2010/01/04 - 2010/01/04
8710位(同エリア17008件中)
Giraudさん
- GiraudさんTOP
- 旅行記89冊
- クチコミ0件
- Q&A回答0件
- 386,236アクセス
- フォロワー4人
ルーヴル美術館の絵画から、おもに古典主義・新古典主義の作品のまとめ。神話や古代史等を題材にした写実的、劇的な作風が特徴です。一部オルセー美術館の作品を含みます。
-
シャルル・メリン
『ローマの慈善』
Charles MELLIN
"La Charite romaine"
(1627年)
ローマ人のキモン(シモン)は罪を犯して投獄され、餓死の刑を宣告されます。しかし娘のペロは父の命を救うため、面会に来るたびに密かに母乳を与えていました。
ペロの行いはやがて発覚しますが、感動したローマ人はキモンを無罪放免にしました。 -
ニコラ・プッサン
『サビニの女たちの略奪』
Nicolas POUSSIN
"L'Enlevement des Sabines"
(1633-1634年)
前8世紀、建国されたばかりで女性人口の少なかったローマは、隣国のサビニ人を祭りに招待して、初代の王ロムルスの号令の下、娘たちを力づくで略奪します。 -
ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル
『アクロンに勝利して、戦利品の宝物をユピテル神殿に運ぶロムルス』
Jean-Auguste-Dominique INGRES
"Romulus, vainqueur d’Acron, porte les depouilles opimes au temple de Jupiter"
(1812年)
サビニの女の略奪というローマ人の暴挙に、カエニナの王アクロンが義憤から参戦します。ローマ史上初となる対外戦争でアクロンを返り討ちにした建国王ロムルスは、切り倒した木に奪った鎧や武器を吊り下げて戦勝記念碑とし、これまたローマ史上初となる凱旋行進を始めました。 -
ジャック=ルイ・ダヴィッド
『サビニの女たち』
Jacques-Louis DAVID
"Les Sabines"
(1799年)
娘たちを略奪されたサビニ人は、本格的な対ローマ戦争に突入します。のちのフォロ・ロマーノとなる谷間で両軍がついに対決の時を迎えたとき、戦場に割って入ったのは今やローマ人の妻となり、母ともなった当のサビニの娘たちでした。
画面左で腰砕けになっているのがサビニの王タティウス。画面右で円盾を持ち、槍を構えているのがローマの建国王ロムルス。そして両手を広げて二人を止めている白衣の女性が、タティウスの娘でありロムルスの妻となったヘルシリアです。 -
グエルチーノ
『ロムルスとタティウスを引き離すヘルシリア』
GUERCHIN
"Hersilie separant Romulus et Tatius"
(1645年) -
ニコラ・プッサン
『幼いピュロス王の救出』
Nicolas POUSSIN
"Le Jeune Pyrrhus sauve"
(1634年)
アレクサンドロス、ハンニバルと並ぶ古代ギリシアの天才戦術家ピュロス(前319年〜前272年)は、エピロスの王子としてまだ2歳だったとき、叛徒に命を狙われたことがありました。父の支持者たちは幼いピュロスを抱いてメガラの街まで逃げますが、そこに敵が迫ってきたため、投石で応戦します。 -
ニコラ・プッサン
『ファレリの教師を生徒らに引き渡すカミルス』
Nicolas POUSSIN
"Camille livre le maitre d'ecole de Faleries a ses ecoliers"
(1637年)
ローマ第2の建国者と呼ばれるカミルスを描いた作品。
前395年、司令官としてエトルリア人の都市ファレリを包囲していたカミルスのもとに、有力者の子弟を預かっていた教師が現れ、子供たちを人質として差し出すので自分だけは助けてほしいと交渉します。カミルスは教師を縛り上げ、子供たちに鞭で打たせて街に追い返しました。 -
ウスターシュ・ル・シュウール
『コリオラヌスの前のウォルムニアとウェトゥリア』
Eustache LE SUEUR
"Volumnie et Veturie devant Coriolan"
(1638-1639年)
前5世紀のローマ貴族コリオラヌスは、母への一途な孝行のため無私で国家に奉仕する歴戦の軍人でしたが、質実剛健すぎる性格が災いして平民に憎まれ、国外追放の処分を受けてしまいます。復讐を誓った彼は宿敵ウォルスキ族に寝返ってローマを窮地に追い込みますが、そこに現れたのは母ウェトゥリアと妻ウォルムニアでした。 -
クロード・ロラン
『タルソスに上陸するクレオパトラ』
Claude LORRAIN
"Le Debarquement de Cleopatre a Tarse"
(1642-1643年)
前42年、カエサルの暗殺者ブルートゥスらをフィリッピの戦いで破ったローマの実力者アントニウスは、敵対勢力に加担していたプトレマイオス朝エジプトの女王クレオパトラを、自分が滞在していた海港都市タルソスに召喚します。
古代史の一場面を描いているのに、帆船はどう見ても大航海時代のもの。昔の歴史画はあまり時代考証にはこだわりません。 -
セバスティアン・ブルドン
『アントニウスとクレオパトラの出会い』
Sebastien BOURDON
"La Rencontre d'Antoine et de Cleopatre"
(1645年)
勝者アントニウスに自国の保護を願い出るため、クレオパトラは腰を低くして謁見に訪れました。しかし女王の巧みな接待攻勢に、粗野な軍人であったアントニウスは逆に籠絡されてしまうことになります。 -
シャルル・ル・ブラン
『グラニコス川の横断』
Charles LE BRUN
"Le Passage du Granique"
(1665年)
幅12m超の大作。
ギリシア全土の覇権を握ったマケドニア王アレクサンドロスは、ついに強敵アケメネス朝ペルシアへの遠征を開始します。初戦となったグラニコス川の戦い(前334年)では、派手な白い羽飾りのある兜を標的にされて窮地に陥りながらも、敵将を倒して勝利を収めました。 -
シャルル・ル・ブラン
『アレクサンドロス大王のバビロン入城』または『アレクサンドロスの勝利』
Charles LE BRUN
"Entree d'Alexandre dans Babylone ou Le triomphe d'Alexandre"
(1665年)
ガウガメラの戦い(前331年)でペルシアの大軍を壊滅させた征服者アレクサンドロスは、空中庭園で知られる都バビロンに象戦車で入城しました。 -
ルイ・ラグルネ
『ダレイオスの妻の死』
Louis LAGRENEE
"La mort de la femme de Darius"
(1785年)
イッソスの戦い(前333年)に勝利したアレクサンドロスは、アケメネス朝ペルシアの王ダレイオス3世の母シシュガンビスと妻スタテイラを捕虜としますが、のちのちまで丁重に扱い、翌年スタテイラが産褥で亡くなったときには、遠征を中断して旧友ヘファイスティオンとともに家族を弔問しました。
それを伝え聞いたダレイオス3世は、もし自分が国を失うとしたら、アレクサンドロスこそが新たな王となるように神に祈ったといわれます。 -
ノエル=ニコラ・コワペル
『正義に振り返るトラヤヌス』
Noel COYPEL
"Trajan Rendant La Justice"
(1672年)
ダキア戦争に出立直前のローマ皇帝トラヤヌス(在位:98年〜117年)のところへ、息子を殺された母親が正義の裁定を求めに現れます。帰国してから応対すると答えた皇帝に、女性は「あなたが戻ってくるとは限りません」と率直に言い放ちました。これを聞いたトラヤヌスは、遠征の準備を後回しにして、彼女の事件の審理に時間を割きました。 -
ルカ・ジョルダーノ
『セネカの死』
Luca GIORDANO
"La Mort de Seneque"
(1684-1685年)
コルドバ出身の哲学者セネカは、師として教えを授けたローマ皇帝ネロ(在位:54年〜68年)から自害を命じられます。弟子たちに翻意を懇願されながらも、セネカは足湯で血の巡りを良くして、手首を切る準備を進めました。 -
ジャン・ジョゼフ・タイヤソン
『セネカの妻パウリーナの蘇生』
Jean Joseph TAILLASSON
"Pauline, femme de Seneque, rappelee a la vie"
(1793年)
哲学者セネカの妻パウリーナは、自害した夫の後を追って自分も死のうとします。しかし皇帝ネロはその報せを聞くと、兵士を急行させて彼女の命は救いました。 -
ジャンバッティスタ・ピットーニ
『スキピオの自制』
Giambattista PITTONI
"La Continence de Scipion"
(1733-1735年)
ローマ史上最高の名将スキピオを描いた作品。
前211年、第二次ポエニ戦争でハンニバルの本拠地スペインの都市カルタゴ・ノヴァ(カルタヘナ)を攻略したスキピオは、兵士たちから捕虜として美しい娘を献上されますが、彼女に婚約者がいることを知ると、持参金を付けて親元に帰してやりました。 -
ジャン=バティスト・グルーズ
『セプティミウス・セウェルスとカラカラ』
Jean Baptiste GREUZE
"Septime Severe et Caracalla"
(1769年)
三分した帝国を再統一したローマ皇帝セプティミウス・セウェルス(在位:193年〜211年)は、晩年カレドニア(スコットランド)に遠征しますが、通風のため歩くこともできない状態でした。長男のカラカラは一刻も早く帝位が欲しくて父の暗殺を謀ります。陰謀を見抜いたセプティミウス・セウェルスは、「統治するのは頭であって、足ではない」と息子を叱責しました。 -
ジャック=ルイ・ダヴィッド
『ホラティウス兄弟の誓い』
Jacques-Louis DAVID
"Le Serment des Horaces"
(1784年)
前7世紀、戦火を交えていたローマとアルバ・ロンガは、互いに三人の戦士に国を代表して決闘させることにしました。ローマからはホラティウス家の三兄弟が志願、自分たちには勝利か死かのいずれかしかないことを父の前で誓います。
画面右では女たちが泣き崩れています。妹のカミッラはアルバ・ロンガ代表の戦士クリアティウス三兄弟の一人と婚約しており、長兄の妻サビーニはそのクリアティウス家から嫁いできたのでした。つまりどちらが勝っても、彼女たちは大切な家族を喪うことになるのです。 -
ジャック=ルイ・ダヴィッド
『施しを受けるベリサリウス』
Jacques-Louis DAVID
"Belisaire demandant l'aumone"
(1784年)
東ローマの名将ベリサリウス(505年〜565年)は、大帝ユスティニアヌスの忠実な軍人として地中海再征服や国土の防衛など何度となく大功を上げましたが、有能であるがゆえに野心を疑われ、戦争が終結するたびに地位を剥奪されるという冷遇を受けていました。
本作は、そのベリサリウスが晩年は目をくり抜かれて乞食にまでなったという伝承に基づく作品。かつての名将の変わり果てた姿に、画面左のローマ兵が大げさなポーズで驚いています。 -
ジャン=サイモン・ベルセレミ
『パリのイングランド支配からの解放』
Jean-Simon BERTHELEMY
"La Reprise de Paris sur les Anglais"
(1787年)
英仏百年戦争の末期、パリは1420年からイングランド軍に占領されていました。しかしジャンヌ・ダルクの出現で戦況は一転。フランス軍は1436年4月13日、ついに首都を奪還しました。
背景にノートルダム大聖堂が見えています。 -
ジャック=ルイ・ダヴィッド
『ブルートゥス邸に息子たちの遺骸を運ぶ刑吏たち』
Jacques-Louis DAVID
"Les Licteurs rapportent a Brutus les corps de ses fils"
(1789年)
前509年、エトルリア人の専制王を追放して共和政に移行したばかりのローマで、若者たちによる政権転覆の陰謀が発覚します。逮捕された首謀者には、初代執政官ブルートゥスの二人の息子も含まれていました。王政打倒の功労者の心情をおもんばかり、市民は寛大な処置を求めますが、ブルートゥスは毅然として斬首を宣告しました。 -
フランソワ=アンドレ・ヴァンサン
『ゼウクシスとクロトンの娘たち』
Francois-Andre VINCENT
"Zeuxis et les filles de Crotone"
(1789年)
前5世紀のギリシアの天才画家ゼウクシスは、あるときクロトンの神殿に飾る女神ヘレネの絵の製作を依頼されました。並の人間をモデルにしては女神の姿は表せないと考えた彼は、街の娘から5人を選び、それぞれの美しい部分だけを抜き出して作品を完成させました。 -
ジョセフ=ブノワ・シュヴァ
『グラックス兄弟の母コルネリア』
Joseph-Benoit SUVEE
"Cornelie, mere des Gracques"
(1795年)
ローマの英雄スキピオの娘であるコルネリア(前190年〜前100年)は、名門貴族の一員でありながら、いつも質素な身なりをしていました。あるときカンパニア出身の知人から自慢の宝飾品をひけらかされ、「あなたが持っている宝石も披露してほしい」と言われたコルネリアが見せたのは、女手ひとつで育てている二人の息子の姿でした。 -
ピエール=ナルシス・ゲラン
『マルクス・セクストゥスの帰還』
Baron Pierre-Narcisse GUERIN
"Le Retour de Marcus Sextus"
(1799年)
前1世紀、ローマの終身独裁官スッラによる追放からようやく帰還したマルクス・セクストゥスが見たのは、妻の遺体と泣き崩れている娘の姿でした。
時代背景は史実を基にしていますが、登場人物は架空のもの。 -
ウジェーヌ・ドラクロワ
『サルダナパールの死』
Eugene DELACROIX
"Mort de Sardanapale"
(1827年)
前7世紀、アッシリアの伝説の王サルダナパール(サルダナパロス)は、反乱によって命運が尽きたことを悟ると、奴隷たちに命じて財宝を破壊、大勢の寵姫や愛馬を皆殺しにさせ、自分は純金の象に支えられた寝台から悠然とその光景を眺めていました。 -
ギヨーム・ギヨン・ルティエール
『ウェルギニアの死』
Guillaume Guillon Lethiere
"la Mort de Virginie"
(1828年)
前5世紀、ローマの十人委員会の長アッピウス・クラウディウスは、平民の娘ウェルギニアを愛人にしようとして拒絶されたため、彼女は実は自分の奴隷の子=自分に所有権がある、という訴訟を起こします。戦地にいた父のウェルギニウスがローマに帰還すると、裁判は名門貴族のアッピウス・クラウディウスに有利に進んでいました。ウェルギニウスは「おまえの自由を守るには、こうするしかない」と叫んで娘を刺し殺し、血に染まった短剣を掲げてアッピウス・クラウディウスに詰め寄りました。 -
アレクサンドル・ヘッセ
『ティツィアーノの葬儀』
Alexandre HESSE
"Honneurs funebres rendus au Titien, mort a Venise pendant la peste de 1576"
(1832年)
1576年にペストで亡くなったヴェネツィアの画家ティツィアーノの葬儀の場面。
背景にドゥカーレ宮殿やサン・マルコ寺院が見えています。 -
トマ・クチュール
『退廃期のローマ人たち』
Thomas Couture
"Romains de la decadence"
(1847年)
オルセー美術館の作品。幅7.7m×高さ4.7mの大作。
1世紀の風刺詩人ユウェナリスの詩の一節、「戦争よりも残酷な悪徳がローマを覆い、征服した世界からの復讐を受ける」に着想を得て描かれました。
ユウェナリスは「パンとサーカス」の言葉でも有名。 -
ウジェーヌ・ドラクロワ
『十字軍のコンスタンティノポリス占拠』
Eugene DELACROIX
"Prise de Constantinople par les Croises "
(1852年)
1204年、アイユーブ朝の都カイロ攻略に出発したはずの第4回十字軍は、紆余曲折の末、同じキリスト教国であるビザンティン帝国の首都コンスタンティノポリスを征服します。のちにラテン帝国皇帝となるフランドル伯ボードゥアン9世に、老人や女性が慈悲を願っていますが、兵士たちは暴虐の限りを尽くしました。 -
ジュール=エリー・ドローネー
『ローマのペスト』
Jules-Elie Delaunay
"Peste a Rome"
(1869年)
オルセー美術館の作品。
1476年、ローマはペストの猛威に襲われました。遺体が積み重なる街中に死の天使が現れ、次なる犠牲者がいる扉口を指し示します。
背景には、現在はカピトリーニ美術館にあるマルクス・アウレリウスの騎馬像が描かれています。 -
アンリ・ルニョー
『ムーア王支配下のグラナダでの裁判抜きの処刑』
Henri Regnault
"Execution sans jugement sous les rois maures de Grenade"
(1870年)
オルセー美術館の作品。
1492年までイスラム教徒(ムーア人)が支配していたスペインの都市グラナダで起きたとされる惨劇を描いています。
舞台背景はアルハンブラ宮殿。
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
パリ(フランス) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
32