2014/09/16 - 2014/09/22
101位(同エリア259件中)
明石DSさん
さらば遼陽
?今日も快晴!とは言えない遼陽の空だったが
五日連続雨がないので上天気といえる
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5日目:9月20日(金):雨時々曇り
本渓湖と本渓市へ
2014/平成26年9月20日(土)
■さらば遼陽
朝窓のカーテンを開けたら薄曇のなかに青空も少し見えた。「今日もなんとか天気のようだ・・・」と、5日連続の好天に満足だった。7時にスイカで始まり豆漿を飲んでの朝食を終え退房の準備。
三泊した遼陽賓館4011号室ともお別れだ。2005/平成17年に二泊したのでここに計五泊となった。もし又来ることがあるならこのホテルに迷わず泊まる。
フロントで押金1000元の領収書を渡して差額「¥1000−(一泊¥178×3=¥534)」¥466元を返してもらった。今朝も昨日に続いて朝早くからホテル玄関前には飾った車が並び結婚式の見送り風景があった。派手な結婚式はしょっちゅう見かけるが葬式を見たことは未だ2回ほどしか記憶に無い。何故?
-
遼陽賓館三回目の朝食もスイカで始まる
食前の果物が正解、それから食事
果物は口の中でほぼ消化されている
そのまま腸にスムーズに行くように -
日本人の退房「立つ鳥跡を濁さず」
意地でも綺麗に出てゆく○○人とちゃうんじゃ
好き嫌いは差別ではない
これぞ人間の素直な感情だ -
今朝も早くから花婿花嫁は着飾って
朝からどこに行くのか?出発風景があった -
派手派手はあっても
地味地味はない、地味イコール貧乏なのだろう
分りやすい -
当地に着くまで私は本渓市が本渓だと思っていた
実際の本渓の中心は本渓湖と本渓駅のある所だった
地図上の「本渓市」は名前だけで大きな町ではないようだ
?「日本人が多く暮らしていた本渓湖と本渓」
https://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&ll=41.315852,123.767166&spn=0.052862,0.077162&t=m&brcurrent=3,0x34674e0fd77f192f:0xf54275d47c665244,1&z=14
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■本渓湖(ほんけいこ)へ向かう・・・が
タクシーの“李さん”との待ち合わせは8時だったが、7時45分くらいにホテルから出たら待っていてくれた。他にも客待ちのタクシーが3台ほど停まっており、その三人の運転手仲間が私に声を掛けてきた。その中の一人が「こいつは病気だ」と冗談半分で罵っていた。その時も何となく彼らが私の顔を見る表情で分かった。
それは本渓湖までの包車料金¥500元が「ちょっとぼったくり料金」だったからだ。でもそれに気付いたのは本渓湖駅に行ったあと本渓駅傍のホテルに行った時だった。その時は狐につままれたように「えっ?ここが本渓?」と、あまりの近さに驚いた。日本で地図を見ている時は本渓湖と本渓は、地図上に示されている「本渓市」が「本渓」だと信じて疑わなかった。
本渓湖站と本渓站は一駅であり、本渓站は満洲時代の「宮の原駅」。「本渓湖駅と本渓駅」は太子河を挟んで隣であり車で10分ほどの距離だった。遼陽から80km、車で1時間40分ほどのところだ。ならば「大虎山→遼陽、1時間40分、110km¥300元と料金を比較すれば分かる。
でも私は本渓湖と本渓が遠いとばかり思っていたので、「本渓湖に1時間滞在して最後は本渓のホテルで終わり」という約束だったし“李さん”も本渓湖で1時間待っていたので包車時間は午前8時出発→11時16分終了、計3時間16分。まあ待ち時間を入れれば、ちょっと高い程度なのかも・・・だが。 -
「本渓湖戦死者墓地境内略図」
大きな地図
http://akasids.web.fc2.com/ryokou/dahushan/dahushan.html#p
「日露戦役関係在満州帝国戦死者遺骨埋葬ノ件」(10/18)
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■一枚の旧地図を見つけて・・・。
今まで満洲の本渓湖という地名も私の意識になかった。それが思いついたかのように本渓湖に行く事になったのは、「本渓湖戦死者墓地境内略図」をネットで見つけたことによる。
http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_B07090957700?IS_STYLE=default&IS_KIND=SimpleSummary&IS_TAG_S1=InfoD&IS_KEY_S1=%E8%90%AC%E5%AF%B6%E5%B1%B1&IS_LGC_S32=&IS_TAG_S32=&
この略図は「日露戦役関係在満州帝国戦死者遺骨埋葬ノ件(10/18)」に添付されていた。それを偶然見つけてこの地に来ることにした。図には太子河(たいしが)が描かれ本渓湖駅前に永利町、日本軍守備隊、小学校、大徳寺、そして大きな墓苑があった。 -
「沙河の会戦」:日本軍布陣
最右翼:本渓湖
http://www.sakanouenokumo.com/saka.htm
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■日露戦争:本渓湖での戦い
日露戦争の時には、この本渓湖が最右翼に位置し遼陽会戦後奉天を目指した日本軍は東西に一線に並んで布陣していた。「沙河の会戦」で右から『梅沢旅団:梅沢 道治(うめざわ みちはる)少将⇔第一軍:黒木 為?通(くろき ためもと)大将⇔第四軍:野津 道貫(のづ みちつら)大将⇔第二軍:奥 保鞏(おく やすかた)大将⇔秋山支隊:秋山 好古(あきやま よしふる)少将。』
奉天まで後退を続けたロシア満洲軍司令官:黒鳩公(クロパトキン)は、司令官としての能力を疑われ、ロシア軍は第一軍と二軍に分割され総司令官から降格人事でもある第一軍司令官となる。その第二軍司令官となったグリッペンベルグ到着前に戦果を出そうと本渓湖に攻撃を仕掛けた。
私は祖父の従軍軌跡を追っていたので本渓湖の戦いはこの旅を前にして少し資料などを見たくらいで帰国後この旅行記を作りながら調べている。分かりやすいのは「沙河の会戦」:少年日露戦史、第10編沙河の巻「本渓湖隊の苦戦(コマ番号:14)」 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1169691
他にも「クロパトキンの攻勢=沙河(さが)会戦」等々調べようと思えばネットに資料は溢れている。 http://www.city.kitami.lg.jp/docs/2546/
日本軍は明治37年9月4日遼陽会戦でロシアを奉天まで追い落とした後、追撃が出来ず弾薬兵力の補充をしていた。しかし10月2日ロシア軍の本渓湖への攻撃を機に日本軍も行動に移し三塊石山を占領し奉天に向かって進撃を始める。
9年前には秋山支隊が踏ん張った日本の最左翼:黒溝台の戦いの地を訪ねた。そして今回本渓湖に来て沙河の会戦「最左翼(黒溝台)・中央(三塊石山)・最右翼(本渓湖)」を訪ねたことになった。万歳! -
大きな地図
http://akasids.web.fc2.com/ryokou/dahushan/dahushan.html#q
第十二師団戦闘詳報附図
「本渓湖附近の戦闘 其の2(2):より
http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_C14060956600?IS_STYLE=default&IS_KIND=SimpleSummary&IS_TAG_S1=InfoD&IS_KEY_S1=%E6%9C%AC%E6%B8%93%E6%B9%96%E3%80%80%E6%A2%85%E6%B2%A2%E6%97%85%E5%9B%A3&IS_LGC_S32=&IS_TAG_S32=& -
大きな地図
http://akasids.web.fc2.com/ryokou/dahushan/dahushan.html#q
第十二師団戦闘詳報附図
「本渓湖附近の戦闘 其の2(2):より
http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_C14060956600?IS_STYLE=default&IS_KIND=SimpleSummary&IS_TAG_S1=InfoD&IS_KEY_S1=%E6%9C%AC%E6%B8%93%E6%B9%96%E3%80%80%E6%A2%85%E6%B2%A2%E6%97%85%E5%9B%A3&IS_LGC_S32=&IS_TAG_S32=& -
道中粉塵が雪のように積もった風景が広がっている場所があった
こんなところで一日息を吸っていたら肺の中も粉塵だらけになりそう
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■遼陽から本渓湖へ
8時に遼陽賓館を出発。私が“Google”地図のルート検索でプリントしてきたのは「遼陽→本渓湖79.3km」は南側のルートだったが“李さん”曰く「その道は道路の状態が悪く“でこぼこで”走りづらい。」と手振り身振りで私に訴え北側のルートで向かった。
どの道を走ったのか地図に書き込んでもらうのを忘れたのではっきり分からないが「西大窯(Xī dà yáo)」「火連寨(かれんさい)鎮(Huǒ lián zhài zhèn)」とかを通る道だった。
途中、炭鉱や鉄鉱石の産出地がアチコチにあるようでボタ山があり、道路は粉塵が雪のように積もり街路樹も周囲の景色も薄い灰色になっているところを通過した。防毒マスクをしないとこれじゃあどうしようもないというくらいの粉塵だった。
こんな景色は初めて見た。その他道中の村落も程度の差はあるがどこともなんとなく灰色の粉塵に覆われていた。 -
灯塔市弘盛源??有限公司(H?・ng sh?・ng yu?・n ku?・ngy?・ y?・uxi?・n g?・ngs?・) http://www.hsykuangye.com/
伊藤忠商事と三井物産が資本を出している日系企業のようだ
鉱山が有るのか鉄鉱石他の鉱物を産出している
住所:遼寧省灯塔市鶏冠山郷:「牛棚溝村」
https://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&ll=41.338863,123.59808&spn=0.026422,0.038581&t=m&brcurrent=3,0x34674e0fd77f192f:0xf54275d47c665244,1&z=15 -
石炭なのか鉱石なのか、ボタ山もアチコチにある
ずっとこの道中こういった粉塵漂う地域だった -
表示に「下堡村」とあった
この辺も鉱山or炭田地帯なのか道路も周辺の建物も粉塵で白っぽい
中華人民共和国遼寧省本渓市渓湖区下堡
https://maps.google.co.jp/maps?q=%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E4%BA%BA%E6%B0%91%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD%E9%81%BC%E5%AF%A7%E7%9C%81%E6%9C%AC%E6%B8%93%E5%B8%82%E6%B8%93%E6%B9%96%E5%8C%BA%E4%B8%8B%E5%A0%A1&hl=ja&ie=UTF8&ll=41.37581,123.708072&spn=0.026407,0.038581&sll=41.348979,123.785362&sspn=0.109536,0.154324&oq=%E4%B8%8B%E5%A0%A1&brcurrent=3,0x34674e0fd77f192f:0xf54275d47c665244,0&hnear=%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E4%BA%BA%E6%B0%91%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD+%E9%81%BC%E5%AF%A7%E7%9C%81+%E6%9C%AC%E6%B8%93%E5%B8%82+%E6%B8%93%E6%B9%96%E5%8C%BA+%E4%B8%8B%E5%A0%A1&t=m&z=15 -
前方にドームのような建物が見えて来た
帰国後グーグルアースで見たら確認できた
午前9時19分撮影、ここから22分くらいで本渓湖駅に着いた
「火連寨」・・・この辺も日露戦争の戦場になっている
火連寨附近を走る
https://maps.google.co.jp/maps?q=%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E4%BA%BA%E6%B0%91%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD%E9%81%BC%E5%AF%A7%E7%9C%81%E6%9C%AC%E6%B8%93%E5%B8%82%E6%B8%93%E6%B9%96%E5%8C%BA%E4%B8%8B%E5%A0%A1&hl=ja&ie=UTF8&ll=41.363008,123.716011&spn=0.013206,0.01929&sll=41.375327,123.708072&sspn=0.027373,0.038581&oq=%E4%B8%8B%E5%A0%A1&brcurrent=3,0x34674e0fd77f192f:0xf54275d47c665244,0&hnear=%E4%B8%8B%E5%A0%A1%E7%AB%99&t=h&z=16 -
■本渓湖に来たり!
炭田、炭鉱地域を走り抜けて午前9時20分頃本渓湖站前に到着。私の手持ちの資料は、たった一枚の駅周辺の略図だけなので駅は分かるが右も左もさっぱり見当が付かず。
実は出発前日の15日に「旧満州 本渓湖の街と人びと」塚原静子(著)を知りアマゾンで中古本を購入し、それが出発翌日17日に届いた。元より本渓湖は急遽来ることにしたので予備知識もなく白紙と一緒だった。
それで昨日の夜、遼陽賓館の部屋で「そうや!」と思いついて家内に「本の中に書かれている情報を何でも良いから知らせてくれ」とメールした。日頃本など読まない家内とのメールのやり取りが始まった。19日午後7時35分(日本時間午後8時35分)に最初のメールが届いた。
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「旧満州 本渓湖の街と人びと」
塚原静子(著)からの情報
9月19日午後7時35分からの家内とのメール交換
妻:『太子河が市内を流れ東は通化、集安、西は遼陽、鞍山、南は安東、北は瀋陽と書いてる。字が表せないのがある。』
私:『本渓湖駅からどの方向に住んでいたのか?神社、学校、軍隊、その他日本人はどこで暮らしていたのか?俺が今持って来ている地図は、太子河が流れている。駅の北側に日本軍守備隊が駐屯し、その東隣に小学校かある。東には戦死者の大きな墓地がある。大徳寺か七徳寺という名前の寺がある。本渓湖駅の北側には永利町がある。その本と俺が今持って来ている地図と同じところかなあ?たぶん同じ場所やと思うけど、近くに炭鉱があるようなことが書いてないか?』
妻:『本渓湖、宮の原に溶鉱炉があったと書いてる。寺は大徳寺。渓湖区タープ(大堡)北山の崖下に天然の鍾乳洞があり洞内の湖水は清く澄んであたかも水をたたえた杯のようで洞壁が曲がりくねってサイの角のような形で古くからベイジイフウ(杯犀湖)と称しているらしい』(この杯犀湖が本渓湖:Beixihu“ベンシイフ”になったらしい)
私:『そうか、大徳寺か、間違いないわ。そこに明日行くわ。鍾乳洞か、明日行けたらええけど。神社の写真も今持って来ている。本が1日早く到着してたら良かったけど、しょうがないな。』
妻:『本渓湖神社は市街の中央部、通称神社山と呼ばれる小高い場所にあり祭神は天照大神、大国主神と高天原系の天津神と土着系の国津神、さらに金山彦神、姫の神があわさり建立された。本渓湖中学校があり日本人子弟の為に作られた学校で本渓湖の中では最後に設立。駅からどの方向か解らんわ』
私『著者は男か女か、どっちやった?慌てて買ったから何も分からん。戦後著者は本渓湖に再訪してるんか?もう遅いから最後でええわ。』
妻『著者は女。著者は行っていない。友人のMさんが分厚い本を二冊持ってきて訪中したことや引き揚げのことを話してくれたらしい。』
そして今朝の6時9分に家内から以下の追加メールが届いた。家内も午前8時前には出勤なので、朝起きて本を開いて送ってくれた。最後のメールに全市一望できる公園とあったのでラッキー、必ずそこに行こうと思った。
妻:『媒鉄公司、洋灰公司、特殊鋼株式会社、鉄道株式会社など製鉄と炭坑の街として栄え沢山の日本人が住んでいた。本けい地区は長白山系千山山脈の支脈で境域の大部分は低い山々と丘陵地帯、河谷盆地でなり東西に長く、その西頭は大きく広がり、中間は狭く地図上で見ると鉄アレーの形に似ている。周囲を山に囲まれ中間は比較的平らな河谷盆地。』
私:『そうか、沢山の日本人が住んでいたのか。これだけ分かれば十分や。今日その本渓湖に行って来る。二時間くらい滞在するだけやけど分かって行くのと気合いが違うから。じゃあ行って来るわ。』
妻:『駅から平頂山に向かって真っすぐ行ったところに公園があり全市がパノラマのように一望出来る。革命烈士の記念碑立っていて(宮の原)と日本人が名付けたと由来する。以上。楽しんで来てください』
私:『その公園には必ず行って来るわ。朝飯食って今から出て行く。ありがとう!』
『ちゃんと読まずに平頂山の頂上まで行ってしまったわ。今日は初めての雨で思ったより本渓湖は広いし東西南北分からず坂が多かった。でも頂上に行ったから一望出来た。雨で視界は今一やったけどぜいたく言われん。今、本渓駅前の明珠大酒店に泊まっている。0414.2832888 今は雨やんだ。』
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家内からのメール情報で、何とかなるかと思って来たけど駅前着いても略図と現実の風景が重ならず。少しブラブラしたが坂になっており下手に歩いたら疲れるだけでどこにも辿りつけそうもないと、まず太子河を見つけたら地図との比較が出来るからと太子河を目指す。さっきから振り出した雨の中を傘も持たず道行く人に何度か聞いて太子河に辿りついた。
グーグルアースでも見ていたはずの本渓湖だが、やっぱり実際の街は広い。そしてこの時私は太子河の南側が本渓の街だとは夢にも思っていなかった。本渓湖と本渓市は離れており“Google”地図にも北側に「本渓市」とはっきり記されている場所が昔日本人が沢山暮らしていた本渓市だと疑うことなく思い込んでいた。
https://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&ll=41.491864,123.693008&spn=0.210876,0.308647&t=m&brcurrent=3,0x34674e0fd77f192f:0xf54275d47c665244,1&z=12
それがそもそも違っていたからホンマにややこしい。日本人が多く住んでいたのは本渓湖。そして当時の「宮の原駅」今の「本渓駅」は太子河の南にあり、本渓湖と同じ場所と言っても良い。ようするに太子河が流れ平頂山が聳えるのが日本人が沢山暮らしていた本渓湖であり、宮の原站も本渓湖站もここにある。
今の“Google”地図で見れば北に瀋陽、南西方向に遼陽、そして瀋陽⇔遼陽を底辺とした二等辺三角形の頂点、南東方向の本渓市という地名がある。私の行こうとしていたのは本渓湖とこの地図上の本渓市だった。
https://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&ll=41.578471,123.464355&spn=1.684738,2.469177&t=m&brcurrent=3,0x34674e0fd77f192f:0xf54275d47c665244,1&z=9
この距離感が脳裏にあったので、本渓湖駅の周辺を歩いて散策すれば何とか2時間くらいで概ね見れるだろうと思っていた。これは家内のメールを見た後もそうだった。そして太子河に出た。前方に台形のような特徴ある形の平頂山(P?・ngd?・ngsh?・n)が正面に見えた。といってもその時は何も分からず。
この時には、すでに私の目標は「全市がパノラマのように一望出来る。革命烈士の記念碑立っていて公園」だけには行こう。雨も降っているしアップダウンがあって歩くのも難儀だし、今日は本渓市のホテルに行くのではなくここで泊まろうと聞いたがこの本渓湖站周辺に泊まれるようなホテルがなかった。
そして本渓湖駅前に戻り“李さん”に「革命烈士の塔のある公園に行きたい」と言った。そして車は動き出したが街から離れて行くので「公園へ」と再度言うと、「10元渡すからあとから自分で行ってくれ」と言う。何がなんだか訳が分からなかったが、車はそのまま走り渋滞に巻き込まれたが15分ほどで本渓駅に着いた。 -
本渓湖駅前到着は午前9時42分
1934/昭和9年建立の駅舎 -
「絵葉書で見る本渓湖市街」
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上の絵葉書と大体同じ場所(右:本渓湖駅)から東方向を写す
地図
通りは水利町(渓湖東路)
前方の特徴有る山は駱駝山
https://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&ll=41.327679,123.7677&spn=0.001652,0.002411&t=m&brcurrent=3,0x34674e0fd77f192f:0xf54275d47c665244,1&z=19 -
渓湖西路の荷馬車
ここでは似合う風景だ
日露戦争後、昭和20年まで
多くの日本人がこの地で働き暮らししていた -
本渓湖駅前の風景
南東方向を写す -
本渓湖駅前の風景
南西方向を写す -
水利町(渓湖東路)を歩いて太子河に向かう
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渓湖東路:線路沿いを太子河に向かう
特徴有る「平頂山」が正面に聳える
地図
https://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&ll=41.32329,123.777133&spn=0.006607,0.009645&t=m&brcurrent=3,0x34674e0fd77f192f:0xf54275d47c665244,1&z=17 -
本渓湖守備隊全景
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渓湖東路を太子河方向に歩きながら
左側路地から変わった形の山が見えた
帰国後、上記写真を「植鉄の旅」で見つけた
そうかこの方向に本渓湖守備隊があったのか・・・と
http://liondog.jugem.jp/?eid=39
兜山?かも -
渓湖東路:線路沿いを太子河に向かう
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太子河に架かる鉄橋、本渓駅(宮の原駅)に向かう
この時はこの川向こうが本渓の町だとは思いもよらず
地図
https://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&ll=41.318213,123.772616&spn=0.003304,0.004823&t=h&brcurrent=3,0x34674e0fd77f192f:0xf54275d47c665244,1&z=18 -
台形の形をした平頂山
「変わった形の山やなァ〜」と思いつつ
この正面が「宮の原駅」
こんもりした茂みが松山(現在:望渓公園) -
太子河から東方向を写す
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太子河を背に渓湖東路を写す
さあまた歩いて本渓湖駅に戻ろう -
本渓湖駅構内の写真
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本渓湖散策は1時間ほどで終わってしまった
“李さん”のタクシーは写真左端青色タクシー
革命烈士の碑が本渓湖にあるものと思っていたが
ここではなく宮の原の松山(望渓公園)にあった
この時はそれも分らず“李さん”も知らず
結局、本渓のホテルに行く事になった -
本渓湖から太子河を渡って本渓駅に向かった
この時は本渓駅は本渓市にあるとばかり思っていた
「本渓湖→本渓市」は北方向30km先だと
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■本渓駅(宮の原駅)前の明珠大酒店に入る
本渓市は本渓湖から30キロ以上北にあると思っていたのに本渓駅を見て「えっ?何?こんな近いの・・・」と狐につままれたようにキョトンするしかなかった。そして駅傍に目に入った「明珠大酒店」の看板に「ここで停めて」と“李さん”に言って¥500元を払い本渓明珠大酒店(B?・n xi m?・ngzh?・ d?・ ji?・di?・n)に入る。明珠大酒店はどこかで泊まった記憶があった。
帰国後調べたら「満洲へ:大連から図們:汽車の一人旅」の時に大連駅前の「渤海明珠大酒店」に泊まっていた。ハハハ。
このホテルは予約なしで飛び込みだった。料金は忘れたが200元ちょっとだったと思う。驚いたのはパスポートの提示をしフロントの小姐がコピーをしていたが、その後、パスポートの返却に「時間が掛かるなァ〜」と思っていたら、やっと私の前に来てその小姐が他のパスポートのプリントしたのを見せて「このパスポートのようなビザの印がない」と言う。これにはホンマ驚いた。
日本人は『2003年9月1日より15日以内の商用、観光、 親族訪問、トランジットで中国を訪問する場合はビザが不要となりました』で、もう11年前から不要になっているのにまだ知らないホテルの服務員がいることに驚いた。
私が「もうとっくに日本人はビザは不要になっている」と言ったら、「公安に問い合わせてみる」と言う。不要になって以後数年は時々そんなこともあったけど、「ビザがない」と言われたのはホンマ久しぶり。
他に二人ほど服務員もいたし、その同僚に聞きもせずそんなことを言うのなら新人でもなさそうだし、最近このホテル泊まる日本人は少ないのか?その場で問い合わせて不要が分かり「対不起!すいません」と言ってパスポートを返してくれ部屋の706号室の鍵カードを渡してくれた。
結局、本渓湖・宮の原・本渓市などの位置関係は残念ながら帰国後ネット地図で確認するまではっきりとは分からないままだった。明珠大酒店の7階6号室の窓から正面に平頂山が見え、その手前に「革命烈士の塔」が建ち市内がパノラマのように一望できる宮の原の松山が目の前にあったというのに・・・。
帰国後部屋から写した写真に松山頂上の「革命烈士の塔」がちゃんと写っていた。肉眼でも見えていたと思う。 -
太子河を渡って10分足らずで本渓駅へ
「えっ?何これ・・・」と頭の中は混乱する -
前に明珠大酒店を見付けて
「ここに泊まろう」と決める
この名前のホテルに泊まった記憶があったから -
本渓明珠大酒店「706号室」
フロントの小姐に「パスポートにビザの印がない」と言われた
そんなことを言われたのは久しぶりだし
田舎でもないホテルの従業員が知らないのに驚く
最近ここに日本人は泊まっていないのか?・・・と -
2014/平成26年9月20日午前11時29分撮影
706号室の窓から写した一枚
この時は平頂山も目の前の松山も分らず
帰国後写真を見れば松山(望渓公園)の
山頂に立つ革命烈士の塔もちゃんと写っていた
満洲時代は「閑院宮載仁親王の戦績記念碑」が建つ -
写真左:「ビルの隙間に突っ立つ煙突」
古そうなので、もしかしたら昔からあるのかも
日露戦跡「沙河会戦」:本渓湖へ行く
http://youtu.be/ApAdGLzPeMc -
宮の原から太子河を渡って本渓湖に向かう
渓湖橋を北に渡って川沿いにある火力発電所?
タクシーの運転手Aさんの説明では
「都是日本人做的(みんな日本人が作った)」
https://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&ll=41.317718,123.766614&spn=0.003304,0.004823&t=h&brcurrent=3,0x34674e0fd77f192f:0xf54275d47c665244,1&z=18
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■満洲
帰国後「旧満州・本渓湖の街と人びと」塚原静子(著)を読み、他にもネットで公開されている「私の満州・十三歳の思い出」をちょっと見ただけだが・・・。
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/19hikiage/H_19_220_1.pdf#search='%E5%B9%B3%E9%A0%82%E5%B1%B1+%E6%9C%AC%E6%B8%93%E6%B9%96'
本渓湖に満洲時代暮らしていた引揚者が戦後「本渓湖会」を作り活動していたようだ。時の流れで数年前に解散したらしいが。第二の故郷として満洲を懐かしみに思い出を語るのはいいが満洲建国を主導した関東軍を非難し、あたかも自分たちはそれに巻き込まれた犠牲者か被害者のように振舞う姿には辟易する。
そして戦後に日中友好を謳い、再訪した本渓湖で歓迎してくれた中国政府役人に感謝し、お詫び?と感謝の記しに基金を募り中国人にお礼と称する。自己満足でやっているのならそれも許されるが、腹立たしいのは彼らが日本を代表するかのように中国人に謝罪することだ。それはすでに鬼籍に入った物い言えぬ先人及び過去現在未来の日本国と日本人を冒涜するに等しい。
当時世界は覇権主義が全盛で有色人種国家のほとんどは白人列強の植民地下にあった。そんな時代に資源無き日本が独立国家として存在するには台湾朝鮮の併合、満洲建国も当時の国策として間違ってはいない。他にどうすれば日本が独立国として世界で渡り合えたというのか?もし誰もが納得できる方法があるならそれを提示しろ。
親と共に満洲で子供時代を過ごしながら日本が負けたという結果に、関東軍や政府に罪を負わせ謝罪する自らを善人とする。こんな連中こそ偽善者であり私にとって嫌悪の対象でしかない。中国役人の歓待は彼らの善意のポケットマネーだとでも思っているのか?
35頁:H氏(記)
『そして私達満洲育ちの日本人の子供たちが、不安も恐怖もなく豊かな安逸のな生活を送り「五族協和」「王道楽土」「大東亜共栄圏』等という教育を受けていた時代の裏側に、中国民族の果てしなく暗い夜が、屈辱と涙と貧困と限りない生命の犠牲の日々があった事を知った。』
満洲建国が中国人にとって地獄なら、何故建国後漢民族が万里の長城を越えて満洲に大量に移住して来た?中学まで本渓湖で過ごしたのなら敗戦までの彼の地で共に暮らす中国人はどんな表情で生きていたのか知っているはずだ。現在の中国を見れば分かる。貧富の差は極端であり機会の平等もなく、今現在も年間数知れないほどの暴動が各地で起きている。
5頁:塚原(記)
『人はどうして平気で戦争をするのでしょうか。世界が平和でありますように祈らずにはいられません。』
「平気で戦争?」・・・ふざけるな!一体何を根拠にこんな言葉が出てくる。日清・日露・満州事変・支那事変・大東亜戦争を戦った先人は平気で戦争をしたとでも言うのか?神風特別攻撃隊の最年少は16歳だ。その少年兵士がどんな気持ちで飛び立ったのか?あんたは一度でも考えたことはあるのか?
平和を祈るのは勝手だが、念仏を唱えても平和は守れない。戦争を起こさないためにどこよりも強い軍隊を持ち、一朝事あれば戦ってでも国を守るという気概を国民それぞれが持つことが最大の抑止力でありそれでこそ戦争は回避できる。
私はこんな引揚者が語る似非平和の念仏や綺麗事など聞きたくもないし子や孫に聞かせたくもない。誰しも戦争の当事者にだけはなりたくない。戦争は悲惨であり地獄の惨状となる。だからといって戦うべき時に戦わずして奴隷に甘んじる選択肢はない。
■再度本渓湖へ
明珠大酒店の部屋に入ったのは午前11時半頃。今日必ず行きたい場所は、市内の一望できる場所。この時は「革命烈士?念碑」がある高台は本渓湖だと思い込んでいたので12時頃に部屋を出てタクシーに乗って再度本渓湖に向かった。タクシーの運転手(Aさん51才 嫁と27歳息子)と包車の相談をしたが「メーターで・・・」ということになった。
車中雨がひどくなってきた。出発の16日から連続四日間晴天続きでラッキーだったが雨も降る。太子河に架かる「渓湖橋」(本溪通往假日酒店大?)を渡って右に曲がったところの火力発電所?のような施設を運転手のAさんは「今は放置しているが日本が作ったものだ」と教えてくれた。
それだけではなく「都是日本人做的(みんな日本人が作った)」と何度も言っていた。Aさんは終始日本人に対して好意的な物言いだった。
そして私が歩いた三叉路を左折して渓湖東路を本渓湖駅に向かった。その辺で「革命烈士?念碑」のことをAさんが二人ほどに聞いてくれたが分からず。今思うに本渓のタクシーの運転手であるAさん自身が「革命烈士?念碑」のことを知らなかったのか不思議だけど・・・。本渓湖と私が強調したからだろう・・・か。
そしてAさんに「市内が一望できるところに行きたい」と、家内のメールに書いてあった「平頂山」という名前をメモ用紙に書いたら「行ける」というので本渓湖からとんぼ返りで平頂山に向かった。
今でこそ平頂山も本渓湖も本渓も、そして革命烈士?念碑も松山も位置関係もみんな分かるが、その時は何がなんだか分からないままであった。 -
午後12時4分
本渓湖から宮の原に向かう道は渋滞中 -
午後12時27分、本渓湖から戻って平頂山へ
「平らな頂上」の名前通りの山頂の姿
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■本渓湖から平頂山(へいちょうざん)へ行く
平頂山へ向かう途中、通行止めで迂回したりしながら麓に辿り着き山道を登っていった。雨が降っていたがハイキングなのか歩いて降りてくる人もチラホラ。車で登れば麓から10分ほどで展望台のところに着いた。平頂山標高「657m」・神戸市の六甲山標高「931.25m」。六甲山よりは低い。
展望台から本渓湖を一望できた。市内一望は「松山」今の望渓公園からのほうが身近に見えるだろう。ここからは市内どころか市内を取り囲む山々を含めて広大な広さで見渡せる。左手には工場群があり並び立つ煙突から黙々と白い煙を噴き上げていた。
日露戦争後、この地は『本渓湖炭鉱など日系資本による石炭・山林開発が行われ本渓湖煤鉄(ばいてつ)有限公司など石炭採掘・製鉄などのコンビナートを作り上げた。(今は本溪??集?)。満州事変、そして満州国建国後、1937年の街制施行により、本渓県の所在地だった本渓湖は本渓湖街に、1939年には本渓湖市(ほんげいこし)となる。』 http://www.bxsteel.com/HomePage.html
日露戦争の時、日本軍はこの本渓湖を最右翼として西の黒溝台に渡って戦線は延びていた。その横一線の前線に凹凸があれば、その凸が敵に包囲され潰されればその一角から分断され味方前線は混乱し敵に殲滅される恐れが生じる。一番突出していたのが最右翼の本渓湖、梅沢旅団であり、そこにクロパトキンは攻勢を掛けてきた。
梅沢道治少将(1853年11月4日-1924年1月10日没70歳)は仙台藩出身で戊辰戦争では幕府軍として官軍と箱館戦争(五稜郭の戦い)まで戦っている。この本渓湖の露軍との奮戦により「花の梅沢旅団」と全軍にその名がうたわれ梅沢は一躍名将となる。
この本渓湖での露軍との戦いは一体どんな戦いで、何処が戦場なっていたのか?
「アジア歴史史料センター」で「本渓湖 梅沢旅団」と検索したら9個の項目が出てくる。その中で 梅澤旅団支援の為め本渓湖方面へ強行軍・・・本渓湖附近の戦闘 其の1(1)・・・本渓湖附近の戦闘 其の2(2)等がある。
http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_C13110584400?IS_STYLE=default&IS_KIND=SimpleSummary&IS_TAG_S1=InfoD&IS_KEY_S1=%E6%9C%AC%E6%B8%93%E6%B9%96%E3%80%80%E6%A2%85%E6%B2%A2%E6%97%85%E5%9B%A3&IS_LGC_S32=&IS_TAG_S32=&
http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_C14060956500?IS_STYLE=default&IS_KIND=SimpleSummary&IS_TAG_S1=InfoD&IS_KEY_S1=%E6%9C%AC%E6%B8%93%E6%B9%96%E3%80%80%E6%A2%85%E6%B2%A2%E6%97%85%E5%9B%A3&IS_LGC_S32=&IS_TAG_S32=&
http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_C14060956600?IS_STYLE=default&IS_KIND=SimpleSummary&IS_TAG_S1=InfoD&IS_KEY_S1=%E6%9C%AC%E6%B8%93%E6%B9%96%E3%80%80%E6%A2%85%E6%B2%A2%E6%97%85%E5%9B%A3&IS_LGC_S32=&IS_TAG_S32=&
これらの資料の中に、戦場の地図もあり、本渓湖はもちろん、平頂山・満頭山・兜山・三角山・龍王廟・火連寨・威寧営・西溝等々、この地が最右翼であり、ここが激戦の地であったことが良く分かる。山と河、起伏の激しいこの辺りで露軍との戦いはどのようであったのか?
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クロパトキンの攻勢=沙河(さが)会戦
「北身市史編さんニュース NO.75」抜粋転載
http://www.city.kitami.lg.jp/docs/2546/
クロパトキンは奉天を決戦場と想定して、ロシア本国からは続々と増援部隊が到着し、決戦の準備を進めましたが、日本軍は一向に攻撃してくる様子がありませんでした。そこに現地諜報員からの報告が入り、日本軍が兵員や武器弾薬の補充に追われていることがわかりました。そこで日本軍の補充が間に合わないうちに攻勢にでることを考えました。
第二軍司令官グリッぺンベルグ大将写真 それにくわえて、9月下旬のペテルブルグでの御前会議では、ロシア軍連敗でクロパトキンの指揮能力に疑問が続出し、その結果、満州のロシア軍を第一軍と第二軍に分け、クロパトキンを第一軍司令官に、第二軍司令官をグリッペンベルグ大将(左写真)とすることにしました。クロパトキンにすれば、明白な降格人事でしたから、グリッペンベルグが現地に赴任してくる前に決着をつけ、自分の実力を誇示する必要があったのです。
しかも9月中旬から10月6日まで、児玉源次郎総参謀長は旅順攻略の督戦視察のために、遼陽にあった司令部を留守にしており、その隙を突くように、10月2日、クロパトキンは全軍に反攻宣言を発して、ロシア軍は奉天から南下を開始しました。まずは日本軍主力を奉天街道方面にひきつけ、その間に東部山岳方面を重点に攻撃し、日本軍右翼を撃破して南西に旋回、遼陽付近で包囲撃滅しようという作戦でした。
その頃、満州軍総司令部及各軍司令部の意見は二分されていました。一つは敵の攻撃に備えて陣地を鞏固にし、迎撃して一気に雌雄を決するものと、他は敵の攻撃体勢が充分に整わない間に先制攻撃を加えて撃破すべしとする二つの意見が対立していたのです。総司令部は始め前者の意見に立って各陣地を鞏固にするように指令していましたが、10月8日、第一軍方面の本渓湖に強力な敵部隊が攻撃をしかけて来たことから、総司令部はこれまでの作戦を一変して、先制攻撃に出ることとし、10月10日、進撃命令を発しました。
その目標を敵部隊の終結の中心である沙河としました。その日本軍の作戦は、自軍の左翼におけるロシア軍の行動が活発でないのを好機として、第一軍の右翼を軸として東北に旋回しつつ敵を東北山地に圧迫する。このため第二・第四軍は左翼を前に前進し、ついにはロシア軍を逆包囲し、殲滅するというものでした。
今度はロシア軍が機関銃の餌食に
10月8日正午すぎ、日本軍の最右翼であった本渓湖を守備していた第一軍所属に所属する梅沢道治少将指揮下のいわゆる梅沢旅団はロシア軍の攻撃にあい、3時間の激闘の末、撃退に成功しましたが、日本軍の右翼突破を狙うロシア軍は9日早朝、大部隊で攻撃を再開。このままでは梅沢旅団は全滅するかもしれず、第一軍司令部は第12師団を救援に向わせました。
あわせて機関銃を装備した騎兵第2旅団を、奇襲部隊として急行させました。激闘は10日、11日と続きましたが、山地づたいにロシア軍左翼に進出した騎兵旅団が、機関銃でロシア軍を側面から掃射、その結果ロシア軍は大混乱となり、敗走していきました。そして12日になってやっとロシア軍の撃退に成功したのです。
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最右翼に位置した本渓湖で「梅沢旅団」が露軍相手に奮戦し、ここが戦場であったという他は何も知らずに平頂山の展望台から視界の開けている北方向を眺め写真を撮っていた。そのとき私の目の前に日露両軍が死闘を戦った戦場が広がっていたはずだ。
平頂山の上に結構長い時間いたつもりだったが、デジカメ時間ではたった30分。せっかちな私なので、これがいつものことだけど。
雨降りの一日で予備知識もなく、もうこの時は神社跡もお寺も日本人の痕跡跡等々他を探す気力なく平頂山だけで満足だった。行きたかった公園がホテルの自分の部屋の窓から見えていたとは・・・おまけに革命烈士の塔まで見えていた。いや目の網膜に写っていただけで意識なく写真に写っていたハハハ。 -
途中メーンの通りが工事中で迂回路に入る
-
平頂山山頂に行くにはこの関所を潜る
駐車場代10元?を払った -
この石像の右方向に展望台があった
-
平頂山展望台から本渓湖を写す 正面中央の小高い丘が「松山(望渓公園)
残念ながら雨と靄で視界悪く
市街一望どころか、周囲の山々で見渡せた -
本渓湖煤鉄有限公司など
石炭・製鉄などのコンビナート群
煙突から煙がモクモクと雨空に漂う -
遠望には特徴有る形の山々が見えていた
写真より実際の方がよく見えていた -
満洲時代日本人の多くが暮らした本渓湖
今は高層ビルも林立し近代都市となっている
日露戦跡「沙河会戦」:本渓湖平頂山に登る
http://youtu.be/D0piYFtQ-_I -
明珠大酒店から出て本渓駅前に
本渓駅から北が解放北路、南が解放南路
「地図」
https://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&ll=41.296607,123.762038&spn=0.00661,0.009645&t=m&brcurrent=3,0x34674e0fd77f192f:0xf54275d47c665244,1&z=17
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■宮の原(本渓駅周辺)を散策する
平頂山から午後2時10分頃には戻っていた。そしてすぐにまた部屋から散策に出て行く。今日も「足が棒」状態なので散策と言っても駅から平頂山に向かってメーンの道は上り勾配で遠くまで歩く気持ちになれず。私の歩いたのはホンの駅から東方向平頂山に向かってと南北近くに限られる。
この街がこんなに賑やかで活気のあるところだと思わなかった。理由は私自身が本渓湖という地名を今まで知らなかったというのが一番だ。「知らない=小さな街」という単純な理由だけど。ちょっと調べればここに多くの日本人が暮らし、終戦後から引揚げまで他と変わらぬ悲劇があった。満洲全域、支那大陸全域、いや大東亜戦争の戦域すべてに同じことが言えるだろう。
賑やかな商店が左右に並ぶ地下街を歩き、そこから百貨店にはいり、地上に出て駅前の解放南路の角にピザの店『必?客(B?・sh?・ngk?・ ビィシィェンカァ Pizza Hut)』 が目に入り「良しここに入ろう」と行ったが、あいにく満席ですごすご出てきた。
https://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&ll=41.293519,123.760571&spn=0.001653,0.002411&t=m&brcurrent=3,0x34674e0fd77f192f:0xf54275d47c665244,1&z=19
そして今度は駅を背に今は「革命烈士記念碑」が立ち昔は「閑院宮載仁親王の戦績記念碑」が立っていた松山(望渓公園)の方向への緩やかな上り坂を歩いた。途中メロン切り売りの露店の“オバチャン”から味見のつもりで一切れ買って食う。ジューシーで旨い!結局この“オバチャン”から3回計5切れのメロン買って食べた。
最後の三度目は午後7時前“オバチャン”も覚えていて「“三次”(3回)」と言ってまけてくれたのか、それとも3本まとめて買えば5元なのか?分からなかったけど3本買ってみんな食べた。一回目が午後3時、最後は午後7時、その間だけでもほとんど立ったまま4時間か。
きっともっと早くからここに店を出していたのだろう。こんな露店の“オバチャン”の姿には頭が下がる。事情は分からないので、もしかしたら小金を稼いで裕福なのかも・・・とにかく頑張っている“オバチャン”は素直に「偉いなァ〜」と思う。
少し歩いたところで右に曲がり永豊街のマクドナルドで遅い昼食を食べる。時は午後3時半。¥16元。マクドを出て、次に斜め前にあったお持ち帰り専門の「町田寿司店」で晩飯用の巻き寿司を買った。その後、少しブラブラして午後4時半頃一旦ホテルに戻り小休止。 -
駅前から地下街へ入る
冬でも地下に入れば寒くない -
駅近くのデパートに入る
今回の旅で本渓湖を知ったが
これまで全然知らなかった
「へェ〜満洲にこんな町があったのか」 -
『必?客(Bìshèngkè ビィシィェンカァ Pizza Hut)』
しゃれたピザの店があったけどあいにく満席
待ってでも入れば良かった・・・と、後悔する -
何故か?この平山路ばかり歩いていた
この通りが賑やかだったからだと思うけど
右斜め前方が本渓駅(旧:宮の原駅) -
平山路のメロン売り“オバチャン”
ここで三回計五本買って食べる
美味かった! -
日本ではマクドは食べないが
満洲ではマクドもOK
日本の中華料理は美味いけど満洲では
何が美味いのか?お粥以外は美味くない -
夕食用に寿司を買ったが
寿司飯に酢が効いていないのには驚いた
なんとか食えるというだけの代物 -
平山路から本渓駅方向を写す
赤いジャンパーはメロン売りの“オバチャン”
ずっとあの場所で売っていた。メロンは美味い
きっとそこそこ稼いでいると思う -
日露戦争勝利から二年後の1907/明治40年開業
百度(Baidu)百科に満洲時代の駅舎との説明
「本溪站」
http://baike.baidu.com/view/447821.htm?fr=aladdin#2 -
宮の原駅→本渓駅へ
-
正面は本渓駅
またさっきと同じ平山路を歩く
何故?
やっぱりこの辺りが賑やかだったから
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■「宮の原」の夜
そして午後5時半頃また外に出てゆく。さっきと同じような場所をうろつき土曜日の夜だからなのか?夜店で賑わう様子をコンクリート階段に座ってボサーと眺めていた。我本渓湖に来たり・・・。一体何の縁でここに辿りついたのか?一枚の略図を見て本渓湖を知り、ここが日露戦争沙河会戦の最右翼だったことを知った。
当初は萬寶山への通り掛かりに2時間ほど立ち寄る場所だったが、大虎山から追い出され予定変更でこの地に宿泊することになる。その結果、平頂山にも上り、知らなかった多くのことも知ることになった。といってもすぐに忘れそうだがこの旅行記を見直せば思い出せることも多いだろう。
夜空になりホテルに戻る時にまだメロン売りの“オバチャン”が同じ場所で売っていた。三回目に三切れを買う。本当に美味しかった。まだメロンは沢山売れ残っていた。一体いつまでこの“オバチャン”は店を開いているのだろう。きっと稼いで大きな家に住み孫に囲まれて幸せな日々を送っているはずだ。
何故そう思うのか?それはメロンが美味しいから。2元のメロンならきっと良く売れる。メロンを買って明珠大酒店七階6号室に戻った。今日は雨が降ったけど、本渓湖の街は一望できた。満足なり。いよいよ明日はこの旅行最後の目的地萬寶山(ばんぽうさん)に行く。それが終われば桃仙空港傍のホテルに行って、明後日は帰国だ。嬉しいなあハハハ。 -
平山路でのペット販売
一匹幾らなのか値段を聞けば良かった -
この一画は夜店もこんな風に
箱型規格品夜店が並んでいた -
まだメロン売り“オバチャン”が立っていた
今日最後に三つ買う
“オバチャン”私を覚えていた
「三次、サンツー(3回)」と一言
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この旅行記へのコメント (2)
-
- こまちゃんさん 2014/12/08 23:30:52
- スイカ
- そうですよね。
しかもスイカは漢方薬にもなってて、その立ち位置は胃薬ですから。
果物の糖分は砂糖じゃ無いから食事制限されていても、少量なら影響がありませんので、食中りの時など、手持ち薬が無ければ常温のスイカをそのまま食べると結構落ち着きます。
スイカもそうですが他の物も、日本人は冷やして食べたり飲んだりすることが多いので、胃腸の調子を炒める人が多いんだってことを、これまでの中国生活の中で知りました。
今では、コーラもスイカも常温で飲食しています。
今思い付いたのですが、コーラはホットで飲んだことがあるので、スイカもホットっていけるのかな・・・?(それは無理かな?)
こま
- 明石DSさん からの返信 2014/12/09 08:27:54
- RE: スイカ
- そうですか。漢方薬にもなっているのですね。
それは知りませんでした。
中国人はスイカが好きそうですね。
スイカは美味いです
スカイジュースのホットはいけそうですね
一度飲んでみたいです
メロンも美味かったです
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