2007/11/30 - 2007/11/30
189位(同エリア249件中)
ムッシュさん
旧街道「中山道」を日本橋より板橋宿までウォーキングした。
都心部だけに、道中に昔の面影は有る訳もありませんが、点々と
ある記念史跡を辿りながらの歩みです。
普段歩くこともないコースですので、拙い歴史知識をかき出しながらお勉強がてらの観光です。
板橋宿
本陣1、脇本陣3、旅籠54、家数573
- 同行者
- 社員・団体旅行
- 交通手段
- 徒歩
- 旅行の手配内容
- その他
-
著作権フリー作品「木曽街道六十九次」からの画像を使用しています
ここは日本橋。
【木曽街道続ノ壱 日本橋 雪之曙 英泉画】
日本橋川の北岸には魚河岸があり、漆喰塗の荷蔵が軒を連ねている。
橋上には天秤棒で寒鰤(かんぶり)を担ぐ魚屋の姿も。 -
スタートの【日本橋】です。この首都高速道路も景観回復のためにその内撤去される予定。
1603年(慶長8)に,徳川家康が江戸東側の海岸地帯を埋め立てて町割りを行った際に架けた橋で,江戸の真ん中にあり日本橋と呼ばれる -
日本道路元標。中山道起点。中山道は国道4号線中央通りを北に進みます。
-
日本橋三越前交差点の歩道に立つ。
-
秋葉原電気店街付近。
-
【神田明神随神門】
「神田明神」の名で親しまれている古社。天平2年(730)創建。ニ代将軍徳川秀忠以降、歴代将軍の尊崇も厚く、江戸の総鎮守として栄えてきた。江戸三大祭りの一つとして知られる神田祭は毎年5月中旬に催される。 -
湯島聖堂の向いが【神田明神】
天平2年(730年)の創建、平将門を祀ってる。江戸城の鬼門の守護神で、江戸総鎮守。江戸三大祭(山王祭、深川祭)の一つ神田祭の神輿は江戸城内に入り将軍が上覧した。
社殿右脇に国學發祥之地碑がある。荷田春満(かだのあずままろ)が門人の神田明神神主宅に国学の教場を開いた。
銭形平次碑があります、平次の住いは、明神下の元の台所町という設定です。
*平将門を三ノ宮としていることから江戸庶民に人気があった特に神田祭は天下一の祭礼(天下祭、御用祭)として有名。
神田明神は730年(天平2),武蔵の国豊島郡芝崎,現在の千代田区大手町将門塚周辺に大巳貴命を祭神として創建。約200年後,平将門が俵藤太に討たれ,その首が京都で晒されたがこれを奪い返して塚を築き葬った。さらに1309年(延慶2)には将門公の霊をも祀り,神田明神と名付けた。
【湯島聖堂】
寛永7年(1630)林羅山が上野忍ケ岡(しのぶがおか)に立てた家塾が始まりで、現在は国の史跡に指定。元禄3年(1690)には五代将軍綱吉によって湯島に移転。寛政9年(1797)に幕府直轄の学校「昌平坂学問所」が開設された際に、孔子廟(大成殿)関係のものだけを聖堂と称するようになった。 -
現在の【かねやす】さん。
本郷通りと春日通りの交差点角にある女性の洋服、雑貨店となっています。店の名前も、そのまま「かねやす」です。
享保年間(1716~36)兼康祐悦という歯科医が乳香散という歯磨き粉を売り出し評判となった。後に、芝神明前の兼康との間に元祖争いが生じた際、時の町奉行大岡越前守は本郷は仮名でかねやす、芝は漢字で兼康、と粋な裁決を下しました。
享保十五年(1730)江戸に大火があり、防火上から時の町奉行大岡越前守は本郷三丁目から江戸城にかけての家屋は塗屋(ぬりや)・土蔵造りを奨励し、屋根は茅葺きを禁じ、瓦葺きとしました。江戸の町並みは本郷までが瓦葺き,それから先の中山道は板や茅葺きの家が続いた。その境目の大きな土蔵のある「かねやす」が目立ち、これにより「本郷も かねやすまでは 江戸の内」と詠われました。 -
【江戸の川柳に「本郷もかねやすまでは江戸のうち」と川柳にうたわれ有名】春日通と本郷通りの交差点です。
江戸時代、内口中医師(今の歯科医)兼康裕悦がここで乳香散という歯磨き粉を
売り出したら江戸中の評判になった由
町奉行より本郷までは塗屋、土蔵造りを勧め、屋根は茅葺を禁止し瓦葺とした
その境目がこの「かねやす」で、当時は大きな土蔵があった
旧中山道沿いは板や茅葺の家並みとなっていた -
-
日本の最高学府、東京大学の【赤門】です。
この門を潜って東大にすんなり入っちゃいました。受験は大変だけど、歩いて入るのは簡単でした。でも、構内のセキュリティガードマンがじっとこちらを見てました。
東京大学の敷地は加賀藩上屋敷跡です。
当地は、加賀藩前田家が元和2年(1616)に幕府より拝領された土地で、当初は下屋敷でしたが、天和3年(1783)より上屋敷となる。
文政10年(1827)加賀藩主前田斎泰にとついだ11代将軍徳川家斎の息女溶姫のために建てられた朱塗りの御守殿門であり、重要文化財に指定されています。
表門の【黒門】に対して赤門と呼ばれた。屋根の上の棟瓦には葵の紋、軒の丸瓦には前田家の家紋梅鉢がつけてある。将軍家から嫁をとる際,朱で赤く塗り上げた門,赤門を建てる決まりがあった。赤門は焼けても再建は許されない為,残っているのはここ東大の赤門だけである。
本郷三丁目から赤門がある本郷5町目にかけての本郷通りは「見送り坂」・「見返り坂」の名があって、江戸に別れを告げる往時の旅情がしのばれる。加賀藩藩主前田斉泰(なりやす)の上屋敷で、正室は徳川11代将軍家斉の娘で、二人の祝言の際に、赤門は御守澱の門として建てられた。加賀藩上屋敷は「かねやす」よりもさらに外側にあり、江戸の外にあったことになる。
この近くに追分の一里塚があり、日本橋から約4km。 -
東大内のイチョウ。
-
東京大学安田講堂とイチョウです。
-
東大前の本郷通りに面する写真屋さんのウインドウに、現皇后陛下「雅子様」の学生時代の撮影写真が飾ってありました。ウインドー越しで見ずらいですが容赦を。
-
【追分一里塚】
日本橋より一里目
高崎屋の所に追分一里塚跡解説があります、塚木は榎でしたが、度々の災害と道路の拡張によって一里塚は消滅した。
ここにある高崎屋は、江戸時代から続く酒店で、両替商も兼ね「現金安売り」で繁昌した。
日光御成道(旧岩槻街道)との分かれ道で、中山道の最初の一里塚があった。中山道は本郷通りから左に折れて行く。 -
【真性寺】
真性寺の笠を被った大きな地蔵は、江戸六地蔵の一つで正徳4年(1714年)に建立された。「しら露もこぼれぬ萩のうねり培」の芭蕉の句碑がある。
【ほうろく地蔵尊】が安置されている。 ほうろく地蔵は火あぶりの刑に処せられた八百屋お七を供養する地蔵尊です。
お七の罪業(ざいごう)を救うために熱した焙烙(ほうろく 素焼きのふちの浅い土鍋)を頭にかぶり、自ら焦熱の苦しみを受けています。
後にこの地蔵尊は頭痛、眼病、耳、鼻の病など首から上の病に霊験あらたかとして知られるようになりました。 -
【八百屋お七の墓】
中央の小さめの墓石が、寺の住職が供養のために最初に建てたもの。
向かって右側の大きめの墓石は、寛政年間に、歌舞伎で「八百屋お七」を演じた岩井半四郎が建立したもの。
そして、左の四角い墓石は、近所の有志の人たちが、お七の270回忌の供養で建てたものだ。数え年16歳で炎につつまれた女性、お七。 -
ほうろく地蔵説明
【ほうろく地蔵尊】が安置されている。 ほうろく地蔵は火あぶりの刑に処せられた八百屋お七を供養する地蔵尊です。
お七の罪業(ざいごう)を救うために熱した焙烙(ほうろく 素焼きのふちの浅い土鍋)を頭にかぶり、自ら焦熱の苦しみを受けています。
後にこの地蔵尊は頭痛、眼病、耳、鼻の病など首から上の病に霊験あらたかとして知られるようになりました。
お七が処刑された36年後に、渡辺九兵衛という人が、供養のために寄進したらしい。 -
【真言宗豊山派真性寺】
【真性寺由緒沿革】
醫王山東光院真性寺と称し、奈良県にある総本山長谷寺の末寺。
開祖は、聖武天皇勅願行基菩薩開基と伝えられている。開基は元和元年(1615)祐遍法師。
本尊は薬師如来で、古来より秘仏として一切開扉されていない。江戸時代より弘法大師御府内八十八ヶ所第三十三番札所・江戸六地蔵参り第三番となっている。
巣鴨は中山道の江戸への入口にあたり、八代将軍徳川吉宗が度々鷹狩に来て、御膳所とされた。
【江戸六地蔵尊 第三番 縁起】
境内に安置されている江戸六地蔵尊第三番の像は、地蔵坊正元発願者となって、宝永3年(1705)造立の願を発してから、享保5年(1720)に至る15年間に、江戸御府内の多くの人々の寄進を集め造立された六体の大地蔵尊の一体で正徳4年(1714)に完成した。
境内の左手には寛政五年(1793)芭蕉百年忌に建立された芭蕉句碑
「白露も こぼれぬ萩の うねりかな」 があります。 -
ランチ場所
-
【巣鴨 真性寺】
巣鴨地蔵通りの入り口、真性寺には、「江戸六地蔵」のひとつがある。
270cmの大きなお地蔵様で、江戸時代中期に、これと同じ大きさのものが、江戸の出入口となる街道の6ヶ所に配置された。
そのうちの一つは明治期の廃仏毀釈で撤去されたものの、この真性寺のほかに4体、東海道の品川寺、奥州街道の東禅寺、甲州街道の太宗寺、水戸街道の霊厳寺にある。
宝永3年(1706年)、江戸深川の地蔵坊正元が江戸六地蔵作りを発願し、江戸市中から広くスポンサーを集め、一体ずつお地蔵様を製作し、街道の入り口に配置していったもの。
江戸六地蔵の一つである。
江戸六地蔵とは,江戸の六つの街道口に天下安全を祈願して安置された地蔵尊で,品川寺(東海道口)・太宗寺(甲州街道中口)・東禅寺(奥州道中口)・霊巌寺(水戸街道口)・永代寺(千葉街道口,現在は消滅)にある。 -
巣鴨地蔵の商店街
-
【本尊はとげぬき地蔵】
境内の洗い観音は患部と同じ場所をこすると病がなおるといわれ、今も行列が絶えない。明治24年(1891)下谷から移った曹洞宗萬頂山高岩寺。
本尊はとげぬき地蔵と呼ばれる秘仏です、地蔵の姿絵を飲むなり、患部に貼ればトゲが抜けたように痛みが取れるといいます。
境内には洗い観音、自身の患部と同じ個所を洗い清める
【洗い観音】
境内に立つ石造の聖観音(しょうかんのん)像で「洗い観音」と通称される。自身の治癒したい部分に相応する観音像の部分を洗う、または濡れタオルで拭くと利益があるという。かつては像の表面をタオルでなくたわしで擦っていたため、摩耗が激しく、2代目の像が製作された。現在の像は1992年(平成4年)に奉納されたもので、彫刻家・八柳尚樹の作。(Wikipedia)
【とげぬき地蔵の由来】
江戸時代、武士の田付又四郎の妻が病に苦しみ、死に瀕していた。又四郎が、夢枕に立った地蔵菩薩のお告げにしたがい、地蔵の姿を印じた紙1万枚を川に流すと、その効験あってか妻の病が回復したという。これが寺で配布している「御影」の始まりであるとされる。その後、毛利家の女中が針を誤飲した際、地蔵菩薩の御影を飲み込んだ所、針を吐き出すことができ、吐き出した御影に針が刺さっていたという伝承もあり「とげぬき地蔵」の通称はこれに由来する。そこから他の病気の治癒改善にも利益(りやく)があるとされ、現在に到るまでその利益を求めて高齢者を中心に参拝者が絶えない。(Wikipedia) -
【高岩寺】
「ろげぬき」の由来は、病身の妻を案じた男が地蔵尊の御影を一万体作って川に浮かべると、病がたちまち
治ったという。以来、地蔵の御影を患部に貼って祈願すれば「とげ」を抜いたように治るといわれてきた。
慶長元年(1596)扶岳太助が江戸神田湯島に創建。のちに下谷屏風坂(現・岩蔵高等学校)に移る。1891年(明治24)巣鴨に移転。1945年(昭和20年)空襲で全焼し、現本堂は1957年(昭和32)に再建された。 -
【巣鴨の庚申塚】
江戸時代、庚申信仰は庶民の間に深く浸透していた。巣鴨の庚申塔は文亀2年(1502)に建立されたが大火で失う。現在は再建されて祠の仲に安置されてる。 -
-
【三猿(見ざる、言わ猿、聞か猿)】
道と旅人の神様、猿田彦大神が祭られているところだ。
「花の名所」飛鳥山に向かう王子道との交差点にあり、江戸時代には道しるべを兼ねた庚申塚が建っていた。
庚申塚の多くは、道教由来の「庚申講」を、3年間18回続けた記念に建立された。
60日に一度巡ってくる庚申(かのえさる)の日の夜、人体内にすむ三尸虫(さんしちゅう)が、寝ている間に天帝にその人間の悪事を報告しに行くとされていて、それを避けるために、村中で集まって夜通し祈ったり、宴会をしたりする風習。
平安時代から行われ、当初は公家や僧侶が、すごろくや詩歌・管弦を夜通しやって楽しんでいたものが、江戸時代になって民間に普及。
おそらく多くの日本人は、それを口実にして、娯楽や親睦の機会を得たかったに違いない。この「徹夜の親睦会」は、「誰もが天帝に報告されるとマズイ後ろ暗いところを持っている」ということから、会話を楽しんでいた。
「見なかったこと。聞かなかったこと。そして、人にも天帝にも内緒にしておいて。」
ユーモラスな3匹の猿の台座の上で、庚申塚の「狛猿」が「人情味のある」表情でこちらを見ている。 -
【都電荒川線の「庚申塚」】踏み切りより。
都営荒川線を庚申塚踏切で渡ると、左手が庚申塚駅です、都営荒川線は東京都内に残る唯一の路面電車です。 -
通りで見つけた、珍しい会社名で、記念にパチリ。
「(株)亀の子束子西尾商店」と描いてあります。
いろんな束子(たわし)を扱う専門商店のようです。
、明治40年(1907)の創業で、亀の子束子の元祖です! -
この二股の右を進むと、板橋宿です。
日本橋を出て最初の宿場。通常見送りの者はこの宿場まで同行することになっていた。また江戸4宿の一つで、遊女をおくことが公認されていた。 -
-
板橋区観光センター入口です。
【中山道板橋宿の成立】
慶長8年(1603)に将軍となった徳川家康は、江戸に幕府を開き、同地を中心として交通網の整備を始めます。中山道板橋宿は、同15年に出された継立荷物の賃銭の定書にその名がみられ、この時すでに宿駅としての機能が整っていたことがうかがえます。しかしながら本格的な宿場の整備は、元和年間以降(1615~)に行われたと考えられています。
宿場の整備が始まる前後には、板橋を舞台として将軍秀忠・家光の二代にわたり、一回の獲物が数百頭にのぼる大規模な鹿狩りが行われています。その場所は宿場の西方に広がっていた御林が中心であったと考えられます。後にこの御林40町歩(約12万坪)は、番場村(後の板橋宿中宿)の名主であった飯田家(問屋兼務)に下賜されたといわれています。これにより下板橋村(宿)は中宿を中心として開発や整備がすすめられました。宝永元年(1704)、飯田家は本陣をつとめる新左衛門家と名主・問屋・脇本陣をつとめる宇兵衛家に分かれ、以降幕末まで両家によって板橋宿の宿場機能の中心であった中宿を管理する体制となりました。
一方で、平尾村(後の板橋宿平尾宿)には三河国出身で家康の関東入国とともに移住してきたという豊田孫右兵衛門家があり、その子孫とされる豊田市右兵衛門家が平尾宿の名主・問屋・脇本陣をつとめ、「平尾の玄関」と呼ばれていました。また上宿には中世武士、豊嶋氏の出自である板橋市左衛門家があって、後に板橋宿上宿名主・問屋・脇本陣をつとめました。 -
-
【近藤勇の墓所】東京都北区指定有形文化財(歴史資料)
*東海道赤坂宿の先、本宿の「法蔵寺」に、近藤勇の首塚として、埋葬されている。板橋の胴体と、赤坂宿の首で一体となる。
*説明板によると、ここにある供養塔は、新撰組のひとり、永倉新八が発起人となって建造したもので、「戦術方針の相違から一度は袂を分った永倉ですが、晩年は戦友を弔う日々を送ったと伝えられています」と書いてある。
*千葉県流山で捕えられた近藤勇は,慶応4年(1868)4月25日,平尾(現板橋区板橋)の板橋刑場で官軍により処刑され,その遺体は滝野川4-18寿徳寺に埋葬されたという。この供養塔は,隊士の一人であり戦術方針の違いから一度は袂を分かった永倉(本名長倉)新八が発起人となり明治9年(1876)5月に造立された。近藤勇のほか,数多くの新撰組ゆかりの者達が祀られてい* -
【近藤勇と新選組隊士供養塔】
慶応4年(1868)4月25日、新撰組組長であった近藤勇は、中山道板橋宿手前の平尾一里塚付近に設けられた刑場で官軍により斬首処刑されました。その後、首級は京都に送られ胴体は刑場より少し離れたこの場所に埋葬されました。
本供養塔は没後の明治9年(1876)5月に隊士の一人であり近藤に私淑していた永倉(本名長倉)新八が発起人となり旧幕府御典医であった松本順の協力を得て造立されました。高さ3.6m程ある独特の細長い角柱状で、四面の全てにわたり銘文がみられます。正面には、「近藤勇 冝昌 土方歳三義豊 之墓」と刻まれており、副長の土方歳三の名も近藤勇の右に併記されています。なお近藤勇の諱である昌宣が冝昌とされていることについては明らかになっていません。右側面と左側面には、それぞれ八段にわたり井上源三郎を筆頭に合計百十名の隊士などの名前が刻まれています。裏面には、当初は「近藤 明治元年辰四月廿五日 土方 明治二年巳五月十一日 発起人 旧新撰組長倉新八改杦村義衛 石工 牛込馬場下横町平田四郎右衛門」と刻まれていましたが、一部は現在分かりにくくなっています。
戦術方針の相違から一度は近藤と袂を分かった永倉ですが、近藤勇のほか数多くの新撰組ゆかりの者たちが祀られているので、新撰組研究を行う祭の基本資料とされ、学術性も高く貴重な文化財です。 -
【旧新撰組長倉新八の墓碑】
慶応4年(1868)4月25日、元新選組局長・近藤勇は板橋で新政府軍に捕らえられ、中山道板橋宿平尾一里塚付近の刑場で斬首され、その首は京都に送られ三条河原にさらされ、胴体は刑場から少し離れたこの場所に埋葬されました。
この供養塔は明治9年(1876)に元新選組隊士で近藤の盟友であった永倉新八が建立したものです。永倉新八と近藤勇。最後は仲違いしてそれぞれの道を行きましたが、やはり永倉氏の中では、同志として激動の時代を生き抜いてきた近藤の汚名をはらい、供養してやりたいという気持ちがあったんでしょう。
この石碑には近藤勇の諱が「宣昌」になって、しかもノブの上の点が無いですが、近藤勇の諱は昌宣(まさのぶ)です。なぜこうなっているのかは不明ということです。石碑の左右にはそれぞれ八段にわたり、井上源三郎はじめ新選組隊士110名の名が刻まれています。 -
著作権フリー作品「木曽街道六十九次」からの画像を使用しています
【木曽街道 板橋之驛 英泉画】
英泉は画面左端に従是板橋宿と記された傍示杭と中央に庚申塔を描いている。ここが板橋宿の江戸口(東口)です、板橋宿に到着です!
「江戸の四口に娼家あり品川を一、内藤新宿を二、千手を三、板橋を四」と評され、出迎えが「板橋と聞いて迎えが二人減り」と揶揄された。 -
この橋が、本物の”板橋”で、板橋区の名前の由来地である。
【板橋宿】
天保14年(1843頃)、板橋宿の宿内家数は573軒、うち本陣1、脇本陣2、旅籠54軒で、宿内人口は約2400人でした。
宿長は十五町四十九間(約1.7km)、宿並は上宿、仲宿、平尾宿の三宿で構成されました。
<<いたばし観光センターの展示資料より>>
板橋宿は文化・文政期(19世紀初頭)に記された『新編武蔵風土記稿』に「中山道第一之宿駅」とあるように江戸日本橋から数えて最初の宿駅でした。江戸の出入り口に当るところから、東海道品川宿などとともに「江戸四宿」の一つに数えられました。宿高は1087万石で、伝馬として50人・50匹が常備されていました。宿駅業務を行う問屋場に加えて、輸送荷物の重さ(貫目)を取りしまる貫目改所も置かれていました。宿場は南から平尾宿・中宿・上宿に三分されており、宿場全体の長さは15町49件(約1.7Km)で、現在のJR板橋駅西口から環状7号線周辺まで及んでいました。平尾には川越往還(街道)との追分があり、また石神井川を渡るところには「板橋」がかけられていました。
天保2年(1831)の段階での板橋宿の家数は475軒で、そのうちわけは本陣1軒(中宿飯田家)、脇本陣3軒(平尾宿豊田家・中宿飯田家・上宿板橋家)、宿役人7軒、寺院10軒(乗蓮寺・智清寺・東光寺・観明寺・文殊院・遍照寺・本寿院・日曜寺・玄宝院・香林庵)、百姓272軒、地借58軒、店借124軒となっていました。人口は2448人で、男女のうちわけは男性1053人、女性1396人と女性が多くなっています。文政12年(1829)の段階では「農業間商ならびに諸職人渡世」の家が全体の82%に上がっており、宿場の大多数の住民は旅籠・茶屋・料理屋・居酒屋・髪結・湯屋・遊女屋・質屋などの商売をしていました。
≪いたばし観光センターの展示資料より>
江戸四宿(品川・新宿・板橋・千住)のひとつとして,品川宿同様に「飯盛り女」の多い宿としてまた特別に「宿場女郎」も許可されたので,中山道の宿場としてのほか江戸町民の歓楽街としても賑わったという。 -
石神井川を渡る板橋より。
石神井川に架かる板橋に到着します、ここが板橋宿の起点です。
区名にもなった板橋は石神井川にかかる板の橋。
橋の袂には「距日本橋二里二十五町三十三間」と書かれた標柱が立っています、この標柱は板橋地域センター内に掲示されている古写真にも写っています。
板橋の地名はこの橋に由来しています、往時は長さ九間(約16.2m)、幅三間(5.4m)の木造太鼓橋でした、寛政十年(1798)と天保年間(1830~44)の二度改修が行われました。
石神井川は小平の花小金井に源を発し、流末は隅田川に落合います、護岸は桜並木になっています、板橋を渡ると仲宿から上宿に入ります。
*江戸時代の板橋は、太鼓状の木製の橋で、長さは9間(16.2m)、幅3間(5.4m)ありました。少なくとも寛政10年(1798)と天保年間の二度改修が行われたことが分かっています。近代に入ると、大正9年に新しい橋に架けかえられましたが、自動車の普及に対応するため、昭和7年に早くもコンクリートの橋に架けかえられました。現在の橋は、昭和47年に石神井川の改修工事の際、新しく架けかえられたものです。 -
中山道板橋宿上宿碑「これより南約830メートル平尾宿、これより南約250メートル仲宿」の標示
【中山道板橋宿上宿】
江戸時代の五街道の一つである中山道は、江戸と京を結ぶ大動脈として、人々の往来や物資の流通、文化の交流などをささえてきました。
板橋宿は中山道の第一番目の宿場であり、その長さは十五町四十九間(約1.7Km)でした。天保14年(1843)には人口2448人、家数573軒を数え、旅籠屋、料理屋や駕籠屋など様々な店舗が軒先を並べていました。板橋宿は日本橋方面から平尾宿・中宿・上宿に分かれており、石神井川にかかる板橋から現在の環状7号線あたりまでが上宿でした。
平成14年(2002)は、中山道に伝馬制度が成立したとされる慶長7年(1602)から400年目にあたり、それを記念して各宿に石碑を建立しました。 -
【縁切榎】
いつの頃からか、この木の下を通ると必ず不縁になると恐れられた場所。
縁切榎、男女の縁を切りたい時はこの榎の樹皮を煎じて相手に飲ませるとその願いが成就するといいます、榎の奥には榎大六天神が祀られています。
皇女和宮の降嫁の際には、この木を菰で覆い、迂回路を造成したと言われてる。
場宿は下宿(平尾宿)、仲宿、上宿の三つに別れていた
板橋からここまでが上宿で、有名な縁切り榎(えのき)のあるところである
京都から来ると、板橋宿の入口に当たるところである
中山道板橋宿の薄気味悪い名所として旅人に知られていたのがこの縁切榎である。いつの頃からか、この木下を嫁入り・婿入りの行列が通ると、必ず不縁になるとの信仰が生まれ、徳川家に降嫁の五十宮(いそのみや)・楽宮(さぎのみや)の行列はここを避けて通り、和宮の折には榎を菰で包み、その下を通って板橋本陣に入った。
この伝説の起こりは、初代の榎が槻の木と並んで生えていたため「エンツキ」と言われ、所在地である岩ノ坂を「イヤナサカ」としゃれ、これを縁切りに通わせたとする説と、富士に入山した伊藤身禄がこの木の下で妻子と涙の別れをしたからとする説がある。
現在の榎は三代目であるが、この木に祈ると男女の縁が切れるという信仰は今でも続いている。縁切榎です。悪縁を切るから縁切榎。男女の縁を切るときや断酒を誓う時に、この榎の樹皮をそぎ落として、どうかやめさせてください、縁切ってくださいと願うわけです。 -
【志村の一里塚】
今でも国道17号線の両側に対になって残っている。
国史跡に指定されている一里塚は全国で17ヶ所あり、志村の一里塚は、大正11年(1922年)にまっさきに国史跡に指定された。
日光御成街道北区西ヶ原の一里塚とともに完全な姿で保存されている。 -
【志村の一里塚跡】説明版より
慶長9年(1605年)街道の整備のときに設けられた。ここは日本橋より三里目(12km)。江戸に幕府を開いた徳川家康は、街道整備のため、慶長9年(1604)2月に諸国の街道に一里塚の設置を命じました。これにより、五間(約9m)四方、高さ一丈(約3m)の塚が江戸日本橋を起点として一里ごとに、道を挟んで二基ずつ築かれました。
志村の一里塚は、本郷森川宿、板橋宿平尾宿に続く中山道の第三番目に築かれたもので、天保元年(1830)の『新編武蔵風土記稿』では「中山道往還の左右にあり」と紹介されています。
幕末以来、十分な管理が行き届かなくなり、さらに明治9年(1876)に廃毀を命じた法が下されるに及び多くの一里塚が消滅していきましたが、志村の一里塚は昭和8年から行われた新中山道の工事の際に、周囲に石積がなされて土砂の流出をふせぐ工事が施されて保存され、現在に至っています。
今日、現存する一里塚は全国的にも非常に希なもので、都内では北区西ヶ原と志村の二ヶ所だけです。そのため交通史上の重要な遺跡として、大正11年(1922)に国の史跡に指定され、昭和59年に板橋区の史跡に登録されました。 -
【清水坂】
中山道で唯一街道の右側に富士山が見えた場所と言われる。昔は、結構色んな場所から富士山が見えたのでしょう。街道は西向き山回りだから、普通は進行方向左手に見えるのですが、・・・。
清水坂は急な下り坂で右回りヘヤピンカーブな所。日本橋を出立し最初の難所といわれた急な下り坂。
清水坂の名は、近くにある清水薬師から付けられている
清水坂は,京へ行く最初の急坂。隠岐殿坂・地蔵坂・清水坂と時代とともに呼び名を変えてきた。街道で唯一富士山を右手に一望できる場所で「右富士」と呼ばれる名所であったという。 -
次へ 中山道NO-2 蕨宿、浦和宿、大宮宿へ
https://ssl.4travel.jp/tcs/t/editalbum/edit/10231468/
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
45