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実はこの”芭蕉最期の行程を辿る旅”を思いついたのには全く別の切っ掛けがあった。<br /><br />私は昭和35年(1966年)社会人になるのだが、3か月の研修期間を終えて、最初に配属されたのが大阪。<br /><br />その時大阪に配属された新入社員だった7人が、後にそれぞれ道は違ったが、付き合いは続いており、関東在住唯一の私にも、会合開催のお誘いがある。<br /><br />今回淀屋橋近辺でその会合をするとの連絡があり、それに併せて企画したのが”芭蕉最期の行程を辿る旅”であった。<br /><br />幸い昼を挟んでの会合だったので、会合終了後、懐かしい昭和15年(1946年)創業の喫茶店<MJB&gt;に立ち寄ってもまだ明るさが残っていた。<br /><br />まだ現役で、淀屋橋に会社があるT君が案内役を買ってくれ、夕暮れが迫った御堂筋を歩き、懸案の芭蕉の終焉の地と云う、花屋仁左衛門屋敷跡を訪れた。<br /><br />御堂筋には地下鉄本町駅を挟んで、二つのお御堂さんが有る。<br /><br />淀屋橋側が北御堂(津村御堂)で、本町駅を過ぎると見えてくるのが南御堂(難波別院)。<br /><br />此の二つのお御堂さんを結んだ参詣道路が御堂筋の語源。<br /><br />芭蕉の終焉の地は南御堂の前にあり、今や御堂筋の中央緑地帯となっている花屋仁左衛門屋敷跡に、そうと知る者しか判らないような石柱がポツンと置かれていた。<br /><br />石柱には「此附近芭蕉翁終焉ノ地ト傳フ」(見えているのは・・ノ地まで)と刻まれており、側面に「昭和九年三月建之 大阪府」とある。<br /><br />もう一方の側面には良く読めないが、「句碑ハ昭和十年五月 難波別院内北築山ヨリ??」と刻まれている様だ。どうも芭蕉の「旅に病んで・・・」の句碑は、かってここに建っていたらしい。<br /><br />元禄7年(1694年)9月29日、大阪の門人園女宅での句会から帰った芭蕉は急速に病状が悪化。<br /><br />10月5日、芭蕉の病状が回復の見込みが薄いと見て取った大阪の門人たちは、全国の芭蕉の関係者や門人に危篤通知することにしたと思われる。<br /><br />一方で集まるであろう人々の数から、之道宅では手狭になることを慮った門人達は御堂筋にあり、御堂に花を収めていた花屋仁左衛門の貸座敷へ芭蕉を移す。<br /><br />10月9日死期を悟った芭蕉は、病床で最期の句を詠み、代筆させる。<br /><br />   旅に病んで 夢は枯野をかけめぐる  芭蕉翁<br /><br />10月10日芭蕉は兄松尾半左衛門宛他3通の遺書を口述筆記させ、翌日は死後への旅に向けて、食を絶ち、身を清める。<br /><br />10月12日午後4時芭蕉逝去。享年51。<br /><br />遺骸は遺言により、その日の内に川舟で伏見まで運ばれ、翌日膳所の義仲寺に到着する。<br /><br />10月14日午前零時、芭蕉の遺体は義仲寺境内に埋葬された。<br /><br />300人を超す会葬者で、義仲寺の境内は溢れる程だったであろ。<br /><br />参考;<br />奥の細道を訪ねて付録・芭蕉が愛し、永眠する琵琶湖湖南エリア06芭蕉永眠の地・義仲寺<br />http://4travel.jp/travelogue/10820364<br /><br /><br />( 伊藤 洋氏の「芭蕉総合年表」参照)<br /> http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/index.htm<br />

奥の細道を訪ねて;付録2・芭蕉最期の行程を辿る旅 3.芭蕉の終焉の地・大阪 その3御堂筋の芭蕉終焉地・花屋仁左衛門屋敷跡

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2013/11/30 - 2013/11/30

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WT信

WT信さん

実はこの”芭蕉最期の行程を辿る旅”を思いついたのには全く別の切っ掛けがあった。

私は昭和35年(1966年)社会人になるのだが、3か月の研修期間を終えて、最初に配属されたのが大阪。

その時大阪に配属された新入社員だった7人が、後にそれぞれ道は違ったが、付き合いは続いており、関東在住唯一の私にも、会合開催のお誘いがある。

今回淀屋橋近辺でその会合をするとの連絡があり、それに併せて企画したのが”芭蕉最期の行程を辿る旅”であった。

幸い昼を挟んでの会合だったので、会合終了後、懐かしい昭和15年(1946年)創業の喫茶店<MJB>に立ち寄ってもまだ明るさが残っていた。

まだ現役で、淀屋橋に会社があるT君が案内役を買ってくれ、夕暮れが迫った御堂筋を歩き、懸案の芭蕉の終焉の地と云う、花屋仁左衛門屋敷跡を訪れた。

御堂筋には地下鉄本町駅を挟んで、二つのお御堂さんが有る。

淀屋橋側が北御堂(津村御堂)で、本町駅を過ぎると見えてくるのが南御堂(難波別院)。

此の二つのお御堂さんを結んだ参詣道路が御堂筋の語源。

芭蕉の終焉の地は南御堂の前にあり、今や御堂筋の中央緑地帯となっている花屋仁左衛門屋敷跡に、そうと知る者しか判らないような石柱がポツンと置かれていた。

石柱には「此附近芭蕉翁終焉ノ地ト傳フ」(見えているのは・・ノ地まで)と刻まれており、側面に「昭和九年三月建之 大阪府」とある。

もう一方の側面には良く読めないが、「句碑ハ昭和十年五月 難波別院内北築山ヨリ??」と刻まれている様だ。どうも芭蕉の「旅に病んで・・・」の句碑は、かってここに建っていたらしい。

元禄7年(1694年)9月29日、大阪の門人園女宅での句会から帰った芭蕉は急速に病状が悪化。

10月5日、芭蕉の病状が回復の見込みが薄いと見て取った大阪の門人たちは、全国の芭蕉の関係者や門人に危篤通知することにしたと思われる。

一方で集まるであろう人々の数から、之道宅では手狭になることを慮った門人達は御堂筋にあり、御堂に花を収めていた花屋仁左衛門の貸座敷へ芭蕉を移す。

10月9日死期を悟った芭蕉は、病床で最期の句を詠み、代筆させる。

   旅に病んで 夢は枯野をかけめぐる  芭蕉翁

10月10日芭蕉は兄松尾半左衛門宛他3通の遺書を口述筆記させ、翌日は死後への旅に向けて、食を絶ち、身を清める。

10月12日午後4時芭蕉逝去。享年51。

遺骸は遺言により、その日の内に川舟で伏見まで運ばれ、翌日膳所の義仲寺に到着する。

10月14日午前零時、芭蕉の遺体は義仲寺境内に埋葬された。

300人を超す会葬者で、義仲寺の境内は溢れる程だったであろ。

参考;
奥の細道を訪ねて付録・芭蕉が愛し、永眠する琵琶湖湖南エリア06芭蕉永眠の地・義仲寺
http://4travel.jp/travelogue/10820364


( 伊藤 洋氏の「芭蕉総合年表」参照)
 http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/index.htm

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