
- ハナママゴンさん からの返信 2015/03/19 18:07:44
- RE: 城壁1/3周
- inaminさん、無事にご帰国されてよかったですね。
1月に凍った城壁を歩かれましたか。それはけっこう怖そうですね。
私は10月に、ヨークのあとチェスターに行きました。あそこでも市壁を歩いたのですが、市壁に落ちた濡れ落ち葉で何度か滑りそうになりました。
濡れ落ち葉でもそんな状態でしたから、霜はかなり手強そうですね。
やはり私は冬場は、家にこもって冬眠していたほうがよさそうです。
inaminさんはお仕事がらみとはいえ、いろいろな国を訪れられていてうらやましいです。
ドレスデンとプラハはぜひ一度行きたいと思っているので、予定ができたら旅行記をじっくり拝見させていただきますね!
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