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武田信義の遠祖は八幡太郎義家の弟である新羅三郎義光で、寛治元年(1087)義光は左兵衛尉職を辞して後三年の役で苦戦している兄の下で戦い金沢柵にて清原武衛・家衛を破ります。<br /><br />平定後は京都に戻り左衛門尉に返り咲きやがて刑部丞に昇進後常陸介・甲斐守を経て刑部少輔に任じられ、義光二子の義清(よしきよ、1075~1149)が常陸国那珂郡武田郷に所領を得て土着して武田姓を名乗ります。<br /><br />義光は大治2年(1127)に没し所領は佐竹氏の祖となる嫡男義業(よしなり、1077?~1133)を始め6人の子どもに分地されますが義清はその後一族の佐竹氏らと争いその結果朝廷より追放となり、息子の清光(きよみつ、1110~1168)と共に甲斐に流された経緯があります。<br /><br />甲斐に流された義清・清光父子はここで「武田」姓を捨て「逸見」姓を名乗りますが、大治3年(1128)信義(のぶよし)は清光の二男として生まれ、13歳で武田八幡宮にて元服し甲斐武田氏の祖となります。(他方長男光長は「逸見」姓を名乗ります)<br /><br />治承4年(1180)信義は後白河天皇の第三子である以仁王(もちひとおう、1151~1180)の令旨を受けて挙兵し、同年8月甲斐源氏を石和(いさわ)に集め、9月には嫡男一条忠頼(いちじょう・ただより、生誕不詳~1184)共々軍勢を率いて信濃平氏を破り、10月には駿河国の目代である橘遠茂(たちばな・とおもち,生誕不詳~1180)を討ちます。<br /><br />同年10月、伊豆で挙兵し石橋山で敗れたものの勢力を盛り返し相模・武蔵の豪族を結集させ鎌倉に拠点を定めた源頼朝(みなもとの・よりとも、1147~1199)は駿河・富士川の戦いに臨む際、信義は頼朝の支援要請を受けこれに参戦して平惟盛を大将とする平氏軍を敗走させ、信義は駿河守護となります。<br /><br />その後は東国での勢力は源頼朝、武田信義、木曽義仲の三者がそれぞれ自らの勢力を保有しながら並立する時期が続くなか、義仲と頼朝が対立するようになり、信義は頼朝側に立って義仲を追討し滅亡させた後も屋島・壇ノ浦での平氏との戦い数々の武功を挙げます。<br /><br />一方頼朝は信義の活躍ぶりによる勢力拡大を懸念する状況下、養和元年(1181)に後白河法皇が信義を頼朝追討使に任じたという風聞が流れ、これを機に信義は駿河守護解任されたうえ鎌倉に呼び出され、忠誠の起請文を書かされます。<br /><br />源氏の旗揚げ以来信義に従って戦功をあげ、常々頼朝からその威勢を妬まれていた信義嫡男一城忠頼は元暦元年(1184)6月謀反を企てたとして鎌倉に呼ばれ宴会の席上で誅殺されてしまいます。<br /><br />文治2年(1186)3月信義は忠頼の反逆で頼朝の勘気を蒙り、それをはらすことなく不遇な状況のまま59歳で死去します。<br /><br />尚嫡男一条忠頼を失った信義の子息についても頼朝の容赦ない冷遇によって武田氏は完全に勢力を失い一御家人に成り下がります。<br /><br />三男兼信(かねのぶ、生誕不詳~1190?)は山梨郡板垣荘を支配地としていた事で板垣氏を名乗り、一の谷合戦などで戦功あげますが土肥氏より下位に置かれた事への不満を述べたことなどから頼朝に警戒され、文治5年(1189)駿河国大津の地頭職解任、建久元年(1190)勅令違反の罪を問われ隠岐国に配流されます。<br /><br />四男有義(ありよし、生誕不詳~1200?)は父と兄たちが死亡・配流以降は甲斐源氏の核として御家人として出仕していましたが、正治2年(1200)幕府から追放された梶原景時と同一行動をして甲斐国から出奔しその地位を失います。<br /><br />五男信光(のぶみつ、1162~1248)は八代郡石和荘を基盤としていることで石和氏と称し、平氏に反旗を翻した治承4年(1180)から父信義と共に行動、幕府創建後も御家人として頼朝に仕え有名な富士裾野での狩りには頼朝に随身、兄有義が梶原景時に走った後からは武田氏の棟梁となり以降北条氏に従って行動し阿部全成の謀反鎮圧、和田義盛の乱での追討、承久の乱では大将として上洛するなど幕府(=北条氏)に貢献します。<br /><br /><br />2023年8月24日追記<br /><br />居館跡の一角に建てられた説明板には下記の通り記述されています。<br /><br /><br />『 韮崎市指定史跡<br />           武 田 信 義 館 跡<br /><br />武田の里は甲斐源総領武田氏発症の地である。<br /><br />今を去る八百余年の昔、源信義がここに居館を構えて武田太郎と号し、甲斐源氏一族を率いて強大な武力を持った。<br /><br />治承4(1180)年高倉宮以仁王の令旨を奉じて平家討滅の兵を起こし、信濃・駿河に転戦して武功をたて、駿河守護に補せられたが、やがて源頼朝の排斥にあい、文治2(1186)年病没したとされる(享年59歳)。<br /><br />しかし、建久元(1190)年頼朝上洛の隋兵の中に信義の名があり、同5(1194)年の東大寺造営や小笠懸の射手にも信義の名がみられることから、文治2年以降も生存していた可能性がある。<br /><br />墓は鳳凰山願成寺にある。<br /><br />信義の館跡は武田区の東端を占め、およそ250メートル平方の地で、今は民家・耕地が入り混じっているが、当時を偲ぶにたる土塁の一部は現存し、お座敷・お庭・お旗部屋・み酒部屋・的場・お堀・金精水・具足沢などの地名を伝えている。<br /><br />平成20(2008)年には館跡推定地の東部の発掘調査により、水晶・中国産陶磁器などが出土した。<br /><br />  平成25年3月  <br />              韮 崎 市 教 育 委 員 会 』<br /><br /><br /><br /><br /><br />

甲斐韮崎 平氏追討に武功を尽くすも用心深い頼朝に警戒され嫡男を失い徹底した冷遇を受け一般御家人並みに扱われた甲斐源氏『武田信義居館』跡訪問

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2014/09/27 - 2014/09/27

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滝山氏照

滝山氏照さん

武田信義の遠祖は八幡太郎義家の弟である新羅三郎義光で、寛治元年(1087)義光は左兵衛尉職を辞して後三年の役で苦戦している兄の下で戦い金沢柵にて清原武衛・家衛を破ります。

平定後は京都に戻り左衛門尉に返り咲きやがて刑部丞に昇進後常陸介・甲斐守を経て刑部少輔に任じられ、義光二子の義清(よしきよ、1075~1149)が常陸国那珂郡武田郷に所領を得て土着して武田姓を名乗ります。

義光は大治2年(1127)に没し所領は佐竹氏の祖となる嫡男義業(よしなり、1077?~1133)を始め6人の子どもに分地されますが義清はその後一族の佐竹氏らと争いその結果朝廷より追放となり、息子の清光(きよみつ、1110~1168)と共に甲斐に流された経緯があります。

甲斐に流された義清・清光父子はここで「武田」姓を捨て「逸見」姓を名乗りますが、大治3年(1128)信義(のぶよし)は清光の二男として生まれ、13歳で武田八幡宮にて元服し甲斐武田氏の祖となります。(他方長男光長は「逸見」姓を名乗ります)

治承4年(1180)信義は後白河天皇の第三子である以仁王(もちひとおう、1151~1180)の令旨を受けて挙兵し、同年8月甲斐源氏を石和(いさわ)に集め、9月には嫡男一条忠頼(いちじょう・ただより、生誕不詳~1184)共々軍勢を率いて信濃平氏を破り、10月には駿河国の目代である橘遠茂(たちばな・とおもち,生誕不詳~1180)を討ちます。

同年10月、伊豆で挙兵し石橋山で敗れたものの勢力を盛り返し相模・武蔵の豪族を結集させ鎌倉に拠点を定めた源頼朝(みなもとの・よりとも、1147~1199)は駿河・富士川の戦いに臨む際、信義は頼朝の支援要請を受けこれに参戦して平惟盛を大将とする平氏軍を敗走させ、信義は駿河守護となります。

その後は東国での勢力は源頼朝、武田信義、木曽義仲の三者がそれぞれ自らの勢力を保有しながら並立する時期が続くなか、義仲と頼朝が対立するようになり、信義は頼朝側に立って義仲を追討し滅亡させた後も屋島・壇ノ浦での平氏との戦い数々の武功を挙げます。

一方頼朝は信義の活躍ぶりによる勢力拡大を懸念する状況下、養和元年(1181)に後白河法皇が信義を頼朝追討使に任じたという風聞が流れ、これを機に信義は駿河守護解任されたうえ鎌倉に呼び出され、忠誠の起請文を書かされます。

源氏の旗揚げ以来信義に従って戦功をあげ、常々頼朝からその威勢を妬まれていた信義嫡男一城忠頼は元暦元年(1184)6月謀反を企てたとして鎌倉に呼ばれ宴会の席上で誅殺されてしまいます。

文治2年(1186)3月信義は忠頼の反逆で頼朝の勘気を蒙り、それをはらすことなく不遇な状況のまま59歳で死去します。

尚嫡男一条忠頼を失った信義の子息についても頼朝の容赦ない冷遇によって武田氏は完全に勢力を失い一御家人に成り下がります。

三男兼信(かねのぶ、生誕不詳~1190?)は山梨郡板垣荘を支配地としていた事で板垣氏を名乗り、一の谷合戦などで戦功あげますが土肥氏より下位に置かれた事への不満を述べたことなどから頼朝に警戒され、文治5年(1189)駿河国大津の地頭職解任、建久元年(1190)勅令違反の罪を問われ隠岐国に配流されます。

四男有義(ありよし、生誕不詳~1200?)は父と兄たちが死亡・配流以降は甲斐源氏の核として御家人として出仕していましたが、正治2年(1200)幕府から追放された梶原景時と同一行動をして甲斐国から出奔しその地位を失います。

五男信光(のぶみつ、1162~1248)は八代郡石和荘を基盤としていることで石和氏と称し、平氏に反旗を翻した治承4年(1180)から父信義と共に行動、幕府創建後も御家人として頼朝に仕え有名な富士裾野での狩りには頼朝に随身、兄有義が梶原景時に走った後からは武田氏の棟梁となり以降北条氏に従って行動し阿部全成の謀反鎮圧、和田義盛の乱での追討、承久の乱では大将として上洛するなど幕府(=北条氏)に貢献します。


2023年8月24日追記

居館跡の一角に建てられた説明板には下記の通り記述されています。


『 韮崎市指定史跡
           武 田 信 義 館 跡

武田の里は甲斐源総領武田氏発症の地である。

今を去る八百余年の昔、源信義がここに居館を構えて武田太郎と号し、甲斐源氏一族を率いて強大な武力を持った。

治承4(1180)年高倉宮以仁王の令旨を奉じて平家討滅の兵を起こし、信濃・駿河に転戦して武功をたて、駿河守護に補せられたが、やがて源頼朝の排斥にあい、文治2(1186)年病没したとされる(享年59歳)。

しかし、建久元(1190)年頼朝上洛の隋兵の中に信義の名があり、同5(1194)年の東大寺造営や小笠懸の射手にも信義の名がみられることから、文治2年以降も生存していた可能性がある。

墓は鳳凰山願成寺にある。

信義の館跡は武田区の東端を占め、およそ250メートル平方の地で、今は民家・耕地が入り混じっているが、当時を偲ぶにたる土塁の一部は現存し、お座敷・お庭・お旗部屋・み酒部屋・的場・お堀・金精水・具足沢などの地名を伝えている。

平成20(2008)年には館跡推定地の東部の発掘調査により、水晶・中国産陶磁器などが出土した。

  平成25年3月  
              韮 崎 市 教 育 委 員 会 』





旅行の満足度
4.0
交通手段
JRローカル 徒歩
  • 武田信義館跡付近<br /><br />まずは武田信義館跡を先行して訪問します。

    武田信義館跡付近

    まずは武田信義館跡を先行して訪問します。

  • 路傍に立つ墓石<br /><br />韮崎駅前の観光案内所で入手した地図を頼って近くまで来るも探し出せません。やっとの思いでそれらしき場所を見つけます。

    路傍に立つ墓石

    韮崎駅前の観光案内所で入手した地図を頼って近くまで来るも探し出せません。やっとの思いでそれらしき場所を見つけます。

  • 武田信義居館跡案内板

    武田信義居館跡案内板

  • 武田信義居館跡小路

    武田信義居館跡小路

  • 武田信義居館跡

    武田信義居館跡

  • 「武田信義館跡」標柱

    「武田信義館跡」標柱

  • 武田義信館跡説明

    武田義信館跡説明

  • 神川町周辺地図<br /><br />掲示されている地図を見ると「武田氏発祥の地」だけに同氏に関する場所が多数紹介されています。

    神川町周辺地図

    掲示されている地図を見ると「武田氏発祥の地」だけに同氏に関する場所が多数紹介されています。

  • 「武田信義館跡」標柱<br /><br />広い周囲のなかに僅かばかりの居館跡記念碑が置かれていますが、往時は四方に亘り200mほどの広さと言っても住宅と田圃に囲まれて遺跡らしきものは覗えません。

    「武田信義館跡」標柱

    広い周囲のなかに僅かばかりの居館跡記念碑が置かれていますが、往時は四方に亘り200mほどの広さと言っても住宅と田圃に囲まれて遺跡らしきものは覗えません。

  • 泉勝院正門<br /><br />武田信義居館跡に近接する寺院として泉勝院(せんしょういん)があります。

    泉勝院正門

    武田信義居館跡に近接する寺院として泉勝院(せんしょういん)があります。

  • 泉勝院標柱<br /><br />正門左側には「武王山泉勝院」の刻された銘板が埋め込まれています。<br />

    泉勝院標柱

    正門左側には「武王山泉勝院」の刻された銘板が埋め込まれています。

  • 泉勝院標柱<br /><br />更に右側には「漕洞宗禅寺」の銘板があります。

    泉勝院標柱

    更に右側には「漕洞宗禅寺」の銘板があります。

  • 参道<br /><br />本堂を正面に見据えて左右の石燈籠に支えられて参道を前進します。立派な本堂や取り巻く石燈籠の設置を見れば格式高い寺院と感じられます。

    イチオシ

    参道

    本堂を正面に見据えて左右の石燈籠に支えられて参道を前進します。立派な本堂や取り巻く石燈籠の設置を見れば格式高い寺院と感じられます。

  • 本堂扁額<br /><br />境内には特段の説明する記事はありませんが本堂上部に掲載の「武王山」は何か武田氏と関わりを意味していると思われます。

    本堂扁額

    境内には特段の説明する記事はありませんが本堂上部に掲載の「武王山」は何か武田氏と関わりを意味していると思われます。

  • 境内風景<br /><br />例によって本堂から境内風景を捉えます。

    境内風景

    例によって本堂から境内風景を捉えます。

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