2014/10/16 - 2014/10/16
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ドクターキムルさん
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東京国立博物館(東博)ではこの夏(2014年4月15日(火)〜2014年7月6日(日))に「アイヌと琉球 アイヌの祈り」展で展示があったが、秋(2014年9月30日(火)〜2014年12月23日(火))にも「アイヌと琉球 アイヌの暮らし」と題してアイヌの人びとが日々の暮らしの中で用いた狩猟や漁撈の道具、調理や機織の道具などを展示(本館 16室)されている。
北海道には弥生時代がなく、稲作文化はなかった。明治以降に開拓され、それまでの原住民がアイヌと呼ばれている。今ではアイヌのコタン(村)は観光地となって残っている程度であろうか。
現在では、日本国内にはアイヌ民族や琉球民族が古来から住む他民族国家となっているが、縄文の昔からそうで、律令国家になると別の国であった。香取神宮や鹿嶋神宮の北は蝦夷の国であり、記録が残る7世紀以降には越後や東北地方に柵と呼ばれる城郭を築き、大和民族による蝦夷の征服が行なわれてきた歴史がある。たとえば、越後国は多くの信濃国の民を移住させて造られたとされ、故郷の信濃を流れる千曲川は越後に入ると信濃川と名を変える。こうしたことは越後国の立国時の面影であろう。また、羽黒神社の山岳修験道も倭国の外(蝦夷の国)に始まったものと伝わる。あるいは、越後村上は鮭で有名であるが、鮭を尾を上にして吊るすのはアイヌと村上地方だけだとされるが、これも磐舟の柵が築かれる以前の蝦夷の国の時代の名残であろう。また、長弓は日本特有とされ、アマゾンの部族と日本だけに残るもので、世界中がアイヌと同じ短弓を使ってきた。これも縄文時代に源を発するものであろう。琉球も江戸時代には薩摩藩の支配を受けたが琉球王国として存続していた。
縄文時代であれ、律令国家の時代であれ、縄文人や蝦夷は多民族であったはずだ。アイヌの時代になって多部族になったとされるが、少なくても樺太と北海道では民族的な違いはあろう。
そんなことを考えさせるアイヌ民族の民具展示であった。
(表紙写真はアイヌ民族の衣服)
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