2014/11/17 - 2014/11/17
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noelさん
2014年の秋、まだ鎌倉は紅葉にはちょっと早かったのですが、
平日に休みができたので、いざ鎌倉へ。
まずは源氏山へと向かいます。
そして源頼朝のお墓参りへ。
その後は弟の源義経ゆかりの、満福寺へと。
そして最後はついでながら、江ノ島へ。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.5
- 交通
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- JRローカル 私鉄 徒歩
-
銭洗弁財天・宇賀福神社
ここまでの坂道、結構きついです。
ここから入ります。 -
私もお金をお清めしました。
増えるといいのですが・・・・。
巳の年の文治元年(1185年)巳の月、巳の日、源頼朝に宇賀神社の夢のお告げがありました。
「西北の谷に湧き出す霊水で神社を供養せよ。天下は泰平になるであろう」
お告げの通りにこの地に(村の西方佐助谷にある大岩窟をいう)湧水があったので、さっそく宇賀神社を祀り、その水で神社の供養を行ったことが、
創建の由来だったと言われています。
この湧き水でお金を洗って使うと、何倍にもなって返ってくると信じられています。
鎌倉五名水の一つです。 -
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小さいながら、滝のようです。
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下之水神宮。
なんと池には
錦鯉です。
全日本愛鱗会の吉田忠夫さんという方が奉納なさったようです。 -
源氏山は、まだ一部の木しか色づいていませんでした。
しかたありません。まだ11月半ばでしたので。 -
花も咲いています。
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源氏山の周辺案内図
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つくづく日本に生まれて、良かったと思います。
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源頼朝公の銅像
出身地・尾張国(愛知県西部)
1147〜1199年、53歳で死亡(病死)
(相模川橋の視察の帰り、落馬によって53歳で死去したとも)
初めて武士による政権である鎌倉幕府を作った初代鎌倉幕府将軍。
平治の乱の後、伊豆に流されました。
しかしながら以仁王の平氏討伐の令旨を受けて、挙兵。
鎌倉を本拠に関東に勢力を伸ばし、弟範頼・義経を西上させて義仲を討ち、次いで一ノ谷・壇ノ浦などの戦いで平氏を全滅させました。
そして後、武家政権の基礎を確立。建久3年(1192)征夷大将軍に任ぜられました。 -
化粧坂(けわいざか)
源氏山と扇ガ谷を結んでいます。
名前の由来ですが、wikipediaによると
・平家の対象の首を化粧し首実検したからという説
・この辺に遊女がいたからという説
・険しい坂が変じたという説
・坂の上で商取引が盛んで「気和飛坂」
・気が多いので「木生え坂」
・身だしなみを整えるという説
・「鎌倉中」への境界という説 -
ちなみに私はこの坂を下りました。
前日に降った雨で、結構濡れいて滑りました。 -
横須賀線が走っています。
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英勝寺
初期の江戸城を築城した大田道灌の子孫で、徳川家康に仕えたお梶の方(英勝院)が、同館の屋敷跡に建てた尼寺です。
お梶の方が一緒に行くと、戦に勝利したことから、改名して、お勝という名になったそうです。
お勝の方は、水戸徳川家の初代頼房の養母であったことから、代々水戸家の姫君が住職を務めています。
江戸時代は水戸御殿と呼ばれたほど格式が高く、総門には三葉葵の紋を掲げ、さながら武家屋敷のような境内でした。
仏殿、祠堂、唐門、鐘楼は江戸時代初期の建築で、これだけよくそろい、当時のままで残っている寺は少なく貴重です。
(宗派は浄土宗 寛永13年(1636年)建立)英勝寺 寺・神社・教会
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大田道灌邸蹟
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壽福金剛禅寺
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源頼朝が没した翌年、妻の北条政子が明庵栄西を開山に招いて建立した鎌倉五山
第三位の寺です。
鎌倉幕府三代将軍の源実朝も、再三参詣しました。
栄西は日本に初めて臨済宗を伝えた禅僧で、「喫茶養生記」を著すなど、お茶を飲む習慣を日本に伝えたことでも知られています。
裏山の「やぐら」(中世の横穴墳墓)には、源実朝、母・政子の墓と言われる五輪塔があります。
墓地には俳人高浜虚子や作家・大仏次郎などが眠っています。
宗派・臨済宗建長寺派
正治2年(1200年)建立 -
法華堂跡
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白旗神社 由緒記
この地はもと源頼朝公居館(幕府)の北隅で持仏堂があり、石橋山の合戦にあたって、小さな観音像が安置され頼朝公が篤く信仰していました。
正治元年(1199年)1月13日頼朝公が亡くなると、ここに葬り、法華堂と呼ばれ、
毎年命日には将軍が参詣し、仏事を執り行い多くの武将も参列しました。
その後鶴岡八幡宮の供僧「相承院」が奉仕して祭祀を続け、明治維新に際し、寺は白旗神社に改められ源頼朝公を祭神として今日に至っています。
現在の社殿は明治維新百年を記念して昭和45年に源頼朝公報恩会の方々の篤志によって造営されたものです。 -
この石段を登っていきます。
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源頼朝の墓
源頼朝が、次章年(1180年)平家打倒のため挙兵、鎌倉を本拠として元暦2年(1185年)に平家を滅ぼしました。
また鎌倉幕府を大蔵(現在のゆきのした丁目付近)に開いて武家政治の基礎を築きました。
正治元年(1199年)に53歳で没すると、自身の持仏堂であった法華堂に葬られ、
法華堂は頼朝の墓所として厚く信仰されました。
法華堂は後に廃絶しましたが、この丘の上一帯がその跡です。
現在残っている塔は、後に島津藩主・島津重豪が整備したものとされます。 -
元祖島津豊後字忠久石塔道
ここには地元のボランティアの方がいらして、国の史跡になっていることから、
管理をしてくださってました。 -
源頼朝は、幼少の頃は、京都にいました。
お墓から見ると、ちょうど京都の景色のようにも見えます。
亡くなって、昔を偲ぶことができたでしょうか。 -
結の蔵
この蔵は元々は、明治21年に秋田県湯沢市に建てられた酒屋の酒蔵だったものです。
それをほぼ原型のまま移築して、ここ鎌倉で共同住宅になって生まれ変わりました。
移築再生は、古くから残る相互扶助制度である「結」に習って、多くの人の力添えによって進められたそうです。
そこから、この名前になりました。
建築は1888年(明治21年)
移築は2004年(平成16年)
共同住宅とはいうものの、中がどうなっているのか気になります。 -
江ノ電の踏切です。
そしてその先にあるのが、満福寺です。
踏切は本当にギリギリの所にあります。 -
義経腰越状旧跡
真言宗 満福寺 -
義経と弁慶
義経は幼名を牛若丸と呼ばれました。
そうですご存知の通り、弁慶と牛若丸です。
異母兄は源頼朝です。
壇ノ浦では平氏打倒に功績をあげるのですが、頼朝の許可を得ることなく官位を受けたことや、平氏との戦いにおける独断専行によって怒りを買い、頼朝と対立し朝敵とされました。 -
龍護山満福寺と号し、開山は行基(668〜749年)と伝えられ、
本尊は薬師如来像です。
源義経(1159〜89年)が、腰越状を書いた所です。 -
弁慶が書いた腰越状の下書きと言われる書状
平家を滅ぼして、鎌倉に入ろうとした義経は、腰越にて留め置かれ、
満福寺において、自分の気持ちを源頼朝に書いて届けましたが、聞き入れてもらえずに、これより追われる身となって、悲劇の旅が始まりました。
ちなみに腰越状草案のいわれ・・・・
腰越状を草案するときに、弁慶が墨をすっていると、草むらでこおろぎがしきりと
鳴いていました。
そこで弁慶がやめろと叫ぶと、こおろぎはぴたりと鳴きやみ、境内は静かになったといいます。
今でもこの境内では、こおろぎが鳴かないそうです。 -
義経の後ろ姿
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源頼朝に追われて、藤原泰衡に衣川の館を攻められ、
弁慶は敵兵を次々倒しましたが、
ついには無数の矢を受けて・・・
薙刀を杖にして仁王立ちのまま息絶えたと伝えられています。 -
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納骨堂
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納骨堂天井絵
中心に大日如来(金剛界・胎蔵界)
右に不動明王
左に降三世明王、周りに菩薩、四天王を置き、更に天女、四方に
鳳凰を置き、如来を囲む構図になっています。 -
義経と静
追われる義経は吉野山で静を都に移します。
静は泣き崩れています。 -
源平八島大合戦(弁慶・教経・景清)
一勇斎国芳 画
文化12〜天保13年(1815〜1842年)
屋島の戦い
一の谷の合戦が源氏軍の大勝に終わったのち、約半年の間は休戦が続きました。
平家の軍はこの屋島に逃、再び内裏を置いて、安徳天皇と、神器奉じ、
依然として京都を回復する姿勢を続けていました。
水軍に長じている平氏に対して、源氏軍の方は、水軍に馴れず、その為の準備が必要でした。
大手の範頼軍は今にも九州上陸をはたして、平氏を大きく包囲する作戦に出ましたが、その試みも思うようには進みませんでした。
そこで義経に出陣の命が下りました。
それが屋島の攻略でした。
文治元年(1185年)2月、ようやく二百艇の軍船が集まって、屋島への渡海が可能となりました。
でもその直後、暴風が起こって数十艇が破損しました。
全軍の渡海は不可能となりましたが、極めて無謀にも義経は渡海を行いました。
百五十騎載せた船五艇が摂津渡辺の津を船出しました。
当時の船では三日かかるのを、風波と追風で約4時間で阿波に到着しました。
そして屋島まで夜を徹して馬を弄らせました。
そしてあたりに火をかけるや、向かいの屋島の城では、平氏一門、先を争って船に逃れました。
義経の完璧な奇襲でした。
島に翻るのは、今や源氏の白旗。
この戦、義経の弓流し、佐藤嗣信の死、那須の与一の扇の的の挿話などが、有名です。
この後、一月余りで壇ノ浦へと舞台は移っていきます。 -
呼鈴を鳴らしても、気持ち良さそうに寝ています。
可愛い猫ちゃん、zzzzz・・・ -
一度九州へ逃れようとしましたが、九州行きの船が嵐のため難破。
義経は自ら命を絶ち、その短い人生を終えました。
義経の死からひと月半。その首は頼朝のいる鎌倉へと運ばれていました。
しかし、弟の罪を許さなかった頼朝は、義経の首を鎌倉に入れることを禁じました。
この腰越で家臣に首実検(くびじっけん)をさせました。
建久3年。頼朝はついに念願であった武家政権「鎌倉幕府」を創設して、それ以後700年余り、武士の時代は続きます。
その開拓者として、頼朝の名は歴史上に残りました。
一方、義経の生き様は、その後語り継がれました。 -
弁慶の腰かけ石
ここに腰をかけたのでしょうね。 -
弁慶の手玉石
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硯の池
この右側にある、小さな池です。 -
あまりにも小さいので見落としそうでした。
弁慶が墨をするのに水を汲んだといわれる硯池です。 -
腰越の海
なんだか物寂しいような・・・・ -
江ノ島をパノラマで
-
日本三大弁財天
江島神社
ご祭神は、天照大神が須佐之男命と誓約された時に生まれた神で、
三姉妹の女神様です。
・奥津宮の多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)
・中津宮の市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)
・辺津宮の田寸津比賣命(たぎつひめのみこと) -
建永元年(1206年)、源實朝が創建。
延寶三年(1675年)に再建された後、昭和五十一年(1976年)の大改修されました。
そして現在の社殿が新築されました。
また島の中では一番下に位置していることから
「下之宮」とも呼ばれています。 -
一遍上人成就水道
飲料水に恵まれない島内の人のために、一遍上人が掘り当てた井戸です。 -
山二つ
江ノ島をちょうど二分する境となっていることから、俗に「山ふたつ」と言われています。
断層に沿って浸食された海食洞が崩落したことで、「山ふたつ」ができたとも
言われています。 -
頼朝が寄進した鳥居
頼朝は政治の方策としての信仰を、大きくとりあげ、各地に社寺伽藍を創建しましたが、その一つとして、江島神社にも数度にわたって参詣、参籠しその都度新工場の対象を寄進しています。
吾妻鏡に「頼朝は養和2年(1182年)奥州平泉の藤原秀衡を調伏するため、京都高尾神護寺の文覚上人に命じて、弁財天を岩屋に勧請し、参詣の際には鳥居を寄進しました」とあります。
現在の鳥居は平成16年(2004年)の台風で破損し、補修されたものですが、源頼朝寄進の鳥居は、これに似たものが建てられたと伝えられています。 -
奥津宮
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「夏富士や晩籟神を鎮しむる」
*晩籟:夕方の風の音
高木蒼梧は、江島神社の宮司で、俳諧の研究者でした。
著書の「俳諧人名辞典」で文部大臣賞を受賞したことを記念して、
当時の江島神社宮司相原直八郎が昭和36年(1961年)に建立したものです。
江ノ島には春の句が多い中で異色です。 -
山田流箏曲流祖
山田検校像
山田流箏曲創始者の盲人音楽家。 -
力石
江戸時代に日本一の力持ちと言われた卯之助(岩槻藩)が、当神社に奉納したものです。
主さ八十貫で
石には「奉納岩槻卯之助持之八拾貫」と刻まれています。
弁財天の祭礼に詣でた人々の前で、力競技を行ったときのものです。 -
iL CHIANTI BEACHE(イル キャンティ ビーチェ)
イタリアン
イタリアのプーリア州の有名なブラータチーズもありました。 -
外は少し北風で冷えてきました。
赤ワインで一息。 -
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