2012/05/24 - 2012/05/25
96位(同エリア179件中)
ムッシュさん
甲州古道は、いよいよ韮崎市に入って来ました。
【韮山宿】 日本橋から三十九里 三町四十七間(153.6Km)、下諏訪へ十 四里十三町ニ十五間(56.4Km)
天保14年(1843)で人口 1142名、総家数237軒、本陣1軒、旅籠屋17軒。
昔、清水と塩尻とを結ぶ甲州街道の主要な宿場町として発展した韮崎。その面影が今も宿本陣跡、馬つなぎ石や鋸型の宿場風景など所々に姿を残す。
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2基の二十三夜塔。
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金剛地の旧道が国道に合流する。
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南アルプスの山々
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塩川橋を渡ります。右はJR中央線。
塩川は奥秩父山塊の主峰金峰山付近に源を発し、流末は釜無川に落合います。
橋上からは優美な裏富士や鳳凰三山そして甲斐駒ケ岳が望めます。 -
もうすぐ【韮崎宿】です
鰍沢横丁を過ぎると歩道の電柱が取り払われ、スッキリした町並みになります、韮崎宿に到着です!
*韮崎の地名は長く延びる七里岩がニラ(韮)の葉のように見え、その先端(崎)に位置するから、又はニラの群生地であったところから、そして七里岩の出崎と船山が睨(ニラ)みあっているところ等を由来としています。
*韮崎宿は北に信州道(佐久往還)、南に身延道(駿州往還)を控え、交通の要衝、そして鰍沢河岸には、峡北、信州諏訪や佐久の江戸城納めの年貢米や雑穀の下げ米や、食塩、干し魚などの上げ塩等の物資集散地として大いに賑わいました。
*天保14年(1843年の頃、韮崎宿の宿内家数は237軒、うち本陣1、問屋1、旅籠17軒で、宿内人口は1,142人でした。 -
【鰍沢(かじかさわ)横丁碑】
下宿交差点に戻ると左手に鰍沢横丁がある。下流に鰍沢河岸があり、東海道岩淵河岸に繋がっていた。これは江戸初期、幕命により京の豪商角倉了以が開いた舟運です。この舟運は正に江戸城の生命線でした。一朝有事の際、江戸の将軍は服部半蔵の手引きにより、江戸城を脱出し、八王子の千人同心に守られ甲州道中を辿り、この河岸から舟で一気に駿府に至るライフラインであった。
【鰍沢横丁】
ここから「みのぶ道」駿信往還ともいい、峡北地方や諏訪・佐久地方の江戸城納めの年貢米を、馬背に積んで、鰍沢河岸(幕末には船山河岸)まで通行の道筋である。
ために沿道には、駄菓子屋・馬方茶屋など軒を並べてにぎわったが、明治三十六年(1903)国鉄中央線開通して、荷物輸送経路も一変し、往時の活況は消え失せた。しかし町民には忘れじの横丁である。 -
【韮崎宿本陣跡の碑】
韮崎宿本陣の建坪はおよそ120坪でした。本陣は問屋を兼ね、人足25人、馬25疋を常備し、継ぎ立て業務をこなした。
甲州道中を通行する参勤の大名は高島藩、高遠藩、飯田藩に限られていた。日程の関係上、韮崎宿本陣に宿泊することは少なかったといいます。
*本陣が使われたのは、何も参勤交代だけではありません。かの有名な宇治茶を江戸にまで運ぶお茶壺の通行でも使われました。お茶壺道中は最初のころは東海道を使っていましたが、海風に当たり湿気るからということで甲州街道を使うようになった -
【窟観音石碑】
境内の七里岩の懸崖造り(けんがいづくり)の「窟観音堂」は天長5年(828年)弘法大師の開基です。 -
【雲岸寺】説明板
窟屋(いわや)観音がある。伝説によると僧空海が観音石仏を洞くつに安置し、住民が観音のために堂を建立したといわれ、1667(寛文7)年から千体仏を備え翌年開眼したと伝えられる。
堂の老朽化のため仏像は現在本堂に移されている。甲州八十八カ所霊場の第52番、塩川筋番外34番札所となっていた。通称穴観音として知られ、3月21日の例祭は現在も盛んである。 -
【雲岸寺】
八ヶ岳から甲府盆地に向かってくさびを打ち込むかのように伸びる七里岩。
そんな七里岩の先端に、今から555年以上前の室町時代の1464(寛正5)年に開かれたお寺。最初は弘法大師空海の真言宗の道場として作られ、江戸時代の初め頃に現在の曹洞宗になりました。
弘法大師とのゆかりを伝えるところも多くあり。山号ともなっている「佛窟山」の名にふさわしく、七里岩の中腹の洞窟には聖観世音菩薩、弘法大師御尊体が安置されている。そして、もっとも目と心が奪われるのは「千体仏」。参拝者と目が合う仏様が少なくとも一尊はいらっしゃるといわれます。
この寺は、地元で「窟観音(あなかんのん)」と地域から親しみをこめて呼ばれ、毎年3月の春分の日には二日間にわたる、その祭りは、稚児行列がある。 -
曹洞宗仏窟山雲岸寺
寛正五年(1464年)霊場窟観音を守るべく創建された、慶長八年(1603年)徳川家康は黒印地一石四斗四升余と屋敷105坪を与え保護しました。 -
【窟屋(いわや)観音】がある。
伝説によると僧空海が観音石仏を洞くつに安置し、住民が観音のために堂を建立したといわれ、1667(寛文7)年から千体仏を備え翌年開眼したと伝えられる。堂の老朽化のため仏像は現在本堂に移されている。甲州88ケ所霊場の第52番、塩川34番札所となっていた。通称穴観音として知られ、3月21日の例祭は現在も盛んである。 -
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【千体仏】中央は窟観音本尊聖観世音菩薩様。
石段を上ると窟観音堂内が拝観できます。
窟室内には寛文7年(1667年)に千体仏(千体地蔵尊)が安置された、このうち必ず一体は参詣祈願者と目が合うと信仰されました。
中央の窟室内には天長5年(828)弘法大師作の御尊像が安置されています。
奥の窟室は窟観音本殿で、天長5年(828年)弘法大師作の本尊聖観世音菩薩像が安置されています。 -
千体仏、見てるだけで圧倒される。
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千体仏。中央は弘法大師
【弘法大師御尊像】
天長五年〔平安時代〕(828)僧空海(弘法大師)が当地の平安を願い御造りになられた石像であります。
窟観音には、弘法大師自作の石仏が二体〔弘法大師御尊体像、聖観世音菩薩像〕安置されております。
祖師信仰厚く弘法大師僧空海を民衆信者が「お大師さま」と崇敬されています。 -
お堂の隣には、奥へと続く洞穴があり天井は低く、登り坂になるが50m進むと崖の反対側にでる。
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【小林一三翁生誕地】
雲岸寺先の左手に「にらさき文化村」があります、「小林一三翁生家跡」です。
小林一三は阪急東宝グループの創業者で宝塚歌劇団の創始者です。 -
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青阪
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水神宮
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【水難供養塔】
左20号線でこの塔の右が下粗母石の旧道に入る。
釜無川の暴れにより、この辺りの水害は酷かったらしい。文化2年(1805年)戸隠神社の祭神九頭竜権現の分霊を祀りました。 -
南アルプス
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【神明宮】
神明宮、享保9年(1724年)この地に遷座し、旧祖母石村、旧西岩下村の鎮守です。
境内の金毘羅山常夜燈は釜無川の舟運に由来するものです。
境内には観音堂があります。 -
【九頭流大神】
ここには、道祖神、和気大神も併せて整然と石塔が並んでる。
石塔群は、蚕神(かいこがみ)、石尊神、道祖神、和氣大神、九頭竜大神が並んでいます。昭和34年(1959年)の水害で流失したものを復元した。
ここで道は、ヘヤピンカーブのごとく戻り、桐沢橋を渡り川の対岸に出ます。 -
畑の湿地には菖蒲の花が一杯で、歩いてて心地良い
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【徳島堰】
徳島堰は江戸時代の灌漑用水で、韮崎市円野町から曲輪田新田までの18kmに及ぶ水路です。この堰は古くから日本三大堰(柳川堰、箱根堰)中随一といわれています。
江戸深川の商人徳島兵左衛門が身延詣での際、この地の荒野を憂い、幕府(甲府藩)の許可を得て、寛文5年(1655年)開発に着手し、同7年に上円井(韮崎市円野町)より曲輪田の大輪沢(櫛形町)まで堰を造りました。
その後甲府藩では有野村(白根町)の郷士矢崎又右衛門に命じ、不良箇所の修復をさせ同年十月に完成し、徳島堰と命名、これにより多数の新田が開発され、今日に至っています。現在の堰は農林省によって改良工事が加えられた。
【徳島堰由来】
この堰は古くから日本三大堰(柳川堰、箱根堰、徳島堰)中随一と言われています。三百三十年前、江戸の住人徳島兵左エ門がこの地方の開発を計画し、幕府(甲府藩)の許しを得て、寛文五年(1665)工事を始め、同七年に上円井(韮崎市円野町)より曲輪田の大輪沢(櫛形町)まで約17Kmの堰を造りましたが、何故か兵左エ門は同年秋工事から手を引きました。その後甲府藩では有野村(白根町)の郷土矢崎又右エ門等に命じて全区間の不良箇所の修復をさせ同十年に完成したので、この堰を徳島堰と名付け兵左エ門の功をたたえましたが、又右エ門は工事に私財を使い果たして生活は困窮しました。
当初約350haの耕地はその後増加し水路は老朽化したので、昭和四十一年より九年の歳月と、
億五千万円の巨費を投じて農林省によって改良工事が行われ、昭和四十九年に完成しました。現在、毎秒7.93m3の水が自動的に流れ、田1559ha、畑2052haの沃野がこの堰の恩恵をうけています。 -
国道から分岐道を入戸野集落に向けて歩く。
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石垣上にあったのは豪壮な長屋門でした
すると堂々たるなまこ壁を有する玄関入口門に遭遇。屋敷への入口。このような立派な一軒家が古道沿いにあります。 -
【七里岩】
八ヶ岳泥流と呼ばれる火砕流が形成した台地で、南側に釜無川、東側に塩川が流れ、それぞれ侵食崖を形成。釜無川の侵食により形成された、川沿いに連なる高さ10mから40mの断崖のことを指す。この断崖は国道20号から見ることができる。
七里程連なっています。
七里岩は太古に富士山程の高さがあった八ケ岳が大噴火し、八ケ岳泥流と呼ばれる火砕流が一帯に堆積しました、これを釜無川が浸食して出来上がったもの。
《七里岩》
八ヶ岳泥流と呼ばれる火砕流が形成した台地であり、南側には釜無川、東側には塩川が流れ、それぞれ侵食崖を形成している。狭義には、釜無川の侵食により形成された、川沿いに連なる高さ10mから40mの断崖のことを指す。この断崖は国道20号から見ることができる。南北の長さが30km(約7里)にも及ぶので、七里岩という美称がつけられたとされる。なお、正式には「しちりいわ」であり、台地の形が舌状であり「韮」の葉に似ているので、その先端部のある地域を「韮崎」として、韮崎市の地名発祥のひとつになったとされる。台地北部は、八ヶ岳からの湧水により水利にとても恵まれており、江戸時代には、甲斐国の中でも有数の米生産地であった。小淵沢町、長坂町、大泉町および高根町は、その町域のほとんどがこの台地の上に存在する。中央本線や中央自動車道は 韮崎市を過ぎるとこの台地へとのぼり、長野県へと通じている。台地の崖下を流れる釜無川と塩川には、それぞれ平行して甲州街道と佐久甲州往還が走っていた。現在では、それぞれ国道20号と国道141号に相当する。近世においては、逸見路(へみじ)や信州往還(甲州街道原路)、信玄の棒道といった交通手段が存在し、それぞれ甲府から信州までの道を結んでいた。なお、信州往還は、現在の長野県道・山梨県道17号茅野北杜韮崎線(七里岩ライン)に相当する。(Wikipedia) -
【徳島堰の由来説明】
この堰は、日本三大堰(柳川堰、箱根堰)随一、江戸商人”徳島兵左衛門が身延詣での際、この地の荒野に憂い幕府甲府藩の許可を得て寛文五年(1665年)工事着手、その後矢崎又右衛門にひきつぎ完成した。 -
妙浄寺の入口に建つ石碑
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【妙浄寺】
徳島堰を造った徳島翁の墓がある日蓮宗清水山妙浄寺です。
南無妙法蓮華経と刻まれた題目碑の脇の石段を登ると妙浄寺の本堂があります。
本堂脇の奥に高島翁と妻の墓があります、その脇には徳島翁供養塔があります。
翁は堰開削にあたり、深川の法華山浄心寺第二世日通上人の開眼による七面大明神をその守護神としました。
夫の死後、妻は出家し妙浄尼と号し、夫の菩提を弔いました。
【清水山妙浄寺 縁起】
当妙浄寺は、万治年間より三百五十年余年前、江戸深川の人で豊臣方の残党と云はれる徳嶋兵左ヱ門俊正が、当地に来たりて、水利事情が悪く、農耕を困難している釜無川右岸地帯の農民をしのび、灌漑用水堰の開発を計画され、其の完成を祈念して江戸深川(今の東京都)法華山浄心寺第二世日通上人の開眼に成る、立像の七面大明神を勧請して堰の守護神として建立し、現在でも徳嶋祈願所として祈祷が奉行されている、他にない祈祷寺で身延直末寺院です。
徳嶋堰は当円野町上円井、妙浄寺正面釜無川取水口より、延長四里半(18km)白根町曲輪田新田迄で、其の灌漑面積は一千町歩(一千ヘクタール)近くある、規模と云い其の事業の成績と云い、本県に於て最もすぐれた用水堰です。
徳嶋兵左ヱ門俊正翁は工事の途中、諸事情から幕府の圧政にあい、この地を去り妻女妙浄尼に其の総てを委ねたので、当時の身延山法主日莚上人より妙浄寺の名称を賜る。
本堂には当時勧請の七面大明神が安置され、末法総鎮守願満七面大明神と称せられ霊験顕著を以って知られ、遠近信徒の深い信仰を集めている。
又、境内には徳嶋兵左ヱ門俊正夫妻の墓所、鐘楼堂及び大顕彰碑が現存し翁への深い尊敬と感謝が払はれている。
清水山妙浄寺十九世荻原日尭記之 -
寺の境内から下の集落と水田を望む。後方は七里岩。
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【徳嶋兵左衛門の墓】
この徳島堰は、江戸深川の人「徳嶋兵左衛門」により、上円井(韮崎市)から富士川舟運の起点、鰍沢(南巨摩郡鰍沢町)までの水路を開削し、荒地の新田開発と甲信駿河三国(現在の山梨県、長野県、静岡県)を舟運で結ぶという、遠大な構想から計画され、今から約340年前の1665年(寛文5年)2月に兵左衛門の私財により工事が始められました。この【徳嶋兵左衛門の墓】です。 -
【明治天皇小休所・内藤家】
上円井集落に建つなまこ壁の住宅。優美にして且つ貫録がある日本建築です。
内藤家の堂々としたなまこ壁の長屋門です。
敷地内には、庭に明治天皇圓野御小休所碑があり、明治天皇は 明治13年(1880年)巡行の際に、ここ内藤家で休息しました。 -
上円井集落に建つなまこ壁の住宅。優美にして且つ貫録がある日本建築です。
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