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朝の新民路 <br /><br />ホテル前に出て雨のないのを確認しホッとする <br /><br /><br />//////////////////////////////////////////<br /><br />3日目:2月19日(水):曇り後雨 <br /><br />宜蘭〜澳底〜基隆 <br /><br /><br />2014/平成26年2月19日(水)<br /><br />■宜蘭二回目の朝<br /><br /><br />昨日に続き宜蘭二回目の朝も雨はなくひとまずホッとする。雨さえ降らなければ曇りでも何でも贅沢は言わない。デジカメ片手で歩いて歩いての旅であり、来台前に日本で見ていた天気予報では、雨を覚悟の毎日だったのでありがたい。 <br /><br />7時半の朝食を前に散歩に出たら今にも朽ちかけた日本風建築がかろうじてその姿を保っていた。門柱には「和睦路 22 新興里」と美しい表札が貼り付けてあった。一体これは何なのか? <br /><br />散歩から戻って部屋に運んでくれた朝食のマクドナルドのチーズバーガーと温かいコーンスープを食べる。昨日は義歯の前歯が割れて大変だったが、瞬間接着剤の威力は絶大で前よりピッタリ嵌っている。そして二泊した「宜蘭市新民路62號:慕夏精品旅館 M&amp;ugrave; xi&amp;agrave; j?・ngp?・n l?・gu?・n ムーシャジンピンリィューグアン」を退房してまず宜蘭駅に向かった。 <br /><br /><br />

宜蘭・澳底・基隆・台北を訪ねる:3日目

15いいね!

2014/02/17 - 2014/02/21

201位(同エリア408件中)

0

74

明石DS

明石DSさん

朝の新民路

ホテル前に出て雨のないのを確認しホッとする


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3日目:2月19日(水):曇り後雨

宜蘭〜澳底〜基隆


2014/平成26年2月19日(水)

■宜蘭二回目の朝


昨日に続き宜蘭二回目の朝も雨はなくひとまずホッとする。雨さえ降らなければ曇りでも何でも贅沢は言わない。デジカメ片手で歩いて歩いての旅であり、来台前に日本で見ていた天気予報では、雨を覚悟の毎日だったのでありがたい。

7時半の朝食を前に散歩に出たら今にも朽ちかけた日本風建築がかろうじてその姿を保っていた。門柱には「和睦路 22 新興里」と美しい表札が貼り付けてあった。一体これは何なのか?

散歩から戻って部屋に運んでくれた朝食のマクドナルドのチーズバーガーと温かいコーンスープを食べる。昨日は義歯の前歯が割れて大変だったが、瞬間接着剤の威力は絶大で前よりピッタリ嵌っている。そして二泊した「宜蘭市新民路62號:慕夏精品旅館 M&ugrave; xi&agrave; j?・ngp?・n l?・gu?・n ムーシャジンピンリィューグアン」を退房してまず宜蘭駅に向かった。


旅行の満足度
5.0
  • 日本時代の建物だと思うけど<br />遺すのか?はたまた潰すのか? <br /><br />宜蘭縣政府文化局も迷っていると見える <br />http://ylhm.e-land.gov.tw:8080/index.jsp

    日本時代の建物だと思うけど
    遺すのか?はたまた潰すのか?

    宜蘭縣政府文化局も迷っていると見える
    http://ylhm.e-land.gov.tw:8080/index.jsp

  • 昨日はこの朝食ホットドッグで義歯が割れた <br /><br />瞬間接着剤は素晴らしい!以後びくともせず <br /><br /> マクドの朝食は気が利いてうまかった <br />

    昨日はこの朝食ホットドッグで義歯が割れた

    瞬間接着剤は素晴らしい!以後びくともせず

    マクドの朝食は気が利いてうまかった

  • リュックをコインロッカーに入れて <br /><br />駅前から忠霊塔に向かう、公園は背中方向 <br /><br /><br />//////////////////////////////////////////////////<br /><br />■宜蘭公園(中山公園)に向かう <br /><br />宜蘭駅でリュックをコインロッカーに預けて、いざ中山公園:忠霊塔へ。昨日と同じ景色は無論だが、中山公園の朱塗りの門を潜って南方向に歩けば、宜蘭演藝廳なる建物が右手にあり、その左手方向に首塚の獻馘碑、そしてその右に海軍通信所跡、その奥に忠霊塔がある。昭和20年5月特攻隊員がここで出撃前の壮行会をした時は、この公園はどんな感じだったのか・・・。 <br /><br />忠霊塔も絵にあるように鳥居と参道があったのだろう。でも絵は残っているが写真がないのは何故なのか?きっとどこかにあるのだろうが私はまだ見つけていない。忠霊塔の周囲の樹木も大樹となり、広場と言っても天幕を張るような空き地もなく、そんなことを考えながら飛行場に向かう前のひと時をここで過ごす。日本から持ってきた煙草と森永のビスケットを供える。 <br /><br />でもその時の私の慰霊の対象は、どうもこの忠霊塔に眠っている方たちではなく、この忠霊塔の前で語り合っている特攻隊員たちへの哀悼だっただろう。今更だが松尾大尉他13名の皆様には申し訳ない。この地で亡くなった皆様方のご冥福を祈ります。 <br /><br />そしてここから昨日予行演習した道を再び飛行場へと向かって歩いた。まず途中に蘭陽高等女学校に立ち寄り、その時は無論、帰国後もしばらくは「中野先生はこの学校にいたのだろう」と思っていたが今は違う、中野先生たちがいたのは宜蘭尋常小学校(蘭陽高等女学校が小学校の校舎を間借りしていた)だったと思っている。そうでないと先生が書いた日記の内容と話の辻褄が合わないから。 <br />

    リュックをコインロッカーに入れて

    駅前から忠霊塔に向かう、公園は背中方向


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    ■宜蘭公園(中山公園)に向かう

    宜蘭駅でリュックをコインロッカーに預けて、いざ中山公園:忠霊塔へ。昨日と同じ景色は無論だが、中山公園の朱塗りの門を潜って南方向に歩けば、宜蘭演藝廳なる建物が右手にあり、その左手方向に首塚の獻馘碑、そしてその右に海軍通信所跡、その奥に忠霊塔がある。昭和20年5月特攻隊員がここで出撃前の壮行会をした時は、この公園はどんな感じだったのか・・・。

    忠霊塔も絵にあるように鳥居と参道があったのだろう。でも絵は残っているが写真がないのは何故なのか?きっとどこかにあるのだろうが私はまだ見つけていない。忠霊塔の周囲の樹木も大樹となり、広場と言っても天幕を張るような空き地もなく、そんなことを考えながら飛行場に向かう前のひと時をここで過ごす。日本から持ってきた煙草と森永のビスケットを供える。

    でもその時の私の慰霊の対象は、どうもこの忠霊塔に眠っている方たちではなく、この忠霊塔の前で語り合っている特攻隊員たちへの哀悼だっただろう。今更だが松尾大尉他13名の皆様には申し訳ない。この地で亡くなった皆様方のご冥福を祈ります。

    そしてここから昨日予行演習した道を再び飛行場へと向かって歩いた。まず途中に蘭陽高等女学校に立ち寄り、その時は無論、帰国後もしばらくは「中野先生はこの学校にいたのだろう」と思っていたが今は違う、中野先生たちがいたのは宜蘭尋常小学校(蘭陽高等女学校が小学校の校舎を間借りしていた)だったと思っている。そうでないと先生が書いた日記の内容と話の辻褄が合わないから。

  • 中野先生戦中日記 <br />「蒼空の果てに」より抜粋 <br /><br />http://senri.warbirds.jp/10kaiko/06nakano/index.html<br /><br />五月十日 <br /><br />今日一日中、ワイワイと机のまわりの賑やかなこと、出撃延期となる。難波江機大型巡洋艦轟沈の戦果確認される。他の機は電信不能にて未確認との事なり。切角の出撃をと、シャバの人間は口惜き限りなり。 <br /><br />長岡先生昨夜兵舎を訪ねて、柴田さんにはちまきを上げたり、戦果をたずねたりされたとの事。難波江さんの戦果を喜んでくれる。夕方暗くなってから鉱工局の前で、黒河内少尉と話しておられる所へ行き合はせる。「難波江は之で少尉確実ですね」と。鳥居さんよ安らかに眠れ。どんなに必死に電鍵をたゝかれたことか。 <br /><br />「あゝ眠い眠い」って誰かが言った時、「もう幾時間かしたら、永久に覚めない眠りにつくんだよ」と言っておられたっけ。電信機が悪いとは一言も言はれなかった黒岩さん。講堂で皆さんと話した時、元山中尉が慶応の水泳の選手であったこと、昨日の出撃の態度が実に立派であったことを話して下さる。 <br /><br />私が、鉄ちゃん(花蓮港小学校の教え子、現在広島大学在学中)の話をして、大好きだと言ったら石原さん、「何故? 純情だから? 僕之でも純情なんだけどね」と。商業学校時代軟派だったとかって、松下さんが話して聞かせて下さる。石原さんて必ず私の真前の席をしめる。「村上先生に似てる」と言ったり、「村上先生が似てるのでしょう」と訂正される。 <br /><br />それから右代表ってわけか? 石原さん、「先生はどうしてお嫁にいかないの?」って尋ねられるので、「母親代わりで妹と弟を養ってたから」と答えたけど、何だか納得いかないって顔をされて、「ぢやあ犠牲になったの?」「犠牲ぢゃないの、それをいゝことにして我儘を通してるの」って返事をしたが、何か割切れないものがあるらしい。 <br /><br />皆さんの顔と名前がまだはっきりしないなあ。昨日、玉井司令に叱言を言われたことを話したら、手をたゝいて喜んでる。海軍さんてニックネーム式に呼び合って親しみがある。敬礼だって至極簡単だし、上下の間に親しみがあるって事は愉快だ。 <br /><br />渡辺さん=大柄なおとなしい人。 松下さん=寂しそうな所のある人。松ちゃん。松。<br />石原さん=村上先生と似ている人。案外小さい。石さん。<br />福元さん=ほくろ。早口で朗らか。フクちゃん。<br />柴田さん=朗らかだけど一寸恐い。かんしゃく持ちって感じ。柴。<br />   持田さん=大柄な人。エヘヘ……と笑い方に特長がある。モッチャン。<br /><br /><br />フクちゃんフクちゃんって言うので、ニックネームかと思ったら違ってたし、黒岩さんのことクロちゃんって言ってたのも如何にもその人らしい感じがする。持田さん、福元さん、柴田さん三人して先生の真似をして、「先生、上手でしょう」って言われるのが本当に板についてる。感心してたら予科練を出て飛行練習生を終了してから教員をしてた由。道理でと感心する。女学校でも教官といふ言葉を使ふのってたづねられたっけ。 <br /><br />五月十一日 <br /><br />出撃々々と言いながら、今日も忠誠隊は出撃延期なり。二十四時間生きのびたと笑っている。福元さん今日はオルガンばかり弾いてる。皆して、「先生のニックネームを教えて」と言われるので、「ないの」って答えたが信用せず。生徒が教えないのだと言って、専攻科生に尋ねているけど専攻科生も教えず。 <br /><br />「先生は恐いんだってね、だから叱られるから教えないんだよ」と柴田さんが盛んに教えろ教えろって、専攻科生にたずねているけれども教えず。こちらから見てたら、山田やら藤崎がこちらを見たので私が、メーツってしてみせたら、石原さんが丁度机の右側にいてそれを見付けて吹出している。 <br /><br />「先生の今の顔、写真に撮っておけばよかった、案外茶目っ子だね」と。ニックネームは、花蓮港時代の「キャンデー」だけど、遂に「アネゴ」は話さず。故郷の話が出て、私が小倉って言ったら石原さんが、「一昨日先生が旗を上げた中野ね、小倉なんだよ、今は山口に家があるけど床屋をしている筈だ。親類ぢゃないの?」って言われるので、あゝ何故旗を上げる時口まで出かゝった、「おくにはどちらですか」を言わなかったのか。胸が一ぱいになって涙が出て来たので、慌てゝ部屋をとび出す。 <br /><br />大声を出して泣きたい様だ。講堂のかげで泣いたけど、じろじろ見られるので体裁が悪くなって、入って又話を続ける。石原さん一寸不思議そうな顔されたっけ。長岡先生宅にて、 すきやきをすると先生から相談があったけど、私は森本さんと原田さんが飛行機をとりに行って留守中なので反対したい気持ちだけど、私がするのではないし、先生の気の済む様になさる方がよかろうと、強いて反対せず。 <br /><br />私にも来てと言われたけど、今日は高梨先生宅に、お手伝いに行く約束になっているので高梨先生宅の方へ伺う。夕方行って、遅かったと奥さんに叱られて不愉快。柴田さん松下さん当村さん(腹痛とかって食べられなかった由)等、元木中尉、柿本少尉もみえた様だった。お二人で酔って帰られるのにお会いした。 <br /><br />当村さんと石原さんが、山下大尉のことを話される。兵学校も航空学校も恩賜だとか。頭がよく流石にちがうとほめている。[山下大尉…海兵69期・元木中尉…海兵72期] <br /><br />忠誠隊は教員をしてた人間ばかりって言われるので、「それでゝ特攻?」って尋ねてたら、予科練を出た練習生連中が台湾に来てくれなくなったので、教員の我々が帰ることになり、基隆で便を待つこと一ヵ月余。 <br /><br />船で帰りかけた者が沈められ船は嫌だと言ったので、輸送機で帰ることになり台北へ引返し、(一ヵ月遊んでいるうち金はなくなり、暇はあってもすることなし、映画館に何回も入っては眠ってたのだとか)くじを引いて順番に十五名か十七名かゞ台北に残り、後の者は新竹から便があるからと新竹へ行き、翌朝すぐ出発してしまい、台北に残った者は、ダグラスが脚の故障で左翼が地についているのを、ヤッサヤッサ起こし、やっと起こしたと思ったら、ドカンドカンと空襲でダグラスがやられてしまってさ。 <br /><br />そこへ台南から引返せと電話が入ったので引返したら、沖縄作戦に九六があるから、特攻編成して参加することになったとか。教員をしておられた方ばかりと聞いたが道理で何となく骨のある人ばかり。大義隊の方とは全然ちがった空気を感じたっけ。 <br /><br />五月十二日 <br /><br />十日からずっとお守り袋とはちまき作り。難波江さん鳥居さん中野さんの事でこりたから。清原先生の坊やだったと思うけど、「先生、特攻隊の人が来て呼んでるよ」との事なので部屋へ行ったら佐藤さんが、「石けんを上げます」って言われるので、「勿体ないから」っておことわりしたら、「持ってたってそれこそつまらんシャバにはないでしょう」って二個下さるので有難く戴いて長岡先生と分ける。 <br /><br />藤井さんは左側の机によく腰掛けて話しかけられる。当村さんも腹具合がいゝのか、時々顔を出される。[藤井一飛曹…甲飛12期]<br />児島さんが、「先生、俺にもはちまき作って下さい」っておっしゃるので作る。今日は福元さん、プリプリしているのでどうしたのかと思ったら、公共物にふれるなって言われたので、オルガンが弾けないってわけ。 <br /><br />「私にことわったっておっしゃればいゝでしょう」って笑ったら「気分をこわした」って今日は弾かず。皆して出撃が延期々々で気分がだれるって、ブツブツ。柴田さんが、「先生今朝ね、訓練の後で石が飛行場で山下大尉から、『オイ石原っ!』て呼ばれたので、『ハイ』て駆けて行って敬礼したら、『オイ石原、女学校の先生、面白いかっ』て尋ねられてね、『ハイ面白いです』て大きな声で返事をしたんだよ」って話されるので石原さんに、「本当?」ってたずねたら、「本当、とても大きな声だったってさ」と笑ってる。 <br /><br />皆で大笑いしたけど、事実山下大尉が何か御用で部屋にみえても、必ず講堂の机のまわりに集まってワイワイ大さわぎだし。石原さんだけじゃない、誰か彼かいない時はないのだから、山下大尉に言われるのも無理なしと思う。特攻隊の人に出来るだけの事はして上げたいと思う一方、何か辛くてもう親しくすまいかと思う。にも拘わらず矢張り親しさはどんどん増していく一方。 <br /><br />そう何かの話から、「出撃状況を親がみたら泣くだろうか?」と石原さんが言い出されたと思うけど。そんな話が出たので私が、「泣かない」って断言したら、「安心した」って言っておられる。「そりや発進してしまったら、泣くことも涙をこぼすこともあり得るけれども、それまではきっときっと必死になって涙をこらえるだろうと思う。 <br /><br />私の狭い経験だけれども、弟が応召して入隊する時、私がついて行ったんだけど、弟は私の涙もろいのを知っているので、泣かないかって心配したけど、涙をみせず別れたので安心したって言ったことがあるし。黒岩さん達の時も、後では泣いたけれどもその場では泣かなかった」って話したら、笑いながらうんうんってうなずきながら聞いておられた。 <br /><br />「昨日温泉に行ったのですきやきを食べそこなった、もう一年半ばかり食べないので食べたいなあ」って石原さんが言われるので、「じゃあ今晩すきやきをして上げましょうか」ってことになった。何もなかったけど気持ちだけでもと、長岡先生と相談して準備する。夕方、「先生、」って石原さんと松ちゃんと二人で、ビールを七本下げて来られる。 <br /><br />準備が出来るまでレコードでも聞いて戴こうと思ったら針がなくて素子ちゃん(長岡先生の姪)に借りて来て貰う。支度が出来て八畳の方で始めたら、「先生も一緒に食べましょう」と進められるので、こしらえるのと食べるのとで急がしい。食べないでいると、「食べないと駄目だよ、肉なんて滅多に口に入らんでしょう」って、わざわざお皿にとって下さるので、一切れでも多く食べて戴こうという気持ちと、反対になって困る。 <br /><br />「矢張り我々のこしらえたものとは味がちがうね」と感心されるので、おかしくなってしまう。石原さん達にビールを飲まされたっけ。コップを用意してあったので(学校でコップを疎開荷物に入れたお話をしてあったので)喜んで下さる。でもあのジヨッキで飲ませて上げたかったとつくづく思う。 <br /><br />藤井さんもみえたけど、お腹が悪いとかって食べず、梅肉エキスを上げたんだったっけ。レコードばかりかけて、窓に腰かけてじっと聞いてたり、お母さんお母さんって、お母さんに会いたがっていらした。 <br /><br />そろそろスキヤキがなくなる頃になり、柴田さんいゝ御機嫌で少しふらふらしながら来宅される。それからが断然賑やかになる。それまで遠慮してた唄もはじまる。石原さんの声がいゝのに感心する。松下さんと柴田さんは大して上手ではない。柴田さんと石原さんが、二人して仁義のきり方を実演したり、柴田さんが踊ったり。すっかり嬉しくなってしまう。 <br /><br />二杯目のビールには少し口をつけたけど飲めず、勿体ないので石原さんが飲んで下さる。飛行服を着せられたのも今晩だった。ニヤケてるて冷やかされたっけ。ニコニコ笑ってる石原さんの笑顔に特長があった。(七・一〇追記。今にして思えば此の晩、明日出撃がわかっておられたのではないでしょうか?) <br /><br />松下さん玄関の障子の前にチョコンと座って、「石さん、もう失礼しよう」って言ってるけど、石原さんも柴田さんもいゝ御機嫌で松下さんの方を引きとめる。十二時一寸過ぎてから、「ぢやー」って帰られる。唄いながら御機嫌よく。「明日も出撃見合わせだったらもう一度スキヤキ会をしましょう」と約束して。あゝ疲れた。でも気持ちのよいそして又、思い出深き一日となるであろう。本日黒岩さん達の戦果発表あり。 <br /><br />五月十三日 <br /><br />学校に出勤すると直ぐ入って来られる。それも北側の入口から必ず。そして特長のある敬礼をして。連日警報のみで何事もないので、今日も多勢来ておられる。(七月十日追記。毎朝の訓練は早かったですからね。しかし、此の日は訓練がなかったと思います。) <br /><br />命発せられ本日出撃と。残る者松下さんと当村さんのみ。森本さん原田さんは台南へ飛行機をとりに行って未だ帰らず。石原さんは森本さんの代わりとの事。編隊が決まっているので予備の中からうめて行くわけ。本日はドカッと多勢の出撃。何とあわたゞしいことか。九日は急であった為、心落着かずアッと思ったのだけど、今日は少し人にも馴れてきた所ゆえ。石原さんの顔をみてたら、不覚にも泣けてしまった。あの特長のある敬礼。すきやきの約束遂に無となる哉。 <br /><br />福元さん長岡先生に、「先生、そんな顔しないでよ」とおっしゃる。「さあ最後に一曲」とオルガンを弾いてた福元さん。相変わらずバックを下げてニコニコ顔。私は何かを縫つてた。でも何を縫ったか思い出せない。多分はちまきだったろうと思う。唯じっと机の前に腰かけてた。だって脚に力がないのだもの。柴田さん落着かないらしくて出たり入ったり。 <br /><br />何時もは騒ぐ柴田さんも流石に今日は上がってる感じ。「操縦者は偵察員の言う通りになるんだよ」と、その真似をしたり敬礼の真似をしたりして笑わせて下さる。児島さんは右側の机で黙々と手紙を書いておられたが、「先生、之を御願いします」と、台北宛の二通とそれから母上宛の一通、遺書を託される。持田さんは、「さあいよいよだ!」と板書して又例の通り教員の真似。佐藤さんと二人して現金八十四円幾らかを、「先生の考えで、何か有効に使って下さい」と託される。 <br /><br />石原さんは遺書二通、遺髪。(髪という字をたずねられて私の机の上で書かれ、此の中から先生の分もとってねと)遺髪と短刀を何年先きでもよいから、沖縄作戦が落着き確実に届くとわかってから確実に届けてほしいと託される。責任重大だ。今までは何時死んでもよいと思った私だったが、之では死ねないし、どんなに辛くとも生きていなくてはならぬ。あゝ代われるものなら!  <br /><br />私が男に生まれたらよかったという気持ち、此の時節に此の運動神経を有効に使えぬ残念さを話した時、その気持ちは認めると皆さんで言って下さったのに。「それから下駄(お姉さんへのお土産のつもりであったろうに)とアルバム先生に上げるから永久に持ってゝね」とおっしゃる。特攻隊編成の大きい写真が二枚あったので(一枚は柴田さんの分)一枚は長岡先生に。 <br /><br />酔って倒れかけてる柴田さん。小さい方のは当地に進駐される前。台南から台東へ進駐、一度出撃したけど敵艦を見出せず引返し、それから宜蘭へ進駐されたとの事。板東さんが後席に我妻さんを乗せてゝ曽文渓の河原に不時着。我妻さんは首が曲がって動かせず、派出所に置いて帰隊するのと、迎えに行く福元さんと入れちがいになって我妻さんと福元さんとが写っていない由。 <br /><br />寺田さんは石垣の海に不時着。海岸へ向かって泳いでいるのは認めたけど帰着せず。石原さんが探しに行ったとか。内藤さんは台東から宜蘭へ進駐する時、スコールの中で行方不明となりし由。私が写真を喜んでいるのを机のそばで石原さんニコニコ見ていてくれた。部屋と講堂の間を行ったり来たり。矢張り落着かないのかしら。 <br /><br />九日の黒岩さん達の時はアッという間だったので、何も書残して戴けずに残念だったのにこりて、今日は幸い一郎(実弟)が遺して征ったハンカチに寄書きをして戴く。出たり入ったり、ごたごたしているけど、それでゝ心の中はシーンとしてしまう。窓に腰かけているのを見かけるけど、さて集まってゝも何も話すこともなし。 <br /><br />松下さんからの注文で赤か黄の花をと言うので金子さんに依頼して探して貰う。金子さんにも一度出撃状況を見せて上げたくて呼んでおく。三、四人集ってる時、松下さんがうつ伏してたら石原さんが、「泣いたりするなよ、後からすぐ来られるからね、すぐ来いよね」「うん」と言ってる。はじめ松下さんも今日征く筈だったのが残された由。 <br /><br />集ってゝも取り立てゝ話すこともないけれども、皆して「宜蘭で先生みたいな人に会えると思わなかった。宜蘭ってつまらない所だったけど」と言って下さる。児島さん、はちまきを持って来られて、「何か書いて下さい」とおっしゃるので、片端に「御成功を祈る中野ユキヱ」片端に「必殺必中」と書く。 <br /><br />石原さんも持って来られたので、真中の日の丸の両側に必殺と書いたら「必中も入れて」と言われるので、片端に「必中」と入れ、片端に「頑張れ」と書きはじめると「何を書くの?」と不思議がられるのでその下に「一ちゃん」と書くと「ユキヱ姉さん」と書いてとせがまれ、小さく「ユキヱ姉」と書く。(私の実弟一郎を、一ちゃんと愛称していたのと、石原さんの名前も一郎で、お家で皆さん一ちゃんと呼んでおられた由)「ウワー之でドンピシャリ、有難とうございました。必ずやりますよ」と大よろこび。 <br /><br />柴田さん、だまって机の上に毛糸の腹巻を置いて行かれる。昼食をとる気になれず。部屋に誰もいない時、石原さんがツカツカと入って来られ机の右側に立たれ、「ねえ先生、僕の事、本当の弟の様に思うね」っておっしゃる。「うん」とうなずくのがやっとなり。口を開けば涙がこぼれて泣けてきそう。返事もせず悪かったかもしれないけど、石原さんには私の気持ちはわかって戴けたと思う。 <br /><br />そりや誰彼の差はないけれども石原さんには「一ちゃん」と呼びかけたい様な身近なものを感じたのは何故だろうか?。南部さんがおっしゃる様に、「日本人は皆兄弟だよ」と。そうあるべきことを私は痛切に体験したわけかしら。嬉しいとも悲しいとも表現出来ない気持だった。「逢うは別れのはじめ」とは誰が言いそめし。特攻隊員と知りつゝも、一日々々と生きておられる様な気がしていたのに、あわたゞしい空気! 引きのばしたい様な時間も刻々と過ぎてゆく。 <br /><br />総員整列五分前! 一人々々「先生、御世話様になりました」と御挨拶あり。何とも言葉もなく頭を下げるのみ。「長生きして下さいよ」と持田さんと福元さん。あゝ何をか言わん! 春秋に富むべき人達からこの言葉を受けるとは。空母轟沈! 空母轟沈! と誰も彼も笑って征く! <br /><br />九日と同じくトラックに便乗。今日は何も文句を言われず。トラックへ同乗したのは松下さんから「先生!」って言われた故。石原さんに手を引張って貰って乗る。玉井司令くそくらへ! <br /><br />飛行場へ着くとすぐに乗機を見に行かれて中々帰って来られず、待っている時間の長いこと。やっと帰って来られると落着く暇もなく整列。訓示を受けて解散してやっとゆっくり出来たのは二十分間。石原さん児島さんから落雁をいたゞく。石原さんからいなりずし。飛行場でも実に賑やかなこと。福元さんが大きな人形を腰につけているのが目につく。携帯食料とサイダーを受取る時、玉井司令の真似をしながら皆さんがこられるのでおかしくなるけど笑いにならず。「ガーベラ」がしおれたって心配してた石原さん。 <br /><br />出撃時刻は九日と同じ。二人乗っているは一番機のみ、前席操縦員、後席偵察員。 <br /><br />第一陣(九六式)<br /> 一番機、阿部中尉 福元さん  二番機、持田さん  三番機、森さん <br /><br />第二陣(九六式)<br /> 一番機、元木中尉 柴田さん  二番機、石原さん  三番機、駒場さん <br /><br />第三陣(九九式)<br /> 一番機、佐藤さん 渡辺さん  二番機、児島さん <br /><br />第一陣の持田さん、福元さんが、「先生、征ってきますよ」とあっさりたゝれる。いよいよ第二陣。「先生、御世話様になりましたー」ってじっと私の目に見入ってた石原さん! 一寸首をかしげた忘れられない敬礼。 <br /><br />私は涙をこぼさなかったけれども眼は真赤だったことだろう。何か一言言いたいけれども遂に言葉にならず礼をしたのみ。遠去かりゆく、トラックの上でサイダー瓶を振ってた石原さん! 一番機の上で、サーッと敬礼された柴田さん。真直ぐ前を向いたまゝ操縦桿を握ってた石原さん。飛行場上空で一周して翼を振った。二枚翼か! いくら速力の遅い九六でも、だんだん遠去かりゆく機影を見送り、こみ上げてくる涙を堪える術もなし。 <br /><br />小旗の陰にかくれて見送る。控席にもどる私をつかまえて松下さん、「先生、負けたね」と。確かに! 第三陣を見送るまでは元気でいなくてはいけない。笑顔でいなくてはいけない。次々とZ旗が掲揚されると共に発進して征く若鷲よ! 戦果を挙げて下さいと、ひたすら祈るのみ! <br /><br />第三陣を送る。上空一周もせず真直ぐ蘭陽橋の方へと飛去る。零戦は直ちに訓練を始める。夜、当村さん松下さん二人して、いなりずしの携帯食料を持って来宅され、思い出話つきず。「一人では何も食べたくない」と松下さん。当村さんが宿舎で眠ってたら柴田さんが夢に出てきて、グイグイ頭を押さえつけ塩っからい水を飲まされた夢を見たとかって話される。 <br /><br />帰りに戦果のことが聞かれるかもしれないと思って、兵舎まで松下さん達を送って行ったがわからず、門の所まで松下さん送って来られる。昨日、君ケ代と海ゆかばを弾いたこと、せめてもと慰める。(オルガンを弾いて、あれこれと注文が出たのですが、オタマジャクシがないと弾けない私で暗記してないもので弾けなかったのです。宵待草を石原さんにせがまれたことなど、忘れられません。) <br /><br />軍艦マーチの弾けないのは残念。本日特攻隊の歌詞を忘れてきて、尋ねられたけどお見せ出来なかったことです。 <br /><br />一、無念の歯がみ堪えつつ 待ちに待ちたる決戦ぞ<br />   今こそ敵を屠らんと 奮い立ちたる若桜 <br /><br /> 二、この一戦に勝たざれば 祖国の行方如何ならむ<br />   撃滅せよと命うけし 神風特別攻撃隊 <br /><br /> 三、送るも征くも今生の 別れと知れどほほ笑みて<br />   爆音高く基地を蹴る あゝ神鷲の肉弾行 <br /><br /> 四、大義の血潮雲染めて 必死必中体あたり<br />   敵艦などて逃すべき みよや不滅の大戦果 <br /><br /> 五、凱歌は高く轟けど 今は還らぬ益荒男よ<br />   千尋の海に沈みつつ 尚も御国の護り神 <br /><br /> 六、熱涙伝う頬あげて 勲を偲ぶ国の民<br />   永久に遺さじその名こそ 神風特別攻撃隊<br />               神風特別攻撃隊 <br /><br />「鳴呼神風特別攻撃隊」 <br /><br />////////////////////////////////////////////////////<br /><br />日記は五月二十八日まで「中野先生戦中日記」として掲載されている。今から69年前この宜蘭公園、小学校を中心とした場所で17歳、18歳の少年搭乗員たちと中野先生たちとの束の間の交流があり、彼らはこの地より沖縄に向けて飛び立ち還らぬ人となった。 <br /><br /><br />

    中野先生戦中日記
    「蒼空の果てに」より抜粋

    http://senri.warbirds.jp/10kaiko/06nakano/index.html

    五月十日

    今日一日中、ワイワイと机のまわりの賑やかなこと、出撃延期となる。難波江機大型巡洋艦轟沈の戦果確認される。他の機は電信不能にて未確認との事なり。切角の出撃をと、シャバの人間は口惜き限りなり。

    長岡先生昨夜兵舎を訪ねて、柴田さんにはちまきを上げたり、戦果をたずねたりされたとの事。難波江さんの戦果を喜んでくれる。夕方暗くなってから鉱工局の前で、黒河内少尉と話しておられる所へ行き合はせる。「難波江は之で少尉確実ですね」と。鳥居さんよ安らかに眠れ。どんなに必死に電鍵をたゝかれたことか。

    「あゝ眠い眠い」って誰かが言った時、「もう幾時間かしたら、永久に覚めない眠りにつくんだよ」と言っておられたっけ。電信機が悪いとは一言も言はれなかった黒岩さん。講堂で皆さんと話した時、元山中尉が慶応の水泳の選手であったこと、昨日の出撃の態度が実に立派であったことを話して下さる。

    私が、鉄ちゃん(花蓮港小学校の教え子、現在広島大学在学中)の話をして、大好きだと言ったら石原さん、「何故? 純情だから? 僕之でも純情なんだけどね」と。商業学校時代軟派だったとかって、松下さんが話して聞かせて下さる。石原さんて必ず私の真前の席をしめる。「村上先生に似てる」と言ったり、「村上先生が似てるのでしょう」と訂正される。

    それから右代表ってわけか? 石原さん、「先生はどうしてお嫁にいかないの?」って尋ねられるので、「母親代わりで妹と弟を養ってたから」と答えたけど、何だか納得いかないって顔をされて、「ぢやあ犠牲になったの?」「犠牲ぢゃないの、それをいゝことにして我儘を通してるの」って返事をしたが、何か割切れないものがあるらしい。

    皆さんの顔と名前がまだはっきりしないなあ。昨日、玉井司令に叱言を言われたことを話したら、手をたゝいて喜んでる。海軍さんてニックネーム式に呼び合って親しみがある。敬礼だって至極簡単だし、上下の間に親しみがあるって事は愉快だ。

    渡辺さん=大柄なおとなしい人。 松下さん=寂しそうな所のある人。松ちゃん。松。
    石原さん=村上先生と似ている人。案外小さい。石さん。
    福元さん=ほくろ。早口で朗らか。フクちゃん。
    柴田さん=朗らかだけど一寸恐い。かんしゃく持ちって感じ。柴。
       持田さん=大柄な人。エヘヘ……と笑い方に特長がある。モッチャン。


    フクちゃんフクちゃんって言うので、ニックネームかと思ったら違ってたし、黒岩さんのことクロちゃんって言ってたのも如何にもその人らしい感じがする。持田さん、福元さん、柴田さん三人して先生の真似をして、「先生、上手でしょう」って言われるのが本当に板についてる。感心してたら予科練を出て飛行練習生を終了してから教員をしてた由。道理でと感心する。女学校でも教官といふ言葉を使ふのってたづねられたっけ。

    五月十一日

    出撃々々と言いながら、今日も忠誠隊は出撃延期なり。二十四時間生きのびたと笑っている。福元さん今日はオルガンばかり弾いてる。皆して、「先生のニックネームを教えて」と言われるので、「ないの」って答えたが信用せず。生徒が教えないのだと言って、専攻科生に尋ねているけど専攻科生も教えず。

    「先生は恐いんだってね、だから叱られるから教えないんだよ」と柴田さんが盛んに教えろ教えろって、専攻科生にたずねているけれども教えず。こちらから見てたら、山田やら藤崎がこちらを見たので私が、メーツってしてみせたら、石原さんが丁度机の右側にいてそれを見付けて吹出している。

    「先生の今の顔、写真に撮っておけばよかった、案外茶目っ子だね」と。ニックネームは、花蓮港時代の「キャンデー」だけど、遂に「アネゴ」は話さず。故郷の話が出て、私が小倉って言ったら石原さんが、「一昨日先生が旗を上げた中野ね、小倉なんだよ、今は山口に家があるけど床屋をしている筈だ。親類ぢゃないの?」って言われるので、あゝ何故旗を上げる時口まで出かゝった、「おくにはどちらですか」を言わなかったのか。胸が一ぱいになって涙が出て来たので、慌てゝ部屋をとび出す。

    大声を出して泣きたい様だ。講堂のかげで泣いたけど、じろじろ見られるので体裁が悪くなって、入って又話を続ける。石原さん一寸不思議そうな顔されたっけ。長岡先生宅にて、 すきやきをすると先生から相談があったけど、私は森本さんと原田さんが飛行機をとりに行って留守中なので反対したい気持ちだけど、私がするのではないし、先生の気の済む様になさる方がよかろうと、強いて反対せず。

    私にも来てと言われたけど、今日は高梨先生宅に、お手伝いに行く約束になっているので高梨先生宅の方へ伺う。夕方行って、遅かったと奥さんに叱られて不愉快。柴田さん松下さん当村さん(腹痛とかって食べられなかった由)等、元木中尉、柿本少尉もみえた様だった。お二人で酔って帰られるのにお会いした。

    当村さんと石原さんが、山下大尉のことを話される。兵学校も航空学校も恩賜だとか。頭がよく流石にちがうとほめている。[山下大尉…海兵69期・元木中尉…海兵72期]

    忠誠隊は教員をしてた人間ばかりって言われるので、「それでゝ特攻?」って尋ねてたら、予科練を出た練習生連中が台湾に来てくれなくなったので、教員の我々が帰ることになり、基隆で便を待つこと一ヵ月余。

    船で帰りかけた者が沈められ船は嫌だと言ったので、輸送機で帰ることになり台北へ引返し、(一ヵ月遊んでいるうち金はなくなり、暇はあってもすることなし、映画館に何回も入っては眠ってたのだとか)くじを引いて順番に十五名か十七名かゞ台北に残り、後の者は新竹から便があるからと新竹へ行き、翌朝すぐ出発してしまい、台北に残った者は、ダグラスが脚の故障で左翼が地についているのを、ヤッサヤッサ起こし、やっと起こしたと思ったら、ドカンドカンと空襲でダグラスがやられてしまってさ。

    そこへ台南から引返せと電話が入ったので引返したら、沖縄作戦に九六があるから、特攻編成して参加することになったとか。教員をしておられた方ばかりと聞いたが道理で何となく骨のある人ばかり。大義隊の方とは全然ちがった空気を感じたっけ。

    五月十二日

    十日からずっとお守り袋とはちまき作り。難波江さん鳥居さん中野さんの事でこりたから。清原先生の坊やだったと思うけど、「先生、特攻隊の人が来て呼んでるよ」との事なので部屋へ行ったら佐藤さんが、「石けんを上げます」って言われるので、「勿体ないから」っておことわりしたら、「持ってたってそれこそつまらんシャバにはないでしょう」って二個下さるので有難く戴いて長岡先生と分ける。

    藤井さんは左側の机によく腰掛けて話しかけられる。当村さんも腹具合がいゝのか、時々顔を出される。[藤井一飛曹…甲飛12期]
    児島さんが、「先生、俺にもはちまき作って下さい」っておっしゃるので作る。今日は福元さん、プリプリしているのでどうしたのかと思ったら、公共物にふれるなって言われたので、オルガンが弾けないってわけ。

    「私にことわったっておっしゃればいゝでしょう」って笑ったら「気分をこわした」って今日は弾かず。皆して出撃が延期々々で気分がだれるって、ブツブツ。柴田さんが、「先生今朝ね、訓練の後で石が飛行場で山下大尉から、『オイ石原っ!』て呼ばれたので、『ハイ』て駆けて行って敬礼したら、『オイ石原、女学校の先生、面白いかっ』て尋ねられてね、『ハイ面白いです』て大きな声で返事をしたんだよ」って話されるので石原さんに、「本当?」ってたずねたら、「本当、とても大きな声だったってさ」と笑ってる。

    皆で大笑いしたけど、事実山下大尉が何か御用で部屋にみえても、必ず講堂の机のまわりに集まってワイワイ大さわぎだし。石原さんだけじゃない、誰か彼かいない時はないのだから、山下大尉に言われるのも無理なしと思う。特攻隊の人に出来るだけの事はして上げたいと思う一方、何か辛くてもう親しくすまいかと思う。にも拘わらず矢張り親しさはどんどん増していく一方。

    そう何かの話から、「出撃状況を親がみたら泣くだろうか?」と石原さんが言い出されたと思うけど。そんな話が出たので私が、「泣かない」って断言したら、「安心した」って言っておられる。「そりや発進してしまったら、泣くことも涙をこぼすこともあり得るけれども、それまではきっときっと必死になって涙をこらえるだろうと思う。

    私の狭い経験だけれども、弟が応召して入隊する時、私がついて行ったんだけど、弟は私の涙もろいのを知っているので、泣かないかって心配したけど、涙をみせず別れたので安心したって言ったことがあるし。黒岩さん達の時も、後では泣いたけれどもその場では泣かなかった」って話したら、笑いながらうんうんってうなずきながら聞いておられた。

    「昨日温泉に行ったのですきやきを食べそこなった、もう一年半ばかり食べないので食べたいなあ」って石原さんが言われるので、「じゃあ今晩すきやきをして上げましょうか」ってことになった。何もなかったけど気持ちだけでもと、長岡先生と相談して準備する。夕方、「先生、」って石原さんと松ちゃんと二人で、ビールを七本下げて来られる。

    準備が出来るまでレコードでも聞いて戴こうと思ったら針がなくて素子ちゃん(長岡先生の姪)に借りて来て貰う。支度が出来て八畳の方で始めたら、「先生も一緒に食べましょう」と進められるので、こしらえるのと食べるのとで急がしい。食べないでいると、「食べないと駄目だよ、肉なんて滅多に口に入らんでしょう」って、わざわざお皿にとって下さるので、一切れでも多く食べて戴こうという気持ちと、反対になって困る。

    「矢張り我々のこしらえたものとは味がちがうね」と感心されるので、おかしくなってしまう。石原さん達にビールを飲まされたっけ。コップを用意してあったので(学校でコップを疎開荷物に入れたお話をしてあったので)喜んで下さる。でもあのジヨッキで飲ませて上げたかったとつくづく思う。

    藤井さんもみえたけど、お腹が悪いとかって食べず、梅肉エキスを上げたんだったっけ。レコードばかりかけて、窓に腰かけてじっと聞いてたり、お母さんお母さんって、お母さんに会いたがっていらした。

    そろそろスキヤキがなくなる頃になり、柴田さんいゝ御機嫌で少しふらふらしながら来宅される。それからが断然賑やかになる。それまで遠慮してた唄もはじまる。石原さんの声がいゝのに感心する。松下さんと柴田さんは大して上手ではない。柴田さんと石原さんが、二人して仁義のきり方を実演したり、柴田さんが踊ったり。すっかり嬉しくなってしまう。

    二杯目のビールには少し口をつけたけど飲めず、勿体ないので石原さんが飲んで下さる。飛行服を着せられたのも今晩だった。ニヤケてるて冷やかされたっけ。ニコニコ笑ってる石原さんの笑顔に特長があった。(七・一〇追記。今にして思えば此の晩、明日出撃がわかっておられたのではないでしょうか?)

    松下さん玄関の障子の前にチョコンと座って、「石さん、もう失礼しよう」って言ってるけど、石原さんも柴田さんもいゝ御機嫌で松下さんの方を引きとめる。十二時一寸過ぎてから、「ぢやー」って帰られる。唄いながら御機嫌よく。「明日も出撃見合わせだったらもう一度スキヤキ会をしましょう」と約束して。あゝ疲れた。でも気持ちのよいそして又、思い出深き一日となるであろう。本日黒岩さん達の戦果発表あり。

    五月十三日

    学校に出勤すると直ぐ入って来られる。それも北側の入口から必ず。そして特長のある敬礼をして。連日警報のみで何事もないので、今日も多勢来ておられる。(七月十日追記。毎朝の訓練は早かったですからね。しかし、此の日は訓練がなかったと思います。)

    命発せられ本日出撃と。残る者松下さんと当村さんのみ。森本さん原田さんは台南へ飛行機をとりに行って未だ帰らず。石原さんは森本さんの代わりとの事。編隊が決まっているので予備の中からうめて行くわけ。本日はドカッと多勢の出撃。何とあわたゞしいことか。九日は急であった為、心落着かずアッと思ったのだけど、今日は少し人にも馴れてきた所ゆえ。石原さんの顔をみてたら、不覚にも泣けてしまった。あの特長のある敬礼。すきやきの約束遂に無となる哉。

    福元さん長岡先生に、「先生、そんな顔しないでよ」とおっしゃる。「さあ最後に一曲」とオルガンを弾いてた福元さん。相変わらずバックを下げてニコニコ顔。私は何かを縫つてた。でも何を縫ったか思い出せない。多分はちまきだったろうと思う。唯じっと机の前に腰かけてた。だって脚に力がないのだもの。柴田さん落着かないらしくて出たり入ったり。

    何時もは騒ぐ柴田さんも流石に今日は上がってる感じ。「操縦者は偵察員の言う通りになるんだよ」と、その真似をしたり敬礼の真似をしたりして笑わせて下さる。児島さんは右側の机で黙々と手紙を書いておられたが、「先生、之を御願いします」と、台北宛の二通とそれから母上宛の一通、遺書を託される。持田さんは、「さあいよいよだ!」と板書して又例の通り教員の真似。佐藤さんと二人して現金八十四円幾らかを、「先生の考えで、何か有効に使って下さい」と託される。

    石原さんは遺書二通、遺髪。(髪という字をたずねられて私の机の上で書かれ、此の中から先生の分もとってねと)遺髪と短刀を何年先きでもよいから、沖縄作戦が落着き確実に届くとわかってから確実に届けてほしいと託される。責任重大だ。今までは何時死んでもよいと思った私だったが、之では死ねないし、どんなに辛くとも生きていなくてはならぬ。あゝ代われるものなら! 

    私が男に生まれたらよかったという気持ち、此の時節に此の運動神経を有効に使えぬ残念さを話した時、その気持ちは認めると皆さんで言って下さったのに。「それから下駄(お姉さんへのお土産のつもりであったろうに)とアルバム先生に上げるから永久に持ってゝね」とおっしゃる。特攻隊編成の大きい写真が二枚あったので(一枚は柴田さんの分)一枚は長岡先生に。

    酔って倒れかけてる柴田さん。小さい方のは当地に進駐される前。台南から台東へ進駐、一度出撃したけど敵艦を見出せず引返し、それから宜蘭へ進駐されたとの事。板東さんが後席に我妻さんを乗せてゝ曽文渓の河原に不時着。我妻さんは首が曲がって動かせず、派出所に置いて帰隊するのと、迎えに行く福元さんと入れちがいになって我妻さんと福元さんとが写っていない由。

    寺田さんは石垣の海に不時着。海岸へ向かって泳いでいるのは認めたけど帰着せず。石原さんが探しに行ったとか。内藤さんは台東から宜蘭へ進駐する時、スコールの中で行方不明となりし由。私が写真を喜んでいるのを机のそばで石原さんニコニコ見ていてくれた。部屋と講堂の間を行ったり来たり。矢張り落着かないのかしら。

    九日の黒岩さん達の時はアッという間だったので、何も書残して戴けずに残念だったのにこりて、今日は幸い一郎(実弟)が遺して征ったハンカチに寄書きをして戴く。出たり入ったり、ごたごたしているけど、それでゝ心の中はシーンとしてしまう。窓に腰かけているのを見かけるけど、さて集まってゝも何も話すこともなし。

    松下さんからの注文で赤か黄の花をと言うので金子さんに依頼して探して貰う。金子さんにも一度出撃状況を見せて上げたくて呼んでおく。三、四人集ってる時、松下さんがうつ伏してたら石原さんが、「泣いたりするなよ、後からすぐ来られるからね、すぐ来いよね」「うん」と言ってる。はじめ松下さんも今日征く筈だったのが残された由。

    集ってゝも取り立てゝ話すこともないけれども、皆して「宜蘭で先生みたいな人に会えると思わなかった。宜蘭ってつまらない所だったけど」と言って下さる。児島さん、はちまきを持って来られて、「何か書いて下さい」とおっしゃるので、片端に「御成功を祈る中野ユキヱ」片端に「必殺必中」と書く。

    石原さんも持って来られたので、真中の日の丸の両側に必殺と書いたら「必中も入れて」と言われるので、片端に「必中」と入れ、片端に「頑張れ」と書きはじめると「何を書くの?」と不思議がられるのでその下に「一ちゃん」と書くと「ユキヱ姉さん」と書いてとせがまれ、小さく「ユキヱ姉」と書く。(私の実弟一郎を、一ちゃんと愛称していたのと、石原さんの名前も一郎で、お家で皆さん一ちゃんと呼んでおられた由)「ウワー之でドンピシャリ、有難とうございました。必ずやりますよ」と大よろこび。

    柴田さん、だまって机の上に毛糸の腹巻を置いて行かれる。昼食をとる気になれず。部屋に誰もいない時、石原さんがツカツカと入って来られ机の右側に立たれ、「ねえ先生、僕の事、本当の弟の様に思うね」っておっしゃる。「うん」とうなずくのがやっとなり。口を開けば涙がこぼれて泣けてきそう。返事もせず悪かったかもしれないけど、石原さんには私の気持ちはわかって戴けたと思う。

    そりや誰彼の差はないけれども石原さんには「一ちゃん」と呼びかけたい様な身近なものを感じたのは何故だろうか?。南部さんがおっしゃる様に、「日本人は皆兄弟だよ」と。そうあるべきことを私は痛切に体験したわけかしら。嬉しいとも悲しいとも表現出来ない気持だった。「逢うは別れのはじめ」とは誰が言いそめし。特攻隊員と知りつゝも、一日々々と生きておられる様な気がしていたのに、あわたゞしい空気! 引きのばしたい様な時間も刻々と過ぎてゆく。

    総員整列五分前! 一人々々「先生、御世話様になりました」と御挨拶あり。何とも言葉もなく頭を下げるのみ。「長生きして下さいよ」と持田さんと福元さん。あゝ何をか言わん! 春秋に富むべき人達からこの言葉を受けるとは。空母轟沈! 空母轟沈! と誰も彼も笑って征く!

    九日と同じくトラックに便乗。今日は何も文句を言われず。トラックへ同乗したのは松下さんから「先生!」って言われた故。石原さんに手を引張って貰って乗る。玉井司令くそくらへ!

    飛行場へ着くとすぐに乗機を見に行かれて中々帰って来られず、待っている時間の長いこと。やっと帰って来られると落着く暇もなく整列。訓示を受けて解散してやっとゆっくり出来たのは二十分間。石原さん児島さんから落雁をいたゞく。石原さんからいなりずし。飛行場でも実に賑やかなこと。福元さんが大きな人形を腰につけているのが目につく。携帯食料とサイダーを受取る時、玉井司令の真似をしながら皆さんがこられるのでおかしくなるけど笑いにならず。「ガーベラ」がしおれたって心配してた石原さん。

    出撃時刻は九日と同じ。二人乗っているは一番機のみ、前席操縦員、後席偵察員。

    第一陣(九六式)
     一番機、阿部中尉 福元さん  二番機、持田さん  三番機、森さん

    第二陣(九六式)
     一番機、元木中尉 柴田さん  二番機、石原さん  三番機、駒場さん

    第三陣(九九式)
     一番機、佐藤さん 渡辺さん  二番機、児島さん

    第一陣の持田さん、福元さんが、「先生、征ってきますよ」とあっさりたゝれる。いよいよ第二陣。「先生、御世話様になりましたー」ってじっと私の目に見入ってた石原さん! 一寸首をかしげた忘れられない敬礼。

    私は涙をこぼさなかったけれども眼は真赤だったことだろう。何か一言言いたいけれども遂に言葉にならず礼をしたのみ。遠去かりゆく、トラックの上でサイダー瓶を振ってた石原さん! 一番機の上で、サーッと敬礼された柴田さん。真直ぐ前を向いたまゝ操縦桿を握ってた石原さん。飛行場上空で一周して翼を振った。二枚翼か! いくら速力の遅い九六でも、だんだん遠去かりゆく機影を見送り、こみ上げてくる涙を堪える術もなし。

    小旗の陰にかくれて見送る。控席にもどる私をつかまえて松下さん、「先生、負けたね」と。確かに! 第三陣を見送るまでは元気でいなくてはいけない。笑顔でいなくてはいけない。次々とZ旗が掲揚されると共に発進して征く若鷲よ! 戦果を挙げて下さいと、ひたすら祈るのみ!

    第三陣を送る。上空一周もせず真直ぐ蘭陽橋の方へと飛去る。零戦は直ちに訓練を始める。夜、当村さん松下さん二人して、いなりずしの携帯食料を持って来宅され、思い出話つきず。「一人では何も食べたくない」と松下さん。当村さんが宿舎で眠ってたら柴田さんが夢に出てきて、グイグイ頭を押さえつけ塩っからい水を飲まされた夢を見たとかって話される。

    帰りに戦果のことが聞かれるかもしれないと思って、兵舎まで松下さん達を送って行ったがわからず、門の所まで松下さん送って来られる。昨日、君ケ代と海ゆかばを弾いたこと、せめてもと慰める。(オルガンを弾いて、あれこれと注文が出たのですが、オタマジャクシがないと弾けない私で暗記してないもので弾けなかったのです。宵待草を石原さんにせがまれたことなど、忘れられません。)

    軍艦マーチの弾けないのは残念。本日特攻隊の歌詞を忘れてきて、尋ねられたけどお見せ出来なかったことです。

    一、無念の歯がみ堪えつつ 待ちに待ちたる決戦ぞ
       今こそ敵を屠らんと 奮い立ちたる若桜

     二、この一戦に勝たざれば 祖国の行方如何ならむ
       撃滅せよと命うけし 神風特別攻撃隊

     三、送るも征くも今生の 別れと知れどほほ笑みて
       爆音高く基地を蹴る あゝ神鷲の肉弾行

     四、大義の血潮雲染めて 必死必中体あたり
       敵艦などて逃すべき みよや不滅の大戦果

     五、凱歌は高く轟けど 今は還らぬ益荒男よ
       千尋の海に沈みつつ 尚も御国の護り神

     六、熱涙伝う頬あげて 勲を偲ぶ国の民
       永久に遺さじその名こそ 神風特別攻撃隊
                   神風特別攻撃隊

    「鳴呼神風特別攻撃隊」

    ////////////////////////////////////////////////////

    日記は五月二十八日まで「中野先生戦中日記」として掲載されている。今から69年前この宜蘭公園、小学校を中心とした場所で17歳、18歳の少年搭乗員たちと中野先生たちとの束の間の交流があり、彼らはこの地より沖縄に向けて飛び立ち還らぬ人となった。


  • 駅を背中にして正面に中山公園入り口がある

    駅を背中にして正面に中山公園入り口がある

  • 中山とは孫文のことなり<br /> ここは日本時代、宜蘭公園だった <br /><br />1906年(明治39年)6月21日ここに初代:宜蘭神社が建立<br />1919年(大正8年)10月17日に員山庄に遷座する <br />

    中山とは孫文のことなり
    ここは日本時代、宜蘭公園だった

    1906年(明治39年)6月21日ここに初代:宜蘭神社が建立
    1919年(大正8年)10月17日に員山庄に遷座する

  • 左奥に獻馘碑、右斜め方向に忠霊塔 <br /><br /> 池の向こう側に海軍通信所跡 <br /><br /> 海軍通信所跡・獻馘碑・忠霊塔<br />この写真に揃って三つが写っている<br />

    左奥に獻馘碑、右斜め方向に忠霊塔

    池の向こう側に海軍通信所跡

    海軍通信所跡・獻馘碑・忠霊塔
    この写真に揃って三つが写っている

  • 海軍通信所跡の屋根上から忠霊塔を写す <br /><br /> その忠霊塔の道を隔てた向こう側(南)に<br />宜蘭尋常小学校(現:光復國小、場所は移転)があった <br /><br /> そこに中野ユキエ先生はいたはず <br /><br /><br /><br />

    海軍通信所跡の屋根上から忠霊塔を写す

    その忠霊塔の道を隔てた向こう側(南)に
    宜蘭尋常小学校(現:光復國小、場所は移転)があった

    そこに中野ユキエ先生はいたはず



  • 宜蘭尋常小学校 <br /><br />この学校の中に<br />第二〇五海軍航空隊司令部があったと思う <br />

    宜蘭尋常小学校

    この学校の中に
    第二〇五海軍航空隊司令部があったと思う

  • 公園から飛行場へ、昨日も歩いた中山路二段 <br /><br /> 指揮所から飛行場へ、飛行場から指揮所へ<br /> この道をトラックや車で行き来したのだろう <br /><br />///////////////////////////////////////////////////////<br /><br />■宜蘭南飛行場管制塔へ向かう <br /><br />宜蘭公園出発午前8時31分。中山路二段を南に歩く。途中セブンイレブンの交差点を右に曲がって蘭陽女子高級中に立ち寄って(8:45)宜蘭運動公園に到着(9:00)。ここから管制塔へ向かう。それが建物は見えているのに、どこでどう間違えたのか?今も狐につままれた感じで良く分からないが、変な場所から造成地に入ってしまった。 <br /><br />これがその後の失敗の原因となる。昨日は舗装された道をなんなく行けたのに、この日は変な場所から進入したために幅広い草地を横切る羽目になった。そしてそこを歩いている時に、対面から制服姿で単車に乗った男性が行き違いざまに私の方を「不審者が何を?」という感じで見ていた。私はその時は「何じろじろこっちを見てるんや?」と感じたがそれ以上別段なにも思わなかった。 <br /><br />そしてその原っぱを管制塔に向かって横切ろうと歩いて行った。途中から「しまった!」と気付いたが、すでに後の祭り、半分ぐらい来ていたので戻っても前進でも同じ。とにかく原っぱと思っていたのが湿地帯だった。靴はビチョビチョ、ズボンのすそも汚れるし、自分の判断ミスに旅の出発からのアクシデントが重なった。「あ〜あ、今日もアクシデントの続きがあるのか・・・」と。 <br /><br />これ以上失敗をしないように注意しなければ、大事故に繋がっては大変だと思いながら・・・管制塔に辿り着いた。そして管制塔は周囲に浅い堀のような溝で囲まれていた。そのコンリートの逆半円形の溝を飛び越えようとして、向こう側のコンクリートの則面に足を着いた瞬間、乾いているように見えたその則面がぬるっと滑って仰向けに溝の中にひっくり返った。 <br /><br />ホンマ瞬間的にとはこのことだった。何の防御も出来ず、ここが深い谷底なら一気に落ち込んでいる。ちょうど背中に小さなリュックを背負っていたから衝撃は少し緩和されたのだろうが左骨盤と右脇腹を溝のコンクリートで打ちつけた。溝の中には泥水が少し溜まっていてズボンもパンツもビチョビチョになって、しまった!と思うだけで、その時はさほど痛さは感じなかったが、結局帰国後も数日間痛みは残っていた。 <br /><br />次から次の不吉なアクシデントがまだ続くのか?それとも骨も折れずたいしたことなく幸いだったのか?とにかく早く気分転換してと無事だったことにホッとし、汚れたズボンを拭こうと錆びた鉄梯子を上り八角形の管制塔の二階に上ってズボンを脱いだ。泥で汚れてしまったが、少しでもそれを拭おうとポケットの小さなハンカチで拭いていた。 <br /><br />その時、突然下から声が掛かり「誰?」と思って覗いたら、単車に乗った若い警察官だった。 <br /><br />「ここは立ち入り禁止場所だから、早く立ち去れ」ということだった。「日本からこの史跡を見に来た。写真を撮ったら出てゆくから」と言ったが、「写真もダメだ早く出て行け」と、物言いはきつくないがそんなことを言っていた。 <br /><br />ひっくり返った挙句に又この様かと、不運に嘆きたかったが仕方が無いと諦めて、それでもゆっくりズボンの汚れを取り、警察官の見えない場所で写真を撮り、管制塔内で少し粘った・・・つもりだったけどデジカメ時間では滞在5分ほど。 <br /><br />この警官は単車を転がしながら私が造成地から出るまで後ろから付いてきていた。「しょうがない。何度も旅をしていたらこんなこともある」と、ここは諦め汚れたズボンを履き替えたいし、宜蘭運動公園を横切り来た道を引き返して忠霊塔まで戻って来た。 <br /><br />南飛行場から歩いたら40分ほど掛かる。搭乗員がトラックや車で移動したのも当然だろう。昨日二回、今朝・そして今と四回目の宜蘭公園。 <br /><br /><br /><br />

    公園から飛行場へ、昨日も歩いた中山路二段

    指揮所から飛行場へ、飛行場から指揮所へ
    この道をトラックや車で行き来したのだろう

    ///////////////////////////////////////////////////////

    ■宜蘭南飛行場管制塔へ向かう

    宜蘭公園出発午前8時31分。中山路二段を南に歩く。途中セブンイレブンの交差点を右に曲がって蘭陽女子高級中に立ち寄って(8:45)宜蘭運動公園に到着(9:00)。ここから管制塔へ向かう。それが建物は見えているのに、どこでどう間違えたのか?今も狐につままれた感じで良く分からないが、変な場所から造成地に入ってしまった。

    これがその後の失敗の原因となる。昨日は舗装された道をなんなく行けたのに、この日は変な場所から進入したために幅広い草地を横切る羽目になった。そしてそこを歩いている時に、対面から制服姿で単車に乗った男性が行き違いざまに私の方を「不審者が何を?」という感じで見ていた。私はその時は「何じろじろこっちを見てるんや?」と感じたがそれ以上別段なにも思わなかった。

    そしてその原っぱを管制塔に向かって横切ろうと歩いて行った。途中から「しまった!」と気付いたが、すでに後の祭り、半分ぐらい来ていたので戻っても前進でも同じ。とにかく原っぱと思っていたのが湿地帯だった。靴はビチョビチョ、ズボンのすそも汚れるし、自分の判断ミスに旅の出発からのアクシデントが重なった。「あ〜あ、今日もアクシデントの続きがあるのか・・・」と。

    これ以上失敗をしないように注意しなければ、大事故に繋がっては大変だと思いながら・・・管制塔に辿り着いた。そして管制塔は周囲に浅い堀のような溝で囲まれていた。そのコンリートの逆半円形の溝を飛び越えようとして、向こう側のコンクリートの則面に足を着いた瞬間、乾いているように見えたその則面がぬるっと滑って仰向けに溝の中にひっくり返った。

    ホンマ瞬間的にとはこのことだった。何の防御も出来ず、ここが深い谷底なら一気に落ち込んでいる。ちょうど背中に小さなリュックを背負っていたから衝撃は少し緩和されたのだろうが左骨盤と右脇腹を溝のコンクリートで打ちつけた。溝の中には泥水が少し溜まっていてズボンもパンツもビチョビチョになって、しまった!と思うだけで、その時はさほど痛さは感じなかったが、結局帰国後も数日間痛みは残っていた。

    次から次の不吉なアクシデントがまだ続くのか?それとも骨も折れずたいしたことなく幸いだったのか?とにかく早く気分転換してと無事だったことにホッとし、汚れたズボンを拭こうと錆びた鉄梯子を上り八角形の管制塔の二階に上ってズボンを脱いだ。泥で汚れてしまったが、少しでもそれを拭おうとポケットの小さなハンカチで拭いていた。

    その時、突然下から声が掛かり「誰?」と思って覗いたら、単車に乗った若い警察官だった。

    「ここは立ち入り禁止場所だから、早く立ち去れ」ということだった。「日本からこの史跡を見に来た。写真を撮ったら出てゆくから」と言ったが、「写真もダメだ早く出て行け」と、物言いはきつくないがそんなことを言っていた。

    ひっくり返った挙句に又この様かと、不運に嘆きたかったが仕方が無いと諦めて、それでもゆっくりズボンの汚れを取り、警察官の見えない場所で写真を撮り、管制塔内で少し粘った・・・つもりだったけどデジカメ時間では滞在5分ほど。

    この警官は単車を転がしながら私が造成地から出るまで後ろから付いてきていた。「しょうがない。何度も旅をしていたらこんなこともある」と、ここは諦め汚れたズボンを履き替えたいし、宜蘭運動公園を横切り来た道を引き返して忠霊塔まで戻って来た。

    南飛行場から歩いたら40分ほど掛かる。搭乗員がトラックや車で移動したのも当然だろう。昨日二回、今朝・そして今と四回目の宜蘭公園。



  • 宜蘭運動公園、この一角が宜蘭西飛行場だった <br /><br />南北西飛行場はどのように使われていたのか?<br /> 陸海軍共用での搭乗員同士の交流は如何に? <br /><br />まったくと言って良いほど分からない <br />

    宜蘭運動公園、この一角が宜蘭西飛行場だった

    南北西飛行場はどのように使われていたのか?
    陸海軍共用での搭乗員同士の交流は如何に?

    まったくと言って良いほど分からない

  • 昨日と違うところから近づく<br />「凱旋路473巷」を横切り、管制塔へ向かう <br /><br /> その時、単車に乗る制服姿(警官?消防士?)の者が<br />一人で歩いている私を訝しげに見ながらすれ違い立ち去る <br /><br />写真に写る単車 <br />

    昨日と違うところから近づく
    「凱旋路473巷」を横切り、管制塔へ向かう

    その時、単車に乗る制服姿(警官?消防士?)の者が
    一人で歩いている私を訝しげに見ながらすれ違い立ち去る

    写真に写る単車

  • 今もって何故こんな道から来てしまったのか?分からない<br />昨日車で傍まで行き、その後、又今日に備えて歩いて来たのに<br />遠くから建物が見えているのに道を間違った。その挙句・・・ <br /><br />草っぱらを横切ろうと向かったら、途中から湿原だった<br />途中からどんどん水浸しになり、真ん中辺りでニッチもサッチも行かず<br />戻るも行くも同じ距離になり、ビチョビチョになりながら管制塔に向かう <br />

    今もって何故こんな道から来てしまったのか?分からない
    昨日車で傍まで行き、その後、又今日に備えて歩いて来たのに
    遠くから建物が見えているのに道を間違った。その挙句・・・

    草っぱらを横切ろうと向かったら、途中から湿原だった
    途中からどんどん水浸しになり、真ん中辺りでニッチもサッチも行かず
    戻るも行くも同じ距離になり、ビチョビチョになりながら管制塔に向かう

  • この管制塔周辺の溝を飛び越えようとして<br />向こうのノリ面に足を滑らせ仰向けにひっくり返る <br /><br />湿地で足元ビチョビチョになり<br />挙句に水溜りにひっくり返り、腰をしたたたか打つ<br />何故か?運悪くちょうど溝に身体が縦にすっぽり嵌る<br />何でやねん、アクシデントは今日も続くのか・・・と。ハハハ <br />

    この管制塔周辺の溝を飛び越えようとして
    向こうのノリ面に足を滑らせ仰向けにひっくり返る

    湿地で足元ビチョビチョになり
    挙句に水溜りにひっくり返り、腰をしたたたか打つ
    何故か?運悪くちょうど溝に身体が縦にすっぽり嵌る
    何でやねん、アクシデントは今日も続くのか・・・と。ハハハ

  • それでも「やっと辿りついた。ゆっくりしよう」と<br /> ズボンを脱ぎ泥を落とし拭ってたら・・・<br />若い警察官が来て「ここは立ち入り禁止、すぐ立ち退け」と<br />何でやねん、折角日本から来てるのにと言ってもラチあかず <br /><br /> しばしごまかしながら動画を写し、すごすごと立ち退く<br />次から次とアクシデントは続く、でも結果は万事順調なり<br />見たいところを見れて、行きたい場所に行け、写真も動画も撮った <br /><br />

    それでも「やっと辿りついた。ゆっくりしよう」と
    ズボンを脱ぎ泥を落とし拭ってたら・・・
    若い警察官が来て「ここは立ち入り禁止、すぐ立ち退け」と
    何でやねん、折角日本から来てるのにと言ってもラチあかず

    しばしごまかしながら動画を写し、すごすごと立ち退く
    次から次とアクシデントは続く、でも結果は万事順調なり
    見たいところを見れて、行きたい場所に行け、写真も動画も撮った

  • 宜蘭市民が集う中山公園に戻って来た <br /><br />?昨日から数えて四度目の公園に戻って来たが<br /> この時はパンツまで水にぬれて<br />泥だらけのズボンのまま歩いていた <br /><br />当初の予定では、管制塔とこの公園で<br />“ゆっくり”するつもりだったが<br /> そういう気分にもなれず駅に向かう <br />

    宜蘭市民が集う中山公園に戻って来た

    ?昨日から数えて四度目の公園に戻って来たが
    この時はパンツまで水にぬれて
    泥だらけのズボンのまま歩いていた

    当初の予定では、管制塔とこの公園で
    “ゆっくり”するつもりだったが
    そういう気分にもなれず駅に向かう

  • 昭和20年5月27日出撃2時間前に撮影:朝日新聞報道部 <br /><br /> 陸軍:第七十二振武隊。全員17歳 18歳 <br /><br /> 飛行帽の耳当てが跳ね上がっていない。第一ボタンも止めている <br /><br />/////////////////////////////////////////////////////////<br /><br />■西郷隆盛の最初の子供? <br /><br />この宜蘭では西郷菊次郎の父:西郷隆盛も1851/嘉永4年、斉彬の命で公の記録は無いが、この辺りに半年間ほどいたようだ。その時滞在した「南方澳」の地元の娘の間に子供を作った。その後のいろんな調査からもその信憑性は高い。その子孫の名は「劉武老」。 <br />http://www.katch.ne.jp/~sano/dobuita/newpage17.htm<br /><br />『西郷南州翁基隆蘇澳を偵察し「嘉永四年南方澳に子孫を遺せし物語」』入江暁風(著)。 <br /><br /><br />■陸海軍航空特攻隊出撃の地:宜蘭 <br /><br />それから時を経て昭和19年10月の台湾沖航空決戦から昭和20年沖縄攻防の特攻出撃の基地としての宜蘭がある。 <br /><br />陸海軍共用だった宜蘭の南北西飛行場の運用実態や協同作戦の様子、同じ飛行場を使っていたはずの陸海軍搭乗員や整備員などの交流はどうだったのか?そんなことに興味を持ったが分からない。 <br /><br />台湾:宜蘭航空隊について「修羅の翼」角田和男(著)・「空戦 飛燕対グラマン」田形竹尾(著)・「十四歳の夏」・中田芳子(著)・「特攻の海と空」渡辺 洋二(著)・「陸軍特別攻撃隊〈上下巻〉」高木俊朗(著)などやネットを調べたが、どうも陸海軍航空隊の交流に関しては見当たらない。 <br /><br />『台湾沖航空戦』神野正美(著)では台湾沖航空戦において死闘を演じ壊滅的打撃を受けたT攻撃部隊「海軍指揮下に編入された陸海軍雷撃部隊」のことが書かれている。それに参加した陸軍九十八戦隊の陸軍兵士は海軍との以下のような違いに驚いている。五六頁。 <br /><br />1.食事は麦のない銀飯だったこと<br />2.特別増加食(ビタミンの菓子、果物の缶詰、ワイン等)が3日毎に支給されたこと <br />3.外出が入湯上陸(翌朝までの外出)のなること(攻撃708では雨天のみ)<br />4.就寝後の便所に下着で行けること(陸軍は軍服を着用)<br />5.21時の臨検後に自由行動(煙草盆)ができること <br />6.海軍の飛行帽の耳当てが跳ね上げて止められること <br />7.飛行服の第一釦を外してマフラーが着用できること(陸軍では禁止が基本) <br />8.軍規風紀が陸軍よりも緩やかだったこと <br />9.略語や英語の多用 海軍は○○殿の殿は不要。「○○長官」でOK。 <br /><br />以上を見れば、やはり同じ日本帝国軍人でも陸海軍にいろんな違いがあったことが分かる。海軍は基本、海に出れば戦いに際して艦ごとに自己判断が要求されるが、陸軍は部隊単位も大移動であり、最前線の小競り合い以外は、なかなか独自の判断による戦は出来ないだろう。海軍の自由度と陸軍の厳格な規則はそれなりに意味があると思う。 <br /><br />「飛行帽の耳当てと第一釦」の陸海軍の違いが面白い。ようするに海軍はラフで陸軍は行儀が良いのかも・・・。軍規も陸軍の方が厳しいようだし。この陸海軍共同雷撃部隊は鹿屋基地を本拠地とした部隊で、台湾各地の飛行場でのそれぞれの陸海軍航空隊の交流はどのような物であったのか? <br /><br /><br />

    昭和20年5月27日出撃2時間前に撮影:朝日新聞報道部

    陸軍:第七十二振武隊。全員17歳 18歳

    飛行帽の耳当てが跳ね上がっていない。第一ボタンも止めている

    /////////////////////////////////////////////////////////

    ■西郷隆盛の最初の子供?

    この宜蘭では西郷菊次郎の父:西郷隆盛も1851/嘉永4年、斉彬の命で公の記録は無いが、この辺りに半年間ほどいたようだ。その時滞在した「南方澳」の地元の娘の間に子供を作った。その後のいろんな調査からもその信憑性は高い。その子孫の名は「劉武老」。
    http://www.katch.ne.jp/~sano/dobuita/newpage17.htm

    『西郷南州翁基隆蘇澳を偵察し「嘉永四年南方澳に子孫を遺せし物語」』入江暁風(著)。


    ■陸海軍航空特攻隊出撃の地:宜蘭

    それから時を経て昭和19年10月の台湾沖航空決戦から昭和20年沖縄攻防の特攻出撃の基地としての宜蘭がある。

    陸海軍共用だった宜蘭の南北西飛行場の運用実態や協同作戦の様子、同じ飛行場を使っていたはずの陸海軍搭乗員や整備員などの交流はどうだったのか?そんなことに興味を持ったが分からない。

    台湾:宜蘭航空隊について「修羅の翼」角田和男(著)・「空戦 飛燕対グラマン」田形竹尾(著)・「十四歳の夏」・中田芳子(著)・「特攻の海と空」渡辺 洋二(著)・「陸軍特別攻撃隊〈上下巻〉」高木俊朗(著)などやネットを調べたが、どうも陸海軍航空隊の交流に関しては見当たらない。

    『台湾沖航空戦』神野正美(著)では台湾沖航空戦において死闘を演じ壊滅的打撃を受けたT攻撃部隊「海軍指揮下に編入された陸海軍雷撃部隊」のことが書かれている。それに参加した陸軍九十八戦隊の陸軍兵士は海軍との以下のような違いに驚いている。五六頁。

    1.食事は麦のない銀飯だったこと
    2.特別増加食(ビタミンの菓子、果物の缶詰、ワイン等)が3日毎に支給されたこと
    3.外出が入湯上陸(翌朝までの外出)のなること(攻撃708では雨天のみ)
    4.就寝後の便所に下着で行けること(陸軍は軍服を着用)
    5.21時の臨検後に自由行動(煙草盆)ができること
    6.海軍の飛行帽の耳当てが跳ね上げて止められること
    7.飛行服の第一釦を外してマフラーが着用できること(陸軍では禁止が基本)
    8.軍規風紀が陸軍よりも緩やかだったこと
    9.略語や英語の多用 海軍は○○殿の殿は不要。「○○長官」でOK。

    以上を見れば、やはり同じ日本帝国軍人でも陸海軍にいろんな違いがあったことが分かる。海軍は基本、海に出れば戦いに際して艦ごとに自己判断が要求されるが、陸軍は部隊単位も大移動であり、最前線の小競り合い以外は、なかなか独自の判断による戦は出来ないだろう。海軍の自由度と陸軍の厳格な規則はそれなりに意味があると思う。

    「飛行帽の耳当てと第一釦」の陸海軍の違いが面白い。ようするに海軍はラフで陸軍は行儀が良いのかも・・・。軍規も陸軍の方が厳しいようだし。この陸海軍共同雷撃部隊は鹿屋基地を本拠地とした部隊で、台湾各地の飛行場でのそれぞれの陸海軍航空隊の交流はどのような物であったのか?


  • 昭和19年10月20日:マバラカット西飛行場に於いて<br />神風特別攻撃隊:敷島隊 左端、関行男大尉<br /> 背中向き:左:玉井副長(宜蘭、205司令):右:大西中将 <br /><br />まだ出撃待機中の姿だが、飛行帽の耳当ては跳ね上げている<br />待機中の突然の出来事だったので軍服姿も関大尉以外はラフだ <br />

    昭和19年10月20日:マバラカット西飛行場に於いて
    神風特別攻撃隊:敷島隊 左端、関行男大尉
    背中向き:左:玉井副長(宜蘭、205司令):右:大西中将

    まだ出撃待機中の姿だが、飛行帽の耳当ては跳ね上げている
    待機中の突然の出来事だったので軍服姿も関大尉以外はラフだ

  • 宜蘭駅構内のセブンイレブン <br /><br />世界多くは知らないが何処に行っても便利は便利<br />グローバルを毛嫌いしながら利用する私ですハハハ<br />気がつけば世界はグローバル企業に席巻されるのか? <br /><br />//////////////////////////////////////////////////////////<br /><br />■さあ、いよいよ日本人物語の多い宜蘭ともお別れの時が来た。 <br /><br />忠霊塔と別れを告げ、宜蘭駅のコインロッカーに入れていたリュックを出し、駅のトイレで汚れたズボンとパンツを履き替えた。ひとまずホット一息。朝、8時過ぎにロッカーにリュックを預け公園から南飛行場跡へと歩き出して3時間。時間は11時を過ぎていた。 <br /><br />これからの予定は宜蘭→福隆へ台鐵で行き、福隆駅前からタクシーで北白川宮師団長率いる日本軍最初の上陸地点、澳底(おくてい・おうてい)の海岸へ行く。 <br /><br />宜蘭(発)11時45分→12時21分(着)福隆。莒光(きょこう)「6車38號」の切符を購入して、駅構内の7イレブンでお握り二個・おでん四個を買って待合室のベンチで昼食。<br />

    宜蘭駅構内のセブンイレブン

    世界多くは知らないが何処に行っても便利は便利
    グローバルを毛嫌いしながら利用する私ですハハハ
    気がつけば世界はグローバル企業に席巻されるのか?

    //////////////////////////////////////////////////////////

    ■さあ、いよいよ日本人物語の多い宜蘭ともお別れの時が来た。

    忠霊塔と別れを告げ、宜蘭駅のコインロッカーに入れていたリュックを出し、駅のトイレで汚れたズボンとパンツを履き替えた。ひとまずホット一息。朝、8時過ぎにロッカーにリュックを預け公園から南飛行場跡へと歩き出して3時間。時間は11時を過ぎていた。

    これからの予定は宜蘭→福隆へ台鐵で行き、福隆駅前からタクシーで北白川宮師団長率いる日本軍最初の上陸地点、澳底(おくてい・おうてい)の海岸へ行く。

    宜蘭(発)11時45分→12時21分(着)福隆。莒光(きょこう)「6車38號」の切符を購入して、駅構内の7イレブンでお握り二個・おでん四個を買って待合室のベンチで昼食。

  • コンビニでおでんにオニギリが昼食<br />食に無頓着になってもう随分になる <br /><br /> やっぱり行くところが大陸と台湾だからかなあ? <br />

    コンビニでおでんにオニギリが昼食
    食に無頓着になってもう随分になる

    やっぱり行くところが大陸と台湾だからかなあ?

  • 17日の夜に宜蘭に到着し、19日午後宜蘭を去る <br /><br />短い滞在だったが、見るところ多し<br />10年後宜蘭の何が記憶に残っているのやら<br />旅行記を見れば思い出す・・・ <br />

    17日の夜に宜蘭に到着し、19日午後宜蘭を去る

    短い滞在だったが、見るところ多し
    10年後宜蘭の何が記憶に残っているのやら
    旅行記を見れば思い出す・・・

  • 宜蘭駅の1番プラットホーム <br /><br /> まだこの時は雨は降っていなかった <br /><br />果たして我が人生で宜蘭再訪はあるのだろうか? <br />

    宜蘭駅の1番プラットホーム

    まだこの時は雨は降っていなかった

    果たして我が人生で宜蘭再訪はあるのだろうか?

  • 礁渓温泉・・・か、特攻隊員も<br /> この温泉旅館で出撃前の日を過ごした <br /><br />一人一人に英雄伝あり、誰が知る<br />後に続く者を信じて彼らは飛び立った <br /><br />///////////////////////////////////////////////<br /><br />■宜蘭〜福隆へ <br /><br />定刻に発車の莒光に乗って福隆に向かった。この頃はまだ雨こそ降っていなかったが、空はどんよりで今にも降って来そうだった。 <br /><br />途中、温泉で有名な礁渓(しょうけい Jiāo xī ジャオシー)を経て福隆に近づいた頃には、外はどしゃ降り状態の風景になっていた。こればっかりは仕方が無いと早々に諦めて福隆のホームに降り立つ。駅前の風景は思っていた通りの田舎の佇まい。とりあえずコインロッカーにリュックを預け駅前で二、三台停まっていた客待ちの先頭のタクシーに声を掛けた。 <br /><br />「鹽寮(塩寮 えんりょう)海浜公園で写真を撮って又福隆に戻って来たい。幾ら?」と聞いたら「滞在時間は?」と聞くので「30分くらい」と言うと「300元」と言われた。距離は知れていると思うけど30分くらいいるつもりだったので、計1時間¥300元ならOKと早速乗り込んだ。 <br /><br />どしゃ降り状態の中で気分も今一さえずカメラの調子の悪さも気になっていた。 <br /><br /><br />

    礁渓温泉・・・か、特攻隊員も
    この温泉旅館で出撃前の日を過ごした

    一人一人に英雄伝あり、誰が知る
    後に続く者を信じて彼らは飛び立った

    ///////////////////////////////////////////////

    ■宜蘭〜福隆へ

    定刻に発車の莒光に乗って福隆に向かった。この頃はまだ雨こそ降っていなかったが、空はどんよりで今にも降って来そうだった。

    途中、温泉で有名な礁渓(しょうけい Jiāo xī ジャオシー)を経て福隆に近づいた頃には、外はどしゃ降り状態の風景になっていた。こればっかりは仕方が無いと早々に諦めて福隆のホームに降り立つ。駅前の風景は思っていた通りの田舎の佇まい。とりあえずコインロッカーにリュックを預け駅前で二、三台停まっていた客待ちの先頭のタクシーに声を掛けた。

    「鹽寮(塩寮 えんりょう)海浜公園で写真を撮って又福隆に戻って来たい。幾ら?」と聞いたら「滞在時間は?」と聞くので「30分くらい」と言うと「300元」と言われた。距離は知れていると思うけど30分くらいいるつもりだったので、計1時間¥300元ならOKと早速乗り込んだ。

    どしゃ降り状態の中で気分も今一さえずカメラの調子の悪さも気になっていた。


  • とうとう雨 <br /><br /> 日清戦争が終わり日本への台湾割譲が決まった<br />当時の台湾住民の危惧 <br /><br /> 『日本は東夷の一つ、東海の小さな野蛮国で<br />話に聞くと弁髪を切り、纒足をとき<br /> アヘンを禁ずるそうな。一体これから先はどうなるのだ。』 <br /><br />なるほど心配はごもっともだが <br />

    とうとう雨

    日清戦争が終わり日本への台湾割譲が決まった
    当時の台湾住民の危惧

    『日本は東夷の一つ、東海の小さな野蛮国で
    話に聞くと弁髪を切り、纒足をとき
    アヘンを禁ずるそうな。一体これから先はどうなるのだ。』

    なるほど心配はごもっともだが

  • 宜蘭から莒光に乗って36分で福隆に到着 <br /><br />ここからタクシーで上陸地点:澳底海岸に向かう <br />

    宜蘭から莒光に乗って36分で福隆に到着

    ここからタクシーで上陸地点:澳底海岸に向かう

  • ふ〜ん、これが福隆駅前の風景か<br />思っていたような駅前風景 <br /><br />コインロッカーにリュックを預け<br /> タクシーと交渉する <br /><br />滞在希望時間30分¥300元で成立 <br />

    ふ〜ん、これが福隆駅前の風景か
    思っていたような駅前風景

    コインロッカーにリュックを預け
    タクシーと交渉する

    滞在希望時間30分¥300元で成立

  • 1895/明治28年5月29日日本軍澳底上陸  <br /> <br /> 近衛師団長北白川宮能久親王以下第一旅団上陸 ? <br /><br />////////////////////////////////////////////////////<br /><br />■鹽寮海濱公園へ行く <br /><br />カメラを手に持ち傘を差してどんな写真がとれるのやら・・・と。鹽寮海濱公園(イエンリャオハイビンゴンユエン Yán liáo hǎibīn gōngyuán)入り口に到着。この公園に入るには入場券が必要だ。他に車も観光客の姿もなく、その時は私一人だったと思う。券販所の服務員の叔父さんが私を見て年齢を聞いてきた。「63歳」と言ったが、大雨の中日本から来た私に同情してくれたのか?10元の割引がある優待票¥50元で入れてくれた。 <br /><br />最近65歳優待がある入場口では、こっちから何も言わないのにほぼ確実に年齢を聞かれるようになった。そのサービス精神は嬉しいが、自己申告していないのに聞かれるのは寂しい気もする。数年前はそんなことは一度も記憶に無い。もっともその当時は65歳以上優待券も多くはなかったと思うけど・・・。年相応、いや実年齢以上の歳に見られることもあるのかと思うと、あァ〜もっと身体を鍛えて若返らなければと思う。 <br /><br />台湾接収のために台北への最短コースである淡水沖に到着していた樺山総督一行だが、淡水上陸を断念し、この澳底に上陸した。日清戦争に勝利後(1895年)に締結された下関条約(馬關條約)で日本に割譲が決まった台湾だが、清朝は台湾にそのことを知らせなかった。 <br /><br />それで台湾人が寝耳に水、突然の日本支配を納得せず台湾民主国を自ら建国して日本軍の台湾上陸に抵抗しようとした。それらの情報を得て、樺山総督は近衛師団長北白川宮能久親王らと協議の結果、淡水(たんすい)上陸を断念した。わざわざ迂回コースとなる澳底に変更したのは勇気ある決断で戦史においても高く評価されているそうだ。 <br />

    1895/明治28年5月29日日本軍澳底上陸

    近衛師団長北白川宮能久親王以下第一旅団上陸 ?

    ////////////////////////////////////////////////////

    ■鹽寮海濱公園へ行く

    カメラを手に持ち傘を差してどんな写真がとれるのやら・・・と。鹽寮海濱公園(イエンリャオハイビンゴンユエン Yán liáo hǎibīn gōngyuán)入り口に到着。この公園に入るには入場券が必要だ。他に車も観光客の姿もなく、その時は私一人だったと思う。券販所の服務員の叔父さんが私を見て年齢を聞いてきた。「63歳」と言ったが、大雨の中日本から来た私に同情してくれたのか?10元の割引がある優待票¥50元で入れてくれた。

    最近65歳優待がある入場口では、こっちから何も言わないのにほぼ確実に年齢を聞かれるようになった。そのサービス精神は嬉しいが、自己申告していないのに聞かれるのは寂しい気もする。数年前はそんなことは一度も記憶に無い。もっともその当時は65歳以上優待券も多くはなかったと思うけど・・・。年相応、いや実年齢以上の歳に見られることもあるのかと思うと、あァ〜もっと身体を鍛えて若返らなければと思う。

    台湾接収のために台北への最短コースである淡水沖に到着していた樺山総督一行だが、淡水上陸を断念し、この澳底に上陸した。日清戦争に勝利後(1895年)に締結された下関条約(馬關條約)で日本に割譲が決まった台湾だが、清朝は台湾にそのことを知らせなかった。

    それで台湾人が寝耳に水、突然の日本支配を納得せず台湾民主国を自ら建国して日本軍の台湾上陸に抵抗しようとした。それらの情報を得て、樺山総督は近衛師団長北白川宮能久親王らと協議の結果、淡水(たんすい)上陸を断念した。わざわざ迂回コースとなる澳底に変更したのは勇気ある決断で戦史においても高く評価されているそうだ。

  • どしゃ降り雨・・・か<br />仕方が無い <br /><br />上陸地点:澳底(おうてい おくてい Ào dǐ アオディ)に向かう<br />朝から溝にはまり、大雨で今一テンション上がらず <br />

    どしゃ降り雨・・・か
    仕方が無い

    上陸地点:澳底(おうてい おくてい Ào dǐ アオディ)に向かう
    朝から溝にはまり、大雨で今一テンション上がらず

  • 左手は「台湾第四原発」<br /> 地元民などの反対で今もって発電ならず <br /><br />日本は即刻、全部の原発稼動を!<br />2万年前の活断層の有無を調べるな<br />明日の地震も予知できない地震学者 <br /><br /> 出来ない地震予知など百害だけで無用だ<br />日本列島は地震列島、列島全部が活断層だと思え!<br />そして常に地震に備えて万全の準備をするが良い <br />

    左手は「台湾第四原発」
    地元民などの反対で今もって発電ならず

    日本は即刻、全部の原発稼動を!
    2万年前の活断層の有無を調べるな
    明日の地震も予知できない地震学者

    出来ない地震予知など百害だけで無用だ
    日本列島は地震列島、列島全部が活断層だと思え!
    そして常に地震に備えて万全の準備をするが良い

  • 「北白川宮征討記念碑」 <br /><br /> 上陸の翌年1896/明治29年当地に建立<br /><br /><br /> 上部は清軍戦利品の砲身 <br /><br /><br />//////////////////////////////////////////////////////<br /><br />「台湾島抗日秘史」喜安幸夫(著)より <br />「日清戦争と台湾接収」より抜粋 <br /><br /> 敵前上陸 <br /><br />「台湾の現況は兵力を用いざれば鎮圧し難きを似て、1895/明治28年5月29日同地に着せり」淡水沖に到着し、すでに台北には台湾民主国という抗日のための新政府が樹立されたことを確認した総督一行は、近衛師団長北白川宮能久親王らと協議の結果、淡水(たんすい)上陸を断念した。 <br /><br />そして、他所を、上陸点と決定した旨、大本営に打電したのであった。<br /> 電文通り、明治二十八年五月二十九日には姫路、佐倉、豊橋の三艘からなる輸送船団が戦艦松島の護衛のもとに、その上陸地点、三貂角の北西海岸・澳底(おくてい)湾沖に追っていた。船団に分乗している将兵は、特に北白川宮師団長が自ら指揮をとる同師団第一旅団の面々である。 <br /><br />待ち詫びぬ今日は軍の初旅路 勇む心の急がるるかな <br /><br />一将校の、出発に際して詠んだ詩である。 <br /><br />すでにふれた通り、征台軍となった近衛師団の士気は頗る高かった。 同日午後二時、上陸は開始された。ここに日本軍は台湾の地に、これから始まる五十年余の統治の第一歩をきざもうとしている。 <br /><br /><br /><br />1895/明治28年5月29日日本軍澳底上陸  <br /> <br /><br /> 近衛師団長北白川宮能久親王以下第一旅団上陸 ? <br /><br />これに先だつこと二日前、樺山総督は石ころ一塊ではあるがすでに台湾の土を手にしていた。総督一行を乗せた横浜丸が淡水沖に近づいた時のことである。船足を緩め、海の深浅を測量していた時、垂らしていた錘鉛線を引揚げてみると、どういうわけかその先端に五尋の海底より二塊の石がからみついてきた。 <br /><br />船長はこれを瑞兆とし、総督に呈して言った。「是れ閣下が新版図に赴任せらるるに際して得る所の最初の土なり」と。総督は、これより自ら治める台湾の島影を眼前に、この二塊の石を『高砂』と銘して領台の記念とした。忙中閑有りというか、嵐の前の静けさをあらわす一エピソードである。 <br /><br />日本軍はまず台湾北東端の三貂角(さんちょうかく)を上陸地点と定めた。台北開城まではスムーズに運んだが、その後は抗日勢力に悩まされ、北の台北からと、澎湖島を基地として、台湾南端の枋寮からの進軍で、日本軍は台湾を平定した。 <br /><br />わが国初の植民地統治の、しかも初代総督という重責に際し、一日も早く、且つすみやかに、そしてつつがなく首府・台北において世界注視の始政式を挙げたいとの明治日本の威信をかけた樺山総督の心境が、南方海上でのこの一エピソードの中からも読み取ることが出来よう。 <br /><br />  三貂角は台湾島の北の玄関口・基隆港にも近く、これを押えるにも比較的便利な位置にある。そして現地は、淡水や基隆などの整備され防備も固められた港湾とは違い、民家が数軒あるにすぎない寒村であり、しかもその海岸線はこの一帯にはめずらしく砂浜であった。 <br /><br />また、この決定は樺山総督が、台湾民主国の建国に至ったという台湾内部の動静をある程度把握していた証明ともなろう。しかし、「三貂角を上陸地点と定め……云々」という大本営への電文の中に、「小官は是れより基隆を略取し、続いて台北府に進み、彼の所謂新政府を撃倒し終れば、第一次の小平和を得べく、故に本島の未来に付ては尊慮を労するに及ばざるものと思考す」との一文が添えられていた。 <br /><br />やはり総督は現地情勢を完全には把握していなかったのである。<br /> 「本島の未来に付ては尊慮を労するに及ばざる」は、一時総督のこの思考通り事が進むかに見えたが、この思考が完全に誤っていたと悟らねばならぬ日がやがて来る。上陸地点・澳底付近の民主国守備隊はわずか四百名内外に過ぎず、午後三時三十分、上陸部隊の先陣となった歩兵一個中隊がまずこれと衝突した。 <br /><br />台湾民主国の日本軍に対する初の抵抗戦である。<br />ところが、日本軍が勇んで干戈を交えると、それは「日本の侵略に抵抗せんがため」として、勢いよく建国した台湾民主国の第一回の抗日戦にしてはあまりにもおそまつなものであった。上陸してきた日本軍とわずかの銃撃戦を行ったのみで、たちまちにして民主国軍兵士らは四体の遺棄死体と若干の兵器弾薬を残したまま戦線を離脱してしまった。  <br /><br />上陸部隊は逃散する民主国兵を山中に追撃し、後続部隊もすでに無防備となった澳底に続々と上陸を始めた。かくて近衛師団第一旅団は難なく澳底の地に第一歩を印したのである。そしてこの地点より陸路基隆(キートン)を衝く態勢をとった。 <br />

    「北白川宮征討記念碑」

    上陸の翌年1896/明治29年当地に建立


    上部は清軍戦利品の砲身


    //////////////////////////////////////////////////////

    「台湾島抗日秘史」喜安幸夫(著)より
    「日清戦争と台湾接収」より抜粋

    敵前上陸

    「台湾の現況は兵力を用いざれば鎮圧し難きを似て、1895/明治28年5月29日同地に着せり」淡水沖に到着し、すでに台北には台湾民主国という抗日のための新政府が樹立されたことを確認した総督一行は、近衛師団長北白川宮能久親王らと協議の結果、淡水(たんすい)上陸を断念した。

    そして、他所を、上陸点と決定した旨、大本営に打電したのであった。
    電文通り、明治二十八年五月二十九日には姫路、佐倉、豊橋の三艘からなる輸送船団が戦艦松島の護衛のもとに、その上陸地点、三貂角の北西海岸・澳底(おくてい)湾沖に追っていた。船団に分乗している将兵は、特に北白川宮師団長が自ら指揮をとる同師団第一旅団の面々である。

    待ち詫びぬ今日は軍の初旅路 勇む心の急がるるかな

    一将校の、出発に際して詠んだ詩である。

    すでにふれた通り、征台軍となった近衛師団の士気は頗る高かった。 同日午後二時、上陸は開始された。ここに日本軍は台湾の地に、これから始まる五十年余の統治の第一歩をきざもうとしている。



    1895/明治28年5月29日日本軍澳底上陸


    近衛師団長北白川宮能久親王以下第一旅団上陸 ?

    これに先だつこと二日前、樺山総督は石ころ一塊ではあるがすでに台湾の土を手にしていた。総督一行を乗せた横浜丸が淡水沖に近づいた時のことである。船足を緩め、海の深浅を測量していた時、垂らしていた錘鉛線を引揚げてみると、どういうわけかその先端に五尋の海底より二塊の石がからみついてきた。

    船長はこれを瑞兆とし、総督に呈して言った。「是れ閣下が新版図に赴任せらるるに際して得る所の最初の土なり」と。総督は、これより自ら治める台湾の島影を眼前に、この二塊の石を『高砂』と銘して領台の記念とした。忙中閑有りというか、嵐の前の静けさをあらわす一エピソードである。

    日本軍はまず台湾北東端の三貂角(さんちょうかく)を上陸地点と定めた。台北開城まではスムーズに運んだが、その後は抗日勢力に悩まされ、北の台北からと、澎湖島を基地として、台湾南端の枋寮からの進軍で、日本軍は台湾を平定した。

    わが国初の植民地統治の、しかも初代総督という重責に際し、一日も早く、且つすみやかに、そしてつつがなく首府・台北において世界注視の始政式を挙げたいとの明治日本の威信をかけた樺山総督の心境が、南方海上でのこの一エピソードの中からも読み取ることが出来よう。

      三貂角は台湾島の北の玄関口・基隆港にも近く、これを押えるにも比較的便利な位置にある。そして現地は、淡水や基隆などの整備され防備も固められた港湾とは違い、民家が数軒あるにすぎない寒村であり、しかもその海岸線はこの一帯にはめずらしく砂浜であった。

    また、この決定は樺山総督が、台湾民主国の建国に至ったという台湾内部の動静をある程度把握していた証明ともなろう。しかし、「三貂角を上陸地点と定め……云々」という大本営への電文の中に、「小官は是れより基隆を略取し、続いて台北府に進み、彼の所謂新政府を撃倒し終れば、第一次の小平和を得べく、故に本島の未来に付ては尊慮を労するに及ばざるものと思考す」との一文が添えられていた。

    やはり総督は現地情勢を完全には把握していなかったのである。
    「本島の未来に付ては尊慮を労するに及ばざる」は、一時総督のこの思考通り事が進むかに見えたが、この思考が完全に誤っていたと悟らねばならぬ日がやがて来る。上陸地点・澳底付近の民主国守備隊はわずか四百名内外に過ぎず、午後三時三十分、上陸部隊の先陣となった歩兵一個中隊がまずこれと衝突した。

    台湾民主国の日本軍に対する初の抵抗戦である。
    ところが、日本軍が勇んで干戈を交えると、それは「日本の侵略に抵抗せんがため」として、勢いよく建国した台湾民主国の第一回の抗日戦にしてはあまりにもおそまつなものであった。上陸してきた日本軍とわずかの銃撃戦を行ったのみで、たちまちにして民主国軍兵士らは四体の遺棄死体と若干の兵器弾薬を残したまま戦線を離脱してしまった。 

    上陸部隊は逃散する民主国兵を山中に追撃し、後続部隊もすでに無防備となった澳底に続々と上陸を始めた。かくて近衛師団第一旅団は難なく澳底の地に第一歩を印したのである。そしてこの地点より陸路基隆(キートン)を衝く態勢をとった。

  • 鹽寮抗日紀念碑 <br /><br />1975/昭和50年<br /> 北白川宮征討記念碑が姿を変え抗日祈念碑となる <br /><br /> ここでも抗日か、外省人の仕業なり <br /><br /><br />//////////////////////////////////////////////<br /><br />どしゃ降り雨の澳底の海岸には、日本軍の上陸を説明するガラス版があり、日本語の説明文もあったがなんせ雨と風、それにデジカメ不調でちゃんと見る気にもなれず。でも海岸は風雨のせいで人影なく、自然のままの景色が広がりこの一画だけを見ていれば明治28年5月29日も同じ光景ではと思わされた。 <br /><br />この地は「台湾第四原発」(龍門発電所)の所在地でもあり公園から道を隔てた近くに東芝・日立の日本製原子力発電所が二基並んでいる。日本と同じく地元の原発反対などがあり未だ商業運転ならず。 <br /><br />澳底滞在20分にして切り上げタクシーに戻る。10分ほどで駅に到着。13時14分。福隆からバスで基隆に行く事も出来たが、駅からバス停まで雨の中の移動が嫌で列車を待つ。 <br />

    鹽寮抗日紀念碑

    1975/昭和50年
    北白川宮征討記念碑が姿を変え抗日祈念碑となる

    ここでも抗日か、外省人の仕業なり


    //////////////////////////////////////////////

    どしゃ降り雨の澳底の海岸には、日本軍の上陸を説明するガラス版があり、日本語の説明文もあったがなんせ雨と風、それにデジカメ不調でちゃんと見る気にもなれず。でも海岸は風雨のせいで人影なく、自然のままの景色が広がりこの一画だけを見ていれば明治28年5月29日も同じ光景ではと思わされた。

    この地は「台湾第四原発」(龍門発電所)の所在地でもあり公園から道を隔てた近くに東芝・日立の日本製原子力発電所が二基並んでいる。日本と同じく地元の原発反対などがあり未だ商業運転ならず。

    澳底滞在20分にして切り上げタクシーに戻る。10分ほどで駅に到着。13時14分。福隆からバスで基隆に行く事も出来たが、駅からバス停まで雨の中の移動が嫌で列車を待つ。

  • 鹽寮抗日紀念碑 <br /><br />1975/昭和50年<br /> 北白川宮征討記念碑が姿を変え抗日祈念碑となる <br /><br /> ここでも抗日か、外省人の仕業なり <br />

    鹽寮抗日紀念碑

    1975/昭和50年
    北白川宮征討記念碑が姿を変え抗日祈念碑となる

    ここでも抗日か、外省人の仕業なり

  • 日本への割譲に反発し台湾に独立国が誕生した <br /><br />国名は『台湾民主国』 <br /><br /> 上陸する日本軍は台湾民主国軍と戦うことになった<br /> その実力は如何ばかりなり <br />

    日本への割譲に反発し台湾に独立国が誕生した

    国名は『台湾民主国』

    上陸する日本軍は台湾民主国軍と戦うことになった
    その実力は如何ばかりなり

  • 日本軍上陸時の澳底海岸の様子

    日本軍上陸時の澳底海岸の様子

  • 今の澳底海岸

    今の澳底海岸

  • 今も当時の変わらぬ海岸風景が広がっていた <br /><br />2014/平成26年の今から119年前、日本軍ここに上陸す<br />明治14年生まれの我が祖父:14歳の時なのか<br /> その祖父は明治37年日露戦争に従軍した<br />鉄嶺手前で三発のロシア軍銃弾を受けるが<br />無事凱旋し私や私の子供孫がいる <br />

    今も当時の変わらぬ海岸風景が広がっていた

    2014/平成26年の今から119年前、日本軍ここに上陸す
    明治14年生まれの我が祖父:14歳の時なのか
    その祖父は明治37年日露戦争に従軍した
    鉄嶺手前で三発のロシア軍銃弾を受けるが
    無事凱旋し私や私の子供孫がいる

  • あァそうか、ここか、と、来て見て分かった <br /><br />雨激しく風強く傘差しにくく<br /> デジカメ不調で写真撮りにくく <br /><br /> おまけに寒い寒い<br /> せかっくズボンを履き替えたのに<br /> またびしょびしょになる <br /><br /> なにを贅沢な・・・<br />似非平和に生まれ育てば皆こうなる <br />

    あァそうか、ここか、と、来て見て分かった

    雨激しく風強く傘差しにくく
    デジカメ不調で写真撮りにくく

    おまけに寒い寒い
    せかっくズボンを履き替えたのに
    またびしょびしょになる

    なにを贅沢な・・・
    似非平和に生まれ育てば皆こうなる

  • 海岸左手になにやら建造物が <br /><br />何か分からない<br />

    海岸左手になにやら建造物が

    何か分からない

  • 海岸から鹽寮抗日紀念碑方向(西)を写す

    海岸から鹽寮抗日紀念碑方向(西)を写す

  • 海岸から台湾第四原発が見える

    海岸から台湾第四原発が見える

  • 入場門に戻る <br /><br />澳底海岸滞在デジカメ時間20分 <br /><br /> 雨風あれど我のほかに人なし<br />日本軍上陸地点に来たぞ! <br /><br />1895/明治28年5月29日:日本軍澳底上陸<br /> 西郷菊次郎は明治28年5月、台湾参事官心得を命ぜられる<br />西郷寅太郎は5月29日近衛師団歩兵少尉として澳底に上陸した <br /><br />明治28年、西郷兄弟共に台湾にあり <br />

    入場門に戻る

    澳底海岸滞在デジカメ時間20分

    雨風あれど我のほかに人なし
    日本軍上陸地点に来たぞ!

    1895/明治28年5月29日:日本軍澳底上陸
    西郷菊次郎は明治28年5月、台湾参事官心得を命ぜられる
    西郷寅太郎は5月29日近衛師団歩兵少尉として澳底に上陸した

    明治28年、西郷兄弟共に台湾にあり

  • ■福隆から基隆へ <br /><br />13時45分(発)區間車で基隆に向かった。 <br /><br />途中の駅名に「三貂嶺(さんちょうれい) S?・n di?・o l?・ng サンディヤオリン」→「端芳(ずいほう) Du?・nf?・ng ドァンファン」など上陸した日本軍が基隆に向かって進撃した時の地名が目に付いた。 <br /><br />澳底から基隆までの進撃の苦難は、敵兵の抵抗より地形の険悪さであったようだ。澳底を出発して端芳に到達が三日目の6月2日、この端芳で民主国軍の抵抗に遭遇する。 <br /><br /><br />////////////////////////////////////////////////<br /><br />午後1時46分(発)區間車(各駅)で福隆から基隆へ <br /><br />1895/明治28年5月29日日本軍澳底上陸<br />その翌日には早くも基隆に向かって進撃 <br /><br />第一旅団の敵は、民主国軍ではなく<br />地形の険悪さであったようだ <br /><br /><br />澳底日本軍上陸 <br /><br />http://youtu.be/rq_A5mljsos

    ■福隆から基隆へ

    13時45分(発)區間車で基隆に向かった。

    途中の駅名に「三貂嶺(さんちょうれい) S?・n di?・o l?・ng サンディヤオリン」→「端芳(ずいほう) Du?・nf?・ng ドァンファン」など上陸した日本軍が基隆に向かって進撃した時の地名が目に付いた。

    澳底から基隆までの進撃の苦難は、敵兵の抵抗より地形の険悪さであったようだ。澳底を出発して端芳に到達が三日目の6月2日、この端芳で民主国軍の抵抗に遭遇する。


    ////////////////////////////////////////////////

    午後1時46分(発)區間車(各駅)で福隆から基隆へ

    1895/明治28年5月29日日本軍澳底上陸
    その翌日には早くも基隆に向かって進撃

    第一旅団の敵は、民主国軍ではなく
    地形の険悪さであったようだ


    澳底日本軍上陸

    http://youtu.be/rq_A5mljsos

  • 三貂嶺(さんちょうれい)駅 <br /><br /> 澳底から基隆へ至る進撃道中は断崖絶壁の障害も少なからず<br />谷底を眼下に丸木一木の橋を渡らねばならぬ箇所も多く<br /> この悪路に軍馬はとうてい使えず、山砲の運搬も全て人力に頼った。 <br /><br /> 日本軍かく戦えり <br />

    三貂嶺(さんちょうれい)駅

    澳底から基隆へ至る進撃道中は断崖絶壁の障害も少なからず
    谷底を眼下に丸木一木の橋を渡らねばならぬ箇所も多く
    この悪路に軍馬はとうてい使えず、山砲の運搬も全て人力に頼った。

    日本軍かく戦えり

  • ここが瑞芳・・・か <br /><br />基隆への進撃道中で民主国軍の抵抗らしい抵抗に遭ったのは<br />進撃三日目、六月二日の瑞芳(ずいほう)攻防戦であった <br /><br />一時間足らずの攻防戦。民主国軍の損害は遺棄死体だけでも百余体を数え<br />これに対して日本軍は死者三名、負偽者十七名であった。日本軍は圧勝した <br /><br />圧勝といえど三名戦死、17名負傷、その名も知らず <br /><br />////////////////////////////////////////////////////<br /><br /><br />「台湾島抗日秘史」喜安幸夫(著)より <br />「日清戦争と台湾接収」より抜粋 <br /><br /><br /><br />基隆真近 <br /><br />翌日、第一旅団は澳底より基隆へ向けて発った。<br />進撃を開始した第一旅団にとって、敵とは民主国軍のおそまつな抵抗ではなく、それはむしろ地形の険悪さであった。山中の渓流に沿った道一筋には断崖絶壁の障害も少なからず、谷底を眼下に丸木一木の橋を渡らねばならぬ箇所も多く、この悪路に軍馬はとうてい使えず、山砲の運搬も全て人力に頼った。 <br /><br />自然の障壁に悩みながらも、時折遭遇する民主国軍をことごとく撃退しながら進んだ。進撃する日本軍が民主国軍の抵抗らしい抵抗に遭ったのは澳底を発ってより三日目、六月二日の瑞芳(ずいほう)攻防戦においてであった。すでにここは基隆とは指呼の間にあり、これを陥せば第一目標の基隆占領は時間の問題となる。 <br /><br />当初、瑞芳の民主国守備軍は一営にすぎなかった。<br />一営とは約五百人で編成される部隊単位であるが、当時の清国軍では営の指揮官が兵員の数が定数に満たなくとも五百名と虚意の報告をして定員通りの糧抹・給与を受け取り、その差額でもって私腹を肥やすという悪習があった。 <br /><br />そのため一営の実数は三百名内外と推定され、台湾民主国の正規軍もほとんどが旧清国軍の残留部隊であるところから、瑞芳守備軍一営と言っても実際にはこのように三百名内外であったと思われる。基隆防衛の要衝にしては手薄な防備であるが、このような背後から日本軍が出てくるとは予想し得なかったのであろう。 <br /><br />民主国総統・唐景崧は瑞芳危うしの報を受けるや、基隆の危機を感じ、急拠基隆より増援軍を派遣し、日本軍と戦端が開かれた時点では総数千名を上回ってはいた。午前七時五十分、日本軍はまず瑞芳の村落を見下ろす丘陵地に設けられた砲台を攻撃し、わずか数十分の銃撃戦でこれを占領するやただちに村内へ突入した。 <br /><br />民主国軍は民家の土壁をくりぬき屋内より突入してくる日本軍を銃撃するという一種の村落戦を演じた。かし、果敢な日本軍の突撃に村落戦も効を奏さず民主国軍将兵はたちまちに浮き足だち、ここでも戦線を放棄して瑞芳の四方に逃散した。その後も彼らは村外の樹木の間に潜み、巧みに地形を利用して追撃してくる日本軍に射撃を加え、執拗に抵抗する態勢をとったが、なおも突進してくる日本軍に抗しきれず、遂にこの地を完全に放棄し、基隆方面へ敗走していった。 <br /><br />午前八時三十分、瑞芳での全ての戦闘が終了した。<br />わずか一時間足らずの攻防戦である。この短い戦闘で民主国軍の損害は遺棄死体だけでも百余体を数え、これに対して日本軍は死者三名、負偽者十七名であった。日本軍は圧勝した。基降は目前にある。 <br /><br /><br />

    ここが瑞芳・・・か

    基隆への進撃道中で民主国軍の抵抗らしい抵抗に遭ったのは
    進撃三日目、六月二日の瑞芳(ずいほう)攻防戦であった

    一時間足らずの攻防戦。民主国軍の損害は遺棄死体だけでも百余体を数え
    これに対して日本軍は死者三名、負偽者十七名であった。日本軍は圧勝した

    圧勝といえど三名戦死、17名負傷、その名も知らず

    ////////////////////////////////////////////////////


    「台湾島抗日秘史」喜安幸夫(著)より
    「日清戦争と台湾接収」より抜粋



    基隆真近

    翌日、第一旅団は澳底より基隆へ向けて発った。
    進撃を開始した第一旅団にとって、敵とは民主国軍のおそまつな抵抗ではなく、それはむしろ地形の険悪さであった。山中の渓流に沿った道一筋には断崖絶壁の障害も少なからず、谷底を眼下に丸木一木の橋を渡らねばならぬ箇所も多く、この悪路に軍馬はとうてい使えず、山砲の運搬も全て人力に頼った。

    自然の障壁に悩みながらも、時折遭遇する民主国軍をことごとく撃退しながら進んだ。進撃する日本軍が民主国軍の抵抗らしい抵抗に遭ったのは澳底を発ってより三日目、六月二日の瑞芳(ずいほう)攻防戦においてであった。すでにここは基隆とは指呼の間にあり、これを陥せば第一目標の基隆占領は時間の問題となる。

    当初、瑞芳の民主国守備軍は一営にすぎなかった。
    一営とは約五百人で編成される部隊単位であるが、当時の清国軍では営の指揮官が兵員の数が定数に満たなくとも五百名と虚意の報告をして定員通りの糧抹・給与を受け取り、その差額でもって私腹を肥やすという悪習があった。

    そのため一営の実数は三百名内外と推定され、台湾民主国の正規軍もほとんどが旧清国軍の残留部隊であるところから、瑞芳守備軍一営と言っても実際にはこのように三百名内外であったと思われる。基隆防衛の要衝にしては手薄な防備であるが、このような背後から日本軍が出てくるとは予想し得なかったのであろう。

    民主国総統・唐景崧は瑞芳危うしの報を受けるや、基隆の危機を感じ、急拠基隆より増援軍を派遣し、日本軍と戦端が開かれた時点では総数千名を上回ってはいた。午前七時五十分、日本軍はまず瑞芳の村落を見下ろす丘陵地に設けられた砲台を攻撃し、わずか数十分の銃撃戦でこれを占領するやただちに村内へ突入した。

    民主国軍は民家の土壁をくりぬき屋内より突入してくる日本軍を銃撃するという一種の村落戦を演じた。かし、果敢な日本軍の突撃に村落戦も効を奏さず民主国軍将兵はたちまちに浮き足だち、ここでも戦線を放棄して瑞芳の四方に逃散した。その後も彼らは村外の樹木の間に潜み、巧みに地形を利用して追撃してくる日本軍に射撃を加え、執拗に抵抗する態勢をとったが、なおも突進してくる日本軍に抗しきれず、遂にこの地を完全に放棄し、基隆方面へ敗走していった。

    午前八時三十分、瑞芳での全ての戦闘が終了した。
    わずか一時間足らずの攻防戦である。この短い戦闘で民主国軍の損害は遺棄死体だけでも百余体を数え、これに対して日本軍は死者三名、負偽者十七名であった。日本軍は圧勝した。基降は目前にある。


  • 福隆から基隆へ行くのには八堵駅で乗り換える

    福隆から基隆へ行くのには八堵駅で乗り換える

  • 四脚亭を過ぎた頃の車窓の風景 <br /><br />1895/明治28年6月3日午前六時、日本軍は行動を開始した<br />午前十時頃には早くも先発部隊が基隆真近と追っていた<br /><br /><br />  昼頃には第一旅団本隊も基隆郊外に到着し午後一時、総攻撃は開始<br />それと時をほぼ同じくして黒雲がにわかに天を覆い基隆一帯は豪雨 <br /><br /> 第一旅団はまず基隆市周囲の砲台を次々と陥していった <br /><br />今日も雨、やっぱりこの辺りは雨が多いのか <br />

    四脚亭を過ぎた頃の車窓の風景

    1895/明治28年6月3日午前六時、日本軍は行動を開始した
    午前十時頃には早くも先発部隊が基隆真近と追っていた


      昼頃には第一旅団本隊も基隆郊外に到着し午後一時、総攻撃は開始
    それと時をほぼ同じくして黒雲がにわかに天を覆い基隆一帯は豪雨

    第一旅団はまず基隆市周囲の砲台を次々と陥していった

    今日も雨、やっぱりこの辺りは雨が多いのか

  • 暖暖(だんだん Nŭannŭan ヌアンヌアン)駅 <br /><br />?四脚亭駅⇔暖暖駅⇔?八堵駅となる <br />

    暖暖(だんだん Nŭannŭan ヌアンヌアン)駅

    ?四脚亭駅⇔暖暖駅⇔?八堵駅となる

  • 八堵のホームで声を掛けられた <br /><br />今も天皇陛下に尊崇の念を抱き<br />天皇の話になると涙を流す台湾人がいる <br /><br />50代の台湾男性からそんな父親の話を聞き<br />雨もカメラの不調もひっくり返ったことも<br />嫌なアクシデントは吹っ飛び心は晴れた <br /><br />八堵のプラットホームでの出会いは<br />旅の忘れ得ぬ思い出となって残り続ける <br /><br />///////////////////////////////////////////////////<br /><br />明治28年6月2日、端芳の戦いで日本兵三名が亡くなった。この端芳のどこかに今も眠っているのだろう。どのような状況で戦死したのか?その兵士の名前も何も分からない。14時36分、福隆を出発して區間車は1時間20分ほどで基隆への乗換駅「八堵(はっと) B?・ d?・ バドゥ」へ到着した。 <br /><br />八堵のプラットホームで基隆行きに乗り換えのために待っていたら、50代くらいの小柄な台湾人男性から英語で「ジャパニーズ?」と声を掛けられ「そうです」と答えると、たどたどしい日本語で「見たら分かる」と言い「日本の伝統文化は一番」「私の父は日本語を話します」「天皇陛下が大好きです」「天皇のことを話すと、すぐに涙を流します」・・・と。 <br /><br />彼は、私に向かって一気にそう話しながら両手で小さく天皇陛下万歳のジェスチャーをし、次いで人差し指を両目に当てて涙を流すしぐさをした。その言葉とジェスチャーに思わず私も涙が出そうになった。天皇陛下のことを話すとすぐに感極まって涙する。そんな台湾人の父親を持つ息子さん。 <br /><br />その息子さんがリュック一つ背負って旅している「いかにも日本人」らしき“おっさん”を見かけて、天皇陛下を今でも慕う台湾人がいることを父に代わって「日本人に教えてやろう」と、思わず声を掛けてくれたのだろう。彼のそんな気持ちも、その親父さんの気持ちも良く分かるような気がする。 <br /><br />50年の日本統治、少年少女として多感な時代を日本人として育ち、日本の敗戦によって選択の余地なく突如日本国籍を剥奪され中華民國人となった。敗戦までの日本は今と違って自信に満ち溢れ、世界で冠たる大日本帝国としてアジアと世界で君臨し、台湾人も朝鮮人も日本帝国臣民としてみんな天皇陛下の赤子だった。 <br /><br />理屈ではなく激動の世界のなかで日本人として連合国を相手に孤軍奮闘、共に戦った同志である。命を賭して共に戦ったその一体感・連帯感は、その当事者にしか分からないだろう。その後何がどう変わろうが、朝鮮も反日で喚くのは、その時代の実際の当事者ではないと思う。その後の輩が反日を煽っているのだ。 <br /><br />彼に「台北に行くのか?」と聞かれ「基隆へ」と答えた。台北行きならもっといろんな話しが出来たのにと残念だった。そして同じホームの両側にそれぞれの列車は停まった。プラットホームを挟んで互いに乗り込んだ列車から手を振りあいながら別れた。一期一会の旅の出会いであり、この出会いで、今朝ひっくり返ったことも、その後の雨も風も嫌なことは何もかも吹っ飛び心は晴れた。 <br /><br /><br /><br /><br />

    八堵のホームで声を掛けられた

    今も天皇陛下に尊崇の念を抱き
    天皇の話になると涙を流す台湾人がいる

    50代の台湾男性からそんな父親の話を聞き
    雨もカメラの不調もひっくり返ったことも
    嫌なアクシデントは吹っ飛び心は晴れた

    八堵のプラットホームでの出会いは
    旅の忘れ得ぬ思い出となって残り続ける

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    明治28年6月2日、端芳の戦いで日本兵三名が亡くなった。この端芳のどこかに今も眠っているのだろう。どのような状況で戦死したのか?その兵士の名前も何も分からない。14時36分、福隆を出発して區間車は1時間20分ほどで基隆への乗換駅「八堵(はっと) B?・ d?・ バドゥ」へ到着した。

    八堵のプラットホームで基隆行きに乗り換えのために待っていたら、50代くらいの小柄な台湾人男性から英語で「ジャパニーズ?」と声を掛けられ「そうです」と答えると、たどたどしい日本語で「見たら分かる」と言い「日本の伝統文化は一番」「私の父は日本語を話します」「天皇陛下が大好きです」「天皇のことを話すと、すぐに涙を流します」・・・と。

    彼は、私に向かって一気にそう話しながら両手で小さく天皇陛下万歳のジェスチャーをし、次いで人差し指を両目に当てて涙を流すしぐさをした。その言葉とジェスチャーに思わず私も涙が出そうになった。天皇陛下のことを話すとすぐに感極まって涙する。そんな台湾人の父親を持つ息子さん。

    その息子さんがリュック一つ背負って旅している「いかにも日本人」らしき“おっさん”を見かけて、天皇陛下を今でも慕う台湾人がいることを父に代わって「日本人に教えてやろう」と、思わず声を掛けてくれたのだろう。彼のそんな気持ちも、その親父さんの気持ちも良く分かるような気がする。

    50年の日本統治、少年少女として多感な時代を日本人として育ち、日本の敗戦によって選択の余地なく突如日本国籍を剥奪され中華民國人となった。敗戦までの日本は今と違って自信に満ち溢れ、世界で冠たる大日本帝国としてアジアと世界で君臨し、台湾人も朝鮮人も日本帝国臣民としてみんな天皇陛下の赤子だった。

    理屈ではなく激動の世界のなかで日本人として連合国を相手に孤軍奮闘、共に戦った同志である。命を賭して共に戦ったその一体感・連帯感は、その当事者にしか分からないだろう。その後何がどう変わろうが、朝鮮も反日で喚くのは、その時代の実際の当事者ではないと思う。その後の輩が反日を煽っているのだ。

    彼に「台北に行くのか?」と聞かれ「基隆へ」と答えた。台北行きならもっといろんな話しが出来たのにと残念だった。そして同じホームの両側にそれぞれの列車は停まった。プラットホームを挟んで互いに乗り込んだ列車から手を振りあいながら別れた。一期一会の旅の出会いであり、この出会いで、今朝ひっくり返ったことも、その後の雨も風も嫌なことは何もかも吹っ飛び心は晴れた。




  • 午後2時48分(着)1989/平成元年12月<br />25年前の初めての海外旅行も台湾 <br /><br />そして基隆に来た、その時も雨<br /> 今日も雨、さすが雨港 基隆 <br />///////////////////////////////////////////<br /><br /><br />■基隆に到着 <br /><br />區間車で「八堵」→「三坑 Sān kēng サンコン」→「基隆(キールン) Jīlóng ジィロン」、14:48、基隆には10分足らずで到着。1989/平成元年12月、今から25年前、39歳の時に家内と台北から二人で列車に乗って来た。その時も雨だったが、今回も雨。当時の記憶は「港町、喫茶店でコーヒーを飲んだ。坂があったような・・・」くらいでしかない。 <br /><br />とりあえずホテルに向かう。基隆の宿は駅からすぐの華師海景飯店(Jīlóng huá shuài hǎijǐng fàndiàn ジーロンフォアシュアイ・ハイジンファンディエン一泊日本円¥6,219円)25年ぶりの基隆。駅前の陸橋から街並みの風景を見ながらボチボチ歩いた。宿の場所は地図と写真で確認しプリントして持参している。最近駅から歩いて行けるホテルを選ぶことが多い、というよりそれが優先順位の一番となっている。 <br /><br />途中回転焼きを食べる(一個8元)。肌寒いので温かい物を食べたくなる。台湾はもう少し暖かいと思っていたが、今回はどことも寒かった。当地の人が着ているのは明石の真冬と同じで「ちょっとそれは冬過ぎるんとちゃう?」というのも多かった。まあそうでないとファッションも楽しめないし、服屋も儲からないから、これでいいのだろう。 <br /><br />15:00、ホテル着。駅近くの細長いホテル。Agodaの予約確認書をフロントで見せれば万事OK。すぐに4階2号室(402)の部屋の鍵もらって一休み。ツインベッドでバスタブもあってバッチリ。 <br />

    午後2時48分(着)1989/平成元年12月
    25年前の初めての海外旅行も台湾

    そして基隆に来た、その時も雨
    今日も雨、さすが雨港 基隆
    ///////////////////////////////////////////


    ■基隆に到着

    區間車で「八堵」→「三坑 Sān kēng サンコン」→「基隆(キールン) Jīlóng ジィロン」、14:48、基隆には10分足らずで到着。1989/平成元年12月、今から25年前、39歳の時に家内と台北から二人で列車に乗って来た。その時も雨だったが、今回も雨。当時の記憶は「港町、喫茶店でコーヒーを飲んだ。坂があったような・・・」くらいでしかない。

    とりあえずホテルに向かう。基隆の宿は駅からすぐの華師海景飯店(Jīlóng huá shuài hǎijǐng fàndiàn ジーロンフォアシュアイ・ハイジンファンディエン一泊日本円¥6,219円)25年ぶりの基隆。駅前の陸橋から街並みの風景を見ながらボチボチ歩いた。宿の場所は地図と写真で確認しプリントして持参している。最近駅から歩いて行けるホテルを選ぶことが多い、というよりそれが優先順位の一番となっている。

    途中回転焼きを食べる(一個8元)。肌寒いので温かい物を食べたくなる。台湾はもう少し暖かいと思っていたが、今回はどことも寒かった。当地の人が着ているのは明石の真冬と同じで「ちょっとそれは冬過ぎるんとちゃう?」というのも多かった。まあそうでないとファッションも楽しめないし、服屋も儲からないから、これでいいのだろう。

    15:00、ホテル着。駅近くの細長いホテル。Agodaの予約確認書をフロントで見せれば万事OK。すぐに4階2号室(402)の部屋の鍵もらって一休み。ツインベッドでバスタブもあってバッチリ。

  • まずは今日の宿、華師海景飯店に向かう <br /><br />再訪だが、25年前の記憶はおぼろげで<br />港、雨と坂と喫茶店に家内と二人入ったこと<br /> それくらいしか覚えていない <br />

    まずは今日の宿、華師海景飯店に向かう

    再訪だが、25年前の記憶はおぼろげで
    港、雨と坂と喫茶店に家内と二人入ったこと
    それくらいしか覚えていない

  • 歩道橋上から左手、基隆駅を写す

    歩道橋上から左手、基隆駅を写す

  • 高層ビルは↓<br />華冠大樓(Huá guān dàlóu フォアグアンダァロウ)<br /> 地上33階、地下7階,高147.5メートル <br /><br />登ってはいない <br />

    高層ビルは↓
    華冠大樓(Huá guān dàlóu フォアグアンダァロウ)
    地上33階、地下7階,高147.5メートル

    登ってはいない

  • やっぱり寒いから温かい食べ物を・・・と<br />回転焼き一個8元を買って食べる <br /><br />日本のと同じような味だった。うまい <br />

    やっぱり寒いから温かい食べ物を・・・と
    回転焼き一個8元を買って食べる

    日本のと同じような味だった。うまい

  • 当然だが“Google マップ”と同じ場所<br />“ストリートビュー”で見た写真と同じ <br /><br /> いつからこんな旅をするようになったのか?<br />10年、20年後はどんな旅になるのやら <br />

    当然だが“Google マップ”と同じ場所
    “ストリートビュー”で見た写真と同じ

    いつからこんな旅をするようになったのか?
    10年、20年後はどんな旅になるのやら

  • 一泊日本円¥6,219円 朝食付き <br /><br />十分です <br />

    一泊日本円¥6,219円 朝食付き

    十分です

  • へぇ〜バスタブもあった <br /><br />十二分です <br />

    へぇ〜バスタブもあった

    十二分です

  • 基隆神社跡(中正公園・忠烈祠) <br /> <br /><br />ホテルから徒歩12分ほどで階段参道前に到着 <br /><br /> 傘を差してボチボチ上る <br />/////////////////////////////////////////////<br /><br />■早速、基隆神社跡へ行く <br /><br />明日の基隆散策は砲台跡や史跡めぐりなど行く場所が多いので、今日は近くの基隆神社跡だけでも歩いて行っておこうと部屋を出た。15:58分ホテルを出発。地図を見ながら歩く。今は中正(蒋介石)公園であり、戦後基隆神社の社殿は取り壊され、代わって忠烈祠が建立されている。ホテルから歩いて15分足らずの16:12頃中正公園前に到着。神社への階段参道があった。 <br /><br />雨の中、階段を登っていくと最初の階段を上り終えたところは広場になっており、幼稚園もあった。そこから又階段を上ると左右に狛犬が座り、中央には基隆神社ではなく忠烈祠が立っている。狛犬の基座には「大正八年(1919年)」と刻まれていた。狛犬は神社なきあとも健気に95年間ここで役目を果たし続けている。百年後もここに座っているのだろうか? <br /><br />忠烈祠の前に「でっかい梅花の紋章」が置かれているのを見て、一瞬「菊の御紋章?」かと勘違いしそうだった。雨がしょぼ降り、風もあって肌寒く、快適な散策とは程遠い。忠烈祠からも道が上へと続き、足元びしょびしょになりながら上を目指して黙々と歩く。 <br />

    基隆神社跡(中正公園・忠烈祠)


    ホテルから徒歩12分ほどで階段参道前に到着

    傘を差してボチボチ上る
    /////////////////////////////////////////////

    ■早速、基隆神社跡へ行く

    明日の基隆散策は砲台跡や史跡めぐりなど行く場所が多いので、今日は近くの基隆神社跡だけでも歩いて行っておこうと部屋を出た。15:58分ホテルを出発。地図を見ながら歩く。今は中正(蒋介石)公園であり、戦後基隆神社の社殿は取り壊され、代わって忠烈祠が建立されている。ホテルから歩いて15分足らずの16:12頃中正公園前に到着。神社への階段参道があった。

    雨の中、階段を登っていくと最初の階段を上り終えたところは広場になっており、幼稚園もあった。そこから又階段を上ると左右に狛犬が座り、中央には基隆神社ではなく忠烈祠が立っている。狛犬の基座には「大正八年(1919年)」と刻まれていた。狛犬は神社なきあとも健気に95年間ここで役目を果たし続けている。百年後もここに座っているのだろうか?

    忠烈祠の前に「でっかい梅花の紋章」が置かれているのを見て、一瞬「菊の御紋章?」かと勘違いしそうだった。雨がしょぼ降り、風もあって肌寒く、快適な散策とは程遠い。忠烈祠からも道が上へと続き、足元びしょびしょになりながら上を目指して黙々と歩く。

  • 最初の階段を上り終えたら右手に幼稚園があった <br /><br />次の階段下から上を仰ぎ見る<br />鳥居の代わりに門があり<br />神社本殿の代わりに忠烈祠が建つ <br /><br />

    最初の階段を上り終えたら右手に幼稚園があった

    次の階段下から上を仰ぎ見る
    鳥居の代わりに門があり
    神社本殿の代わりに忠烈祠が建つ

  • 口を開いた狛犬:阿(あ) <br /><br />1912年(明治45年)3月9日、基隆金刀比羅神社の社名で創建 <br />

    口を開いた狛犬:阿(あ)

    1912年(明治45年)3月9日、基隆金刀比羅神社の社名で創建

  • 口を閉じた狛犬:吽(うん) <br /><br /> 阿吽の呼吸で神社を守る <br /><br />1915年(大正4年)11月7日<br /> 能久親王・開拓三神・天照大神が増祀され基隆神社に改称された <br /><br /><br /><br />

    口を閉じた狛犬:吽(うん)

    阿吽の呼吸で神社を守る

    1915年(大正4年)11月7日
    能久親王・開拓三神・天照大神が増祀され基隆神社に改称された



  • 基隆神社跡に建つ忠烈祠 <br /><br /> 一瞬菊の紋章かと <br /><br />梅花の紋章にびっくり <br />

    基隆神社跡に建つ忠烈祠

    一瞬菊の紋章かと

    梅花の紋章にびっくり

  • 基隆主普壇(中元節祭文物館) <br /><br />道教に由来する上元・中元・下元の3つの行事のうち<br />中元祭がここで毎年旧暦七月に行われるそうだ <br />http://www.tabitabi-taipei.com/topics/20030916/<br />「お中元」もこの行事の一貫 <br /><br />////////////////////////////////////////////////////<br /><br /><br />■中正(“蒋公”)公園 <br /><br />上には「基隆主普壇」があった。 <br /><br />中は展示館のようであったが、入場無料。観光客はだれもいなくひっそりしていた。上に登れたら展望台のように見晴らしは良いだろうと思ったが、上に登るのは禁止のようだ。早々に立ち去り次へと歩く。目指すは「観音様」。16:32分頃、大きな慈航普渡觀世音が中央に立つ広場に到着。 <br /><br />中正公園前に到着し、階段を上って忠烈祠、そしてここまで来るのにデジカメ時間で見れば20分ほど。もっともっと時間が掛かっていたのでは?との私の感じだったが、たった20分しか経っていなかった。時間の感覚とはこんなにええ加減なものなのか・・・と、改めて思う。 <br /><br />ルンルンならあっという間に時間がたち、こうやって雨・風・階段・足がだるい・足元びしょびしょ・肌寒い・カメラ不調等々の条件下では時間が長く感じる。ハハハなるほど。 <br /><br />この観音広場から基隆の街並みが一望でき、快晴なら素晴らしい景色を堪能できただろうに。それでも十分基隆市内の見応えはあった。ああこれが基隆か、雨港基隆に相応しい眺めだ・・・と、見渡せる範囲をしっかりと見て記憶に留めようとビルが立ち並ぶ市街地、そして周囲を囲む小高い山並みの風景を見ていた。 <br />

    基隆主普壇(中元節祭文物館)

    道教に由来する上元・中元・下元の3つの行事のうち
    中元祭がここで毎年旧暦七月に行われるそうだ
    http://www.tabitabi-taipei.com/topics/20030916/
    「お中元」もこの行事の一貫

    ////////////////////////////////////////////////////


    ■中正(“蒋公”)公園

    上には「基隆主普壇」があった。

    中は展示館のようであったが、入場無料。観光客はだれもいなくひっそりしていた。上に登れたら展望台のように見晴らしは良いだろうと思ったが、上に登るのは禁止のようだ。早々に立ち去り次へと歩く。目指すは「観音様」。16:32分頃、大きな慈航普渡觀世音が中央に立つ広場に到着。

    中正公園前に到着し、階段を上って忠烈祠、そしてここまで来るのにデジカメ時間で見れば20分ほど。もっともっと時間が掛かっていたのでは?との私の感じだったが、たった20分しか経っていなかった。時間の感覚とはこんなにええ加減なものなのか・・・と、改めて思う。

    ルンルンならあっという間に時間がたち、こうやって雨・風・階段・足がだるい・足元びしょびしょ・肌寒い・カメラ不調等々の条件下では時間が長く感じる。ハハハなるほど。

    この観音広場から基隆の街並みが一望でき、快晴なら素晴らしい景色を堪能できただろうに。それでも十分基隆市内の見応えはあった。ああこれが基隆か、雨港基隆に相応しい眺めだ・・・と、見渡せる範囲をしっかりと見て記憶に留めようとビルが立ち並ぶ市街地、そして周囲を囲む小高い山並みの風景を見ていた。

  • 主普壇内部はなにやら展示品があったが <br /><br /> この日は雨もあってか誰も訪れる者なし<br />

    主普壇内部はなにやら展示品があったが

    この日は雨もあってか誰も訪れる者なし

  • 公園全体像が分からないまま上を目指して歩く <br /><br />「復興中華文化」と表記された門を潜る<br />中華文化の復興とは? <br />

    公園全体像が分からないまま上を目指して歩く

    「復興中華文化」と表記された門を潜る
    中華文化の復興とは?

  • なるほどこれが白色観音像か <br /><br />両脇に金色獅子 <br /><br />どうも文化の違いを感じる<br /> まあええけど、これが良いなら <br />

    なるほどこれが白色観音像か

    両脇に金色獅子

    どうも文化の違いを感じる
    まあええけど、これが良いなら

  • しょぼ降る雨の中<br />傘をさしての散策だったが <br /><br />これぞ雨の基隆、雨港<br />満足、満足、風光明媚なり <br /><br />/////////////////////////////////////////////////////////////<br /><br /><br /><br />■日本軍基隆制圧 <br /><br />1895/明治28年5月29日澳底に上陸した近衛師団は、上陸6日目の6月3日の午後、基隆を制圧した。 <br /><br />///////////////////////////////////<br /><br /><br />「台湾島抗日秘史」喜安幸夫(著)より <br />「日清戦争と台湾接収」より抜粋 <br /><br />http://ktymtskz.my.coocan.jp/meiji/kiyasu.htm<br /><br />午前十時頃には早くも先発部隊が基隆真近と追っていた。 <br /><br />明治28年5月29日澳底に上陸した日本軍は、6月3日昼頃には第一旅団本隊も基隆郊外に到着した。午後一時、総攻撃は開始された。それと時をほぼ同じくして黒雲がにわかに天を覆い、基隆一帯は豪雨の中におかれた。 <br /><br />この豪雨に、海上にあった各艦の砲は沈黙せざるを得なかった程である。ために戦闘は豪雨の中に陸軍単独で行なわなければならなくなった。 <br /><br />第一旅団はまず基隆市周囲の砲台を次々と陥していった。いきなり市街戦にもちこむことを避けたのである。この作戦が功を奏し、周囲の砲台がことごとく陥落するや市中は混乱し、日本軍が市街地に突入した時には、民主国守備軍は右往左往しながら逃げまどう中に犠牲者のみ多く、有効な抵抗も成し得ないまま、基隆を開け渡してしまった。 <br /><br /><br />///////////////////////////////////////////////////<br /><br /><br />そうか、日本軍が基隆を陥落させた1895/明治28年6月3日、今から119年前の5月も大雨だったのか・・・。 <br /><br />16:36分頃、観音広場からまた来た道を逆に戻った。じっくり広場の高台から基隆市内を見ていたつもりが滞在は4分ほどとは、たったそんな時間だったのかである。その間写真を撮り、動画を写した。 <br /><br />途中「至聖先師像:孔子像」があった。そこから忠烈祠に戻り、階段を下りる。さっき来るとき見落としていた大きな石燈籠が幼稚園の庭にあるのを見つけた。階段参道脇に立っていた。幼稚園に忠烈祠、そして狛犬に石燈籠、日本と台湾が入り混じった光景がここにもある。神社跡をこうやって残してくれているだけでもありがたい。 <br /><br />神社参道や本殿・拝殿の跡地、そして狛犬、石燈籠等々は日本時代のまま同じ場所に同じようにあるので、目をつぶれば神社の拝殿・本殿が頭に浮かび参拝人の往来まで想像出来る。いつまでこんな状態がこの台湾の地で続くのだろう?今史跡としての日本家屋がアチコチで再建されている。 <br /><br />雨の中、基隆神社跡に来た。[基隆市] .中正公園.忠烈祠(基隆神社遺跡).主普壇 <br /><br />「16:12分〜16:58分」雨の中正公園散策はデジカメ時間46分。長いような短いような、一応基隆神社跡の散策を終えてホテルへの帰路に着く。 <br />

    しょぼ降る雨の中
    傘をさしての散策だったが

    これぞ雨の基隆、雨港
    満足、満足、風光明媚なり

    /////////////////////////////////////////////////////////////



    ■日本軍基隆制圧

    1895/明治28年5月29日澳底に上陸した近衛師団は、上陸6日目の6月3日の午後、基隆を制圧した。

    ///////////////////////////////////


    「台湾島抗日秘史」喜安幸夫(著)より
    「日清戦争と台湾接収」より抜粋

    http://ktymtskz.my.coocan.jp/meiji/kiyasu.htm

    午前十時頃には早くも先発部隊が基隆真近と追っていた。

    明治28年5月29日澳底に上陸した日本軍は、6月3日昼頃には第一旅団本隊も基隆郊外に到着した。午後一時、総攻撃は開始された。それと時をほぼ同じくして黒雲がにわかに天を覆い、基隆一帯は豪雨の中におかれた。

    この豪雨に、海上にあった各艦の砲は沈黙せざるを得なかった程である。ために戦闘は豪雨の中に陸軍単独で行なわなければならなくなった。

    第一旅団はまず基隆市周囲の砲台を次々と陥していった。いきなり市街戦にもちこむことを避けたのである。この作戦が功を奏し、周囲の砲台がことごとく陥落するや市中は混乱し、日本軍が市街地に突入した時には、民主国守備軍は右往左往しながら逃げまどう中に犠牲者のみ多く、有効な抵抗も成し得ないまま、基隆を開け渡してしまった。


    ///////////////////////////////////////////////////


    そうか、日本軍が基隆を陥落させた1895/明治28年6月3日、今から119年前の5月も大雨だったのか・・・。

    16:36分頃、観音広場からまた来た道を逆に戻った。じっくり広場の高台から基隆市内を見ていたつもりが滞在は4分ほどとは、たったそんな時間だったのかである。その間写真を撮り、動画を写した。

    途中「至聖先師像:孔子像」があった。そこから忠烈祠に戻り、階段を下りる。さっき来るとき見落としていた大きな石燈籠が幼稚園の庭にあるのを見つけた。階段参道脇に立っていた。幼稚園に忠烈祠、そして狛犬に石燈籠、日本と台湾が入り混じった光景がここにもある。神社跡をこうやって残してくれているだけでもありがたい。

    神社参道や本殿・拝殿の跡地、そして狛犬、石燈籠等々は日本時代のまま同じ場所に同じようにあるので、目をつぶれば神社の拝殿・本殿が頭に浮かび参拝人の往来まで想像出来る。いつまでこんな状態がこの台湾の地で続くのだろう?今史跡としての日本家屋がアチコチで再建されている。

    雨の中、基隆神社跡に来た。[基隆市] .中正公園.忠烈祠(基隆神社遺跡).主普壇

    「16:12分〜16:58分」雨の中正公園散策はデジカメ時間46分。長いような短いような、一応基隆神社跡の散策を終えてホテルへの帰路に着く。

  • 孔子:生誕紀元前552年、死没紀元前479年 享年73 <br /><br />大陸支那の現状を孔子はどう思う、聞いてみたいものだ<br />見栄と面子の文化はどうやって生まれ根付いたのか? <br />

    孔子:生誕紀元前552年、死没紀元前479年 享年73

    大陸支那の現状を孔子はどう思う、聞いてみたいものだ
    見栄と面子の文化はどうやって生まれ根付いたのか?

  • 基隆神社跡地に残る石燈籠 <br /><br /> 幼稚園の庭に残っていたのを帰路に気付く<br />台湾に残る日本を探しているので見てホッとする <br /><br />ここにも有った!見つけた!・・・と <br />

    基隆神社跡地に残る石燈籠

    幼稚園の庭に残っていたのを帰路に気付く
    台湾に残る日本を探しているので見てホッとする

    ここにも有った!見つけた!・・・と

  • 階段参道を下れば基隆神社散策は終わり <br /><br />今朝宜蘭で管制塔まで歩き、次いで澳底<br />そして基隆神社で今日の予定終了となる <br />

    階段参道を下れば基隆神社散策は終わり

    今朝宜蘭で管制塔まで歩き、次いで澳底
    そして基隆神社で今日の予定終了となる

  • この店にふらりと入る <br /><br /><br />///////////////////////////////////////////<br /><br />■夕食食べて宿に戻る <br /><br />途中、小吃店で拉麺¥35元を食べる。素麺のような麺でうまいとはいえないがまずくもない。そして餃子の店でお持ち帰り餃子を買い、コンビニで「オニギリ2個」「野菜サラダ」「バナナ」計102元を買って部屋に戻る。 <br /><br />今日も朝からいろんなことが起きた。溝でひっくり返り、警官に追い出され、風雨にたじろぎ、プラットホームで感激し、でも今日一日の予定は達成し、写真も動画も写し怪我もなくこうやって一日を終えることが出来た。感謝!八堵の出会いがあって万々歳だ! <br /><br />明日はこの基隆を駆け巡る。行きたい場所は多いけど、どれだけ行けるのだろう。天気はどうなのか? <br />

    この店にふらりと入る


    ///////////////////////////////////////////

    ■夕食食べて宿に戻る

    途中、小吃店で拉麺¥35元を食べる。素麺のような麺でうまいとはいえないがまずくもない。そして餃子の店でお持ち帰り餃子を買い、コンビニで「オニギリ2個」「野菜サラダ」「バナナ」計102元を買って部屋に戻る。

    今日も朝からいろんなことが起きた。溝でひっくり返り、警官に追い出され、風雨にたじろぎ、プラットホームで感激し、でも今日一日の予定は達成し、写真も動画も写し怪我もなくこうやって一日を終えることが出来た。感謝!八堵の出会いがあって万々歳だ!

    明日はこの基隆を駆け巡る。行きたい場所は多いけど、どれだけ行けるのだろう。天気はどうなのか?

  • こんなのを食べたがまずくは無かった

    こんなのを食べたがまずくは無かった

  • 基隆の夕方、ホテル近くで写す <br /><br />午後5時17分か、今日も足は棒 <br />

    基隆の夕方、ホテル近くで写す

    午後5時17分か、今日も足は棒

  • 餃子にオニギリ、野菜サラダにバナナ <br /><br />部屋でゆっくり食べる<br />旅を通じて体調は良好 <br /><br /> 明日はどうなるのだろう<br />乞うご期待 <br />

    餃子にオニギリ、野菜サラダにバナナ

    部屋でゆっくり食べる
    旅を通じて体調は良好

    明日はどうなるのだろう
    乞うご期待

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