2014/02/17 - 2014/02/21
18070位(同エリア28830件中)
明石DSさん
旅樂序旅館の1011号室、窓なく朝食なくバスタブなし
ビジネスホテル、台北駅傍、便利、部屋綺麗
不満はない
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宜蘭・基隆・台北を訪ねる
2014:平成26年2月17日(月)〜2月21日(金)
4泊5日
5日目:2月21日(金):曇り
台北〜帰国
2014/平成26年2月21日(金)
■台北の朝
「旅樂序旅館・Hotel Relax リラックスホテル」で台北の朝を迎えたが、この部屋は窓もなく朝食もないし、荷物を片付け早々に退房して桃園空港行きのバスターミナルに向かう。
コインロッカーにリュックを預け、今日の台北観光の始まりとなる。
桃園空港行きの台北駅バスターミナル(國光客運台北西站A棟)は、台北駅の西側、忠孝西路一段沿いにある。住所は「台北市 中正區 忠孝西路一段171號」。
ちなみに「 西站B棟」は、台湾中南部へ行くバスターミナル。
桃園空港へのバス搭乗口は「5」、國光客運バス。それを確認して切符も買った。料金は¥125元。時間はまだ午前7時18分。
- 旅行の満足度
- 5.0
-
7時前に退房
バスターミナルのコインロッカーにリュックを預け
今日の午後初めてバスで空港へ
桃園飛行場までのバスを確認
ついでに切符も買った¥125元 -
桃園飛行場行きは:國光客運台北西站A棟「5」
B棟は台湾中南部方面行き
MM 28台北(タイペイ)/桃園国際空港/18:50発
2時間前に空港に、ならば16時頃までにここへ
これで帰国準備は万全、これから台北散策に出発 -
総統府に向かって歩く
「地球村・美日語」
日本語学習が英語とともに需要がある
台湾も大多数派、本省人が政財官メディアを手中にしなければ明日はない
残念ながら戦後日本も“なりすまし日本人”に乗っ取られてしまっている
日台共に真の日本人・真の台湾人(本省人)の奮起がなければ共に未来はない
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■総統府に向かって歩く
外に出て「地球村・美日語」「coco一番屋」の看板を見ながら総統府に向かって歩く。途中「臺灣土地銀行」を見て、この重厚なる外観は日本統治時代の建物だろうと立ち止まり写真撮影。
住所:台北市中正区台北市館前路46號。やっぱりこの建物は竣工が1933/昭和8年とのこと。
昨日の基隆港の「海港大樓」より一歳年上の今年81歳、ならまだ若い。詳しくは「旅々台北:土地銀行(旧日本勧業銀行 台北支店)」に説明がある。
http://www.tabitabi-taipei.com/more/2005/0509/
そして國立台湾博物館に到着は午前7時33分なり。まだ開いていないので、そのまま続きの「二二八和平公園(旧台北新公園)」へと歩く。そうかこれが二二八和平公園か。二・二八事件は日本の敗戦伴い進駐してきた国民党軍が1947年2月28日の事件をきっかけに2万8千人ともいわれる台湾本省人を虐殺した事件。
この公園も事件の中心となった場所で、二二八紀念館は台湾ラジオ放送局(旧台湾放送協会本部)で、事件勃発後中華民国の統治に反対した台湾本省人がこの放送局を占拠し台湾全土に向けて台北での蜂起を告げた。公園内にはその他、紀念モニュメントや紀念鐘、銅馬、そして台中公園とここと二つしかないスピーカーの入った放送台もあった。
公園のアチコチでは、音楽に合わせて体操やダンスをしたり太極拳を楽しんだり、ジョギングする人など他と同じ風景がある。まだ時間が午前8時にもならないので紀念館も入れないし、今日最大の目的でもある総督府に向かった。 -
臺灣土地銀行
1933/昭和8年竣工
建物は人格を示す -
國立台湾博物館
1908/明治41年「玉総督後藤民政長官記念館」
1909/明治42年「台湾総督府博物館」
1915/大正4年野村一郎設計による現在の建物が完成
19494年「台湾省立博物館」
1999年「國立台湾博物館」となり現在に至る
只今外壁工事中 -
黄氏節孝坊(牌坊)
『16歳で富豪の王家霖に嫁ぎ、28歳の若さで夫を失ったあと
ずっと貞節を守り続けた黄氏をたたえて
1882年に息子の黄天錫の手により作られたもの』
ふ〜ん・・・としか -
二二八和平公園(旧台北新公園)
午前7時40分、体操している人達
『1947年に発生した二二八事件を記念し
1996年に現在の名前に改名されました』
1996年李登輝、初めての総統直接選挙当選
なるほどそれで二二八の名前が付いたのか -
臺灣廣播電臺放送亭
日本時代は台北、板橋、台中
嘉義、台南、花蓮に放送局があった
この石燈籠のようなスピーカーは
台中公園にもある形はちょっと違う -
台中公園の臺灣廣播電台
2013/平成25年10月27日15:38分撮影
これは台中・台北の二つだけ -
二二八祈念碑
事件は1947/昭和22年2月28日から始まった
半世紀に及ぶ日本統治下で過ごした台湾人は
陳儀以下、外省人の残虐性と卑劣さを見抜けず
本省人は国民党軍の軍事力を持って制圧された -
中華民國総統府へ向かう
二二八和平公園の南東角にある二二八紀念館
この時、午前7時46分
この前でも輪になって体操をしていた
?後からこの紀念館に入る
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■中華民國総統府へ向かう
二二八和平公園の南東角にある二二八紀念館の前を通って「凱達格蘭大道(ケタガラン大通り・Kǎi dá gé lán dàdào カイダグァランダァダオ」に出たら右手、西方向正面に総督府がどっしりと構えている。
1919/大正8年完成。設計は日本初の正式コンペで長野宇平治の基本デザインが一応採用となったが、その時の設計では中央の塔が低いので60mと高くしたり、森山松之助など総督府営繕課所厲の建築家などによって変更が加えられ完成に及んだ。大東亜戦争の空爆よって中央塔を含め甚大な被害があったが改修され、今も中華民國総統府として使い続けられている。
やはりここは政治の中枢、中華民国の中枢であり、建物に近づけば近くづくほどそれなりの雰囲気はある。まだ午前8時頃だったが、そこかしこに警備がいたり、揃いのジャンパーのような制服を着たボランティアのような人の姿もあちこちに見受けられた。
中華民國総統府のHPなどで来る前に大体のことは調べてきたが、どこから入ればよいのか初めてなので要領が分からず、とりあず現場の確認のために総督府の周囲を歩いた。
http://www.president.gov.tw/Default.aspx?tabid=173 -
台湾総督府
25年前(39歳)の初めての台湾旅行は
車の中から見ただけだった -
?1919/大正8年完成なら、今年94歳か
台北空襲で瀕死の重傷を負ったようだが
見事に復活し今に至る。まだまだ大丈夫 -
臺灣銀行
http://www.lib.takushoku-u.ac.jp/kyugaichi_htmls/pages/twn_2013_003.html
総督府に面する賓慶路を挟んで建つ
1938/昭和13年竣工
総督府竣工から遅れること19年か
それまでこの地は何が建っていたのか?
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■臺灣銀行
北隣にこれも日本時代の建築である臺灣銀行の建物があった。
1938/昭和13年竣工。設計:西村好時。総督府と並んで臺灣銀行もそのままの姿でここにある。どの建物も当時の日本人を示すかのように重厚であり誇りと威厳に満ちている。建物は建てた人間の肉体も精神も性根もその全てを表す。
いや建物だけではなく人間が作った物は全てそうだ。卑しい人間が作る物は卑しい。人として自信なき者が作った物はしょぼくてすぐに壊れる。
台湾や満洲に残る日本人が建てた建物も要塞もどれもこれも精緻でありながら威厳と自信に溢れ、その上美しい。薄っぺらなものは何もない。私は敗戦までの日本と日本人が好きだから尚そう感じるのかも知れない。
敗戦後に生き残った戦前戦中派も戦後日本人もみんなカスばかりだ。そんな人間が作った物はみんなそれなりでしかない。日本車が良いといっても所詮戦後の日本人が作った物だ。もし敗戦までの真の日本人が作ったなら車だってもっと素晴らしい車を作っている。
総督府の周囲を歩いていたら、見学入場の場所が分かった。台湾銀行との道(賓慶路)を挟んで西角が入り口。制服姿の憲兵が二人立っていた。一人は自動小銃を持っている。
見学は9時から、その時はまだ8時過ぎたところだったので、場所だけ見つけて又時間潰しのために周囲を歩く。 -
古き良き物は良い
ヨーロッパの中世を思わす街並みを見れば
白人が黄色人種を馬鹿にするのが理解できる -
総督府西北角が見学者の入り口だった
一応場所が分かったので、また歩く
午前8時6分 -
総統副総統文物館(旧総督府交通局)
旧総督府交通局は1938/大正13年竣工
臺灣銀行と同い年、御年76歳、まだまだ若い
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■総統副総統文物館(旧総督府交通局)
博愛路を挟んで総督府西側には「総統副総統文物館」(旧総督府交通局)がある。この建物も臺灣銀行と同じく1938/大正13年竣工。設計者は台湾総督府営繕課の森山松之助。総督府が大正8年竣工だから、その後、総督府の周囲に次々立派な建物が立ち並んで行く様子が伺える。台北中心部の景観の変化、インフラ整備などなど台湾住民も急速なる発展に圧倒されただろう。
東アジアで日本人が少々、いや度が過ぎるくらい得意になったとしても無理はない。満洲に朝鮮にそして台湾もデカイ夢を抱いて雄飛する日本人ここにあり。これを侵略と言うな。当時の世界情勢も常識も価値観も今とは違う。覇権主義が肯定された時代であり世界の有色人種国家は、ほとんどが白人列強国の植民地下におかれていた時代だった。
そんな時代に日本が欧米列強に伍して独立自存を保つには、日本も領土を拡大して覇権国家の一員として国力の充実を図ることが唯一の道だった。日清日露と戦い日本は独立を堅持しその立場を確固たるものとしていった。そしてそんな日本の台頭に脅威を感じていた白人種の黄禍論の延長として大東亜戦争が勃発したのは歴史の必然である。私は誰が何を言おうがそう確信する。
そして日本は乾坤一擲の戦いに挑み国民一丸となって戦った。結果は敗れたとはいえ日本が戦ったことで世界の植民地国は立ち上がり次々と独立をし今の世界がある。もし日本の存在と行動がなければ今の世界は当然だが違った世界が存在している。そのことを想像するだけでも先人たちの選択してきた道は正しい。
しかしそんな日本も敗戦後誰も彼もが一気に腐った。残念ながら気高き日本人は皆戦争で死んだ。 -
総督府を一周回って南東側から北に向かって写す
1919/大正8年3月完工時の台湾総督は
第七代:明石 元二郎 陸軍中将
同年10月26日総督在任のまま死亡
10月29日第八代:田 健治郎男爵が総督就任
これより文官総督時代が始まった -
白色恐怖政治受難者紀念碑
碑文には
「白色恐怖政治受難者紀念碑委員会?立 2008年4月7日」とある
2008年4月7日の時点では、台湾総統は陳水扁
2008年5月20日、総統は馬英九になる。タッチの差 ?
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■白色恐怖政治受難者紀念碑
総督府の南角を左に曲がって貴陽街一段を東に歩いていたら「白色恐怖政治受難者紀念碑」があった。その横の介壽公園に立派な銅像が建っていた。その人物は孫文でも“蒋公”でもなく、「林森先生像」だった。
「林森 Lín sēn リンスン」という人物のことを初めて知ったが、ちょうど一年前の2月15日「林森公園」前を歩いていた時に偶然「明石元二郎と鎌田正威の墓の鳥居を見つけた。その林森公園の名前の由来がこれで分かった。 -
この林森の銅像を知って、林森公園の名前の由来が分かった
林森公園には明石元二郎と鎌田正威の墓の鳥居がある。 -
臺北州立第一高等女學校(現在:臺北市立第一女子高級中學)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E5%8C
%97%E5%B8%82%E7%AB%8B%E7%AC%AC%E4%B8%80%E5%A5%B3%E5%AD%90%E9%AB%98%E7%B4%9A%E4%B8%AD%E5%AD%A6
臺北州立第一高等女學校(現在:臺北市立第一女子高級中學)
戦前の校訓
「正しく・強く・淑やかに」 ?
「日本語版学校紹介ビデオ」
http://www.fg.tp.edu.tw/tfg2012/tfginfo2009/index.html
日本時代の教育精神がここで継承されている。羨ましい!
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■臺北州立第一高等女學校(現在:臺北市立第一女子高級中學)
そして総督府のすぐ傍、東南角に1904/明治37年(日露戦争勃発)に創立「臺北州立第一高等女學校」、現在「臺北市立第一女子高級中學(日本の高校)」がある。今も台湾の名門女子高として多くの逸材を輩出する学校だ。
「正しく・強く・淑やかに」が戦前の校訓だった。この学校制作の日本語版学校紹介ビデオがある。それを見れば戦前の日本の教育もこのように素晴らしいものだったのだろう・・・に、と思わせる内容だった。今の台湾の教育を羨ましく思う。日本も敗戦まではそうだったはずだ。
「臺北州立第一高等女學校」の道(重慶南路一段)を挟んで西側、総督府の南隣に「台灣總督府高等法院(現在:司法大厦)」が建っている。この建物も日本統治時代の1934/ 昭和9年竣工。
大正8年総督府完成後、昭和初期に掛けて総督府を中心とする一帯は次々に素晴らしい建造物が竣工し、「政治」「行政」「経済」「教育」等々あらゆる分野で世界に冠たる都市に変貌していく様が手に取るように分かる。日本人にとって台湾も同じ日本という意識だったからこそだろう。
そりゃあ、日本人と台湾人の間に差別は当然あったろう。日本人に優越意識はあったはずだ。それは当然だし、悪ではない。私は差別を悪だと思っていない。たとえ同じ日本人でも生まれた瞬間に差は誰しもある。子は親も選べず。その差こそが向上心につながり、上は下に負けじと進歩に繋がる。
差別心のない人間は、頭空っぽ能天気人間か、若しくは人間ではなく天使であり、天使はめったやたらにいない。それに、みんな天使になれといっても無理だし、万が一天使ばかりになれば、この世は闇だ。生きる面白みはなくなる。
私の理想は現実社会であり、戦もない、喧嘩もない、差別もない、みんな仲良し、そんな世界は退屈だけで悪夢だ。気が狂うのがオチダ。魑魅魍魎の現実こそが私の理想だ。その心はオモロイ。偽善と綺麗事は最悪だ。 -
臺北州立第一高等女學校(現在:臺北市立第一女子高級中學)
-
日本時代の校舎が今も使われている
敗戦までの日本の教育は素晴らしかった
教育勅語の復活を切望する
私は敗戦までの日本の負を探さず言わず
意地でも良い面ばかりを探し求め言い続ける
敗戦までの日本の負は反日日本人が山ほどいて
あることないこと重箱の隅まで探しまくり
嬉々として先人を貶め自らを善人ぶっている -
台灣總督府高等法院(現在:司法大厦)
1934/ 昭和9年竣工,2014の今年80歳
この辺りは右を見ても左を見ても
日本時代の建物が点在している
この立派な建物に先人の心意気を感じる
残し使ってくれる台湾に感謝! -
台湾総督府見学
午前8時48分 9時から見学受付なので戻って来た
総統府裏の車止めに並ぶ黒塗り高級車は
ほぼ日本車ばかり、現代車はゼロ。気分よし
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■台湾総督府見学
総督府の周辺を歩きながら写真を撮り、見学までの時間を潰していた。そして又総督府に戻って何気に総督府内に駐車している黒塗りの高級車を見たら、居並ぶ車は全て日本車だった。いや全てではないかもだが、多分ほぼ日本車だった。日本万歳!台湾に感謝!現代車がないのが痛快だ。街中でもほとんど現代車は見ない。
8時50分に見学入場場所に戻ったら、すでに30名くらいの行列が出来ていた。「よし、これで見学は出来る・・・」と、その最後尾に並ぶ。そしてバスも停まり、すぐに私の後ろにも人が並びだした。
そこから二ヶ所に分かれてパスポート検査や荷物検査があり、これがやたら手間取り30分以上掛かった。そして9時半過ぎ頃になって、やっとそれぞれのガイドを指定されて見学が始まった。私のグループの男性ガイドも、戦前生まれのようだったが当時まだ幼かったのか台湾の日本語世代のような日本語ではなかった。
そのガイドさんの説明は・・・。
「総督府の場所は、台北は城壁に囲まれていたがその城内の中心がこの位置になる」「防火のために館内禁煙で建物四隅に喫煙室が設けられた」「建物正面は東に向いている」「建設費は280万円」「空襲での被害、瓦礫の撤去」
その他いろんな説明があったが「えっ!」と驚くようなこともなく何も覚えていない。
見学コースに歴代総統の紹介コーナーがあり李登輝・陳水扁・馬英九と順番に見て周った。その時、私がガイドさんに「国民党、民進党、どちらを支持されていますか?」と質問したら「それはプライベートなことでしょ」とモロに嫌な顔をされた。それが一番強く印象に残っている。ここは台湾。私の想像以上に公の場で気楽に聞いてはならない不躾な質問だったのだろう。
見学の最後は総統府内で一ヶ所写真撮影が許されているところで「参観民衆拍照區」と表示してあった。中庭から建物が写せる。当時の大型の建物は疫病などの対策のために、衛生管理ということで通風と採光の観点から中庭が設けられた。
どこにも同じように中庭がある。でも衛生管理だけではなく癒しの空間としても素晴らしい効果があると思う。決して無駄なスペースではない。土産物店もあったが興味なく外に出た。午前10:30分終了。 -
北西角の見学者入り口に並ぶ人達
大陸からの観光客もこの列の中にいるのだろうか?
身分証明書orパスポートは必要 -
私の後ろにも列は伸びて行く
初体験は、この後の段取りが分からない
この列は普段なみ?それとも多い?少ない? -
9時を過ぎ見学者の入場チェックが始まった
これが長〜い時間掛かった
さっさと出来んか?といっても
総統府の事情もあるのだろう
テロを未然に防ぐには細心の注意は必要だろう -
午前10時27分、見学を終了し総統府内の撮影OK場所
日本人は日本語ガイドの“おっちゃん”が案内してくれた
総勢15名程だったと思う。あまり内容は記憶にない -
やはり総督府は外から見るのが美しい
凱達格蘭大道(ケタガラン大通り)の
道路中央から正面に威風堂々と建つ -
総統府のこの一角にお土産店もある
私の背が庭、写真正面が参観者出口 -
中華民國総統府 裏門
次期台湾総統には民進党党首がなることを祈る
台湾は台湾、台湾独立を支持する! -
総統副総統文物館
国史館
総統副総統文物館 ?
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■臺灣總督府交通局遞信部(今交通部)
総督府真裏(西隣)の「臺灣總督府交通局遞信部(今交通部) 1921/大正10年〜1924/大正14年、森山松之助設計」が国史館であり、「総統副総統文物館」として無料で参観が出来る。
展示の絵葉書に総督府裏玄関側を今の「長沙街一段」から撮影した写真が展示されていた。正面:総督府裏(西側)玄関、右手に「臺灣總督府交通局遞信部」左手に電力株式会社を写した写真があった。電力会社の建物は新しくなっているが、右手(逓信部・国史館)と正面(総督府)は昔も今も“ストリートビュー”で見ても同じ光景がある。
文物館の展示に昔の写真や森山松之助などの紹介もあり、日本統治時代を台湾の歴史の一部として伝えてくれている。それらの展示内容によって今の台湾人の日本への思いを感じることが出来る。
今後白色テロも知らない台湾人が増え、大陸との交流が深まるにつれて日本統治時代の評価はどのように変化するのだろう。 -
臺灣總督府交通局遞信部
1925年完工、御年89歳
1月14日- 三島由紀夫(出生) -
右:森山松之助
(1869/明治2年6月2日-1949/昭和24年4月2日:享年80歳)
森山が設計した主なる台湾の建築
総督官邸(現 台北賓館):台北州庁(現 監察院)
台中州庁(現 元台中市政府):台南州庁(現 国立台湾文学館)
専売局(現 台湾菸酒公司の本社)
左:井手 薫
(1879/明治12年5月6日-1944/昭和19年:享年65歳)
井手が設計した主なる台湾の建築
建功神社(現在ナシ):台湾総督府高等法院(現 司法大廈)
台北公会堂(現 台北中山堂) -
これが交通局遞信部の内部
こんな建物で働くには立ち居振る舞い
しゃっきとせねばおられまい -
臺灣總督府交通局遞信部(現:国史館)
左方向:総統府 -
絵葉書写真
-
上のと
現在の写真を見比べたら
左側の建物は当時と違うが、他は同じ
「正面:総督府」「右側:遞信局」 -
台湾総督府電話交換局
1937年完工
今も街角に建つ、何の違和感もない。
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■台湾総督府電話交換局
総督府を出て、国史館に入り博愛路を南に歩き貴陽街一段との交差点角にある1937/昭和12年(シナ事変南京陥落)竣工の「台湾総督府電話交換局」前を西に歩いた。そして「 最高法院検察署」前の道を隔てたところにあった屋台のような小吃店で餃子と拉麺を食べた。
¥75元。午前11時半頃。この旅行記を書きながら写真と“Googleストリートビュー”を見たら自分の歩いた道順が分かるハハハ。そうかここを歩いてこの辺りで昼飯を食べたのか・・・と。ホンマ便利でオモロイけど時間が掛かる。 -
最高法院検察署
「電話交換局」と「国軍歴史文物館」の間に建つ
見た目は立派で新しい、日本時代の建築ではない
台北散策(一)
「臺灣土地銀行」「 二二八和平公園 」「臺灣銀行」 「中華民國総統府」
「総統副総統文物館(旧総督府交通局)」 「白色恐怖政治受難者紀念碑」
「臺北州立第一高等女學校」「最高法院検察署」
http://youtu.be/IXu-kb6Tx6o -
最高法院検察署の対面の小吃店で昼食
-
そうかこんな店だった
すでに足は棒、ホット一息 -
拉麺、餃子はうまいけど
餃子は焼き餃子がない
王将の薄皮焼き餃子の方がうまい -
国軍歴史文物館
「三軍軍官倶楽部」の隣が「国軍歴史文物館」
日本もいつになったら日本国軍隊が再興されるのか?
自衛隊は軍隊ではなく、日本は自主独立国ではない
米国属国の民として生まれ死ぬのはホンマごめん蒙る -
日本の街角に大砲置けば
綺麗事しか言わない“糞オバハン”が
醜い顔して平和が平和が冒されると喚く
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■国軍歴史文物館
食べ終わってそのまま西に歩き「三軍軍官倶楽部」と並び建つ「国軍歴史文物館」に入った。ちょうど「中美混合團成立70週年紀念特展−飛虎薪傳」という特別展が開催されていた。支那事変勃発後に米国は蒋介石の国民党軍を支援し、支那が劣っていた空軍力をカバーするために作られたアメリカ合衆国義勇軍:「フライング・タイガー」の展示会。
現在の台湾は外省人が中心の国民党政権下の国であり、残念ながら「米中vs日本」の戦いを今もこうやって誇示するのだろう。
日本は満州事変、支那事変から大東亜戦争へと戦線は途方もなく拡大し日本の敵国となった連合国は、数知れず。そして実際に日本軍が戦火を交えた主要国は「支那・アメリカ・イギリス・フランス・オランダ」の五ヶ国。
支那以外の四ヶ国は太平洋・東南アジア・インドに長期に渡って植民地支配を継続し搾取し続けてきた白人国家ばかりだ。
少しでも日本軍の戦いを調べれば、その規模の大きさ、戦域・戦線の広大さに目を見張る。戦略上がどうのこうのと言う前に、ただただその事実に呆然とする。「とても信じられない。良くぞこれだけ頑張った。どこにそんな精神力と実行力があったのか・・・まさに奇跡であり、日本史上最高に輝く歴史の一頁である」
結果は敗れたりといえど紛れもなく輝く歴史であり、最早この時代を生き抜いた日本人を凌駕することは未来永劫あり得ないと思う。しかしそれは敗戦までの日本人のことである。敗戦後日本人は百八十度変わった。
「対日抗戦」の看板が掛かった展示室もあった。かって台湾は日本であり台湾人は日本人として大東亜戦争を戦った。日本人として共に戦った台湾が敵国日本として紹介している。
日本敗戦後、連合国の一員として占領軍として台湾に上陸した国民党軍が、その後、共産八路軍に追われ台湾へ逃げ込み台湾人の意思を問うことなく中華民國としたからだ。だがことわっておくが日本が負けたのは米国だけだ。支那に負けたのではない。
台湾を武力で制圧した国民党軍は長期に渡り戒厳令を敷き台湾人を本省人として自由を与えず圧政下に置いた。そして今の国民党政権のもとで日本は旧敵国として扱われている。その展示室には大陸支那と同じように「南京大屠殺」の紹介パネルもあった。
今、日台の関係は友好といえども、今後の関係を憂う。 -
国家は本来軍人が主導すべきだ
鎌倉から敗戦まで日本は軍事国家だった
敗戦後日本は商人国家に落ちぶれこのざまだ
士農工商に意味がある。今は商人道さえない -
支那で日本がこのフライング・タイガーと戦っている時
台湾は日本だった。その台湾でこの展示会が行われている
本省人も所詮漢族か、少数の外省人に台湾を奪われなんとする -
大陸での中美兵士の記念写真
台湾で、この展示に現実を思い知らされる
国民党政権は今も日本の敵対国であり
そのことを念頭に置いていないと間違う -
那大陸での日本との戦いが何故?この台湾で
・・・と思いたいところだが、これが現実なり
本省人(原住民含)86%・外省人14% これからも大陸との関係重視は強くなる -
1943/昭和18年11月25日:米軍の新竹空爆写真
大陸から飛来したとはいえ、台湾空爆を戦果とするか
台湾は本省人(原住民含)86%・外省人14%
この人口比率の選挙で外省人の総統が選ばれる -
対日抗戦・・・か
この展示を前に言葉もナシ
南京虐殺展示写真もあり -
これを持って
匍匐前進・駆け足・ダッシュは
さぞ厳しいだろう
銃とは縁がなさ過ぎてピンとこない -
臺北府城門 小南門
『戦後1965年に東門、南門、小南門は
現在の北方宮殿式の作りに立て替えられました』
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■「臺北府城門 小南門」・「中華民國国防部」・「臺北府城門 南門」
国軍歴史文物館を出て南に歩き、愛国西路に出たら「臺北府城門 小南門(重熙門 Zhòng xī mén ジョンシィメン)が有った。日本統治後に都市計画によって台北城壁の取り壊しが決まったが住民感情を考慮し「北門、東門、南門、小南門」が保存された。
小南門を写真に写し、そのまま愛国西路を東方向に歩くとすぐに中華民國国防部があった。「中華民國軍事及國防事務之最高主管機關」とあるから日本で言えば、防衛省の市ヶ谷庁舎のようなものなのか?
日本は軍隊がなく、役人の管轄下に自衛隊があるので良く分からない。自衛隊は今尚警察予備隊の域を出ない。中途半端に過ぎる。軍隊なき国家は国家の体をなさず。軍事法廷なき軍事組織は軍隊ではない。
門に国防部との看板が掛かり左右に銃を保持した歩哨が立つ。近づいて写真も取りにくいので少し離れた場所から撮影した。そこから台北市立大学の東角で愛国西路を左に曲がり公園路を北に向かう。
その交差点に「臺北府城門 南門(麗正門 Lì zhèngmén リィジャンメン)」があった。台北城といってもこんなに狭い範囲なのか?と思う。その中心部に総督府を建てたようだが、こんな狭い城内ならば城壁を壊さなければとても大都市にはなれない。
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現在の小南門
-
台北城内はこんな小さな範囲だった
-
中華民國国防部
近づいて撮ること出来ず
そっと遠くから写す -
臺北府城門 南門
清光緒十年(1884年)完工
と言っても、1965年建て替えられた -
■日本軍、1895/明治28年6月7日台北城内に無血入城
日清戦争に勝利し下関条約で台湾割譲を受けた日本軍が1895/明治二十八年五月二十九日に澳底に上陸し、基隆入城を経て、この1895/明治28年6月7日台北城内に無血入城を果たした。その時の様子が簡潔に紹介されているので下記に抜粋する。
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「台湾島抗日秘史」喜安幸夫(著)より
「日清戦争と台湾接収」より抜粋
http://ktymtskz.my.coocan.jp/meiji/kiyasu.htm
台北よりの密使
基隆入城を完勝の中に果した日本軍は、息つく間もなく首府台北へ向って進撃を開始せんとしていた。このような時、基隆の旅団司令部を訪ずれる一人の台湾人がいた。聞けば、台北より来たという。そして総監に言上したいことがあると謁を求めた。男の名はが辜顕栄(こけんえい)といった。
水野民政長官が引見したところ、彼は台北の士紳やその他有力者の委託を受け、単身こうして日本軍の本営まで来たと言う。そして台北の情況をこと細かに説明しだした。日本軍は当初、この辜顕栄なる人物を民主国側の間諜と疑い、種々脅しもしたが彼は始終泰然自若として応答し、間諜らしきところは一点もなかった。しかし、辜顕栄の言は、日本軍にとってはあまりにも唐突な内容であったため、にわかには信用できなかった。
彼は、「台北府所在の清国文武官皆既に逃去し、又一兵なく、加えるに土匪之に乗じて蜂起し、掠奪を逞しくするの情を累陳し、切に日本軍が進んで鎮圧せんことを請う」と言うのである。 台北よりの密使辜顕栄(こけんえい) 現地の治安が乱れているので、日本軍の早期到着を要請しにきた。
つまり、台北の治安は乱れ、これを回復するため、日本軍に早く台北へ進駐してくれるようにと要請しているのである。そして自ら台北への先導役を務めるとも言った。半信半疑のままともかく日本軍は進撃を開始した。すると基隆・台北の中間地点辺りでまた台北よりの使者という一行に会った。ドイツ商人オーリー、イギリス商人トムソン、それに米国ヘラルド社通信員デビッドソンの三名、在台外国人の一行であった。
彼らも台北士紳や有力者の委託を受けたと言い、台北の実情を日本軍に説明し、速かに該地の秩序を回復せんことを懇請した。彼らの説明する台北の様相は、辜顕栄の言と全く一致していた。かくして辜顕栄の言葉を全面的に信用し、台北の情況を適確につかんだ日本軍は台北への歩を速めた。日本軍の信任を受けた辜顕栄は、言葉通り先頭に立って日本軍の道案内を務めた。
良き協力者を得た日本軍が、台北市街を囲む城壁の真下に到着したのは基隆攻略よりわずか四日目の六月七日早朝であった。城壁は無防備であったが、城内からは銃声が聞こえ、煙が随所に上がっているのが見える。辜顕栄らの言ったことは正に事実だったのである。城門はまだ固く閉ざされたままであった。日本軍は、この城門を打ち破って市街へ突入せんと攻撃態勢を整えた。ところがこの時である。日本軍の到着を待ちかねたように城壁にかけ上り、城内より飛来する弾丸を冒して竹梯子を下ろし、日本軍への便宜を図る者が現われた。
陳法という台湾人婦女とその息子である。ここにも日本軍の台北進駐を懇請しているものがいたのである。城壁下にあった日本軍兵士はこれをよじ上り、城内からやすやすと門を開けることができた。日本軍の台北入城である。それは無血入城であった。
台北には、現状においてはそれを最も好ましいとしなければならない事情があったのである。辜顕栄は対日協力者の第一号となった。その後も彼は日本の台湾平定への大きな功績を遣しており、統治確立後も積極的に日本に協力し、後に勲二等に叙せられて貴族院議員にまでなった。現在でも台湾では、日露戦争の時、北上するバルチック艦隊を最初に発見し、日本軍に通報して帝国連合艦隊に勝利をもたらしたのは辜顕栄であるという言い伝えが残っている。
単なる言い伝えに過ぎないが、これも辜顕栄の対日協力ぶりの一端を物語るものと言えよう。この為、辜顕栄の行為は現在の史家、特に中国側から売国奴として強烈に非難されている。表面的に見ればその非難は当っているかも知れないが、彼自身、「私は清国に叛いたものにあらず、我が三百万同胞の生命財産に脅威する土匪を掃蕩せんが為、日本帝国の耳目手足となったのである」と、自ら対日協力者となった苫悶の一端を表わしている。
それは米軍占領下に、これと協力しなければ国政が成り行かなかった終戦直後の日本政府の苦悶にも似たものであったろう。単なる売国奴として非難出来ない一面がそこにある。台北に入城した日本軍がそこに見たものも辜顕栄が語った情況そのものだったのである。
日本軍台北入城
遠方に北門が見える
台北騒憂
辜顕栄が、陳法母子が、そしてデピッドソンら在台外国人が、日本軍の早期台北進駐を要請し、そしてそれに協力しなければならなかった理由とは一体如何なるものだったのか。また、辜顕栄一人がどうして後世の史家からことさら売国奴と呼ばれなければならないようになったのか。改めてその背景を見てみる必要があろう。基隆・獅球嶺陥落の報が台北に与えた衝撃は大きかった。
唐景菘は、民主国総統に就任した時からしてそうであったように、この時も何ら積極的な対策を講じようとはしなかった。前線の乱れを立て直し、防衛線を確立する為にも、唐景菘自ら前線に赴いて陣頭指揮をとるよう懇請する者もいた。しかし唐は、「事すでに失敗せり」と称して官邸を出ようとはしなかった。また、混乱の様相を呈し始めた台北を一旦退き、中部辺りで体制を立て直し、再起を図ってはと提言する者もいた。
しかし、唐は言葉を濁すのみであった。彼の側近に至っては、彼ら提言者に銃剣を突き付け追い帰す有様であった。そして基隆・獅球嶺陥落の翌四日夕刻の頃、秘かに官邸を出る一群があった。それは数名の衛兵に守られた唐景菘とその側近たちであった。彼らは前線に赴くのでもなければ後退して再起を図るのでもなかった。唐の民主国総統の就任は、その時の自己保身の便法に過ぎなかったのである。
一行は夜陰に乗じて淡水港に停泊中のドイツ商船・アーサー号に人知れず身を移し、そのまま混乱する台北を後に大陸へ渡ってしまったのである。唐の逃亡を知った多くの官吏や台湾人士紳らもその後続々と後を追うように大陸へ逃亡していった。この中に、台湾民主国樹立の立役者・台湾人義勇軍総帥邱逢甲も含まれていた。再び各所で逃亡する者が残る者へ法外な見逃し料を支払う図が演じられた。
唐景崧とて例外ではなかった。逃亡を一群の兵士に見破られ、五万ドルもの散財を強いられている。唐景崧の逃亡によって、台北市街の混乱は決定的となった。一部の兵士たちが見逃し料を得たことを知った他の兵士たちは、同じく分け前にあずかろうと官邸に押しかけた。 彼ら大陸から来た兵士らにとって、得るものさえ得れば誰が台湾を見捨て、逃亡しようと一向に構わぬことだったのである。
ところが支払者・唐はすでに逃亡した後であった。彼らは官邸内に乱入した。金庫を打ち破り、ありとあらゆる金目のものをあさり、着ていた軍服をふろしき代りに思い思いに奪ったものを持ち出した。その後から押しかけた兵士らは得る物もすでになく、欝憤晴らしに官邸へ火を放った。中には、しかたなく城壁の大砲を取りはずして売り歩く者までいた。道すがら、兵士たちの服からこぼれ落ちる銀貨を他の兵士や住民らが奪い合い、また多くを持ち過ぎた兵士は人々に撲殺され、それをまた他の一群が奪い合った。
市街は財貨の奪い合いの様相を呈し出したのである。そこへもって、基隆方面からの敗残兵が台北へどっと入り始めた。すでに彼らを慰労する者もいなければ給与を支払う者もいない。焼け跡から壊れた時計の類までもあさり、そして彼らはより利益のある方へと向いていった。つまり一般市民を襲いだしたのである。市街をかけ回り、民家に押し入っては掠奪し、抵抗すれば殺し、婦女子をつかまえては姦淫し、かくて台北は掠奪、殺人、放火、暴行と地獄絵さながらの様相を呈していったのである。
この時殺戮された者は数百名と言われていた。日本軍が台北の城壁下に到着したのは正にこのような時だったのである。この時に限って、台湾の日本軍は侵略軍にはあらず、治安維持軍たり得たのであった。これより先、台北の街が地獄絵さながらとなった時、台北の士紳や富豪、商人らはこの事態を憂慮し、中でも有力な者らが一堂に会して混乱収拾の方策を協議した。しかし、武力のない彼らに暴徒と化した広東兵らを鎮圧する妙案はなかった。
この会議の最中にも銃声に混って暴動者の喚声や一般市民の泣き叫ぶ声が聞こえてくる。参会者らは一つの意見に一致した。日本軍の入城懇請である。最早力関係から見て、この事態を収拾できるのは彼らにとって侵略軍であるはずの日本軍しかなかったのである。そこで協議の結果、使者として流浪の商人、辜顕栄が選ばれたのである。そして彼は単身、基隆の日本軍本営を訪れた。デビッドソンら一行もこの時他から依頼を受けたのである。また、デビッドソンらが複数だったのに対し、なぜ辜顕栄だけが単身でこの危険な任務についたのか。
そこには、当時の台湾人士紳らの変化に処しての性格を物語るエピソードがあった。当初、辜顕栄は上層階級の人たち数名と共に行くことになっていた。ところが当日、約束の地点には待てど暮せど誰も来ず、仕方なく一人で日本軍を迎えに行ったという次第であった。いわば台北の有力者らが、辜顕栄一人にこの任務を押しつけたかたちとなったのである。では、なぜ上層階級の人々はこのような処置をとったのか。
それは「匪徒(ひと)」が自らの財産や生命を脅かすのを恐れる反面、日本軍を率先して迎えた場合、万一清国軍が反攻に転じた時、自分たちの立場が悪くなることをも恐れたがために他ならなかった。つまり、台北近辺の台湾人上層階級が、最も意を用いたのは、敵前逃亡した唐景崧ら同様、抗日ではなく、あくまで自己の保衛だったのである。 これまでの社会が崩壊した結果、失うものが一番多かったのもまた彼らだったのである。
「わが台民は敵に仕うるよりは死することを決す」とその独立宣言に謳って唐景崧を担ぎ、台湾民主国の樹立を画策した彼らの意はここにあったのである。保身の為に英・仏・独等いずれかの国力を借りて日本の領台を阻止せんとした結果、皮肉にも台北に於ては日本軍の力を借りて旧清国兵を駆逐することになったのである。そして、台北一帯の士紳・富豪たちの中で、日本軍に抗した事例は非常に少なく、その大多数が日本軍にとっての良民となった。
この人数が多過ぎたためか、或いは辜顕栄がその後一際目立って栄華を得たこともあってか、彼らを代表して辜顕栄一人が後世の史家からの非難を一身に受けることとなったのである。旧清国兵の戦意のなさと、北部一帯のこのような士紳や富豪の存在を背景とし、日本軍は上陸以来今日までの快進撃を続けて来た。樺山総督は、当初これに気をよくし、これからの南進をも楽観して伊藤博文に次のような電文を送った。「我兵本日午前台北に入る。人民は簟食壺醤(食事を振舞うこと)して之を迎える。両三日中に総督府を台北に移す積り。南部においては多少の戦争は免がれないだろう」
事実、台北に無血入城した今、首府一帯を平定して基隆にあった総統府を台北に移転し、台湾統治の第一声をあげるべく、当地に於て始政式を挙行するのも時間の問題であった。しかし台南にはまだ黒旗軍総帥・劉永福がいる。樺山総督の「南部においては多少の戦争は免がれないだろう」とは、この劉永福の存在を意識してのものと思われるが、その南部に行き着くまでがすでに「多少の戦争」では済まされなくなるのである。その日をまだ予測できず、ともかぐ日本軍は台北に入城した。
前途は楽観?
澳底上陸よりわずか九日目にして首府台北に入城した日本軍は、時を移さず近郊の平定に乗り出した。目的は軍事的要衝・淡水の攻略である。この平定作戦も、日本軍の進む各地には台北入城の時に見られたように、平定を容易にせしめる情況がすでに形成されていた。この為、平定のテンポは速かった。台北入城の二日後、六月十日には早くも淡水を占領し、それより三、四日後には台北を中心とする北部一帯はほぼ鎮定された。
この一連の戦いにおいても、現地住民にとっての日本軍とは、むしろ侵略軍の襲来というよりは歓迎しないまでも台北同様治安回復の為の軍隊となっていたのであった。敗残兵となった旧清国軍兵士による集団的狼籍と、それに乗じて跳梁する匪賊の群によって無政府状態の地獄絵となったのは、台北城内だけではなかったのである。旧清国兵たちは、唐景崧という給与支払者からは見捨てられ、実力で給与に代る物品を得るという掠奪の恰好の場とした台北からも日本軍によって追い出され、次には台北四方の郷村をその場とした。
不運にもこれら旧清国兵の敗走の道中となった村々の住民は、財産は勿論のこと、生命まで奪われるといったようなことが往々にしてあった。ひどい所になると、淡水近くの一村落のことであるが、広東兵が村内に押し入り、実力で全ての男達を村外に追い出し、女だけ残した村の中で乱暴の限りを尽すという、掠奪以上の惨劇が展開された例すら記録されている。のような情況下にあっては、日本軍が村に進駐してくると、住民らは逃げ隠れするどころか、沿道こ出て燈火を点じ、歓迎の意を表わすのもいとわなかった。
また、乱暴を働いた犯人を村民が捕え、これを進駐してきた日本軍に引き渡すといった例も見られた。眼前に治安を乱す旧清国兵よりは、まだ海のものとも山のものとも解らぬ未知の日本軍に期待を寄せたのであろう。 日本軍が淡水に入城すると、大陸に逃亡すべくこの地に殺到していた部隊は戦うことなく投降した。同時に北部一帯にまだ掠奪集団となったまま徘徊していた敗残兵たちも、一部が南部に逃亡したものの、多くは日本軍に投降してきた。その数およそ三千余名と記録されている。
ここに、北部での戦闘は終結した。
また、これら基隆以降の戦いは、戦いというよりは日本軍による治安の回復ともいうべきものであり、組織的な戦闘はすでに基隆攻防戦で終了していたといってよいであろう。上陸以来、この段に至るまでの平定作業は頗る順調に進み、この分ならばと、総督以下愁眉を開くに十分なものであった。この時、樺山総督は旧清国兵の日本軍に抗したことや掠奪に従事したことなど全てを不問に付し、日本船で以て無償で本国へ送還することを決し、実行した。
大陸への玄関口:淡水(たんすい)
日本軍が淡水に入城すると、大陸に逃亡すべくこの地に殺到していた部隊は戦うことなく投降した。これからの統治において、旧清国兵が無頼の徒としてこの地に居残ったのでは都合が悪いからという側面もあるが、日本軍が彼らに何の処罰も報復も考慮しなかったということは、やはりそこに勝者としての余裕を見ることができよう。数日の戦闘とわずかな犠牲でもってこの地は、完全に平定し得たという余裕である。
実際に捕虜送還事務は淡水占領と同時に開始され、わずか十日足らずにしてほとんどの捕虜が無事大陸へ送還されている。しかし、日本軍が敵兵にこのような余裕を見せることが出来るのはここまでであった。南部までの道程はまだ長く、それに北部での戦闘は一応終結はしたものの、ここでいう北部での戦闘とは、緒戦における北部での戦闘であって、後にこの地がふたたび戦場となる日がくるのである。
その日とは、まだ樺山総督や北白川宮師団長らの予測の範囲外にあった。この、予測の範囲外というのは、樺山中将の総督就任に際して政府が与えた訓令『台湾島接収事宜』の内容を、現地に踏み込んだ今もなお忠実に信じ込み、そこからまだ脱脚できていないためのことである。そこには既述の如く、台湾人義勇軍は数も少なく勢力も微弱で取るに足らないという意味のことが書かれてある。
もっとも、ここまでの戦いで日本軍が相手としてきたのは、台湾人からすれば外来者に過ぎない旧清国兵だけであり、情況はまさに『台湾島接収事宜』に書かれてある通りに展開してきたのであるから、総督以下、台湾の将来を楽観し、現在に余裕を見せたのも、無理からぬことではあろう。しかしそれは、これまでの台北城内やその一帯の様子からも解る通り、日本軍が、本島居民と直接干戈を交えることなく平定地域を拡大でき得るという情況が、旧清国兵の内部騒擾という行為によって偶々つくり出されていたに過ぎなかったことによるものだったのである。
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凱達格蘭大道を横切って二二八和平公園へ
凱達格蘭大道を横切りながら正面に総統府を写す
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■凱達格蘭大道を横切って二二八和平公園へ
南門から公園路を北に歩き凱達格蘭大道(ケタガランたいどう)を横切り「二二八和平公園」に戻って来た。
そして「台北二二八紀念館」に入る。内部には関連の資料や写真が数多く展示されていた。説明の文章は一部日本語もあった。「時代の交代」と表示された壁に日本と中華民国の国旗が並んでいた。交代の二年後1947年2月28日にこの悲劇が起こった。
その発端となったタバコ売りの女性(林江邁、40歳、2人の子持ち寡婦)の写真もあった。憎き陳儀(台湾行政長官兼警備総司令)の写真もあった。
台湾に民主化が実現し、1994年初めて台北市長選挙が行われ本省人である陳水扁が当選する。その陳水扁市長が二二八和平公園(前身は日本統治時代に作られた台北新公園)と改称し、その翌年、この紀念館をオープンさせた。
陳水扁台北市長は四年の任期を経て二期目も出馬したが国民党:馬英九現総統に敗れた。その後、陳水扁は李登輝総統のあと2000年に二代目総統となる。2004年からの二期目も当選を果たし2008年退任するが、不法蓄財などの罪で逮捕有罪となり2010年刑が確定収監され現在に至る。
そうか陳水扁は1950年生まれ、私と同い年だった。不法蓄財が事実なら逮捕収監もやむ終えずだが、もし本省人の陳水扁市長が誕生していなければ、二二八和平公園も紀念館も存在していないだろう。
台湾の人口内訳は『本省人(ホーロー人約74%、客家人約12%)86%;外省人12%;原住民:2%』とある。外省人はたった1割強である。大陸から逃げ移り白色テロで本省人の多くを殺戮した外省人。
せっかくの民主化後も外省人中心の国民党に権力を託す台湾本省人の気持ちはなかなか理解できない。この人口の内訳比率が事実なら、圧倒的多数は本省人のはずなのに・・・。これが台湾の複雑さの象徴だ。
そして世界に散らばり現地で一大勢力を作り上げる大陸シナ人の狡猾さなのだろう。日本に近隣三ヶ国からの移民を入れるのは絶対反対である。 -
左方向:凱達格蘭大道
私の帰国後一ヶ月もしないうちにこの附近は学生で埋め尽くされた
http://himawariundo.wix.com/himawariundo
ひまわり運動
「私は、台湾人です、私は、この国の民主の歩みと共に成長しました」
http://youtu.be/nCaQJCkt8wk -
二二八和平公園
何でここに神馬が?と、思っていたが
台湾護国神社(台北市中山区大直)の神馬のようだ
「公園に残る神紋の神馬」
『この神馬の腹には台湾護国神社の神紋が残されてゐる。
さらに神馬の下腹には製作者の刻印があり、
「祥雲作」と書かれてゐる。
この「祥雲」は浅野祥雲であると思はれる。』
http://blog.goo.ne.jp/jinjya_taiwan/e/d7beb291d40c066f28a7c260a73e76a5 -
228紀念館
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■二二八事件
二二八事件の顛末については、「ねずさんのひとりごと:台湾二二八事件」が分かりやすいので下記に転載する。
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台湾二二八事件
「ねずさんのひとりごと:台湾二二八事件」転載
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1814.html
この事件は、終戦の二年後、昭和22(1947)年2月28日に、台湾の台北市で発生し、その後台湾全土に広がった大きな事件です。この事件は、その後約40年間にわたって、台湾を「戒厳令」下におくという結果を招きました。
「戒厳令」というのは、戦争のない時に、法を停止し、行政権・司法権の全部または一部を軍隊の司令官に委任する命令です。国家緊急権の制度といわれ、軍が政権を担う制度です。そして228事件は、台湾大虐殺事件とも呼ばれています。
この事件を通じ、国を失うことの過酷さを少しでも感じていただけたらと思う次第です。歴史を失った民族は滅びるといいます。国民が大切に守らなければ消えてしまうことがあるのが、国家です。
地球上に過去200年間に存在した南太平洋の島々を除く国は、 210カ国です。そのうち60カ国が消滅しています。10数カ国は自発的に他国と合併して無くなり、 残る51カ国は近隣諸国からの軍事侵略 によって消滅しました。
一昨日、補正予算案が参院を通過しました。たった1票差でした。この補正予算に関する審議で、民主党など野党の質問を観ていて感じたのは、彼らのあまりの国家観のなさでした。国なんてのはなくなったっていい、そういう理念がチラチラするのです。私などからすると、とてもまともな国のまともな国会議員とは思えない。
世界市民を希求する、なんて綺麗ごとの理想論を本気で信じている人もいるようです。けれどすくなくともいまの世界の諸国では、日本ほど安心して住める国ではありません。ご存知の通り戦前の台湾は、いまの九州や四国と同じく日本の一部でした。もちろん教育も政治体制も、すべてが日本本土と同じ体制です。当時の台湾の人々は、日本人そのものであったし、実際、自分たちは日本人と思っていました。
終戦によって日本と台湾は切り離され、日本には米軍が進駐し、同様に台湾には支那の蒋介石率いる国民党政権が占領軍として進駐してきました。この支那進駐軍と、台湾人(旧日本人)との間に起こった大規模な抗争事件が、二二八事件です。
ことの起こりは、昭和20(1945)年8月15日にさかのぼります。日本のポツタム宣言受諾により、台湾には、連合国軍の委託を受けた蒋介石国民党が、進駐しました。当時、少なからぬ台湾人が、台湾の「祖国復帰」を喜んだといいます。で、大陸から来た国民党政府の官僚や軍人らを港で歓迎したのです。
実際に、この国民党が台湾にはじめてやってきた日のことを、台湾の楊素秋(ようそしゅう)さんがその著書で述べています。すこし引用してみます。
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中学校二年生の時、中国から蒋介石の国軍(国府軍、国民党軍)が来るというので、早速歓迎のための中国語の歌を無理矢理練習させられました。しかし、先生も生徒も中国語が全然分からないので、どんな意味の歌を歌っているのか、ちんぷんかんぷんで全く分かりませんでした。ただ、先生の発音を真似して歌っているだけでしたので、私はずいぶん年をとった後も、その歌の内容が分かりませんでした。
国軍歓迎の式典の日、朝八時に駅に集合と言われて行きました。しかし、国軍はいつまで経っても来ませんでした。それで、午後一時に来るから十時に再度集合ということになりました。ところが、十時に行ってみたのですがまだ来ません。そこで、昼食を食べに戻ってまた三時に行きましたが、全然来る様子はありません。更に待つこと二時間、結局来た時には時計の針は五時を指していました。
日本時代は、時間厳守は誰に習ったわけでもなく社会全体の雰囲気でした。その当たり前の生活習慣に慣れていた私たちにとって、これが初めての「中国時間」の洗礼でした。敗戦でシナ兵(中国の兵隊)が来ると聞いた時は、もちろん不安でした。私たちは『キング』や『少年クラブ』、『幼年クラブ』といった雑誌に出て来るシナ兵のイメージがものすごく強かったのです。
シナ兵はまず汚い、風紀が乱れている、ボンボロ担いでこうもり傘を背中に差して裸足、というのを見ていましたから、頭の中で色々と想像を巡らせていました。不安な気持ちで一杯でした。そういうシナ兵が潜在意識に植え込まれてはいましたが、本当に見た途端に、もうガックリしました。これはヒドイ!と思ったのです。出迎えに来ていたみんながみんな「うわー」と言ったのです。恐ろしい光景に見えました。
それまで日本兵しか見たことのなかった私は、兵隊というものは銃を担いでゲートルを巻いてピシッとしているものだと思っていました。それが、シナ兵は裸足でボロボロの服を着て、天秤棒にドロ靴と鍋と七輪をぶら下げて、こうもり傘を担いでだらだらと歩いていました。中には手で鼻をかんでいる人や痰を吐いている人もいるし、私は呆れてものが言えませんでした。
まるで乞食の行列でした。そんな兵隊を自国の兵隊として認められますか。今、その時のシーンを読者の皆さんの前に展開したらきっと気絶すると思います。女学校の先生方も口をあんぐり開けていました。台湾人全部が同じ思いだったと言っても過言ではないでしょう。
(楊素秋著「日本人はとても素敵だった」)
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ところが、ことは身なりだけにとどまらなかったのです。それ以上に、彼らの腐敗の凄まじさに、台湾の人々は驚きました。軍人や官僚による、強姦・強盗・殺人、しかも犯人がわかっていても、彼らは絶対に罰せられません。凶悪犯で罰せられる場合でも、犯人の省籍をマスコミ等で報じることは禁じられました。今の日本で在日半島人や大陸人が重大犯罪を犯しても報道は日本人名で行われるのと同じです。
公共の資材が国民党官僚によって接収・横領される。横領された物資は、上海の国際市場で競売にかけられる。そのため台湾の物価は高騰し、インフレによって企業の倒産が相次ぎます。このため短期間のうちに失業も深刻化してしまったし、不正の少なかった日本の統治を体験した台湾人にとって、治安の悪化や役人の著しい腐敗は到底受け入れがたく、人々の不満が、いやが上にも高まりました。
昭和22(1947)年2月27日、台北市の街頭に、ひとりの女性がいました。
闇タバコを販売していたのです。戦後の台湾では、酒・タバコ・砂糖・塩は、大陸から来た国民党が強制的に専売にしたのです。ところがそれと同じ時期、支那大陸では、それら自由販売が許されていました。女性は、40歳で2人の子持ちの女性でした。この女性を、国民党の官憲が捕まえました。
女性は土下座して許しを懇願しました。けれど取締官ら(取締官6名、警察官4名の計10名)は、よってたかって女性を銃剣の柄で殴打し、商品および所持金を全部没収しました。同じ中国人というのに、なぜ台湾だけが専売なんだ?と、多くの台湾人がこの措置を差別的と考え、不満を持っていたのです。そこに、この殴打事件が起こりました。
ふだんからたまっている不満に加え、あまりの仕打ちに、タバコ売りの女性に同情が集まりました。その場に多くの台湾人が集まってきました。すると取締官らは、今度は集まった民衆に向かって発砲しました。無関係な野次馬に向かって発砲し、数名を射殺したうえで、取締官らは走って逃げたのです。
事件をきっかけに、市民の怒りが爆発しました。翌28日には、自然発生した抗議のデモ隊が、市庁舎へ押しかけました。あたりまえのことだと思います。ところが国民党は、市庁舎の屋上に機関銃を据え、武装もしていない市民に向けて、予告も警告もなしに、いきなり無差別な機関銃掃射を行ないました。次々と倒れる市民たち。掃射で、多くの台湾の市民が命を失いました。
このときに機関銃掃射によって殺害されたり、傷を負ったりした人たちの数は、いまだにはっきりとしていません。公表もされていません。これがどういうことかというと、殺された市民たちは、新たな支配者となった国民党にとって、人でなかったということです。人でないから人数もわからない。知ろうともしない。
事件が発端となって、政府関連の諸施設への抗議行動や、日本語と台湾語を解しない国民党要人に対する襲撃事件が、台湾全島で頻発しました。市民たちはラジオ放送局を占拠し、軍艦マーチと共に日本語で「台湾人よ立ち上がれ!」と放送しました。怒りというより、いいようのない悲しみからの行動です。涙が出ます。市民の圧力の前に劣勢となった国民党は、市民に対話を呼びかけました。こう書くと、政治の冷静な対応カナ?と思われるかもしれません。
けれど、そういう期待が生まれるのは、日本人だからです。世界はそんなに甘くない。国民党は、対話を呼びかけたその一方で、在台湾行政長官兼警備総司令の陳儀(ちんぎ)から、当時支那本土にいた蒋介石に対して、次の電文を打っているのです。
「政治的な野望を持っている市民が、大台湾主義を唱え、台湾人による台湾自治を訴えている」
「市民が反乱を起こした」
「組織的な反乱」
「独立を企てた反逆行為」
「奸黨亂徒に対し、武力をもって殲滅すべし」
そして、彼は援軍の要請をしました。
蒋介石は、陳儀の電報をなんの検証もなしに鵜呑みにしました。そして翌3月、第21師団と憲兵隊を大陸から派遣しました。台湾の市民たちは、日本の法治政治に慣れ親しんでいました。それを「あたりまえのもの」と考えていました。だから、陳儀の対話姿勢に対して、素直に応じたのです。ところが、その対話姿勢というのは、ただの時間稼ぎでしかありませんでした。
大陸から援軍が来ると、陳儀は、武器を持たない市民に向けて、容赦なく発砲をくり返しました。これには多数の証言が残っています。そして、裁判官・医師・役人など、日本統治下で高等教育を受けたエリート層を、片端から逮捕投獄し、大陸流の酷い拷問を行いました。拷問を受けた多くの知識人たちが、獄死しました。
さらに街頭には検問所が設けられました。そして北京語が上手に話せない台湾人は、全て逮捕されました。逮捕された台湾人は、手足に針金を刺し込んで縛って束ねられました。これを「粽(チマキ)」と称してトラックに乗せ、そのまま基隆港に投げ込んで、溺死させました。これは実話です。この事件によって、約2万8000人の台湾人が殺害されました。
それだけではありません。殺害された台湾人たちの財産は、すべて国民党の高官たちが個人的に摂取したのです。いま、台湾では、多くの元国民党員たちが、台湾のお金持ちになっています。その原点がここにあります。さらに、表向き事件が収束した後も、日本統治時代を高く評価しようとする者に対して、容赦ない粛正が行われました。これを「白色テロ」と呼びます。
そして支那本土を中共によって追われて、台湾にやってきた蒋介石は、台湾全土に戒厳令を発動しました。この戒厳令は、その後なんと40年間も続きます。そして戒厳令が解除された後も、国家安全法によって言論の自由は制限されました。台湾に「民主化」が実現したのは、元日本人である台湾の李登輝氏が総統に就任後、平成4(1992)年になってようやく刑法を改正し、言論の自由を認めてからのことです。ほんのつい最近の出来事です。
日本に住む多くの日本人は、おかみは、民のためにあると心のどこかで信じています。だから、長く政権与党にあった政党に、ちょいとお灸をすえてやろう程度の軽い気持ちで、3年半前に民主党に政権を与えました。野党に政権をとらしてみたらどうか?彼らはもともと与党にいたひとたちじゃねぇか。そんなに悪いことなんてしやしねえよ、程度の感覚でした。
メディアもそれをおもしろおかしく煽りました。けれど、その結果何が起こったか。そしていま、ようやく日本人による日本の政治が戻ろうとしています。けれどいまだ民主党政権の時代がよかったと考えている、ほんのひとにぎりの馬鹿者が、中共や韓国、在日コリアンの利権のために働き、メディアを利用して日本中で工作の毒牙をバラまいています。
わたしたちは、いま、こうして日本語を話し、平和な日本に暮らしています。それができるのは、私たちの先人が、血を流して、必死に私達の国と文化を守ってきてくれたからです。その日本という平和で、言論が自由で、安心して暮らせる国家を、次の世代につなげていく。私達は日本人として、その責任と義務があります。そのために日本を取り戻す。
やくざものは、「ちょっとくらいいいじゃねえか」といって入り込み、他人の生活を破壊します。その「ちょっと」を許さない。凛とした態度が、おそらくいまの私たち日本人に求められています。台湾については、これも以前書いたことですが、日本が昭和27年にまがりなりにも占領統治から外れたのに対し、台湾では、戦後68年経った現在においてもなお、連合国(国民党)による占領が続いているということを、私達は理解する必要があります。もちろん、支那本土を共産党が支配し、国民党が支那本土に戻れなくなったという点も見過ごすことはできません。
しかし、空気や水の汚染が深刻化し、徐々に人の住めない国になりつつある中共は、もはや政権として長く持たないであろうと予測します。いくら国民を騙して尖閣等への覇権主義や反日暴動を煽ってみても、現実に人が住めない状況を招いた政治の責任から逃れることはできないからです。支那は易姓革命の国です。中共政府が天命を失ったとして倒れれば、次の政権にこれが取って代わられる。その代わる相手は、いま台湾にいる国民党政権かもしれません。
つまり、台湾から国民党が支那に帰る日が来るのかもしれません。であれば、いま台湾にいる国民党政権が支那本土に帰り、台湾は元台湾民で独立するか、あるいは再び日本に帰るかの選択が図れるようになっていく可能性もあります。未来は、歴史に学びながら、意識して築くものです。たとえ国であっても、いまある姿が未来永劫そのままあるわけではありません。
すべては人々の選択にかかっているからです。その未来を築く責任が、実は、私達日本には、ほんとうはあります。そのことを私達は自覚していく必要があるのではないかと思います。 -
228紀念館
時代の交代
日本から中華民國
日本は敗戦後の一時期GHQの占領統治下にあったが
それ以外に日本は他国・他民族の支配を受けたことはない
運が良かったのでもなく、侵略が無かったからでもなく
先人が不断の努力で備え、命を賭して戦い守って来たからだ -
228事件のきっかけとなった女性
台北市で菸草を販売していた女性
(林江邁、40歳、2人の子の母親) -
228事件の責任者:陳儀
1945年8月29日、陳儀は台湾省行政長官
後に警備総司令兼任に任命された
昭和20年10月24日、陳儀は台北に赴任
日本陸軍士官学校卒、妻は日本人(子供ナシ)
共産党への投降を企て逮捕される
1950年6月18日銃殺(享年67) -
昭和22年2月28日、当時の本省人はまだ日本国籍だった
「犬去りて、豚来たる」
(狗去豬來 Gǒu qù zhū lái グオチィジュウライ)」
約28,000人もの本省人が殺害・処刑された -
台湾を本省人の手に取り戻せ!
-
國立臺灣博物館
古代ローマの遺跡群、そしてこの博物館も
素晴らしい物はいつの時代の物でも素晴らしい。
科学技術の進化で何でも作りやすくなったが
ただそれだけのことで作った物の値打ちは
その時作った人間の資質がそのまま現れる
人間そのものは劣化すれど進化などしない
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■國立臺灣博物館
二二八紀念館を出て國立臺灣博物館に向かった。博物館は工事中で足場が組まれ残念ながら外観は分からない。『1908年に台湾総督府の博物館として設立された台湾最古の博物館』入場料は¥20元。
『1908年、第4代台湾総督児玉源太郎と民政長官後藤新平を記念するため、「児玉総督後藤民政長官記念館」として現在地に建築された。1909年に台湾総督府博物館に改称。野村一郎設計による現在の建物が1915年に完成し、川上瀧彌が初代館長に就任した。
列柱とドームを持つギリシャ風の建物内部には、イタリア産の大理石がふんだんに使われ、天井のステンドグラスには児玉家の家紋である軍配団扇と後藤家の家紋である藤を組み合わせた図案が使われていた。戦後の1949年に「台湾省立博物館」と改称し、2度の改修を経たのち、更に1999年に現在の名称となった。』
1915/大正4年完成、今年99歳か。ここで見たのは児玉源太郎と後藤新平の銅像だけで他は何も記憶にない。台中公園にもあったはずが台座の上に二人の像はなく「抗日忠勇将士民衆記念碑」と「孫文像」だった。
その他にも台北新公園の公園内、台南州庁(現:国家台湾文学館)前、高雄の寿山山腹に二人の銅像はあったようだが現存するのはこの博物館展示のこの二体だけ。
そして建物内部の豪華さには目を見張った。大理石もイタリア産の物が使われている。台湾は大理石の産地だが、当時は舶来品へのこだわりがあったようだ。一体当時の日本人の考え方・生き方・行動様式は如何なものだったのだろう。
鎖国の江戸時代から明治維新で一気の文明開化。頭にちょんまげ、腰に刀から産業革命真っ只中の世界を見て驚愕しただろう。しかし驚愕こそすれ何ら臆せず、それら西欧文明に追いつけ追い越せと、がむしゃらに突っ走っていた時代なのだ。
初代館長「川上瀧彌 かわかみ たきや、明治4年1月24日(1871年3月14日) - 大正4年(1915年)8月21日 享年44歳」は、阿寒湖の緑藻に「マリモ」の名をつけた植物学者。 8月20日新博物館は開館したが、激務がたたりその翌日8月21日に44歳で病死した。開館の翌日に亡くなった。
今もこれだけ重厚優美で豪華なら、完成時の姿や如何に?川上館長の魂、今もここに残る。博物館を出て台北散策予定は終了した(14:17分) -
1908「児玉総督後藤民政長官記念館」
1909「台湾総督府博物館」
1915/大正4年:現在の建物が完成
この博物館内で見たのは
児玉・後藤の銅像のあるこの一角だけ -
初代館長:川上瀧彌
新博物館は開館したが、激務がたたり
その翌日8月21日に44歳で病死した -
初代館長「川上瀧彌 かわかみ たきや」
明治4年1月24日(1871年3月14日) - 大正4年(1915年)8月21日 享年44歳 -
児玉源太郎
-
児玉源太郎の銅像
戦後銅像は撤去されたが地下倉庫に密かに保管
2008/平成20年博物館設立100周年記念に
児玉と後藤の銅像が3階陳列室に復活した -
後藤新平
-
後藤新平の銅像
-
一階ロビー天井のステンドグラス
児玉家の家紋「軍配団扇」と後藤家の家紋「藤の花」
それぞれの家紋を組み合わせた図案のようだが・・・ -
児玉家の家紋「軍配団扇」
-
後藤家の家紋「下がり藤」
-
博物館を背に出口前で館前路を写す
右前方高層ビルは「新光三越」
台北散策はこれで終了する
午後2時16分 -
台北から桃園空港へ
14:37分、國光客運、台北西站A棟「5」より
桃園空港に向かう ?
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■台北から桃園空港へ
その20分後には空港行きのバスに座っていた。そして空港に到着(15:28)するも、その時点でもまだピーチは第二ターミナルと思っていた。17日に桃園に着いた時に「前とは違う」と明らかに違いが分かっていたのに確認もせず第二ターミナルでバスを降り、案内所で「ピーチは?」と聞いたら第一ターミナルと言われた。やっぱり。
「MM28 台北(タイペイ)/桃園国際空港/18:50発 大阪(関西/関空)/22:10着」で時間は余裕にある。前にも乗った第一、第二を繋ぐ航厦電車(Háng shà diànchē ハンシャディエンチャァ スカイトレイン)に乗って第一ターミナルに行く。 フライト掲示板を見たら「peach航空」は「楽桃航空 Lè táo hángkōng ルウタオハンコン」だった。
搭乗手続きまでも時間があるので、拉麺とコーヒーで時間を潰す。あとは帰国するだけ。ホッと一息と言いたいところだが、関空到着が定刻22:10と遅く、出発が遅れたら関空→三ノ宮行きのリムジンバス最終23:00に間に合わないおそれがある。
取り越し苦労が趣味であり、今流行の「ネガティブorポジティブ」ならネガティブ思考であり、常に最悪を想定して心の準備をしておき、その最悪を回避できたら得したと喜ぶ。これも損得勘定からの発想だろう。なんでも得をしたいという我が原点がここににあるハハハ。
出発2時間前の16:50分少し前から手続きが始まった。こんな夜遅い到着でも乗客は一杯並んでいる。17:20分には出国審査も終わり、搭乗口「B7」の前まで来ていた。
この桃園空港に来るたびに頭に浮かぶのは一葉の写真。その写真は、この桃園飛行場で昭和二十年四月二十二日午前八時半頃に撮影された。 -
15:27分 空港到着 バス乗車時間約50分
ピーチ航空は第二から第一ターミナルに変更していた -
第二から第一へ、この電車に乗って
-
ピーチ航空は楽桃航空(Lè táo hángkōng ラータオハンコン)だったのか・・・
楽桃航空 MM28 18:50 -
搭乗手続き開始まで、空港で休憩
拉麺を食う
14:06分 -
2時間ちょっと前から手続き始まる
-
この桃園空港からも特攻隊が出撃していった
そのことを、ここに来るたびに思い起こしたい
台湾桃園飛行場で。昭和二十年四月二十二日午前八時半頃。
http://www1.r3.rosenet.jp/nb2hoshu/MihaOozorani-Nisimura.html
出撃1時間半前のこの笑顔、この笑顔を見てなに思う -
18:55 B7 搭乗口よりやっと搭乗始まる ?
遅れるのは値段に含まれ当然のようだ
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■サラバ台湾、また来る日まで
土産に免税店でリュックに入りそうな三箱のチョコレートを買った。ピーチ航空MM28は、関空から桃園へ来る便がそのまま折り返す。前回もそうだが遅れるのが常のようだ。料金割安にはそれなりのデメリットはあるだろう。
仕方がないと諦めるしかない。料金高いのに遅れるのよりはずっと良い。離陸時間のはずの18:50分なってやっと搭乗が始まった。座席は17C、左側三席の通路側。
30分遅れの19:20分頃に離陸。関空到着22:10分、30分遅れなら22:40分到着予定。遅い便なのに乗客はほぼ満員。台湾人でこの便を使うのは旅慣れている者だろう。私は台湾に夜中に着く便での一人旅はまずない。
機内で「千房のお好み焼き」を頼んだら売り切れ。一個だけ残っていたカレーパンとオニオンスープを頼んだ。22:34分関空到着。
最終リムジンバス出発時刻の「23:00」まであと26分。入国、手荷物検査でよほどのアクシデントが発生しない限り大丈夫。でも今まで「リュックの中を点検する」と手荷物検査をされたのが過去二回ある。最近はいつも問題ないが、世の中何が起きるか分からない。 -
18:50(発)が19:10、30分は遅れといわない
納得、以後言葉に気をつけます -
思い切って「千房のお好み焼き」を頼んだらすでに売り切れ
残るは「焼肉たむらのお肉が入ったカレーパン」だった -
22:34分 関空到着
第二ターミナルから三ノ宮への
リムジンバス最終バスは「23:00」
この段階で、あと26分
なかなか出口開かず、前に進まず
気持ちは焦る -
2014/平成26年2月22日(土)午前0時16分
JR三ノ宮プラットホーム ?
2月17日(月)〜21日(金)四泊五日の旅行なのに
これでは四泊六日の旅行になるのか?
旅行保険はすでに適用外
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■なんとか無事帰宅
何も起こらず無事に最終バスに乗りJR三ノ宮駅のプラットホームに立ったのは日付も変わって22日(土)、0:16分。去年の10月台湾から帰国した時と同じ0:22分の新快速に乗る。去年の時もそうだったが、こんなに遅くても普通の通勤風景のようなサラリーマンの会社帰りの姿が多くいる。
金曜日の夜と言うことで飲み会や食事会で日頃の鬱憤ばらしの後の週末の帰宅と言う人もいるのだろうが、普通に帰宅のような感じの人たちも多く新快速に乗っていた。時刻を見ないで車内やホームの風景だけなら午前様帰宅の車内風景とは思わない。この時間に女性が多く乗っているのもびっくりだ。
0:43分西明石着。0:45分西明石商店街を抜けて自宅到着は0:55分。自宅から駅まで10分ほどか、便利な場所に住み着いたものだ。新快速の停車駅・新幹線の駅もある。自宅から海辺まで徒歩15分。気候温暖自然災害もなし。
33年前に神戸市垂水区からこの地に引っ越した時は、まだこのあたりは下水道がなく汲み取り便所だった。それにはぶったげまげた。なんや新幹線の駅もあるというのにまだ水洗トイレもないのか?と。
そして水洗化になったのは、それから15年以上たってからとなった。住めば都とは良くぞ言ったなり。水洗化は台北市や満洲新京のほうが遥かに早い。ともかく四泊五日台湾への旅から無事に帰国できたことを仏壇の前に座って感謝の報告。次はどこに行くのだろう。その前に旅行記作りが明日から始まる。
パソコンの電源を入れて、二台ともレンズエラーの表示が出たまま。一台は壊れたデジカメ。もう一台は不調のデジカメで撮影した写真が無事にパソコンに入るのか?心配だったが写真動画とも無事に入力終了。これでホッと一息となる。
-
0時22分(発)姫路行き新快速に乗る
ちょっと遅れてきた
へェ〜、この時間なのに一杯だ -
夜中の西明石駅
毎年二回海外旅行を目標にこの10年
今年一回目、次はどこへ -
駅前、西明石商店街が再開発される時が来るのだろうか?
この世に永遠なる物はナシ
乞うご期待 了
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宜蘭・澳底・基隆・台北の旅から帰国して思うこと
二年前の平成24年9月18日〜9月27日まで反日騒動吹き荒れる北京・張家口に行って以来、大陸シナへの足は遠のいた。それまで海外旅行といえば、年に一回が満洲を中心とした大陸中国が恒例になっていた。今回の旅で私の海外旅行は計30回。その内半分強の17回が中国大陸だった。
それが去年の春に台北・金門島へ行って心地良さを知り、その後続けての台湾行きとなっている。しかしその台湾でも「ひまわり運動」が起きたように大陸との接近が強まるばかりだ。米国の衰退、中国の野望、そして中韓朝のあくなき反日言動。そんな現実を前にして、明治、大正、昭和の激動期を生き抜いた日本人たちを思う。
今の現状より遥かに厳しかったであろう世界情勢、そんな状況下東アジアで日本は戦いながら孤軍奮闘自主独立を貫いていた。この台湾に来れば、そんな時代の日本を思い起こせる。それは日本時代の建物に出会い、八堵駅ホームで声を掛けてくれた男性の言葉にである。
その台湾男性の親父さんが天皇陛下のことが大好きで「今も天皇陛下の話になると涙を流す」という。その一言を聞けただけで今回の台湾の旅は生涯忘れ得ぬ意義深い物になった。昭和25年生まれの私は「侵略」「侵略」と自虐史観呪縛の中で生きてきたから、いくらそれを否定しても心のどこかに今も日本人として自信も誇りも持てない部分がある。
しかし台湾では今も敗戦までの素晴らしい日本人の物語が多くあり、実際の記念碑、建物、神社跡なども沢山残っている。それらを目の当たりにした時、当時の日本人としての誇り、気高き精神や勇気を感じることができる。芸術作品に感動するように、やくざ映画・戦争映画を見終わったあとの興奮状態のように、それが私には何とも言えない。
今の日本にいない気高き日本人が本当にいたのだと、ここに来れば思える。今それが私の台湾の旅となっている。宜蘭では陸海軍少年航空兵の特攻隊出撃の状況も少し分かった。それまでは何も知らなかったが少し分かった。分かっただけで後に続く者として言葉もないが、心から彼らに感謝し哀悼の意を表したい。
まだ今年二回目の次の旅先は決めていないが、また台湾へ行くかも・・・。50年間日本だった台湾。今台湾にあるのは敗戦までの日本だけで敗戦後の卑怯卑屈な日本はないから。
皇紀2674年:2014/平成26年4月吉日(記)
台北散策(二)
「台湾総督府電話交換局 」「国軍歴史文物館 」「臺北府城門 小南門」
「中華民國国防部」「臺北府城門 南門」「228紀念館」 「國立臺灣博物館」
http://youtu.be/IN7oQWfpADw
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