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西武池袋線飯能駅から徒歩約20分、能仁寺(のうにんじ、埼玉県飯能市飯能)は文亀元年(1501)武蔵七党の一つ丹党の後裔で地元飯能を支配する中山家勝(なかやま・いえかつ、生没不詳)が諸国を巡歴していた名僧斧屋文達師を招いて創建したのが始まりとされています。<br /><br />その後嗣子の家範(いえのり、1548~1590)が父の菩提を弔うため本格的な寺院として体裁を整えたとされています。<br /><br />中山家勝とその息子家範が本拠飯能から様々な苦難を経て子孫代々に引き継がれ見事に開花した姿は見上げたものです。<br /><br />即ち家勝は関東管領山内上杉氏に仕えていましたが天文15年(1546)の河越城を巡る戦いで上杉憲政(うえすぎ・のりまさ、1523~1579)は小田原北条氏に敗れ上野国平井城に敗走、後ろ盾を失った家勝は小田原北条氏に属することになり、小田原北条氏が武蔵国から上野国さらに下野国に支配拡大に従い家勝は一族郎党を引き連れ転戦します。<br /><br />その後小田原北条氏三男氏照(うじてる、1540~1590)が武蔵滝山城を本拠とし武蔵国西南部に影響力を保有している守護代大石氏の養子という形で勢力を引継ぎます。<br /><br />いわゆる当地域では新参者の小田原北条氏は大石氏が永年に亘って培ってきた知名度を活用しながら社寺仏閣や農民等の支配力の浸透を深めていきます。<br /><br />永禄12年(1569)武田信玄が碓氷峠から南下し小田原を攻める際、別部隊として甲斐郡内を支配する小山田信茂(おやまだ・のぶしげ)率いる軍勢が未整備の小仏峠を越えて八王子に進入、甲州口からの攻勢に対抗する策を欠き後手にまわった氏照は急遽複数の重臣を高尾方面に派遣させますがその中に中山家範の名が入っています。(廿里の戦い)<br /><br />信玄による本拠滝山城侵入を許す結果を氏照は深く受け止め、折りから畿内を統一した後徳川家康を臣下に置き、次なる小田原北条氏への関与を行使する豊臣秀吉対抗する必要性もあって甲州口に面した山岳に防御性の高い新城・八王子城を造ります。<br /><br />天正18年(1590)秀吉の小田原征伐により新城の八王子城において秀吉の命を受けた前田利家(まえだ・としいえ、1538~1599)率いる北国軍の攻撃を受け中山家範ら防戦空しく全滅、家範も武闘及ばず自害するに至り、氏照を小田原に残したまま八王子城は落城を迎えます。<br /><br />やがて孤立を深めた小田原北条氏が開城降伏後関東に入府の徳川家康は、八王子城での家範の最期に深く感銘し遺児たちを探し出し、長男照守(てるもり、1570~1634)、二男信吉(のぶよし、1577~1642)を召し抱える事になります。<br /><br />照守は秀忠に仕えるなか慶長5年(1600)秀忠軍に従い真田軍と戦った折には上田七本槍に数えられる働きを示しますが軍紀違反で閑居の命を受けますが翌年には許されます。<br /><br />また照守は高麗八条流馬術の使い手であったので、秀忠に馬術を教え又三代家光にも手ほどきをし、慶長14年(1614)の大坂の陣では得意の馬術により戦功をあげ加増を受けます。<br /><br />寛永9年(1632)に鑓奉行に昇進、ついには3500石の旗本となります。<br /><br />照守の孫直張(なおはる)の第三子直邦(なおくに)が黒田家の養子となり五代将軍綱吉の側近として寺社奉行を勤め老中に昇任、次の直純(なおずみ)の代には中世に里見氏本拠であった上総久留里3万石城主となりその子孫は明治維新まで続きます。<br /><br />宝永2年(1705)12月将軍綱吉から50石の朱印状を受けて能仁寺は丹党一族の菩提寺とし繁栄を続けます。<br /><br /><br />2022年10月21日追記<br /><br />境内に建てられた当寺に関する内容は下記の通りです。<br /><br />『 能 仁 寺<br /><br />武陽山能仁寺は曹洞寺の寺院で、「新武蔵野風土記高」によると、文亀年中(1501~4年)に中山家勝が斧屋文達を招いて創建したとされる。天正19(1591)年、徳川家康より5石の朱印地が与えられるが、宝永2(1705)年、5代将軍綱吉の時に50石に加増される。それに力を尽くしたのが、家勝から4代後の中山直張の子で黒田家の養子となった直重(のち直邦)である。<br /><br />黒田家は、徳川綱吉が館林藩主であった時代に家老職であったため、直邦は綱吉が綱吉が将軍となってから、その小姓となって後破格の出世を遂げ、能仁寺を菩提寺とした。また、能仁寺13世泰州広基も綱吉の病気を快癒させるなど信頼が篤く、前天台座主一品公弁法親王直筆の山門額を賜っている。<br /><br />能仁寺は、近世を通じて曹洞宗関三ヶ寺の一つである龍穏寺の末寺であったが、飯能地方では20余の末寺をもつ有数の大寺であった。しかし、慶応3(1868)年の飯能戦争で旧幕府方の振武軍の本陣となったため伽藍は焼失し、現本堂は昭和11(1936)年29世荻野活道師によって再建された。 』

武蔵飯能 家康に取立られ信頼に応えて出世した中山照守の祖父家勝開基で丹党一族の菩提寺として黒田家養子で久留里城主直邦中興となる『能仁寺』散歩

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2014/02/21 - 2014/02/21

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滝山氏照

滝山氏照さん

西武池袋線飯能駅から徒歩約20分、能仁寺(のうにんじ、埼玉県飯能市飯能)は文亀元年(1501)武蔵七党の一つ丹党の後裔で地元飯能を支配する中山家勝(なかやま・いえかつ、生没不詳)が諸国を巡歴していた名僧斧屋文達師を招いて創建したのが始まりとされています。

その後嗣子の家範(いえのり、1548~1590)が父の菩提を弔うため本格的な寺院として体裁を整えたとされています。

中山家勝とその息子家範が本拠飯能から様々な苦難を経て子孫代々に引き継がれ見事に開花した姿は見上げたものです。

即ち家勝は関東管領山内上杉氏に仕えていましたが天文15年(1546)の河越城を巡る戦いで上杉憲政(うえすぎ・のりまさ、1523~1579)は小田原北条氏に敗れ上野国平井城に敗走、後ろ盾を失った家勝は小田原北条氏に属することになり、小田原北条氏が武蔵国から上野国さらに下野国に支配拡大に従い家勝は一族郎党を引き連れ転戦します。

その後小田原北条氏三男氏照(うじてる、1540~1590)が武蔵滝山城を本拠とし武蔵国西南部に影響力を保有している守護代大石氏の養子という形で勢力を引継ぎます。

いわゆる当地域では新参者の小田原北条氏は大石氏が永年に亘って培ってきた知名度を活用しながら社寺仏閣や農民等の支配力の浸透を深めていきます。

永禄12年(1569)武田信玄が碓氷峠から南下し小田原を攻める際、別部隊として甲斐郡内を支配する小山田信茂(おやまだ・のぶしげ)率いる軍勢が未整備の小仏峠を越えて八王子に進入、甲州口からの攻勢に対抗する策を欠き後手にまわった氏照は急遽複数の重臣を高尾方面に派遣させますがその中に中山家範の名が入っています。(廿里の戦い)

信玄による本拠滝山城侵入を許す結果を氏照は深く受け止め、折りから畿内を統一した後徳川家康を臣下に置き、次なる小田原北条氏への関与を行使する豊臣秀吉対抗する必要性もあって甲州口に面した山岳に防御性の高い新城・八王子城を造ります。

天正18年(1590)秀吉の小田原征伐により新城の八王子城において秀吉の命を受けた前田利家(まえだ・としいえ、1538~1599)率いる北国軍の攻撃を受け中山家範ら防戦空しく全滅、家範も武闘及ばず自害するに至り、氏照を小田原に残したまま八王子城は落城を迎えます。

やがて孤立を深めた小田原北条氏が開城降伏後関東に入府の徳川家康は、八王子城での家範の最期に深く感銘し遺児たちを探し出し、長男照守(てるもり、1570~1634)、二男信吉(のぶよし、1577~1642)を召し抱える事になります。

照守は秀忠に仕えるなか慶長5年(1600)秀忠軍に従い真田軍と戦った折には上田七本槍に数えられる働きを示しますが軍紀違反で閑居の命を受けますが翌年には許されます。

また照守は高麗八条流馬術の使い手であったので、秀忠に馬術を教え又三代家光にも手ほどきをし、慶長14年(1614)の大坂の陣では得意の馬術により戦功をあげ加増を受けます。

寛永9年(1632)に鑓奉行に昇進、ついには3500石の旗本となります。

照守の孫直張(なおはる)の第三子直邦(なおくに)が黒田家の養子となり五代将軍綱吉の側近として寺社奉行を勤め老中に昇任、次の直純(なおずみ)の代には中世に里見氏本拠であった上総久留里3万石城主となりその子孫は明治維新まで続きます。

宝永2年(1705)12月将軍綱吉から50石の朱印状を受けて能仁寺は丹党一族の菩提寺とし繁栄を続けます。


2022年10月21日追記

境内に建てられた当寺に関する内容は下記の通りです。

『 能 仁 寺

武陽山能仁寺は曹洞寺の寺院で、「新武蔵野風土記高」によると、文亀年中(1501~4年)に中山家勝が斧屋文達を招いて創建したとされる。天正19(1591)年、徳川家康より5石の朱印地が与えられるが、宝永2(1705)年、5代将軍綱吉の時に50石に加増される。それに力を尽くしたのが、家勝から4代後の中山直張の子で黒田家の養子となった直重(のち直邦)である。

黒田家は、徳川綱吉が館林藩主であった時代に家老職であったため、直邦は綱吉が綱吉が将軍となってから、その小姓となって後破格の出世を遂げ、能仁寺を菩提寺とした。また、能仁寺13世泰州広基も綱吉の病気を快癒させるなど信頼が篤く、前天台座主一品公弁法親王直筆の山門額を賜っている。

能仁寺は、近世を通じて曹洞宗関三ヶ寺の一つである龍穏寺の末寺であったが、飯能地方では20余の末寺をもつ有数の大寺であった。しかし、慶応3(1868)年の飯能戦争で旧幕府方の振武軍の本陣となったため伽藍は焼失し、現本堂は昭和11(1936)年29世荻野活道師によって再建された。 』

交通手段
私鉄 徒歩

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  • 天覧山ハイキング案内図<br /><br />案内図によれば能仁寺は天覧山の麓に建立されています。

    天覧山ハイキング案内図

    案内図によれば能仁寺は天覧山の麓に建立されています。

  • 能仁寺・山門<br /><br />「武陽山能仁禅寺」と刻された石柱が建立されてます。<br /><br />

    能仁寺・山門

    「武陽山能仁禅寺」と刻された石柱が建立されてます。

  • 能仁寺由緒・説明板

    能仁寺由緒・説明板

  • 能仁寺・山門(近景)

    能仁寺・山門(近景)

  • 能仁寺・寺柱

    能仁寺・寺柱

  • 能仁寺・扁額<br /><br />山号の「武陽山」と揮毫された扁額が眼に入ります。

    能仁寺・扁額

    山号の「武陽山」と揮毫された扁額が眼に入ります。

  • 能仁寺・参道<br /><br />左右に並んだ石燈籠がひっそりと迎えてくれています。

    能仁寺・参道

    左右に並んだ石燈籠がひっそりと迎えてくれています。

  • 能仁寺・参道<br /><br />参道を更に進みますが残雪に足を取られてスムーズに歩くことができません。

    能仁寺・参道

    参道を更に進みますが残雪に足を取られてスムーズに歩くことができません。

  • 能仁寺・参道<br /><br />参道途中で足を止めて山門方向を振り返ります。

    イチオシ

    能仁寺・参道

    参道途中で足を止めて山門方向を振り返ります。

  • 能仁寺・中雀門<br /><br />再建されたようで木材がまだ新しいようです。扉は閉鎖されていました。

    能仁寺・中雀門

    再建されたようで木材がまだ新しいようです。扉は閉鎖されていました。

  • 能仁寺・境内

    能仁寺・境内

  • 能仁寺・本堂<br /><br />正式には「漕洞宗武陽山能仁寺」と称されます。

    イチオシ

    能仁寺・本堂

    正式には「漕洞宗武陽山能仁寺」と称されます。

  • 能仁寺・境内<br /><br />天覧山の麓に確保された能仁寺敷地の広さは想像を超えるものがあります。<br />

    能仁寺・境内

    天覧山の麓に確保された能仁寺敷地の広さは想像を超えるものがあります。

  • 鬼瓦<br /><br />本堂脇に配置された鬼瓦が2体が見事です。

    鬼瓦

    本堂脇に配置された鬼瓦が2体が見事です。

  • 能仁寺・開山堂(位牌堂)

    能仁寺・開山堂(位牌堂)

  • 飯能戦争・説明板

    飯能戦争・説明板

  • 能仁寺・坐禅堂

    能仁寺・坐禅堂

  • 能仁寺・鐘楼堂

    能仁寺・鐘楼堂

  • 能仁寺・不動明王<br /><br />中雀門の前を西方向に進むと正面に不動明王が在ります。

    能仁寺・不動明王

    中雀門の前を西方向に進むと正面に不動明王が在ります。

  • 不動明王由緒・説明板<br /><br />『文化10年6月(1813年)、当山開基黒田直邦公の第6代久留里城主黒田左兵衛丹治真人直方公が武運長久、所願円満、子孫栄昌を祈願して彫刻し奉ったもので、じ来「開運青不動」として諸衆の信仰をあつめてまいりました。昭和54年尊像修復完成を機縁に御開帳し、広く善男善女の開運を祈念あするものです。<br /><br />不動明王とは、念怒の相をして、魔障を除くはたらきがあると伝えられております。<br /><br />矜喝羅(随順の意)童子が合掌し、制多迦(息災の意)童子が金剛棒を持ち脇侍しており、毎年4月18日を縁日として祈祷いたします。<br /><br />                    武陽山 能 仁 寺  』

    不動明王由緒・説明板

    『文化10年6月(1813年)、当山開基黒田直邦公の第6代久留里城主黒田左兵衛丹治真人直方公が武運長久、所願円満、子孫栄昌を祈願して彫刻し奉ったもので、じ来「開運青不動」として諸衆の信仰をあつめてまいりました。昭和54年尊像修復完成を機縁に御開帳し、広く善男善女の開運を祈念あするものです。

    不動明王とは、念怒の相をして、魔障を除くはたらきがあると伝えられております。

    矜喝羅(随順の意)童子が合掌し、制多迦(息災の意)童子が金剛棒を持ち脇侍しており、毎年4月18日を縁日として祈祷いたします。

                        武陽山 能 仁 寺  』

  • 能仁寺・中山氏墓(全景)

    能仁寺・中山氏墓(全景)

  • 中山氏墓(近景)

    イチオシ

    中山氏墓(近景)

  • 中山氏墓

    中山氏墓

  • 中山氏墓

    中山氏墓

  • 中山氏墓

    中山氏墓

  • 能仁寺・歴代住職墓

    能仁寺・歴代住職墓

  • 天覧山・登り口<br /><br />斜め右に道を取ると天覧山頂上に着きます。<br /><br />

    天覧山・登り口

    斜め右に道を取ると天覧山頂上に着きます。

  • 天覧山由来・説明板

    天覧山由来・説明板

  • 能仁寺・東参道<br /><br />

    能仁寺・東参道

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