2014/09/16 - 2014/09/22
101位(同エリア259件中)
明石DSさん
明珠大酒店の朝
?午前6時28分、706号室から撮影
正面に松山(望渓公園)と平頂山(へいちょうざん)
この旅を機に初めて本渓湖のことを知った
日露戦争では日本軍最右翼の戦場になった地であり
その後は製鉄と炭鉱の町として
多くの日本人が働き暮らしていたことを・・・
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6日目:9月21日(日):晴れ
萬寶山(万宝山)・柳匠屯〜桃仙空港ホテルへ
2014/平成26年9月21日(日)
■明珠大酒店の朝
https://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&ll=41.295478,123.765278&spn=0.052879,0.077162&t=m&brcurrent=3,0x34674e0fd77f192f:0xf54275d47c665244,1&z=14
今回の旅の最初は大虎山。大東亜戦争終結後の昭和20年8月19日「最後の特攻出撃の地を訪ねて」だったが、それからは日露戦争、遼陽会戦の首山堡、次に沙河会戦の三塊石山・本渓湖、そして今日の萬寶山(ばんぽうざん)・柳匠屯(りゅうしょうとん)が最後の訪問地となる。
今朝も早朝5時過ぎに目を覚まし、窓のカーテンを開けたら目の前真正面に松山(望渓公園)とその後方に平頂山、空は薄曇りの中に青空が見えた。昨日は雨模様だったがそれも一日だけだったようでホッとした。
朝風呂に入りしばしボサーと休憩し、7時を待って早速朝食を食べに行く。一泊だけなので最初で最後の「本渓明珠大酒店」の朝食だった。ここでもスイカがあったので食べる。食堂にそこそこ人はいたが周囲から日本語は聞こえて来なかった。
-
上の写真を一部拡大したら「革命烈士永垂不朽の碑」が分る
満洲時代は「閑院宮載仁親王(かんいんのみや ことひとしんのう)の戦績記念碑」があった -
山に建っていた「閑院宮載仁親王の戦績記念碑」
日露戦争:本渓湖の戦いでは閑院宮載仁親王は騎兵第2旅団長として
機関銃を駆使して苦戦の島村旅団を救援しロシア軍を敗走させた -
スイカと豆漿(豆乳)のある朝食
満足 -
明珠大酒店のレストラン
日本語は聞こえなかった -
明珠大酒店玄関にて
遼陽賓館から三日連続、朝の花嫁を見る
爆竹の音が早朝から凄かった
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■サラバ、本渓湖(ほんけいこ)!
7時45分準備を整えリュックを担ぎ部屋を出る。リュックの中味は日本から持参した食い物(パン・お菓子・ソーセージ他・慰霊用のタバコ等)や下着(百円ショップの使い捨て)は日々減って徐々に軽くなるのが嬉しい。階下に降りると今日も朝早くからウェンディグドレスの花嫁と花婿、親戚の人たちの姿があった。
これで遼陽賓館から三日連続早朝花嫁を見ることになった。どうもこの結婚式の段取りが今も分からない。早朝から着飾ってホテルのフロントや玄関で写真を撮り、派手に飾った外車と結婚式の出席者?が乗る車が連なって出て行く。結婚式はどこでするの?何で朝早くホテルから出るの?「中国の結婚式 〜面白い習慣の紹介〜 」・・・とのこと。 http://latte.la/column/10382914
でも朝から花嫁見たりホテル前で爆竹の凄まじい音を聞くとこっちもテンションが上がる。ホテル近所に住んでいて毎朝の爆竹なら嫌だが旅先は幾ら賑やかでも面白い。夜の騒音は嫌だけど。
フロントで地図を見せて「タクシーを包車して萬寶山と柳匠屯、その後瀋陽空港酒店に行きたい。良い運転手を紹介して欲しい。」と頼んだ。応対してくれた小姐は、メモ用紙に電話番号を書いてくれたが、私が「貴女に電話をしてほしい」と言うとしてくれた。そして数分後に来てくれたのは30歳前半の男性運転手“A君”。
行き先は萬寶山の「奉天会戦第四軍戦蹟」と「日露会戦ロシア碑」、柳匠屯村、最後に瀋陽桃仙空港のホテル。100キロほどの距離でそれぞれの場所で1時間くらいの滞在。ネットでこの地を訪ねたHP「白樺寄語」
http://baihuajiyu.blog.shinobi.jp/Page/4/
にはこの碑に来るのに『舗装もされていない道を車で走り、近隣の村民に場所を聞いたりしてようやくたどり着くことができた。』とあるので探しながら行く事になるかも・・・。
そんなこともあって“A君”が提示した包車料金は¥600元。「瀋陽までなら¥300元だが三ヶ所巡って、それぞれの場所で見学してだから¥600元」とのこと距離的には高い料金だが探しながらということもあってそれでOKということにした。二、三年前なら値切るか断るかだが今の私には許容範囲になっている。
交渉成立で8時25分早速出発。と思ったら後部座席に私が紹介を頼んだ小姐が座っている。彼女曰く「行ったことないので一緒に行っても良いですか?」と「いいよ」ということで三人でスタート。すぐに彼女が“A君”の妻ということが判明。なんや主人を紹介しくれたのか、600元も日本人だからなのだろう。
家族は3歳の娘一人、彼女の両親はすでになく、ご主人の両親と同居。食事は義母が作ってくれ娘の世話もしてもらって自分は明珠大酒店で働いている。今日は泊まり明けなのに後部座席でほとんど寝ずに乗っていた。こんな夫婦の貸切タクシーなので高くても安心感はある。
そしてこの“A君”に以下の三ヶ所の住所を書いた用紙を渡したらスマートフォンのナビ機能にちゃんと出た。「俄会戦碑日本碑」でナビにも登録されており探す必要はなくそのまま最初の目的地:萬寶山の「奉天会戦第四軍戦蹟」にすんなり到着した。
住所・・・この住所でナビ検索すれば行ける。
「中国??最省沈?飜市?家屯区日俄会戦碑日本碑」
https://maps.google.co.jp/maps?q=%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E8%BE%BD%E5%AE%81%E7%9C%81%E6%B2%88%E9%98%B3%E5%B8%82%E8%8B%8F%E5%AE%B6%E5%B1%AF%E5%8C%BA%E6%97%A5%E4%BF%84%E4%BC%9A%E6%88%A6%E7%A2%91%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%A2%91&hl=ja&ie=UTF8&ll=41.603209,123.450912&spn=0.006579,0.009645&sll=34.915192,134.860631&sspn=3.828474,4.938354&brcurrent=3,0x34674e0fd77f192f:0xf54275d47c665244,0&hq=%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E8%BE%BD%E5%AE%81%E7%9C%81%E6%B2%88%E9%98%B3%E5%B8%82%E8%8B%8F%E5%AE%B6%E5%B1%AF%E5%8C%BA%E6%97%A5%E4%BF%84%E4%BC%9A%E6%88%A6%E7%A2%91%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%A2%91&t=m&z=17
「中国??最省沈?飜市?家屯区日俄会戦碑俄羅斯碑」
https://maps.google.co.jp/maps?q=%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E8%BE%BD%E5%AE%81%E7%9C%81%E6%B2%88%E9%98%B3%E5%B8%82%E8%8B%8F%E5%AE%B6%E5%B1%AF%E5%8C%BA%E6%97%A5%E4%BF%84%E4%BC%9A%E6%88%A6%E7%A2%91%E4%BF%84%E7%BE%85%E6%96%AF%E7%A2%91&hl=ja&ie=UTF8&ll=41.606466,123.440334&spn=0.006578,0.009645&sll=41.604597,123.458004&sspn=0.054553,0.077162&brcurrent=3,0x34674e0fd77f192f:0xf54275d47c665244,0&hq=%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E8%BE%BD%E5%AE%81%E7%9C%81%E6%B2%88%E9%98%B3%E5%B8%82%E8%8B%8F%E5%AE%B6%E5%B1%AF%E5%8C%BA%E6%97%A5%E4%BF%84%E4%BC%9A%E6%88%A6%E7%A2%91%E4%BF%84%E7%BE%85%E6%96%AF%E7%A2%91&t=m&z=17
「中華人民共和国??最省沈?飜?家屯区柳匠屯村」
https://maps.google.co.jp/maps?q=%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E4%BA%BA%E6%B0%91%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD%E8%BE%BD%E5%AE%81%E7%9C%81%E6%B2%88%E9%98%B3%E8%8B%8F%E5%AE%B6%E5%B1%AF%E5%8C%BA%E6%9F%B3%E5%8C%A0%E5%B1%AF%E6%9D%91&hl=ja&ie=UTF8&ll=41.584024,123.486114&spn=0.026322,0.038581&sll=41.606342,123.440332&sspn=0.006819,0.009645&brcurrent=3,0x34674e0fd77f192f:0xf54275d47c665244,0&hnear=%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E4%BA%BA%E6%B0%91%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD+%E9%81%BC%E5%AF%A7%E7%9C%81+%E7%80%8B%E9%99%BD%E5%B8%82+%E8%98%87%E5%AE%B6%E5%B1%AF%E5%8C%BA+%E6%9F%B3%E5%8C%A0%E5%B1%AF%E6%9D%91&t=m&z=15 -
午前8時25分ホテル前を出発
出発後20分経過、太子河沿いを走る
サラバ!本渓湖 -
出発後30分、午前9時5分撮影
真っ直ぐ方向」「石橋子5km」
左方向「瀋陽:火連寨」の案内表示
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■本渓湖から萬寶山、そして柳匠屯へ向かう。
萬寶山は沙河会戦と奉天会戦の戦跡、柳匠屯は奉天会戦の戦跡。9月初頭、遼陽会戦でロシア軍を破り奉天まで後退させた。だが日本軍は多大な犠牲を出し戦力は徐々に減じている。一方ロシア軍は日本軍と同等の犠牲を出しているが戦力の補充は兵士武器弾薬その他物資もシベリア鉄道の充実によって負け戦を続けながら戦力はますます増強を続けている。長引けば先の結果は目に見える。
武器弾薬兵力の補充がない日本軍は遼陽を陥落させたあと一気呵成に後退するロシア軍を叩くことが出来ず。東西一線に前線を保ちながら砲弾を貯めるしかなかった。そして「退却将軍」と揶揄されていたクロパトキンは日本軍の砲弾兵員補充困難の情報を得、名誉挽回と10月8日、日本軍の最右翼、本渓湖に逆攻勢を掛けてきた。
それに対し、日本軍は前線陣地防御ではなく積極攻撃に出る。本渓湖はロシアの大軍の攻撃を受けるが、本渓湖守備隊、後方の梅沢旅団の獅子奮迅の戦い、援護に駆けつけた「宮さま旅団」閑院宮載仁親王(かんいんのみや ことひとしんのう)の機関銃を装備した騎兵旅団の活躍で踏み止まった。そして中央部では第四軍が10月12日三塊石山を占領する。
10月8日から始まった戦闘は13日で峠を越した。しかし15日に沙河堡で戦う第二軍の右翼隊が萬寶山からの露軍の砲火に苦戦していたので第四軍の山田支隊に萬寶山制圧の出撃命令が出た。少ない兵力であったが山田支隊は夜襲を持って萬寶山を占領した。しかし翌16日、ロシアの大攻勢を前に第二軍が後退することになり山田支隊にも撤退命令が出た。
そして日没後部隊を下げようとした時、運悪くロシア軍の大軍に追尾され混乱のなか山田支隊は寸断され武器も持たない輜重輸卒(しちょうゆそつ)や負傷兵もロシア軍に惨殺された。だがこの戦いにおいての損害は日本軍の死傷者1,300人に対してロシア軍死傷者約3,000人と三倍に及んだ。沙河会戦(26〜29)
http://www.jacar.go.jp/nichiro2/sensoushi/djvu/rikujou/rikujou_06/C09050705800.djvu
「野砲九門」「山砲五門」を残したままの撤退で日本軍の砲が敵の手に渡ったのはこの戦役を通じてここしかない。しかし山田少将をはじめ二人の連隊長も評判の勇将であり、この時はまさにロシアに時の運があり山田支隊にとって運が悪かったとしか言えない。なんでもそうだが結果には如何ともし難い時の運というのもある。沙河の会戦時においては萬寶山は悲運の地である。
そして10月18日くらいまで日露は激しく戦ったが、日本軍は砲弾途切れ兵士の損耗も多くロシア軍をこれ以上追い詰めることは出来ず。またロシア軍も日本軍の夜襲に次ぐ夜襲の連続でクロパトキンは日本軍の戦力を過大評価し「退却将軍」指揮の下またしても攻勢を止めた。そしてこの位置において「沙河の対陣」が始まる。
「沙河(さがorしゃか)の対陣」というのは沙河を挟んで南北に日露両軍が陣地を置いたのかと思っていたが、日本軍の陣地は沙河の南側(一部北)。山田支隊が16日露軍に奪還された萬寶山(沙河の南)も露軍陣地。東西60キロに渡って日露は300m〜3km隔てたところに互いに陣を張った。
この沙河会戦での日本軍の戦死者4,099人、戦傷者16,398人、行方不明者ナシ、合計20,497人。ロシア軍戦死者5,084人、戦傷者30,394人、行方不明者5,668人、合計41,346人。ロシア軍は日本軍の2倍の戦死傷者を出すも豊富な補給によって戦力は減じるどころか増強して行く。
http://www.kaikosha.or.jp/_userdata/nichiro-10.pdf#search='%E4%B8%87%E5%AE%9D%E5%B1%B1+%E6%97%A5%E9%9C%B2'
そして厳寒の地で互いに陣地を構築し対峙が続いた。明治38年の正月を迎え旅順も陥落し、日本軍は旅順から前線に加わった乃木希典大将の第三軍と新に第三軍から引き抜いた鴨緑江軍:川村景明司令官(大将)を設けロシアと雌雄を決する奉天会戦に挑む。時は明治38年2月23日、日本軍最右翼の鴨緑江軍の清河城陣地への攻撃で火蓋を切った。中華人民共和国遼寧省本渓市本渓満族自治県清河城鎮
https://maps.google.co.jp/maps?q=%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E4%BA%BA%E6%B0%91%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD%E9%81%BC%E5%AF%A7%E7%9C%81%E6%9C%AC%E6%B8%93%E5%B8%82%E6%9C%AC%E6%B8%93%E6%BA%80%E6%97%8F%E8%87%AA%E6%B2%BB%E7%9C%8C%E6%B8%85%E6%B2%B3%E5%9F%8E%E9%8E%AE&hl=ja&ie=UTF8&ll=41.458038,124.228678&spn=0.052747,0.077162&sll=41.413381,123.85231&sspn=0.437711,0.878906&oq=%E6%B8%85%E6%B2%B3%E5%9F%8E&brcurrent=3,0x34674e0fd77f192f:0xf54275d47c665244,0&hnear=%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E4%BA%BA%E6%B0%91%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD+%E9%81%BC%E5%AF%A7%E7%9C%81+%E6%9C%AC%E6%B8%93%E5%B8%82+%E6%9C%AC%E6%B8%93%E6%BA%80%E6%97%8F%E8%87%AA%E6%B2%BB%E7%9C%8C+%E6%B8%85%E6%B2%B3%E5%9F%8E%E9%8E%AE&t=m&z=14
そして萬寶山(万宝山)と柳匠屯は、第四軍とロシア軍との凄まじい修羅場となる。私の祖父は第四軍出征第十師団・騎兵第十連隊騎兵伍長として奉天会戦でも生き延びた。奉天会戦では第一軍との警戒連絡の任についていたようだ。砲弾飛び交う中を馬に乗って駆け回っていたのか・・・。
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出征第十師団・騎兵第十連隊:日露戦争戦歴
沙河会戦参与(自10月10日〜至10月17日)
師団各縦隊に交互配属して捜索及び警戒 に任して師団の前進を容易ならしめ三槐石山夜襲の際は砲兵及び後方部隊の掩護に任し爾後(じご)昼夜戦闘に従事し敵を北方に撃退す
沙河対陣参与(明治38年 自1月19日〜至2月21日)
第二軍秋山支隊に属し三岳支隊とな り韓三台附近守備に任し又黒溝台会戦後は媽々街附近に位置し酷寒を冒して満州軍の左翼を掩護し其の作戦を容易ならしめ秋山支隊長より 賞詞を受く
黒溝台会戦参与(自1月25日〜至1月31日)
対陣間敵の大々的攻勢移転に方り四日間に亘 り優勢なる敵の攻撃を撃退して亜叭台を死守し満州軍の危機を救ひ軍司令官より賞詞を受く
奉天会戦参与(自2月27日〜至3月10日)
師団に復帰し其の攻撃前進間三岳支隊となり第 一軍との間隙に於いて広正面の警戒連絡に任し軍の追撃に方りては随所に敵を撃破して猛烈なる追撃を敢行し奉天北方地区に進出して戦捷 の効果を著大ならしむ
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本渓湖を出てしばらく一般道路を走ったがその後高速道路をひた走り10時2分頃高速から出る。“Google”地図で「本渓駅」から「沈?飜市?家屯区日俄会戦碑日本碑」を車のルート検索をすれば「距離63.1 km、1 時間 24 分」と出る。
しかし高速の料金所を出たのが10時2分、すでに1時間37分。出てからも40分くらい掛かっており“Google”地図でのルートとは違う道なのか?迷うこともなく誰にも聞かずすんなり目的の萬寶山(万宝山ばんぽうざん:東煙龍山)に着いた。沙河(さが)を北から南に渡り、周囲がトウモロコシ畑の道をしばらく走ると前方に小高い丘とその“てっぺん”にすくっと建つ碑が目に入った。 -
午前9時53分撮影
出発後1時間28分:高速道路 -
午前10時33分撮影:出発後2時間8分経過
沙河を渡る。ここから12分で萬寶山の着いた -
このすぐ先に「奉天会戦第四軍戦蹟」の碑がある
萬寶山(万宝山:ばんぽうざん)、煙龍山
1905/明治38年3月この辺りで日露両軍が戦った -
前方の小高い丘の上に碑が立つのが見えた
「少年日露戦史:第拾参編」:(コマ番号20:萬寶山の攻防)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1169709 -
萬寶山附近に於ける露軍防御線
明治38年3月8日との日付がある
鉄条網に地雷原、そして機関銃座
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■我萬寶山に来たり!
「我萬寶山に来たり!」いつもそうだが来る前に日本で何度も写真で見て「そこは一体どんなところなのか?」と想像の範疇だったものを目の当たりにした時は「やったぜ!」と感動する。「そうか、こんなところだったのか・・・」「こんな小さな小高い丘なのか・・・」と、萬寶山は山とはとても言えない大地の膨らみだった。
しかし、高台には違いない。ここに陣地を作り前面に鉄条網を張り巡らせ、その後ろに機関銃座を備えれば前方見渡しよく、 吶喊(とっかん)してくる歩兵は簡単になぎ倒すことは可能だ。逆にこの丘に向かって突き進む兵士は身を隠す場所もなく全身を晒せての突撃は身も凍る。それでも日本軍兵士は突き進んだ。
車から降りて丘の頂上に建つ碑に向かって歩いた。丘とも言えない盛土のような高台だ。周囲は緩やかな勾配の大地の“うねり”はあるが360度畑が広がり建物も高い山もない。そして「奉天会戦第四軍戦蹟碑」は思った以上の大きさで高さは4mをゆうに越えるくらいあった。
とりあえず日本碑に来れたので、すぐ近くにあるはずのロシア碑を見つけてからここにもう一度戻って来ようと思った。日曜日だからか?一人の中国人(男:40代)がこの場にいたので「ロシア碑はどこにあるの?」と聞いたら、その40代の男性が「ここから見えるはずだ」と方向を指差した。私はその方向を目を凝らして見たが見えない。
彼も「以前来た時は見えたのに・・・」と言いながら見ていたが見えないようだった。その彼が「今から私も行くから付いて来て」と歩き出したので一緒に行く。瀋陽から自分で車を運転して来たようで歴史が好きとのこと。自分たちがいま住んでいるこの満洲の地で日露両国の大戦争があったのだから知っていても何の不思議は無いはずだけど、私が触れ合った満洲の中国人は知らない者が多い。
後ろに付いて数分歩いたら前方にロシア碑が見えた。そこもこんもりとした盛土のような丘の上に写真で見ていた碑が建っていた。「そうか、こんな感じなのか」と感激しながら向かって行く。祖国日本を守るために健気にも小柄な日本兵がロシアの熊と堂々と戦い蹴散らした。武器装備体格で勝るロシア軍に勝ったのは、日本兵が精神力で圧倒したこと以外の何ものでもない。
司馬遼太郎もそうだが大東亜戦争敗戦の原因の最たるものが「日露戦争の勝利を引き摺り大東亜戦争でも精神力重視で兵站・補給をおろそかにし、戦線を拡大した挙句各地で惨敗を帰し敗戦となった。」というのが通説のようになっている。今では「精神力重視は愚か」というのが正論であるかのようだが「ふざけるな!」である。
スポーツを含めて、どんな戦いにおいても何時如何なる時でも最重要視すべきは精神力であり、他はその次だ。その上で「兵站・補給が大事」というのは百も承知だ。それは日露でも大東亜戦争時でも日本人・日本軍は百も二百も承知だった。世界地図を見て見ろ!小国日本が大国ロシア相手に戦うには精一杯の補給であり兵站だったのだ。
大東亜戦争もそうだ。大日本帝国は『米英を筆頭にオーストラリア・ニュージーランド連合軍、カナダ、オランダ、 中華民国、八路軍、ソビエト連邦、 蒙古人民共和国、自由フランスを相手に実際に戦火を交えた。』・・・日本は満洲・台湾・朝鮮・南洋諸島を含めての大日本帝国だったが総合力は連合国の比ではない。
その現実を見れば兵站補給がどうにもならなかった要因は大本営参謀部の無能冷徹非情ではなく、どうしようもない総合力の差だ。日本人は過去も現在もそうだが、未来も万世一系男系継承による天皇陛下の存在、皇室の存在ある限り温和で差別意識もなく大人しい民族であり続ける。冷徹でも無能でもない。しかし総合力の差を痛感していても戦いに挑まねばならない時がある。
それが大東亜戦争だった。だがそれは決して一か八かではなく、日露戦争と同じく勝てる可能性は十分あった。理由は『「太平洋戦争」は無謀な戦争だったのか 『』ジェームズ・B・ウッド(著)を読んでも分る。他にもある。私には「精神力重視は愚か」「根性論は愚か」という奴こそ愚か者だと断じる。
http://www.amazon.co.jp/%E3%80%8C%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E6%B4%8B%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%80%8D%E3%81%AF%E7%84%A1%E8%AC%80%E3%81%AA%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B-%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%BA%E3%83%BBB-%E3%82%A6%E3%83%83%E3%83%89/dp/4898311377
ロシア碑は十字架をモチーフにした形で大きさも日本碑と同じように大きかった。銃弾の痕跡?が無数にあるのは、その後の満州事変や国共内戦によるものか?でも日本碑には弾痕跡は見当たらないので不明。ちなみに世に言う「万宝山事件」と、この万宝山は場所も時代も違いまったく関係ない。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E5%AE%9D%E5%B1%B1%E4%BA%8B%E4%BB%B6
ロシア碑には「1904−1905」と書かれていた。ロシア語で書かれた文字の内容は分らない。この萬寶山では1904/10月16日山田支隊がロシアの大軍と戦った。その翌年3月には奉天会戦として第四軍が萬寶山(煙龍山)・胡老屯・柳匠屯で戦い抜いた。そしてその戦いは『第十師団(姫路)の精鋭をもってしても、六昼夜肉薄すれどついにここを攻陥するを得ず。多大の犠牲を払いたり』と言われる戦闘であった。
2014/平成26年9月20日、その萬寶山に来たり。周囲にはトウモロコシ畑が広がり青空の下どこまでも静かな風景が続く。耳を澄ましても銃弾の音は聞こえず。ロシア碑から日本碑はさえぎるものなく真っ直ぐに相対峙して立つ。並び立つ両碑には威厳を感じる。この地に多くの日露両軍兵士が故国の土を再び踏むこと適わず斃れ今も眠る。
ロシア碑の前にしばらくいて又日本碑の方へと向かった。“Google”地図のルート検索では距離1.2km、徒歩14分。実際のデジカメ時間でも15分前後。そしてまた「奉天会戦第四軍戦蹟」の前に来た。この小高い丘も地元民の墓地になっているようで小さな墓石が不揃いに立っている。
「少年日露戦史:第拾参編(コマ番号20:萬寶山の攻防)」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1169709
萬寶山(ばんぽうざん)の攻撃(コマ番号20−24)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1169709
萬寶山:コマ番号87
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1209621 -
第四軍の碑が建つのは山とは言えない丘の上だった
何故?ここが萬寶山と呼ばれるようになったのか?
沙河を北に背にし、この辺り一帯が奉天目前の
史上最大の大会戦場となりここは中央に位置した -
「萬寶山の戦蹟」
写真の下記説明書き
『萬寶山は日露戦役沙河大会戦の終末我山田支隊が露の大兵力に夜襲せられ
鵜澤(うざわ)中佐の勇戦討死せし處にして奉天大会戦の初期に於いては
今橋少将の一隊が攻戦十日最も苦戦したる激戦場なり
露軍に之をブチロフ山と命名し一丘陵たるに過ぎざれども
彼我の戦史に特筆せられある戦蹟にして其名高し』とある
この写真の戦蹟碑は今のとは違うようだ
この戦蹟のあとに今のが作られたのだろう -
2014/平成26年9月21日(日):午前10時47分撮影
日露戦争:奉天会戦の地に来たり -
奉天会戦第四軍戦蹟」は奉天に向いている
想像していた以上に大きかった
4メートルを越える高さがあるのでは?
良くぞ中国共産党が残しておいてくれた
逆光で写真は見にくいけど
この碑は1911/明治44年建立のようだ。「白樺寄語」
http://baihuajiyu.blog.shinobi.jp/Page/4/ -
碑の背中を写す。銘板が外れている
-
第四軍戦蹟碑から周囲を写す
残念ながら方向は特定出来ない -
第四軍戦蹟碑から周囲を写す
残念ながら方向は特定出来ない -
第四軍戦蹟碑から周囲を写す
残念ながら方向は特定出来ない -
40歳の歴史好き中国人の案内でロシア碑に向かう
日本碑から西方向「1200m」ほどの高台にある -
この写真正面の点がロシア碑
1912年第四軍戦蹟碑の建立の翌年
日本国の了解を得て建立された -
「ロシア軍慰霊碑」
碑の前面の案内版は日本碑に面している
日本碑(東南東)⇔ロシア碑(西北西)
両碑の所在地
https://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&ll=41.60803,123.442855&spn=0.026312,0.038581&t=m&brcurrent=3,0x34674e0fd77f192f:0xf54275d47c665244,1&z=15 -
ロシア軍記念碑
十字架をモチーフにしゃれたデザイン
弾痕跡が無数にある、国共内戦のものか?
日露双方の碑が今も健在なのは喜ばしい -
ロシア碑の陰から日本碑を写す(ズーム)
さえぎる物なく双方高台の上に建つ
1903-1904 この地を戦場に日露は雌雄を決する戦いをし
幾多の将兵が死傷し故国を離れたこの地で亡くなった
今ここに畑地が広がる平和な景色があるが
それは1904−1905に日露が戦った結果の今だ -
ロシア碑の傍に煉瓦積みの円形の築造物あり
銃眼のような物があるが制作年・用途は不明 -
高粱畑の中をロシア碑を背に日本碑に戻る
日露戦争は日本史に燦然と輝く歴史となった
日本軍兵士は皆「お国のため」に戦った
「国のために戦うことは愚かなのか?」
「国家は悪で、個人は善なのか?」
「国あらずして個人や家族の幸せは有り得るのか?」 -
日本から持参したタバコ・お菓子を供える
私が幼い頃祖母から教えてもらった歌
「戦友」http://youtu.be/gH9W0oVCjRA
「露営の歌」 http://youtu.be/lzpjBdxz5io -
-
我萬寶山を去る
午前11時56分撮影
萬寶山滞在は1時間10分ほどだった
短い時間だが来て良かった。満足なり
日露戦跡「沙河and奉天会戦」:萬寶山へ行く
http://youtu.be/tNfZM4Jt_Fc -
満洲への旅の出発前:平成26年9月5日
二男が福山に居住し、孫の顔を見に行くついでに参る
備後護国神社
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%82%99%E5%BE%8C%E8%AD%B7%E5%9B%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE
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■日露戦争時の日本軍兵士
日露開戦以来、遼陽も旅順もその他の全ての戦場で戦友がバタバタと斃れ行く中を前に前に・・・と。退くことなく進みついにはロシア軍を追い落とす。この戦いの様は想像するだけで痛ましい。ひたすら突っ込む日本兵は馬鹿ではない、それどころか将校も下級兵士も人間として兵士として知識レベルは世界に冠たるものだったと確信する。
祖父もそうだが戦場で時間があればみんな手紙を書き新聞を読み、一兵士ですら大東亜戦争当時と違って戦場の現況をある程度把握していた。そして通信の検閲も厳格でなく故郷に送る手紙には「遠からず柝木城を占領すべくと思いおり候」「近日内には遼陽に向い前進致すべく候」とか自由に書いている。他の戦場の損害の程度も知っていた。当時の兵士は日本軍の実情を概ね分っていた。
日本軍の補給の困難さも、ロシア軍の続々たる増強も一兵士まで理解していた。そして最前線で将校が率先して突撃した。幾らロシア陸軍が世界一と言われてもそれに勝る個々の兵士の力、日本人としての力があった。蒙古襲来を打ち破ったのも凄いが、日本史上最高の戦いの一つが日露戦争であることは間違いない。日本陸軍歩兵は戦友の遺骸を弾除けにしてでも突き進んだ。そんな往時を思えば感謝と畏敬の念しか浮かばない。思うたびに胸が熱くなる。
坂の上の雲(七巻:128頁)
『乃木軍司令部にいた騎兵の兵卒で丸山某が戦場で昏倒して捕虜になり、露都ペデルブルグに送られた。ロシア軍はこの丸山に対してさまざまの尋問をした。このときの丸山は、軍機に関することは答えず、日本軍の高級司令部のあり方についてのべた。「将軍の行動と幕僚の執務一般の状況について」というまるで学術論文のような答弁を丸山はやってのけて、ロシアだけではなくヨーロッパじゅうの兵学界を驚かせた。この丸山の口述についてはのちにドイツの兵事週報にとりあげられ「日本軍兵士のおどろくべき高等知識」という表題のもとに論文が掲載された。』
上記の一例でも分るように当時の日本軍は徴兵とはいえ、まだまだ師団数も兵士の員数も少なく、大東亜戦争時とは比較なら無い軍隊の規模だった。ということは兵士の資質もある程度のレベルは担保されていたはずだ。兵士の人間としての資質にあまりに差があれば訓練や実戦においても組織としての能力は低下する。ましてや日清戦争よりも更に国家存亡の危機に瀕しての戦いに挑むにあたり出征兵士は選別されたと思う。将校ではない一兵士の素晴らしい従軍記が沢山残っているのもその証だ。
そんな彼らが「吶喊・とっかん」の命令に粛々と従った。旅順攻撃の乃木希典大将とその参謀:伊地知幸介少将を司馬遼太郎は「坂の上の雲」で無能が如き扱っているが、難攻不落の旅順を陥落させたのはやはり乃木希典の軍人としての人格だと思う。作戦に対しての後世の批判や非難、反省はあっても当時の人は乃木希典を認めていた。そして突撃戦法は何も旅順だけではない。
日本軍の戦いはどこの戦線でも概ねそうだ。そして吶喊と言っても命を賭してのものだから必死の戦法・その場での創意工夫の下に行っている。夜襲もそうだ。ただむざむざと突っ込んでいるのではない。知識レベルの高い日本兵士は愚か者では決して無い。その現場を知らず、その戦場を知らぬ後世の者が命の安全な場所で能書きを言うのは勝手だが先人を安易に貶めるのは万死に値する。
反日中国、その満洲で日本が作った記念碑が残っているのがここだ。台湾には日本の記念碑が多く残っているが、満洲には建物は残っていても慰霊碑や記念碑の類いはほとんど残っていない。それも百年前の日露戦争の遺跡が残っているのは貴重だ。この「奉天会戦第四軍戦蹟」の碑が立つこの丘が萬寶山なのか?少し離れた場所のロシア軍の碑が建つ丘もそうなのか?
萬寶山は当時の日本軍地図には煙龍山(ヤンロンシャン:Y?・n l?・ngsh?・n)とも書かれている。地元では萬寶山は煙龍山(ヤンロンシャン:Y?・n l?・ngsh?・n)or東煙龍山(ドンヤンロンシャン:D?・ng y?・n l?・ngsh?・n)と言われているようだが・・・。今の“Google”地図には「煙龍山」と記されている。標題:第10編 奉天附近の会戦(11)12.13/18
http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_C13110453500?IS_STYLE=default&IS_KIND=SimpleSummary&IS_TAG_S1=InfoD&IS_KEY_S1=%E8%90%AC%E5%AF%B6%E5%B1%B1%E3%80%80%E5%9B%9B%E8%BB%8D&IS_LGC_S32=&IS_TAG_S32=&
この後に言った柳匠屯も含めてこの一帯にロシア軍は陣地を構築し進撃する日本軍と死闘を演じた。今から109〜110年前の1904/明治37年10月及び1905/明治38年3月に「日本軍25万人vsロシア軍31万人」の史上最大規模の奉天会戦の一戦場であり、“兵どもが夢の跡”であることは間違いない。萬寶山も柳匠屯も沙河の南にある。
http://www.jacar.go.jp/nichiro2/sensoushi/rikujou09_detail.html -
神社境内に並び立つ様々な慰霊碑
「萬寶山之碑」によれば http://yutaka901.fc2web.com/page05gx39.html
『日露の役、福山歩兵第四十一聯隊が激戦遂に全員散華の地
此碑は其武勲を伝えるもの。はじめは営庭にありしが其地に
広島大学が設立され荒廃偲びず、備後護国神社境内に移さる。』 -
正面の碑が歩兵第四十一聯隊の
武勲を顕彰する「萬寶山之碑」 -
皆様のことは日本人の誇りとして
未来永劫日本国がある限り伝えられて行きます -
歩兵第四十聯隊第三中隊ノ柳匠屯攻撃
明治三十八年三月七日午後二時三十五分の状況
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■柳匠屯(りゅうしょうとん)へ行く
萬寶山での滞在時間は1時間10分だった。いつも長〜いこといたつもりでも30分だったり案外早いのに、ここはその逆で、あっという間のような気がしたが1時間以上いた。でも私の印象に残ったのは「山ではなく小高い丘だった」「記念碑が思ったより大きかったこと」「360度周囲が見渡せる。守るに適し攻め難い」・・・その地に立ちてこそ感じる旅の良さ・・・。
次に柳匠屯に向かう。「柳匠屯も日露両軍の激戦があったところなので・・・」と私がそこに行く事を告げると、さっき一緒だった中国人も自分の車で私たちを追ってきた。 帰国後萬寶山と柳匠屯の中間にある胡老屯も横一線に続いた第四軍の最前線だったことを知る。
車で数分で柳匠屯村に到着した。この地を訪ねたのは祖父と同じ師団(姫路)で出征したM軍曹の従軍記にここでの戦闘が詳しく書かれていたからだ。他にも同じ第四軍出征第十師団第四十連隊の「日露戦争従軍記」にも柳匠屯の戦いの様子が書かれている。
http://www.eonet.ne.jp/~tandktakahashi/index/kamenitirotate.pdf#search='%E7%A7%81%E3%81%AF%E5%B2%A1%E5%B1%B1%E7%9C%8C%E5%8B%9D%E7%94%B0%E9%83%A1%E3%81%AE%E7%89%87%E7%94%B0%E8%88%8E%E3%81%AB%E7%94%9F%E3%81%BE%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%80%81%E9%99%B8%E8%BB%8D%E3%81%AE%E7%8F%BE%E5%BD%B9%E3%82%92%E7%B5%82%E3%82%8F%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%8B%E3%82%89%E4%BA%8C%E3%83%B6%E5%B9%B4'
柳匠屯村に来たがそこは何の変哲も無いどことも変わらぬ普通の村で、とりあえず柳匠屯と書かれた表記・標記・看板があればと探して歩くが一つとしてナシ。
https://maps.google.co.jp/maps?saddr=%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E8%BE%BD%E5%AE%81%E7%9C%81%E6%B2%88%E9%98%B3%E8%8B%8F%E5%AE%B6%E5%B1%AF%E5%8C%BA%E6%97%A5%E4%BF%84%E4%BC%9A%E6%88%A6%E7%A2%91%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%A2%91&daddr=%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E8%BE%BD%E5%AE%81%E7%9C%81%E6%B2%88%E9%98%B3%E5%B8%82%E8%8B%8F%E5%AE%B6%E5%B1%AF%E5%8C%BA%E6%97%A5%E4%BF%84%E4%BC%9A%E6%88%A6%E7%A2%91%E4%BF%84%E7%BE%85%E6%96%AF%E7%A2%91&hl=ja&ie=UTF8&sll=41.604942,123.445333&sspn=0.013638,0.01929&geocode=FXjQegIdWbZbByEUv2On1orR7SkrZoacdHcvXjEUv2On1orR7Q%3BFcbcegIdzIxbByE8rdzdRwjoYSmRLb8CencvXjE8rdzdRwjoYQ&brcurrent=3,0x34674e0fd77f192f:0xf54275d47c665244,1&dirflg=w&mra=ls&t=m&z=15
途中、村人が固まってるところに遭遇したので「沙河はどの方向?」「百年前にここで日露の戦いがあったことを知っているか?」と質問した。その時、「沙河は二つある」と言われて「えっなに?」と思ったが地図を見ればちょうどこの村の西で「北沙河」と二本に枝別れして流れている。ここが日露戦争の戦場ということも知っていたがその「戦跡のような物は何もない」と言われた。
柳匠屯のロシア軍は堅固な陣地を構築し日本軍の攻撃に備えていた。『2月下旬から行動を開始し、3月1日夜、敵前千米の地隙に至る。2日には降雪にまぎれて前進するも多くが敵弾に倒れる。中隊長・小隊長とも戦死、M軍曹が小隊の指揮を執る。そして三月五日午前五時、果然 (かぜん){突然}突撃準備命令下った。』 -
萬寶山から車で10分ほどで柳匠屯村に到着した
?「柳匠屯」
https://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&ll=41.585533,123.486328&spn=0.109137,0.154324&t=m&brcurrent=3,0x34674e0fd77f192f:0xf54275d47c665244,1&z=13
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日露戦争従軍記
奉天の大会戦(一部抜粋)
第四軍第十師団歩兵第十聯隊:M軍曹(記)
三月五日負傷、同日伝令任務完遂、同夜入院か?なお奉天入城は三月十日(後の陸軍記念日)。その間に、十里河定立病院へ送られ、三月七日、遼陽兵站(へいたん)病院へ、同十日には、大連兵站病院へ転送せられ、十三日、大連港出帆帰還の途についた。
船中での話によれば、柳匠屯(りゅうしょうとん)の戦場より辛(から)くものがれた得た傷兵の話であるが、あの日{三月五日}遂に援兵は来ず、自分が出てから二、三時間後には戦闘力、抵抗力は皆無となり、案の如く敵軍は出撃し来り、惨殺せられるか、捕虜とせられ、綺麗に「掃除」されてしっまったという。中隊長小隊長の戦死は勿論、我小隊は生存者僅かに一名という悲惨の有様であったとか。
聞くも涙、語るも涙、隊長を思い、戦友を思い、我が分隊員を思い、恨み重なる露軍を思い、熱涙滂沱(ぼうだ)として下った。一命を賭しての報告も、我が軍に予備隊とても更になき為、遂に効なく、我が分隊は武運に恵まれず、柳匠屯に屍を並べ、連隊本部は四粁も後退し、歩哨線を張って僅かに相対峙(あいたいじ)したという。まこと左右両翼に力を注いで中央部は手薄となり、その中心をなす我々は敵の堅塁に玉と砕けてしまったのである。
其の犠牲は両翼軍の進撃の成功をもたらし、遂に{奉天戦}全局をして未曾有の大捷(たいしょう)を得しめたのであった。噫!武運遂に我等にめぐまれなかったのは、如何にしても遺憾であった。
沙河の対陣:奉天会戦:柳匠屯
第四軍第十師団歩兵第十聯隊:M軍曹手書きの戦闘略図
http://akasids.web.fc2.com/ryokou/dahushan/dahushan.html#r
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萬寶山⇔胡老屯⇔柳匠屯の間で戦う第十師団は、この『3月5日の一日だけで2,362人の戦傷者を出し、師団としての力は減退し、生きている士卒も数日間の不眠と不休で立ち上がることさえ困難であった。もしロシア軍がもう一度大逆襲を試みれば第十師団は全滅したであろう。』
『第四軍第十師団は3月5日柳匠屯の堡塁群へ大攻撃を再開し、歩兵10連隊(姫路)と歩兵40連隊(鳥取)は、ほとんど連隊のかたちをなさないまでに潰滅した。萬寶山堡塁を攻めている第十師団の歩兵第20旅団の状況も同じである。
歩兵第20旅団は、歩兵第20連隊(福知山)と歩兵第39連隊(姫路)から成っている。ほかに特化隊が多数付けられていた。騎兵第十連隊(姫路)、野砲兵第十連隊(同)、工兵第十大隊(福知山)、輜重兵第十大隊(姫路)、それに弾薬運びとして一個大隊、架橋のための部隊もついている。』(坂の上の雲・第七巻)
祖父が所属した騎兵第十連隊(姫路)がここにも記されていた。この奉天会戦を前にしての2月28日、祖父は綾部に住む弟に手紙を書いている。
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一九〇五年・明治三十八年二月二十八日
大日本帝国京都府何鹿郡綾部町 ○○五郎殿(明治三八年三月八日到着)
出征第十師団騎兵第十聯隊第三中隊 ○○昌次郎
拝啓其の後は意外の御不音(ごふいん)に打ち過ぎ失敬
皆々様お揃いで何の御障りも無く御消光(月日を送ること)遊ばされ候由
二月八日出葉書き確かに拝省仕り候
私事も一月二十日出発左翼軍に参り
御承知の如く黒溝台附近の戦いにか入仕り
一ヶ月程渾河こんが附近(韓山台)に守備致し
二四日もとの宿営地に帰り候間
左様御承知下さりたく候
新聞拝読の通り左翼軍は騎兵歩兵総合にて守備致し居り候ところえ敵が来襲致し候間
今度は騎兵も非常なる苦戦致し候 或る騎兵聯隊如きは仰山なる死傷者これあり候由
我が聯隊は幸いにして捕虜と相成り候者五名 死傷者は三、四名程にこれあり候
何れ当前面も四、五日内には総前進と相成り候と思ひ居り候
最もこの大會戦(奉天会戦)に参加致し幸いにして命あらば又の文通致す事と存じ居り候間
我が運命にお待ち下されたく候
今日片岡達之助君 塩見長光君(野砲兵第十連隊:祖父は同郷)へ面会に参り候
皆々丈夫にこれあり候間 塩見宅にも御安心なさる様お伝へ置き下されたく
共にこの度の大々戦争御身大切と申し別れ候
鹿蔵も壮健で軍務登上(とじょう)候由 大いに安心致し居り候
又も帰綾の節はよろしくお伝へ下されたく候
公荘及びお近所一ち一お伺ひ申したくも多忙なる為メ
よろしく御伝声下されたく候
二月二八日午後十時認む
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上記手紙は、普段はそこそこ達筆な祖父だが
この手紙は夜の10時、立ったまま野外で認めたのか?
文字は乱れに乱れている。是が非でも送付したかったのだろう
それは奉天会戦を前にして「今度こそ戦死するかも?」と思ったからに違いない
そんな状況と心情が伝わる便りだ
祖父の手紙
http://akasids.web.fc2.com/ryokou/dahushan/dahushan.html#s
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この『萬寶山堡塁線のロシア軍は、「近世の学理を応用したる半永久築城」によって保護されていたためその損害は日本軍の半分もなかった。彼らは十分な活力をもちながら退却した』・・・はたして3月7日、ロシア軍はこの前線を放棄し謎の退却をする。当時は謎であったが後日クロパトキンの回想録(コマ番号144)などで理由は明らかになった。 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/782304/144
黒鳩公(クロパトキン)は、第三軍乃木軍の動向を恐れ乃木軍に背後に回られて露軍の退路を絶たれることを極度に恐れていた。それはクロパトキンが日本軍の損耗と補給の困難を知っており、日本軍を大陸深くに誘い込めば勝利は掴めることを確信していたのでここでもやはり鉄嶺への退却を選択したのだろう。いずれにせよ日本軍は救われた。
そして乃木軍を恐れた理由は旅順要塞陥落の猪突猛進の突破力であり、クロパトキンの回想にそれが明記されている『主として敵の精神上我に勝れるを見』である。難攻不落であったはずの要塞を短期間で陥落させた。そのことを敵の司令官は最大限に評価していた。乃木希典大将の評価は、敵軍司令官クロパトキンと司馬遼太郎の評価とは百八十度違う。いわば乃木軍の敢闘精神が日露戦争勝利を導いたともいえる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%83%E6%9C%A8%E5%B8%8C%E5%85%B8
ウィキペディア「乃木希典」には多くのことが書かれている。その一つに『アメリカ人従軍記者スタンレー・ウォシュバン(Stanley Washburn )は、「奉天会戦における日本軍の勝利は、乃木と第3軍によって可能になった」と述べた』ともある。残念なのは司馬遼太郎が記した「坂の上の雲」の発売以後日本人に乃木希典を愚将と思わせたことだ。
奉天会戦激戦の地「柳匠屯村」に立ち寄った。ただそこに立ったというだけで戦場であった痕跡はなにもなく、何も分らない。しかしながら帰国後この旅行記を作りながら彼の地に思いを馳せることは出来た。今回旅してこそ知り得たことも多い。日露戦争のまだまだ一端でしかないが以前より知識は増えた。首山堡の戦いからの流れも少し分った。 -
戦跡も何も無くただ普通の村があるだけ
何のあてもなく村の中を適当に歩く
「柳匠屯」の地名表示を探して
一般民家・農家が並ぶだけで地名表示はなかった -
アヒルの放し飼い
田舎の風景にホッとする
百年前ここが地獄の戦場だとは想像も出来ず
しかしこの附近で多くの日本軍兵士が斃れたのは事実だ
魂は故郷や靖國に戻れど、肉体はこの大地で
土となっていることを忘れてはならない -
何かの集会なのか村人が集まっていた
私:「昔この地で日本軍とロシア軍が戦ったことを知っていますか?」
村人:「知っている」
私:「沙河はどの方向ですか?」
村人:「あっちとこっち二つに分れている」
私の漢語レベルでは質問はこんな程度しか出来ず
帰国後、地図で見たら沙河は二つに分れていた
近くに日露両軍の碑があるし
戦場だったことは皆知っているようだ -
他になんの手掛かりもなく
グルグル歩く
我柳匠屯に来たり、それだけで満足だ! -
午後12時35分
この車で柳匠屯から桃仙空港ホテルに向かう
戦跡めぐりは終了だ
日露戦跡「奉天会戦」:柳匠屯へ行く
http://youtu.be/gsAdHAdZ8w0 -
柳匠屯からスマホのナビが間違えたのか?
沙河の河川敷に入って行った
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■柳匠屯から桃仙空港ホテルへ
15分ほどの滞在で柳匠屯から午後12時35分出発。最後の宿「エアポート ホテル(瀋陽空港酒店) 」へ向かう。ナビが間違った道を誘導したのか?沙河の河川敷に入り道とは言えない道で進むことが無理になり引き返して出直す。一時車が立ち往生するのでは?と心配するくらいだった。
30分ちょっとで無事にホテルに到着。運転手の若夫婦にお金を渡し別れた。二人は「一路順風」と一言、笑顔で送ってくれた。部屋は5階の107号室。一泊¥298元(約5,100円:朝食ナシ)と予約時はそうだったが円安で¥5,600円くらいになった。10分ほど休憩しただけで部屋から出て桃仙空港に向かって歩いた。
明日の帰国に向けての予行演習でもある。それにホテル周辺に食堂もコンビニのような店らしき物は一軒もなく買い物は空港へ行くしかない。遠くに見えている空港ビルに向かってトボトボ歩き25分くらいで到着。足が棒なので休憩を兼ねてレストランで遅い昼食を食べる。焼飯・スープ・コカコーラで計60元。
他に便利店(コンビニ)で夕食ようにインスタントラーメンやパンとお菓子とジュースを買ってホテルに戻った。空港からバスで瀋陽に行こうかとも思っていたが、一瞬迷っただけで、やはりその気力なく午後3時には部屋に戻ってきた。 -
「これはやばいなあァ〜」と思っていたら
案の定にっちもさっちも行かず
来た道を引き返し出直す -
後は順調に・・・と、思ったが
-
結構大回りでしか行けないようで
柳匠屯→桃仙空港は直線ならすぐ近いが
デジカメ時間では40分ほど掛かっている
12時35分→1時15分 -
空港まで“ゆっくり”歩きで25分
ホテル周囲に何もなし
これなら瀋陽「北站」「南站」附近の
ホテルに泊まった方が良かったけど
「エアポート ホテル(瀋陽空港酒店) 」 -
5107号室
可もなく不可もなく -
窓からの景色
-
この道をトボトボ歩いて空港まで行った
-
空港内のレストランでやっと昼食
焼飯¥30元、西紅柿蛋花?(トマト玉子スープ)¥20元
お腹が減れば何でも美味い -
夕食にコンビニで方便麵(Fāngbiànmiàn インスタントラーメン)
パンなどを買ってホテルに戻る -
棒の足でトボトボ歩く
でも戦跡巡りを無事に達して
心は晴れ晴れ、満足満足
旅はすでに終わった -
一生に二度歩くことのない道
一生に二度見ることのない風景
二度以上歩く道も、見る風景も少ない -
この写真に何の意味があろう
この一枚を見て思い出すことはあるのか?
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■部屋にて万事休す
それ以降万事休す。ベッドに寝転がってアジア大会(韓国:仁川)を見て過ごす。
こっちではCCTV5チャネルがスポーツ専門番組で一日中流れている。男子二百メートル自由形で萩野が両サイドの中韓選手を抑えて最後のスパートで金メダルとなった。そして男子200メートル瀬戸大也と平井健太が金、銀のフィニッシュ。その他、異国で見る日本勢の活躍はなんか倍嬉しい。
そんな中、バドミントン男子の日韓準決勝は体育館での故意の空気調整で日本は韓国に負けた。「嘘付いたら朝鮮人になるで・・・」と昔の人が言っていたというけど、そのまた昔もその昔もずっとだろう。これが文化であり資質だ。やはり脱亜入欧にこそ日本の平和と安定がある。近隣諸国とは一線を画したい。と言いながら私は隣国に来ている。
これは差別ではなく素直な感情であり、心を持つ人間として互いに最も尊重すべきことだ。人は「好き」か「嫌い」かの感情がすべての判断の基準になる。理性よりも感情が優先するのが人間だ。好きな人が言うことは、少しぐらい疑問があっても同意することもあるが、嫌いな人が言うことは、納得するところが少しはあっても賛同しない。
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」というのは真理であり、人の行動はこれに最優先される。そんなことは絶対無いという人間はこの世にいない。すべてこの法則によって事は成される。一国の指導者もこの法則から逃れることは出来ない。
夕方になって空港で買ったインスタントラーメンを食べようと思ったら箸がなかった。何か箸の代わりはないものか?と探したけど見つからず。フロントで頼んだら「二階のレストランでもらえ」と言われた。そして二階へ行き、レストランの小姐に「スミマセンが箸を一本下さい」と言ったら笑顔で「ちょっと待って」とすぐに二本の割り箸を持って来てくれた。
「謝謝!謝謝!」と礼を言って割り箸をもらって部屋に戻った。小姐の笑顔の応対で一辺に疲れは吹っ飛んだ。急に嬉しくなり今日の一日が最高の一日になったような気がした。単純といえば単純だが、人間っていうのはそんなもんだろう。旅の成否は結局人との出会いで決まる。
見知らぬ土地、不安な異国、そこに一人旅の自分。そして疲れ、そんないろんな状況の下で救われるのは、やはり人の親切であり笑顔だ。この空港ホテルは二度泊まりたいとは思わないけど、彼女が笑顔で割り箸を二本くれただけで気分は晴れた。こんなに感動するのは何か落ち込んでいたのか、感傷的になっていたのか・・・。ありがとう!小姐!
そして部屋に戻って湯を沸かしインスタントラーメンの蓋を開けたら、何のことはない。ちゃんとプラスチックのフォークが入っていた。そうだったのか・・・と。でもまた驚くべきことが起こった。そのラーメンに「味噌なのか油なのか?」添付の素材を入れようとしたら手にべっとり油が付く。これがラーメンの味付けなのだろうが・・・。
あまりにべったりなので驚いて手に付いた油を取ろうと洗面所で手を洗おうとしたが、赤くべったり付いた油が取れない。「ドひゃーこんなべったりなのか?こんな物を腹の中に入れたくない」と思って、ラーメンの中にすでに入れてしまった塊を取り出した。
べったりと手に付いたのでまた洗面台で手を洗ったが陶器の洗面台も真っ赤になり、油もへばりついた。備え付けの小さな石鹸で何度もこすってやっと陶器の洗面台が綺麗になった。この油が旨みなのだろうが・・・恐ろしい。中国人の胃袋・消化酵素は別物なのか?ラーメンはほとんど味のないラーメンになったがそれでも良かった。
今日の後半はずっと部屋で過ごしたが満足也。明日はいよいよ帰国の日。たった六泊七日なのに帰国が嬉しいとは。旅は非日常であり自分の精神状態も非日常となり、いつものマイペースは保てなくなる。ゆえに睡眠導入剤持参の旅となる。もしこんな私がシベリアに抑留されたら一体何日生き延びることが出来るのだろうか?
さあ嬉々として明日を待つ!ハハハ。 -
CCTV4チャネル・・・か
「北方領土にロシアが新空港を建設」
国内は憲法法律によって裁かれるが
世界には公平なる憲法も法律もない
あるのは互いの軍事力の強弱のみ
それは普遍の法則であり未来永劫変わらない
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