2014/09/07 - 2014/09/07
262位(同エリア996件中)
吉備津彦さん
まずは卑弥呼の墓とも云われている箸墓古墳、渋谷向山古墳(景行天皇陵)
行燈山古墳(崇神天皇)、天武・持統天皇陵を巡りました。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 自家用車
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イチオシ
箸墓古墳(はしはかこふん、箸中山古墳)は、奈良県桜井市にある前方後円墳。
宮内庁により「大市墓(おおいちのはか)」として第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命の墓に治定されている。また「箸中大池」としてため池百選の1つに選定されている。溜池に綺麗に映る前方後円墳は卑弥呼の墓かも by 吉備津彦さん箸墓古墳 名所・史跡
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宮内庁によって第7代孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓として管理されているが、この古墳を卑弥呼の墓とする研究者もいる。その根拠としては、
この古墳の後円部の直径が『魏志倭人伝』にある卑弥呼の円墳の直径「百余歩」にほぼ一致すること
後円部にある段構造が前方部で消失することから、前方部が後世に付け加えられた可能性があること
大規模な古墳の中では、全国でももっとも早い時期に築造されたものであること
などが挙げられているが現時点では正確なことは分からない。ちなみに魏・晋時代の一里は300歩で魏・晋時代の1里は435.6メートル、1歩はほぼ145センチメートルとなり100余歩は約145メートル強となる。
上記のことから白石太一郎は「卑弥呼の墓であっても不思議ではない」と述べるのに対し、石野博信は台与の墓、また、箸墓を寿陵と考える寺沢薫は壹与に加えて崇神天皇の墓である可能性も指摘している。現在ではようやく発掘許可がなされたため実質的調査はまだ始まったばかりの位置にある。溜池に綺麗に映る前方後円墳は卑弥呼の墓かも by 吉備津彦さん箸墓古墳 名所・史跡
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景行天皇陵
全長310メートル、前方部幅170メートル高さ23メートル、後円部径168メートル高さ23メートル。墳丘は東西方向に主軸をおき、後円部は正円形で3段築成、前方部も3段で築かれている。後円部頂上は平坦で円形である。前方部の頂上も平坦であり、長い台形である。前方部は撥形をしていない。前方部幅は後円部の直径にほぼ等しく、後円部の前方部に対する比率はおよそ1:1.1である。
周濠は盾形をなす。墳丘両側の谷を堰き止めて作った階段状の周濠であり、周濠への湛水のため渡土堤を設置する。 現状の周濠・渡土堤は少なからず後世の改変を受けていると考えられるが、渋谷向山古墳の渡土堤のうち、いくつかが古墳造営当初のものと調査の結果判明している全長310m全国7位の大きな前方後円墳 by 吉備津彦さん景行天皇陵 名所・史跡
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渋谷向山古墳(しぶたにむこうやまこふん)は、奈良県天理市渋谷町にある前方後円墳。
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宮内庁により「山邊道上陵(やまのべのみちのえのみささぎ)」として第12代景行天皇の陵に治定されている。
全長310m全国7位の大きな前方後円墳 by 吉備津彦さん景行天皇陵 名所・史跡
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崇神天皇(すじんてんのう/すうじんてんのう、開化天皇10年 - 崇神天皇68年12月5日)は、『古事記』『日本書紀』に記される第10代天皇(在位:崇神天皇元年1月13日 - 同68年12月5日)。和風諡号は『紀』では御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらのみこと)。また、御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称えられる。『記』では御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえ)である。現代日本の学術上、実在可能性が見込める初めての天皇であると言われている。
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本古墳は、龍王山の斜面の先端を利用して造られており、平野の方に前方部を北西に向けている。後円部がより高い山側にある。 三輪山の山麓に築かれた大和・柳本古墳群の中でも、渋谷向山古墳(現景行天皇陵)に次ぐ大きさであり、現崇神天皇陵(山辺道勾岡上陵)に比定されている。その政治勢力は、三輪王朝とか初瀬王朝と呼ばれている。初期ヤマト政権の大王陵である。
幕末の文久の修陵の開始時には、本古墳が景行陵だったのが、修陵事業の完成直前の1865年(慶応元)2月に、崇神陵に取り替えられた。これなどは、考古学の遺跡名に陵墓名を持ち込むと混乱を引き起こす原因になる好例である。
宮内庁の管轄する古墳であるので、研究者や国民は、自由に立ち入りできない。4墓の陪塚を持つ古代の大王のお墓です。 by 吉備津彦さん崇神天皇陵 名所・史跡
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イチオシ
山辺道勾丘上陵(やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ)という深い緑の水をたたえた濠が美しい。
行燈山古墳(あんどんやまこふん/あんどやまこふん、行灯山古墳)は、奈良県天理市柳本町にある古墳時代前期の前方後円墳(帆立貝形古墳にも分類される)。
宮内庁により「山邊道勾岡上陵(やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ)」として第10代崇神天皇の陵に治定されている。 -
遥拝所から国道方面を望む
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遙拝所に続く参道の両側に2基の陪塚があり、やはり前方後円墳である(写真の左上隅に見える)。北側が北アンド山古墳(全長120m)、南側が南アンド山古墳(全長60m)で、それぞれ行燈山古墳の2分の1、4分の1の全長となっている。国道169号を渡った西側にある大和天神山古墳も陪塚とされ、前方部を南に向けた前方後円墳であるが、国道建設時に東側半分が削られている。また、すぐ東に櫛山古墳がある。
写真は北側の陪塚北アンド山古墳 -
天武・持統天皇陵
野口王墓(のぐちのおうのはか)は、奈良県明日香村にある八角墳。古墳時代終末期の古墳である。
宮内庁により「檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ)」として第40代天武天皇・第41代持統天皇の陵に治定されている。『日本書紀』には「大内陵」と記される。 -
墳丘は現在東西約58メートル、南北径45メートル、高さ9メートルの円墳状である[1]。本来の墳形は八角形・五段築成、周囲に石段をめぐらすとされる。2室からなる切石積みの石室があり、天武天皇の夾紵棺と持統天皇の金銅製骨蔵器が納められているとされている。本古墳は、天皇が埋葬された古墳として考えてよく、被葬者の実在性も問題がない。治定が信頼できる数少ない古代の陵墓である。同様の事例には、天智陵(御廟野古墳)を上げることができる。 しかし、本古墳は1235年(文暦2年)に盗掘にあい、大部分の副葬品が奪われた。その際、天武天皇の棺まで暴かれ、遺体を引っ張り出したため、石室内には天皇の遺骨と白髪が散乱していたという。持統天皇の遺骨は火葬されたため銀の骨壺に収められていたが、骨壺も奪い去られ、無残な事に中の遺骨は近くに遺棄されたという。
天武 持統天皇陵 名所・史跡
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栗が実っていました。
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