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都営三田線新板橋駅から徒歩約8分、丹船山・東光寺(とうこうじ、東京都板橋区板橋)境内には関ヶ原合戦で西軍の将として戦い小早川秀秋(こばやかわ・ひであき、1582~1602)の裏切りに遭い、武運なく敗退し後に徳川家康に八丈島に配流された宇喜多秀家(うきた・ひでいえ、1573~1655)の供養塔があります。<br /><br />そもそも宇喜多氏は備前の豪族である三宅氏の後裔と言われていますが正確なところは不明で、歴代のなかで能家(よしいえ、生誕不詳~1354)あたりから活躍の動きが見えてきます。<br /><br />15世紀末の備前国は守護大名赤松氏の守護代として浦上氏が支配する中、能家は浦上氏に属して浦上氏の勢力拡大に尽力をして宇喜多氏の存在を顕著なものとしますが、天文3年(1534)敵陣から攻められ自害、嫡男興家(おきいえ、生誕不詳~1536)は息子直家(なおいえ、1529~1582)共々備後に逃れ一族の再興を期するため一時的に身を隠すことになります。<br /><br />永禄11年(1568)直家は虎倉城主伊賀久隆と共に金川城を攻め松田氏を攻め滅ぼし、更に岡山城を攻め金光宗高をも滅亡に追い込みます。<br /><br />天文元年(1573)美作国に尼子氏及び毛利氏が侵入、浦上氏は織田信長と手を結ぶこととなりこれに反発して直家は毛利氏に属します。<br /><br />天正5年(1577)直家は天神山城に拠る主家浦上宗景(うらかみ・むねかげ、生没不詳)を攻めたて更に津山の浦上方の三星城主後藤勝基(ごとう・勝本、1538~1579)を攻め滅ぼし直家の代になって備前・美作・播磨の一部を支配下に置きます。<br /><br />畿内を支配下に置いた織田信長は中国地方における支配権獲得の方針を打ち出し、羽柴秀吉を派遣させ播磨を勢力圏に収め備前に迫る勢いを示します。<br /><br />ここで直家は従来通り毛利氏の下で戦うかまたは新進気鋭の織田氏に属して戦うかその選択を迫られ、直家は織田方に降ることに決定します。<br /><br />織田方の司令官である羽柴秀吉に付き従い秀吉軍と共に侵入してくる毛利軍に対し苦戦をしながらも食い止めることに成功します。<br /><br />上記の戦況のなか直家は天正10年(1582)病死、10歳の八郎(後の秀家)は秀吉の後見を受けて成長、元服して秀家と称することになりやがて秀吉の養女豪姫(実父は前田利家)を妻に迎えます。<br /><br />秀吉の死後は五大老の一人として徳川家康の専制的な言動に反対、関ヶ原の戦いでは西軍の将として兵を率いて家康軍と戦いますが西軍内部裏切により敗退となります。<br /><br />合戦後改易を受けた秀家は敗走を続けやがて薩摩国島津氏の下に身を置くことになりますが、島津氏自身は関ヶ原での敵中突破を家康に釈明し本領安堵を勝ち取る重要問題が控えているなか状況は極めて微妙な立場となっています。<br /><br />したたかな家康に対し最終的に家康自らしたためた本領安堵の起請文を手にした島津氏は今まで匿っていた秀家を家康のもとに送り、同時に助命を願う旨要望を出します。<br /><br />慶長8年(1603)征夷大将軍となった家康は大坂城に籠る豊臣秀頼(とよとみ・ひでより、1593~1615)及び豊臣恩顧武将の存在を気にしており熟慮の末死罪とせず八丈島への配流と決定、秀家親子の他医師、乳母含め10名が八丈島へ送られます。<br /><br />八丈島での生活は厳しく、秀家の妻豪姫の実家である加賀藩前田家が幕府の許可を得て限られた品目と数量の仕送りすることで彼らを支えていたようです。<br /><br />秀家は江戸時代は罪を許されることなく明暦元年(1655)に83歳で病死します。<br /><br />板橋区ホームぺージによりますと明治5年(1872)11月、明治政府から罪を許された秀家の子孫たちは、秀家の妻が前田利家の娘であった事で前田家から約2万坪の土地と当面の生活費が与えられ、旧加賀藩下屋敷跡に入植、この秀家の供養塔はその時に建立されたものと考えられます。<br /><br />当初は彼らが入植した旧加賀藩下屋敷跡の一角に建立されたようですがその後所在地が転々とし、昭和33年(1958)に東光寺に移設されました。<br /><br /><br />2022年10月22日追記<br /><br />境内に建てられた説明板には下記の如く記述されています。<br /><br />『 東 光 寺<br /><br />御本尊 阿弥陀如来(あみだにょらい)<br />宗 派 浄土宗(じょうどしゅう)<br />丹船山薬王樹院(たんせんさんやくおうじゅいん)<br /><br />創建年次は不明ですが、寺伝によると延徳2年(1491)に入寂した天誉和尚が開山したといわれています。当初は、船山(現、板橋3-42)あたりにありましたが、延宝7年(1679)、加賀前田家下屋敷の板橋移転に伴って現在の場所に移りました。移転当時は、旧中山道に面した参道に沿って町家が並び賑やかであったようです。しかし明治初期の大火や関東大震災による火災、そして第二次世界大戦による火災と、たび重なる火災や区画整理のため現在では往時の姿をうかがうことはできません。なお山号の丹船山は、地名船山に由来しています。<br /><br />境内には、昭和58年度。板橋区の有形文化財に指定された寛文2年(1662)の庚申塔と」平成7年度、板橋区の有形文化財に登録された石造地蔵菩薩坐像、明治になって子孫が供養の為に建立した宇喜田秀家の墓などがあります。<br /><br />   平成9年3月<br />             板橋区教育委員会 』

武蔵板橋 配流先八丈島で屈強に生き続けた武人で関ヶ原合戦西軍副将を務めた関白秀吉の養子宇喜多秀家供養搭が安置される『東光寺』散歩

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2014/03/03 - 2014/03/03

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滝山氏照

滝山氏照さん

都営三田線新板橋駅から徒歩約8分、丹船山・東光寺(とうこうじ、東京都板橋区板橋)境内には関ヶ原合戦で西軍の将として戦い小早川秀秋(こばやかわ・ひであき、1582~1602)の裏切りに遭い、武運なく敗退し後に徳川家康に八丈島に配流された宇喜多秀家(うきた・ひでいえ、1573~1655)の供養塔があります。

そもそも宇喜多氏は備前の豪族である三宅氏の後裔と言われていますが正確なところは不明で、歴代のなかで能家(よしいえ、生誕不詳~1354)あたりから活躍の動きが見えてきます。

15世紀末の備前国は守護大名赤松氏の守護代として浦上氏が支配する中、能家は浦上氏に属して浦上氏の勢力拡大に尽力をして宇喜多氏の存在を顕著なものとしますが、天文3年(1534)敵陣から攻められ自害、嫡男興家(おきいえ、生誕不詳~1536)は息子直家(なおいえ、1529~1582)共々備後に逃れ一族の再興を期するため一時的に身を隠すことになります。

永禄11年(1568)直家は虎倉城主伊賀久隆と共に金川城を攻め松田氏を攻め滅ぼし、更に岡山城を攻め金光宗高をも滅亡に追い込みます。

天文元年(1573)美作国に尼子氏及び毛利氏が侵入、浦上氏は織田信長と手を結ぶこととなりこれに反発して直家は毛利氏に属します。

天正5年(1577)直家は天神山城に拠る主家浦上宗景(うらかみ・むねかげ、生没不詳)を攻めたて更に津山の浦上方の三星城主後藤勝基(ごとう・勝本、1538~1579)を攻め滅ぼし直家の代になって備前・美作・播磨の一部を支配下に置きます。

畿内を支配下に置いた織田信長は中国地方における支配権獲得の方針を打ち出し、羽柴秀吉を派遣させ播磨を勢力圏に収め備前に迫る勢いを示します。

ここで直家は従来通り毛利氏の下で戦うかまたは新進気鋭の織田氏に属して戦うかその選択を迫られ、直家は織田方に降ることに決定します。

織田方の司令官である羽柴秀吉に付き従い秀吉軍と共に侵入してくる毛利軍に対し苦戦をしながらも食い止めることに成功します。

上記の戦況のなか直家は天正10年(1582)病死、10歳の八郎(後の秀家)は秀吉の後見を受けて成長、元服して秀家と称することになりやがて秀吉の養女豪姫(実父は前田利家)を妻に迎えます。

秀吉の死後は五大老の一人として徳川家康の専制的な言動に反対、関ヶ原の戦いでは西軍の将として兵を率いて家康軍と戦いますが西軍内部裏切により敗退となります。

合戦後改易を受けた秀家は敗走を続けやがて薩摩国島津氏の下に身を置くことになりますが、島津氏自身は関ヶ原での敵中突破を家康に釈明し本領安堵を勝ち取る重要問題が控えているなか状況は極めて微妙な立場となっています。

したたかな家康に対し最終的に家康自らしたためた本領安堵の起請文を手にした島津氏は今まで匿っていた秀家を家康のもとに送り、同時に助命を願う旨要望を出します。

慶長8年(1603)征夷大将軍となった家康は大坂城に籠る豊臣秀頼(とよとみ・ひでより、1593~1615)及び豊臣恩顧武将の存在を気にしており熟慮の末死罪とせず八丈島への配流と決定、秀家親子の他医師、乳母含め10名が八丈島へ送られます。

八丈島での生活は厳しく、秀家の妻豪姫の実家である加賀藩前田家が幕府の許可を得て限られた品目と数量の仕送りすることで彼らを支えていたようです。

秀家は江戸時代は罪を許されることなく明暦元年(1655)に83歳で病死します。

板橋区ホームぺージによりますと明治5年(1872)11月、明治政府から罪を許された秀家の子孫たちは、秀家の妻が前田利家の娘であった事で前田家から約2万坪の土地と当面の生活費が与えられ、旧加賀藩下屋敷跡に入植、この秀家の供養塔はその時に建立されたものと考えられます。

当初は彼らが入植した旧加賀藩下屋敷跡の一角に建立されたようですがその後所在地が転々とし、昭和33年(1958)に東光寺に移設されました。


2022年10月22日追記

境内に建てられた説明板には下記の如く記述されています。

『 東 光 寺

御本尊 阿弥陀如来(あみだにょらい)
宗 派 浄土宗(じょうどしゅう)
丹船山薬王樹院(たんせんさんやくおうじゅいん)

創建年次は不明ですが、寺伝によると延徳2年(1491)に入寂した天誉和尚が開山したといわれています。当初は、船山(現、板橋3-42)あたりにありましたが、延宝7年(1679)、加賀前田家下屋敷の板橋移転に伴って現在の場所に移りました。移転当時は、旧中山道に面した参道に沿って町家が並び賑やかであったようです。しかし明治初期の大火や関東大震災による火災、そして第二次世界大戦による火災と、たび重なる火災や区画整理のため現在では往時の姿をうかがうことはできません。なお山号の丹船山は、地名船山に由来しています。

境内には、昭和58年度。板橋区の有形文化財に指定された寛文2年(1662)の庚申塔と」平成7年度、板橋区の有形文化財に登録された石造地蔵菩薩坐像、明治になって子孫が供養の為に建立した宇喜田秀家の墓などがあります。

   平成9年3月
             板橋区教育委員会 』

交通手段
JRローカル 徒歩

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  • 東光寺正面<br /><br />寺伝によれば延徳3年(1491)天誉上人の開山といわれています。初めは船山(現在の板橋3丁目にありましたが前田家下屋敷が移転に伴い延宝7年(1679)に現在地に移転、その後戦争による焼失で堂宇は焼失、昭和57年(1982)にコンクリート造りとして再建されています。

    東光寺正面

    寺伝によれば延徳3年(1491)天誉上人の開山といわれています。初めは船山(現在の板橋3丁目にありましたが前田家下屋敷が移転に伴い延宝7年(1679)に現在地に移転、その後戦争による焼失で堂宇は焼失、昭和57年(1982)にコンクリート造りとして再建されています。

  • 東光寺・境内<br /><br />手狭な境内には石塔を始めとしてお墓が迫っています。

    東光寺・境内

    手狭な境内には石塔を始めとしてお墓が迫っています。

  • 東光寺・説明板

    東光寺・説明板

  • 東光寺・寺額<br /><br />正面の本堂に掲載の扁額には「東光寺」が掲載されています。宗派は浄土宗でご本尊は阿弥陀如来となっています。

    東光寺・寺額

    正面の本堂に掲載の扁額には「東光寺」が掲載されています。宗派は浄土宗でご本尊は阿弥陀如来となっています。

  • 宇喜多秀家供養塔<br /><br />室が加賀前田利家の娘だったことから当初秀家の供養塔は前田家下屋敷に建てられ、その後下屋敷の移転を機に当該寺に移ったようです。<br />

    イチオシ

    宇喜多秀家供養塔

    室が加賀前田利家の娘だったことから当初秀家の供養塔は前田家下屋敷に建てられ、その後下屋敷の移転を機に当該寺に移ったようです。

  • 宇喜多秀家供養塔(左側)<br />

    宇喜多秀家供養塔(左側)

  • 宇喜多秀家供養塔(右側)<br />

    宇喜多秀家供養塔(右側)

  • 石造地藏菩薩坐像(全景)<br /><br />板橋区の有形文化財指定されています。<br /><br />

    石造地藏菩薩坐像(全景)

    板橋区の有形文化財指定されています。

  • 石造地藏菩薩坐像(近景)

    石造地藏菩薩坐像(近景)

  • 庚申塔<br /><br />寛文2年(1662)の建立で板橋区の有形文化財に指定されています。

    庚申塔

    寛文2年(1662)の建立で板橋区の有形文化財に指定されています。

  • 庚申塔

    庚申塔

  • 寛文の庚申塔

    寛文の庚申塔

  • 寛文の庚申塔<br /><br />寛文2年(1662)の造立、.金剛を中心に日月・二童子・二鬼・四夜叉・一猿・一鶏が彫りあげています。

    寛文の庚申塔

    寛文2年(1662)の造立、.金剛を中心に日月・二童子・二鬼・四夜叉・一猿・一鶏が彫りあげています。

  • 寛文の庚申塔<br /><br />右側に造立者の名が刻されています。(よく読めません)

    寛文の庚申塔

    右側に造立者の名が刻されています。(よく読めません)

  • 寛文の庚申塔<br /><br />左側には造立年次が刻されています。(よく読めません)

    寛文の庚申塔

    左側には造立年次が刻されています。(よく読めません)

  • 石碑

    石碑

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