2014/10/30 - 2014/10/30
559位(同エリア573件中)
滝山氏照さん
JR青梅線昭島駅から徒歩で約30分、拝島山・普明寺(ふみょうじ、東京都昭島市拝島町)は本尊は大日如来で天正元年(1573)の創建、大日堂の別当寺にあたります。
とりわけ当該寺の外堂に大日如来を安置する観点から本覚院(拝島大師)、円福寺、日吉神社そしてここ普明寺はいずれも「拝島山」という山号で構成され、いわゆる「大日八方」と称する一山八ケ寺としてその歴史を刻んできましたが現在ではその変遷とともに上記三寺と一社が残っているだけです。
当該寺院ホームページには「大日堂縁起」として下記の紹介がされています。
『 大 日 堂 縁 起
境外仏堂である大日堂の創建は、一千年の昔にさかのぼり、天暦6年(952)玉川はなの島から、大日如来の尊像が出現し、人々がお堂を建て拝んだところから、拝島の地名がついたと伝えています。
その後、戦国時代になって、小田原北条氏の一族、北条氏照によって滝山城が
築城された時に、白の鬼門除けとして現在地に移され、天正元年(1573)には、滝山城主北条氏照の重臣、石川土佐守が、娘おねいの眼病を祈願し、平癒により堂宇を再建し、「大日八方」といわれた一山八ケ寺を建立されたと云われます。
江戸時代に入り、天正19年(1591)には徳川幕府より朱印10石を下賜され、享保17年(1732)には大日堂の位置を石段上の現在地に移し、建物を再建しました。』
次に「拝島の由来」について説明があり、その内容は下記の通りです。
『 拝 島 の 由 来
昭島市は昭和町と拝島町が合併して誕生した市です。昭和町の「昭」と拝島村の「島」を一字ずつ採った合成地名です。昭和町は比較的新しい地名ですが、拝島村の「拝島」という名前には古い由来があります。
天暦6年(952年)、日原村の日原鍾乳洞に安置されていた大日如来像が洪水で多摩川に流されてしまいました。大日如来像は玉川花井の島(多摩川の中州)に流れ着き、村人たちがお堂を建てて像を拝むようになったことが拝島という名前の由来と言い伝えられています。
このお堂は浄土寺と呼ばれM現在の大日堂とは違う場所にありました。どこにあったのかは現在でも不明です。その後、滝山城が築かれたときに、その鬼門除けとして石川土佐守が現在の場所に移したのが大日堂です。
江戸幕府が編纂した「新編武蔵風土記高」には、拝島村の由来について次のように記されています。
土人の話には、ここより十一里余、多摩川の上流のほとりなる
日原村より、往吉大日の像流れきたり、東の方大神村の川生涯
に漂い着て、夜々に光明をはなちて蒜しゅうたりしかば、里民
等これを礼拝し、当村に迎えて安置しけるより名くと云、是浮
たる説なり、その仏像のあがれるところを浄土寺という天台宗
の古刹あつて此大日の像を安しありけるが、瀧山城元八王子へ
移りし微し、ついに廃寺となりし、大日の像と密厳土寺の顔を
拝島村に譲りしと云、されば今もこの大日のころに就ては、大
神村にて興り聞かざることなしと、此両説いづれを是とせんや
定かならず、大神村の條合せみるべし、拝島の文字或いは蠅島
とも書きてへたり、所因詳ならず。』
『 武田信玄と北条氏照の戦場に
大日堂は天暦6年(952年)に創建されました。滝山城を築城する際に、鬼門除けとするために現在の地へ移されました。
永禄12年(1569)に北条氏が支配する関東へ侵攻した武田信玄、小田原城へ向かう途中で滝山城を攻める際に大日堂に本陣を置きました。
滝山城を守るための大日堂が敵の本陣となってしまいましたが、大日堂のご加護のお陰か、城主の北条氏照は武田軍の撃退に成功します。ただし、落城寸前まで攻め込まれたので、滝山城を放棄して八王子城を築城する原因となりました。』
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