2014/09/12 - 2014/09/14
15位(同エリア197件中)
のまどさん
デルフトは私にとってオランダの原風景とも言える好きな場所です。運河の流れる古い町並みはどこも美しいです。
今回は黄金時代の巨匠フェルメールに焦点を当て、前半は国立博物館・マウリッツハウスの展示品から歴史背景とフェルメールの画風に迫り、後半は『デルフトの眺望』から彼の生涯を追いながらそのほとんどを過ごした町を歩いてみます。
9月の中旬はオランダ・ベルギーでオープン・モニュメントデーという催しがあり、色々な施設が無料で公開されています。
<参考資料>
http://www.essentialvermeer.com/index.html#.VB2N-03lpMs
Renzo Villa 'Vermeer: the complete works'
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- グルメ
- 4.0
- ショッピング
- 4.0
- 交通
- 5.0
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
アムステルダムの国立博物館。まずはこちらで展示されている絵画からフェルメールが生きた時代背景を追いたいと思います。
ちなみに訪問したのは初めてで、5時間ほど見学しましたが足りませんでした。 -
『魂の漁獲(拙訳)』(De Zielenvisserij)
17世紀はオランダの黄金時代と呼ばれています。
16世紀オランダはスペインの統治下にありました。フェリペ2世が課した重税とプロテスタントの弾圧が独立運動に火を付け、戦争へと発展していきます。1609年にスペインが独立を承認し、1648年に国際的に承認されました。 -
オランダ独立戦争は何と80年も続きました。その最中、造船技術を向上させたオランダは世界の海へと繰り出し、東インド会社を設立するなど中継貿易で利益を上げていきます。
写真は東インド会社の商品。VOCが社章。 -
特別展示室の船の模型。
この時代の航海は危険なものでした。難破したオランダ船が幽霊船となって海上に現れたというのがフライング・ダッチマン伝説です。この「空飛ぶオランダ人」は21世紀の今日でも時折甦るようです。例えば↓
http://matome.naver.jp/odai/2140273401615846201
http://megalodon.jp/2014-0917-1722-31/matome.naver.jp/odai/2140273401615846201 (魚拓) -
出島から江戸までラクダを搬送する紅毛人の絵。
鎖国政策の江戸幕府と唯一交易が許された欧州国オランダ。三浦按針ことウィリアム・アダムスや八重洲の由来になったヤン・ヨーステンが乗ったリーフデ号が現在の大分県に漂着したのは1600年。オランダ商人が駐留した出島が完成したのは1640年。その間本国は戦時下。
誕生間もない国家がイギリスに駆逐されるまで海上で優位に立ち、欧州の貿易を掌握したのは驚愕の事実です。 -
レンブラント『夜警』
国立博物館の主役と言っていいでしょう。黄金時代を象徴する二大画家、フェルメールとレンブラント。ともに光の使い方が革新的ですが、画風は対照的です。
フェルメールの作品は比較的小さなキャンバスの中に描かれていて、現在判明している作品37点すべて並べてもこの『夜警』を埋めることはできないようです。 -
国立博物館に所蔵されているフェルメール作品は
『恋文』(De Liefdesbrief) 1667-1670年
楽器を演奏する手を止めて、緊張の面持ちで召使から手紙を受け取る高貴な女性。フェルメール作品の小さな空間には家具や調度、小物に至るまで当時の市民の生活が存分に描かれています。 -
『手紙を読む青い服の女』(Brieflezende Vrouw in het Blauw) 1662-1665年
起床直後にガウンを羽織って手紙を熟読する若い女性。手紙は当時のオランダ人画家の作品に頻繁に登場し、恋を暗示するようです。 -
『牛乳を注ぐ女』(De Melkmeid) 1658-1661年
「隠しカメラを仕込んだ」ようにフェルメールは人の動きの瞬間を捉えています。画面いっぱい静謐である一方、かめから注がれる一筋の牛乳は今にもいや現に器に落ちているように見えます。
ダリがフェルメールの影響を受けたというのも納得できます。 -
続いてハーグにあるマウリッツハウス所蔵作品を見てみましょう。
日本から来訪者がある場合、午前中にこの美術館を見学し、ハーグでの昼食後にデルフトに移動するという行程を組みます。(←エセガイド)マウリッツハイス美術館 博物館・美術館・ギャラリー
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『ダイアナと精霊たち』(Diana en haar Nimfen) 1653-1656年
フェルメール21歳の時の作品です。月の女神ダイアナ(アルテミス)が人間の姿になって狩りをするというギリシア神話が元になっていますが、この絵の登場人物は上品な等身大の女性たちです。 -
『真珠の耳飾りの少女』(Meisje met de Parel) 1665-1667年
マウリッツハウスの目玉はこの北方のモナリザでしょう。背景は闇なのにどこから光が差しているのかと夢のないことは考えず、瞳と少し開いた唇、真珠に当たった光が少女の無垢な美しさを引き立てています。
歴史小説を元にした同名の映画がありますが、ラストシーンのスカーレット・ヨハンソンはこの絵にかなり近づきます。
http://www.youtube.com/watch?v=FUPKFkdJf9w
少女の眉が描かれていないので髪の色の薄い西洋人が同じ格好をすればある程度似てきますが。ちなみに武井咲も挑戦していますが、こちらは若い東洋人のシスターにしか見えません。 -
上の絵はしばしば『青いターバンの少女』とも呼ばれますが、トルコ風のターバンを描くのは当時流行していたようです。しかし、青色をこれほどふんだんに使った画家は珍しいです。というのも青の顔料はアフガニスタン周辺で取れるラピスラズリを原料としていたため極めて高価でした。
写真はハーグのラピスラズリ宝飾店。 -
耳飾りの少女と同じ部屋の対面に展示されているのが今日の一枚。
『デルフトの眺望』(Gezicht op Delft) 1660-1661年
室内の人物を描き続けたフェルメールにしては珍しい風景画。参考サイトによると彼のパトロンであった市議会議員ヴァン・ラウヴェンがデルフト市の名声を高めるべく依頼したようです。
中央左側のスキーダム門の時計が差す時刻は7時。川の水面で建物の反映が揺れていることから朝の風が強いことが分かります。絵の上半分は空、手前の黒い雲からもうじき雨が降りそうな気配です。 -
電車に乗ってデルフトにやってきました。私が好きなテレビ番組「美の巨人たち」ではフェルメールについて必ず「その生涯のほとんどをデルフトの半径500メートル以内で過ごした」と紹介されます。
駅を背に右手に進み道路を渡ったHooikadeの辺りでデルフトの眺望は描かれたと言われています。現在は見晴らし台が設置されています。
354年前にこの場所に巨匠が立っていたと考えると背筋が伸びます。
運河の形はそのまま、そして何と言っても雲。この日は晴れましたが、晴れ間が少ないのは当時と変わりません。残念ながら絵の中の建物のうち新教会しか現存していません。そして、手前左手の川岸で立ち話をする二人の女性と同位置にゴミ箱!憎い演出、ではなくてもう少し左に設置して下さい。 -
Hooikadeを南下し、最初の橋を渡って道なりに進むとロイヤルデルフトの工場があります。道路に表示がないので分かりにくかったです。
今回日本から頼まれてここでカップを買ったのですが、マルクト広場の陶器店の店員曰く安いものは中国で作られ、絵付けだけデルフトだそうです。なるほど、表示が「Handpainted in Delft」である訳です。
職人が当地で作ったティーカップは70-80ユーロ。しかも、厚めで重いです。ロイヤルデルフト 建造物
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町の方角、北の方に戻り、運河沿い今度は東に向かって歩きます。三つの運河の合流地点にあるのが東門(Oostpoort)。悠久の時間を感じられる場所です。
当初ここがデルフトの眺望の舞台かと思いましたが、絵の中右手の門はロッテルダム門もしくは南門で今はありません。更にここからランドマークである新教会の塔は絵と同じような高さで見えません。 -
東門裏から。現存する唯一の門。
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振り返ると新教会。過去の写真を見た所、私はデルフトに来る度に同じ場所で同じ写真を撮っていることが分かりました。(笑)
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デルフトにはどこでも絵になる風景があります。
木靴にデルフト柄のベンチと植木鉢、道行く人へのオランダ流おもてなし。一休みするのは問題ありません。
宗教上の理由でオランダの家の窓は大きく作られているので、夕方住宅街を散歩するのは楽しいです。ただし覗き見たり正面から写真を撮るのはご法度。 -
オランダ名物驚異の路上駐車。
アムステルダムでは毎年100台以上が運河に落ちてクレーンで吊り上げられるようです。ガードレールを設置する方がコスト安だと思うのですが、そうしない理由も何となく察しがつきます。 -
フェルメールゆかりの地点にはこのようなキューブが立っています。が、場所の説明はなく、専ら作品についての説明です。
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恐らくは観光案内所で売られている地図の売上増加を目的にキューブに詳細な説明がないのでしょう。地図の日本語とオランダ語版を見せてもらいましたが、自分の事前調査と内容が変わらなかったので、2ユーロの価値はないと判断しました。
今回参考にしたのは地球の歩き方サイト。
http://www.arukikata.co.jp/webmag/nl_art/vermeer/ashiato/ -
飲食店が並ぶ広場Beestenmarktに面するのは「ナッサウ屋敷」と呼ばれていたフェルメールの父親の実家。祖父は「3つの金槌亭」という居酒屋をここで経営していました。現在はコープハンデルというホテルになっています。
Hotel de Koophandel ホテル
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1632年ヨハネス・フェルメールはVoldersgracht通り25番にあった「空飛ぶキツネ」宿でこの世に生を受けました。キツネは父親の愛称だったようです。現在ここは歯科医院になっています。
この年独立戦争の最終局面であるリュッツェンの戦いが始まります。またオランダの哲学者スピノザも同年の生まれです。日本で何が起こったか調べた所、日本橋と京橋が完成したのがこの頃のようです。
http://www.kanko-chiyoda.jp/tabid/1616/Default.aspx -
フェルメールの母親はアントワープから逃れてきた文盲のプロテスタントで、フェルメールは新教会で洗礼を受けヤンというミドルネームを授かりました。
デルフト新教会 寺院・教会
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新教会の前には同郷でほぼ同時代に生きた国際法学者グロティウスの像が立っています。(なぜかエラスムスだと思い込んでいて、危うく間違えるところだった)
中に入ってみましょう。…がーん、日曜日はお休み(←ガイド失格)。。。前は入れたと思ったんだけどな。ということで過去の写真でチートします。 -
新教会は1496年に完成しました。独立運動の盟主となりデルフトで暗殺されたオラニエ公が埋葬されて以来、現在の王室であるオラニエ家の代々の先祖はここで眠っています。
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塔は109メートルでユトレヒトのドム・トールンと同じ設計者です。階段が狭いので人がすれ違うことはできません。足音が聞こえたら近くの出窓や踊り場で待機し、行きかう人を待ちます。(写真がなくて残念)
平均身長のオランダ人(≒185センチ)が天井に頭をぶつけるのを何度も見たことがあります。その度にみんな気が利いた言葉を発するので感心します。(←楽しむものではない)
この塔に上るのは良い運動になります。 -
最初に塔の上に来た時、感涙溢れた。どこまでも広がる平地に「世界は神が創ったが、オランダはオランダ人が創った」という言葉の意味を痛感した。
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塔を下りてマルクト広場に戻ります。
こんな写真を撮っている我々の背後にフェルメール生誕の石碑があるとは。迂闊にも見過ごしていました・・・ただし、フェルメールは前述キツネ宿で生まれたので誤りです。
この場所には父親が経営するメヘレン宿があり、フェルメールは9歳から結婚するまでここで過ごしました。父親の職業は公証人役場では絹織職人と登録されていましたが、宿を経営し画商もしていたようです(←あやしい)。 -
この建物はフェルメールとどう関連があるのか謎。
フェルメールは父親の扱う絵画を見て目を肥やしていったようです。15歳の時から6年間ある画家に師事したようですが、画家が誰なのかは分かっていません。 -
21歳の時弁護士の仲立ちで貴族の娘カタリーナと見合い結婚をします。彼女の実家が敬虔なカトリック教徒であり、異教徒同士の結婚は許されなかったためフェルメールは改宗しました。
彼の両親は熱心なプロテスタントでしたが、自身に信仰心は薄く、裕福な義理の母から経済的な支援を受けるための選択だったようです。つまりフェルメールはマスオさん。
このデルフト市庁舎で婚姻届を提出しました。 -
この日はオープンデーだったので、市庁舎の中に入れました。市長さんもいました。こちらは市議会室。カーペットはデルフト焼きの模様。
二人の婚礼はカトリックに縁のある郊外の小さな村で執り行われました。 -
駆け出しの画家に家賃が払えなかったため、二人は義母マリアの家に入居しました。現在教会になっているこの場所にその家があったようです。
カタリーナの実家では父と兄が家庭内暴力を奮っていたためマリアは当初結婚に懐疑的でしたが、フェルメールの人柄をかい結婚後は惜しみなく支援しました。
フェルメールが作品の完成までに時間を費やし、作品の数が少ない理由は彼が父親の家業であった宿経営と画商を継ぎ、その合間にしか絵を描く時間がなかったからだと言われます。 -
結婚した年の暮れ、父親も属していた聖ルカ・ギルドに加入します。芸術家の組合兼所属事務所と言ったところでしょうか。入会料6ギルダーはフェルメールについては免除されました。ギルドの跡は現在フェルメール・センターになっています。
フェルメール センター 博物館・美術館・ギャラリー
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デルフトの眺望の他にもう1点フェルメールの風景画があります。国立博物館所蔵の
『小路』(Het Straatje) 1657-1661年
曇天の恐らく午後、レンガ造りの民家の玄関で縫物をする老女、道端で遊ぶ子供たち、裏で掃き掃除をする主婦。日常の風景です。 -
この絵の舞台については2説あります。
①Oude Langendijk通り 22-26番
当時デルフトはオランダの玄関港ロッテルダムとの直通運河が開通したこと、東インド会社の拠点が置かれたことで物流が盛んになりました。更に、新教会のオラニエ公の墓を遠方から訪ねる者が増えたため早くも観光地になっていました。 -
②De Vlouw通り(番地不明)
ところが衝撃的な事件が起きます。1654年火薬の爆発でデルフトは大火事に見舞われ、死傷者は数千人に上ったようです。 -
その中でモデルとなった家も焼けてしまったと考えられます。フェルメールが小路を描いたのは失われた過去への回想かもしれません。
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ギルドのマスターに昇格し収入も増えていきましたが、晩年は仏蘭戦争が勃発し(←懲りずにまた戦争)、絵画市場も下落していきました。そして急病を患い、1675年43歳の若さで生涯を閉じました。
遺されたのは11人の子どもたちと多額の借金。
彼が埋葬された旧教会の塔は当時から傾いています。 -
この中にフェルメールの石碑があるようなんですが・・・代わりにステンドグラス。
彼の死の前年大西洋の向こう側ではニュー・アムステルダムがイギリスに委譲されました。現在のニューヨークです。オランダ黄金時代の終焉と大英帝国の台頭の布石になる出来事です。旧教会 寺院・教会
-
教会の中には入れませんでしたが、この週末はオープン・モニュメントデーでオランダ全国の施設が無料で公開されていました。(ただし、国立博物館などの大物施設は対象外)
http://www.openmonumentendag.nl/open-monumentendag-english-summary/ (英語)
治水局(Gemeenlandshuis)の前で仮装している人や -
馬車のパレードも見られたので得した気分になりました。
オランダを旅行することはあまりないので、もう少しだけ書かせて下さい。私はオランダとベルギー両方に居住経験があるので、オランダの方が観光客にやさしいと思う点をまとめたいと思います。 -
①交通機関のダイヤが整っている
あくまで対ベルギー比です。
②公共施設が清潔
女王の日などトリッピーな状態は除きます。 -
頭のてっぺんからつま先まで100%オランダ人の警官。
③困っていると声を助けてくれる人が断然多い
勇気あるボランティア精神です。 -
錦織圭ばりのスタンスでなぜか路駐の自転車を激写する少年。
④英語が通じやすい
TOEFLなどのテストでオランダは常にトップ5。しかもスピーチ力に長けている。ただし、北欧人に比べたらやや訛りが強い。 -
アムステルダムの土産屋。木靴が鈴なり。
⑤売り込みがうまい
風車、チューリップ、木靴など、ベルギーと比べるとオランダの方が圧倒的にイメージが膨らむと思います。
小物のお土産はオランダで買うことをお勧めします。ただし、食べ物は譲れません。ということで -
オランダでは小腹が空いた時にスタンドや魚屋で売られているニシン(Maatjes)と自販機で販売されている牛肉コロッケ(Rundvleeskroket)をお試し下さい。自販機はお釣りが来ないのでご注意を。
ただそれ以外の食べ物は…オランダは「微」食の国と巷で呼ばれています。
なので、グルメ探訪は是非美食の国ベルギーで!もともと同じ国で両方小さいので、1週間あれば主要都市は回れます。ヨーロッパは南下した方が食べ物の印象で有終の美を飾れると思います。
思い入れのあるオランダの旅行記、いつにも増して長文になってしまいました。最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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