2014/09/16 - 2014/09/22
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明石DSさん
煙台(えんたい)と三塊石山へ行く日の朝
?遼陽の空は雲ひとつない青空が広がっていた
今日は9年前に行けなかった三塊石山に行くぞ!
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4日目:9月19日(金):晴れ
煙台(灯塔)と三塊石山へ
https://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&ll=41.433525,123.331747&spn=0.052766,0.077162&t=m&brcurrent=3,0x34674e0fd77f192f:0xf54275d47c665244,1&z=14
https://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&ll=41.476593,123.451781&spn=0.026366,0.038581&t=m&brcurrent=3,0x34674e0fd77f192f:0xf54275d47c665244,1&z=15
2014/平成26年9月19日(金)
■煙台(灯塔)と三塊石山(さんかいせきざん)へ行く日の朝
今朝も日本時間の6時頃、中国時間5時頃起床し天気を見る。雲ひとつ無い晴天にまずはニンマリする。7時から朝食バイキングで今日もスイカを五切れで始まり最後に豆乳(豆?:Dòuji?・ng)を飲んで朝食は終了。遼陽賓館は駅から近く四星?にしては料金も安いのか平日でも宿泊客は多い。
遼陽賓館には日本人も数多く泊まっているようで今朝朝食を食べに行ったらアチコチのテーブルから日本語が聞こえた。中国人ガイドの引率で来ていたが女性の姿なく、爺さんを含めておっさん”ばかり。観光客ではないようだった。
食堂から出て部屋に戻ろうとしたら、午前7時半と朝まだ早いのにウェディングドレスとスーツの新郎新婦が多くの人に見守られながらホテル内で写真撮影をしていた。そのあとホテル玄関前に停まっている花輪で飾った「VMW」に乗り、その後ろを何台もの飾った車が連なって出て行った。一体これから何処に行くのだろう?
今回の旅の期間中何度もこういった結婚式イベントを見かけた。9月のこの時期は結婚シーズンなのかも?その後、出発準備をして今日の包車(貸切)タクシーを紹介してもらおうとフロントに行ったが、チェックアウトの人たちが多く服務員は忙しそうだった。頼むのを諦めホテルの入り口に停まっていたタクシーに声を掛けた。
最近はタクシーの包車時も一発勝負で最初に出会ったタクシーに声を掛けることが多い。見た目で選ぶことをしない。というのは見た目でアレコレ探しても結果が良いとは限らないから、それなら一発勝負運命に任せる方が諦めもつく。一期一会の出会いが今日の旅の成否を分ける。悪徳ドライバーでなければ良し。
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今日も朝からスイカを沢山食べた
そのほかメニューも多く満足感一杯 -
私の「お勧めホテルNo.1、遼陽賓館」
ここで日本語聞きたくないが日本人客も多い -
早朝からウェディングドレスで着飾って
さすが花嫁姿というだけで遠目では美人 -
派手に飾った“VMW”に乗って
新婚夫婦はどこに行くのだろう? -
1904/明治三十七年十月二十八日 祖父の手紙
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■まず煙台(灯塔)へ向かう
運転手の“李さん”(50歳男)と交渉をする。地図と資料を見せて「5〜6時間包車したい。行きたい場所は二ヶ所。灯塔と三塊石山。灯塔で30分、三塊石山で2時間ぶらぶらしたい。行ける?行けるなら幾ら?」と聞くと“李さん”は「行ける」と言ってからしばし考えて「¥300元」と言った。値切らずOKする。相場は良く分からないけど「高過ぎる」と思わない限り、最近は値切るのも邪魔臭い。数年前までは必ず値切っていた。そして幾分安くなった。
そして午前8時5分出発。最初の目的地は灯塔(とうとう)市。灯塔へ行くのは、日露戦争時代ここが「烟台(煙台)」だったから・・・。当時の地図に「煙台」と書かれているという以外に確たるものはないが多分そうだ。明治38年2月28日に祖父が書いた手紙の末尾に「於 烟台(煙台)」と書いてあり祖父もきっとこの地に駐屯したのだろう。現在の山東省にある煙台市とは違う。
そして日露戦争特別展「沙河会戦:日露戦争における満州軍総司令部報告綴」には、在烟台の満州軍総司令官大山巌から参謀長や大本営宛の電報報告書が公開されている。その「烟台(煙台)」は今の灯塔市若しくはこの附近だったはずだ。
http://www.jacar.go.jp/nichiro2/sensoushi/rikujou06_detail.html
1905/明治38年祖父はこの地から弟に以下の手紙を書き送った。
1904/明治三十七年十月二十八日
大日本帝国神戸市仲町四丁目 岡田重堅様 ○○鹿蔵殿
出征第十師団騎兵第十聯隊第三中隊 ○○昌次郎
拝啓 過日御依頼致し候真綿正に今日着
受取申候へバ御主人様頂戴致し候由
貴殿より宜敷御伝声(よろしくごでんせい)下されたく
貴殿の入営期日も節迫致し候
来月と相成候へバ帰国致す事
御暇を頂く節ハ宜敷 御礼申し帰国致し下されたく候
貴殿も来年と相成候へバ何れ出征致す様にも相成(あいなり)も計り難く候間
身体大切御勤めあらん事を望む
拾月二八日 於 煙台(遼陽の北)
出征している23歳の兄:昌次郎が煙台から20歳の弟に送った手紙。葉書の内容は昌次郎と弟、鹿蔵が共に丁稚奉公していた質屋「岡田」へ、満洲が寒いので真綿を送ってくれと頼んでいたのが到着したので、ご主人(岡田)にお前から宜しく伝えてくれとのこと。そして弟の軍隊入営が決まり、入営期日(福知山)が来月と近づいたので、お暇を頂く時は主人にお礼を申し上げて帰国するようにと兄から言い含めている。そして弟、鹿蔵も来年になれば出征することになるかも知れないので、身体を大切に訓練も頑張れと「煙台」から書き送っている。
大きな写真
http://akasids.web.fc2.com/ryokou/dahushan/dahushan.html#hh
日露戦跡巡りは「祖父の従軍軌跡を追って」と重なり感慨深い。遼陽賓館を出発して沈??(Ch?・n y?・ng xi?・n 営口⇔瀋陽 S101)を北進、太子河(たいしが)を渡り40分ちょっとで灯塔駅前に到着した。1904/明治37年9月4日に遼陽を占領し奉天へと進軍途中この煙台に司令部を置き大山巌大将がこの地にいた。今の地図にも「大路煙台村」という地名もある。
https://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&ll=41.433976,123.345394&spn=0.052766,0.077162&t=m&brcurrent=3,0x34674e0fd77f192f:0xf54275d47c665244,1&z=14
日露戦争時、日本軍司令部があり祖父が来たであろう煙台。といってもそれ以外何の情報もあても無い地であり、中国東北の駅前風景は他と変わらぬ様子だった。「へェ〜これが煙台か、灯塔なのか・・・」と、“李さん”との約束は30分の滞在。駅周辺をぶらつき、百貨店に入りキョロキョロと見て周った。
目当てのないたった30分の散歩などすぐに記憶の彼方に消えてしまうのだろうが写真と旅行記を見れば思い出すかも。我煙台を歩く。あっという間の30分の散歩を終え出発。 -
運転手の“李さん”と出発、午前8時5分
左の男連中は客待ちタクシーの運転手
旅先の運転手は一期一会の出会いであり
運命の瞬間、旅の良否を左右する、面白い -
太子河を渡って一路煙台に向かう
110年前の日本軍の進軍とは比較にならない
110年後は如何に?世界はどうなっているのか? -
路上を散歩する山羊の群れ
こういった光景はまだアチコチで見る -
昔の地図では「灯塔市」ではなく「煙台」となっている
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も灯塔市の中に「煙台街道」「大路煙台村」など
煙台という名前が残っている -
灯塔駅
1904/明治三十七年十月二十八日
この煙台から祖父は「於 煙台」と弟に手紙を送った
当時の煙台は一体どんなところだったのだろう -
灯塔駅を背にして駅前を写す
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駅周辺を散策したが、どことも変わらぬ風景があった
この煙台に司令部を置き大山巌司令官がいた -
ナンバーが無くても走るれるのか?
いろんな三輪自動車がある -
あっという間に30分が経ち駅前に戻る
30分の散歩はやっぱり短かすぎた
でも何のあてもなくただキョロキョロしただけだが -
十里河警務工作所(交番)の前で検問に会う
タクシーの乗客が調べられるらしい
事情が分らないので気持ちは良くない
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■三塊石山(さんかいせきざん)へ向かう
途中「十里河警務工作所(交番)」の検問に止められ、交番内に入りパスポート提示を求められた。こんなことも今まで何度かあった。タクシーは良く止められるそうだ。テロ対策や北朝鮮亡命者他の警戒なのだろう。何の質問も受けずパスポートを見ただけで解放された。でも調べられるのは何時何処でも気持ちの良い物ではない。
沈??を十里河から百?鋲西路(B?・il?・ng x?・ l?・ S107)を右折して大溝郷(大?汝?D?・ g?・u xi?・ng)附近で“李さん”は地元の人に尋ねていた。今思い出せば“李さん”が聞いていたのは「三塊石山」ではなく「三塊石」であり「山」は付いていなかった。
そして南に走っていたら大きな巨石が突っ立ているなだらかな低い山が見えた。見えた瞬間になんやこれは?と思ったが、日本にいる時から「沈?飜?家屯三?石及地藏寺」のHPを見て、これが三塊石山だと思い込んでいた。
http://yhb43.blog.163.com/blog/static/29810170201161691535587/
その地蔵寺の名前が書かれた石碑もあった。その時は、いつものように「やったぜ!我三塊石山に来る」と興奮しながら車を降り石碑をバックに写真を写してもらった。
大きな一つの巨石が突っ立っている風景は、昔の三塊石山の写真とは全然違う山の形なのに・・・。「100年も経っているので形は変わってしまったのだろう。違う方向から見れば、また違う姿なのだろう」とその時は思っていた。
「なんかおかしいなァ〜」とは思いつつ。 -
ここに入ってパスポートの提示を求められた
パスポートをホテルに置かず携帯していて良かった
何も問われずすぐに解放される -
午前9時49分、3分後に三塊石山が見える
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頂上に岩が突出していた
日本で見ていた三塊石山と山の形は違う
「なんや?おかしいなあ」と思いつつ -
「沈?飜?家屯三?石及地藏寺」
上記HPと同じ場所に来たことは確かだ・・・し
「我三塊石山に来たり!」と疑うことなく感動していた -
第十師団三塊石山夜襲直前ノ位置要図
「 戦史評論.第八例 三塊石山の大夜襲戰」 のコマ番号「218・220」
そうか「山」の有るなし、二ヶ所あったのか・・・と
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1461149
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■「三塊石山」と「三塊石」
その時は三塊石山の形の大変貌も「砕石と百年の歳月でこんなにも変わってしまったのか・・・」と思いながらだったが、帰国後、旅行記作りのために資料を見ていたら戦時の地図に「三塊石山」と「三塊石」が二ヶ所別々にあった。
その資料とは「近代デジタルライブラリー」で、その検索蘭に「三塊石山」と書き検索したら7項目の資料が出てくる。「三塊石山:資料」
http://kindai.ndl.go.jp/search/searchResult?SID=kindai&searchWord=%E4%B8%89%E5%A1%8A%E7%9F%B3%E5%B1%B1
その4番目の「 戦史評論. 第4巻 図書 兵学研究会 編 (干城堂, 1943) 目次:第八例 三塊石山の大夜襲戰」 のコマ番号「218・220」の第十師団行動要図に「三塊石山」と「三塊石」が明記されていた。それを見つけた瞬間に、「あァ〜やっぱり俺が行ったのは三塊石山ではなかく三塊石だった・・・」とガックリ。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1461149
午前10時前に到着し、12時前に帰路付くまでの二時間余り、この三塊石を三塊石山だと思い込み、登ったり降りたり周囲を歩いたり、また上の展望台で思いに耽ったり。ささやかな慰霊をしたり・・・と。「なんやそれにしても小さいし低いし、この山でそんな大規模な激戦があったとは?」と度々疑問に思いながらも、それでもまさか二つの三塊石山があるとはその時は夢にも思わず。
それでも地図によればここにも露軍陣地はあり日本軍と対峙している。この三塊石も戦場となり相応の戦いはあったのだろうと思う。しかし戦記や戦史、軍の報告書には「三塊石山」や附近の地名は書かれていても「三塊石」のこの壁のようにそそり立つ一個の巨石のことは出てこない。何で?こんなにも特徴があるのに?もしや寺院建築の際の開発などによって今の姿になったのかも知れない。
ここは一つだけ壁のように異様に突出した巨石があり、中央部は寺院。来る前に日本で見ていた写真は「日露戦役写真帖. 第15巻(コマ番号:9)http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/774309
写真では駱駝の背のような鞍部の頂上に寺院がある。どう見ても違うのに思い込んでいた。ここも頂上には岩の窪み(洞穴)に祭壇が設けられて門には鉄の扉で施錠されていた。何でも勝手にここが「三塊石山」だと思う材料にしていた。 -
「三塊石山」と「三塊石」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1461149 -
日露戦時の「三塊石山」の写真
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2014年9月、私が撮影した「三塊石」の写真
幾ら砕石場となって形が変わったとは言え同じだとは思えない・・・が -
この寺院の名称は「大雄寶殿」とある
遼陽「廣佑寺」の「大雄寶殿」と同じ名前
関係は分らない -
三塊ではなく一塊の「そそり立つ巨石」
【日俄?争】?家屯三?石和万宝山
http://blog.sina.com.cn/s/blog_4b61b3900102v0f3.html
?游?家屯大?汝?三?石
http://www.56.com/redian/NTI4Nzc/NzEyODc0MTk.html -
三塊石の上より西方向を写す
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近寄るべからず
怪我しても自己責任
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■三塊石山の夜襲
「三塊石山の夜襲」は明治37年10月12日「血染めの連隊旗」でも有名な激戦地。
http://bujinkensyokai.web.fc2.com/yasumuranorio.html
第四軍第十師団第十歩兵連隊で出征したM軍曹の従軍記では、9月4日に遼陽入城後しばしの休養があり10月10日出発の命が下り前進する。そして翌11日『午後六時、下士官集合の中隊長命令、いよいよ来たなと行ってみれば、緊張した中隊長が厳(おごそか)かに下した命令は実に次の通りであった。』
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1904/明治三十七年十月十二日:三塊石山夜襲
第四軍第十師団第十歩兵連隊第二大隊第一中隊
M軍曹(従軍記)より転載
「第四軍は挙(あ)げて今夜夜襲(やしゅう)をする。他の諸軍も同様、全満州軍は未曾有(みぞう)の大夜襲を決行する。
その準備
1.軽装(背負い袋のみ)
2.アルミ製水呑を持たぬ事(音を防ぐ為)
3.白布を以て左腕を巻く事(識別のため)
4.沈黙を守る事
我が師団の目的地は三槐石山(さんかいせきざん)、午後九時行動開始、全軍夜襲の時機は十二時頃、 後ろの山で大きく燃やす火を以て合図する。」ゴクリとねばい唾を呑み下した自分は、興奮した面もちで分隊の者に右の通り伝えた。ドッと上がる歓声、しばし隊をゆり動かし、にわかに色めき立ったのであった。
手早く準備を整え、全満州軍の大夜襲を想像して若き戦士の血は躍るのであった。(但し実は第十師団のみの夜襲で、全満州軍云々は士気を鼓舞する為であった)八時、第十聨隊は全部二列側面縦隊(そくめんじゅうたい)で、粛々(しゅくしゅく)と沈黙長蛇(ちょうだ)の行軍を起こした。幸か不幸か、星一つ光を見せぬ真の闇、連絡を絶たぬように、前の者にひたすら従って行くのであった。
中略
暫くして大隊長殿の口より、珍{命}令が飛んだ。「今度ラッパが鳴ったら弾丸の来る方に向かって突撃せよ」暫くすると突撃ラッパは悲壮の響きをもって我等の胸を抉った。ゴムマリの様に地隙を飛び出すや、ワーワーと血を吐く叫び自ずから奔(ほとばし)り出た。弾丸はいよいよはげしく闇空をかすめて飛ぶ。やたらに二、三百米、ワーワーを続けたが、一向に敵にぶつからぬ。
折しも右後方で、嚠喨(りゅうりょう)として響きわたる突撃ラッパが腹にしみ入る。いよいよ三槐石山と決まった。今は躊躇を許さぬ。然るに誰一人として号令を発する者がない。譲り合うのか危惧するのか、これでは士気に影響すると、自分が「目の前の黒いものが三槐石山だ、皆突っ込めー!」とやった。
ワーワとなだれ込む。弾丸は来ない。どうも山の北西、敵の右側背(そくはい)らしい。三々五々敵の退却するのがぼんやり網膜(もうまく)に映ずる。「それー敵が逃げる!射てっ!」とばかりに撃ちまくったので、その付近に敵影を見なくなった。然し依然山頂では銃声が聞こえる。三槐石山を占領せよと、山を攀じ登ったが少し登ると、岩山とつごつとしてその険峻(けんしゅん)到底{暗夜の}手探りで登ることは出来ない。
中略
而して今猛烈な突撃をして居るのは第三十九聨隊で、此の正面の鞍部脚(あんぶきゃく){山並みの凹んだ部分の麓}には、敵の名誉聨隊が黒鳩公(くろぱときん)の命により死守して居た。我師団は旅団長が斃れ、第三十九聨隊長傷つき、以下各幹部の死傷は申すに及ばず、その某大隊の如きは三分の二の死傷者を出し、某中隊は全滅の惨状であった。かくの如く悪戦苦闘し、「血染めの聨隊旗」の栄誉を後世に残した戦闘の最中であったのである。
然しその時、此の虚空(こくう)も爆発せんばかりの銃砲声を耳にして、その戦線に馳せつけたくは思ったが、闇夜の事ゆえ、敵の占拠せる山の、百五十米西方にありながら、一発の弾丸をも送らず、苦闘中の味方の救援に赴く事も出来なかったのは、三十九聨隊に対し、誠にすまない事だった。その内少しづつ銃声も喊声も衰え始めた。と思うと今度は三槐石山の後方に当たり急激な銃声。ザザーッと秋の風の如く襲ってくる銃丸は、山の西北斜面にあって敵方に暴露して居る我々の真向(まっこう)にふりそそぐ。
やむなく一時北より南斜面に這って退き、必死に応戦する。一時は敵の逆襲!と流言飛語(りゅうげんひご)は乱れ飛んで心胆(しんたん)寒きものがあった。その間徐々に銃声は静まった。後から知った情報では、これは同山の後方に敵の砲兵陣地があったが、先のヨイサヨイサの猛烈さに、彼等は、山は既に占領され、更に砲兵陣地まで突貫して来たものと思い、砲四門、弾薬車八両を残したまま{一旦}退却した。
が、我等はそこに止まるし、山の正面も東の方は今や戦い酣(たけなわ)であると知り、砲を奪還(だっかん)に襲来したのであった。これより先、味方の斥候が(西村春吉氏{隣部落出身}等)此の砲を発見、その功により感状を下付された由緒あるものであるが、逆に敵に奪還されたのであった。又暫(しばら)くして、今度は騎兵の襲撃!?との騒ぎで、クソッと心に期する所があったが、何の音沙汰もない。
張り合いが抜けてよく聞けば、味方の砲兵が来たのであった。先ほどの射撃以来、神経は針の如く尖鋭(せんえい)となり、あるかなきかの風のそよぎにも地震計の如く敏感に応じ、枯れ尾花に幽霊を描き出すのも敢えて珍しくなかったのである。更にかかる際、動揺する列兵(れっぺい)を鎮(しず)め、兢々(きょうきょう)たる羊群(ようぐん){道に迷える形容?}を導くべき指揮官の所在が判らないので、益々動揺は倍加し不安は拡大して留まるところを知らず、かかる滑稽を生むのであった。
そこで思うに、夜襲も一得一失であるとつくづく考えた。未明を利用するがよい。もし夜半、而も闇夜の時は指揮官が友軍との連絡を失わぬ様、統制を取らねば思いもよらぬ失敗をかもし出す。とこう思う中に、東天漸(ようや)く紅を染め、自分等の位置を見ると、いつとはなしに三槐石山を占領してしまって居た。
十月十二日、夜明けと同時に此の山をめがけ、後方より味方が来るわ来るわ、砲も来る、他師団の後備聨隊まで来る。砲兵は石山(せきざん)の西麓に陣地を布(し)いた。歩兵は山を越え、東に迂回して前方に進んだ。そこで自分等は第二線となる。 -
山上にも大きな石が立ち並ぶ
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その他、「三塊石山の夜襲(10/5-10/10)」
http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_C14060956700?IS_STYLE=default&IS_KIND=SimpleSummary&IS_TAG_S1=InfoD&IS_KEY_S1=%E4%B8%89%E5%A1%8A%E7%9F%B3%E5%B1%B1&IS_LGC_S32=&IS_TAG_S32=&
「少年日露戦史:第拾編 沙河の巻(29/67-35/67)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1169691
「1919/大正8年満鮮遊記:三塊石山(99/184-101/184)」には以下のような説明がある。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960915
『寺の前即ち山の鞍部に、四五丈の巨巌三つ相並んで立てるを以って三塊石山とは称する也。その三塊石のみならず山全体が岩石にて、樹木なく東西に二峰崛起(くっき)して、恰(あたか)も駱駝の背の如し。西麓に馬車を下りて、西峯に上り、下りて三塊石に至る。人工かと思はる々ばかり也。側に佛堂あれど廃れて見る影もなし、ここは沙河会戦の際、亜歴山第三世(アレクサンドロス3世)連隊の據りし處なるが、姫路師団奮闘して漸(ようや)く占領するを得たり也』
2005/平成17年にこの地を巡った時には、タクシーの運転手が地元民に聞いてくれたが「確かに三塊石山という名前の丘陵があったが、開発の為にその塊を削ってしまって今は跡形もない」と言われた。その時は山の大きさも周囲の状況も何も知らずだったので「あァそうか・・・」とそれ以上探すのは諦めた。
今回は昔の地図で「三塊石山」を見つけ、今の地図にも同じ場所に「三塊石」と書かれていたので「山」の有るなしは気に留めず「今もある!」と、今回満を持してのつもりで来た。
祖父が所属した「出征第十師団・騎兵第十連隊:日露戦争戦歴」にも三塊石山に参与が記されている『沙河会戦参与 自10月10日〜至10月17日 師団各縦隊に交互配属して捜索及び警戒 に任して師団の前進を容易ならしめ三槐石山夜襲の際は砲兵及び後方部隊の掩護に任し爾後(じご)昼夜戦闘に従事し敵を北方に撃退す』
残念ながら今回「三塊石山」をはっきり確認できず日本に帰国してしまったが、祖父は騎兵として捜索警戒活動に従事し、この三塊石山も周辺の景色も見ているに違いない。「沈阳?家屯三?石及地藏寺」のHPでは「三塊石は約一億年前活火山であり火山の噴出で岩が突出、最初は三つの巨石が聳えていたが、時の流れや開発によって、私が見たのは一つの突き立った巨石・・・。」との説明が書かれている。
http://yhb43.blog.163.com/blog/static/29810170201161691535587/
『最初は三つの巨石が・・・私が見たのは一つの突き立った巨石』ということは、彼はここが「三塊石山」だと言っている。HPの作者に先日Eメールで当時撮影された三塊石山の写真と地図を添付し『あなたのHPの三塊石に私も9月19日行きましたが、ここは「三塊石山」ではなく「三塊石」ですね。写真の三塊石山と形が違うし、昔の地図には三塊石山(海抜114米)・三塊石(海抜60米)と二ヶ所ある。山と付く三塊石山はどこにあるのですか?』
数日後彼は一行だけの短い返信をくれた。『?在的不是原?,采石?改?了山的面貌!(今は元々の形ではない。採石場になって山の形は変わった)』・・・という返事であり、彼が言うにはここが三塊石山だということのようだ。他にも中国人のブログでこの山が日露戦争の戦跡と書かれているのもある。
私は一度は間違ったと思ったが、今はやっぱりこれが「三塊石山だろう」と思っている。そう思うようになったのはグーグルアースでの写真だ。グーグルアースで見たら航空写真での輪郭が写真の「三塊石山」と似てる。砕石場として砕石されたならこれくらい山の形が変わることも十分ありえる。
折角現地に行き、そこに寺院があったのに、その寺院の人に「ここが日露の戦いのあった三塊石山ですか?」と一言聞いておけば帰国後悩むことはなかったが、今の私はこれが三塊石山であり、何時の頃か分らないが採石場として石が切り出され山の形は大きく変わってしまい今の姿になったのだと思っている。
「血染めの連隊旗」の激戦地である三塊石山。そして左から秋山支隊・第二軍・第四軍・第一軍・梅沢旅団と進軍した。この一帯は広大な地域で日露戦争の戦場となり雌雄を決する戦いが行われ日本軍はロシアを徐々に追い詰めて行く。
この三塊石山の夜襲の後、数日を経て「沙河の対陣」に入り翌明治38年3月まで日露両軍が沙河を挟んで年を越すことになる。9月19日晴天の下、三塊石に来て写真を沢山写し動画を撮り満足してこの地を去った。 -
山上より南東方向を写す
地図と比較して赤丸が「三塊石」かも?
地図の方向としてはあの方向になる -
東端の「山頂亭台」(休憩所)より南西に向かって写す
岩が立ち並び小さな洞窟がある -
岩の洞窟の前に鉄扉で施錠してあった
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内部は祠のようで綺麗にしてあり
日々ここでお祈りをしているのだろう -
西南方向を写す
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東の道沿いから三塊石を写す
右端上に建つのは「山頂亭台」 -
「三塊石」も日露戦争当時とはすっかり様相は変わったのだろう
この巨石そそり立つ特異な形は砕石しながら人工的に作られたものだろう
日露戦時この辺り一帯が横一線の最前線となった戦場だったので
当時にこんな形であればいろんな戦記物や従軍記に書かれていはずだ -
東北方向を写す
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「三塊石」の航空写真(グーグルアース)より
これで見れば元の三塊石山と輪郭は一緒だ
http://akasids.web.fc2.com/ryokou/dahushan/dahushan.html#o -
帰路車を停めて振り返って写す、東南方向
こんなにも姿は変わったがこれが「三塊石山」だと思う。
残念ながらその時は疑いもせず確認できずに帰国したが
日露戦跡「沙河会戦」:三塊石山へ行く
http://youtu.be/KSctwMPqrJY -
愛新覚羅 舒爾哈齊。(あいしんかぐら・しゅるはち)
(1564年 - 1611年。)の墓
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■遼陽東京陵(とうけいりょう)へ
https://maps.google.co.jp/maps?q=%E7%88%B1%E6%96%B0%E8%A7%89%E7%BD%97%C2%B7%E8%88%92%E5%B0%94%E5%93%88%E9%BD%90&hl=ja&ie=UTF8&ll=41.300959,123.248835&spn=0.026437,0.038581&sll=41.291996,123.259993&sspn=0.054816,0.077162&brcurrent=3,0x34674e0fd77f192f:0xf54275d47c665244,0&t=m&z=15
今日の目的地は灯塔と三塊石山だったので、半日で予定終了。帰路に着いた。途中、清の初代皇帝「弩爾哈赤:ヌルハチ」の妹「愛新覚羅 舒爾哈齊。(あいしんかぐら・しゅるはち)」(1564年 - 1611年。)の墓「遼陽東京陵」に“李さん”が案内してくれた。
東京陵は東京村にある。清朝は初代皇帝「ヌルハチ」1616年から最後の皇帝:溥儀(1912年)まで296年間続いた。江戸時代は(1603?1868)の265年間。ほぼ同時期に同じくらいの年月日本は徳川が天下を治め、清朝は愛新覚羅が治めていた。
その間、日本と清の国と庶民の暮らしぶりはどうであったのか?国としても文化も教育レベルもインフラも、何もかも江戸時代の日本のほうが遥かに上だった。
確かに中国大陸には古代文明が紀元前に花開き世界の大国として君臨していた時期もあったのだろうが、所詮今と何一つ変わらず中味は一部の特権階級とその他の国民ではなく人民or奴隷という構図が大陸中国の過去と現在だ。
国らしき枠組みはあるが中味は「権力側vs人民・庶民・奴隷」そこに一体感も連帯感もない。国と国の名前あって国民という代物はいないのが大陸中国。家族一族だけが共同体の根幹だ。公平・公正という言葉はあっても公平・公正を享受したことのない人民の集まりが中国だ。
ヌルハチの妹の東京陵墓は、門に鍵が掛かっていたが近所の“オバチャン”が開けてくれた。門票は10元くらいだったと思う。この時は愛新覚羅の文字は読めたので、清朝の誰かの墓だということは分かったが、始祖ヌルハチの妹の陵墓と知ったのは帰国後ネット検索で知った。
1611年没の女性だから400年前にもなる。この陵墓は改修の手もあまり加えていないようで相当の古さは感じる。亀の甲羅の上に立つ碑に文字がびっしり書かれていた。私の後に女子学生数人が見学に来ていた。一応の駆け足見学で遼陽のホテルに戻り今日の旅の目的はほぼ半日で達成。
http://blog.sina.com.cn/s/blog_51c19ab00100mn05.html -
ヌルハチの妹、シュルハチのことは何も知らないが
「蒼穹の昴」は面白い
見応えがある
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%BC%E7%A9%B9%E3%81%AE%E6%98%B4 -
亀の背に乗った石碑
満洲の各地で見たことがあるが詳しくは知らない -
墓・・・か
清朝にも興味が無いわけではないが
今の所まったく知らない
ここは寂れてはいるが・・・
度派手に改修されるより百倍趣が有る -
お粥専門店「粥鼎記美食」
お粥、美味い!毎日でも食べる
http://www.aibang.com/detail/293710370-420540479
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■「粥鼎記美食」で昼食
そして大虎山が4時間の滞在で宿泊もしなかったので、明日の予定は本渓湖に行き、そのあと本渓市で泊まる事に決めた。当初の計画では大虎山二泊で19日に遼陽到着。そして20日に「首山堡と三塊石山」、21日に「遼陽→本渓湖→萬寶山→瀋陽桃仙空港ホテル」だったが、17日夕方には遼陽に着き、18日「首山堡」今日19日「三塊石山」となった。
そして明日20日が「本渓湖→本渓」、21日「本渓→萬寶山→桃仙空港ホテル」、22日帰国。明日も“李さん”に本渓湖まで包車したいからと地図を見せて交渉したら、私の示した道路は「道が悪くて走れない」「こっちを走る。料金は¥500元」とのこと。私は距離感も今一分からず、他を探すのも面倒でOKした。朝8時出発。
部屋に戻ったのは午後1時10分過ぎ。5時間300元の包車だった。昼飯も食わず帰って来た。昔なら運転手と一緒に昼食をしたが、今はどうも邪魔臭い。それは「スタミナ」「意欲」「やる気」「体力」等々の衰えのような気がする。値切る交渉も、昼飯一緒に食べようと誘うのも邪魔臭い。邪魔臭いというのは体力の衰えだ。
今日の予定は早々に終了し、まず昼食を食べに外に出た。今は日本料理店があれば最優先だがなかなか出会わない。もっと食い物に関心を持って満洲でも美味しい物を食べれるようになりたが全然進歩なし。未だに「揚州焼飯」が定番だ。でもこの日の昼食は偶然だが「粥」という一字が入った看板を見つけて入った。
その店は「粥鼎記美食(Zh?・u d?・ng j?・ m?・ish?・ ジョウディンジメイシ)」、廣佑寺の前のロータリーの交差点を南に行ってすぐ民主路の西側にある。お粥の種類も沢山あって迷ったが迷っても分からないので適当に選んだ。それと野菜のおかず一品と小籠包、計30元。お粥は思った通り美味かった。遼陽で私一押しの店。
https://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&ll=41.275533,123.175098&spn=0.001653,0.002411&t=m&brcurrent=3,0x34674e0fd77f192f:0xf54275d47c665244,1&z=19 -
右:お粥
お粥専門店の“お粥”は種類も豊富
こんな店なら日本でもそのまま流行る -
以上三品頼んで¥30元
お粥は美味かったが他はたいして・・・ -
??纒老年代??(Hu?・ x?・n l?・oni?・n d?・ib?・ ch?・)」・・・高齢者スクーター
オモロイ形の車が沢山ある
「遼陽の繁華街」
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■遼陽の繁華街へ
遼陽では宿泊だけでホテル前の廣佑寺と白塔、遼陽駅周辺しか行っていない。今日も別段行くところもなくフロントの小姐に遼陽で一番賑やかな場所を聞いてそこを目指して歩いた。民主路を南に歩きながら駐車している車をデジカメ動画で撮影したのを帰国後数えたら「37台」並んでいた中で日本車は「15台」。
たまたま通り掛かった道での撮影なので何ら参考にならないかもだが、どこでも「日本車は意外に多いなあ~」と感じた。ここだけでも三分の一以上が日本車だから。
内訳:①ホンダ(8台)、②マツダ(3台)、③ニッサン(2台)、④トヨタ・三菱(各1台)=計15台。3分20秒の撮影中、駐車37台、その内日本車15台。撮影場所:民主路、銀夢酒店の向かい側附近にて。
https://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&ll=41.268431,123.173623&spn=0.001653,0.002411&t=m&brcurrent=3,0x34674e0fd77f192f:0xf54275d47c665244,1&z=19
ぶらぶらキョロキョロしながら歩き新運路との交差点にある「友誼商城」という百貨店に入った。足が棒でどこかで休もうと思っていたら喫茶コーナーがあったので西瓜ジュースを注文。その場で西瓜をミキサーに掛けて生ジュース。これが美味しい。台湾でもそうだがあれば大概これを注文する。¥8元。
午後3時頃には百貨店を出て新運路をトボトボ歩く。市場の中を歩いた。魚屋コーナーは生簀に鯉のような?生魚がウヨウヨ泳いでいた。肉屋もズラーと軒を並べて何軒も続いている。日本のデパ地下の食料品売り場でも、どこでもそうだがこの食い物が山と積まれている光景を見るたびに「これ全部売れるのか?」と心配になる。
遼陽の市場は汚い。店の前も買い物客が歩く通路もゴミだらけ、そりゃあ生で食うわけではなく火を通し油で炒めるから良いのだろうが・・・。ゴミの中に食い物も並ぶ。腐った鶏肉もミンチにして加熱処理すれば大丈夫という感覚もこの光景を見れば納得する。 -
そんな高齢者スクーターの後部に
「釣魚島(魚釣島)は中国領」と書いてある
二年前の反日騒動の時、書かれたのだろう
言っとくが尖閣は日本固有の領土だ。ふざけるな! -
目に付いた建物
てっぺんの高い低い
この段差に何の意味が?
建物前面もでこぼこ、何でこんなん作る? -
百貨店内の生果物ジュース
いろんな果物が切り身でそのまま入っている
それをミキサーにかけて生スカイジュースに -
スイカジュース¥8元、これはどこでも美味い
日本でもあるのだろうが
我が家の近所では見かけない -
どんな乗り心地で「操作性」「安全性」「耐久性」は如何に?
値段は?作るほうは楽しいだろう -
食い物を売る市場のゴミ道路の惨状
これが文化っていうものだろう
火にかけ油で炒めれば別状なしか -
鯉なのか?
市場は魚屋・肉屋とそれぞれ固まってある
魚は生きてるから鮮魚だろうけど・・・
肉屋の肉の塊を見てたら何でも食うのが分る
それが何の肉?って、ムムム想像は禁物だ -
三輪自転車に乗ってホテルに戻る
こんな乗り物はいつまでも残って欲しい
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■遼陽駅前で人間観察
市場見学の後、三輪タクシーに乗って(4元)遼陽賓館にひとまず帰り小休止。1時間ほど休んで午後5時頃遼陽駅の方へ行った。駅前のバス停附近で人混みと喧騒の様子を見ていた。日露戦争遼陽会戦では、首山堡への砲撃に使っていた攻城砲を秋山好古の進言によってこの駅附近に砲弾を撃ち込み黒鳩公(クロパトキン)を慌てさせた。
黒鳩公の司令部もこの駅附近にあり、明治37年9月遼陽に入城した日本軍はロシア軍の総司令部跡を司令部として使うことにした。大山巌大将は、9月7日の日記に「旧黒鳩公の本営跡に入る」と記している。そして黒鳩公が使っていた立派なベッドで大山大将は昼寝を楽しんだとのこと。「黒鳩のねぐらを追うて昼寝かな」も日記に書かれていた。
110年前に遼陽で起きていたことを思い浮かべながらバスの乗降で賑やかな様子を飽きずに眺めていた。日露戦えばこそ満洲はロシア領にならなかった。ここは二階建てバスが行きかいバスの運転手は女性も多い。女性のバス運転手も警笛は遠慮なしに鳴らす。ジャージ姿の中高生も午後5時半過ぎてバスに乗って帰宅するのか?沢山いた。 -
“おっちゃん”は幾ら稼ぐのだろう?
「一ヶ月の収入幾らぐらい?」と聞いておけば良かった -
写真左端「站」は遼陽站
新しい二階建てバスが結構走っていた
駅前バス停にはひっきりなしに多くのバスが来る -
午後5時36分
夕暮れの遼陽駅前からお粥の店を目指す -
昼食を食べたお粥専門店
「粥鼎記美食」で夕食も
遼陽に滞在なら毎日来る
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■お粥を食べて遼陽賓館に戻る
そして駅前から昼に食べたお粥の店に夕食を食べに行った。それは昼食べた時からまた夕食もと決めていた。今度はお粥を二碗だけ頼んだ。その他はなし。「?美海?粥(Xiānměi hǎixiān zhōu)」「??粥(Xiān xiā zhōu)」の二つ。どちらも10元。「?」はエビ。美味しかった。腹八分だし・・・。お粥専門店のお粥はホンマ美味い。言うことなし。
熱いお粥を食べたらお腹もぬくもり30分ほど散歩してホテルに戻った。テレビを付けたら今日は9月19日なのに「勿忘(Wù wàng)九・一八」「9月18日を忘れるな」という番組をまたやっていた。毎日毎日反日番組で溢れている。
さあ明日は8時に出発、遼陽を去って本渓湖へ行く。 -
「?美海?粥(Xiānměi hǎixiān zhōu)」と「??粥(Xiān xiā zhōu)」
どっちがどっちか分らんけどどっちも美味い -
遼陽の象徴:白塔の夕暮れ時
-
9月19日:気温も明石と変わらず
まだ夏といえる暑さだった -
テレビを付ければ「勿忘(Wù wàng)九・一八」
ホンマつまらん支那人の性根に恐れ入る
もうちょっと明るい未来志向はないのか?
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この旅行記へのコメント (2)
-
- こまちゃんさん 2014/12/08 23:25:19
- お粥店♪
- こまたちも、走遍中国の際にお粥店があると、きっちり抑えてしまいます。
同行しているいつもの中国知人連中も、「お粥なら中国の食問題から離れられるので安心」ですって。あの熱々なら、変な菌もアウトって感じですしね。
この粥鼎記美食って、このお粥点のチェーン店なのでしょうか?
http://zhoudingji.91cy.cn/jiamengzhengce/
香港の美食協会に参加できたってことで記事になっていました。
もしそうなら、きっと粤式稀飯の系統になって居るかもしれないので美味しそうですね♪
こま
- 明石DSさん からの返信 2014/12/09 08:29:56
- RE: お粥店♪
- ここのお粥はホンマに美味かったです。
お腹も温まって、毎日でも食べます
量も日本人向きだし
「粥鼎記美食」はチェーン店かもですね
そんな雰囲気はありました。店員の対応もしっかりしていたし
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