2014/02/17 - 2014/02/21
256位(同エリア556件中)
明石DSさん
基隆華帥海景飯店
J?・lóng huá shuài h?・ij?・ng fàndiàn
ジーロンフォアシュアイ・ハイジンファンディエン
?住所:基隆市仁愛區孝二路108號
402号室に宿泊する。十分満足
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4泊5日
4日目:2月20日(木):曇り
基隆〜台北
2014/平成26年2月20日(木)
■基隆の朝
基隆の朝を迎えた。窓の外に雨はなく日差しもあってホッと一息。この基隆は年間200日くらい雨が降り「雨港」という別名がある。なるほど納得、昨日も雨だったし。冬場は特に雨の日が多く月のうち20日は雨といわれる。そんな基隆で今朝は薄日差す晴れのスタートになった。万歳!
基隆の散策は宜蘭もそうだったが、日本関連の史跡や砲台跡等々、目的の場所はすこぶる多く(十ヶ所以上?)、一体どういう順序でどこを優先にどこを見落とさず回れば良いのか?それもはっきり決めることが出来ないままこの日を迎えた。
距離的にはそんなに遠くはないが、砲台跡はグーグルアースや地図で見れば山のなかや高台にあり、一ヶ所見るのに要する時間も不明。あわよくば全部を見て周ろうという魂胆だけど・・・この期に及んではなるようにしかならない。
まず7時からの朝食バイキングを食べに行く。ホテルはペンシル型のビジネスホテル。一泊¥6,219円で朝食付きと言うのはありがたい。食堂は綺麗で男一人・女性二人のスタッフは、どうも兄姉妹のようだった。何人の宿泊者がいるのか不明だが朝食メニューも満足。次回基隆に来る機会が万が一でもあれば、このホテルを利用したい。
食事を終え、ひとまず外に出て駅前まで歩き、今日の包車(タクシー貸切)のために駅前タクシーの乗車口で仕切っている“おっさん”に「包一個小時多少銭?タクシー貸切一時間幾ら?」と聞いたら「五百元」とのこと。
昨年の嘉義・台中では1時間700元とかだったので、そんなに高くはないと思う。宜蘭では6時間¥2500元だった。一応そつなく下調べをしてホテルに戻った。
- 旅行の満足度
- 5.0
-
小奇麗なペンシル型ホテルの一階レストラン
朝食バイキング付き、清潔感あり -
我が家の朝食はバナナ一本、豆乳ヨーグルト
それに豆乳に青汁粉末を入れて飲む
フフフ、これって健康志向なのか?
私は数年前から健康管理を趣味にしています
腸が鍵を握る、人間の身体はパーフェクト
旅に出て朝食付きバイキングでは、?朝から食いすぎる
何故か?損得勘定が押さえ切れない。修養不足 -
包車(タクシー貸切)前に事前調査
なるほど「一時間500元」とな・・・分かった -
号室から窓外の景色を写す
基隆駅が見える。徒歩5分 -
一泊だけで早くも退房(トゥイファン チャックアウト)
一階フロント、十分満足お勧めです -
動き出した。
基隆探訪一日17ヶ所
「①白米甕砲台」「②大武崙砲台」「③獅球嶺砲台」「④基隆市政府大樓」
「⑤民族英雄墓 」「⑥北白川宮能久親王紀念碑」「⑦基隆要塞司令官邸跡」
「⑧基隆要塞司令部官舎群」「⑨基隆市長官邸」「⑩漁會正濱大樓」
「⑪基隆要塞司令部」「⑫社寮島砲台」「⑬槓子寮砲台」「⑭二沙湾砲台」
「⑮中正公園」「⑯大雄宝殿」「⑰海港大樓」
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■基隆の一日の始まり
そして今日の基隆散策に向けて気合を入れなおしホテルを退房。駅前に再度向かう。駅でリュックをコインロッカーに預け、必要な資料をミニナップサックに入れてタクシーを探す。そして今日の基隆散策の成否を大きく左右する一期一会の出会いの瞬間が近づく。それは一台目のタクシーで決まった。
駅近くで出会いがしらのタクシーに「5~6時間貸し切りたい。行きたい場所は沢山あるけど遠くはない。1時間幾ら?」と聞いたら、中年の男性運転手は「300~400元」とあいまいな回答だった。その返事にホッとするやら「こんな回答初めてやなあ~」と思いながら「1個小時350元、行不行?」と問い返したら返事は「行、OK」だった。そして行きたい場所を書いている何枚もの地図や資料を見せた。
そして「行く順番は任せる」「こことここは絶対行きたい」と五ヶ所の砲台跡と北白川宮記念碑、基隆要塞司令官邸、基隆要塞司令部跡他を示した。54歳の運転手“呉さん”(仮名)は、19歳の娘一人の父親で、奥さんは専業主婦。末弟ながら91歳のお母さんの面倒を見ている。中肉中背寡黙な人だった。その“呉さん”は、私の見せた地図や資料を見て、しばらく考えたあと車は動き出した。 -
白米甕堡塁建築之儀二付伺
「国立公文書館:アジア歴史資料センター」
http://www.jacar.go.jp/
「基隆 白米甕」などで検索すれば多くの資料が閲覧可能
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■六ヶ所の砲台跡を訪れた
まず最初に向かったのは「白米甕砲台 Báimǐ wèng pàotái バイミィウェンパオタイ」。「白米甕」(はくまいがめ?)日本人がどう読んでいたのか?残念ながら分からないが、この風変わりな名前の由来は、当時この堡塁近くに小さな洞窟があり、その洞窟から「白い米がどんどん湧いてくる」ということから名付けられたとのこと。
17世紀初頭台湾北部はスペインが支配し1626年基隆和平島にサン・サルバドル城(聖薩爾瓦多城:現在、造船所)を建設した。台湾南部はオランダが支配していたが、そのオランダがスペインを駆逐し台湾主要部を支配するようになった。そしてこの砲台を築城し、その後の清朝時代、そして日本統治時代へと継承されていく。
現在の砲台跡は「1900/明治33年着工、1902/明治35年竣工」と、日本軍によって白米甕砲台は整備築造され今にその姿を留めている。「国立公文書館:アジア歴史資料センター」で「基隆 白米甕」で検索すれば当時の白米甕堡塁・要塞・砲台等々に関する軍事機密資料が閲覧できる。
それによれば「萬人頭砲台白米甕堡塁」「白米甕堡塁交通路建築の件」等々、築城本部長から明治33年11月28日「陸軍大臣子爵:桂 太郎殿」充ての書類など、日本軍が基隆の堡塁・砲台の整備を行っていた様子が伺える。
明治時代から昭和に掛けても暫時行っている。その他の砲台・堡塁の書類も同様に名前を入れて検索すれば閲覧できる。オランダが築城した白米甕砲台の原姿は分からないが今残っている姿は日本統治時代に整備されたものだ。それは日本軍が砲台として利用した他の砲台全てにいえる。
基隆港を取り囲むよう狭い範囲の高台に何ヶ所もの砲台が築かれており、その数の多さに驚く。「基隆要塞」によれば、『1900/明治33年3月、外木山砲台が着工され、1905/明治38年6月までに10砲台・堡塁が竣工した。1903年5月に基隆要塞司令部が設置された。』とあり、今に残る砲台跡の多くは日本軍が整備修復しているものだ。
当時の日本軍の決意とこの地を重要視していたことを感じさせる。そして大東亜戦争末期 1944/昭和19年10月12日からの米英連合国相手の『台湾沖航空戦の際の空襲では、要塞の対空部隊が応戦したが、人員・設備ともにかなりの損害を被った。』とある。明治期には10ヶ所に及ぶ砲台・堡塁だったが、その後、廃止や火砲を撤去し、偽砲台・予備砲台等々となっているのも多い。
「基隆要塞」によれば基隆10砲台のうち大東亜戦争時に砲台として 敵に備えていたのは「白米甕砲台」「社寮島砲台」「八尺門砲台」「牛稠嶺砲台」の四ヶ所だけのようだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9F%BA%E9%9A%86%E8%A6%81%E5%A1%9E -
砲台跡その他史跡十ヶ所以上を巡る一日がスタートした
宜蘭散策と同じく距離感も定かでなく、見学に必要所要時間も分からず
とりあえず行きたい場所を“呉さん”に提示し
順番はお任せで出発進行、まず1番目は白米甕砲台跡
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■白米甕砲台へ行く
基隆最初の見学地が白米甕砲台だったが、その第一印象は「往時の面影を留めながら、まあまあ綺麗に保存しているなあ・・・」であった。ピカピカでもなくボロボロでもなく、昔そのままの様子と時代の変遷を感じる自然の風化が伝わり、出来ることなら今後もこの姿のままで遺跡保存が成されることを願う。
高台の海岸、風景も抜群で隣の火力発電所が邪魔だけど贅沢はいえない。来て見る価値は十分ある。半地下の指揮所のコンクリートの厚みが戦を示す。台湾沖航空戦での米軍艦載機や爆撃機の来襲時の惨劇の様子が思い起こされる。戦死者も多かったようだが詳しくは分からない。
指揮所の上にも何やら観測所のような建物があったが、観測所と示されているのは指揮所の対面する側の高台にあった。四個並ぶ砲座跡を通り中華風の休憩所の傍の急階段をひたすら登って行くと観測所(射撃指揮所)があった。観測所だけに眺望は抜群、どこの砲台からも目に入った基隆嶼がすぐそこに浮かぶ。 -
300余年前のスペイン来寇、それに続くオランダ時代に設置
「荷蘭城 Hélán chéng ハァランチャン(オランダ城)(オランダ砲台)」とも言われる
清仏戦争の時、フランス軍に占領されたこともある
日本統治後、日露戦争のために改修築造し現在の姿になっている
1900/明治33年12月 白米甕砲台着工/1902年明治35年7月 白米甕砲台竣工
基隆要塞 -
元は日露戦争に備えて改修されたが
大東亜戦争勃発時に基隆要塞重砲兵連隊
(通称号:台湾4512部隊)として戦争に備えた
要塞の古色蒼然なる色とこの場が醸し出す雰囲気は
戦後軍隊を忌避してきた一日本国民として胸に迫る
誇りも名誉も蔑ろにする商人国家は無残なり -
要塞内部には入れなかった
戦時ではない時の要塞勤務はどうだったのだろう
風光明媚眺望抜群、気分爽快・・・だったかも
白米甕砲台は大東亜戦争時にも砲台として敵に備えていた
1944年10月の台湾沖航空戦では過酷な戦いがあったのだろう -
左側(北西)高台にある指揮所
台湾沖航空戦
昭和19年10月12日〜10月16日
日本軍は戦果確認を大きく見誤り
フィリピンでの敗北に繋がった -
揮所から四ヶ所ある砲座方向を写す
対面の高台の上に観測所がある
白米甕砲台
http://www.boch.gov.tw/boch/frontsite/cultureassets/caseBasicInfoAction.do?method=doViewCaseBasicInfo&iscancel=true&caseId=CA09602000308&version=1&assetsClassifyId=1.1&menuId=302 -
中華東屋横のこの階段を登っていけば観測所へ行く
この時は上になにがあるのか?知らずに登った
とりあえず高いところに行こう・・・と
要塞巡りは鍛錬鍛錬 -
ハァハァ、ゼェゼェと上りきったら観測所があった
米軍艦載機の爆撃や銃撃を受けなければ
眺望抜群、見物には最適場所だろうけど
この写真で見るより実際の壕は深く感じた -
どこの砲台からも見えた基隆嶼
-
観測所側から指揮所方向を写す
白米甕砲台横に協和火力発電所がある
基隆 白米甕砲台
http://youtu.be/ysMzI9-bXjk -
大武崙砲台配置図
「基隆の要塞砲台10ヶ所資料」及び「基隆要塞」によれば
日露戦争後に廃止となり火砲を撤去し偽砲台となる
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9F%BA%E9%9A%86%E8%A6%81%E5%A1%9E
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■大武崙砲台
デジカメ時間:白米甕砲台滞在20分ほどで次の大武崙砲台(だいぶろんほうだい Dàwǔ lún pàotái ダァウルンパオタイ)に向かう。白米甕砲台から西方向に車で10分ほどで砲台入り口に到着した。基隆10大砲台の一つ。この砲台も1884年-1885年の清仏戦争当時にあったようだが、今に残っているのは日本時代に整備築造されたものだ。
http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%AD%A6%E5%B4%99%E7%A0%B2%E8%87%BA
ここは要塞・砲台跡として全体が残っており見応えはあった。しかし今日も基隆散策予定の場所が多くて、その後の時間配分も分からないので「ゆっくり見る」という気持ちになれず。「思い出作り、旅行記作りのために、一通り見て写真を写す」ということで、最初から最後まで気持ちも行動もずっと駆け足だった。
「そんな旅って本末転倒なのでは?」と言われればそれまでだが、これが今の私の旅になってしまっている。私自身微妙に迷いがないこともないが、今はこれが面白いから悔いはナイ。その内私の旅パターンも変わるかも知れないけど・・・。
この大武崙砲台跡は基隆港の西側防衛の重要拠点として、1840年のアヘン戦争当時から1884年の清法戦争当時に築城されているようだが、やはりここも日本統治後の「1900/明治33年大武崙山堡塁着工、1902年(明治35年)1月 大武崙山堡塁竣工」とあり、今の姿は明治時代に改築整備されたものだ。
日本軍が基隆の砲台築城や改築整備を急いだのは、『基隆は澎湖島、高雄と共に、台湾防衛上の要地であり、艦船修理、軍需品の補給や南進の基地として重要であり、その防衛のため要塞が築造された。』とある。
台湾のウィキペディアによればこの大武崙砲台は『為了日俄戰爭防禦基隆所建:日露戦争防御のために基隆に築造』とも書かれている。築造改築は明治33年始まり35年竣工が多く、日露戦争開戦は明治37年なのでそれもやはりあったのだろう。ロシア艦艇及びバルチック艦隊への備えだったのか?
元の規模は定かではないが現存の史跡も遊歩道で囲まれた中に、沢山の要塞遺跡が残っていた。まず入り口附近に「兵舎」「洞窟兵舎」があり「便所」もある。要塞道のそれぞれの箇所に「観測台」「弾薬庫」「避弾壕」「砲座」「貯水池」などなど、今も要塞そのままだった。少し手を加えればすぐにも往時の姿が復元できそうな感じで弾薬庫などは未だ新品だ。
飛行機や艦船からミサイル攻撃、長距離巡航型のトマホークミサイルなど、現在では大砲も過去の遺物となった。まさに今これらは史跡・遺跡であり殺戮合戦のための要塞ではなく優美ながらなぜか寂しくもある「兵どもが夢の跡」。特に戦後生まれの私には、男のロマン溢れる城跡だ。
木曜日の午前中、訪れる人なく一人要塞を歩く。高台なので眺望素晴らしく、ここからも基隆嶼(Jīlóng yǔ ジロンイュ)が見える。静かで雨なく要塞を歩くのは気分は良かった。ただ惜しむらくは先を急ぐことばかり脳裏をよぎり“ゆっくり”見れなかったこと。ここの滞在はデジカメ時間、8:56〜9:25。大武崙砲台滞在29分なり。 -
兵舎
ここも古色蒼然とした要塞跡としての雰囲気があった
“兵どもが夢の跡”
?規模広く整備行き渡り、要塞公園として素晴らしい
駆け足巡りにて、少し残念に思う -
要塞トイレ(厠所)
コンクリートの厚みは要塞仕様 -
トイレ内部
-
これって水洗なのか?
日本人の作った要塞トイレだというのは分かる -
「避弾壕」
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「避弾壕」
こういった壕一つとっても作りが丁寧で美しい
石積みの精度といい曲線といい出来栄えが違う
ソ満国境の要塞築城を見ても思いは一緒だった
物作り大国:日本、これらは日本人が作ったはず -
貯水池
この大武崙砲台は日露戦争後
火砲を撤去し偽砲台となったようだが
現在に至っても保存状態は良い -
弾薬庫、山をくり貫いて掘り込んでいる
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弾薬庫内部は「えっ!」と思わず言いそうなくらい
つい最近作ったかのような綺麗なコンクリートの壁面だ
手直ししたのかなあ????そんなことないと思うけど -
この斜道の上に砲座がある
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砲座
9センチ加農砲四門
31年式速射砲四門
日本軍兵士約200名配備
大武崙砲台
http://www.boch.gov.tw/boch/frontsite/cultureassets/caseBasicInfoAction.do?method=doViewCaseBasicInfo&iscancel=true&caseId=CA09602000306&version=1&assetsClassifyId=1.1&menuId=302 -
観測台
日露戦争後に廃止となり火砲を撤去し偽砲台となる
1938/昭和13年3月,大武崙砲台正式除籍となる
昭和13年まで偽砲台としての役割を果たしていたのだろう -
観測所の突端から望む
?すぐ前に東シナ海が広がる -
基隆嶼が右手方向に見える
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洞窟営舎
大武崙砲台を一周して元の位置に戻って来た
砲台要塞全体が良く保存されていて見応えはある
そのままの状態で置いてくれているのがありがたい
ここでも日本人の確かな足跡を感じることが出来た
大武崙砲台滞在デジタル写真時間
午前8:56−9:25 滞在29分なり
基隆 大武崙砲台
http://youtu.be/8wKO5hTv18w -
獅球嶺砲台
座標(25°7′7.77″N,121°44′6.6″E)
獅球嶺砲台
朱色の門を潜って「獅球嶺景観區」へ向かう
この坂を上っていけば獅球嶺砲台がある
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■獅球嶺砲台
次に獅球嶺(しきゅうりょう Shī qiú lǐng シーチューリン)砲台へ行く。ここは砲台跡を見に行くというより日本軍が澳底に上陸後、六月二日の瑞芳(ずいほう)攻防戦を戦い基隆に迫った。そして翌日の6月3日、豪雨の中を基隆市内を陥落させた。そのあと台北に向かう日本軍の進路でもあり自然の要害でもあった獅球嶺が激戦の地となった。
戦いの様子は「台湾島抗日秘史」より以下に抜粋する。
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「台湾島抗日秘史」喜安幸夫(著)より
「日清戦争と台湾接収」より抜粋
http://ktymtskz.my.coocan.jp/meiji/kiyasu.htm
樫山総督上陸
瑞芳を陥したその日、すでに海上では陸軍の基降突入を授護すべく、松島を旗艦とする千代田、浪速、高千穂の各艦が基降沖に集結していた。翌三日午前六時、日本軍は行動を開始した。各所で民主国軍の抵抗を受けつつも、午前十時頃には早くも先発部隊が基隆真近と追っていた。
海上からは松島以下各艦の砲が咆哮し基隆を威嚇し始めた。当該地一帯の民主国守備軍は十一営約三千五百名、他にも台北から増援軍の来ることも予想され、防備の固いことは十分予想される。昼頃には第一旅団本隊も基隆郊外に到着した。
1895/明治28年6月3日午後一時、総攻撃は開始された。
それと時をほぼ同じくして黒雲がにわかに天を覆い、基隆一帯は豪雨の中におかれた。この豪雨に、海上にあった各艦の砲は沈黙せざるを得なかった程である。ために戦闘は豪雨の中に陸軍単独で行なわなければならなくなった。第一旅団はまず基隆市周囲の砲台を次々と陥していった。いきなり市街戦にもちこむことを避けたのである。
この作戦が功を奏し、周囲の砲台がことごとく陥落するや市中は混乱し、日本軍が市街地に突入した時には、民主国守備軍は右往左往しながら逃げまどう中に犠牲者のみ多く、有効な抵抗も成し得ないまま、基隆を開け渡してしまった。
次いで戦場は獅球嶺(しきゅうりょう)へと移った。
獅球嶺とは基隆西北隅にあり、台北へ進むにはまずここを陥さねばならぬ自然の要害であり、堅固な砲台が構築されている。民主国側にとって、台北防衛のための重要な拠点である。基隆を陥した日本軍は獅球嶺に殺到した。
豪雨のまだ続く中に頂上の覇権をめぐっての肉弾攻防戦は展開され、午後五時、ついに日本軍はこの高地をも陥した。かくして、日本軍完勝を背景に明治二十九年六月六日、基隆港の掃海と整備の完了を待って樺山資紀初代台湾総督は、基隆に上陸した。同時に海上にあった総督府は基隆埠頭の税関に移された。
台湾に於ける総督府行政の第一歩がここに印されたのである。
五月十七日、京都に於いて組織された総督府が、同地を発ってより二十日目にして実現した現地開設であった。これまでの日本軍の快進撃からも、総督府が台北に移転し、正式に台湾統治の宣言を発する日は近い。この頃まだ日本軍の征く所敵なしの状態が続いている。
援軍到着せず
この基隆・獅球嶺方面での戦闘における日本軍の損傷は瑞芳同様尽少で死者五名、負傷者二十六名であったのに対し、民主国軍では死者二百五十名、負傷者無数と記録されている。引き続く民主国側の惨敗である。
獅球嶺まで陥された今、日本軍の台北への進路はあと一直線である。日本軍上陸より今日まで、民主国首脳はこれに対する方策を知らなかったのであろうか。基隆が戦場となった時すら、なぜか台北からの民主国援軍は来なかった。いや、正確には来ることには来たが戦闘には参加しなかったのである。
確かに民主国総統かっての台湾総監・唐景崧はこの攻防戦を重視し、援軍を派遣している。また、日本軍が澳底に上陸した時にも、これを迎え撃つべく三営に近い部隊を派遣し、その一隊は澳底・瑞芳間の山中で日本軍と実際に遭遇している。これらの部隊の行動が、瑞芳、基隆、獅球嶺等で直接日本軍と干戈を交え惨敗した部隊以上に、台湾民主国正規軍なるものの性質を物語っているという意味において興味深いものがある。
すでにふれたように、台湾民主国の正規軍とは残留諸国兵によって構成されたものであり、またそれらの兵士の多くは、元は大陸で流浪していた不逞の輩だったのである。そのような兵を指揮する指揮官においても、念頭にあるのは自己の保身と栄達だけであり、建国宣言に見られたような、果敢な抗日意識ではなかった。
瑞芳陥落の報を受けた唐景菘は、自分と同じ広東出身の黄義徳を指揮官とする部隊に出動を命じた。中国では古来より同郷人による仲間意識が強く、唐景菘が広東出身であるところから、腹心の部下も広東人であり、兵士も広東兵が多かった。黄義徳南下の増援部隊が基隆近くに到着した頃、まさしく現地は戦場とたっていた。
ところがどうしたことか黄義徳は部隊に基隆突入を命じるどころか、獅球嶺の手前でくるりと向きを変え、友軍の苦戦を尻目にさっさと部隊ごと台北に引き揚げてしまったのである。台北に帰った黄義徳は唐景菘に、部隊が現地に着いた時にはすでに獅球嶺も陥落してしまっており、しかも一帯は豪雨のため露営できる状態ではなかった、と引き返した理由を述べた。
豪雨は戦史に残っている通り事実であるが、黄義徳が現地に着いた時点では獅球嶺はまだ陥落はしていない。同郷の腹心であるはずの黄義徳にしても、すでに自己の保身しか念頭になかったのである。黄義徳は詐報したのみか、その上、日本軍が総統の首級に多額の賞金をかけた故、総統の身を案じて馳せ戻った、と敵前反転の理由に花をそえている。日本軍が敵将の首級に賞金をかけたなどというような史実は見当らない。
しかもその日の夜、獅球嶺では頂上に日本軍の軍旗が翻った頃、台北ではこれら反転兵士が給料を要求して民主国政府の金蔵を襲い、衛兵と同士打ちまで演じている。澳底に日本軍が上陸した時に差し向けられた増援部隊の行動にしても、黄義徳のように詐報と欺瞞に満ちた敵前反転ではなかったにしろ、戦意のなさ如実たるものが感じられる。
派遣された各官の指揮官はそれぞれ総指揮官を名乗り、互いに相手の配下につくことを厭い、ために各部隊は相互の連絡すらままならず、まったく別途に行動するといったありさまであった。そのような時、先発部隊が、山中での小ぜり合いで一人の日本兵を打ち取った。部隊は死体をそのままにして前進したところ、後から来た部隊がその死体を見つけ、これを奪って自分たちの戦功としてしまった。
後続部隊に戦功を奪われたことを知った先発部隊は、怒って前進を止め、死体を友軍であるはずの後続部隊から奪いかえすため、日本軍を目前に反転してしまった。このため、澳底より瑞芳までの道程は、無防備同然の状態となってしまったのである。このような民主国軍の指揮系統の乱れと、彼らの戦意よりも自己保身の強さが、日本軍にとっては何よりの幸いとなったのである。
彼ら大陸より渡来した将兵にとっての台湾民主国とは、それは抗日のためではなく、台湾割譲の後の給与支払機関の存統でしかなかったことが、これら一連の不祥事の中にもよく現われていると言ってよいだろう。やはり台湾にとって、大陸からの将兵は単なる外来者に過ぎず、郷土台湾の防衛には役に立たなかったのである。
そして、大陸からの彼らにしてみれば、台湾とは、所詮自らの命をかけて護るに価しない他人の土地ということになるのであろうか。やがて抗日軍の主役がこれら外来の旧諸国兵から台湾人へと変ってゆくのである。そして今、外来者ということが台北一帯に於いて更に著しく現われようとしている。 -
最初にこの指揮所跡があった(獅球嶺砲台1884年竣工)
1895/明治28年6月3日、獅球嶺砲台では日本軍との攻防があり
日本軍戦死者五名、負傷者二十六名であったのに対し
民主国軍では死者二百五十名、負傷者無数と記録されている
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この地での日本軍兵士の戦死者は5名だった。肉体はここに留めても魂は故国に戻り靖国神社に祀られている。その攻防があった獅球嶺砲台へ行った。獅球嶺景観區と表示のある朱色の門を潜って狭い道を登った先にあった。案内板に台湾人がいうところの「乙末戦争」の時(1895/明治28年6月3日)にこの地で日本軍と戦ったことが記されていた。
大体の場所は来る前から地図やグーグルアースで確認しているので分かっているつもりだったが、実際その場に立てば「あァこんなところだったのか・・・」と驚くことばかり。ここは基隆港の真後ろに位置し、すぐ眼下に基隆港と市内中心部が広がっていた。八堵站からも歩い1時間足らずで来れるようだ。2014−1895=119、今から119年前、この地で日本軍と台湾民主国軍が戦った。
今日は何故か台湾軍兵士数名が軍服姿でこの砲台跡に来ていた。“呉さん”が聞いたら「調査」とのこと。何の調査なのか分からないが。この砲台跡は「基隆要塞」にも記載がないように、日本統治後も整備改築されていない。
台湾ウィキペディアにも記載されているが「獅球嶺砲臺」 は、日本時代は、この砲台の必要性を認めず放置され荒廃したとある。それは実際にこの場に来て現存する指揮所や観測所、弾薬庫など建造物を見ればすぐ分かる。さっき行った白米甕・大武崙砲台に残る指揮所などの遺跡と物がまったく違う。コンクリートの厚さは同じようでも建造物の美しさと精緻さには天地の差がある。
でも眺望は素晴らしい。まっすぐ正面に基隆港が広がり、そのまた先、真正面に基隆嶼がある。基隆に来れば是非この獅球嶺に来てこの風景を楽しみ、1895年の戦い、大東亜戦争の戦いなど日本人の歴史を振り返ってもらえばと思う。
観測所の上に「喉鎖島門(Hóu suǒ dǎo mén ホウスオダオメン)」という碑が立っている。これは何を意味するのか?獅球嶺砲台にはここより少し高い位置、東側に東砲台もある。写真で見る限りここも日本軍は放置したのだろう。
朝から三ヶ所の砲台跡を巡ったが、戦跡巡りを趣味としている私にはどことも感動の場所だった。でもいつものことながら気持ち時間に追われての散策が続く。帰国後写真や動画で「そうだった」「こうだった」と思い出すのが私の旅だ。ここの滞在デジカメ時間、9:44−10:00 16分なり。あゝ。 -
?1895/明治28年6月3日午後5時
日本軍この地を陥落させる
獅球嶺砲台はその後日本軍は必要を認めず放置した
1900年当初に日本が改修した基隆10砲台
「外木山砲台」「大武崙山堡塁」「白米甕砲台」「万人頭堡塁」「公山尾砲台」
「社寮島砲台」「八尺門砲台」「槓仔寮砲台」「牛稠嶺砲台」「深澳山堡塁」 -
これはどうみても観測所だろうけど・・・
日本軍の作った要塞と外観を見ても造作の違いが歴然
石積みの精度、要塞の完成度、天地の差を感じる
竣工年度は「1884」と「1902頃」と18年くらいあるが
そんなものはあまり関係ない。築造の美しさが違う -
確かにコンクリートの厚みはあるが、ぼろい
内部は観測窓がそれぞれの方向に開いていた
「獅球嶺砲台」の記述には・・・
http://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%8D%85%E7%90%83%E5%B6%BA%E7%A0%B2%E5%8F%B0#.E5.9C.B0.E7.90.86.E4.BD.8D.E7.BD.AE
「僅存石造指揮所、砲座與彈藥庫」
(石造りの指揮所・砲座と弾薬庫のみ)
との記述でだけで「観測所」は記述に無い
何故なのか?良く分からない -
観測所の屋上から基隆を望む
絶景なり、絶景なり
基隆に来るなら必ずこの場に来るべし
この場から一直線上に基隆嶼が浮かぶ -
この穴は通気孔のようだけど
「喉鎖島門」とは何を意味している?
持参したビスケット・タバコを置き
日本軍戦死者に哀悼の意を表す -
獅球嶺砲台に別れを告げ
平安宮を車中から見ながら次に向かう
獅球嶺滞在デジカメ時間、9:44−10:00 16分
基隆 獅球嶺砲台
http://youtu.be/xvwBDltKPKA -
基隆市政府大樓
1932/昭和7年建立:満洲建国の年
2014年の今年82歳になる
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■次は基隆市中へ
「基隆市政府大樓」(1932/昭和7年建立:満洲建国の年)の前に車を停めて建物の外観を写した。今も使用に耐え、その役割を果たすのは、品質の良さによる。ならば日本人の品質は如何に?敗戦後の日本人の品質劣化は止まるところを知らず、金こそ命と、誇りも名誉も意地もどぶに捨て。口から出るのは無責任極まりない綺麗事ばかり。
作り手の劣化は品質の劣化に直結する。戦後世代は後世に何を残そうとするのか・・・。
次は北白川宮能久親王紀念碑に行くつもりが、ちょっと行き過ぎて“呉さん”が停めたのは「民族英雄墓」だった。行く予定は無かったが、せっかくだからと降りて見る。この辺りは清朝時代から戦場となり墓が多く建てられていたが、地元有志が遺骨を集め「清国人墓」を作り、それを1957年基隆市政府により「民族英雄墓」として再建された。
近くには日本時代の1909/明治44年建立された「佛國陸海軍人戦死者紀念碑」もあるようだ。勲章授与も英雄もいつの世でも軍人のみであるはずだ。そうでなければ国は国として成り立たず。 -
1932/昭和7年、市廳舎落成式
この時は三階建ての廳舎だった
それが一階増築されて四階建てになっている -
民族英雄墓
私の英雄の定義
「国を守るために戦い戦死した者」をいう
地球市民など成り立たず、それは究極の弱肉強食世界でしかない
?国があってこそ個人・家族・地域の安全幸福がありえる
戦後日本に英雄など存在しない。勲章に値する人間もいない
米国に従属し、軍隊を持たず戦いを放棄するような国は国とは言えない
日本は属国であり、日本人は属国の民として今現在も劣化を続けている -
北白川宮能久親王紀念碑
?1895/明治28年5月29日近衛師団長として澳底に上陸
その後、マラリアに罹り上陸五ヵ月後の10月28日
台南で薨去(こうきょ)された能久親王殿下の碑
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■北白川宮能久親王紀念碑
戻って「北白川宮能久親王紀念碑」に行った。写真で見ていた碑がそこにあった。「あゝやっぱりこんな風にこんなところにあったなあ・・」と、それは、来る前に想像していたよりも少し良い状態でそこにあった。近衛師団長として台湾で薨去された北白川宮能久親王、若き頃プロシャに留学中、ドイツ貴族の未亡人と婚約した殿下。皇族ながら軍人として亡くなった。
今の日本は軍隊なき日本であり、皇族は軍人にならず学習院に進む。日本に軍隊が復活し皇族も全部とは言わないが自ら望んで軍人への道を進んでもらいたい。英国王室の王子たちがそうであるように・・・。
碑文が削り取られた記念碑に日本の煙草とビスケットを供えた。台湾には北白川宮様の関係遺跡は「北白川宮能久親王遺跡地一覽」によれば39ヶ所もある。
http://blog.xuite.net/zulus/twblog/121508758-%E5%8C%97%E7%99%BD%E5%B7%9D%E5%AE%AE%E8%83%BD%E4%B9%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B%E9%81%BA%E8%B7%A1%E5%9C%B0%E4%B8%80%E8%A6%BD
「植鉄の旅」より
『北白川宮能久親王御遺跡ですが、基隆周辺には円窓嶺司令所と基隆旧海関御舎営所があります。前者は明治28年6月3日の基隆攻略の際に指揮した場所、後者は基隆攻略後、台北に向け出発するまでの同年6月4日〜10日の舎営地とした場所です。』 http://liondog.jugem.jp/?eid=150
この碑は、基隆で北白川宮様が宿営場所とした旧海関(税関)跡に昭和八年建立された。戦後碑文は削られたが、その後綺麗に整備し史跡として保存されている。日台関係の友好が続く限り、この碑もここにあり続けるだろう。整備前の写真もあった。
http://www.boch.gov.tw/boch/frontsite/citycase/cityCaseAction.do?method=doViewCaseBasicInfo&caseId=CA09602000701&version=1&assetsClassifyId=1.2&cityId=2&menu=null
将来万が一にも台湾が大陸に組み込まれればこの限りにあらず。それとも大陸の自滅が先なのか?刻一刻何もかもが変化し続ける。永遠なるもの何もなし。 -
能久親王殿下は親王家の庶子として生まれ
幼くして都を離れ江戸で僧侶として過ごす
一時は「朝敵」の盟主となって奥州の地を転々とし
後には陸軍軍人として台湾平定の英雄とされる
波乱万丈の殿下なり -
「北白川宮能久親王御遺跡地」
この↑碑文は削られるもここに建つ
北白川宮能久親王の第3王子:北白川宮成久王は
1923/大正12年、フランスでご自分で運転中に事故死される
その北白川宮成久王の第1王子:北白川宮永久王は
1940/昭和15年9月4日、張家口の河川敷で演習中
不時着しようとする戦闘機に接触、薨去される
北白川宮家は「悲劇の宮家」ともいわれる -
碑の裏側の碑文も削られている
碑文を削り取りながら碑は倒さず
北白川宮能久親王行程 基隆旧海関御舎営所
http://blog.goo.ne.jp/jinjya_taiwan/c/47bf4271c4e8a87b182e6222405e40ce -
森永のビスケットとタバコを供える
-
基隆要塞司令官邸
この掲示板の説明では
光復後、少将嶺に建っていた司令官邸が砲撃で損壊
近隣にあったここを司令官邸として一時使用とある
日本の敗戦後砲撃で損壊?何故?と思うけど???
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■基隆要塞司令官邸
基隆要塞司令官邸跡(中正路李宅)に行ったが、崩壊寸前の状態だった。横から入って行けたので内部に入ったが、家屋は半分崩れ見る影も無い。更地にするのか?無残な状態のまま放置されていた。
司令官邸宅の後ろの崖の下部に抜け道なのか?煉瓦積みの洞窟通路があった。懐中電灯を持っていなかったし、足元は泥だらけなので奥まで入って行けなかったが、フラッシュ写真では通路の壁に電線もあり、行き止まりではないように見える。内部に空洞がある?それともどこかに通じているのかも?
外から見れば家屋の半分は残っているように見えるが、内部は崩壊が進み、残骸を晒している。この「基隆要塞司令官邸跡」の説明はいろいろあるようだが現場にあった掲示板の説明では、『1931/昭和6年基隆の「流水バス社長の流水偉助」が会社の北側に建てた社宅。1936年流水バスは基隆乗合自動車会社となる。
http://blog.udn.com/chenkwn/4476430
光復後少将嶺に建っていた司令官邸が砲撃で損壊し近隣にあったここを司令官邸として使用。その後、李氏が借りうけ「李宅」となる。山壁に建つ典型的な和洋折衷仕様の日本式住宅で入り口玄関南に応接室、床の間、襖で間仕切り、多くの部屋がある。縁側、広間の外には日本式の庭があり「水池風光」自然を凝縮した光景が一目で収まる。基隆地区で最も特色ある住宅建築』・・・というようなことが書かれていた。
光復後に一時的に司令官邸として使われたようだ。その後李氏が借用していた家とのこと。良く分からないけど最早瓦礫と化している。果たしてこの舘は日本家屋の古蹟として復活するのだろうか?我が家の近くならわざわざ見に行く事もしないだろうが基隆に来たからこそ行った。 -
文化部文化資?局の「基隆要塞司令官邸」に関する説明では
http://www.boch.gov.tw/boch/frontsite/cultureassets/caseBasicInfoAction.do?method=doViewCaseBasicInfo&iscancel=true&caseId=CA09602000699&version=1&assetsClassifyId=1.1&menuId=302
『1931/昭和6年日本人材木商が建立した日本家屋。
日本敗戦後要塞司令部官邸として使用
その後李宅になるが、家主が「雞籠文史協進會」に無償供与・・・』
現場の掲示と文化部文化資?局の説明内容が違う
材木商が建てた日本家屋(施工者)で
流水巴士の流水偉助が施主ということか -
?中に入れたので入ってみたが・・・
現状は廃屋だった・・・が
壊したのか?崩れたのか?
中途半端な状態だった
一体どうしようというのか? -
家は無残に崩壊していたが家裏の崖に
防空壕?洞窟?抜け道?のような
レンガとコンクリートの堅固な洞穴があった
懐中電灯がなく、足元悪く入れず -
フラッシュ写真で内部を見れば
立派な洞窟で、突き当りからも
左右に通路が続いているような感じ
この洞窟が何なのか残念ながら不明? -
表から見ればまだかろうじて家の形はあるが
内部はぐちゃぐちゃになっている
これが基隆市定古蹟の文化資産とは寂しい限りだ -
基隆要塞司令部の官舎群
http://www.tonyhuang39.com/tony0602/dbtt0602.html
?基?要?司?部校官眷舍
要塞司令官邸と同じ運命のようで
今や廃屋というより廃墟に近い
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■基隆要塞司令部の官舎群
次は基隆要塞司令部の官舎群。ここも数棟は家屋の体を留めているが、その他は解体されたのか草が茂る空き地になっていた。そしてこの日は何故か?軍人が数名作業着姿のような格好で作業をしていた。この空き地の中に「大沙湾石囲遺構」がある。
その時は何も知らなかったが「なんや、これは?」と思って写真を撮っていた。帰国後「Tony的自然人文旅?(0602)」にこの遺構があったので「あっ、これか」と分かった。
『基隆住民が清朝道光年間に建設した大沙湾石囲遺構がある。防潮と海賊避けを目的としたが、清仏戦争中は防御機能を十分に発揮した。現在では残骸と化している。』・・・この遺構の一部がここに残っているようだ。 -
以前はどのような状態だったのか?
今は更地が広がっていた -
なんじゃこりゃあ?と、思って写真を撮る
大沙湾石囲遺構
http://www.boch.gov.tw/boch/frontsite/cultureassets/caseBasicInfoAction.do?method=doViewCaseBasicInfo&iscancel=true&caseId=CA10109000015&version=1&assetsClassifyId=1.2&menuId=302
元寇の際に日本側が作った防御壁(元寇防塁)のような物だろう
「文永の役・1274年」「弘安の役・1281年」
基隆散策(一)
「基隆市廳舎」「北白川宮能久親王紀念碑」「基隆要塞司令官邸」「基隆要塞司令部の官舎群」
http://youtu.be/fCodvjs7aTI -
基隆市長官邸
1932/昭和7年竣工
市長官邸といっても要塞司令官邸同様、光復後のことで
日本時代は「台湾土地建物株式会社基隆支店長社宅」 ?
内部の展示写真は昔の地図などがあり興味深い
写真に撮ったつもりがほとんどピンボケで残念至極
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■基隆市長官邸
次に行ったのは「基隆市長官邸」。住所:基隆市中正區中正路261號。
ここは立派に再建されている。建物横にある説明の掲示板によれば元は「台湾土地建物株式会社基隆支店長社宅」とのこと。「文化資産局」のHPにも「松浦宅」とある。戦後一時期、基隆市長邸として使われたようだ。
http://www.boch.gov.tw/boch/frontsite/cultureassets/caseBasicInfoAction.do?method=doViewCaseBasicInfo&iscancel=true&caseId=CA09602001491&version=1&assetsClassifyId=1.1&menuId=302
屋内は純日本風の日本家屋が再現されていて、昔の写真の展示などがあった。そのなかには昭和7年の基隆市名所案内図がありその出来栄えは今の観光図と遜色ない。内部をひととり見て、外に出て全体の写真を撮った。要塞司令官邸も官舎群も崩壊寸前だが、ここは立派に再建されていた。 -
光復後に日本式家屋を市長邸として使用した
ということは市長は本省人だったのだろう
支那から追われて来た国民党関係者が
日本家屋で生活するとは考えにくい -
1932/昭和7年「基隆市名所案内図」
残念無念、もっと大きい解像度で
ピンとが合っていれば良かったのに
基隆市日本時代の町名
http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%9F%BA%E9%9A%86%E5%B8%82_(%E5%B7%9E%E8%BD%84%E5%B8%82)
壽町、義重町、日新町、入船町、幸町、?町、曙町、東町、田寮町
天神町、双葉町、玉田町、元町、福?町、高砂町、旭町、明治町、寶町
西町、觀音町、大正町、昭和町、瀧川町、堀川町、仙洞町、眞砂町、濱町、社寮町、 大水窟、八斗子、深澳坑、大武崙、大竿林、外木山、 ?木山、基隆嶼、花瓶嶼、棉花嶼、彭佳嶼 (等大字) -
平和湯・明治屋洗濯所・佐々木潜水請負所などなど
日本時代の基隆の町の様子が伺える -
正面から市長邸、松浦宅を写す
-
漁會正濱大樓
http://www.boch.gov.tw/boch/frontsite/cultureassets/caseBasicInfoAction.do?method=doViewCaseBasicInfo&iscancel=true&caseId=CA09602000698&version=1&assetsClassifyId=1.2&menuId=302
1934/昭和9年竣工
人間で言えば御年80歳
そう思えば人間もこの建物も老いは変わらず
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■漁會正濱大樓
次は「漁會正濱大樓」 建物正面上部に「基隆區漁會」の文字盤が掲げられている。1934/昭和9年に建てられ当時は水産館の所有だった。戦後海軍に接収され、1962年基隆漁會が購入し現在に至る。
内部に入ったら外見以上に中は寂れたビルであり、通路を進むと壁も天井も真っ黒になっていた。室内を覗いたら火事の跡。聞けば昨年12月に火事になったとのこと。それでもまだ何ヶ所かでは普段通りの仕事をしている様子もあったが、このビルは一体どうなるのだろう?修復されるのか?解体か?こんな状況だからビル内に活気はなかった。 -
まだ事務所として使用しているが
残念ながら昨年12月火事で一部焼ける -
戦争を生き延びた漁會正濱大樓の運命や如何に?
長く生きれば何かとある -
?1934/昭和9年、竣工当時の基隆はさぞや活気溢れる町だったろう
漁會正濱大樓と同い年↓
美智子妃殿下・児玉清・長門裕之・金美齢・ケーシー高峰
大橋巨泉・田原総一朗・宝田明・白木みのる・愛川欽也・?石原裕次郎 -
タクシー運転手“呉さん”も場所が分からず
間違って到着したのが「三軍総医院」だった
ここで道を尋ねて司令部に行く
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■基隆要塞司令部
次に向かったのは1928年(昭和3年)建立、浅井新一設計の基隆要塞司令部
漁會正濱大樓を出て、すぐに着くと思ったが“呉さん”もあまり行く事も無いのか?道が分からず三軍総医院という病院に辿り着き、そこで司令部への道を聞いた。そこから7分ほどで写真で何度も見ていた基隆要塞司令部に到着。門には「光復営區」とあり左右に歩哨が立っている。門より中には入れなかったが門前からの写真はOKだった。
昭和3年から昭和20年の敗戦までここには歴代の日本軍要塞司令官が任務についていた。こじんまりした良い建物だ。今も使い続けてくれることに感謝する。昭和16年9月17日(水)。日本から日蝕観測に来た時の「臺灣日蝕紀行」というのを見つけた。
それには『此度の日蝕観測は1年程前より計画して居たが、六月頃より基隆要塞地帯内撮影の許可願ひの手続き始めた。色々と手続上手間取って、漸く九月5日附にて基隆要塞司令部より撮影許可證地帯撮影第50號が届いた。許可は基隆市街のみに場所が特定されて居て、渡台と同時に當要塞司令部に出頭し所要の指示を受くることとなって居た。その爲、渡台と同時に先づ同司令部を訪れる豫定である』とある。
http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/168330/1/tnk000248_056.pdf#search='%E5%9F%BA%E9%9A%86%E8%A6%81%E5%A1%9E%E5%8F%B8%E4%BB%A4%E9%83%A8'
時代が違うといえばそれまでだが、戦後日本はスパイ防止法もなくスパイ天国と言われる。国を守るという意識の違いは歴然だ。どちらも行き過ぎはダメだが、国家権力はすべて「悪」であるかのように言う戦後日本人は一度日本国籍を放棄し、国家権力から脱却し無国籍世界市民として生きてみろ。
「アジア歴史資料センター」で「基隆要塞司令部」で検索すれば膨大な資料が出てくる。ちょっと見るだけでも当時の軍隊の雰囲気が感じられる。
基隆市の東隣、瑞芳「新北市政府文化局」のHPの四脚亭砲台の紹介に基隆要塞・司令部について分かりやすく書かれていたので以下に抜粋する。
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瑞芳四脚亭砲台
「新北市政府文化局」より抜粋
http://jpweb.culture.ntpc.gov.tw/property/list.aspx?Node=2808&Index=1&WID=6635a4e8-f0de-4957-aa3e-c3b15c6e6ead&id=12
歴史沿革
四脚亭砲台は、日本統治時代、基隆要塞の管轄下にあった内陸防衛用の砲台です。日本統治時代の台湾は、日本人から南進の基地とされ、“沈まぬ空母”と呼ばれていました。当時良港の呼び名の高かった基隆、澎湖、高雄の三港は、軍事上の要港とされ、港区の守備を強化するため、各種工事や砲台の補強等が行われました。基隆は、その中で最も早く完成した要塞基地で、停戦時の<<台湾警備総部接收総報告書>>によると、工期は約1904〜1924年の間で、当時としては強固な要塞でした。
1904年、日露戦争が勃発すると、この地に基隆要塞指揮所が設置されました。3年後には要塞司令部が設立され、基隆、馬公、高雄の要塞区の管理が行われました。1937年には、それぞれの要塞区が独立しました。日中戦争勃発後は、兵力の補強だけが行われ、防空・制海砲弾等は、高雄、澎湖に移されました。1941年、太平洋戦争が勃発すると、基隆要塞区は、右は挖子山から、左は淡水まで拡大されました。この他、新竹、後龍の独立砲台も基隆要塞区の管轄でした。全要塞区の地面陣地は、澳底の挖子砲台から、基隆を通過し、金山砲台西側の跳石まで及びました。
また、沿海正面の岸壁には、海岸防衛陣地と砲台掩護陣地が作られました。工事の大部分は、地形に応じて城壁を作ったり、坑道の掘削を行うものでした。一部には、岸壁の洞窟や鉱物採掘の後を利用したものもありましたが、コンクリートは、ほとんど使われておらず、大部分が脆い造りでした。
要塞での守備隊司令は、大佐(上校)で、所轄部隊には、独立した76旅団があり、重砲13連隊、高砲大隊、工兵大隊、通信大隊とその他部隊等がありました。また、湾曲砲台には、観測所、照明、通信、砲弾庫、兵舍、貯水池、衛生設施、交通施設などの設備があり、必要なものは全て揃っていました。
戦後、砲台の大半は、軍により接収されました。現代では、戦争の形態も日々進化を遂げ、砲台も過去の重責から解き放たれようとしています。戦争が過去の物となっている台湾の人々にとって、この砲台は昔の戦争形態を髣髴と甦ります。
特色
四脚亭砲台は、平地の兵舎においても、山中の兵舎においても、構造や仕様において、基隆市大武崙、槓子寮の砲台と類似しています。特に、平地の兵舎は、どれも土台が高く、排水口が作られています。残蹟に近い部分には、地面の丸太に間隔を開けて釘が打たれており、屋根を支える柱の基盤だったと思われます。山地の兵舎には、良好な排水施設があり、前方には窪みと階段、そして傍にはドアがありますが、一体何のために使われたかはいまだ不明です。
階段を上ると、道は三つに分かれています。左右の道は、空き地止まりで、真ん中の道には、かつて石の階段だったと思われる痕跡があります。今は、階段の下の部分と乱雑に重なった石が見られるだけです。約20メートル上ると、道は二手に分かれています。右側の上り際に石がありますが、敷居か階段の類かと思われます。
右側には四角に切り出された石で作られた壁(或いは堤防)があり、大武崙砲台の砦(突出陣地)と類似しています。左側には、戸の付いた石造建築と坂道があり、坂道の上方には砲座が見えます。壁には、砲弾を入れておく穴があり、その横には、観測所と思われる円形のシェルターが見えます。上から見ると、壁にはアーチ型の壁が二つあり、そこから判断して、下には砲弾庫があると思われます。
この地区には、高さの異なる砲座が三台あり、横には砲弾庫が1つづつ付いています。この三台の砲座は、大きさと、アーチ型の壁を有することから判断すると、使用した砲弾は、口径の小さい山砲だと思われます。その発射方向の下には瑞芳が広がっていますが、これは日本人が、かつて塩寮から上陸し、瑞芳から基隆を直撃した事実に照らして、設置されたものと思われます。
槓子寮の制陸砲座も、日本軍の別の進軍路線に照準を合わせています。この砲座は、獅球嶺同様、基隆の防衛態勢を全て見渡すことができます。また、槓子寮は牛稠嶺、内木山、大武嶺と共に基隆の外回りを防備する役割を担っていました。
兵舎に戻ってみると、入り口にはコンクリートを被せた土台が見えます。恐らく哨所の残蹟と思われます。向かいには、コンクリートの柱があり、兵舎の門に使われたと思われます。この槓子寮にも入り口にも同様のものがあります。第一、第二の平地兵舎の間に、井戸と貯水池があります。更に奥に進むと、右手には壁があり、壁の後ろは池か井戸のようなものが見えます。 -
基隆要塞司令部
1896/明治29年「基隆要塞指揮所」→1902/明治35年「基隆要塞司令部」
1929/昭和4年、浅井新一設計 現在の「基隆要塞司令部」完工
現在:第一海岸巡防總隊管理「光復營區」 -
正門左右に衛兵が立ち
中には入れないが外からの写真はOKだった
正面に立つ碑は
「國民政府主席蔣公介石蒞護巡視紀念碑」
[基隆市].基隆港東碼頭古蹟之旅
http://www.tonyhuang39.com/tony0602/tony0602.html -
要塞司令部の塀の一角にあった物
一体これは何なのか?
手間隙掛けて作ったからには
何か意味があるだろうが・・・
基隆散策(二)
「基隆市長官邸」「漁會正濱大樓」「基隆要塞司令部」
http://youtu.be/DwDuroDgatM -
昼食
午前中の散策を終了し、この店で昼食
午前11時37分、一息つく
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■昼食
司令部を見終わったのが11時半頃だった。昼飯休憩ということで“呉さん”の知っている店に行った。店の写真は撮っていたが頼んだ料理の写真を撮っていなくて何を食べたか残念ながら定かではない。“呉さん”が適当に注文し値段も高くはなかった。
肉系統の料理だったが食い物の特段の印象は残っておらず、まずくはなかった。 -
タクシー運転手?“呉さん”
寡黙でまじめ
末っ子ながら91歳の母親の面倒を見ている
肉系統の料理だったが覚えていない
まずくなく高くなく、満足 -
社寮島砲台
和平橋を渡って和平島(古い名前:社寮島)へ
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■社寮島砲台へ行く
腹ごしらえをし次に向かったのは和平島の社寮島砲台(Shè liáo dǎo pàotái シィリャオダオ パオタイ)。
この和平島は、以前「社寮島」と呼ばれていた。社寮砲台は西と東にあり西は軍の管理区域で入れないので、私が行ったのは社寮島東砲台。和平島に渡り車で坂を上って砲台前で停車。そこから歩きで砲台跡を見て周る。
社寮砲台は軍管理区域の西砲台は17世紀初頭にスペイン人の手によって作られたようだが、この東砲台は日本統治後の『1901年(明治34年)5月着工→1903年(明治36年)9月 竣工』、二年の歳月を掛けて築造された。
その後も暫時改良されている。兵舎・指揮所・観測所・弾薬庫・その他の建造物が残っている。レンガ造りの壁に木の根が蔦のようにへばりつき時の経過を感じさせる。
高台からの眺望は抜群だが眼下の東突端に「和平島?水處理場」がある。観測所から西方向を望めば、白米甕砲台の横にある火力発電所の煙突が見える。東シナ海が広がり目の前には基隆嶼が浮かぶ。今では風情溢れる城跡なり。
坂を上ってきたがそんなに広い要塞ではなかった。社寮東砲台滞在はデジカメ時間「12:11−12:37」・・・たった26分か。“ゆっくり”見ているつもりが実際の経過時間はこんなものだ。やっぱり私の体内時計は早い。
「大阪人は世界一歩くのが早い」と言われているが、神戸生まれの明石人もやっぱり大阪人と変わらぬリズムなのかも?それとも私がせっかちなのか?「先々の心配は得意」との関係は?? -
社寮(東)砲台入り口に到着
午後12時11分
社寮砲台
http://www.boch.gov.tw/boch/frontsite/cultureassets/caseBasicInfoAction.do?method=doViewCaseBasicInfo&iscancel=true&caseId=CA09602000876&version=1&assetsClassifyId=1.1&menuId=302 -
これには社寮東砲台1904/明治37年創建とある
「基隆要塞」では1901/明治34年5月 社寮島砲台着工
1903/明治36年9月 社寮島砲台竣工となっている
社寮島砲台は東西にあり西は現在軍管理地域で入れない
1626年スペインが最初に作った砲台は西砲台 -
入り口にあった兵舎?
社寮島砲台
http://blog.yam.com/hwsln/article/10741151
社寮島砲台
http://blog.xuite.net/andy8/camera/18255684 -
地形を利用し山を掘り込んだ弾薬庫
-
内部のコンクリート壁面は
今も見た目は美しい
1904年竣工なら今年110歳の弾薬庫 -
社寮島東砲台は高低差は若干あるが
全体の面積はそんなに広くなかった
でも歩いている時は規模が分からず
ひたすら早足で歩く歩く、そして疲れる -
指揮所跡?を上から写す
指揮所の上が観測所?
ここは説明掲示がなく確証なし -
この景色はまるで艦橋から船の先端を見るが如し
不沈戦艦「大和」は大きかったのだろう
下部は和平島の汚水処理場 -
右方遠く三本の煙突は白米甕砲台横の協和火力発電所
-
砲座左前方に基隆嶼が浮かぶ
-
山の地形を利用して要塞が作られている
指揮所?中に入れば上にも抜けれる
社寮島砲台滞在26分
今思えば17ヵ所も探訪し、どことも“ゆっくり”見れず
欲張りのなせることで時間配分できず焦りまくる(涙)
基隆 社寮島砲台
http://youtu.be/N8rCMexhXb0 -
槓子寮砲台(かんつりょうほうだい)
1901/?明治34年3月着工−1904/明治3710月竣工
1908/明治41年3月完成,編制約180名。
基隆要塞
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9F%BA%E9%9A%86%E8%A6%81%E5%A1%9E
のち火砲は高雄要塞に移動
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■槓子寮砲台(かんつりょうほうだい)
社寮東砲台から槓子寮砲台(かんつりょうほうだい G?・ngzili?・o p?・ot?・i ガンズリャオ パオタイ)へは車で10分ほどで到着。
槓子寮砲台は基隆砲台のなかで一番面積が広い。『1901年(明治34年)3月 着工・1904年(明治37年) 10月 竣工』『槓子寮山の地形を利用し、山を背に海に面し、海抜150メートル。2ヘクタールの敷地。八斗子(はちとうし)と基隆北方海域、および瑞芳方面の陸路を守っている。基隆市の砲台跡で歴史的価値が高いものとして知られている』
行く前の知識はどの砲台についてもほとんどなく、沢山ある砲台のなかでどこに行こうか?と、澳底上陸後の日本軍が基隆から台北を目指して進撃した時、激戦の地となった獅球嶺以外は適当に決めた。
槓子寮砲台に来た時も、この砲台が2ヘクタールあることも基隆砲台のなかで歴史的価値が高いことも知らなかった。全体像を知らずにとりあえず歩く。
まず最初に兵舎區があった。そこから少し歩けば崖際に洞窟がいくつもあった。地下防空壕らしいが、懐中電灯を持っていなかったので奥まで入れず。被服庫・弾薬庫・倉庫・榴弾砲座・観測所・指揮所等々、説明にもあるように一式揃っている要塞遺跡だった。
全体像が分からないままとにかく道に沿って歩いた。今に残る建造物はみなツタが這い苔むすものばかりで、音なく人の姿なくひっそりとだが遺跡としての存在感がある。
要塞を囲む擁壁の石積みも、建造物も精緻であり要塞としての美を感じる。69年前のここには軍服姿の日本人兵士が闊歩し、また作業着姿で皆と平穏なひと時を過ごし、明治・大正・昭和とこの地を守ってきた。それぞれの時代、ここで生きる日本人は何を話、何を楽しみ、何を夢見て毎日を過ごしていたのだろう。望郷の思いは常だったろうに。
ここからの眺望も抜群なり。気分爽快天気晴朗海青く空高く基隆嶼ここにあり。ミニゴルフ場のショートコースのような芝生広場もあった。やっぱり平和っていいなあ。でも要塞跡に佇めば先人たちのお陰を思う。
先人たちの戦いの“おつり”で、今の日本はかろうじて国家としての命脈を保っている。私の精神もそうだ。先人たちの生き様を知り学び、ちょっとはまともに生きなければと思う。しかしながら見本なく何がまともなのかも定かではない。きっと私の基準も大甘だろう。
この要塞の全体の詳細は「旅々台北・槓子寮砲台」に詳しい。
http://www.tabitabi-taipei.com/youyou/200411/houdai/
槓子寮砲台の滞在はデジカメ時間「12:49−13:25」、36分なり。基隆要塞のなかで面積一が示すように私の見学時間も最長だった。ハハハ。来て見るべし!『のちに火砲は高雄砲台に移動』とある。 -
槓子寮砲台跡全体図
?(1)大門・(2)衛兵所・(3)軍馬厩舎・(4)将校官舎・(5)将校官舎・(6)一般兵舎・(7)士官官舎
(8)トイレ・ (9)地下防空壕・(10)被服庫・(11)火薬庫・(12)一般倉庫・(13)地下防空壕
(14)補助観測所・(15)通信室・(16)補助観測所 (17)主観測所+通信室・(18)榴弾砲台・(19)榴弾砲台
(20)榴弾砲台・(21)弾薬庫・(22)弾薬庫・(23) 弾薬庫・(24)発電自動車庫・ (25)サーチライト庫
(26)サーチライト台・(27)貯水場・(28)指揮台・(29)トイレ・(30)砲具庫・(31)平射砲台・(32)弾薬庫 -
午後12時49分入り口に到着
この時点で私自身は槓子寮砲台の全容もなにも分かっていない
でもこの入り口附近の広さと建物群を見ただけで
何となくここは他の要塞跡地と違うような雰囲気があった
ちゃんと残っているなァ・・・と -
左建物(7)士官官舎、その向こう(8)トイレ
右側建物(5) 将校官舎
(6)一般兵舎跡から大門方向を写す
草地と樹木の緑
その中に点在する
苔むす要塞色?の遺構
“ロマンチック”と言う言葉が相応しいのか否か分からないが
やはりここは“兵どもが夢の跡”であり、この風景に私は感傷的になる -
洞窟防空壕の入り口
このような洞窟が何ヶ所もあった -
内部は真っ暗で進めず、フラッシュで写す
懐中電灯は日本から用意して来たのに・・・
ここでもあそこでも持ち忘れホンマに我ながら嫌になる
ボケるのは早い、ボケたくないが、面白くもなく -
(17)主観測所+通信室
この時は全体図の掲示もなく、今の自分の位置も不明
歩きながらこの槓子寮砲台跡は「凄いなあ」だった
歴史的遺構として永く保存されることを祈る -
「観測所+通信室」の内部
この強固な作りに惚れ惚れする
命を賭した修羅場に備えることへの
人間の執念を感じる
これを無駄と言うな。国を守り、誇りと名誉を守るには
覚悟と実践が必須だ。戦後日本人はパンのみにて生きる
糞面白くもなく -
この観測所からも基隆嶼が望める
基隆来訪時は是非とも砲台めぐりを
どこも眺望抜群、感傷的にもなれる -
観測所から東方向を写す
これは決してミニゴルフ場ではないが良く似たり
槓子寮砲台全体図の右半分方向
ここから見て
広いなあ一体何処まであるのだろう?
ちょっと先行き不安になったが
この一番先端(26) サーチライト台まで歩いていった -
観測所の観測口
コンクリートの厚みが全てを物語る
その姿、物悲しく、モアイ像に似たり -
槓子寮砲台全体図で見れば
この道は(26)サーチライト台へ続く道だと -
(24)発電自動車庫?
よう分からん?けど -
榴弾砲砲座、弾薬庫が並ぶ
要塞は何故かくも美しいのか? -
弾薬庫内部は、今もこの通り美しい
-
榴弾砲砲座
のち火砲は高雄要塞に移動
「昭和19年10月12日 - 10月16日」
ここには砲なく、戦いはなかったのだろう -
“呉さん”のタクシーに戻って来た
槓子寮砲台滞在時間36分
基隆十砲台中最大面積
是非見に来るべし
基隆 槓子寮砲台
http://youtu.be/Rt-yTV6bu1g -
二沙湾砲台
中正公園からも歩いて行ける場所で
健康歩道などもあり全体が公園化している
高台で眺めも良く、市民憩いの場所
二沙湾砲台
http://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E6%B5%B7%E9%96%80%E5%A4%A9%E9%9A%AA
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■二沙湾砲台
次は海門天険(二沙湾砲台)へ、最初の私の要望にはなかったが“呉さん”が行ってくれた。包車料金1時間350元の契約にしているので、“呉さん”も、余分に周って時間が掛かっても気分良く案内してくれる。
二沙湾砲台(Èr shā wān pàotái アァシャンワンパオタイ)は、海門天険(Hǎimén tiān xiǎn ハイメンティエンシエン)とも言われ、アヘン戦争(1840年6月28日 - 1842年8月29日)時に作られ、清法戦争(1884年8月−1885年4月)で壊された。
その後、台湾第一代の巡撫(総督に相当)が再建した。この一帯は中正公園から続く公園になっており遊歩道も整備されて眺めも良く散歩には絶好の場所。
とりあえず道に沿って歩く。ここは基隆市街からも近く、多くの人が散策を楽しんでいた。砲台各所にレプリカの大砲(アームストロング砲)も備えられている。日本軍はこの要塞の戦略的価値を見出さなかったのか?整備や改築はしていないようだ。清朝が築造した当時の姿を今に残しているのだろう。やはり作成年代を差し引いても日本軍が手を加えた要塞跡と違って精緻さと美しさが違う。
思えば世界遺産となっている天下の名城「姫路城」は、最初1346年に築城。 今の姿に近いのは「1601年(慶長6年)から8年掛けた大改修で広大な城郭を築いた」である。この 二沙湾要塞築城の240年も前に姫路城はその優美な姿を天下に示し、城壁の石積みも精緻である。その技巧・技術は素晴らしいの一語に尽きる。物作り大国日本ここにあり。
たしかにこの海門天険も遺跡として雰囲気はあるが「精緻さ」「優美さ」と言う点においては、日本人が作ったものには及ばない。万里の長城しかり。ソ満国境沿いの関東軍が作った要塞も、どことも堅固であり、精緻であり素晴らしく美しかった。日本万歳!ハハハ。
ここには古墳もあり、大きな公園としては素晴らしい。ご多分にもれず“ゆっくり”ではなく一周した。滞在はデジカメ時間「13:35−14:00」たった25分なり。こんなに広い公園、そんなに速く歩いたのか?それとも走ったのか?どちらにせよ足が棒になった。旅は良き鍛錬となるハハハ。 -
(海門天険)1840年のアヘン戦争時に英軍に備えて建設
1884年の清仏戦争の時、再建される二沙湾砲台とも言う
日本統治後、軍はこの要塞を改修整備していない -
当時の大砲レプリカが何ヶ所かに置かれていた
二沙湾砲台(海門天険)
http://www.klccab.gov.tw/_main.php?id=1&mid=12&t_type=s -
清仏戦争時この砲台は火を噴いたのだろうか?
1884/明治17年10月1日
フランス海軍の海兵隊1800名が基隆上陸
10年後の1894/明治27年日清戦争勃発
翌年日本は台湾の割譲を受け日本統治が始まる -
二沙湾砲台より北北東方向を写す
前方遠くに基隆嶼が見える -
海門天険
1840年のアヘン戦争期に英軍侵入に備えて建設
阿片戦争1840年6月28日勃発〜 1842年8月29日終結、清の敗戦 -
アロー戦争(第二次阿片戦争)
海門天険の上に登り写す
1856年6月28日 - 1860年8月、英仏に清は再び敗れる -
海門天険は連戦連敗の象徴なのか?
清仏戦争(1884年-1885年)
ベトナム(越南)領有を巡るフランスと清との間の戦争
この戦いの勝者ははっきりしないが
清が勝者でないことは確か -
古墳と言っても
説明では
光緒(清の徳宗の治世中に使われた元号)年間「1875年 - 1908年」
台湾防衛のために来台した兵士が当地で亡くなり埋葬した墓地のようだ
二沙湾砲台滞在25分なり
基隆 二沙湾砲台(海門天険)
http://youtu.be/ufW6zXlkcXQ -
中正公園と大雄宝殿
この門を潜ると大仏様
門の両脇には狛犬ならぬ狛象が
「左:メス」「右:オス」のようだ
この写真に写っているのがオス象
その証拠は「アル」「ナイ」が証
見れば分かるとのこと、是非ご確認を! ?
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■中正公園と大雄宝殿
その後、私が24年前の基隆の旅で「でっかい大仏像を見た記憶がある?どこにあるのだろう?」と“呉さん”に尋ねたから、“呉さん”が、中正公園の大仏に連れて行ってくれた。そこは観音様の傍だったが、大仏は私の記憶のなかのものと違った。せっかくだからと観音様広場で昨日雨の中を見た基隆市街をもう一度眺める。
そして、もう一ヶ所心当たりがあるというので連れて行ってくれた。そこは大雄宝殿で階段を登った正面に七福神の「布袋様?」のような福耳のお腹ぽっちゃり様が座っていた。
『布袋(ほてい)は、唐末の明州(現在の中国浙江省寧波市)に実在したとされる伝説的な仏僧。水墨画の好画題とされ、大きな袋を背負った太鼓腹の僧侶の姿で描かれる。』・・・ならば、きっと布袋様だろう。この布袋様も私の記憶のものではなかった。
帰国後、初の台湾旅行の写真を見直したら大きいのは大きいが大仏とはまったく違う代物だった。結局見た場所も基隆かどうか分からない。これで基隆散策の予定は終了し、“呉さん”と駅前で別れた。末っ子ながら91歳の母親の面倒を見ている“呉さん”寡黙だがまじめを絵にかいた人だった。
酒も煙草もやらずお茶を飲むのが趣味という54歳の男性運転手。包車終了時間は14:28分。“呉さん”の請求は約束どおり6時間半だった。1時間350元、8:00スタートで計6.5時間×350元=2275元。
3000元渡してお釣は「不要」というと「えっ!そんな笑顔があったの?」という満面の笑みで「謝謝!謝謝!」と喜んでくれた。私も砲台遺跡は思っていた以上に見応えがあり、注文以上の場所に案内もしてくれ十二分に満足の基隆散策だった。自己も満足、他人も満足、双方満足で万々歳!
良き人との一期一会の旅の出会いに感謝す。一人旅といくら粋がっても所詮人との出会いが旅の成否を左右する。真の一人旅とは一日中「人」とまったく出会わない旅のことである。
旅先で受けるちょっとした親切も、ちょっとした思いやりも本当にありがたい。ということはその反対は本当に堪える。しかしそれは所詮自分の態度如何によって大方は決まる。今の自分の全ての責任は自分自身にあり。自分次第で全ては決まるハハハ。こんな楽しいことはない。
どんな状況下にあっても自分次第で幸にも不幸にもなれるなんて、これこそが自由というものだ!自由万歳! -
白い大仏、愛嬌はあるが
どうもご利益には程遠く
拝めといわれても・・・ -
「佛光山極楽寺」
?大雄宝殿入り口に座る山門彌勒菩薩
世界平和を願う -
大雄宝殿ミャンマーから寄贈された
正面:玉製の釈迦牟尼像 -
午後2時28分 “呉さん”との基隆散策終了す
雨港:基隆で雨にあわず幸運だった
昨日はけっこうな雨だったのに
基隆十大砲台のうち半分の五ヶ所を訪れる
加えて一ヶ所、二沙湾砲台と計六ヶ所なり -
基隆最後の探訪「海港大樓」へ
路地裏はどことも単車の駐輪場
自転車から単車に、次は何に?
100年後の路地風景を見たいけど
残念ながら見ることは適わず
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■基隆最後の探訪「海港大樓」へ
“呉さん”と別れて港附近をブラブラ散歩した。路地裏から路地裏へと探索気分で歩いた。単車の駐輪で路地裏通りの光景は日本とは違う。もっとも表通りの歩道上にもいたるところ単車の駐輪で埋め尽くされている。
自転車が単車に代わり、次代は何に変わるのだろうか?そして歩きながら港附近に日本時代のビルがあることを思い出してそこに向かう。
そのビルの名前は「海港大樓」
鈴置良一設計により1934/昭和9年7月15日「基?港合同廳舍」として完工。港の合同庁舎としてのビルだったので港湾関係の事務所が入っていた。戦後1947年名称が「海港大樓」となり、今はビル玄関に「財政部關務署基隆關」の看板が掛かっていた。
入り口左に警備員のボックスがあり、そこに座っていた警備員に「中を見学したい」と言うと気軽に頷いてくれた。玄関ロビーには大理石の柱なのか?太い柱が何本も立っていた。1934/昭和9年竣工なら今年80歳。人間の80歳ならまだまだ元気一杯、現役で仕事をバリバリしている人も沢山いる。それを思えば築80年のこのビルの内部はやはり見た目老いていた。
活気溢れるビル内の光景がないので余計そう感じてしまうのだろう。幾ら古い建物でも中に人が多く活気を感じれば古くても元気を感じる。屋上まで上がったがビル中央を見下ろせば中庭がある。当時の建物は当然かのように中庭が設けられている。それだけでも気分は良い。今はこのスペースを惜しむかのように機能重視の建築が多いように思う。
“ゆとり”か、ガキに“ゆとり”教育は最悪だが、厳しい現実社会に空間は必要だ。港には客船「AZAMARA」が停泊していた。このビルには敗戦までの11年間日本人が沢山働いていたのだろう。ここで働いていた日本人でまだ存命の方もいるかもしれない。 -
「海港大樓」 ?
http://www.boch.gov.tw/boch/frontsite/cultureassets/caseBasicInfoAction.do?method=doViewCaseBasicInfo&iscancel=true&caseId=CA09602000894&version=1&assetsClassifyId=1.2&menuId=302
1934/昭和9年7月15日「基?港合同廳舍」として完工
2014/平成26年現在御年80歳、我が義母より四歳も若い
漁會正濱大樓 と同い年,、基隆市政府大樓より2歳若い?
続々と建立される建物の竣工年だけを考えても
急速なる基隆発展の様子が目に浮かぶ -
入り口左の警備員の方に内部の参観を願い出たら
男性警備員は気軽に頷いてOKしてくれた -
昔の建物共通に趣があり
長く使うことも良いもんだ -
この半円形の窓から外を眺めれば
外の景色も80年前にタイムスリップすれば良いのに -
屋上から眺める
客桟「AZAMARA」と高層ビル「華冠大樓」
ここは日本だった
後世の日本人がそれを侵略などと死んでも言うな
アメリカは?オーストラリアは?支那は? -
海港大樓も同じように中庭がある
建物はその時代の人間の資質や器を示す
人間が作る物は、作る人間の全てがそこに反映される
損得より良き物を作れ!と、自らに言い聞かす -
くだらぬ線や管が円形ビルにツタのように絡み付いていた
すっきりさせればさぞかし美しいものを
物を大事にせず美を損なうことを何も思わない
そんな神経の持ち主は美しい生き方などできる訳も無し
我が家も、もうちょっと整理整頓しなければ -
「海港大樓」の隣も「財政部關務署基隆關」
二つの建物は渡り廊下で連結されている
合同庁舎として税関・海事出張所・水上警察署
築港出張所、港務部、專賣局出張所等々の事務所が入っている
基隆散策(三)
「中正公園」「大雄宝殿」「海港大樓」
http://youtu.be/97F8PCXDbzs -
サラバ基隆、台北へ
15時20分(発)の區間車に乗って台北へ
¥41元
基隆を駆け足で17ヶ所を巡った
砲台巡りは歩き歩き歩きだった
やったぜ!と、満足なり
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■サラバ基隆、台北に向かう
この「海港大樓」見学をもって私の基隆散策は15時過ぎに終了し、基隆15:20(発)→台北16:06(着)の區間車(¥41元)で台北に向かった。台北のプラットホームに降り立ち、向かうは今日の宿、「旅樂序精品旅館 Lǚ lè xù jīngpǐn lǚguǎn リューラ シー ジンピンリィューグアン」。今回の旅は四泊とも“agoda”で予約した。
http://www.agoda.com/ja-jp/hotel-relax/hotel/taipei-tw.html?cid=-1&type=2&urltogo=/ja-jp/hotel-relax/hotel/taipei-tw.html&cklg=1
住所は「台北市中正區館前路8號11樓」、新光三越の前の一階がマクドナルドの店舗になっている。地図と“ストリートビュー”の写真を手に持ち台北駅から地下街を「新光三越・忠孝西路」の表示方向へ歩いた。
そして「站前地下街・Z4」の表示の出口から地上に出たら三越の前、バッチリだった。マクドの店舗前を右方向に行くと、「旅樂序・Hotel Relax ホテル リラックス5m先」との看板あり。
それでも最初はその5m先の入り口が分からず行き過ぎた。この入り口が塾の入り口でもあり塾生の名前を書いたポスターがエレベーターの周囲にもびっしり貼れており、ここがホテルへの入り口とは到底思えなかった。
でもやっぱりあの表示から5m先はここしかないと引き返し塾スタッフに聞いたら、ここだった。ビルの名前は「崇徳大樓 Chóngdé dàlóu チョンダァダロウ」 -
ここは日本か台湾か?
大陸の喧騒はなし -
?16時06分、台北着
さあ今日の宿に向かおう -
旅樂序精品旅館は新光三越の向かい
http://hotelrelaxclub.com/location.asp
毎日、宿に到着してやっとホッとする -
バッチリの場所に出てこれた
「站前地下街:Z4」から出た -
-
このビルの11階に旅樂序精品旅館がある
下調べしていなかったら多分どこか分からない -
ビル入り口は学習塾の張り紙ばかり
一度行き過ぎて、やっぱりここやろと戻る -
1011号室・・・やったのか
室内は綺麗、満足 -
旅樂序精品旅館近くの吉野家で牛丼を食べる
対面は新光三越、館前路を真っ直ぐ行けば國立博物館
左手斜め前方に吉野家が見えた
迷わず吉野家に向かう ?
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■旅樂序精品旅館近くの吉野家で牛丼を食べる
部屋は綺麗でビジネスホテル。1011号室、ベッドは一つ。一泊¥9880円也。朝食もナシで基隆のホテルより高いけど。早速荷物を置いて夕食を食べに出る。ホテル前の館前路は國立台湾博物館への道であり、南正面に博物館が見える。館前路に出たら右斜め前方に吉野家が目に入り迷わず向かう。
牛丼並と味噌汁、漬物のセットと茶碗蒸しを食べた。114元。注文カウンターで並んでいる時、一人の台湾人青年から「日本から来られましたか?」と、突然後ろから丁寧な日本語で話しかけられ「そうです」と返事をしたが、 すぐに私の注文したセットが出て来たので、それを持ってその場を離れ二階の椅子席に座って食べていた。
さっきの青年も二階に来て少し離れた椅子席で一人で食べていた。私はその時何も思わず食べていたが、しばらくして「あっそうや、あの青年と話をしよう」と思い立ち顔を上げたらもうその青年は食べ終わりそこに居なかった。後の祭りだがホント残念なことをした。彼も日本語練習になっただろうし、私もいろいろ話を聞きたかったのに・・・。
食べ終わり、セブンイレブンで「リンゴと野菜サラダ ¥100元」を買って部屋に戻る。
18:14分。今日も砲台めぐりで歩き回り足は棒になっていた。その後は外に出る気もなく部屋でテレビを見ながら身体を休め明日に備えた。もう明日は帰国であり、総統府見学とその周辺を歩き回る予定だ。明日も雨の降らないことを祈って・・・。 -
日本と違って並んでカウンターで注文し受け取る
-
?二階で食べる
牛丼並と味噌汁、漬物のセットと茶碗蒸し
114元 -
大陸と違ってセルフサービスは成り立つ
食い終われば返却棚に自ら置く -
平成日式煎餃の人気店
そこまで日本を強調するか?
へェ〜どんな餃子なのか?
興味あり買いたかったが
並ぶのが面倒でやめる -
健康管理が趣味
「野菜サラダ・りんご」を買って
部屋に戻って食べる。疲れた
明日は総督府を見学する!
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