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再び京阪電車石坂線で膳所駅まで戻る。<br /><br />義仲寺は膳所駅前の商店街を辿った先の、居並ぶ商店街や住宅に紛れるように建つが、庭で草花に水を呉れていた義仲寺の住職によると、昔はこの辺りはすぐ目の前まで琵琶湖が迫っていた、侘しい村だったらしい。<br /><br />朝敵となって討たれた義仲の墓は兎も角、芭蕉の墓も予想以上にこじんまりしていたが、芭蕉の墓らしいとも言えるのかもしれない。<br /><br />二人の墓の前に2棟の草庵風の建物が有り、手前が義仲を祀った朝日堂で、奥が正面に芭蕉の坐像を安置した”翁堂”。<br /><br />庭の多くの門徒たちの句碑に交って、芭蕉の句碑、そして有名な又玄(ゆうげん)の句碑が有る。<br />  <br />  古池や 蛙飛びこ水の音む     芭蕉<br /><br />  行春を あふミの人とおしみける  芭蕉<br />  <br />  旅に病んで 夢は枯野をかけめぐる  芭蕉の辞世の句<br /><br />  木曽殿と背中合わせの寒さかな   又玄<br /><br />義仲寺の入場券には無名庵で詠んだ芭蕉の句の一つが紹介いされている。<br /><br />  木曽の情 雪や生えぬく春の草<br /><br /><br />木曽(源)義仲はこの近くの琵琶湖の畔にあった栗津で、同じ源氏で従兄弟でもある源義経の軍勢に攻められ命を落とす。<br /><br />義仲の愛妾であり、武将としても義仲を助けた巴御前は、生きて義経方に捕えられるが、後に尼となり、ひっそり義仲の菩提を弔う墓を建て、墓のそばに義仲寺の土台となった草庵を結び、そこで一生を終えたと云われる。<br /><br />芭蕉は奥の細道の旅を終え、晩年度々琵琶湖湖南を中心に近江に足を運ぶが、その際巴御前の建てた草庵に寄宿し、ここを”無名庵”の名で、長期滞在の宿とする。<br /><br />芭蕉が大阪で客死した際、芭蕉が弟子たちに「義仲の墓の隣に葬る様に」と遺言した・・と”奥の細道を訪ねて”の旅の際、講師の先生に聞かされたし、そう記載された資料も多い。<br /><br />芭蕉は奥の細道での目的が三つあり、一つ目が「歌枕の地」、二つ目が「西行の旅程」を辿る事で、三つめが義経の足取りを訪ねることとは、これも講師の先生から再三聞かされたいた。<br /><br />芭蕉は平泉で中尊寺や金色堂参拝を差し置いて、真っ先に訪れるのが義経最期の地”高館義経堂”と云う程の義経びいきである。<br /><br />奥の細道で義仲の名前が最初に現れるのは、牛の計の奇襲で義仲が平家に勝利した倶梨伽羅峠だと思う。<br /><br />同じような幼いころの生い立ちと、同じような悲劇的な終末を迎える義経と義仲の二人だが、芭蕉は何故再三登場する義経では無く、奥の細道の後半に漸く登場する義仲の墓の傍に眠りたいと考えるに至ったのか、長いこと不思議に思っていた。<br /><br />今回の旅でその疑問が漸く溶解したように思う。<br /><br />芭蕉は「義仲の墓のそばに・・」と云ったかも知れないが、それは義仲の墓自体を指すのではなく、芭蕉が晩年こよなく愛した近江に永眠りたい。<br /><br />その場所は長いこと滞在した”無名庵”もあり、その上義仲の墓もある義仲寺が最も相応しい・・と考えたからに相違ないと。<br /><br />私の今回の喜寿記念の旅はこれで予定の全て終わる。<br /><br />膳所駅からJRも連絡しているが、新快速に乗るには石山駅で乗り換え、米原で新幹線に乗り継ぐのだが、連絡が悪く、米原で1時間近く待たされる羽目になった。<br /><br /><br /><br /><br />

奥の細道を訪ねて付録・芭蕉が愛し、永眠する琵琶湖湖南エリア06芭蕉永眠の地・義仲寺

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2013/09/27 - 2013/09/27

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WT信

WT信さん

再び京阪電車石坂線で膳所駅まで戻る。

義仲寺は膳所駅前の商店街を辿った先の、居並ぶ商店街や住宅に紛れるように建つが、庭で草花に水を呉れていた義仲寺の住職によると、昔はこの辺りはすぐ目の前まで琵琶湖が迫っていた、侘しい村だったらしい。

朝敵となって討たれた義仲の墓は兎も角、芭蕉の墓も予想以上にこじんまりしていたが、芭蕉の墓らしいとも言えるのかもしれない。

二人の墓の前に2棟の草庵風の建物が有り、手前が義仲を祀った朝日堂で、奥が正面に芭蕉の坐像を安置した”翁堂”。

庭の多くの門徒たちの句碑に交って、芭蕉の句碑、そして有名な又玄(ゆうげん)の句碑が有る。
  
  古池や 蛙飛びこ水の音む     芭蕉

  行春を あふミの人とおしみける  芭蕉
  
  旅に病んで 夢は枯野をかけめぐる  芭蕉の辞世の句

  木曽殿と背中合わせの寒さかな   又玄

義仲寺の入場券には無名庵で詠んだ芭蕉の句の一つが紹介いされている。

  木曽の情 雪や生えぬく春の草


木曽(源)義仲はこの近くの琵琶湖の畔にあった栗津で、同じ源氏で従兄弟でもある源義経の軍勢に攻められ命を落とす。

義仲の愛妾であり、武将としても義仲を助けた巴御前は、生きて義経方に捕えられるが、後に尼となり、ひっそり義仲の菩提を弔う墓を建て、墓のそばに義仲寺の土台となった草庵を結び、そこで一生を終えたと云われる。

芭蕉は奥の細道の旅を終え、晩年度々琵琶湖湖南を中心に近江に足を運ぶが、その際巴御前の建てた草庵に寄宿し、ここを”無名庵”の名で、長期滞在の宿とする。

芭蕉が大阪で客死した際、芭蕉が弟子たちに「義仲の墓の隣に葬る様に」と遺言した・・と”奥の細道を訪ねて”の旅の際、講師の先生に聞かされたし、そう記載された資料も多い。

芭蕉は奥の細道での目的が三つあり、一つ目が「歌枕の地」、二つ目が「西行の旅程」を辿る事で、三つめが義経の足取りを訪ねることとは、これも講師の先生から再三聞かされたいた。

芭蕉は平泉で中尊寺や金色堂参拝を差し置いて、真っ先に訪れるのが義経最期の地”高館義経堂”と云う程の義経びいきである。

奥の細道で義仲の名前が最初に現れるのは、牛の計の奇襲で義仲が平家に勝利した倶梨伽羅峠だと思う。

同じような幼いころの生い立ちと、同じような悲劇的な終末を迎える義経と義仲の二人だが、芭蕉は何故再三登場する義経では無く、奥の細道の後半に漸く登場する義仲の墓の傍に眠りたいと考えるに至ったのか、長いこと不思議に思っていた。

今回の旅でその疑問が漸く溶解したように思う。

芭蕉は「義仲の墓のそばに・・」と云ったかも知れないが、それは義仲の墓自体を指すのではなく、芭蕉が晩年こよなく愛した近江に永眠りたい。

その場所は長いこと滞在した”無名庵”もあり、その上義仲の墓もある義仲寺が最も相応しい・・と考えたからに相違ないと。

私の今回の喜寿記念の旅はこれで予定の全て終わる。

膳所駅からJRも連絡しているが、新快速に乗るには石山駅で乗り換え、米原で新幹線に乗り継ぐのだが、連絡が悪く、米原で1時間近く待たされる羽目になった。




同行者
一人旅
交通手段
新幹線 JR特急 JRローカル 私鉄
旅行の手配内容
個別手配

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